2013年02月12日

人間のワーク

年明けから、クレヨンハウスから出す3冊目の本の執筆に取りかかっている。

今度の本ではいろんなワークを紹介することにしたので、どんなワークを取り上げていこうかと頭を悩ませ、ふらふらと町を歩きながらもワークのことばかり考えている。


人間が生きていく上で、「どのようなワークを行なっていくのか」ということは、最高に大事なことである。

「ワーク」という言葉の意味は、狭義には「みんなで一緒になってゲームのようなことをする」という意味合いであるけれど、私が言わんとしている広義の意味では、「人間が行なうあらゆる活動であり運動であり仕事であり遊びであるところのワーク」というものである。

そんなことを言っても、なかなか意味が分かりづらいかも知れないけれども、それは私が2冊目の本の中にも書いた「世界を動詞で語ってみる」という言葉のさらに深めた意味なのだ。


もし世界を動詞で語ってみたとしたならば、その言語世界において私たち人間存在は、「ワークするメディア(媒介)」ということになるだろう。

ダンサーにとってその存在が「ダンスのメディア」であるように、私たちはみな「何かのワークのメディア(動詞のメディア)」なのである。

それは人によってそれぞれ異なるフォルムとダイナミクスを持って行なわれているが、それぞれにおいては固有のリズムとパターンが現われており、そこから外れることはあまり無い。

自身に固有のリズムとパターンを理解して、そこから自分にとってどのようなワークを行なっていくことが自分の能力を最大限に発揮していくことなのか、それを見極めていくことはより良い人生を送っていく上で大切なことになるだろう。

自身に固有の動詞のワーク表現(アート)をしっかり身に付け、それを全うしている者はじつに溌剌としているが、ときに自身に固有の動詞から外れたワーク表現を身に付けてしまって、その中でうまく自身の動詞を発散全うしきれずにゴタゴタしている人というのは意外と多い。


その「動詞の視点」というものは、人間関係を考えていくときにも大事な視点である。

たとえば夫婦関係がうまくいかなかったときに「離婚する」という決断があったとして、じゃあ相手を変えればうまくいくかと言ったら、そういうわけでもないということなのだ。

パートナーという「名詞」を変えたところで、相手とどのような関係をとりつないでいくのかという「動詞」の部分が変わらなければ、また同じような関係が繰り返されていくことになる。

関係において、名詞を変えるのは簡単だけれど、動詞を変えていくのは大変だ。

意志を保った時間をかけた訓練が必要になる。

だが、自分がどのような動詞を動いているのか、いかなるワークを繰り返しているのか、そんなところを見つめる視点を持ち、そして必要とあらばそれを変えていこうという意志を持たなければ、延々と繰り返される宿業のような連環から抜け出すことはなかなかできない。


関係において大事なのは、それぞれの名詞そのものなのではなく、そこに潜んでいる動詞なのだ。

二つのオブジェクトを並べて見つめたときに私たちにやってくる印象は、その二つのオブジェクトに潜んだ動詞と動詞が交わるダンスのワークから来ているものである。

そして私たちの人間関係もまた、二つの動詞の交わるワークだ。

もしもその関係において、いつも同じようなところで引っかかったりつまずいたりするのであれば、そこでどのような動詞が動いているのか、そんなことを考えてみることは自己理解の一助になるだろう。

そして、そこで今動いている動詞の理解ができたならば、その次に必要なことは「違う動詞のワーク」を動いていくことである。

いつだってやるべき事はシンプルだ。実践することは大変だけれど。


今回の本のワークのことをつらつらと考えながら、「そんなところまで触れられたら素晴らしいなぁ」とちらりと思ったりはするけれど、まあ私の力量では到底そんなところまではまだまだ触れられない。

それでも多くの人たち、とくに子どもたちには、ぜひいろんな動詞のワークを体験していって欲しいとつねづね願っているので、いま一生懸命考えているのである。

これがなかなか大変だ。

でもそれこそ私のライフワークの一つでもあるのです。

posted by RYO at 22:48| Comment(14) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月04日

This is a pen.

みなさん新年あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


昨年は結婚、出産、転居と自分にとっていろんな転機の年であったけれども、その最後の締めくくりに家族そろってクーヨンに出るという出来事があった。

来年度の連載の打ち合わせを兼ねて担当の編集者さんが我が家に遊びに来たときに、「今度ぜひ一家で出てくださいね〜」などと言いながら去っていったのだが、数日もしないうちに「企画が通りましたのでどうですか?」と、いきなりオファーがあったのである。

最初は写真に写るのは自分と生まれたばかりの子どもだけのつもりだったが、念のために上の子(5歳)に「雑誌に出る?」と訊いてみたら、「やだ」とか言うのかと思ったら予想外にも「出たい!」と言うので、結局家族そろって出ることになったのだ。

肝心の特集のテーマはというと、「夫婦仲が良ければ子育てはうまくいく」とか何とか。

そんなこと新婚夫婦に訊いてどうするんだろうとも思うが、私には前に書いた出産にまつわる記事あたりのことをしゃべって欲しいと言うので、「そんなんで良いなら」とお答えする。

私のような新米夫に夫婦関係の何が語れるのかは知らないけれど、先方から「しゃべってほしい」と言われれば仕方がない。いろいろ語ってみましたよ。

そんな私の「男の出産」についてのお話と、私の一家の写真とが、暮れの12月29日に発売されたクーヨン2月号に載っております。

今なら取り扱い書店に行けばきっと並んでいるはずですので、どうぞぜひぜひご笑覧。


さてさてところで、毎年年明けには昨年見た動画で印象に残ったものをご紹介するのが恒例のようになっているのだけれど、最近はなかなか動画を見る機会が減ってしまったので、正直何にしようかとけっこう悩んでしまった。

有名なものを紹介しても「もう見た」という人も多いかもしれないし、なので、今年はとっても地味だけれど思わず最後までぼーっと見てしまう、そんな動画にしてみました。

まあ内容の紹介などは特に要らないでしょう。

職人技と言いますか、達人技と言いますか、まあとにかく見事で見とれてしまいます。

無性に自分もペンで字を書いてみたくなる、そんな動画でありますね。


posted by RYO at 22:03| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月17日

カタチ以前を見つめる

記事のアップが遅くなってしまったけれど、先月末に行なった氣道協会での講演&対談は無事終了。

その中で「野口整体とシュタイナー教育を結ぶものとしてのゲーテ」というものを語ったけれども、どこまできちんと語れたかは自分でもよく分からない。

でもとにかく「カタチに潜む流れ」「空間に込められた時間」というものを軸に、整体とシュタイナーに通じる教育観(人間観)というものを一生懸命語ってみた。


「シュタイナーはゲーテの正統な伝承者である」というようなことをずいぶん前にこのブログで書いたけれども、そのときの思いは今になってより一層強くなっている。

シュタイナーはゲーテの見た世界の在り方をさらに深め、その世界観に基づいた教育方法を立ち上げた。

それがシュタイナー教育だ。

そこにはすべてがつねにダイナミックに動いているものとしての世界観があり、そのダイナミズムは教育方法のダイナミズムとなって、「教育」という営み自体があたかも一つの成長し続ける生命体のようなとして立ち上がってくるように作り上げられている。


そのシュタイナーの透徹した眼差しには驚かされるばかりで、昔の記事にも書いたことだけれども、「算数の学び方の中に、道徳教育が動いている」なんていうことは、とうてい普通の人が考えつくようなことではない。

しかしゲーテ的な世界の見方で見れば、その算数の教授の中で子どもに染み込んでいく運動性や志向性は、決してなおざりにできるようなことではないのである。

そこには子どもの中で動いている「ある種の運動」を見つめる眼差しがある。

そして整体において野口晴哉が人間の中に見ていたことも、また同じようなものがあるのである。

それは言ってみれば、「カタチに潜むカタチ以前」「カタチを作る流れ」とでも言えるだろう。


そもそも私たちのカタチは、それ自体が世界とのせめぎ合いの中で私たちが出した一つの「答え」である。

私たちは世界に対して、この人体の姿カタチをもって「答え」を提示しているのである。

(もちろんその「答え」は今でも揺らぎ生成され続けているカタチであることは言うまでもない)

私たち人間の「生きる」という営みの中で、世界に対して押したり引いたり曲げたり突っぱねたりした結果がこのカタチなのであり、そして世界に対してこのカタチを示し続けるということが、つまりは私たちが「生きている」ということなのである。

だからカタチの中には、私たちの「来歴(過去)」も「現在」も「願望(未来)」もすべて顕れている。

だとしたらそのカタチをしっかり見通すことが、私たちの「生きる」というある種の運動やプロセスの理解につながってくるはずである。

その具体的な方法をシュタイナーや野口晴哉は教えてくれている。


ただ、「ボタンを押したらすぐさま結果が出る」ということを目指して発展してきた現代の合理主義的世界観の中では、そういうようなモノの見方はとても難しくなってきている。

「効率化」の名の下に、何かが作り上げられていくプロセスをどんどん省いていくということは、カタチからプロセスの痕跡が消えてゆくということでもあり、使い捨てのサイクルの短縮化はその後のプロセスによる「カタチの微修正」をも受け付けることがない。

そんな入力から結果への「プロセス」がどんどん省かれよう省かれようとしている中で、その合間の「プロセス」をもう一度見つめ直そうというのだから、それはある意味、現代人的な感覚に対して抗おうということなのだ。


けれども3・11以降、日本人全体の中にそういう志向性ははっきり高まりつつあるし、私自身これからの時代に必要な思考法であると確信している。

「モノに込められたプロセス」、それはつまり「時間そのもの」であるけれど、そういうものを見つめていくことは私たちにとってホントに大事なことなのだ。

まずはふだん何気なく見過ごしていた樹や川や海や水の流れをジーッと見つめてみるところから始めると、ちょっとずつ見える景色が変わってくるかも。

もしそのような眼差しをもって目の前の人間を見つめられれば、きっとまったく違うものがそこに見えてくるはずだ。

posted by RYO at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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