2012年10月17日

ゲーテの師弟の対話

今月末に、横浜の氣道協会で「整体とシュタイナーの人育て」と題した講演&対談を行なう。(チラシはこちらから)

対談のお相手は、今年の3月に清澄庭園で行なった整体シンポジウムのときの対談相手である長谷川淨潤先生である。

淨潤先生ご自身は特別シュタイナーの研究をされているわけでもないけれど、何のご縁か小さい頃に、シュタイナー研究の第一人者でもある高橋巌先生のお弟子さんに家庭教師についてもらっていたそうである。

その心温まる「師弟関係」については、二人の間でやりとりされた往復書簡を掲載していくという形で、氣道協会の会報誌のほうに連載されているけれども、「ああ、青春期にこういう師弟関係を持つことができたら幸せであるな」とつくづく思わされるような関係である。


家庭教師というと、現代のイメージは「学校の教科を教え、授業の補完をし、テストの点数を上げるパーソナルティーチャー」という感じだけれども、淨潤先生とその家庭教師の先生との関係は、そういうものとはまったく違う。

その家庭教師の在り方はむしろ、「物事の考える方法を教え、人生を楽しむことを伝え、一人の人間として豊かな生き方ができるように導くメンター」という感じである。

だから二人は手紙をやりとりしたり、一緒に旅行に行ったり、山登りをしたりもする。

それはつまり「一人の人間として丸ごと関わる」ことが家庭教師であるということなのだろう。

ちなみにシュタイナーも若い頃、水頭症の子どもの家庭教師を引き受けたときに、同じように一人の人間として丸ごと関わったことがあるけれども、シュタイナー曰く、その経験はその後発展していくこととなる「シュタイナー教育」のインスピレーションの大本となったそうである。


十代前半の一人の少年(淨潤先生)に対して、そのように親以外の大人が一人の人間として丸ごと関わり、ときに音楽について、ときに哲学について、ときに映画について、ときに人生について、お互いに思うところを語り合ったり手紙を出し合ったりして対話する関係は、不思議な温もりとすがすがしさを感じさせる。

昔はそのような「人としてどのように生きてゆくのか」という人生の生き方全般についての学びこそが「教育」の根幹であったように思うが、現在、教育問題についての論議の中にそのような主題が表立って語られることはほぼ皆無と言って良い。

いったいいつからそんなことになってしまったのだろうか…。


今回の講演&対談に向けて、「何かあらかじめ読んでおくべき本などありますか?」とスタッフの方から訊ねられたので、「何でも良いのでシュタイナーの本で何か気に入るものを一冊」と軽く答えておいたら、淨潤先生の方からは「野口先生の『偶感集』と、エッカーマンの『ゲーテとの対話』」というお返事があったそうである。

「野口整体」と「シュタイナー教育」の教育論についての講演会において、あらかじめ読んでおくべき本として『ゲーテとの対話』をあげられた淨潤先生に、同じ質問に軽く答えた自分は一瞬たじろいだけれども、そのチョイスに今回の対談において淨潤先生が言わんとしていることをすでに感じたような気がした。


『ゲーテとの対話』には、作者であるエッカーマンと彼が敬愛してやまないゲーテとのやりとりがふんだんに散りばめられている。

若き文学者であるエッカーマンが文豪ゲーテの下を訪れ、詩について、文学について、さまざまな教えを受ける。

それは言ってみれば「師弟の物語」そのものである。

一人の弟子が師匠から賜った珠玉の言葉の数々をさまざまなエピソードとともに紹介し、そしてそのやりとりが読む人にとってもまた祝福となるよう、祈りを込めながら物語ってゆくというそのカタチは、すでに「人がいったいどのようにして成長するのか」ということに対する一つの答えであるかもしれない。

私は「人はみな幾つになっても師匠を持つべきである」という信念の持ち主であるのだが、それはそのことがどれだけ人生を豊かなものにしてくれるか、計り知れないものがあるからである。

けれどもそれは実際に師匠を持った者でなければ分からないことなので(持っただけでも分からないけど)、「なんで?」と言われても私はその質問に答えうる回答を持たない。


淨潤先生もそんな私を知ってか知らずか、二人の対談の前に読むべき本として『ゲーテとの対話』を持ってくるのだから面白い。

何しろゲーテ自身がまた、その本の中で言っていることなのだ。

「独学は良いことではない。先人に学ばなくてはいけない」と。

むむむ…、これはやはりその真意を改めてご本人に問いただしてみなければなるまい。


じつは私も今回の講演において、「野口整体」と「シュタイナー教育」の人間観を約分するための分母に、「ゲーテ」というキーワードをまったく別の観点から持ってこようと思っていたのであるが、そういうところにきて向こうからきたのが『ゲーテとの対話』であるのだから、これがまたまた面白い。

いろんな糸が交差する妙縁の結び目。

さてさて、いったいどんな対談になるのか今から楽しみである。

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2012年08月28日

カタチと境界

ご存じの方も多いかもしれないけれど、隈研吾さんという建築家は「負ける建築」というコンセプトで建築設計を行なっている面白い方である。

(「負ける」というコンセプトは、野口体操の創始者である野口三千三先生もおっしゃっていたことである。「負けて、参って、任せて、待つ」。)

「負ける建築」と言っても、何も吹けば飛ぶよな家を建てようということではない。

その建築を建てる土地や気候や風土に「勝とうとしない」ということであり、もっと言えばそういうものと「勝負しない」そんな建築のことである。

もともと日本の建築文化は、「自然を征服しよう」という気のさらさらないようなものであった。

そうでなければ、障子のような「薄紙一枚張っただけの仕切り」など、思いつこうはずもない。

日本の建築はどちらかといえば「自然と折合いを付けていこう」という思いがある。

日本人の世界観には「一緒に生きていかなければならないモノとは、勝ち負けを決しない」というような考え方がある。(勝ってしまうくらいならむしろ負けておけと古人は言う)

それは長い経験に裏付けられた偉大な「人類知」であると私は思うが、その思想が建築そのものの中にも現れていた。

それが隈さんの言う「負ける建築」というコンセプトなのだと思う。


その隈さんの『境界』(隈研吾、淡交社、2010)という本を、夜中に晩酌しながらパラパラと読む。

良い本である。

スキマとかアワイとかハザマとか、そんな「境界」好きの私にはもうたまらない。

「境界」というのは、隈さんの言う「負ける建築」というコンセプトにおいても大事な概念であるのだが、この本の中では、さまざまな日本の「境界、仕切り」を美しい写真とともに紹介されている。

垣根、障子、暖簾、欄間、犬矢来、枝折戸、土間、衝立、屏風…。

私たちの祖先はなんと美しい「境界」を、身の回りに作り上げてきたのであろうか。


私たち日本人は聖域に注連縄をしめ、紙垂を垂らす。

それはもちろん「境界」であり「結界」の意であることに相違はないが、あんな弱々しい縄や紙切れに、邪悪なモノの侵入を拒むだけの力があると本気で信じるほど、私たち日本人の祖先はナイーブだったのだろうか。

いやいや、そうではない。

結界とは「人間の心の中に張るモノ」だからこそ、古人は具象としては極めて儚く覚束ないものに、その働きを仮託したのだ。

ドデカイ鉄板とか巨大な石塀とか、そんな強固な具象物をどかどかと積み上げて結界を張ったなら、やれやれと安心してしまって、それがいつか心のどこかに油断を招き、やがて綻びを生んで「本来の結界」が破られることになるかもしれない。

それはマズイ。

大事なことは「いまの私たち」が束の間の安心を享受することではない。

魔を防ぎ護り抜く「結界」が、子孫代々末代までも連綿と受け継がれ、護り続けるために、「いまの私たち」は何をすべきなのか。

おそらくそんなことを古人たちは考えたに違いない。

「物質的に儚きモノが、霊的な強さを保持する」ということはよくあることである。


日本の「境界」は、どれもどこか「壊れやすさ」や「儚さ」というようなものを帯びている。

壊そうと思えば壊せるし、乗り越えようと思えば乗り越えられるような「境界」だからこそ、「壊さない」「乗り越えない」という自制の心をその前に立つ人の心に呼び起こす。

日本の「境界」の立ち上げ方には、その前に立つ人間の心に「託そう」とする意匠がある。

『あなたの「律する心」に任せます』という思いが、カタチとなってある。

そのようなカタチに囲まれて育てば、やはり人の心もそれに応えるように育つだろう。

そんな相互作用的なカタチを、私は限りなく美しいと思う。


そんな美しい日本の「境界」を説明する隈さんのコメント。

「暖簾」
通過の際、頭を下げず、手を使わない人は稀である。わずかでも頭をかしずかせ、手を使わせる「弱い力」が、思いのほか強い力となって、人に空間の質の違いを認識させる。

「玄関」
「バリアフリー」という聞こえのよい言葉で画一化された空間とは一線を画す。通過時に身体に負担を強いるほどの段差。身体がそう感じるからこそ、意識にも確かな変化が刻まれる。

「垣根」
乗り越えようと思ったら、簡単に乗り越えられる。その抑制は、見る者の良識に委ねられる。仮設性の強い、意識に「待った」をかけるためのまじない。
(前著より抜粋)

たぶん私たちは、こういうことを念頭に置いた「暮らしの作り方」を、もう一度模索していかなくちゃいけないんだと思う。

posted by RYO at 15:02| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月19日

出産前後の機

出産のドタバタがあって、ブログの更新がずいぶん遅れてしまった。

まあ身近な方にはすでにお知らせいたしましたが、おかげさまで妻は無事出産いたしまして、現在母子ともに健康に過ごしております。

出産は、野口整体式のいわゆる「整体出産」というものを行なったのだけれど、産後の起き上がりも順調にクリアし、今は自宅で暗がり生活をしているところであります。


整体出産というのも、自ら当事者としてかかわってみて改めて思ったけれども、現代人の生活様式の中では、その実践がなかなか難しい点がいくつかある。

その中でも一番は、産婦の寝たきり生活中のいわば「介護人」を誰かが務めなければならないのだけれど、これがよほど整体に理解がある人でなければ務まらないということである。

整体そのものの知識に詳しい必要は必ずしも無いかもしれないが、やはり産婦の要求にある程度応えられるだけの理解がなくては務まらない。

私自身はいろんなことを鑑みた上で、これはやはりパートナーが行なうことの意味というものを強く思ったし、何より私自身が「ぜひ」やりたいという思いがあったので(好奇心旺盛なので実はそちらが強い)、予定日を挟んだ三週間あまりの仕事をがっつりお休みさせていただいて、出産前後の生活にこれでもかというくらい関わったのだけれども、これもいわば自由業の強みであって、会社勤めであったらなかなか難しいかと思う。

公務員であれば、産休育休についてはかなりきっちり対応してくれるだろうが、このご時世、そんなに誠実に対応してくれる会社ばかりではないだろう。


けれども、そこのところをきちんと押さえておくということは、その後の育児あるいは夫婦生活においても非常に重要なポイントであると、私は今回改めて確信した。

別にそれは何も「整体出産」に限ったことではない。

もし、人生において「決して外してはいけないポイント」というものがあるとするならば、真っ先にその候補に挙がるのが「出産前後の生活」であるだろう。

そこに気を込め、徹底した集注で過ごすということ。(もちろんその対象は「母子」である)

それはその後のあらゆることに関わってくるから、とにかくホントにホントにホントに大切にしてほしい。

介護人にならなくとも、会社を休めなくとも、不器用でもいいから、とにかく集注してほしいのだ。

それほど重要な機は、この機を逃して他にはない。

この機の刺激は、その関係において一生残ると思って集注することが大事である。


このことはまあ当然のことながら主にパートナーである男性に対するメッセージであるわけだけれど、それだけでなく、母子に関わるあらゆる人たちに対するメッセージでもある。

私もいろんなママさんのお話を聞くけれども、出産前後のパートナーの挙動や、心ない言葉を投げかける親族や、脅すばかりの医療者の存在が、その後の「子育て生活」にどれだけ影響を及ぼしているかは計り知れないものがある。

それらはどれも到底「母子に対する集注」の欠片も感じられない挙動ばかりで(まあだいたい自分の都合ばかりを見つめているわけだけれど)、そういうものは「出産前後の生活」には、一切不要なものなのであります。

というより毒なのでむしろ避けた方が良いのであります。


必要なのは「母子に対する集注」。

それは一言で言えば「愛」であるけれども、具体的に言えばつまり「母子の要求を丁寧に聴こうとする態度」なのであり、そして「その要求に応えようとする行動」なのである。

…というわけで、私はまたしばらくシコシコと、母子に集注しながら暗がり生活に引きこもるのであります。ゴソゴソ。

posted by RYO at 11:44| Comment(23) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする