2007年09月04日

古の知恵と新しい世界

ネットの世界というものは、検索技術の劇的な向上によって、ほぼ「関心による距離」だけでマッピングされている。 (たまに入力間違いなどにより全然知らないサイトに飛んだりする偶有性もあるけど)

現実世界では、すべての事物は地理的物理的な距離によってマッピングされているが、 そのような物理的制約から開放されているウェブ世界では、地理的にどれだけ離れていようと、 心理的な距離が近ければ(好きなアーティストが一緒だとか、同じ小説を愛しているとか)、たちまちご近所さんになってしまう、 きわめて可塑性の高いフレキシブルな世界なのである。

私のブラウザの「お気に入り」の中にも、「ご近所さん」がいっぱい並んでいるけれど、その「ご近所さん」たちも地理的に並べてみれば、 知りうる限りでもホントにワールドワイドな状態を呈している。

それはまるで、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治、新潮文庫、1989)の中で描いた、「鳥を捕る人」が「来よう」 と思っただけでたちまち列車の中に来れてしまう「幻想四次空間」のようである。

ひとたびあることを欲すれば、 それに関するあらゆる情報がたちまちシュルシュルッと手の届く範囲にやってきてしまうそんな不思議な幻想空間を、 私たちは共有することになったのだ。

私たちは自分が知りたいと思えば、それが最新の論文の一文であろうが、歴史的史料の一節であろうが、 それに関するあらゆる情報がほとんどゼロコストで手に入れられる時代に生きている。


そのようなインターネットや衛星放送などの世界的な情報網の発達により、 私たちは地球の裏側で起きた出来事を瞬時に知ることができるようになり、そしてまた同時に、自らの立ち位置を鳥瞰的な視点から、 全体の中で相対的に位置づけることができるようになった。

今や私たちは、地球の裏側で起きた不幸な出来事を思いやり、ともに悲しむことができるまでになったのだ。

「こころ」という、人と世界の境界に現れるこの奇妙な現象は、人と世界のインターフェイスが変化すれば、 それにともなってその現れも変化するもの。

それを「人類のこころの成長」と言えるかどうかは分からないけれども、 少なくとも遠い地に住む人間を思いやることができるようになったということは、言祝ぐべきことではあるだろう。

もっとも、技術の進歩による急激な「世界の収縮(あるいは拡大)」にぐらぐらとゆれ動く「こころ」に、意識の方がまだ十分対処しきれていないような感もあるけれど、そのような「巨きなものとの接し方」については、じっくり丁寧に考えてみなければならないだろう。


最近よく思うのだけれど、「ネットってホントに人間の無意識みたいだなぁ」とつくづく思う。

2ちゃんねるに代表されるようなネットの世界には、普段の生活では抑圧されている多くの人のさまざまな欲望が、 検閲を受けることなくアップされ、それが中枢的な制御を受けることなくお互い干渉しながらぐるぐると渦巻いている。

そのさまはまるでフロイトの言った無意識そのもののようである。

あるいはそこには多くの人間の欲望が複雑に絡み合って関与しているわけだから、その集合的、非人称的な動向は、ユングの言う 「集合的無意識」と言ってもいいかもしれない。

正視に耐えない誹謗中傷から、ささいな情報、有意な情報、あるいは卓越した知見まで、 さまざまな思念がほとんど等価で扱われるネットの世界(まさに無意識)に対して、私たちがそれとうまく付き合っていくためには、 その中のどんな情報を手元の端末(自分のパソコン)に前景化させるべきか、その探索力、検閲力、編集力のようなものが問われることになる。

もちろんそこには、GoogleやYahoo!といった検索エンジンの性能の向上も大きく関与してくるわけだけれど、 最終的にそれらの情報を編集するのは私たち個人なのであって、我々個人の資質、能力を磨いてゆくということも、 やはりとても大切なことであろう。


「いろんな情報を知っておくことが大事」とは、よく言われることではあるけれど、 あらゆる情報がほとんどゼロコストで瞬時に手に入れられる高度情報化社会である現在では、むしろそのありとあらゆる情報に翻弄されて、 何が正しいのかよく分からずに混乱の只中に放り込まれてしまっている人たちも少なくない。

溢れかえるいろいろな情報や理念の洪水に、「どれが正しいのかよく分からない」「自分は何を採用すればいいのか分からない」 という状態になりつつある。

それは先の喩えで言えば、「圧倒的な無意識からの表出に混乱している意識の状態」である。

今までは、身体的・時間的・空間的な限界が、そのまま「知の限界」として私たちを制約し、また、 拠って立つべきところを明確にしていたけれど、自らの関心の持ち方によってその現れを劇的に変化させる世界との邂逅に、 私たちはこれからいかにして自己同一性(アイデンティティ)を確立してゆくべきなのか、 改めて考え直さなければいけない時代になってきている。


そんな時代、溢れる情報に混乱を来してしまわないためにも、膨大な情報の中から「私に必要な情報」だけをピックアップして、 それらを編集してゆく能力(編集力)は、その必要性がますます高まっている。

「巨きなもの」といかに接してゆくか。

「潜在意識的なもの」とどう付き合ってゆくか。

そのようなものとうまく付き合ってゆく知恵というのは太古より人類学的な智恵として継承されてきたはずであるけれど、 ここ数百年の近代化(顕在意識化)によって、そういう矛盾を孕んだ「ワケの分からないモノ」たちは、「ワケの分かるモノ」 に置き換えられるか、世迷言や迷信、奇習として社会の片隅に追いやられてしまって、すっかりその力を失ってしまっているのが現実だ。

けれども、今ほど「ワケの分かる時代」ではなかった昔に生きた人々が、それでも何とか生き延びてゆくために、たびたび到来する 「ワケの分からないこと」に対する対処法として、試行錯誤しながらも卓越した手法を練り上げ、伝承してきたであろうことは、 十分考えられることである。


ネットがますます世界中をつなげてゆき、制御されえない膨大な欲望がそこで共有されてゆくことになる現代に、 そのようなものとの接し方について、まるでそんなものが無かった時代の「古の智恵」に学べることが多いような気がするのは、私だけだろうか。

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2007年08月23日

弟子入りのススメ

「教師の約三割が保護者に訴えられたときのための保険に入っている」というニュースを、このあいだ見て、 それ以来ずいぶん考えさせられている。

ニュースを見たときには、その現実にショックを受けて愕然となってしまったが、昨今の教育環境を鑑みてみれば、「さもありなん」 とつぶやかざるを得ない。

教師が保護者に訴訟を起こされることを念頭に入れ、その対処をしておかなければならないような、そんな時代なのだ。

そんな中で教師たちはますます萎縮し、学校教育とは「何とか無事にやり過ごす」ものになり、教育機関はそのことだけを志向するよう、 ますます拍車がかかることだろう。

今、産科・小児科でも同じようなことが起きているけれど、教育は行政が義務として行なっているので辞めるわけにはいかないが、 こちらは純然たる公的な機関ではないので、個人で細々とやっていたような医師たちはそのリスクの高さに次々と辞めてしまって、 深刻な医師不足、産院不足に直面してしまっているのが現実だ。


個々がそれぞれの権利を無思慮に言い募り始めると、それぞれの利害があちこちで摩擦を引き起こし、 きわめてコストパフォーマンスの悪い社会が到来する。

訴訟社会。

「権利は手放され譲られてこそその真価を発揮する」という倫理観が、もう少し社会全体で共有されると按配がよろしくなるのだけれど。


教育においても、被教育者(保護者)側が、自分たちで自分たちの首を絞めるようなことをしているということに早く気づかなければ、 教育をめぐる環境はますます悪化する一方である。

もちろん法的にその在り方が問われなくてはならない教師が少数ながら存在することは確かであろうが、 そのわずかな存在の排除のために生態系全体に殺虫剤を撒き散らすようなことはいかがなものであろう。

「何とか無事にやり過ごす」ことばかり要請される教育現場で、はたして良い教育が行なわれるものかどうか、 もう一度私たち大人がみんなで顔をつき合わせて考え直してみなければならないのではなかろうか。


今、教育には「敬意」というものが欠けてしまっているような気がする。

私も気づけば、人に「先生」と呼ばれるような立ち位置に立ってしまって改めて気づかされるのだけれど、世間で「先生」 と呼ばれるような職業は「敬意を払われてナンボ」というヤクザなところがやっぱりあるのだ。

(もちろん勘違いしてイバりくさっている“左巻き”な人は論外であることは言うまでもない。)

だから私はあらゆる先生に対して「敬意」を払っているし、自分が先生として「敬意」を払われる際には、それを真摯に受け止めている。

それは私の「個人的な資質」とは関係ない。

あくまで「先生」という立ち位置が含む構造的な仕組みであって、その「敬意」 は必ずしも私の個人的な資質に対して払われているわけではない、ということはさすがの私も重々承知している。

…なんて、そんなことを書いたら、私の師事する先生方に対しても失礼であるな。

あくまで一般論でありますので、どうか平にご容赦を。


最近、私はよく「弟子入り」をいろんな人にオススメしている。

誰でもいいからコレという人を選んだら、その人を師匠と思って仕えなさい、と。

前に朝日カルチャーセンターの講座で、河野先生が私の講座に顔を出してくださったときに、受講生の皆さんに「弟子入りのススメ」 のお話をしたことがあって、「師匠というのは誰でもいいんです。てゆうか何でもいいんです。何でもいいからコレと決めて弟子入りするんです。 」と、今思えば師匠を前にしてずいぶん失礼な事をぶちまけたことがあった。

まぁさすがに「何でもいい」とは、我ながらずいぶんな言い草であるけれど、それを笑って受け止めるのがさすが河野先生である。

なぜ私が「何でもいい」などということを言うのかといえば、師弟関係において一番大切なことは、弟子の「師に対する敬意」 そのものの内に秘められているからである。

言ってみれば、「師」とは「弟子」が呼び出す「第三者」なのである。


懐かしのアニメ「いなかっぺ大将」の風大左衛門がニャンコ先生を師と仰ぎ、その素早い身のこなし(キャット空中三回転)を身につけ、 圧倒的な強さを誇るのも(美人には弱いけど)、風大左衛門が美人に弱いヘンなトラ猫に「敬意」を払ってその教えに耳を傾けたからである。

彼が師匠であるニャンコ先生の言葉を聴き取ることができ、またその素早い身のこなしに柔道の奥義を見出すことができたのも、「敬意」 の態度がその回路を開いていたからだ。


前にこのブログでも書いたことがあるけれど(コレとかコレとか)、 「敬意」とは「教え」を引き出すために、絶対必要な「学びの構え」である。

すべての物象に神や精霊が宿っているとするアニミズムのような世界観は、その真偽のほどはとりあえず置いておいても、 現実としてとてもすぐれた教育的効果を発揮している。

動物に、植物に、岩に、土地に、空に、火に、水に、ありとあらゆる事象に何がしかの霊的な存在を想定し、「敬意」を払い、 そこに何らかの意図を感じとることは、その者の前に「オープンクエスチョン」に満ちた世界を現出させる。

人はその世界の中でどこまでも問うことができ、無限の答えを導き出すことができる。


しゃべれぬ幼児に愛を教えられ、
野に咲く花に自立を教えられ、
路傍の石に人生を諭され、
高い青空に敬虔さを教えられる。

そんな経験は誰しもあるはず。

もちろん、幼児も花も、石も空も、べつに何も言いはしない。

人がそこにポカンと何がしかを聴き取るのだ。

それらに常日頃から「敬意」を払っている者ほど、それはよく訪れる。

そのときその人は、世界の「弟子」である。

「師」を持つ者は幸いだ。

「良い師」は、つねに余剰の空白を備えている。


ところで先ほど「師匠は何でもいい」とは言ったけれど、できればやっぱり「生身の人」であるのが最も良い、ということは付け足しておこう。

「三年かけて稽古をするより、三年かけて良い師を探せ」と、先達は言う。

そのことも踏まえた上で、「生身の人」を師匠に持つことをオススメする。

「歴史上の人物」でも悪くはないのだけれど、「生身の人」が最も良い。

なぜか?

分かる人には分かる。

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2007年08月16日

お洒落ドリンコ探検隊in猛暑

暑い。

とつぶやいてみたところで涼しくなるものでもないが、暑い。

昨日、東日本の43地点で観測史上最高気温を記録したかと思えば、今日は熊谷市、多治見市の両市で最高気温40.9度を記録し、 観測史上74年ぶりに国内最高気温を塗り替えたそうである。

まぁともかくこの暑さで、線路は歪むわ、お城の植栽は枯れるわ、芸能人の熱愛は次々スクープされるわで(?)、 世の中もなかなか大変なことになっている。

けれどもこういうのは「ヤダなぁ。暑いなぁ。汗かきたくないなぁ。」という萎縮した考え方が、よりいっそう暑さを増し、 だるさを感じさせるもの。

「夏は暑いもんだ。暑けりゃ汗はかくもんだ。」

そう覚悟を決めて、汗をかいた後の着替えなど準備万端にして出かけると、とたんに暑さもそう気にならなくなるから、 人間は不思議である。

命の発揮をもっとも妨げるのは萎縮した心だ。

心が萎縮したまま動かなければならないのは、からだにとってもっとも不幸なことである。

やる気のない人と一緒に何かをやらなければならないことほど草臥れるものはない。

どうせなら開き直って覚悟を決めるべし。


そういうわけで、暑い夏こそ熱々のラーメンでも食べてドバドバと汗をかこう。

久しぶりの「お洒落ドリンコ探検隊」 が、渋谷の自販機でこんなものを発見してまいりました。

バーン! 「ラーメン缶」。

秋葉原方面では「おでん缶」なるものが、驚異的な売り上げを見せているそうだけれど、それに続けと登場したのがこの「ラーメン缶」 だそうで、これまたなかなか好調な売れ行きらしい。

しかし、ラーメンの缶詰がはたして「お洒落ドリンコ」に分類されるのかどうかは微妙なところだが、 そういう細かいところを気にしていては探検隊は努まらない。

たとえ「人類未踏の地」に「人食い虎」を発見したって、「イヤ、それおかしいでしょ。」なんてツッコんだりはしないのが、 探検隊の大人のマナ−。

なので大人の皆さんにはそのへんの細かいところは軽くスルーしていただいて、ラーメン缶の話を続ける。


ラーメンが自販機で販売されているというのもなかなか面白いところだけれど、気になるのは「麺はのびないのか?」ということ。

調べてみると、麺には新開発の「こんにゃく麺」とやらを使用しているらしく、その心配は一切ご無用とのこと。

ほほう。

さっそく我が家へ持ち帰って、冷めてしまった缶詰をもう一度温めなおして、味見をしてみることにする。


麺は見た目、ホントにラーメンそのもの。

だが、大事なのは味。

さっそく一口食べてみる。

ズズズ…。

…う、こんにゃくだ…。

ま、まぁ、ラベルにきちんと「こんにゃく麺」と書かれているのだから当然なんだけれど、 いわゆる普通のラーメンをイメージしながら食べるとちょっとしたギャップに肩すかし。

スープも若干こんにゃく臭がして、全体的に「こんにゃく煮」感が否めないが、はじめからそういうものとして食べれば、 食べられないこともない。

イメージと味のギャップという点からしても、「お洒落ドリンコ」としての素質は十分備えている。

というわけで、晴れて「お洒落ドリンコ・トリッキー」に認定。


そして汗をかきかき、ラーメン缶を完食。

ラーメンを食べた後には冷たい飲み物が欲しくなるものであるが、そこはやっぱり「お洒落ドリンコ探検隊」。

「お洒落ドリンコ」で抑えておくべし。


バーン! 人間飲料。

懐かしきかな。妖怪人間ベム。

キャッチコピーが素晴らしい。


「人間ニナリタイ成分ヲ補給!」
「アミノ酸ガ足リナイ…」

「妖怪人間ベム」を観たことのない人には、サッパリ分からないジョークであるが、そのマニアックさがまた良い。

飲んでみるとこちらは意外に普通のジュース。

「お洒落ドリンコ・スタンダード」に認定。

ヘンなことばかり興味を惹かれ、人と違うことばかりしたがる天邪鬼な隊長(私)も、これで少しは人間に近づけるか?

「お洒落ドリンコ探検隊」は猛暑の中、今日も街をゆくのである。

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2007年08月08日

カオスな稽古

つい最近、量販店でビールを買おうとしたら、レジの人に「年齢を確認できるものはありますか?」と言われた。

最初何を言われているのかよく判らなくて、しばし呆然。

「あの…、年齢を確認できる証明書など…」と改めて言われてハッと我に返り、モソモソと免許証を出したけれども、「…そんなに若く見えますかね?」と思わず苦笑い。


二十歳の頃タイで四十過ぎに、インドでは子持ちのパパに間違えられた経験を持つ年齢不詳の私は、 およそ若く見られるなんてことはありえないと思っていたけれど、まさかこの歳にして未成年に疑われるとは、 あまりの虚を突いた攻撃に微動だにできず。

もしこれが暴漢の不意打ち攻撃だったならば、今ごろ私は路上に突っ伏していたであろうし、 キャッチセールスであれば暴値の教材セットの契約書にふらふらと印鑑を押してしまっていたかもしれない。

あるいは私が混乱しているうちに「あ、やっぱり結構です。失礼致しました。」と慇懃に頭を下げられすみやかに会計を済まされて、 その隙にお釣りを千円ばかりちょろまかされたとしても、もしかしたら全然気がつかなかったかもしれない。

まぁ今回の場合、べつに店員も私を混乱させようと思って発言したわけではあるまいが、人を幻惑するプロというものは、人を混乱させ、 そこから立ち直る隙を与える間もなく、正常な判断ができないうちに、すみやかにすべての仕事を終わらせてしまう。

催眠術などでもよく使われる手口であるが、何であれ新しいシステムへの移行期には多く混乱がともなうものであって、 それは逆を言えば混乱を起こすことによって新しいシステムへ移行しやすくなるということでもあって、それをうまく利用している手法だ。

いずれにせよ武術をたしなむ人間としては一生の不覚である。(って何度目だろう…)

むぅ…まだまだ修行不足だ。 さらりとかわしてゆけ。


そのような混乱に乗じた構造変化というものは、意識のレベルのみならず、物質のレベルでも、運動のレベルでも、 組織のレベルでもよく行なわれていることである。

十分に準備を整えた後、あえて混乱を引き起こし、そのわずかな混乱の間に古いシステムを破棄して新しいシステムを稼動し、 その新しいシステムによって構造全体に協調と安定をもたらしてしまえば、 混乱を回復した後には何事もなかったかのように組織が新しいシステムによって動き始める。

それはさながら銀行強盗のグループが、警報システムをわずか10秒ダウンさせている間に監視カメラの映像をすり替えてしまって、 一瞬不審に思った警備員も復帰したモニターを見て「異常なし」と思い込んでしまうような、そんなさまにも似ている。


私が最近考えている新しい稽古の構築において、課題の焦点の一つとしてそのことがある。

今までの動きとまったく違う動きを獲得するということは、 今までの運動を量的にボリュームアップさせても決して到達できる地点にはない。

新しい動きは、今までの動きの同一直線上にはないからである。

新しい動きを獲得しようとするのであれば、違う直線上への「跳躍」が必要になる。

そのためにはその「違う直線」、つまり「新しい運動システム」を構築しなければならないのだが、そのさいにもっとも障害となるのが 「今までの運動システム」である。

その跳躍を阻害する最大の要因が、「その古いシステムがけっこう有効であり、なおかつ今までそれでうまくやってきた」 という事実である。

これがなかなか厄介だ。

「からだに染み付いた癖をどう取ってゆくか」。

そのとっかかりとして、この「混乱に乗じる」手法はなかなか利用できるのではないかと、そう思っているのである。


『そのように、問題のあるパターンが必要以上に固定してしまっているときには、 それを解きほぐすようなダイナミカルな方策を講じる。それはたとえば、さまざまに「制御パラメータ」(歩行速度)を変化させることで、 「秩序パラメータ」(歩行パターン)が不安定になる領域を探していくことによって発見されるかもしれない。 ダイナミカルな観点から見れば、たとえば「歩く」から「走る」への転換期など、 ある運動からそれとは違う運動に変化する瞬間には一時的に「秩序パラメータ」が不安定になることがわかっている(これを「臨界ゆらぎ」 と呼ぶ)。不安定とはいえ、前述のように、新しい行為が「創発される」ための条件なのだ。したがって、もし歩行速度などの 「制御パラメータ」を変化させていったときに、歩行パターンなどの「秩序パラメータ」が不安定になる領域を見つけることができれば、 まさにそのときが、固着した運動から、それを新しい、より適切な運動に再構成していくためのチャンスなのかもしれない。』
(三嶋博之『エコロジカル・ マインド』NHKブックス、2000、p110)


この「歩く」から「走る」への運動の相転移のさいに生まれる「臨界ゆらぎ」、これこそ先に述べた「混乱期」に当たるわけだけれども、 これをうまく用いて固定化されてしまったある種の癖をいったん解きほぐし、そしてそこから新しい動きを再構築する。

一瞬のカオスは新しい秩序が誕生するためのターニングポイントだ。

リハビリテーションの現場において、そのことが確認されている例も実際にある。


『具体的な例を見てみよう。R・ヴァン・エメリックと、その共同研究者のR・ ワーヘナールは、一人のパーキンソン症候群の患者のケースを報告している。この人は、左手に、 パーキンソン症候群の震顫(しんせん)があることが確認されていた。意図とは関係なく、手が震えてしまうのである。この人に、 トレッドミルと呼ばれる、駅や空港などにある「動く歩道」のような装置の上で歩いてもらい、その速度を徐々に上げていった。すると、 驚くべきことだが速度が毎秒0.8メートルほどになったところで、手の震顫が消失したのである。歩行速度がゆっくりしていたときには、 腕をあまり振ることもできず、毎秒4〜6回くらいのパーキンソン症候群の震顫が認められていた。しかし、歩行速度が上がると、 腕の振動は歩行にともなう脚の周期と同期し、それによって、パーキンソン症候群の震顫が「乗っ取られる」ような状態になった。しかも、 一度「乗っ取られる」と、歩行速度をゆっくりとしたものに戻しても、パーキンソン症候群の震顫は現れることはなかったのである。』
(三嶋博之『エコロジカル・マインド』NHKブックス、2000、p107)


前にもこのブログで床の格子パターンによって歩行困難を克服するアプローチについて触れたことがあったけれど、 「手の震え」を、その部位を含めたより大きなシステムである「歩行」という運動の中に投げ入れ、その大きなシステムのレベルでの「相」 を変化させることで、ホメオスタシス効果によって丸ごと全体の中で調整していってしまう。

そのような包括的な視点に立ったアプローチは、私にはとても馴染みやすい。

失調をきたした「部分」が、より大きな「全体」の中に組み込まれ、その「全体」がゆらぎながら新しい秩序に移行しようとする中で、 「部分」も再び「全体性」を回復してゆく。

それこそまさに癒しがおこなわれる過程であり、整体的なアプローチの根幹をなすものでもある。


そしてそれは新しい運動の獲得(運動システムの構築)においても、かなり有効なアプローチであるように思える。

そのために必要なのは、ある程度の長い混乱(カオス)に耐えうる「知的肺活量」の向上と、カオスの中で創発する所作を邪魔せぬよう、 からだを空けておく「ゆだね」の構えの構築である。

それが実現できれば、あとは一人で放っておいても動きをどんどん洗練させてゆくことは可能だ。

現実としてそれらを実現するために、どのような稽古を創っていけばよいのか、それはこれからの課題であるけれど、複雑系としての人間、 そしてその表れとしての行為、それらの仕合わせな落とし所を探りたいと思う。

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2007年07月31日

日本一美しいキャンパスへ

日曜日、神戸女学院のオープンキャンパスに参加してきた。

まさか自分が女子大のオープンキャンパスに訪れることになろうとは夢にも思わなかったけれど、今回オープンキャンパスに参加したのは、 別に入学しようとかそういうわけではなく、内田樹、甲野善紀、 島崎徹という豪華パネリスト陣による特別トークセッションに参加するためである。

それに、内田先生が「日本一美しい」という神戸女学院のキャンパスを、ぜひとも一度は見てみたかったという思いもあった。


朝、新幹線に飛び乗って新大阪へ向かい、そこから阪急に乗り換え西宮へ。

門戸厄神で下車して夏の日差しが照りつける中、住宅街をテクテク歩いて最後の角を曲がると、不意に、 植え込みに招かれるようにして森の奥へと続く、なだらかなスロープが目に飛び込む。

おお、ここか。

入口には本日のメインイベントがでかでかと書かれている。

「身体性の教育」。

う〜む。

ミッション系の女子大において「身体」をテーマに、 それも武術と舞踊を中心に新しい試みがなされるというのはなんとも不思議な時代である。

まぁ私もシュタイナー学校で武術を教えていることを考えると、ヘンな立ち位置にいるのだけれど。


開場まで小1時間ばかりあったので、さっそくキャンパス探検にとウロウロしていると、キャンパス案内スタッフの女子大生が、 すれ違うたびみんな愛想良く「こんにちは〜。」と挨拶してくるので、毎回「あ、こ、こんにちは。」とためらいつつ返事を返す。

なんだかとてもファミリアな雰囲気にカレッジの本質を感じる。

なるほど。日本一美しいキャンパスは学生たちのファミリアな雰囲気に支えられていたか。


昔インドのミッションスクールにしばらく滞在したときも思ったけれど、ミッション系の学校というのは、ホントに「場」が良い。

うっそうと生い茂る森に囲まれた小高い丘に立ち並ぶ学舎。

こういう場所を見ていると、やっぱり教育というものは原理的に「寄付」という形で支えられているのが、 もっとも理想的なのではないかと改めて思う。

教育という、そもそも「贈与の原理」を基にして成り立っているものに、経済合理性というものが混じってくると、 なにか歪みが出てきてしまうのではないか。

親と地域の大人たちが、子どもたちのために教師と学びの場を用意し、それを支え、教師はその想いに全力で応える。

原初、学びの場とはそういうものではなかったか。

親は教育においてサービス(贈与)を受ける側であるのではなく、 あくまで与える側にあるという意識をもつことはとても大切なことであろう。

「贈与の流れ」の中に自らの身を置くということ。

「教育」と「学び」が、最高のパフォーマンスを発揮しつつ果たされてゆくためには、どのような「場」を作っていけばいいのか、「流れ」 の上流にいる私たち大人が考えるべき仕事である。

教育の場において、私たちは子どもに「何を一番伝えたいのか」、そして現実として子どもには「何が一番伝わっているか」、 じっくり考えてみる必要があるかもしれない。

「子どもに学校で一番学んでほしいことは何ですか?」
「あなた自身が学校で一番学んだことは何ですか?」

みんなに質問しまくったら、はたしてどんな答えが集まるだろう。


オープンキャンパスの話であった。

満面の笑顔で挨拶をしてくる芦屋のお嬢さん方に「あ、どうも」 とペコペコしつつ、カメラを片手に女子大をウロウロする怪しい人となって、あちこちパシャパシャと写真を撮る。



美しい立地に美しい建築群。

さすが内田先生が「日本一美しい」と豪語するだけのことはある。

大学淘汰の波が吹き荒れる中、こういう希少種が根こそぎ絶滅させられてしまうようなことだけは、ぜひとも避けて欲しいものである。

世界に多様性を。


セミの鳴きしきるキャンパスをうろうろしていると、あっという間に開場の時間になってしまったので講堂へ。

大きなパイプオルガンが据えてある立派な講堂は、なんとも人を厳粛な気持ちにさせる。

チャペル独特の長椅子にぎゅぎゅっと詰めて腰掛け、しばらく待っているとお三方が登場し、ようやくトークセッション開始。

結果から言えば、わざわざ東京から出てきた甲斐のある、とても興味深く、また笑いの絶えない素晴らしいセッションであった。

寡黙な甲野先生と、饒舌な島崎先生に、その二人を何とかうまくケミストリーさせようという内田先生の掛け合いも面白かったが、 話される内容そのものにも、いろいろインスパイアされること多々。

昨日の今日のことで(っておとといか)、まだまだとても言葉にはできないが、私が最近ずっと考えていた稽古論、 教育論について何かさらなる気づきが生まれそうな予感。

ちなみにこのトークセッション、次回は11月17日に行なわれることがすでに決定しているそうで、 しかも今回のお三方にさらなるゲストを加えて行なわれるそうなので、これまた見逃せないものになりそうである。

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2007年07月24日

「愛と邪悪の人」@脳内メーカー

遅ればせながら「脳内メーカー」なるものをやってみた。
(上記サイトはアクセスが集中してつながりづらいことアリ。)

ちょっと前にそんなのが流行っているというニュースをYahoo!ニュースか何かで見て、 今度やってみようと思いながらそのままにしていたら、友人のMさんから、「アンタの頭は愛とHでいっぱいなのよ〜。ホホホ。」 (やや誇張あり)と、わざわざご丁寧に画像まで添付したメールが届いたので、ムムッとしつつ、またしばらく遠のいていたのだけれど(笑)、 ようやくまたやってみる気になったのである。

…と思っていたら、ukikiさんのブログでちょうど同じネタを取り上げていたのでシンクロニシティにびっくり。


それで今回、あらためて自分の名前を入れてみたら、当たり前だけどやっぱり私の脳は「愛」と「H」でいっぱいであった。


う〜む。

うすうすそうじゃないかとは思っていたが、やっぱりそうなのか。Amoretto!

でも「愛」は前面に出して、「H」は後ろに隠されているのがミソだな。ふふふ。

今度から横顔に注意しよう。

じゃあ私のハンドルネームである「RYO」ではどうなのかと調べてみたら、こんな感じ。


う〜む。映画の冒頭でヒロインに絡んで主役にあっさりやられるいきがった小者って感じの脳だな。微妙だ。


でも他にもいろいろ愉しんでいたら、どうもこの脳内メーカー、「正面バージョン」があるらしく、さっそくそちらでも試してみた。

とりあえず本名を入れてみると…


おお!愛の花咲く脳畑。 Amore!

素敵じゃないか。でも真ん中が空っぽなのが気になるぜ。

しかし、この様子だとハンドルネームも期待ができそうだ。

はてさて。いかがであろうか。


うお!これまたなんと! 陽極まりて陰となったか。

まさにダークサイドに堕ちたダースベイダー。

一分の隙も見せぬほどに満ち溢れる邪悪さ。

これぞ「邪悪」を名乗るにふさわしい。

「THE邪悪オブ邪悪」。

えー、このブログでも何度も申し上げておりますが、ワタクシ邪悪な人間でございますので、ゆめゆめ信頼などせぬよう。 あらためてかしこみかしこみ申す。


ちなみに私の名前を全部「ひらいて」(平仮名にして)調べてみたら、こんな結果が。


これまたなんと正反対に愛溢れるドタマであることか。

名前がひらかれると、心もひらかれるのか。

おお! 渺茫たる「愛」と「邪悪」の人よ! Amorevolmente!

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2007年07月18日

「Word2.0」若しくは「なるほどの臨界状態」

気がつけば、私はいろんなところで、いろんな人たちを相手に講座をおこなっている。

受講生は、下は二歳児三歳児から、小学生、中学生、高校生と続き(プライベートでは大学生も)、 大人はママさんをはじめ三十代、四十代の社会人、それに精神病を抱えたいろんな年代の人たちに、七十八十を数えるご年配の方々と、 そのバリエーションたるや我ながら呆れるくらい幅広い。

なんだってこんなに幅広い年代の人たちを相手に講座をやることになったんだろう?

私にもよく分からない。

よく分からないがありがたいことである。

なぜならほとんどすべての講座は、あちらがわから「講座をやってください」とお願いされて、「ハイ。分かりました」 と答えただけなのである。

考えようによっては「それだけ多くの人に望まれている」と考えられなくもない。

ホントにその期待に応えられているのかどうかよく分からないが、ありがたいことである。


ママさんたちの講座もけっこう活況ではあるのだけれど、最近はなぜか、酸いも甘いも噛み分けた、 人生の先達であるご年配の方々の受けが非常に良いように感じられる。

私のワケの分からない話がご年配の方々にはどうも「響く」らしい。

何故でありましょう?

私にもよく分からない。

よく分からないが思い当たる節はある。

だって、私のような経験浅い若造の話が、私の人生の二倍以上の長い年月を経てきたご年配の方々の心に響くというのである。

だったら考えられる理由はひとつしかない。

みなさんが私の言葉に「自分自身の経験」を見出しているのである。

それしか考えられない。


私はしゃべるときにいつも気をつけていることがあって、それは言葉に「余白」をもたせるというか「遊び」をもたせるというか、 カチッとした定義付けをしないようにしているということである。

私の言葉に、私は意味付けをしない。

なるべく「ゆらぎ」のある言葉を選んだ上で、さらに手放してしまうので、そこに意味を見出そうとするならば、 聞き手が自分なりの解釈をするしかない。

私の発した言葉であっても、私自身が思いもしていない解釈は成り立ちうる。

そうすると私の言葉には聞き手の数だけ意味が浮かび上がることになる。

だから私のような若造の話にも、きっとご年配の方たちは、 私のわずかな経験以上のさまざまなことを見出していらっしゃるに違いないのである。

(でなければ「子育ての苦労」も「結婚の苦労」も経験していない私の話が響くわけがない)

まことに勝手な想いであるが、言葉もその方が仕合わせであろうと思う。

私は人間は三つくらい顔を持っているほうが良いと思っているのだが、言葉だっていろんな意味や解釈があったってよかろう。

「意味」と「意味」のすきまにしか棲息できないカヨワキモノたちだっている。

私一人の経験に矮小化されるよりも、多くの人の経験に触れられることで微妙にニュアンスを変えながら、 言葉自身が自らの意味をつねに新しく創り上げてゆく。

言葉のオープンソースだ。

「Word2.0」。


言葉をそんなオープンエンドな状態にしておけば、当然のことながら開放系の特徴を示すのであって、私の言葉に「なるほど」 と触発された聞き手の話を聞いて、私自身が再び「なるほど」と触発される、なんていうポジティブフィードバックがかかって、 「なるほどの臨界状態」が生じることもある。

お互いの、あるいはその場にいる全員の「経験知」「暗黙知」を含み合わせた膨大なネットワークが活性化しながら、「なるほど」 がさらなる高みへと上昇し、「ヒラメキ」が創発する。

そんな場に居合わせることができたならば、ホントに仕合わせだ。

そのためには、その場にいる全員の共有言語が「弱い言葉」 であることが大切であろう。

「強い言葉」ではなんというか、「アク」がきつくて「摩擦/抵抗」が大きい。

「強いモノ」は独立しようとし、「弱いモノ」は連帯しようとするもの。

つながりあい、連携し、一体化しようというときは、「強さ」がネックになることもある。

「フラジャイル(壊れやすさ)」なものを中心とした共有場。

そんな場を立ち上げたい。


…でもそうすると一番邪魔なのは、いろんな意味で「私」ということになる。

う〜む。まだまだ先の話であろうけれども、いつか必ず捨てます。

イヤ、「引き取ります」。

posted by RYO at 21:24| Comment(6) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月10日

へりくつ問答その参

「RYOさん、どうもお久しぶりです。このまえが11月だから8ヶ月ぶりですね。 」
「もうそんなに経っちゃったんですね。早いなぁ。」
「クーヨン読みましたよ。」
「あ、いやいや、これはどうもありがとうございます。」
「笑顔が固いです。」
「………。 …いや、まぁ、その…、ね。 苦手なんですよ写真とか。野口先生も嫌いだったみたいだし。」
「べつに野口先生は関係ないじゃないですか。」
「…まぁ、ね。」 
「でも、どんどん世に出て行って素晴らしいですね。センセ。」
「ね、ねぇ。 ありがたいことですよ。ブログで好きなこと書き散らしているとはいえ、やっぱり紙媒介で世に出るのとはまた違いますからね。 とくに私がもっと注目されるべきだとつねづね思っている子育て中のママさん層に向けて、少しでもエールを送れたらと思っていましたから、 その思いを汲み取ってくれたことには感謝ですね。」
「あら、殊勝なこと言いますね。」
「いつだって言ってますよ。」
「そうでしたっけ?」
「そうですよ?」
「ふ〜ん…。」

「だって、脈々と続く人類の命の流れのカナメですよ? カナメ。 GDPだとか何だとかいう以前のこととして、 もう少し重点を置いて然るべきだと思いますけどね。もちろん排他的にならないようにね。」
「排他的?」
「え? だからそのことが『女はみんな子どもを産め』みたいな圧力にならないようにってことです。」
「ああ、そういうことですか。それは大事ですね。たしかに。私もいませんし。産まないっていう選択肢だって認められるべきだと思いますよ。 やっぱり。だからそういうのって一番イヤですよね。そういえば女性を機械発言している大臣がいましたね。どこかの国に。 なかには産みたくたって産めない人だっているってことも分かってないんじゃないんですか? 想像力が足りませんよ!ホントに。  何考えてんですかね?! よくそれで……」
「ま…まぁまぁ。落ち着いて落ち着いて。だからすごく難しいんですけどね、やっぱり丁寧に慎重に、 でも確固とした意思を持ってやっていかなくちゃいけないと思うんです。」
「まぁそうですね。(ハァハァ…)」
「機械発言は論外として、反論をしづらいようないわゆる正論って一番謙虚さを忘れちゃダメだと思うんです。 正論は予想以上に人を傷つけますよ。」
「そうかもしれませんね。」

「だから、私だってこう見えてもしゃべるときはけっこう気をつけてるんですよ?」
「思いつくままにベラベラしゃべっているようにしか見えないですけどねぇ。」
「思いつくままにベラベラしゃべっている中にそういう配慮があるというのが、ワザなんじゃないですか。」
「あら、左様でございますか。失礼。」
「いつも出産とか、育児とか、性とか、からだとか、一番PC的にホットスポットなところを中心にベラベラとしゃべってるんだから、 そりゃものすごく気をつけてますよ。」
「何ですか? ピーシーって? パソコン?…じゃないですよね。」
「え? え〜っと…、もうめんどくさいから自分でWikipediaで調べてください。」
「不っ親切ですね〜!」

「ところで、話はまた全然変わるんですけど、『言っていることはいちいちごもっともなんだけど、 聞いているうちになんだかだんだん疲れてきちゃう』人っているでしょう?」
「ああ、いますねぇ。」
「それよりはね、『何を言っているんだかよく分からないけれども、聞いているうちになんだか元気になってきちゃう』 っていう方がいいんじゃないかと、私は思うんです。」
「ふ〜ん。 …それって、いつもわけの分からないことばかり言っている言い訳ですか?」
「な…何を失礼な。そういうことじゃないですよ。『聞いていて元気になる』っていうのが大事なんじゃないかって言いたいんですよ。」
「でもだからって『わけの分からない話をしていていい』っていうことにはなりませんよね?」
「う…キミだんだんツッコミが厳しくなってきたね。 ふん。そうですよ。 あなたの言ってることが正論ですよ!」
「いじけないでくださいよ。」

「だからね、『なんだか疲れてきちゃう』っていう感覚を、もっと大切にしてもいいんじゃないかって言いたいんですよ。  何かあるんですよ。きっと。そこには。」
「何かある?」
「『なんだか疲れてきちゃう話』っていうのは多分、その論理的な瑕疵とは関係なくね、そのしゃべる人の語り口、 もっと言ってしまえばその人の潜在的な欲望のレベルが関係してくるんだと思うんですよ。 まぁ『ハラスメント』 っていう概念にも近いのかもしれませんけど。」
「『ハラスメント』ってこのまえ書いてましたね。 」
「そう。そのことです。 …そういえば、あのエントリーはけっこう響く人が多かったみたいで、いろんな方からお言葉を頂戴しましたね。 関係ないですけど。」
「へ〜、そうなんですか?」
「やっぱり多いんでしょうね。そういうハラスメント的なことって。」
「そうなんですねぇ。」

「で、その、何て言うんでしょう? しゃべっている本人すら気づかない欲望が漏れ出しているっていうんでしょうか。 そういう言葉って言葉の節々にごくわずかずつ欲望が混じっているから、そういうのってアタマでは捉えきれなくて、 なんだかよく分からない息苦しさとか圧迫感とか疲弊感とか、そういう身体的な症状として兆候化されるんですよね。 からだってそういう微細なノンバーバル(非言語)メッセージをはっきり受け止めますから。」
「あ〜、あるかもしれないですね。そういうのって。」
「だから、そのしゃべる人が、それを伝えることでどうしたいのか、どうして欲しいのか、そこのところのイメージの問題が、 すごく大事なんだと思うんですよ。」
「どうして欲しいのか?」
「うん。だから話を聞いてもらってね、その人が自分の博覧強記ぶりに感心してもらいたいのか、自分の意見に同調してもらいたいのか、 理解してもらいたいのか、あるいはその人に何か気づいて欲しいのか、元気になって欲しいのか、一緒に嘆いて欲しいのか、 そこは大事なところですよね。漠然とでも『どんな空想を思い描いているか』ということです。」
「しゃべる人が思い描いている空想ってことですか?」
「そう。でもそれが必ずしも自覚的とは限らないんですよね。それが厄介なんですけど。欲望ってのは自覚がないことが多いですからね。 でも、 そういう空想、イメージって『語る内容そのもの』よりも、ホントにより色濃く、 それこそ雰囲気とかそういう言語化されないカタチではっきりと伝わるんですよ。」
「しゃべっていても、『コイツはいやらしいこと考えてるな』っていう男は、見てて分かりますもんね。」
「恐いなそれは。 でもそういうことですよね(…気をつけよう)。」
「RYOさんも気をつけてくださいね。」
「(う…)は〜い、ご忠告どうも。」

「ちなみに私はね、いつもその人が日常生活の中で愉しそうにしているのをイメージしているんです。すべては『そのための話』 でしかない。だから私は、私の話を聞いて、いや聞いてなくてもいいから、その人とその周りの人たちが元気で愉快に暮らしていれば、 別に何も言うことはないんですよ。だからそうなったら黙っちゃう。ニコニコして眺めてるだけ。」
「さすがチベット僧。」
「チベット僧じゃないっつーの。」
「旧日本兵でしたっけ?」
「…あのね。たしかにどっちも言われたことあるけどね。失礼ですよ。ホントに。せっかくいいこと言ったのに。」
「『私の話なんか聞いても何にも役に立たない』ってことですか?」
「そこまで言ってないでしょ!」

posted by RYO at 21:32| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月02日

たとえパンツ一丁になったとしても

下北沢でカフェをオープンしたTさんのオープン記念に、「miniからだ講座」と題して小さな講座を一席ぶつ。

今回の講座は、基本的に小さいお子さんを連れたママさんたち相手の講座で、自然育児友の会の会報を見たとか、 ミクシィの案内を見たとかいう方たちが次々と集まってくれて、小さな(失礼)店内はベビーカーと子どもとママさんたちで、 たちまちギュギュッといっぱいになってしまった。

聞けば幾人かは断らざるを得なかったとのこと。

(お断りしてしまった方々には申し訳ありません。またの機会にはぜひ)

カフェのソファや椅子を円座に並べて、真ん中には子どもたちがみんなの注目を浴びながら遊べるように場をしつらえて講座を開始。

始まる前に作務衣に着替えようとしたら腰紐がブツリとちぎれて、「ええ〜?!」と一瞬ひるんだりもしたが、 講座中に作務衣の下だけずるりと脱げ落ちるような惨事には至らず、無事に終えることができてホッとする。
(ちなみに腰紐は今この記事を書く前にチクチクと縫い付けた。)


お話は季節のことを中心としたからだの手当てについて。

お互いのからだを触れながらワイワイとしゃべっていたら30分なんて時間はたちまち過ぎ去ってしまって講座は早々と終了。

みんなでテーブルを並べて、Tさんが用意してくださったお茶やパンやいろいろな料理を一緒にいただく。

美味し。

食事も終わってお茶を飲みながらみなさんとお話していたら、Tさんが「RYO先生は長々としたブログを書いているんですけど…」 という辛辣な言葉を枕詞にはるか昔のエントリーである「根拠なき自信」 について話を振ってくれた(スイマセンね長々で)。

おお、そういえばそんな事を書いておりましたね。


そう。そうなのである。

いつもみなさん、はるばる遠くからわざわざ私の話などを聞きにいらっしゃっているものだから、 つい楽しんでお帰りいただくためにリップサービスで、「まぁ怖いわねぇ」といったことや「へぇ〜スゴ〜イ」 といったトリビアルなことをおしゃべりしてしまいがちなのだけれども、ホントはそんなことは全部どうでもよくって、 ぜひ自分の子どもの生命力を自信を持って信頼してほしいというのが、私の言いたいすべてなのである。

ハッキリ言うがそれ以外には無い。

でも、ホントにそれだけしかしゃべらずに「今日のお話は以上です。」なんて講座を終えてしまった日には、ママさんたちに「あんたたち、 あのオジサン殴っていいわよ。」と、わんぱく盛りのちびっこ精鋭部隊をけしかけられて、 コテンパンにやられるのは火を見るより明らかであるので、そんなことはとてもできないだけである。

だからつい、いろいろとしゃべってしまうのだけれど、私はママさんたちに自分自身や自分の子どもの「いのち」 に対する確固たる信頼感さえ持っていただければ、ホントはそれで良いのである。


前にこのブログでも書いたけれども、 子どもを取り巻く環境が及ぼす影響については、語れば語るほど、 環境に拠らずにたくましく育ってゆく子ども自身が見えなくなってゆくというジレンマがある。

子育てにおいてその環境がとても大切なことであることは確かなのだけれど、そこに重きを置きすぎては、 今度は子ども自身の環境をはね退ける生命力を信じきることができなくなってしまう。

それはどうしたって相容れないものであって、理屈で解消のしようがない逃れがたいアポリア(難問)として存在する。

だから私はいつも、「子どもを取り巻く環境はとても大事なんです」と言いながら、その5分後には 「子どもは勝手に育つから親はそれを邪魔さえしなきゃいいんです」と矛盾した事を言って、 講座に出る人たちを煙に巻いてしまうことになったりしてしまうのだ。

別に私はなにも嫌がらせをしたくてそんなことをしているわけではなくて、 本当のことをしゃべろうとすると矛盾せざるをえなくなってくるのであって、そこのところだけはご理解願いたい。

もうどうやって伝えればいいのか、私自身、身悶えして仕方がないのである。


でも、それでもやっぱり、私の本当に言いたいことは何なのかと問われれば、「もうちょっと世界を(からだを、子どもを、 自分を)信じてもいいんじゃないか」ということに他ならない。

「世界をもうちょっと信じてもいいんじゃないか」ということを真面目に語ると、「ただのモノ知らずの甘ったれ」と、 無知蒙昧扱いされてしまう世の中であるけれども、私だってたかが知れているとはいえ、世界に裏切られるような経験は無いわけではない。

その証拠にこれから講座ってときに作務衣の腰紐が切れたばかりである。(小っちゃ!)

でも。

にもかかわらず。

それでも「もうちょっと信じてもいいんじゃないか」と言うためには、その結果がどうなろうと、そのすべてを自らが引き受ける「覚悟」 がなければいけない。
(例えばズボンがずり落ちてパンツ一丁になっても動じることなく講座を続けたり)

整体や武道で「肚を作る」ということをきわめて重視するのも、結局その「自らが引き受ける覚悟」を身につけてゆくためには、 その拠り所としての他ならぬ「我が身」を練り上げてゆくことでしか成し得ないからなのである。


「根拠なき自信」は、その結果を引き受ける「覚悟」の上に成り立っていて、「覚悟」とはアタマではなく、「肚」で決めるものなのである。

そしてその「肚」は、自分が手放した「権利」の数だけ育つのだ。

私の持論である「権利は捨てられてこそその本性を表す」という暴論は、 「権利を言い募ってばかりいると肚はぺしゃぺしゃになる」という経験則に基づいている。

「権利」は手放され、他人に譲られたときに、その本性が光り輝くもの。

あらゆる「権利」を手放し(ときに自らの「生存権」さえ)、それを他人に譲り、「覚悟」のできた人間が、 芯のところから世界を信頼しているかのように見えるのが、ただの私の勘違いであるようにはとても思えない。

イエスであれ、ブッダであれ、マホメットであれ、マザーテレサであれ、ガンジーであれ、 あるいはありとあらゆる歴史上の偉大な人物たちは、きっとどこかで「覚悟」を決めたのだ。

「たとえパンツ一丁になっても私はやるべきことをやる」と。

「覚悟」を決めた人間は強い。そしてどこか人の心を打つものがある。

何かが起きたときにその責任を他人に求めようとする者は、やはりどこかで弱いのだ。

その弱さも分かる。

けれども、そのことに気づくだけでも人は変わってゆける。

「覚悟を決める」ということ。

その「覚悟」を決めた人間から発せられる絶対的な「信頼感」は、その下で育つ子どもの心身の成長に、 絶大な贈り物を贈ることになるだろう。

posted by RYO at 22:51| Comment(16) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月28日

ピタゴラアルマジロ

突然だが、私はからくりモノがとても大好きである。

だから、今人気の「ピタゴラスイッチ(⇒YouTube)」なんてものすごく 「ツボ」である。

お店などでも、あの軽快なBGMが流れてくると思わずそちらに目が行って、デモ画面をしばしぼーっと見つめてしまうのだけれど、 そんな私のことだから当然のごとくDVDは2巻とも購入して持っている。

持っていても思わず見入ってしまうのである。

家でビールを飲みながら、小物たちが転がったり飛んだり跳ねたりしながら連鎖してゆくさまを見ていると、その予想外の動きに 「おおっと!」とか「なんと!」とか、思わず声を出してしまうのだけれど、なんだって人間はこんなにも、 連鎖するモノに心を奪われてしまうのか。(え?オレだけ?)


そんな「連鎖フェチ」である私なのだが、つい最近、思わず身を乗り出してしまう面白いデモゲームをネットで発見。

その名も「Armadillo Run(アルマジロラン)」。

(デモ版(1MB)ダウンロード可能)


タイトル画面を見ても「ピタゴラ感」が伝わると思う。

ルールは単純で、丸まったアルマジロを青い領域まで誘導するのが目的。

プレイヤーは、初期配置の固定軸を中心に、鉄パイプやロープや布などといった素材を組み合わせて、アルマジロの道を作ってゆく。

配置が済んだら“Run”させて、あとはアルマジロがコロコロと動いてゆくのを観てるだけ。

アルマジロも含めたすべての素材は、コンピュータの物理演算で計算された動きを忠実に再現するだけである。

ただそれだけなのに面白い。

素材はシンプルだが、組み合わせ方によって滑車やブランコやシーソーやエレベーターやジャンプ台など、いろいろな物が作れる。

素材の性質や強度などを考えながらギミックを凝らしてゆく。

ああ〜、もうそういうの大好き!

それぞれの素材は強度が設定されていて、限界以上に負荷がかかると崩壊するようにできていて、 テキトーに鉄橋を作ってみてもあっさり崩壊してしまって、けっこうヤワである。

だから充分な強度を持った構造体を作らなければならないのだが、クリアするためには予算の制限があって、 限られた予算で間に合わせなければならない。

結構しっかり作らないと構造が保てないのに、資材の使用には制限がある。

そこらへんのシビアさがまたたまらない。


…で。

当然、ただクリアするだけなんてつまらない。

いかにエレガントなギミックを構築するか、「職人魂」の火が点くのである。

とりあえず予算なんて「Out of 眼中」で、いろいろ作ってゆくべし。


たとえば「ロープウェイ」。

ずるずると滑りながら全体がギーッと傾いてゴールへ。


ロープにテンション(緊張)をかけて、発射装置を作って「フリースロー」。
(ロープが赤いのはテンションがかかっている証拠)


そのバリエーションで「ダンクシュート」。
飛んできたアルマジロを落ちてきた鉄板がバシッとゴールへ。


逆に、凝った挙句の大惨事なんてのも、見ていてむしろ爽快だったりして。

グゥワラグゥワラグゥワラ! ガッシャーン! うひょー!


そんでもって最後にセレンデピティで出来上がった、「ティーショット(ちょんぼVer)」。


上から振り下ろされたドライバーがバシッとアルマジロを打ち出す。バシッ! 届くか?


あ、微妙だ。落ちる。


え〜い、押し込んだれ! グリグリ。


ほ〜ら、入った(笑)。


なんて感じで、予想外の動きに意表を突かれることも多々あって、非常に面白い。

デモバージョンは無料でダウンロードできるので、興味のある方はぜひぜひお試しあれ。

ハマルこと必至。

posted by RYO at 22:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月24日

合言葉は「キミこそヒーロー」

このあいだ取材を受けたクレヨンハウスの編集者Hさんと、 その後何度も電話やファックスのやりとりをして、何とか無事に記事としてまとめることができた。

これもひとえに、私のまとまりのない話をなんとか文章に起こしてくれた上に、「この文章を入れ替えてほしい」だの、 「言い回しを変えよう」だの、「イラストを差し替えてくれ」だの、仕上げてくれたゲラにつべこべ注文をつける私に、「分かりました」 とサササと機敏な対応を見せてくれたHさんの編集力のたまものである。

どうもありがとうございます。

(注文が多くてスイマセン。)


こういう「雑誌の記事」というのは、取材を受ける側の私が「伝えたい」と思うことがあり、取材をする側の編集者が「こういう記事にしたい」 と思うことがあり、その切磋琢磨で一つの記事が出来上がってゆくわけだけれど、実際にはそこにはさらに、 読者層(ママさんたち)に馴染みやすい表現だろうかとか、PC(ポリティカルコレクトネス)的問題発言はないかとか(これは微妙だなぁ…)、 他の関係者方に迷惑をかけるような表現をしていないかとか、さまざまな配慮や思惑が絡んでいる。

してみるとかような「記事」というのは、たしかに私が取材を受けたにもかかわらず、実際には多くの人間の思惑が複雑に絡み合った 「言葉の複合体」のようにも思えてくる。

はたしてそれらの「言葉の主」はいったい誰なんだろう?
(「透明な幽霊の複合体?」@宮沢賢治)

けれども公の場で発言するとはそういうことだ。

そして、それらの発言に対して、「ワタシ」がはっきりとその言葉の身元引受人として名乗りを挙げるということ。

「たしかにこれらは私の言葉です。」

「言葉を発する」とは、「肚を決める」ことでもある。

そのとき言葉に言霊がこもる。


振り返ってみれば小さい頃から私は、「言葉」というものについてよく考えていた。

自分の言いたいことを的確に相手に伝えるためには、言葉というものをどう扱えばいいのか。

自分の思いを精確に表現できる言葉が見つからずに、自分の語彙の貧困さに嘆いたことはしょっちゅうだったし(それは今もか)、 あんまり精確な表現を心がけるあまりに、ほとんどしゃべれなくなってしまったこともあった。


そして今、私は人を指導する立場になって、「言わなくちゃいけないこと」や、逆に「言わないほうがいいこと」というのが劇的に増えた。

当然と言えば当然なのだけれど、自分の言葉の影響力というものを改めて考えさせられる。

気づけば自分が人を指導する立場に立っていて、その立ち位置から発言することが、私の言葉に予想もしない「力」を与えるということ。

それは、はっきり実感として学んだ。

指導者である私がうかつな事を口走れば、それが「呪(しゅ)」 となって相手をしばりつけることになりかねない。

たとえそんなつもりではなかったとしても。


お釈迦様が「人を見て法を説く」と言われたように、たとえ伝えたい想いは一つであっても、 伝える言葉は相手によって一人一人変えていかなければならない。

言葉というのは「私」と「相手」をつなぐインターフェイスであって、そこで選ばれる言葉は「私」と「相手」 の関係性によって決められるもの。

だから私の口から出てくる「私の言葉」だって、本当は「私が選んでいる」とはとても言えない。

「聴き手」が私に選ばせている。

私がどんな言葉でしゃべればいいのかは「聴き手」に訊くしかない、という奇妙な事実。

私が一心不乱にしゃべっているとき、私は「聴き手」に訊いているのだ。

「私の口から出てくる言葉たちは、あなたに届いていますか?」
「あなたが必要とする言葉ですか?」

おずおずと差し出される、全力投球の言葉たち。

「私」と「あなた」の間で、やりとりされるモノ。

あなたの傾聴に導かれるようにして、私の口から発せられる言葉たち。

少なくともそれらの「言葉」にとっては、「あなた」こそ主体。


…とまあ、相変わらず話はふらふらとバガボンド。

ともあれそんなこんなで(?)今回の記事は、編集者のHさんと私とその他大勢の幽霊たち(笑)の切磋琢磨の合作として、 素晴らしい仕上がりになりましたので、7月3日発売の「月刊クーヨン8月号」、書店で見かけた方はよろしければ御笑覧。

おもに「整体的な子どもの手当て」について書かれておりますが、「大人の手当て」としても使えます。

誰だってへこんでいる時は心は子どもに帰っておりますから、することは一緒なのであります。

困ったときにすぐさま駆けつけ、手当てをしてくれるヒーロー。

そう。 ヒーローはいつだってキミを助けてくれる!

強くて優しくて最高のヒーローだ。

でもね。ヒーローは言うよ。

「キミの助けが必要なんだ!」

本当は、キミこそヒーロー。

posted by RYO at 19:34| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月16日

古民家にて

木曜日。

大学時代からの友人Yさんが二人目のお子さんを無事出産したというので、そのお祝い(&産後のからだケア)に、 群馬県は上野村のお宅へと向かう。

最近、近くの古民家を直して引っ越したというので、古民家好きの私はとても楽しみである。

朝いつもより早く家を出て、池袋の駅前から高速バスに乗って下仁田へ。

下仁田のバス停でYさんのダンナであるKさんに軽トラでピックアップしてもらって、野を超え山超え谷超えて、 山深く入ったところにあるお宅へ。

「敷地内に滝がある」(!)とは聞いていたけれど、実際見てみるとホントに立派な滝。



玄関から歩いて10秒のところで渓流釣りができる贅沢。

橋を渡って坂を上ってゆくと、坂の向こうに見えてきた縁側で長男のSくん(5歳)が満面の笑顔で放尿しながらのお出迎え。



いいなぁ、気持ち良さそうだなぁ。

その縁側は、貰いすぎて余ってしまったという畳が敷いてあり、最高に気持ちよい座り心地に、「縁側好き」 の私の心は一挙に鷲掴みにされて、到着するなり腰掛けたまましばし放心。

ほげ〜…。

いいなぁ…。

ふと隣を見れば猫がいて、額に鎌が刺さって「イテー!」と叫んでいる。



縁側には猫がよく合う。


 (ヘンな注釈つけてんじゃねぇよ。欠伸だよ欠伸。べらぼうめ。)

 


80年ほど前に建てられた古民家を直したというお宅は、とても広くて立派でうらやましい。



かつては養蚕をしていたという大きな二階は、今は板で仕切ってあって、合わせて十二畳ほどの二部屋になっている。

誰もいないシンとした二階でSくんと二人、一緒に並んで廊下に寝そべり、階段の隙間から階下の様子をこっそり覗けば、 なんだかどこかで体験したような懐かしさがフラッシュバックし、たちまち少年の日にタイムスリップする。

おばあちゃんが生まれたばかりの弟をあやしていて、ママがお菓子の用意をしていて、それを縁側から差し込む外の光が照らし出し、 外からは樹々に降る雨の音。

そんな様子を天井から覗いているボク。

家族が
ボクのいないところで
ボクに見られているとも気づかないで
普段どおりに生活しているよ

なぜそんな何気ないことがこんなにも可笑しいのか。

Sくんはホントに可笑しそうに、顔をひしゃげて腹をよじって涙を浮かべて笑いをこらえている。

そんな様子を見ているうちに、こちらもなんだかおかしくてたまらなくなって、笑いがこぼれる。

二人で顔を見合わせ必死に笑いをこらえていると、いつのまにか階段の下にママが立っていて、怪訝そうにこちらを見つめている。

「キミたち何やってんの…?」

やべ! 見つかった! 逃げろー!(笑)

……! ……!


そんな光景を、古民家の囲炉裏の煙で煤けた天井がキシキシと笑って包み込む。

きっと何十年分の家族の暮らしの音が、古民家の柱には沁み込んでいて、それが今でもそっと呼吸をしているのだ。

巨きな時間の集積が、イエに宿り、住むヒトを見守る。

posted by RYO at 10:51| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月07日

クレヨンハウス取材

水曜日。

クレヨンハウスの雑誌「クーヨン」の取材を受ける。

どうも編集者の方が前に一度私の講座に参加されたことがあるらしく、それで「このたび改めて取材を」ということだそうであるが、 私ごときのお話をわざわざ雑誌で取り上げていただけるなんてありがたい話である。

編集者のHさんによれば、講座に出て話を聞き、ブログも読んでその考え方を吟味した上での取材であるそうだから、いちおう 「お眼鏡にかなった」ということなのであろう。

どうもありがとうございます。

でもそれにしても、子どももおらず子育ての経験もない人間に取材を敢行し、育児雑誌の4ページも割いて記事にしてしまおうなんて、 クレヨンハウスもなかなか無謀な企画を通したものである。

はたしてそれが、キチと出るか、狂と出るか…ってどっちも(以下略)。


とりあえず過去の育児講座で使ったレジュメをテキトーに見つくろってばさばさとプリントアウトし、 ブログの記事も何か使えそうなエントリーをばさばさとプリントアウトして用意をしておいて、取材開始。

「野口整体とシュタイナー教育の両方を取り入れながら子育てについて語っているRYO先生のお話を…」ということだったので、 整体やシュタイナー思想との出会いなどを語りつつ、その二つが入り混じって生まれてきた私の人間観、育児観などをお話したり、 実際に家庭でできる手当てを説明したりする。


私のブログを読んでくださっている方はよく分かると思うけれども、とにかく私のしゃべることは往々にして「言語化できないもの」 を中心として語られることが多い。

私が調子に乗ってベラベラしゃべっていると、たいてい話はいつのまにかその「言語化できないもの」「名付けえぬもの」 が主題化されてくるのであるが、当然のごとく今回の取材もそんな調子になってゆく。

Hさんはベラベラしゃべる私の話に「うん、うん」とうなづき、「そうなんですよね」と非常に得心してくださっていたのだが、 やがて話を聞いているうちにメモする手が止まり、その表情に陰りが見えはじめる。

そして途方に暮れたようにポツリと一言。

「どうやって記事にしましょうね…」。


ス、スイマセン…(汗)。

つまりは「私の言いたいことは非常に納得できるのだけれど記事にしづらい」ということでありますよね?

ハイ。ワタクシも充分すぎるほど分かっております…(笑)。

私が編集者でもおそらく同じ溜め息を洩らすでしょう。

けれどもそんな人間と一番身近で付き合っている私自身が、終始悩みあぐねている難題なのだから致し方ないのであります。

どうか平にご容赦を。

けれどもHさんはすぐさまキュッと唇をかみしめそんな表情を振り払うと、「それを記事にするのが私の仕事ですから。悩んでみます。」 と、エディタープロフェッショナル意識を見せる。

おお、カッコいい!

よろしくお願いします! お任せします!


ところで私は記事にするに当たってHさんに、挿絵には「手当て一覧表」とか「人体急所図」 のような一瞥してサッと見通すことができるような図ではなく、実際の手当ての様子のイラストを載せてほしいとお願いした。

「ココはこういう手当ての急所」なんていうのがふんだんに散りばめられた「手当てハウツー人体図」のようなものは、 たしかに雑誌記事として見栄えがいいし永久保存判みたいな感じで、読者もそういうものを望んでいるだろうことは、私もよく分かる。

けれども、できれば私はそういうものではなく、実際に手当てをしている母子の姿をイラストにして、 その手当てをしているさまがありありと空想できるような画にして欲しいのである。

編集者であるHさんには申し訳ないけれど、私の記事は雑誌の売り上げに貢献するよりも前に、 雑誌を手にとりパラパラと読んでくださるママさんたちのためのページでありたいと願っている。

(あくまでどちらも「できれば」の話ではあるが。)

ママさんたちにとって「知識」が「行動」と結びつくために大事なのは、どれだけ自分が実際に行動したときの「イメージ」 が持てるかであり、とくに雑誌のような一過性の読書の仕方にはそれがもっとも馴染む方法であろうと私は思う。

犯罪捜査でもそうだけれど、いざというとき私たちの脳裏にパッと思い浮かぶのは犯人の特徴を事細かに記したプロフィールではなく、 証言を基に描かれた犯人の「似顔絵の素描」なのである。

「一瞥俯瞰的に網羅する」という超合理的な記事よりも、パラッとページをめくってぼんやり眺めた時に、その「手当てをしている母子像」 の画がなんとなく目に映って、そのまま通り過ぎてしまうような、それくらいの記事が私は良いのである。

手当てを「知識」として覚えていると、いざという時に考えてしまって手が出ない。

「イメージ」として持っていたときに、咄嗟に手が出るのである。

たとえ、そのことをまったく忘れていたとしても。

イヤ、忘れているからこそ。

Hさんの取材に、「『咄嗟に出るその手』が大事なのです!」と力説しまくった私にしてみれば、 やはり記事の構成の仕方からフラクタルにその信念が貫かれていてほしい。


…とは言ったものの、とても記事にしづらいお話ばかりをベラベラとしゃべってしまった私に、そんな強い要望をする資格は無いのかもしれない。

書き手のことを考えていないインタビュイーはダメですよハイすいません。(自責自応)

はたして、あんなにまとめづらいインタビューを、どうまとめてくださるのだろうか。

それは記事になってのお楽しみである。

乞うご期待!

…って、そういえば何月号に載るのか訊くの忘れてた(笑)。

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2007年06月01日

要求の流れ

このブログでも何度も触れていることだが、生命の本質とは「流れる」ことであると私は思っている。
(参照:この記事とかこの記事とか)

入ってくるモノがあり、出てゆくモノがある。

それがともに過不足なく満たされているとき、その生命体は滞りなく健やかであると言える。

その「流れ」が滞ると、その滞った部分が病み(止み)始める。

だから、食べたら出して、休んだら働いて、寝たら起きて、吸ったら吐いて、貰ったら与えて、稼いだら使って、 とにかく自分の中を流れの良い状態にしておくのはとても大切なことである。

執着心からいろいろなものを溜め込むのはからだに良くない。

大量に焚き木をくべた焚き火がくすぶってばかりでいっこうに燃焼効率が上がらないように、エネルギー過剰は自家中毒状態を生み出し、 自壊欲求を引き起こす。

だから、食べてばかり、休んでばかり、寝てばかり、吸ってばかり、貰ってばかり、稼いでばかりで、どんどん溜め込むばかりなのは、 からだに良くない。

そう。お金を貯め込むのは 「からだに悪い」。

過剰なお金は蕩尽(発散)されたがっている。

きちんとそれを全うさせてあげる人を、昔は「お大尽」と呼んでみんなで言祝いだのである。

貴金属やジュエリーをいっぱい買って、「私はお金を使っているわ」と言う人がいるかもしれないが、 残念ながらそれらはとても蕩尽とは呼べない。

貴金属を買うのはカタチを変えた「貯蓄」であって、それはむしろ貨幣と貴金属を「交換している」と言う方が近い。

貴金属のようなものは「価値の凝固したもの」であって、むしろ流れを留めたモノである。

「蕩尽」とは、跡形も無くなるように使うことをいうのである。

手元に溜まったモノを、再び大きな流れのなかに帰してゆくということ。

そうして初めて正しい意味での「発散」になり、新たな流れを呼び込むことにもなるのだ。


供給過剰気味な現代社会においては、何につれ意図的に「発散」し、手放し、捨てるほうに意識を向けるぐらいでちょうど良い。

「発散」し欠乏すれば、「吸収」の要求は自ずとハッキリするもの。

自分が何を食べたいのか分からないのは、中途半端にお腹が空いているからであって、とことんまでお腹が空けば 「やぶそばのせいろが食べたい!」とか「ルタオのドゥーブルフロマージュが食べたい!」とか、 要求もわがままなくらいにハッキリしてくるものである。

そうしてハッキリ浮かび上がった要求にしたがって生きていくことほど仕合わせなことは無い。

突き動かされるように働き、飢えたようにがっつき、斃れるようにして眠る。

ワタシの本当に欲するモノ。


ワタシを出てゆくモノがあり、ワタシに入ってくるモノがあり、滞りなく流れているということ。

「人」も「お金」も「情報」も、流れるモノは流れのあるところに引かれて集まる。

だから意識は、とにかく「流してゆく」ことだけ志向すれば良い。

流れるモノの本質を考えるとそういう結論に達する。

まず、自ら動くこと。

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2007年05月24日

ナナメ上をゆく大人

児童文学の名作にケストナーの『飛ぶ教室』(ケストナー、光文社文庫、2006)というのがある。

その中に「正義先生」と「禁煙さん」という二人の大人が出てくる。

「正義先生」というのは、子どもたちが暮らす寄宿舎の舎監で、いつも正しいことを言って子どもたちを正しい道へと導く先生である。

子どもたちのことを真剣に想い一人一人ときちんと向き合って、困った時には真摯に相談に乗り、いつだって正しい答えを教えてくれる。

そんな「正義先生」を、子どもたちは心から尊敬し、愛している。


それに対して「禁煙さん」というのは、廃棄処分された客車に住んでいる人で、その客車には「禁煙車」 というプレートが付けっぱなしになっているので、子どもたちは「禁煙さん」と呼んでいるのだけれども、 当人はいつもぷかぷかとタバコをふかしている、そんな大人である。

「正義先生」がその名の通りいつだって「正義」であるならば、「禁煙さん」はちょっと世の中からはみ出た「ちょいワルおやじ」である。

子どもたちは「正義先生」には相談できないような揉め事が起きたときには、みんなで「禁煙さん」のところに相談に行く。

「禁煙さん」は、そういう「ちょっとワルイこと」の世界の事情やルールをよく知っており、困った時には相談に乗り、 いつだってその対処法を教えてくれる。

そんな「禁煙さん」もまた、子どもたちは心から尊敬し、愛しているのである。


自分が子どもだった頃のことを思い出してみても、子どもは子どもなりに、 けっこう世の中の事情というものにうすうす気づいていたような気がする。

理想は理想として大事だし、現実は現実としてまた大事なのだと。

「正義先生」に相談できることと、「禁煙さん」に相談できることは、その種類が違うと。

子どももまたその二つの世界を行き来しながら生きているわけで、それぞれ本気のところで教えてほしい、 先達に導いてほしいと思っているものではなかろうか。

少なくとも私が子どもなら、「正義先生」や「禁煙さん」のような大人が近くにいたならば、とにかく「安心」できたろう。

「世界」に、「生きてゆくこと」に、「安心」できる。

間違ってしまったときに「正しいこと」を諭して「道」に戻してくれる大人がいて、どうしても「悪いこと」をしなければならないときに 「その世界」での作法を教えてくれる人がいる。

そういう大人が「子どもたちの世界」のそばにいることは、子どもにとってどれだけ仕合わせなことであるだろう。

どちらも何もすぐ隣にいる必要はない。

「子どもが歩いて行ける距離」にいればいいのだ。


私はときどきふと思う。

今、「禁煙さん」のような大人というのは「子どもたちの世界」にいるのだろうか。

「禁煙さん」のような存在は、おそらく多くの親や大人たちが、子どもがそういう人と関わるのを必ずしも良しとしない類の大人である。

けれども「こども界の住人」には、「おとな界の住人」には相談できないことも起こりうるわけで、 そういうときにどちらの世界にも属さない「アジールの住人」としての「禁煙さん」が、子どもたちには必要だったりする。

周りの大人が建て前ばかりを語る、うわべだけの「正義先生」のような人ばかりであったら、 その中で子どもは誰にも相談できない悩みを一人抱えて苦しんで、思い詰めてしまうかもしれない。

そういうことって、けっこうある。

イヤ、きっとものすごくある。

「正義先生」は、その「正しさ」ゆえにできないこともあるのであって、そこをすくい上げてくれる「禁煙さん」 の存在が現実としてどれだけ支えてくれているか知れない。

「禁煙さん」のような存在ばかりでは困ってしまうかもしれないが、いなくなってもまた何かバランスが崩れてしまうような気がする。


たとえば昔なら、「実親」に相談できないことがあっても、「叔父(伯父)さん」という存在がいただろう。

叔父さんに相談に乗ってもらったり、親に直接言えないことをさりげなく遠まわしに言ってもらったりできた。

直系でない「ナナメ上の大人」が、もう少し子どもの周りにいたのである。

子どもの教育というものを考えたときにも、「禁煙さん」のように世の中というものにどこか斜に構えた「ナナメ上をゆく大人」 の在り方が、もう少し問われてもいいのではなかろうか。

どこに行っても基本的に「異邦人体質」 である私としては、ぜひとも「ナナメ上をゆく大人」として、子どもたちに接していきたいと思う。

物語の中では、そんな「正義先生」と「禁煙さん」という、一見対極的な二人の大人にまつわるエピソードも語られる。

それもまた心温まる素敵な物語であるけれども、ここでそれを語るのは野暮というもの。

本編にお譲りすることにしたい。


ちなみにこの『飛ぶ教室』は、ヒトラー率いるナチス党が政権をとった1933年に出版されたのだけれど、 この後ケストナーはナチス政権下において批判的な自由主義者であるとされ、国内での出版を禁じられた上に、 その著書を公衆の面前で焼かれたり、ゲシュタポに逮捕されたりと、思想統制の迫害を受け続けた。

けれども、他の作家たちがどんどん国外へと亡命する中にあって、ケストナーは連合軍が進攻し戦渦が迫るぎりぎりまでベルリンに留まり続ける。

そんな彼の「主張」が、というより順序を考えれば「宣言」が、この本の登場人物の口を通して語られている。

「すべて悪いことをしたばあいには、それをやったものばかりでなく、 それをとめなかったものにも責任がある」

踏みとどまった彼だからこそ、その言葉が重い。

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2007年05月20日

玩具Gun's Gang

横浜駅前に出ていた露店でこんなオモチャを買ってしまった。



木製輪ゴム鉄砲!

修学旅行先のお土産屋さんで小学生が見つけたらもう絶対買ってしまうであろうこんな玩具を、 三十路も過ぎたいい大人が興奮しながら思わずゲット。

いやぁ、いいよなぁ。こういうの。えへへ…(笑)。

でも、いじくってみて分かったけれど、実際かなりいい作りをしている。



そうそう壊れないように頑丈に作ってあるし、輪ゴムを撃ってみたらこれがきちんと狙い通りに飛ぶ。撃った時に音も出るし。

こんな安い玩具なのに(500円)、ひとつひとつ丁寧に作ってあるだろうことが思われる。

しかもいろいろ試していて気づいたのだけれど、この輪ゴム銃、なんと連発式!



一回トリガーを引くたびに、きちんと輪ゴムが一つ一つ送り出されて、連続してしかもどれもちゃんとまっすぐ飛ぶではないか。

なんてこった! すごいぜ!

中国製の玩具なんていったらなんだか子供騙しのちゃちなものばかりが目に付く中で、こんないい仕事をしている職人さんがいるなんて…。 ウルウル。

いろいろ言われるけれど、中国の職人さんもいい仕事してる人はいるよ。

(カンケーないけどGW頃に話題になった「例の遊園地」 も、HPを見てみたらさすがにキャラクターを変えたらしい)


ほかにもその時一緒に買った空気鉄砲と、このまえ浅草で買ってきた玉すだれ。



玉すだれの大道芸を見たことはあっても、実際に自分で触って遊んでみるとやはりまた新鮮な驚きと感動がある。

何より現れる曲線が美しい。

意味もなく玉すだれを青空に放り投げてみたりして。



私がいろんな玩具を買ってくるのは、そこに身近な物理(モノのことわり)が現れており、 それがひいては自分のからだに対する気づきになるからであって、断じて単なる趣味からというわけではない。

二度言う。

断じて単なる趣味からというわけではない。

講座に「でんでん太鼓」や「玉すだれ」や「びんざさら」や「逆さ独楽」や「ヤジロベエ」や、いろんな玩具を持ち込んで、 受講生に見せながら「いいでしょ。フフフ…」とにやけながら、それらの玩具を扱っている時の私の顔がキラキラ輝いていたとしても、 ただ趣味に没頭しているわけではない。

違うったら違う。

前にもブログで書いたけれど、「モノに学ぶ」 というべきものがあるのだ。

そういうことなのである。

そういうことにしておく。

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2007年05月14日

理想の椅子考

私の講座によく来てくれる方でMさんという方がいて、この方は身体障害者用の椅子をオーダーメイドで作る仕事をなさっている。

医師や作業療法士、カウンセラーや家族などの意見や要望を取り入れながら、その人のからだに合った椅子を作るのである。

たとえば何らかの理由で自立姿勢を保てないような方でも、椅子が姿勢をまっすぐにすることをサポートしてくれることによって、 一人でも座っていられるようになれば、行動範囲が広がる。

そのことがどれだけ本人や家族にとって仕合わせであるか分からない。

とても素晴らしい仕事であると思う。


そんな、それぞれ違う症状をもった人たちのからだに合わせて、一つ一つ吟味しながらオーダーメイドで椅子を作っているMさんは、 どうしたって人間にとっての最高の椅子とは何だろうかということを考えずにはいられない。

Mさんは言う。
「私はつねに最高の椅子を作りたいと願っている。」
「では最高の椅子とは何か?」
「その椅子に座っていると、からだの不具合をまったく意識しないで済むというのが理想である。」
「でも、もっと最高なものがある。それは、その椅子に座っていると元気になる、不具合がなくなる、という椅子である。」

う〜む。なるほど。ごもっとも。私も同意です。

そんなMさんと、デクステリティや、コーディネーション、アフォーダンス理論、 逆説的歩行など、 人間の身体運動の巧妙さについてお話をしていたら、おもむろに質問された。

「あのぅ、先生の考える『最高の椅子』って何ですか?」

…む。そうきましたか。こりゃ難しい。

しばし腕を組み、う〜む…とアタマをひねらせる。

「う〜ん…私の考えですけど、たぶん、可能な限り『不安定な椅子』になるんじゃないでしょうかね…。」

苦し紛れにそんな返事をする。


Mさん自身もおっしゃっていたことだけれど、じっと座っていると前に倒れてしまう、あるいは横に倒れてしまうというような方の場合、 それを支えるために、前にベルトを付けたり、横に背もたれを付けたりと、いろいろな機能を付与していくと、 どんどん座る人のからだを拘束するようにデザインされていってしまう。

たしかにからだ中をあちこちから支えていけば、その姿勢を維持するのにきわめて楽であろうし、 どんな方であっても座り続けることができるだろう。

けれども人間は物ではない。

生活するとは動くことであり、一つのいわゆる「理想的な姿勢」を保ち続けることが良いわけではない。

「理想的な姿勢」とは、現実には、刻一刻と変化し続けるものである。

よく雑誌などで「理想的な姿勢」などと言ってモデルがピシッと立っている写真があったりするが、あくまでもそれは生活の中の 「何もしていない一瞬」を切り取った、理念的な姿勢でしかない。

確かにスッと背すじが伸びた「立ち姿勢」は見ていて素晴らしいものであるが、 そのままずっと立ち続けているだけではただの木偶の坊であって、そこから自分の思うようにからだを自在に動かせるということが、 生活の中ではより重要なことである。

「軸がまっすぐ立っている」ということを、見る者に分かりやすく伝えるために、できる限りニュートラルな姿勢をとったのが、いわゆる 「立ち姿勢」なのであって、その「感覚」を身につけるために「立ち姿勢」を稽古することには意味があっても、「立ち姿勢」 そのものに深い意味はない。

その「立ち姿勢」のときに感じられる「ある感覚の測度」が、生活の中のさまざまな所作において活かされてこそ、 はじめて意味を持つのである。

いろんな姿勢をとった時に、そこにバランスが保たれている「からだ」。
自在にバランスを崩し、また瞬時に取り戻せる「からだ」。

それこそ目指すべき「からだ」のあり方であって、「姿勢」というものを固定的に考えては本質を見誤る。


そう考えてみると、椅子によってサポートを受けてバランスが崩れたままでもまったく違和感なく生活ができるということは、 たしかに楽で快適ではあるが、必ずしもその人のからだを「元気」に「健康」になる方向には導かないということに気づく。

「教育とは『適切な抵抗』を与えるということである」という言葉があるように、椅子が「自分の姿勢を制御しようという要求」 を呼び起こすアフォーダンスを備えていなければ、座る人をより「元気」にしてゆく教育的装置とはなりえない。

教育的効果を考えるのであれば、自分の姿勢をぎりぎり制御できる範囲までは「遊び」を持たせて、拘束から解かれているほうがよい。

自分のからだを自分で制御しなければならない状態を完全に取り除いてしまうことは、からだを萎縮させる方向にしか働かない。


私がMさんに「最高の椅子とは何ですか?」と問われたときに、苦し紛れに『可能な限り不安定な椅子になるんじゃないでしょうかね…』 と答えたのは、それゆえのことである。

「愛深くして為すこと多し」
と書かれた書を見て「僕ならこう書く」と言って、
「愛深くして慎むこと多し」
と書いた野口先生じゃないけれど、

手助けするのはぎりぎりまで我慢して、「任せる」ということも必要なのではあるまいか。


けれどもそうは言っても、どんな人間もさんざん立ったり歩いたりした後は、床に横たわってゆっくり休みたくなるように、 つねに自分のからだを制御することを強いられているのもまた、あまりにも過酷である。

それが自分でその椅子から立ち上がることのできない人間であるなら、なおさらである。

だから本当は「生活の椅子」と「安寧の椅子」で、それぞれ用途に合わせて若干仕様を変更することが望ましいのだけれど、 そういうことは現実的には難しいのだろうか。

あるいはスイッチを切り替えることによって、「生活モード」と「安寧モード」に切り替わるような椅子もいいかもしれない。

積極的に動きたいときは「生活モード」にして、ちょっと疲れて一休みしたいようなときは「安寧モード」にする。 そんなことができたら素晴らしい。


完全に「不安定な椅子」では、たんなるトレーニング用具であるし、完全に「安定させる椅子」では座る人を育てない。

モノが人を育て、人がモノの本質を引き出す「仕合わせな関係」 を構築するためには、絶妙な仕事が必要である。

その按配は人それぞれであって、現実にモノを作らなければならない人間にとっては、きわめて難しい課題であるだろうけれども、 ぜひとも目指していただきたい境地である。

ぜひぜひ、座る人にほどよく課題を突きつけてくる椅子をば。

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2007年05月04日

ハラスメントとフィードバック

ハラスメントは連鎖する』(安富歩・本條晴一郎、光文社新書、2007)を読了。

この本、もともと複雑系科学を専門とする二人の研究者によるハラスメント論という、やや異色の本であるけれども、前に著者の安富さんの著書 『複雑さを生きる』(安富歩、岩波書店、2006)を読んだ時に、その中で触れていたハラスメント論が面白かったので、 この本が書店に並んでいたのを見てふと手にとってみたのである。

読んでいて思ったが、これはまったく「呪術」の指南書である。

人はいかにして呪術にかかり、また呪術をかけるのか、そして呪術はいかにして解かれてゆくか。

悪用すれば人を思いのままに操ることのできる呪術者となりえようが、けれどもそう簡単に使いこなすことのできないのが「術」 というものである。

だから読んだからといって使えるものでもないのであしからず。

てゆうか人を呪っちゃいけません。人を呪わば穴二つ。


「呪い」とは基本的に、ある種の媒介を通じて相手をある空間(時間)に縛り付け、 そこから逃げ出すことができない逡巡状態にすることであるが、「ハラスメント」もまたまったく同じ構造をもっている。

というより「呪い」とはハラスメントに他ならない。

ハラスメントとは基本的に「人格に対する攻撃(否定)」と「その攻撃に気が付いてはならない」という、「否定」と「強制」の二つから成り立っていると著者は言う。

「呪い」をかけるときに人の寝静まった深夜(丑三つ時)を選ぶのは、その「呪い」をかけているさまを他人に見つかっては「呪い」の効果がなくなるからであり(あるいは自分に返ってくるから)、同じようにハラスメントもまたそれが効果的に働くためには、攻撃が隠されていなければならないのだ。


ハラスメントをかける人間とは基本的に、「相手に対する学習が停止している人間」であると著者は言う。

だから人はハラスメントをかけられると、「学習しない人間」に対する「無意味な学習の循環」の中に置かれることになる。

そのような情況になったときに、その場を去るなり抵抗するなりといった決断の下せない状態のまま居続けてしまうと、 やがて学習能力の麻痺が起こり、いつしか学習停止の状態に落ち込んでゆく。

世界にたいしてそのようなインターフェイスを構築してしまった人間は、もはや立派なハラッサー(ハラスメントを仕掛ける人間)として、 今度は自らハラスメントを周囲に仕掛ける存在となる。

それが「連鎖するハラスメント」である。


そのような「学習を停止した人間」が何を規範に行動しているかというと、「出来合いの物語」である。

それを著者は「パッケージ」と呼ぶ。

「パッケージ」とは、ある時間、空間で切り取られた、固定された物語、世界観である。

「パッケージ」はその本質からフィードバック機能がないので変化することはない。

いくつかのバリエーションを有していることはあっても、それぞれは変化しない。

そのような人間とコミュニケーションをとろうとすると、相手が採用した「パッケージ」が変化することはないので、 こちらが一方的に相手に対して学習能力を発揮することになる。

けれども「パッケージ」はあくまで「パッケージ」であるので、相手の本質に触れることはなく、 どこまで学習しても相手への理解が深まることはない。

相手はそのつど適当な「パッケージ」を採用しているだけであるので、相手がおもむろに違う「パッケージ」を採用することによって、 今までの学習成果が瓦解してしまうこともしばしばである。

「学習しない人間」というのは、他人が言う言葉はもちろん、自分が言う言葉に対しても学習(フィードバック)が閉じられているので、 他人の言葉に自分の価値観を見直すこともなければ、自分の言葉の矛盾点に疑問を抱くこともない。

「自らの行動(アウトプット)による変化が、再度刺激(インプット)となって、アウトプットを変化させる」というフィードバックは、 コミュニケーションにおいて、というより生物の成長にとって何よりも大切なことであるが、 それが機能しなくなってしまうというのは生命体としては致命的なことである。

現在、このフィードバックさえはっきりと認識できれば、 人間は血圧やアルファ波でさえもコントロールすることができるということが分かっていて、このフィードバックによる 「心身のコントロール能力」の会得という事実は、生命体の本質のとても深いところを示唆しているように思う。

『血圧を調整しているのは自律神経系だよね。自律という名前がついているように、 意識ではコントロールできない独立した神経系だ。本来であれば、「血圧よ、10下がれ」と念じたって血圧は下がりっこない。でも、 血圧を測定して現在の血圧を常に目の前に表示させてやると、血圧を下げたり、上げたりすることができるようになる。 これをバイオフィードバックという。つまり、自律というのは「フィードバックがない」という意味なんだよね。フィードバック、 つまり血圧値を本人に知らせるというシステムを作れば血圧でさえも意識でコントロールできる。もはや自律神経系ではなくなる。 脳波も同じで、「いまアルファ波が出ています」「いまは出ていません」って逐一教えてやると、きちんとアルファ波が出せるようになる。』
(池谷裕二『進化しすぎた脳』講談社ブルーバックス、2007、p349−350)


フィードバックの閉じられた空間とは、たとえば「こちらのアウトプットに対してセンシティブなインプットが返ってこない」とか、 「こちらのアウトプットに対して、返ってくるインプットに整合性がない」というような場である。

いくら血圧を上げようと努力しても、その努力の結果として血圧が上がったのか下がったのか知るすべがなければ、 血圧をコントロールする能力を身につけることができないように、共感や理解といった能力もまた、 その結果がフィードバックとして返ってこなければ、共感を構築するコミュニケーション能力を身につけることは難しいのではないだろうか。

不幸にも、ハラッサーばかりに囲まれて育ってしまった場合、コミュニケーションにおける適切なフィードバックに恵まれずに、 キメ細かなインターフェイスを構築する機会を逸してしまうかもしれない。

けれども訓練すれば血圧がコントロールできるようになるように、適切な情況さえ設定すれば、 人間の学習能力はいくつになっても起動すると私は信じている。

その場合まず、「学習する」という回路を学習しなおさなければならないが…。


世界とのフィードバックの結節点としての生命体は、世界と交感し続けることこそがその本質であり、本分である。

だからこそ、ハラスメントの起きている場のように「フィードバックの閉じられた場」に、その身を置き続けることが、いわゆる「生命力」 と呼ばれるようなものを磨耗させてゆくことにつながってゆくのだろう。

あらゆるコミュニケーションはハラスメントの可能性をつねに孕んでいるが、それを回避するためにも、 世界にたいして開かれた構えを忘れないでいたいものである。

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2007年04月23日

石に親しみ石に訊く

野口体操の石の会「石に親しみ石に訊く」に行ってきた。

会場は高円寺駅から歩いて程ないところにある、なんとも味のある古い木造の建物。

畳の部屋に所狭しと石が並んでおり、そのどれもが目を惹きつけて止まない。

何だかこんな変な石や…


まるで絵画のような化石…


毛虫みたいな結晶や…


ウミユリの化石…


ブラックライトを当てて光るウランの結晶なども…


羽鳥先生によると、野口三千三(みちぞう)先生は、とにかく石を集めるのが大好きだったそうで、 今回並んでいた大量の石たちは、それでもその一部でしかないというから驚き。

『からだは地球物質のまとまりかたのひとつであり、心はその働きかたのひとつである』とおっしゃる野口三千三先生は、 地球物質としての「からだ」ということをとても大切にしていたそうである。


なぜ体操の先生が石に魅せられ、また受講生に石を見せて、石を説くのか。

ともすれば忘れがちなことであるけれど、私たちは地球物質がいっとき集まってできた「物質体」であって、 地球上の物質大循環を構成する一鎖なのであって、 つまり私は地球上のあらゆる物質とその構成要素をともにする兄弟であるといっても過言ではないのである。

私たちのからだの中にある「ある働き」を特化させたカタチで見せてくれるもの。

石を見つめるということはまた、自分のからだを見つめるということでもある。

石を見つめているこの一瞬も、私は世界と分子レベルで混じり合い、交流しあっているのだ。

『安定同位体を使うと食物が体内でどのように代謝されるかを自在に追跡することができる。彼は、当初、食物を構成する分子のほとんどは、 生物体内で燃やされて排泄されるだろうと思っていた。ところが実験結果は違った。分子は高速度で身体の構成分子の中に入り込み、 それと同時に身体の分子は高速度で分解されて外へ出ていくことが判明したのだ。つまり、生命は、まったく比喩ではなく、「流れ」 の中にある。個体は感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思えるが、 ミクロなレベルではたまたまそこに密度が高まっている分子の、ゆるい「淀み」でしかない。その流れ自体が「生きている」 ということである。』
(福岡伸一『もう牛を食べても安心か』文春新書、2004、p14)


二階の一角には双眼実体顕微鏡なるものがいくつか置かれており、さまざまな石たちの表情をより大きく見つめることができた。

肉眼で見るのとはまた全然違う表情を見せる石たち。

携帯のカメラで撮れるかなぁ…と恐る恐るレンズに近づけ撮ってみたら、なんと予想外に綺麗に撮れた。

上手く撮るにはなかなか技術がいるが、それが逆に燃える。

しばらく四苦八苦しながら石たちを激写。


左から珊瑚、水晶、雲母、金。


こんな虹色をした石も。


そして琥珀に閉じこめられたウン万年前の虫。
題して「月夜に飛ぶ怪物」。


最後に、野口三千三先生の珠玉のお言葉を載せておきたい。


『自然現象の力に抵抗する能力を力と呼び、
そのような力を量的に増すことがいいことだ、
という考え方は傲慢の極みである。
力とは、自分自身のまるごと全体が、
本来の自然そのものになり切る能力のことである。

筋肉の存在を忘れよ…
その時筋肉は最高の働きをするであろう…。

意識の存在を忘れよ…
その時意識は最高の働きをするであろう…。

無数の巨大隕石の衝突によって、原初の地球は生まれたのだという。
その後も絶えず隕石などの宇宙物質が注ぎ込まれて、地球は成長してきたのだ。
その地球物質でできている私達のからだの全ては、
かつて隕石だった物質であるといってもよい。
隕石の中の鉄は、地球の核となっていると同時に、
私達の赤血球の中のヘモグロビンともなっている。
隕石は正に私達と血縁関係の
先祖であり、先輩であり、仲間だということになる。』


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2007年04月18日

結界の思想

シュタイナー学校の先生と、低学年の武道クラスのカリキュラムについて話をしていると、子どもたちの足腰の話になった。

子どもたちの足腰を育てるという教育的な観点から暮らしを見たとき、「しゃがむ」とか「正座する」とか、 そういう所作が暮らしの中に自然と入り込んでいると、とても理想的であると私は思っている。

家屋から日本間が減り、掃除器具や家電製品がどんどん進化していくにしたがって、 ほとんど立ってか腰掛けてかの日常所作だけになってきた現代では、なかなか生活の中で自然にしゃがむという機会は無くなってしまった。

それで子どもたちの暮らしの中に「しゃがむ」という行為の機会を増やすために、 ママさんたちにはよく砂場遊びなどを勧めているのだけれど、砂場遊びなどは砂場の砂をいじるために必然的にしゃがまなければならないので、 遊びの中に自然と腰を育てる「からだそだて」が入ることになるのである。

けれども、シュタイナー学校の先生によると、子どもたちの最近の傾向として、 砂場で遊ぶときにぺたんと地面に座ってしまう子どもが多い、という。

昔の子どもたちに比べて、足腰が弱くなってきたということもあるかもしれないけれど、どうも最近の子どもたちは 「自分のからだが汚れる」ということについて無頓着であるような気がするんですよね、という先生の発言に、私も思うところあり。

それで、

「それは今の暮らしの中に『汚れ』とか『穢れ』とかいう、『結界(境界線)を意識する思想』 が無くなってきたということも背景にあるのではないですかね?」

と訊くと、

「そう。そうなんですよねぇ…」

とおっしゃる。


「汚れ」とか「穢れ」という思想は、「本来触れてはならないものに触れた」とか、「入ってはならないところに入った」というように、 さまざまなところに「境界線」を見出す文化的背景から生まれてくる感覚である。

昔は家の中においても、床框、座敷、廊下、玄関、門戸と幾重にも張り巡らされた境界が存在し、 そのつど振る舞いを変えなくてはいけないという重層的な「作法の空間」が存在した。

(わずか数メートルの廊下を歩くためにいちいちスリッパを履く日本人の感性が、 欧米人には意味が分からないという話を聞いたことがある。言われてみればそうなんだけど…)


そしてその中でもとくに特別な空間として、それぞれの家には仏間があり、神棚があり、床框があり、 そういうところははっきりと別次元の空間として存在していて、「この境界線はまたいではいけない」とか、あるいは 「いったんまたいだら日常のままの振る舞いではいけない」という決まりごとが、そこに住む家族の中で共有されていた。

そのように、かつてはどの家にも必ずウチの中には内包されたソトがあり、 それら振る舞いの次数を一つ繰り上げなければならない空間(ひとつソト)で、次数の低いままの振る舞い(ウチの振る舞い)をすることは、 礼を失しているとされ、またそのような振る舞いをすると場が乱れ、汚れ、穢れるとされたのである。


ところが、そういう境界というのは「幻想である」という近代合理的思考の元に、家の中においてもどんどんグローバル化、ボーダレス化が進み、 仏間がなくなり、神棚がなくなり、畏怖すべき聖なる場所(ソト)がなくなって、「越えてはいけない境界」や、 「越えたら振る舞いを変えなくてはいけない境界」がどんどん消えていってしまった。

たしかにそれらは、長い年月のうちに徐々に構築されてきた文化的産物であり、同じ文化的背景を持たない者には存在しないにも等しい、 あわいな境界線であるかもしれない。

そういう意味では幻想といえば幻想だけれども、長年消えずに代々受け継がれるような幻想は、 そこになんらかの機能があるからこそ残されているものである。

というよりむしろ、「幻想である」という事実そのものが、ある種の機能を果たしているようにも私には思えて、そこに「ある境界線」 がはっきりとしたカタチを持っていないからこそ、そこに自ら境界線を見出さなければならない、という、人の注意力、空想力、 構築力を賦活する教育的システムがあったのではなかろうか、と私などは思うのである。


そのような「境界線」や「間合い」というものがいたるところでうつろいゆくボーダレスな現代、「線引きできない」 ことによる問題がどんどん増えてきているように思えてならないが、そこに今まで伝承されてきた「結界の文化」が担ってきた役割を、 いかにして現代の中に引き継ぎながら生かしてゆけるかを考えてゆくことが、解決の糸口を探ることになることと思う。


ちなみに結界とは、まずその場を示(標)し、占めて、締めて、〆るものであり、とにかくシメルものなのであるが、その際、 シメルものは縄であったり、紙であったり、木であったり、石であったり、柱であったり、音であったり、言葉であったりと、 じつにさまざまである。

個人で自らに結界を張る場合、それらを用いることも当然あるが、何を用いるにせよ何よりも一番大事であるとされるのが、いわゆる「氣」 と呼ばれるものである。

「氣」で張る個人的な結界。

それを「けじめ」(氣・締め)と言う。

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2007年04月10日

シュタイナーと武術と言語

この4月から、都内にあるシュタイナー教育を実践している学校で、武道のクラスを担当することになった。

今、それに向けてのカリキュラム作りをしているのだけれど、シュタイナー学校で武術を教えるというのも、 なかなか面白い組み合わせである。

シュタイナー教育ではオイリュトミーというものが教育的身体操作の要になっているけれども、 もともと西欧的な文化背景から生まれたものである上に、「見える言葉」として組み立てられたオイリュトミーは、 その骨子をドイツ語文化に深く根ざしているので、発音も文法も大きく異なる日本においては、どこまで忠実に取り入れ、 どこから独自の在り方を探っていかなければならないのか、大変むずかしい問題である。

「言語構造」とは、そのままその言語使用文化圏の「世界構造」を現しているのであって、「使用言語が違う」という事実は、 想像以上にお互いの「世界の違い」を生み出しているもの。

シュタイナー自身は、それぞれの言語においてのオイリュトミーの発展については、わずかながらの示唆を残しているだけであり、 そういう意味では、日本における教育としてのオイリュトミーのあり方は、 日本でシュタイナー教育を実践していこうという人たちが試行錯誤を重ねながら、これから作り上げていかなければならない大きな課題である。


そんなところに、オイリュトミーとはその出自をまったく異にする、地へ地へと沈んで腰肚を作ってゆく「武術」 という日本的身体操作をカリキュラムに入れてゆくというのは、ある意味チャレンジでもある。

とりあえず子どもたちの「からだ育て」という観点から考えれば、ほとんどすべての武術が目指すべき目標として定めている「腰を作り、 肚を育てる」ということを中心にして、カリキュラムを組み立てていくことになるが、 オイリュトミーが言語に対応して組み立てられているのであれば、 武術カリキュラムもまた言語に対応して組み立てられるのも良いのかもしれない。


『私は 本を 持っている。』
『I have a book.』

ともに同じ光景を表すセンテンスではあるが、『私は 本を…』というところまで聴いた時に聴き手の脳裏に浮かぶ像と、『I have a…』というところまで聴いた時に浮かぶ像。

日本語の表現が、まず「私」と「本」という二つのモノを心象に呼び出してから、最後にその「関係(持っている/持たれている)」 を描き出すように語られるのに対して、英語の表現では「私」が「持っている」という、「主体の行動」をまず描き出してから、最後にその 「行動の対象(本を)」が描かれるように語られるということ。

それらのちょっとした違いの空想の積み重ねが、脳内の思考回路の使い方の癖になっていったとしても何ら不思議なことではない。

武術やオイリュトミーが身体の使い方の「型」となるならば、言葉は精神の使い方の「型」である。

実際それぞれの文化において、何に重きを置かれているかを考えてみれば、いろいろ気づかされることもあるかもしれない。


枯山水の石庭のように、玉砂利を敷き詰めただけの何もない広い空間に何の変哲もない岩をポツリポツリと置いて、 廊下を歩きながらその配置や関係性が微妙に変化してゆくさまを見て愉しむ「日本的感性」は、そのまま「日本語的感性」 でもあるような気がしてならない。

だからこそ日本語においては、その二者の「関係性」を描き出す「敬語」という表現が発達し、仮に主語が抜け落ち、 二者の姿がまったく見えなくなったとしても、その「関係性」だけは容易に空想できるような構造を持ったのではないか。


関係性を重視し、関係を描き出す日本語。

そしてそれに対応するような身体操作とその稽古の構築。

どこまで実践していけるのかは分からないけれども、なかなかやりがいのある仕事ではある。

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2007年04月01日

チェリー&ピース

庭の桜が満開だ。


窓から見える桜を見つつ、「そういえばここに引っ越してきたときもちょうど桜が満開だったなぁ」とふと思い出す。

と同時に、「朝の掃除が大変になるなぁ」という思いも浮かぶが、そういうことはすぐさま脳内から消去して、 目の前の桜の美しさにしばし見惚れる。ほぅ…。

刹那に込めた渾身の乱れ咲き。

  さくら
          さ く ら
                          さ  く  ら


あんまり気持ちがいいので、もっと桜を観に行こうと部屋を飛び出す。

コンビニでYEBISUを買って、代々木公園へ。

NHKの前の広場を歩いていると、どこからか耳に懐かしいフレーズ。


見れば路上で女子が中島みゆきの『ホームにて』を歌ってる。

お、いいねぇ。ちょっと呼ばれていこうか。

近くの植え込みに腰掛けて、酒袋の布でできた柿渋バッグから、 先ほど買ったYEBISUを取り出しパキョンと開けて、グビグビ飲みながら『ホームにて』に聴き入る。

う〜ん…いい歌だ。しみじみ。

学生時代、下宿でよく聴いてたなぁ。


しばし聴き入ったあとに、いざ代々木公園に行ってみると、そこは人、人、人。


うへぇ…こりゃすげぇ。

二本目のYEBISUを開けてグビグビと飲みながら、人ごみを縫い縫い、そぞろ歩く。

そぞろ漫ろ。

しかし、さすがは代々木公園。

老いも若きも男も女も、日本人も白人も、韓国人も中国人も、フィリピン系もラテン系も、あちこち混じり合って超多国籍な花見大会。

今や桜を見れば踊り出すのは、日本人だけではないらしい。

花を愛でる文化が広まるのは大いに結構だが、散らかして帰る無作法だけは真似せぬよう願いたい。

人の去った桜を清める 名も知らぬ人を想え。


ついでにオマケ。

暗くて見づらいが、新宿の夜の横断歩道に落ちていた熱きメッセンジャー。


巨きなものたちに蹂躙されながらも、歩行者に「Peace(平和)」を贈る者。

おお、お前こそ愛である。

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2007年03月24日

シンデレラボーズ駆け巡る

20日。

後輩の学生たちの卒業式。

夜に卒業祝いの飲み会を行うというので、日本酒片手に顔を出す。

卒業生みんな晴れやかな顔で進路先の報告をしてくれる。

ちょっとばかり足踏みしての卒業生もいたけれど、今年の卒業生はみんなそろって進路先も決定し、なかなか上々の出来。

ウチらの時なんてもっと、「オマエどうすんの? てゆうかオレどうしよう?(笑)」的な状況だったような気もするし、 それに比べればはるかに優秀だ。

みんなホントにいい顔していて、見ているだけでこちらも嬉しくなってくる。


目を潤ませながらの卒業生一人一人の挨拶は、こちらも胸に込み上げてくるものがある。

一人一人の挨拶が終わるたびに、そのこらえる涙を隠してあげようと、親切にもみんなでバシャバシャと日本酒やらビールを浴びせる。

涙は酒で隠すのが一番。 酒が目に沁みるぜ。チキショー。

「このスーツ、会社でも使いたいんでシャワーだけは…。」と慎ましく遠慮していた女の子もいたけれど、 その言葉を聞いてみんなお互い目くばせした瞬間、「それは『ぜひかけてくれ』ってことだろう」という暗黙の合意が瞬時に共有され、 挨拶が終わるや否や、やっぱり「おめでとう」の酒シャワー。

おめでとう! バシャバシャ! キャー!

うむ。以心伝心。仲良きことは美しき哉。

こうして、「瞬時に肚をくくる」というイニシエーションが毎年繰り返され、 卒業生たちは丹田の満ちた状態で社会の荒波へと送り出されるのだ。


卒業生挨拶の締めをくくった大学5年生のTくん。

いろいろあって一年足踏みをしながら卒業を迎えたTくんの言葉には、その場にいた全員それぞれの想い極まり、涙がその場を包んだ。

うん、いろいろあったね。

でもみんなの支えがあって、今こうして素晴らしい門出を迎えられる。

ホントに仕合わせなことだと思う。

二人で話していたときにキミは、「こんなに仲間や先輩にお世話になってどう返していけばいいのか…」と言っていたけれど、 恩は直接返すものじゃない、というより返せるものじゃない。

めぐりめぐって返ってゆくものなんだから、流れる方へ流してゆけばいいんだよ。

先輩に受けた恩は、後輩に返す。

やがてその後輩がまたその後輩にと、「連綿と続く流れ」 がある。

先輩には礼を尽くせばそれでいい。

キミは絶対いい先輩になるよ。確信してる。


前途洋洋の若い彼らに自分を重ねて感極まって、睡魔、あるいは酔魔に襲われ意識を失うまで飲みまくって、 彼らを祝福したいところであるけれど、明日朝イチの新幹線で大阪に行かなくちゃいけない私は、終電を逃すわけにはいかない。

からだ中からお酒の匂いをプンプンさせてる卒業生を、一人一人ギュッギュッと抱きしめながら「卒業おめでとう!」と言祝いで、 後ろ髪を引かれる思いで(ってボーズだからつかめないけど)帰路につく。

家に帰っても興奮冷めやらず寝付けないので、さらに一人祝杯を挙げて酔いを重ねる。

だから、朝早いっちゅうのに。


21日。

昨日の酒も残ったままに朝早く起き出して、品川から新幹線に乗っていざ大阪へ。

私の師匠である河野先生が出演される大阪舞台公演のお手伝いのためである。

武術家である私の師匠と、観世流シテ方の能役者の梅若基徳先生、日本のベリーダンスのパイオニア的存在である海老原美代子先生の、 武術、能、ベリーダンスの異色のコラボレーション。

演目は「天之岩戸」。

音楽には、能の地謡と囃子方のほかに、劇団四季のミュージカルの作曲も手がけるパーカッショニストも加わって、 超盛りだくさんな貴重な舞台であった。

能と武術のような身体技法のコラボレーションはこれからもっとバンバンやっていって、 日本の伝統芸能の世界ももっともっと活力を湧かしていけるとホントにいいなぁ。

今回の公演では久しぶりに会う人たちや東京から駆けつけてくれた人たちも大勢いたので、入口近辺をウロウロウロウロ。

記念Tシャツや手拭いなど販売しながらいろんな人と挨拶を交わすのは、手と口とアタマを同時に別々に動かす稽古になった。

遠くからはるばる来てくださった皆さん、ホントにありがとうございました。ペコリ。


公演が終わって片付けをしていると、あっというまに新幹線の終電の時間となってしまう。

次の日もまた朝から東京で仕事がある私は、やはり今日中に東京へ帰らねばならない。

シンデレラボーズは辛いぜ。

ケツをまくるようにして会場を飛び出しタクシーで荷物を運んだら、すぐさま新大阪へ。

新幹線の発車までのあいだに、一緒に東京まで帰るNさん、Sさんと駅のおみやげ屋さんをめぐり、「蓬莱」の豚マン、「くくる」 のたこ焼き、にごり酒、ビールにおつまみを次々と買い揃え、車内での打ち上げ準備万端にして新幹線に乗り込む。

今ごろ他の人たちは公演後の打ち上げで盛り上がってるはず。

こっちも負けてたまるかとガンガン飲んで、バカバカ喰って、ゲラゲラ笑う。

でも昨日から酒をガンガン飲んで、心情も大きく動きまくってくたびれたのか、途中で寝落ち。

カクン、グー。


22日。

今日は大阪舞台公演を終えてそのまま大阪に残る河野先生の代行で、朝カル講座。

朝カルで武術を教えるのは初めてだ。

いつも作務衣を着ている自分の講座から道着と袴に変身し、まだ誰もいない教室をウロウロしながら今日の講座でやることを考える。

都知事選の公示だか何だかで、目の前の都庁が賑やかだ。

しばらくして講座の担当Mさんが顔を出すと、私の格好を一目見るなり「お、センセ〜!(笑)」と声を上げる。

何ですかその(笑)は。確かにいつもとカッコは違いますけどね。ふん。


やがて受講生も集まり、時間となったので講座をはじめる。

何をやるか漠然としか考えていなかったけれど、私の口は便利なものでしゃべり出すと次から次へといろいろ出てくる。

初めて会う人たちも多かったけれど、「武術家の端くれとして、いついかなる時も、どんな質問に対しても、 見事さばいて受け答えしてみせますから、いつでも質問してください。常在戦場。」といきなり大風呂敷を広げてみせる。

こういうのは先手必勝だ。

大風呂敷にゲラゲラ笑った受講生は、もはや私の術中である。掌握。


この平和の時代に武術を稽古することの意味やら、型というものの在り方、「モノ」ではなく「つながり(関係)」 に焦点を当てるということなど、ベラベラしゃべっていると話は武術に収まらず、日本文化的な中空思想に発展してゆく。

枯山水の意味、言葉の奥を見ること、感覚の孤独、自分の言葉をもつこと、中心には何も置かないこと、…etc.etc.

話ばかりでも何なので、途中でからだを動かす稽古に入りながら、すっかり2時間だと思って講座を進めていたら、 途中から参加してくださっていた朝カルのNさんに「時間過ぎてますよ」と注意が入る。

え? あれ? 1時間半でしたっけ?

「わぁ、みなさんスイマセン!」と謝ったら、みなさん笑ってくれた。

どうやら怒ってはいない様子。ホッ。

でも、言われなかったら気づかなかった。怖ろしい。くわばらくわばら。


朝カル講座代行を終えて、なんだか身心ともに駆け巡る3日間を無事終了。

ふぅ。 でもこういうのもたまには面白い。

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2007年03月16日

初雪5分

昨日から突然風邪を引いて、朝からからだが重い。

うりゃーと気合を入れて外に飛び出ると、まるで冬の朝のように寒い。

外周りをホウキでサッサカ掃除していると、視界の脇を白いものがヒラリ。

「ん?」と思い、しばし掃除の手を止めて、じっと中空を見つめていると、ごくたまに空から小さな雪がチラリ、そしてホラリ。

「お、ひょっとして初雪?」

…と思うや否や、くしゃみが一つ。


あとでネットを見てみると、こんなニュース。

『【東京都心で初雪、観測史上最も遅い記録を更新】 3月16日9時31分配信
気象庁は16日、東京都心で今季初の雪が観測されたと発表した。1876年(明治9年)の観測開始以来、 これまで都心の初雪が最も遅かったのは1960年2月10日で、この記録を47年ぶりに1か月以上も塗り替えた。昨季より95日、 平年より73日遅い。日本付近に今週、寒気が居座り、本州の南海上を通過する低気圧の影響で、東京・大手町では午前7時から約5分間、 みぞれが降り、初雪の観測となった。』
(「読売オンラインニュース」 より)


なんと、観測わずか5分の初雪。

そんな貴重な初雪を5片目視し、1片おでこに受け止めた私は運がいい(笑)。

なにかイイコトあるかも。

でも、みぞれじゃなかったけどな。まぁ場所と時間によるか。


ついこのあいだ散歩をした代々木公園では、梅が咲き、 桜のつぼみも樹によってはまさにはちきれんばかりの勢いでふくらみ、爛漫の春をすぐそこに感じさせる様子であったけれど、 そんな矢先の初雪の報。

三寒四温。自然のリズムはゆっくりと。3歩下がって4歩進む。

ズルズルと出る鼻水をかみながら、「お待たせいたしません!」が至上命令の現代に、「じっくりと心待ちにする」ことの意味を思う。

「待つ」って大事だよなぁ。

…と思うや否や、くしゃみが一つ。

うぅ…症状がだんだん花粉症みたいになってきた。


今日は横浜で仕事である。

なので、鼻をズルズルとすすりつつティッシュを大量に消費しながら横浜へ。

ズルズル、ブー。

脇に小川の流れる素敵な感じの遊歩道をテクテクと歩いて作業所へと向かう。



小川のせせらぎがボーッとする頭に心地よく響く。

作業所に着くと、ちょうどお昼の支度の真っ最中。

作業所では、いつもそこに来ているメンバーの人たちと一緒にお昼ご飯を作っているのだけれど、 今日の献立はロールキャベツ。

「お肉入れすぎだよ〜」、「キャベツやぶけてる〜」、「じゃあ二枚重ね」、「二枚重ねってトイレットペーパーみたい(笑)。」 とか言いながら、みんなでワイワイとキャベツをロールする。

巻き巻き。

とても個性豊かなロールキャベツたちに、生態系の豊かさを感じる。

みんなで和やかにお昼ご飯を作って、一緒に美味しくパクパク食べていたら、気づけばいつのまにか鼻も止まり、くしゃみも出なくなった。

おお、すごいぜ、みんな。さすが豊かな生態系はホメオスタシスも活発だ(笑)。

みんなの元気と笑顔のおかげで元気百倍だよ。ありがとう。

からだに任せてただ愉快に経過を待ってれば、素直に経過するもんだ。

また一つからだに教えられてしまった。

<追記> …と書いたら今朝(17日)もちらほら舞っていた。
       卒業シーズンの雪もまた風情。

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2007年03月11日

ディテールに宿るモノ

たとえば、ある空間に入ったとき、床に目をやると、そこにはきれいに掃き清められて塵一つ落ちていない床が広がり、 奥のほうには美しい花が生けられ、ふと息を吸い込んでみたらどことなくほのかにお香の香りがしたようなそんな気がしたとき、 何とはなしにフッと身が引き締まり厳粛な気持ちが湧き起こってくるのを感じることがある。

その場の何がしかの雰囲気を敏感に感じ取って、からだが反応する。

それは人間が言葉以前の働きとしてもっている本能的な反応である。


空間というものは、微細でキメ細かい情報で覆われている。

私たちは、そのような周囲の環境に散りばめられた微細な情報をつねに感じ取ってはいるが、 それら一つ一つが意識にまでのぼってくることは少ない。

細部が発する膨大なメッセージは、私たちの意識にはのぼらずともからだはきちんと感覚しており、 そのようなメッセージを無意識のうちに受け取った私たちは、やはり意識もしないうちに反応し、 無意識のうちに身心の構え(モード)を変えたりする。

建築やデザインの世界でよく言われる言葉に「ディテールに神が宿る」というのがあるけれど、 ディテールというのはそのモノの縁(ふち)であり、肌理であり、インターフェイスであり、境界であり、 まさに何がしかが生まれる命のほとりであるのであって、そこに「神が宿る」というのも頷ける。

フラクタル図形(⇒Wiki)のディテールなどは、 整数次元から小数次元へと展開する無限小の世界であり、それは鏡と鏡を向かい合わせたような無限回廊のごとき、神秘の世界が宿っている。

そのような私たちの通常意識では「捉え切れない」「名付けることのできない」、淡いで微細でキメ細かな囁きたちは、 ビブラートのように倍音声明のように、自己干渉し、共鳴しながら、私たちの感覚に働きかけ、 それと意識することすらできないうちに多大な影響を与えることになる。

ときに美術館や遺跡などで、その芸術的な作品のディテールが洪水のように襲い掛かってくるのに圧倒され、絶句し、 呆然と立ち尽くすような経験をすることがあるが、その「表現の隙間」から一斉に零れ落ちる「意味の雪崩」を浴びて全身打ち震えるのは、 ある意味ひとつの禊(みそぎ)のようなものであるやも知れない。


先ほどのような空間に散りばめられたさまざまな室礼(しつらい)は、ある誰かの意思の下にしつらえられたものであり、そこには「気の集注」 というものがある。

それを無意識のうちに感じ取った私たちは、その「気の集注度合い」にその場の神聖さを感じ取り、おのずと背すじを正してしまう。

空間のディテールには、それをしつらえた人の魂が宿っており、それが見る者に伝わるのだ。

あくまでもさりげなく。けれどもキメ細やかに。

見る者がそれと気づかなければ気づかないほど、その宿るモノはその人の意識をくぐり抜けてからだに直接働きかける。

安寧として、あるいは違和感として。

「何だかよく分からないけど落ち着く」とか、「何だかよく分からないけどソワソワする」とか、それらの「何だかよく分からない」 部分というのは、多く見過ごされてしまいがちであるけれど、じつはとても大切なモノを含んでいたりする。

言葉にならないところを、あえて言葉にしないままに抱えるということ。

「漠然」や「矛盾」をそのままに抱えるのは、白黒はっきりつけたがるアタマにとってはきわめて不快な状態であるので、 ときにそれらはまるで「悪」のように捉えられるが、そうして単純に二極化することで失われてしまうモノも多いのではないか。

からだのことに関わる人間として、そこの部分こそを一番丁寧に大切に取り扱いたいけれども、これほど繊細で難しいこともなく、また、 これを他人に伝えるのはさらなる困難を極める。

意識にのぼることはないが、からだが感じているであろう微細で膨大な情報群に、そっと優しく触れて、そのままにすくいあげる所作。

それを丁寧に探りたいと思う。


ところで、この「気の集注度合い」というのは、誰しもほとんど本能的に敏感に感じ取っており、そしてまたそれを欲するものであるのだな、 ということは多くの赤ちゃんを見ていてつくづく感じさせられる。

私は小さな子どもたちと接する機会が多いのだけれど、どの子も必ずママの「お財布」と「携帯電話」がとても大好きだ。

ママの手からお財布をひったくっては、中のお札を全部引っ張り出し、カードや領収書も引っ張り出し、 それでもまだ何か中に入っていないか懸命にいじくるさまを見ていると、自分の大好きなママの注意を一身に集めている、この小さな物体の「謎」 を解いてやらんとする探求者のように思えてくる。

全部引っ張り出してみても、ママの注意を一身に集める「秘密」は一切出てこないので、子どもは「何にもないよ?」 とママの顔を見つめたりして、はたから見ていると思わずおかしくなってしまう。

私はそんなさまを見ていると、

「謎だよねぇ。何でママはそんなものを大事にしてるんだろうねぇ。 その謎が分かれば今よりもっとボクのこと大事にしてくれるかもしれないのにねぇ〜(笑)。」

と、思わず共感の意を表してしまうのだけれど、「どこに意識が集注しているのか」ということに関して、 人間(特に子ども)は驚くほど敏感である。

新しいオモチャにみんなの意識がフッと集まると、今まで絶対に手放さなかったオモチャですらとたんに興味をなくして、 みんなの注意を一身に集める新しいオモチャを、突然「欲望」し始めるさまなどは、見ていると「人間の欲望は他者の欲望である」 というラカンの言葉を髣髴とさせる。

さまざまな人間関係のうちにこのコトを観るようになると、人間関係はまた、まったくちがった様相を示すようになって面白いのだけれど、 そうして私の中で世界はますます「流体」へと変貌してゆく。

いざ、もののあはれの世界へ。

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2007年03月05日

贈与の霊力

中沢さんと茂木さんの朝カルの対談の予習にと思って読んでいた『対称性人類学』(中沢新一、講談社選書メチエ、2004)の中に、こんな一節があった。


『交換の場合には、商品とそれを売る商人とのあいだには、 何の人格的絆もありません。またそういう商品をなかだちにして売り手と買い手が交換をおこなったとしても、 ここでも何の人格的関係も発生しません。つまり交換は物と人、人と人とを分離する働きがあるわけです。「贈与の環が動くとき霊力が動く」 という古い表現には、贈与物が移動をおこすとそれにつれて高次元的な流動する力まで動き始め、 社会全体に停滞を打ち破る流動が発生するという感覚がこめられていたものですが、交換の場合にはこういうことはおこりません。 交換にはエモーションが介在する必要がありません。それはいたってクールな経済活動なのです。
そのかわり、私たちの生きている資本主義社会のような「巨大な商品の集積としてつくられている社会」(マルクス)では、 面倒くさい物と人との人格的絆などから解放されたおびただしい量の商品が、社会の表面を勢いよく流通していくことによって、「魂の流動」 ならぬ「富の流動」がおこっているように感じられます。贈与的社会では魂が、資本主義社会では物質化された富が流動することによって、 それぞれの社会は活気づけられているわけです。』
(中沢新一『対称性人類学』、講談社選書メチエ、2004、p96)


「贈与の環が動くとき霊力が動く」。

う〜む…。 とても意味深い言葉であるなぁ。

「等価交換の原理」が支配的な現代社会、この言葉の持つ意味を今一度考え直してみる必要があるのではなかろうか。


贈り物が動くとき、そこには計量不可能な価値が浮かび上がる。

それはつまり、相手に対する感謝であったり、激励であったり、便宜であったり、ときには威圧であったり、 さらにはそれらの複雑に入り混じったような、曖昧で計量不可能なものが贈り物に付与され、相手に贈られるのだ。
(交換においては、そのような計量不可能なものは「無いもの」として扱わなければ、交換ができなくなってしまう)

私たちの社会では、贈り物に付与されたその計量不可能な価値は、計量不可能なままで取り扱うというのがマナーであって、 それを精確に査定することはマナー違反とされる。

贈り物を受け取ったとき、すぐさまそのお礼の品を返すのは失礼なのである。

なぜならそれは、「あなたの贈り物は私にとってこれくらいの価値ですよ。」とただちに査定し、即答しているということに他ならず、 祝ぐべき「贈与」の霊性を剥ぎ取って、透明な「等価交換」へと貶めてしまう行為だからである。

人が贈りものを贈られたときに、「こんなにして頂いて、なんとお礼を申し上げればいいか…」とぺこぺこお辞儀をして恐縮し、 自らの返礼能力の無力さをことさらにアピールするのは、「あなたの贈与は、私が全身全霊を込めてもまだ足りないほどに偉大である。」 という査定不能の意思表示をするためなのである。


それでも返礼せずにはいられない人間は、せめて「贈与」と「返礼」のあいだに「時間」という不可逆的なファクターを挟み込んで、 それらを決して回収することのできない不可逆的なやりとりにすることによって、相手の「贈与」 の価値を拝して一段高いところに置くという儀礼を行なうことにした。

そうして私たちは、一度生まれたその「借り(恩)」の落差を、決して清算しつくしてしまわないようにすることによって、 次なる運動を生み出すためのきっかけとしているのだ。

「贈与」の意義は、「交換」の中でエントロピーが増大し徐々に停滞してゆく運動に、インパクトを与え、差異を生み出し、新たな「流れ」 を生み出すというところにあり、それは新たな命を生み出すという意味でやはり「霊力の動く」ところであり、世界各地の宗教で「贈与」が 「霊的な行為」として位置づけられる所以でもあろう。


私たちは経済活動をより活発にしていくために、「物」の流通をよりスムーズに、速やかにしようと経済構造を作り上げてきた。

その中で、「物」の流通を速やかにしていくために、先の「贈り物の例」に代表されるような「物」 に付随する雑多な情報や価値を一元化し、共通の通貨(貨幣とか貝とか米とか)でもって数値化する、ということを考えついた。

人間の行う生産活動やサービス活動には、そこにあまりにも多くの物や人が関わり、多くの情報や価値が含まれることになるわけで、 ほんらいからして数値化に馴染むものではない。

がしかし、私たちはあえてそれら雑多な情報をばっさり切り捨て、一つの物差しで計り直して数値化してゆくことによって、 すべての生産物、サービスを交換可能な状態へともってゆき、それがすみやかに流通することを可能にした。

物やサービスをすばやく流通させ、普及させるために考えうる戦略としては、たしかにベストな選択である。


けれども、そのような物やサービスに含まれたディテールを削ぎ落として限りなくフラットにしてゆく社会は、突きつめれば、「 “交換不可能なもの”はない」世界を目指しているわけで、それは言い換えると「“欠けがえのないもの”はない」世界であり、「 “金で買えないもの”はない」世界である。

“交換不可能なもの”、“欠けがえのないもの”、“金で買えないもの”はどれも同じ意味であり、 それらがない世界というのはつまり、 すべて“交換可能なもの”、“代わりのあるもの”、“金で買えるもの”で構成される世界のことである。

アタマで考える限り、これほど便利な世界もあるまいが、残念ながら人間はどうしたって、そのような帰結に満足できる存在ではない。

少なくとも私は嫌だ。

もし人間が細胞分裂して繁殖する生命体であったなら、 ひょっとしてその経済システムで幸福な社会を作り上げることができたかもしれない。

けれども幸か不幸か人間は、「時間」をもち、「個」をもち、「個の死」をもった存在なのであって、「欠けがえのない存在」 でありたいと願う私たちにとって、「代わりの存在などいくらでもいる」と宣言されることには、どうしたって抵抗を感じないではいられない。


一時期、日本各地でも盛んに行なわれた「地域通貨(⇒Wiki)」という試みがあるけれど、うまく継続してゆくことができずに、 そのまま立ち消えしていった事例も多い。

それらの失敗の背景には、「地域通貨」という試みが、「交換」の原理に「贈与」 の原理をうまく組み込もうという試みであるにもかかわらず、結局、根本的なところで、「その場で支払いが清算される」という、「交換」 の原理をベースにした経済モデル(無時間モデル)から、今一歩踏み出せないでいた、ということがあるような気がする。

どのような形になるかは想像できないけれど、通貨のやり取りにうまく「贈与性」あるいは「時間性」を組み込めれば、 何かもっと違う形の経済モデルが浮かび上がってくるような気もするが、果たしてそんなにうまく行くかどうかは謎である。

「贈与」と「交換」の、いい塩梅を探りたい。

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2007年02月25日

アウェアネスを磨く

哲学、 脳を揺さぶる』(河本英夫、日経BP、2007)を読了。

いやぁ、これまたオモシロイ本であった。

まったくもって毎度のことながら、オモシロイ本にばかり出会うことに我ながら感心してしまうが、それは何も私に 「素晴らしい本を選ぶ慧眼」が具わっているというわけではなく、 いつもそのつど何かしらご縁のある本を手にとって読んでいるというだけであるので、別段驚くには値しない。

ずいぶん前にも書いたことがあるが、 ちょうど今「ご縁がある」と思って読む本は、読み手である私の側が、読むにあたって「本に対して開かれている」ので、 すでに受け入れ態勢ができていて、言葉に対する感受性がすこぶる高まっている。

なので、ことあるごとに、

「おお!これは! やはりこの本は今、私に読まれるべき本であったのだな。なるほど。ふふふ…(笑)。」

と感奮極まりながら読み込んでいくので、読む本すべてが「運命の本」と化してしまうのだ。

「物事をポジティブに捉え、ポジティブに発揮する」というのは私の得意とするところであるが、そのような「白魔術」は、 学習効果を高めるという点から見ても、けっこう大事なことのような気がする。

「しょうがねーな。別に興味ないけど暇つぶしに読んでやるか。」と思って読むのと、「なんだかよく分からないけど、 ふっと惹かれたから読んでみよう。」と思って読むのでは、その読み込みの深さには雲泥の差が出る。

本には「読むべき時機」というものがあり、「読むべき構え」というものがある。


今回の本の場合、書店で手にしてすぐさま購入し、積ん読に組み込まれることなくすぐさま読み出された、突発的出会い型の本であった。

著者である河本英夫さんは「オートポイエーシス(⇒Wiki)」 研究の第一人者で、私がカオス理論や自己組織化に興味をもっていろいろ本を調べている時に幾度となく目にした名前であったので、 前から気にはなっていた。

今回、はじめて著書を読んだのだけれど、本の中には、自己組織化、アフォーダンス、ミラーニューロン、フラクタル、物語、6の中の5、 フラーレン、テンセグリティ、カンブリア、半側空間無視…… etc.etc. 私が興味をもって止まないキーワードがこれでもかと並んでいて、鼻息も荒く、一気に読み終えてしまった。

う〜む。オモシロイ。

副題に「オートポイエーシスの練習問題」とあるように、ある感覚、 素養を習得するためのトレーニングをイメージできるよう本全体が構成されていて、しかもそれがまた「言葉にできない“それ”」を、 丁重に読者に届けようという心配りが感じられて非常に好感。


オモシロイ箇所はいくつもあったのだが、私の関心ともっとも近いところで挙げるならば以下の箇所。


 『真っ暗闇のなかで足先に何かがあると感じられることがある。この“なにかがある” という場面は、既に現実の「個体化」が起きているが、その個体がなんであるかはまったくわかっていない。しかし、 これは現実だと感じられるものは、既に個体化している。この個体の内容が何であるかは決まっていないし、 個体といっても個物のようなまとまりである必要はない。この現実、このものという特定さえできていればよい。そうした経験の局面がある。
 このとき既にこの現実に注意が向いている。この場面の注意は、現実をそれとして成立させる働きであり、 現実をこのものとして個体化させる働きである。成立した現実のなかでそれがなんであるかを知る働きの中心にあるのが、知覚である。 知覚は見るべきものが既に決まっている。多くの場合、見えるものが見えているだけである。それに対して注意は、 見るということが出現する働きであり、見るという行為が起動する場面を指定している。』
 『学校教育では、観察にさいして、注意ではなく、焦点的意識、 すなわち知覚を教えている。最短距離で物事を修得するために、それが最も都合がよいからである。 だがそれが良い教育かどうかは別問題である。新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している。』
(河本英夫『哲学、脳を揺さぶる』、日経BP、2007、p190、p192−193)


「目が見える」「耳が聞こえる」ということは、いわゆる「視力」「聴力」と呼ばれる能力に限られた話ではない

「何かが見えていない」人がいたとして、その人の視力を矯正したからといって、必ずしも「それが見える」ようになるとは限らない。

「注意力散漫」な人が、見えているものにぶつかり、聴こえているものに気づかないように、「何かが見える」という能力は、 「そこに何かがある」という「注意力(アウェアネス)」によって支えられている。

それは「見える」以前の働きである。


『例えば、視覚的アウェアネスが失われた視野の部分に、 ドットを動かすという刺激を提示する。そして、患者に、「ドットは上に動いているか、下に動いているか、どちらか選んでください」 と尋ねる。患者は、「何も見えないから、そんなことは無理です」と答える。それに対して、「見えなくてもいいから、 強いて言えば上に動いていると思いますか、下に動いていると思いますか?」と尋ねると、患者は、「何も見えないのですが、強いて言えば、 なんとなく上に動いているような気がする」と答える。このような試行を繰り返すと、おどろくことに、 単なる偶然よりははるかに高い確率で、患者は正しい動きの方向を当てるということが見出されたのである。これが「何も見えない」 (ブラインド)のに、ある程度の視覚的認識能力(サイト)が残っているという、 ブラインドサイトの一見パラドックスのような現象なのである。』
(茂木健一郎『クオリア入門』、ちくま学芸文庫、2006、p169)


ここで挙げたのは「ブラインドサイト(盲視)」と呼ばれる現象であるが、人は「モノ」が見えていないにもかかわらず、そのモノの「動き」 を見ることができたりする。

人には「見える」以前に、見えているものがあるのだ。

そういえば前に、テレビでアフリカの人の視力を測定する番組があって、 面白かったのがライオンの形やシマウマの形はものすごく遠く離れていても識別できて、それこそ視力7.0とか8. 0とかいう世界の話なのだけれど、私たちがよく視力検査で行なう「C」の字のどちらに隙間があるかという検査だと、とたんに視力3. 0になってしまうということであった(それでも驚異的だけど)。

どうも「見える」という現象は、いわゆる「視力」と呼ばれる能力だけでは掬いとることのできない豊穣性を抱えているようである。

「目に映る」という受動的な感受と、「注視する」という能動的な行為の出会うところに浮かび上がるもの。


「視力が上がる」「聴力が増す」ということは、つまりは入力される「情報量が増す」ということであるが、それは同時に 「情報を見落とす能力の向上」も伴うということを忘れてはいけない。

入力される情報量が増えれば、その情報処理もまた格段に増えるわけであるが、増えた分を律儀に処理していては、 私たちは物事を一つ知覚するのに膨大な時間を要するようになってしまう。

だから、視力聴力の向上は、「見落とす能力」「聞き流す能力」の向上とともに行なわれなければならない。

先天盲の人が手術をして目が見えるようになった時に、世界の色の洪水に気持ち悪くなってしまうことがあるのは、 目から飛び込んできた膨大な情報を、適当に「見落とす」ことができないからである。

その「見落とす/聞き流す能力」というのは、それを毎回意識してやっていてはその意味がまったく無いので、 その操作は完全に自動化されており、つねに無意識下において行なわれている。


『測度は生活の自然性に見合うところでおのずと形成され、 それに従って生きることは無駄を省くと同時に直ちに惰性となる。身体動作だけではなく、感覚・知覚も生活の測度に適合するように、 見ないもの、見えないものをおのずと区分しているはずである。これは無意識的な隠蔽や抑制とはまったく別のことである。 生活の測度や身体動作の細かさに合わせておのずと形成してしまった、おのずと見ないもの、すなわち見えないものの広大な領域がある。』
(河本英夫『哲学、脳を揺さぶる』、日経BP、2007、p96)


情報量が増えたときに、無意識に「見落とす/聞き流す能力」を向上させるという私たちの機能は、 逆に情報量を落とすことで注意力を向上させるというようにも働く。

それは真っ暗闇で何も見えない状態のときに、周囲の環境を認識しようと努力する自分の姿を想像すれば分かりやすい。

私たちはふだんの生活の中で、それと知らずに多くのことを「見落とし」「聞き流し」ており、 それによって意識するべきことを絞り込んでいるのだけれど、私は講座の中でみなさんを人為的に、 情報量を落とした暗闇のような状態へと誘導してゆくことによって、今一度それらのことを「再発見」させんとしているわけである。

今まで見落としていたものを見つめなおす。
今まで聞き流していたものを聞きなおす。

それが「感覚を磨く」ということの意味の一面なのである。

そのためにはいかなる訓練をしていけばいいのか、いろいろ試行錯誤しながら、頭を悩ませるところであったのだけれど、 その方向性がまたうっすら見えてきたような、そんな気がした。

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2007年02月18日

幽体離脱⇒共感?

人間の脳の中にはミラーニューロンというものがある。

ミラーニューロンというのはこのブログでも以前触れたことがあるが、 目の前にいる人物の動きを見ているときに、それをさも自分が動いているかのように頭の中でなぞる働きを担う神経細胞のことである。

人が動いているのを見ているときも、自分が動いているときも、ミラーニューロンは等しく活動する。

人は他人の動きを見ているときに、脳内で自分も同じ動きをなぞっているのだ。

そのときに自らのうちに浮かび上がる心象から相手の心情を連想、追体験し、 それによって私たちは目の前の人間に共感することができるのである。

「学ぶ」という言葉が「真似ぶ」という言葉に由来するように、基本的に学習とは「他者の模倣」を通して行なわれるのであって、 ミラーニューロンによる「脳内同調効果」は、動作から感情から社会性にいたるまで、あらゆる学習において重要な役割を担うことになる。


そのミラーニューロンの活動というのは、サルが人の動きを見ていても活性化するのであるから、「共感」「同調」 というのは同種族間に限られた現象ではない。

人は映画を観ているときにその主人公の心情に共感して泣いたりするくらいだから、モニターの画面に映し出された人の動きを見ても、 ミラーニューロンは活性化しているということであろう。

モニター画面に浮かび上がる人物(らしきもの)は、たんなる赤青緑のライトの点滅を、観る者がそれと錯覚しているに過ぎないが、 それにも係わらずそれに「同調」することができるということは、原理的には「対象のいかんを問わない」ということである。

相手が映像だろうが、人形だろうが、ロボットだろうがかまわない。

もし、きわめて精巧にできたロボットが、殴られたときにこれまた絶妙に「苦痛に顔をゆがめた人の表情」を表現したとしたら、 おそらく私たちはロボットの「痛み」を空想し、なんとなく「罪悪感」を感じることだろう(「快感」を感じる人もいるかもしれないが)。

重要なのは、「対象に自己を投影できるかどうか」ということである。

だから犬を愛して止まない人が、犬が怪我をするのを見て同じ痛みを感じたり、桜を愛して止まない人が桜の大樹が切り倒されるのを見て、 同じ苦しみ(というものがあるならば)に動悸が激しくなるということが起こりうる。

たとえ「そんなものはすべて思い込みであり錯覚である」と言われても、原理的に「錯覚(主観的)でない感覚」など存在しないのだから、 あまり根源的な批判にはならない。

「そう感じたように感じている」という素朴な事実を、私は軽視せずに丁寧に取り扱いたい。


みなさんも、ふだんの生活の中で鏡を見ながら身支度をすることは多いと思うが、それは鏡に映っている像を「自分」だと錯覚しているからこそ、 スムーズにできている。

私たちは、鏡の中で起きている出来事を、まるで我が事のように「勘違い」して、化粧をしたり、ヒゲを剃ったり、 髪を切ったりしているのだ。

もし鏡に映る自分の顔が、髭剃りでサックリ切れて血が出ているにもかかわらず、体感としてはちっとも痛くなかったら、 いったい私たちはどちらを信用するだろう?

あるいはそれが逆だったら…?

鏡の自分が勝手に動いたら…? (うぅ…怖ろしい。ブルブル)

幻肢痛(ファントムペイン)」 に悩む患者が、「鏡に映る自分の右手」を「失くしたはずの自分の左手」だと錯覚することでその痛みが軽減するように、 他者への共感によるさまざまな内的変化が、そのまま自らの変化を促すことに繋がってゆく。

自分が自分だと思っている自分というのは、それこそ自明のこととしてふだんは意識から退いているけれど、 意外とその境界はきわめて曖昧なのかもしれない。

「私」と「あなた」の間にあって、それらをつなぐモノ。


ところで今回、ミラーニューロンについて書いたのは、内田先生のブログにそのミラーニューロンについての驚くべき発見が書かれていたからである。

それによると、ミラーニューロンを活性化する薬が開発されたのだが、それを実験者に投薬してみると、全員がある同じ幻覚、つまり 「幽体離脱」を体験したのだという。

うぅ〜む…他者への共感能力の高まりが、自己への客観視につながるというのは、考えてみればとても納得のいくものだけれど…。

そうであるか…。

「目の前の人に共感する」ということは、相手の動作をじっくり観察しながら同調していって、 そのミラーニューロンによる脳内模倣動作を自分の感覚の基調に置きつつ、 同時に自分自身の肉体から昇ってくる感覚はシャットアウトしていく(自分を無にしていく)という、いわばホントに 「幽体離脱による相手への憑依」のような芸当であるのかもしれない。


他者の行為の模倣、同調、鏡像への同化、幽体離脱、自己同一性…。

はたして私が思っている「私」とは、いったいナニモノなのだろうか。

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2007年02月12日

諭吉三連星とアースダイビング

2月11日、大安吉日。

大学時代、同じ下宿に住んでいたOさんの結婚披露宴に出席する。



イメージ図

せっかく最近、「おとなのおりがみ」という新たなるワザを身に付けたので、ここぞとばかりに発揮しようと、朝からご祝儀の小細工に没頭し、名づけて 「諭吉三連星・祝福のジェットストリームアタック」(@ガンダム)なるご祝儀を作製、ご祝儀袋に入れて何でもない顔をして謹呈させていただく。
(今ごろ手にとって苦笑しているだろうか…(笑)。)


(どうぞお二人がこれからの日々を、泣いたり怒ったり笑ったりしながら、いつでも仕合わせを感じつつ愉しく過ごさんことを、 心よりお祈りいたしております。)


久しぶりに会う大学時代の友人たちは、披露宴終了後、当然のごとく我が家にやってきて、朝まで飲んで大いに語らう。

こういう集まりは、学生時代の在りし日を髣髴とさせ心を震わせるが、 話の内容は歳を重ねるごとに徐々にリアルでシビアな話題が口をついて出ることも増え、やはり歳月の流れを感じないではいられない。


明けて今日の午前中、友人たちがそれぞれ帰路に着いたあと、一人残された私は寝不足アタマで部屋の片付けと掃除をし、 あらかた片づけてボケッとしていたら、おもむろに携帯がピロピロと鳴る。

昨日の披露宴に参加していた友人Mより、「明治神宮に水を汲みに行くのだけれど、一緒に行かない?」というお誘い。

「今日の1時から3時の間に東南東で汲んだ水を飲むといい」と、ある人に言われたとか何とか。

「明治神宮で水を汲む」なんて、まさにアースダイバー

せっかくの機会だから行ってみようと思い、「よろしい。では私も汲みに行こう。」と、寝不足アタマでとりあえず返事をする。


明治神宮近辺の「Earth Diving Map」を調べながら行こうと、カバンに『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)を詰め込んで、いざ原宿へ。

カラッと晴れた陽射しが気持ちがいい。

テクテクと歩きながら、『アースダイバー』を開き、明治神宮の地層地歴をチェックしてみる。


『京都には北東の方角に比叡山があり、そこに最澄は仏教の寺を構えて、 国家の鎮護のための象徴的な場所とした。江戸にも北の方角に日光山があった。江戸の設計図を描いた天海僧正の提言で日光に聖地が開かれ、 家康の御霊(みたま)を祀ることで、そこが守護霊の宿る場所となった。こういう場所が、近代天皇の都である東京には、 まだなかったのである。首都のほぼ西北の方角にあたる代々木の御料地が、 明治天皇の御霊を祀る国家的な神社の建てられるべき場所として選ばれた背景には、あきらかに、そこを東京と国家を護るべき、 守護霊のおさまり場所にしようという、象徴的な思考が働いていた。
「東京は帝国の首府にして世界にたいして帝国を代表せり故に帝国を鎮護せらるべき地点は帝国を代表する帝都を鎮護せらるべき地点たるなり」 (「明治神宮経営地論))
広々として小高く、白虎(西)、青龍(東)、朱雀(南)、玄武(北)をあらわす吉相をそなえた地形をもち、水清く、 深々とした針葉樹林につつまれた森といえば、最有力候補として、代々木が浮上してくる。その森に、帝都と帝国を守護する、 強力な霊を祀る神社が建てられなければならない。そうしなければ、世界戦争の時代を生き抜いていくことはできない。 そういう象徴的な思考によって、明治神宮はあの場所に選ばれたのだった。』(同著、p75)


ほうほう。なるほど。

明治神宮周辺の「Earth Diving Map」を見てみると、明治神宮と代々木公園一帯は、「明治通り」と「井の頭通り」 という二つの湿った低地に挟まれた岬のような地形の小高い場所に位置しており、原宿駅前の「竹下通り」 というこれまた湿った低地の延長線上にはちょうど、「明治神宮御苑」の南池がある。

なるほど。見事なものだ。

そして、その南池のもっとも奥まったところでは清水が湧いている。

それが今回の取水の目的地、戦国武将の加藤清正が掘ったと伝えられる「清正井(きよまさのいど)」 である。


地層から言うと、ここで湧く水の「流れ」は、原宿の「竹下通り」を通って「明治通り」に合流し、そのまま渋谷へと向かって、 ここでコンクリで固められた「渋谷川」となって地表に顔を出す。

そして広尾、麻布十番、芝公園と抜けて、東京湾へと至る。


ほほう。なるほどね。

ここは広尾、麻布十番というセレブな土地を潤す水の源泉の一つであるか。

よ〜し、たっぷり飲んでやれ(笑)。

…と思ったら井戸のそばの看板に「飲まないでください」と書かれている。

「何おう? ええい!当たってくだれ…いや当たって砕けろだ!」と、友人と一緒にペットボトルを井戸に突っ込んで水を汲み、 グビグビと飲めばほのかな甘みを感じさせるなかなか美味しい水。

立春を過ぎたので「寒の水」とはいかないけれど、からだに春の目覚めを呼び起こす「呼び水」にはちょうどいいだろう。

東京の湧水めぐり、地下水脈めぐりに、ちょっとはまってしまいそうな予感。

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2007年02月05日

発酵の国

中沢新一さんの本は、一時期はまっていろいろ読んだ。

ここ最近はしばらく離れていたのだけれど、私の背後の「積ん読」には、 もうずいぶん前から中沢さんの本が何冊か待ち構えている(そういえば『三位一体モデル』は読んだ)。

今回、ひさしぶりにその「積ん読」の中から一冊、『アースダイバー』(中沢新一、講談社、2005)をずるずると引きずり出して読んだら、やっぱりとても面白かった。

私たちがふだん暮らしている土地の層に刻み込まれた歴史というものを、今一度思い起こさせてくれる、素晴らしいインスパイア・ ブックであったが(オススメ!)、その最後の章に書かれていた「分解者」というアナロジーを読んで、私はハッとした。


『未来に生きるべき皇室の意味は、いまやまったくあきらかである。二十一世紀の天皇制は、 単一文化と経済主義を特徴とするグローバリズムにたいする強力な解毒剤としての存在を、世界にむかってアピールしなければならない。
ぼくは夢想する。双系原理によって立ち、都心部にあっても、 自分のまわりをとりかこむ騒音にすこしもそまらない森の奥で、おだやかな森番のようにして生きる天皇が、 ある日つぎのように世界に向かって発信するのである。
「わたしたちの日本文明は、キノコのように粘菌のように、グローバル文明の造りだすものを分解し、自然に戻していくことをめざしている。 多少風変わりな文明です。そしてわたしはそういう国民の意思の象徴なのです」。』
(中沢新一『アースダイバー』、講談社、2005、p238−239)


日本人は分解者である!

なるほど。分解者か。文化医者。ふふふ…(笑)。

私は酒を始めとする発酵食品を愛し、大学では醸造学まで専攻して、味噌を作ったり、ヌカ漬けを作ったり、どぶろくを作ったりして、 自分で作った発酵製品に囲まれてはニヤニヤと薄ら笑いを浮べている、かなり怪しい「発酵者」であるので、「分解者」 と言われて妙に嬉しくなってしまった。
(「発酵」とはすなわち微生物による「分解」のことである。)


日本の伝統食には、さまざまな発酵食が存在するが、基本的に温暖湿潤で、四季がはっきりしているこの土地は、 極めて多様性に富んだ微生物の生態系が存在し、土地全体が旺盛な発酵分解力を備えている。

この土地に住む私たちの祖先は古来より、その力を利用することによって、モノを分解し、カタチを壊して、 そこからスピリッツ(酒精)を取り出すワザに長けていた。

それによってこの国には高度な「発酵文化」が築き上げられていったわけだが、その力の及ぼす影響は食品だけにとどまらず、 あらゆる精神活動にまで及んだ。

西方から次々とやってくる新しい文化や文明は、極東に位置するこの吹き溜まりのような島国にたどりつくと、 この土地の持つ力によって分解され、カタチを失い、スピリッツ(精神)へと発酵、昇華させられていったのである。

東の果てに流れ着いた数々の文化は、太平洋という巨大にやわらかなモノにその前進を阻まれ、この土地で足踏みをしているうちに、 そのカタチを分解されスピリッツにされて、再び彼岸の世界へと帰されてしまった。

すべてを無や空、カタチなきあわいなものへと帰してゆく日本の思想は、この日本という国のさまざまな地理的条件から発する 「土地の霊力」により生まれたものなのではなかろうか。

日本人が極度な精神主義や根性主義といった「スピリチュアルな力」の陥穽に陥りやすいのは、 もともとこの土地がそのような力を備えているゆえであったのかもしれない。


根性主義と言えば、その精神の炸裂した第二次大戦。

太平洋という巨大にやわらかなモノを乗り越えられるだけの力を蓄えたアメリカという強大な「物質的な力」は、 今までとは逆のルートからやってきて、圧倒的な物量でもって日本の力を屈服させた。

しかし彼らはなぜか、さまざまな思惑から「天皇」という日本の精神の中心的存在を残した。

何がそうさせたのか歴史の面白いところであるけれど、「物質的な力」と「精神的な力」 の拮抗という点から考えればとても象徴的な出来事である。


「アメリカ的な力」の象徴とも言えるグローバリズムが世界中にその広がりを見せる現在、その役割を果たしたアメリカという国は、 おそらくこれからゆっくりとその身を引いてゆくだろう。

(「アメリカという国がその身を引いてゆく」というのは、アメリカの「物質的な力」が退いてゆくということではなく、 もはやすでにその力が世界中に浸透したので、その発信源としてのアメリカという「国」がその役割を終えたというだけのことである。 )

それに伴って、各地に広まった「物質的な力」はさらにその力を増してゆくことになる。

グローバリズムは現在、ますますその力を強め、世界を標準化し、ノイズを減らし、ヒエラルキーを作り、 きわめてデジタルでスムーズな世界を構築していっている。

それが悪いというわけではなく、それだけに力が偏ればその弊害が出るという事実。

そのグローバリズムのもつ「構築力」のもたらす弊害を無毒化し、 構築されたものを今一度バラバラにして自然に帰してゆくという拮抗関係にあるものが、「分解力」である。


「構築」と「分解」。

その二つは両輪のようにお互いを補いながら、世界をさらに躍動させていくだろう。

その「分解力」を豊かに持つ土地を住処とし、その力を用いる術を文化として継承してきた私たち日本人には、これからの時代、 世界に貢献できることが多いかもしれない。

ビバ!発酵!

かもすぞ!(@もやしもん)

posted by RYO at 20:53| Comment(16) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする