2022年04月24日

空っぽ(虚)になって語る[FB]

「空っぽ(虚)になって語る」

先日、愉気の会の記事をアップしたら、その講座に参加された方から「これは私のための講座なの?と思った」という嬉しいメッセージをいただきました。

そんなお言葉をいただけると、本当に「講座をやっていて良かったな」と思えて、講師冥利に尽きるというものです。

実はそのように思ってもらえることこそ「虚」の働きでもあるのです。だからこそ私としてはなお嬉しくて、「きちんと空っぽで語れたな」と思えるのです。

何故なら、語っている主題が「空っぽ」で「虚ろ」なカタチを取っているからこそ、聞く人はそこに自分のテーマを見るのです。

まあ、鏡を考えれば分かりやすいですね。

鏡は空っぽです。周りを映しているだけで、鏡そのモノは主題に登りません。むしろ主題に登るような鏡は問題です。

それはつまり「この鏡、何か歪んでるな」とか「汚れてるな」とか、そういうことですからね。

鏡は虚ろで空っぽであるからこそ、見る人はそこに自分を見ます。自分自身の姿を振り返り、自分自身のテーマに気づき、自分自身でどうすれば良いのか考え始めるのです。

これも私は講座でよく言うことなのですが、参加者の方に「私の話なんて聞いてなくても良いんです」とお話しします。

私の話を聞いているうちに、何となく「そういえば、アレってこういうことだったんじゃないか…」とか、不意に何か別のことを思い出して、そのことについての考えが急に進み出すような、そんなことが起きて欲しいと思っているのです。

ですから講座のカタチとしては、私が何かよく分からないことを一生懸命説明していて、受講生はみんな思い思いに何か別のことについて考えながら一人納得している、という状態が理想なのです。

何だかシュールな光景でよく分からない状態ですけど、でもきっと感覚的にはみなさんよく分かるんじゃないかと思います。

受講生側からすると、それって一番盛り上がっている時なんですよね(笑)。

むしろ、講師に邪魔をしないで欲しい瞬間というか…(笑)。

そんな時にうっかり話を振ってしまうと、フッとイヤな顔をされてしまって「あ、スミマセン…」と思うのです。

そんな営みの中に「人が育つ」ということの本質がある、と私はそう確信しているのです。
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お金は虚であって実ではない[FB]

2021年11月 愉気の会
「お金は虚であって実ではない」

今月の愉気の会は、先月に引き続き「穴追い」の実習と「虚の活用法」という野口晴哉の言葉についてお話をしました。

この「虚(きょ)」という概念は、人間のさまざまな営みを語る上で非常に重要な概念となるのですが、いかんせんその性質上、語り口がもどかしいものにならざるを得ないので、話そうとするたびに、私はもだえながら落ち着かない思いをすることになるのです。

今回も私は講座中、皆さんにお話ししながら、ずっとモジモジしてました(笑)。

何故なら、「虚」について話そうとすると、言い淀み、言い直し、言い閊え、言い繰り返すしかないのです。

でもそうやってひたすら語りながら最後まで語り得ないところに、「虚」の姿がボンヤリと抜き型のように浮かび上がってくるのです。穴ぼこなんです。

「虚」は訓読みで「虚(うつ)ろ」とも読みますが、その何とも捉えどころのないモノを扱うために、私たちは「器(うつわ)」を用います。

器の本質は、中が虚ろであることです。器に中身が詰まっていては器の働きを為しません。空っぽであるということが器の本質なのです。

中が虚ろであるからこそ、そこにさまざまなモノを容れることができるようになり、持ち運ぶことができるようになるのです。

虚ろであるということは、あらゆるモノを受け容れます。さまざまなモノを受け容れ、受け渡します。そこで起きていることが「虚」の働きで、その本質です。

ですから「虚」は人を動かします。

そして人を繋ぎ、もっと言うなら人を育てます。

その営みを支えるのが「器」です。

そういう意味では、古来より「器」を作り用いることこそが、人の為すべきことだったのかも知れません。

ということで私が講座中、皆さんの前でずっとモジモジしながら何だか要領を得ないことを言い繰り返しているその身振りは、できる限り自ら「器」であろうとするその懸命な努力の姿なのだと、そうご理解賜わりますと大変幸甚なのでございます。ハイ。

ただ、人というのは分かりやすさを求めます。(分かっております…スミマセン…)

それは私も同じで、「虚」を追いながらも、どこかで「実(じつ)」を求めているのです。

その働きはおそらく人間の本性に関わってくるほど強いもので、なので気がつかないうちに、仮の容れ物である「器」が本質だと思い始めてしまうことがあります。

それは、誰もが陥りかねない落とし穴で、よくよく気を付けておかなければなりません。

現代人で言えば、「お金」というものがまさにそれに当たるでしょう。

本来、実体を持たないモノであったはずが、今やほとんどすべての人々がその存在をまるで実体を持つかのように扱い、その人々の信仰によって巨大な「マネー」という空想上の巨獣が生み出され、それが世界中を駆け巡りながら、現実世界に多大な影響を及ぼしています。

そういうことが好きな人たちが、空想のゲームに興じてマネーの行く末を予想しつつ「儲かった〜!」とか楽しむのは一向に構いませんが、それがあまりに盛り上がりすぎて、現実の家の家具などを壊すほどになったら、皆さんだったら怒りますよね? いや、怒るべきです。

「こら! そこまでやったらアカン!」と言って叱る大人が必要なのですが、それは本来、政府の役目であるはずが、その大の大人役である政府までもが空想のゲームに興じてしまって、「いや、お金が大事だ」とか本気で思い始めてしまったので始末に負えません。

大事なのは「お金」じゃありませんよ〜。実体である「経済活動」そのものですよ〜。見るとこ間違えていると、見事に「落とし穴」にハマっちゃいますよ〜。

経済活動がグルグルと巡るためにお金があるのであって、お金を生み出すために経済活動があるのではありません。

これが「虚」を容れる「器」を「本体」だと思い始めてしまうという、人間の陥りやすい「落とし穴」なのです。

お金とか愛とか神様とか、本来「虚」であるモノを「実」と思い込み始めると、現実世界に齟齬が生じるので、それを無理矢理是正しようとして現実をねじ曲げる「暴力」が生まれます。不幸のはじまりです。

でもシステムというのは、それを引き起こしやすいんです。共同幻想で補完し合いますからね。だから難しい。

それは有史以来、延々と繰り返されている人間の業(ごう)であるかも知れませんが、それに気づく大人を一人でも増やしていけば、世の中はちょっとずつ良くなるはずです。
はるかずっと昔に、ブッダもキリストもムハンマドも老子も教えてくれているはずなんですけどね…。難しいものですね…。

とにかく、ゲームに興じる子どものレトリックに振り回されてはいけません。

私は「アカンもんはアカン」と言える大人でありたいと思います。

いや、確かに子どもの空想に付き合うのも大事なことですよ。でも、そもそもその子どもの空想を成り立たせている「現実の営み」があるでしょ…っていうことです。

ご飯を作ったり、お掃除をしたり、お洗濯をしたり…っていうね。誰がやってくれてると思ってるんですか。マッタク。お金なんかいくらあったってそれだけじゃ何にも生み出さないんですよ。

政治家はみんな「家事必須」にするべきですね。てゆうか選挙の時には選挙カーなんて走らせずに、家事をしている姿を動画配信して、有権者はその姿を見て投票するかどうか決めたら良いんじゃないですかね?!(暴論)

畑ぶっ潰して、お店ぶっ潰して、工場ぶっ潰して、働く人ぶっ潰して、共同体をぶっ潰して、それでお金をいっぱい集めて、そのお金でいったい何ができるのか教えて欲しいですよ。お金使うところ残ってませんよ?

夕暮れ時に、相手をしてくれていた友だちはみんな居なくなってしまって、宝物だと思って集めたガラクタのお金をぎゅっと握りしめたまま、帰る故郷(ホーム)もなく、心配して探しに来てくれる家族もなく、途方に暮れて佇んで、そうして初めて気づくとか…そんなの寂しすぎますよ。

私はそんな身振りを見ていると、そこに「寂しさ」ばかりを感じてなりません。

寂しい子どもを作っちゃいけませんよね…。ホントに。

…ということで、私は最近「お金」のことがやたらに気になって勉強しているのです。何故って私たちの社会の抱えたもっとも大きな「穴ぼこ(虚)」だからです。昔はそこに神様とか真理とかありましたけど、もはやほとんどすべて「お金」に集約されてしまいました。

「お金」というものについては、いつか皆さんと一緒にその根本から考えたいなと前々から思っていたのですが、その気持ちがますます高まってきている今日この頃のご時世です。

ところで講座中、そんな「穴」についてのお話をしていたら、来ていた子どもが部屋中の「穴」を探してあちこち覗き込んでいまして、その姿がホントに可愛くてなりませんでした。ほっこり。
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2021年10月25日

いろいろな穴追い[FB]

2021年10月 愉気の会
「いろいろな穴追い」

今月の愉気の会は「穴追い」の実習を行ないました。「穴追い」というメソッドについては、以下のアーカイブ記事で細かく触れています。

「意図なき集注」:2016年11月 愉気の会

上の記事でも書いたように穴追いというのは不思議なメソッドです。

何だかハッキリしてなくて、理解もしづらければ、説明もしづらく、何とも覚束ないメソッドなのですが、私は整体のメソッドの中でもかなり本質的なメソッドだと思っています。

「整体とは虚(きょ)の活用法なり」という野口晴哉の思想を、上手い形でワークに落とし込めたメソッドの一つであるでしょう。

でもそれゆえにこの「穴追い」というメソッドは、指導者によって本当にさまざまな解釈がされているのではないかと思います。私のような解釈をしている方が他にもいるかどうか知りませんが、おそらくいろんな語り口で語られているはずです。

そのような多様な解釈が生まれてしまうのは、このメソッドが「虚」であるゆえの特徴です。神とか愛とか幸せとか、そういった概念が人の数だけその形を取るように、穴という概念もまた人の数だけその形を取るのです。

ですから、どれが正解ということはありません。
真実はあるかも知れませんが、正解はありません。

その解釈に、深さや高さや厚さや重さや濃さや激しさや柔らかさといった色味はあっても、正しさは無いのです。

そして、私はそのような多様な穴の姿を、見たいし、聞きたいし、感じてみたいので、穴追いを受けるのも愉しいし、穴追いをやってみた人の話を聞くのも愉しくてなりません。

さまざまな形を取るその「穴」が、さまざまな匂いを立てるその「虚」が、さまざまな旋律を奏でるその「空」が、さまざまな言葉で表現するその「人」が、私には本当に本当に面白くてならないのです。

世界は本当に多様で豊かです。
そして限りなく自由です。

私は穴追いを受けていると、相手と結ばれているその一点の穴に、相手の存在が丸ごと感じられてきます。

触れ方、押さえ方、動き方、離れ方、そのすべてに相手が現われるのです。ポカンとしているが故により一層くっきりと浮かび上がってくるのです。

その、私の中に立ち現れてくる相手の姿にすべてを委ねて、浸ります。それが、私の穴追いの受け方(愉しみ方)なのです。マニアックです(笑)。

というわけで(?)、次回の愉気の会も、ふたたび「穴追い」の実習をしてみたいと思います。
興味のある方はぜひぜひご参加いただければと思います。
posted by RYO at 13:54| Comment(0) | Facebookアーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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