2008年05月29日

天邪鬼の神話

最近、出張講座が立て続けに入っており、大阪に行ったり、群馬に行ったり、新潟に行ったりとアチコチ移動している。

それらほとんどすべての講座は親子向けの子育て講座であり、基本的に「子連れOK」という形で行なっているので、大変にぎやかな状態のなかで講座が進む。

最近は都心部などでは、目の届くところで子どもが遊べるスペースを併設した「親子カフェ」のようなものもできてきて、子連れでもお出かけを楽しめるような環境も整い始めてはいるようだけれども、それでも子連れで参加できる講座などはまだまだ少ないらしく、そういう点で「すごくありがたい」と喜んでいただくことは多い。


どうも私は昔から天邪鬼なところがあって、人からダメと言われるとやってみたり、みんなが同じものを選べば自分だけ違うものを選んでみたり、人が行かないところへ行ってみたりと、とにかくレアなニッチへと志向する習性がある。

だから、「子連れご遠慮願います」という講座ばかりであると聞くと、「じゃあウチは子連れOKにしよう」などと、そんなことを言ってみたくなるわけである。

物事には役割分担というものがあるわけで、天邪鬼な私などは「人と同じことをやるのなら別にやる必要ないじゃん」と考えて、そこは人に任せてわざわざ違うポジションを求めてさすらってしまうのだ。

大学時代には友人に「オマエを見ていると卒論が書けそうだ」と言われたくらいであるので、よほど普段から群れからはぐれるような行動をとっているのであろう。

そういえば一頃流行った「動物占い」でも、私は孤独を愛する「オオカミ」であった。

まぁ考えてみれば、自分の身の置き所をレアなニッチに置くというのは、生存戦略上はなかなか悪くない選択である。

競合相手がいないのだから、熾烈な競争に巻き込まれることは少ないし、「そういうのが欲しかった」とピンポイントで響く人もわずかながらいるだろう。

もちろん真っ先に肉食動物に捕食される可能性も無きにしもあらずだが、エコロジカルに考えてみたときには天邪鬼には天邪鬼のニッチがある。


ところで私の天邪鬼っぷりは生まれながらのものであるので、「筋金入り」である。

それは「産まれる時に足から出てきた」という事実が証明している。

よほどみんなと同じように出てくるのが嫌だったのであろう。

私が母から伝え聞いたところによると(人はみな自分の起源を「神話」として人から伝え聞くしかない)、足から産まれた私はへその緒が首に巻きつき、顔を真っ青にしてグロッキーであったということである。

天邪鬼も命がけだ。

そこで息を吹き返すために、お産婆さんに冷水を浴びせられ、往復ビンタを浴びたということであるが、我ながらなかなか過酷なバース体験である。

冷水を浴びせられ、往復ビンタを浴びた私は、息を吹き返すや否や一言。

「リアリティ バイツ…。(現実は厳しい)」

とつぶやいたとか、つぶやいていないとか。

そして、さらに伝え聞くところによると、そんな筋金入りの天邪鬼を産み落としてしまった母上も、眼は真っ赤に充血し、髪の毛はボソリと抜け落ちたというから、かなり壮絶な出産であったようである。

自分のワガママで母上にも過酷な試練を与えてしまった天邪鬼。

それが私である。

(こんな天邪鬼でスミマセン…)

詳しい誕生神話は最近になって初めて聞いたのだけれど、私が今こうして子育て講座などやっているのも、その原罪をつぐなうためであるやもしれぬ。

背負った神話は大きい。


まぁともかく私はそんな筋金入りの天邪鬼であるので、その天邪鬼ぶりは講座の設定だけにとどまらず、その内容においてもニッチへニッチへと向かう。

だから私が講座でみなさんに教えている整体だとかシュタイナーだとかそういったものも、誰も語ったことのない整体だとか、誰も語ったことのないシュタイナーだとか、どうしてもそういうところに興味が向いてしまうのだ。

勘違いしてもらっては困るのだけれど、「誰も語ったことのない」というのは、「私こそが最も深い理解をしている」というような意味では決してない。

断じてない。あるわけない。

むしろ「もっとも異端」という立ち位置を意味している。

私は「誰もそんな解釈をしたことがない理解の仕方」を探りたいのだ。

だから「そんなふうに理解した人間はキミ以外にいないよ」と言われるほうが、私としてはむしろ嬉しい。

もちろん当然だけれども、その理解が「的外れ」であっては意味がない。

それではただの「おバカさん」である。

的確であり、なおかつ新鮮であること。

それが私の目指したいものだ。

とにかく私は世界をいろいろな角度から見てみたいのである。

いまだ誰も見たことがないであろう角度を探して、そこに美しさを見出す。

それが私の「世界を愛する愛しかた」なのだ。


そういえば今思い出したのだけれど、むかし女の子と公園を散歩していたときに何気なく噴水を眺めていたら、その女の子が私のそばへスススとやってきて一緒に噴水を眺めながらおもむろに「RYOさんって一番素敵に見えるポイント探すの上手ですよね」なんて言われたことがあった。

純朴であった私は突然女の子にそんなことを言われてドギマギしてしまって「そ…、そうかな。べ、べつにそんな深く考えてないけどな…」なんて返すのが精一杯であった。

今となっては、さわやかに微笑みながら「ボクのことをそんなふうに見てくれるキミの瞳のほうが素敵だよ」などと返せなかった自分が悔やまれるが、まぁそんな話はどうでもいい。


私は天邪鬼の業を全うすべく、誰も見たことのない角度から見て、誰も語ったことのない角度から語ることを目指すのだ。

そんなことをして「先人たちの視点を汚す気か」とおっしゃる方もおられるかもしれないが、そんなつもりはまったくない。

断じてない。あるわけない。

私はすべての視点を等しくリスペクトしている。

天邪鬼の一族は高潔であるのだ。

敬意を知らない天邪鬼は、ただの畜生である。

視点というものは、それぞれが像を掘り出す彫刻の一撃であり、視点の多様性はむしろ「モノそれ自体(オブジェクト)」の輪郭の肌理を緻密に浮かび上がらせる。

だから視点の多様性は、豊饒性として言祝ぐべきことである。

それぞれの視点に立つ人々に「そこからはどんなふうに見えるのか」聞いてみて、できる限り多くの人の声を集めてネットワークにしてみたほうが、より豊かなオブジェクト像が浮かび上がってくることだろう。

だからこそ、人間にとって「大切なこと」ほど、世界各地でありとあらゆる形をもって脈々と語り継がれているのではないか。

天邪鬼はそう考える。

そして、もし皆がその意見に賛同するならば、天邪鬼はコソコソと一人その場から離れてゆくのである。

それが天邪鬼。

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2008年05月18日

べしゃりづくし

11日。日曜日。

代々木オリンピックセンターで「しぜんいくじ全国ミーティング」の講座。

小雨の降るなか、ゴザを担いでテクテクと代々木のオリンピックセンターへ。

今回の講座は定員80名の会場に親子連れ30組というなかなかにぎやかな規模であるうえ、メインテーマが「武術」ということであるので、会場に着く最後まで「何をやろうか」と小雨に濡れそぼりながら五月雨のなかを思案。

サミダレシアン。


早目についてさっそく会場をのぞいてみるとこれがまた広い。しかも天井が高い。

う〜む。広いな。やりがいがあるではないか。

今回は武術の講座であるので、道着と袴に着替えて、まずは会場設営。

こういうのは最初の会場のデザインで、場がどのように動いていくかが大きく変化する。

「コドモの目」になり部屋をうろうろ歩きながら、「これは面白そうだ」とコドモの私が気を引かれるもののうち、「触られるとまずい」とオトナの私が判断したものだけ、イスや机をガタガタと動かして片っ端から埋めていく。


時間になって講師紹介を受けた後、さっそく講座開始。

まずは腹の調律点に見られるシュタイナーの人間三分節構造、「肚ができている」とはどういうことなのか、自発的な行為を抑圧することがからだにどのような影響を及ぼすか、排泄を全うさせることの重要性などのお話をする。

そして、河野先生の五相体操を入り口に、人の手を引いて導くときの感覚稽古や、背中の感覚を磨くゲームなどのボディワークを行なう。

私が「ぶつからない角度で相手を崩す技」をやってみせると、相手があんまり気持ちよさそうに崩れていくもんだから、その様子を見ていた受講生の皆さん方が「私も受けたい。私も。私も。」と、つぎつぎ懇願してくる。

仕方がないので、会場を歩き回りながら片っぱしからコロコロ転がしてゆくと、みんな寝転がって笑い出す。

この技はかけられると妙に気持がいいので、床に寝転がるとみんな笑いだすのだ。

自分の要求を最大限に尊重してくれる敬意と、それでもなお体勢を崩されてしまうカタルシスに、なぜかからだは悦びを感じ、ゆるみ、笑みがこぼれる。

人間という生き物の複雑な感受性の現われであろう。

ときどきそんなカタルシスも必要である。

「あれ?」と思っているうちに、自分が思ってもいない状態にされてしまうことが、「小さな自我」からからだを解放してくれる。


続けて「背中の感覚を磨く」ということで、二人組でお互いの背中を叩きながらいろいろ動かしてもらう。

「背中を細かく使えるようになると、こんな動きができるようになります。」と、必殺の「イモムシ」を繰り出すと、お母さん方もお父さん方も子どもたちも、一斉に「え〜?!」とにわかに色めき、どよめきたつ。

ふふふ、さすが必殺技。インパクトでかし。

みんな突如繰り出された動きに心奪われ興味津々だったので、「せっかくだから、ちょっとみなさんもやってみましょうか。」と言うと、チャレンジ精神旺盛な方々がうつぶせになって一生懸命「イモムシ」と化してみる。

が、

残念ながらみなさん、そのさまは「イモムシ」というよりはむしろ「シーソー」に近い。

ギッコンバッタン。

ほほほ。必殺技は一朝一夕には身に付きませんぞよ。


ほかにも今回は、育児講座ではおよそやらないであろう「金縛りの術」やら「寸勁」やらが次々と繰り出され、「受けたい。受けたい。」という親子さん方を片っ端から崩したり、抑え込んだり、突き飛ばしたりしてゆく。

みなさん、そんなに技をかけられたいのね。熱心で何よりであります。

そんな調子でなんだかほとんど疾走状態のまま2時間の講座を駆け抜ける。

ハァハァ。

最後の質疑応答の時にも、スタッフに「ちょっと座って落ち着いてください」と言われるくらいであったので、よほど興奮気味であったのかもしれない。

そりゃ失礼。 だけどオイラはいつだって必死だぜい!


最後のほうはいつものように、子どもに対する整体的な手当てに関する質疑応答になったが、おそらくそうなるだろうとも思っていたので、どんどん質問に答えていく。

子どもの命を引き受けている親御さんにしてみれば、それ以外のすべてのことは副次的なことにすぎない。当然であろう。

子育て中のみなさんの、そんな真剣な姿勢が私は何より好きなのだ。

真剣であること以上に美しいことを、私は知らない。


時は飛んで木曜日。

この日は大阪でクレヨンハウス主催のクーヨン読者限定「親子整体講座」。

関西で初めての講座ということで、「関西の親子ってどんなもんなんだろうか」と、ちょっとドキドキ。

いわゆるコテコテの関西ガキボーイのような子が現われ、講座中に「なんやねん。このオッサン。ハゲハゲ。」とか言われながら、アタマをパシパシと叩かれたりしたら、どうしようかと思っていたけれども、さいわいそのようなチャレンジャーは現れずホッとする。

まぁゆうても、いたらいたでワシも負けへんけどな(笑)。


時間になってだいたい集まったところで講座を開始。

基本的にほとんど整体に接するのが初めてという方ばかりであったので、整体の考え方や、病気のとらえ方、日々の過ごし方など、初歩的なところから話を始める。

話しているうちに最近の私の中のテーマでもある、人間のからだの中をめぐり、人々のあいだをめぐり、社会全体をめぐって結びつけてゆくものについてのお話になってゆく。

いきなりそんな話になって、初めての方々にご理解いただけるかどうかは分からなかったけれども、このあたりの世界観は私の中でもだんだん練り上げられてきたようで、どうやらみなさんご理解いただけた様子。

「そのように世界を観てみると、今までとはまったく違った形で浮かび上がってくるものがありますよ」と言うと、みなさんその予感をうっすら感じるのか「うんうん」とうなづいてくださる。

どうぞそのような観方も取り入れながら、いろいろ実践してみてくださいな。


後半はさまざまな具体的な手当ての実習。

上腹部を触りながら、「ここは感情の急所でもあって、悲しいことがあったりすると固くなるんです。でもそれは悲しいから固くなるんじゃなくて、悲しみを我慢しているから固くなるんです。悲しい時に、きちんとその悲しさを表現して涙を流せればいいんですけど、それを我慢していると固くなってくるんです。」と言うと、みなさん身を乗り出してほぅほぅと聞き入る。

表現というのは、これすなわち排泄である。デトックスである。

何事もスムーズであれば身体に現れる徴候は一時的なものでしかないのだ。

それがさまざまな理由から、スムーズに排泄されなくなるから徴候が常態化し病態化する。

自分のなかの思いや感情をきちんと表現してゆくということは、思考の排泄、感情の排泄ということであり、それがスムーズに行われているかどうかということが、個体の健康にとってはとても大切なことなのである。

ただ、それによって周囲との関係に摩擦が生じ、いろんな不具合やいざこざが起きるようであるならば、それは排泄の仕方を考えなければならない。

それは人間が社会的な生物である以上、避けられないことであり、そのあたりの社会的要請と個人的要求のちょうどよい塩梅を探って身に付けていくべきものが、社会的な振る舞いということなのだ。

中で病むこともなく、外で病むこともない、スムーズで仕合わせな排泄をしてゆくということ。

それを探ってゆく営みが、整体という生き方でもある。


いろんな実習も終えていったん講座を終了しお茶の時間になるが、みなさんからどんどん質問が出てくるので、ほとんど講座のような状態でさらに30分ばかりしゃべり続ける。

大阪のみなさんもとても熱心な方々ばかりで、「またこういう講座があったらぜひ来たいです。」とおっしゃっていただけたので、またなにか新しい動きが生まれる予感。

しっかし、我ながらよくしゃべるオッサンやで。ホンマ。

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2008年05月08日

月の吐息を浴びて

私の師匠である河野先生の「天之岩戸」公演も無事終わり、ほっとしたのもつかの間、今週末には自然育児友の会の全国ミーティングで講座があるし、その次の週には大阪でクレヨンハウス主催のクーヨン読者限定講座が控えている。

むむ。まだまだボケボケしている場合ではない。

初めての場所で初めての人たちを相手にして、2時間のあいだ場を持たせるというのは、なかなか集中力のいることである。

それに向けていろいろ心の準備もしておかなくてはならない。

気を抜くわけにはいかないが、でもあんまりずっと張り詰めていても仕方がない。

空を見上げればせっかく陽気もこんなに気持ちいいし、ちょっと息も詰まり気味で深呼吸の必要もありそうなので、久しぶりに森のオロカモノにでもなろうかと思い、午前中の空いてる時間に代々木公園へと向かう。

トコトコと歩いて森へ入り、木製のベンチに腰掛け、本を開いてほげっとしていると、からだもアタマもゆるゆると弛んでいく。

ああ、やっぱりこういうほっこりした時間が必要だなぁ。

木漏れ陽が射し、いろんな小鳥のさえずりが聞こえ、優しい風が樹々の間を抜け、ハトやスズメや昆虫がちょこちょこと思索の邪魔をしにやってくる。

ふへへへへ…(笑)。

いいなぁ…。これほど仕合わせな時間はないなぁ…。

森のなかで好きな本を読む。

ああ、至福の時。

もうこのまま死んでもいい。

…やっぱりウソ。


今回、森のなかで読むのに、部屋の片隅に積んである山のなかからさっと選んで抜き出してきた本は、『月と農業』(ハイロ・レストレポ・リベラ、農文協、2008)。

つい最近、新宿の紀伊國屋書店をうろうろしているときに、ふとそのタイトルに惹かれ手にしてぱらぱらと見ていたら、「これは欲しい!」と思わず購入してしまった本である。

この本は、中南米で行われている伝統的な農業について、その知恵や経験、おもに月の満ち欠けに関するものを、実際に農民の方たちに聞いて回ってまとめたものである。

さまざまな農民の知恵がイラスト図も活用して説明されていて、とても分かりやすいし、またひとつひとつがとても興味深い。

たとえば満月は地上の水分を上方へと引き上げるので、果実や花など、枝の先につくものを収穫するのに適しているとか、逆に新月は水分が下へと下降していくので、地面に近いものや根のものの収穫に適しているといった分かりやすいものから、もっと詳しい用途別の収穫時期、剪定の時期、播種の時期、さらには家畜の解体や去勢、蹄鉄の取り換えの時期まで、月齢ごとの最適な農作業の知恵が盛りだくさんに書かれている。

う〜む。面白いなぁ。

天体の動きと連動した農業というあたり、シュタイナーの提唱したバイオダイナミック農法にも通じるところがあるが、私はこういう自然の叡智のようなものが書かれている本を読んでいると、もうワクワクして興奮してきてしまってしょうがない。

イラスト盛りだくさんであんまりアタマを使わなくていいし、森のなかで読むのにも最適だし、我ながら良い本を選んで持ってきた。

グッチョイス。ミー。


月やその他の天体が、地球上の生物の生命活動に及ぼす影響については、はるか古来より世界各地で語られてきたことだけれど、こういうことは「非科学的」として退けられてしまうことが多い。

まあ、資本主義思想の時代である現代は、そういう合理化を妨げる発想、とくに人間の技術では解決不可能な事柄が絡むようなアイデアは、どうしたってほとんど無意識的に排除しようとする力が働くわけで仕方がないと言えば仕方がない。

だって、伐採の時期やら収穫の時期やらを月齢に依存するなんて、そんなナイーヴで七面倒くさいことを、資本主義思想が採用したいと思うはずがない。

いつ伐採しようが、なんかの液体にドバッと漬ければ、それだけで耐久年数が2倍になるとか、そういう発想のほうが資本主義思想にとってははるかにSexy(魅惑的)であろう。

でも世界各地を見回したときに多くの場所で似たように語られてきた事柄というものは、やはりきちっと向き合ってみる価値はあるはず。

かつて月の満ち欠けで暦を数えていた時代は、ほとんどの行事が月の満ち欠けに従って動いていたわけで、そこにはそこの理屈があったろう。

暦が太陰暦から太陽暦に変わり、月に従っていた時代から、太陽に従う時代になって、ますますからだの感覚よりも、脳による明確な意識(知識)が重要視されるようになったが、日本語において身体部分をしめす漢字がすべて「月」(にくづき)を持つことから分かるように、からだは昔から月に従うものであり、それは今でも変わらない。


シュタイナーはその著書のなかでもしばしば「月」と「水」の関係について触れているが、潮の満ち引きにも見られるように、「月の運動」は地球上の「水の運動」に多大な影響を及ぼしている。

さらに細かく言うならば水というより、水的なもの、流動的なもの、すなわちシュタイナーの言う「エーテル的なもの」ということであり、分かりやすく言いかえれば「フォルムを形成する力」ということである。

…よけい分かりづらいか(笑)。

まあいいや。

ともかく、「月」と「水」には深い関係があるということだけれど、それがもっとも分かりやすく現われているのが潮の満ち引きなのである。

けれども当然であるが、地球上の水は海にだけあるわけではない。

川にだってあるし、空にだってあるし、地中にだってあるし、われわれ生物だって体内は水で満たされている。

それぞれがそれぞれに月の満ち欠けの影響を微妙に受けているのだ。


『潮の干満ほど規模は大きくないが、月の律動が水に脈動をもたらすことがある。昔は井戸を掘るときにも、この律動を考慮したものである。井戸掘りは通常、月が特定の位相にあり、かつ十二宮のうち特定の宮に入っている場合にかぎっておこなわれた。地中にあってすら、水は月の運行とともに上昇したり下降したりするのである。月が特定の位置にあるときは、簡単に水脈を掘りあてることができるが、逆にそれは掘りあてたとき以上にやすやすと涸れてしまう。別のときには水脈に達するまでより深く掘ることが必要となるが、今度は水は不断に湧出をつづける。最近湧水のために放棄された炭鉱が調査されたが、その際に地下にたまった水も、月の律動に影響を受けていることが判明した。木材伐採労働者の伝統的習慣には、満月には河川が広がり新月には深くなるという現象の効果を生かしたものがある。これは水の中の運動形態が、月の軌道とその位相に対して明らかに特殊な関係を保持している、という事実を示している。そのため通常の河川においては、水が河岸に接近する満月時には丸太を浮かべるのは困難だが、新月のときには、水脈の中心に向かって引かれるので、容易に丸太をあつかうことができる。』
 (テオドール・シュベンク『
カオスの自然学』工作舎、2005、p182)


シュベンクによると、月の満ち欠けによって川の流れが微妙に変化し、材木の運搬にまで影響を及ぼすということであるが、当然、木そのもののなかにも樹液が流れているわけで、そこにも月の影響が及ぶことを考えると、伐採するにもその時期があるということであろう。

そこでちょっとネットで調べてみたら、「新月の木国際協会」なんていうNPO団体を発見した。

ここのHPによると新月の時に伐採したものが木材としてはもっとも適しているそうだが、先の『月と農業』にも同じことは書かれており、北欧でも南米でも木材は新月の時に伐採するということが語り継がれてきているということである。

話によると今でも南アメリカでは商品価値の高い木材には、伐採されたときの月の位置を示すマークが打たれているそうであるが、新月に伐採した木は接着剤や塗料を使わなくても済むらしく、シックハウス症候群の解決のためにも活用できるということなので、ぜひとも研究を重ねていっていただきたいと思う。


前にも書いたけれど、私たちのからだにはあるリズムがあり、それがそのままからだのフォルムとなって現われている。

星たちのダンス』(ジョン・マルティーノ、ランダムハウス講談社、2005)など見ていると、惑星たちの踊るダンスが太陽系という巨大なキャンバスに描きだす極めて美しいフォルメンに、「ほぅ」とため息が漏れるばかりであるが、それらもまた地球の周辺でハーモニーを奏でているわけで、それが地球という天体の活動にどれだけの影響を及ぼしているのかはまったく計り知れない。

私たちのからだに現われるリズムは、さまざまな律動が重なり合ったリズムであり、おそらくそれら星たちのダンスの影響も多かれ少なかれ、そして直接的にしろ間接的にしろ受けているであろう。

もちろんそれは線形的に単純に記述できることではないと思うけれども、でもその中でもとくに私たちに大きな影響を及ぼしているであろう月のリズムなどは、明らかな現象としてさまざまなところに現われているのは確かである。


私たちはみな、空に浮かぶ月や星たちとランデブーしている。

そんなことを思うと、なんだかワクワクしてはこないだろうか。

私は夜の街にポツリと立ち、空に浮かぶ月をポカンと眺めていると、まるで月の吐息を全身で浴びているかのように感じることがある。

私のからだのパートナーである月。

そのヒヤリと湿った魅惑の吐息。

やはりどうしたって、私には月のほうがSexyである。

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2008年04月27日

学生たちとの交歓

学生に呼び出されて久しぶりに懐かしの下宿「木村家」を訪ねる。

学生の話によるとどうやら「サークルの元気がないので喝を入れてほしい」とかなんとか。

何だって大学などはるか昔に卒業したはずの私が、「元気がない」とかいう学生のために、わざわざむさ苦しい学生の下宿部屋まで励ましに行かねばならないのか、私にもよく分からない。

よく分からないが、そんなことを言って自分の後輩たちの有り様を憂えて、わざわざOBの元まで電話をかけてくる可愛い学生たちを思うと、何か応えてやりたいと思うのが心情である。

仕方あるまい。その日も仕事だが、行ってお望みどおり喝を入れてやろうじゃないか。私の努めはまだまだ尽きぬ。

ということで、ショウガを20%使ったとかいう怪しげな「生姜焼酎」1本と、低アル微発泡清酒の逸品、一ノ蔵の「すず音」を2本たずさえて、夜も更けたころに木村家へ。


着いてみるとすでに、私が「心のアニキ」と思って尊敬してやまないKアニィが、サークル運営の中心である3年生たちを別部屋に隔離して、「少し時間をやるからお前らで考えて答えを出してみろ!」と説教済みであった。

さすがアニキ。仕事が早いですね。

こうなると私は安心して遊撃手としての本分を発揮できる。

以前も述べたとおり、私はどちらかというと「ナナメ上の大人」の立ち位置を得意とするものであって、真正面からガシッと切り込んでいくのはあまり得意ではない。

ときに「それしか通じないか…」と覚悟を決めて、仕方なしにやることもあるけれど、やはりどちらかというと、自分自身の性格、能力、人間性などを踏まえても、「ナナメ上から変化球」というようなトリッキーなスタイルがモアザンベターなのである。

今回も、もしそういうような状況であったならば、「その役目も止むをえまい」と半ば覚悟は決めていたのだが、着いてみたらその役割は「心のアニキ」がすでにきちっと果たし終えていたので、「さすがアニキ」と改めて感服した次第なのである。

久しぶりのアニキとの再会を言祝ぎ、がっしと固く抱きしめあう。

私はアニキとは無言ですべてを語らう関係であるので、がっしと抱きしめあった瞬間にすべての会話が終わる。

このときもがっしと抱きしめた瞬間に「俺が先陣を切っておいた。お前はお前の仕事を頼んだぞ」という声なき言葉を受け止めたので、私もがっしと抱き返しながら「任せておいてください」と応えた。

男の会話に言葉なぞ要らない。


とりあえず最初は酒を飲みながら、しばし学生たちの近況報告など聞きつつ歓談。

私も、学生時代に訪ねたマザーテレサの施設でのショッキングな出来事や、私を放っておいた友人の振る舞いになぜか友情を感じた冬の日の出来事、親友の恋のために夜の街を駆け抜けた遠い日のことなどを、つらつらと思い出しつつ語る。

学生も「そうですよね! それが無いんですよ!いま!」と熱く響いている様子。

そうか。そうだな。そうかもしれないな。

人間、小賢しく考えていたらそんなことは絶対やらないんだ。

でもアタマで考えていたら絶対やらないそんなことを、やっちまって初めて分かることもあるんだ。

もっとバカになって、思いついたらとりあえずやっちまえ!

失敗したら思いっきり笑ってやるし、筋が通ってなかったら思いっきりぶん殴ってやる。

…と、そんな感じでこちらもだんだんヒートアップしてきたら、テーブルの向こうで死んだような眼をしてボーっとしている男子を発見。

そのあまりにぬぼっとした佇まいに、無性に「このやろう!」と腹が立った私は、そこらへんの一升瓶のフタを次々とって片っぱしからそいつに向かって投げてやる。

ピシッピシッ。

「な、なんですか?」

相変わらずぬぼっとしたまま、これまたとぼけたこと聞きやがる。

「『なんですか?』じゃねぇ! なんか反応しろっつってんだ!」

ピシッピシッ。


戸惑う彼にまわりの優しい先輩たちが「ほら!熱いラブコールを受けてるんだから、さっさと行きなさい!」と声かけ、けしかけられて、ようやくこちらにやってくる。

見るからに素直で優しく従順そうな風貌。

のこのこやってくるあたりが可愛らしい。

へん、来やがったな。いきなり聞いてやる。Sudden strike(不意の一撃)だ。

「いまオレが何やってたか分かるか?」
「は…?」

絶句。当然。意味不明だ。

「あのな、オレは反応して欲しかったんだよ。」
「はぁ…」
「何でもいいんだ。お前に向かって何か飛んできたんだぞ? 何か反応してみろ。かわすとか避けるとか投げ返すとか。」
「はぁ…」

しゃべっていてもどうにも響かない。

こりゃさっきから先輩たちにあきれられるのもやむをえまい。

そこで「こりゃ動くしかない」と思い立ち、おもむろにSecond strike(第二撃)。

「山と言えば?」
「は?」
「山と言えば何だ?」
「え…山…ですか?」
「そうだ。山だ。」
「山……」
「遅い!」

バシィッ! イテッ!
哀れ学生。おでこにスマッシュ。

「遅いよ。お前。」
「えぇ?」
「何でもいいんだよ。返せよ。山と言えば?」
「え…」
「…」
「…かみ?」
「お、返すじゃないか。いいね〜そうだよ(ヤマカミは私の苗字である)。 …でも遅い!」

バシィッ! イテッ!
哀れ学生。理不尽な仕打ち。

「テンポだよ。考えるな。山と言えば?」
「海!」
「お、そうだよ〜。それでいいんだよ。」
「なるほど…山と言えば?」
「川!」
「お! 早いですね。」
「当たり前だろ。お前なんかにひっぱたかれてたまるかってんだ。」


そんな禅問答を繰り返しているうちに、徐々に彼もその眼の奥に野生の光が輝き始める。

よしよし。それでよし。忘れるなよそれを。油断してたらまたひっぱたくぞ。その眼を曇らせるな。

どうにも考えがアタマの中ばかりグルグルと駆け回り、一向に手足にまでつながらないような錆びついたアタマには、もうとにかく問答無用でやらせるしかない。

やれば手足に血が通い、野生が目覚め始める。


ぬぼっとしていた彼の眼に輝きが取り戻ったところで改めて本題に入る。

「お前はどんなサークルがいいと思う?」
「みんながやる気を持って活動に参加するサークルがいいと思います。」
「じゃあ、どうやったらみんなやる気になってくれるんだろうな。」
「う〜ん…やってて楽しいことをやるっ…てことですかね…」
「そうか。じゃあ、みんな何やったら楽しいんだろうな? たとえばお前はどんなとき楽しいんだ?」
「…ドキドキしてるときですかね?」
「ドキドキ? いいな(笑)。ドキドキか。 じゃあ最近はどんなときドキドキした?」
「この春、海外に行ってきたときです。」
「おお、そうか。どこ行ってきたんだ?」

……
海外初体験の話を語りながら彼もどんどん生き生きしてくる。
そうだよ。それだよ。
そんな様子を見ているとこちらも嬉しくなってくる。
……

「いいじゃん。ドキドキ。じゃあさ、みんなはどういうときドキドキしてると思う?」
「え…いや、どうでしょう。分からないです。」
「だろうな。分からないよな。分からないなら聞けばいいじゃないか。『どんなときドキドキする?』って。みんなに。聞いたことあるのか?」
「ありません。」
「じゃあ聞けよ。聞いてみなきゃ分かるわけないだろう? すぐ聞いてみろ。となりに仲間がいるんだから。今すぐ。思い立ったらすぐ聞け。ほら。」
「は、はい。」  「あの…」


こうして先輩の愛のムチに打たれて彼も動き始める。きっかけが転がり始める。

どんな崇高な理念であっても、一つ一つの行動は単純なものでしかないのだ。

思考は手足にまで満たせ。

動け動け動け。


私は最近とくにそうなのだけれど、学生たちを見ているとホントに可愛くて仕方がない。

見ていると思わずニコニコしてしまって、今回も彼らの様子を見ながら「輝いてるよ。お前ら。」とゲラゲラ笑っていたら、「何でそんなに笑っていられるんですか?!」と学生に怒られた。

いや、スマン。でも可愛くて嬉しくて仕方がないんだよ。

キミらには「キミらが今輝いている」ということがまだ分からないだろうな。

泣いたり怒ったり失望したりしながら、必死に「今」を生きてるキミたちのそのさまがホントにまぶしくて嬉しいんだよ。

自分のなかで錆びつき始めていた何かが、またにわかに活発に動き始めるんだよ。

最近ちょっとへこたれたりもしていたけれど、キミらのそんな輝きに元気を分けてもらった。

フフフ。いいな。お前ら。

負けないぞ。ちくしょう。

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2008年04月17日

ホープフルモンスター

ときどきぽつりと「人は変わらないのかな…」と寂しく思うことがある。

確かに一度現実化したフォルム(形態)やスタイル(様式)というものは、そこに向けたフィードバックがかかり、なかなか変化するものでない。

たとえば生命の「種」というものなど、その端的な現われであろう。

地球上に存在するさまざまな種が、繰り返し自らの似姿としての次世代を生み、増やし続けるのも、そこに「あるひとつのフォルムとスタイル」が存在し続けようとしているからだ。

絶えなき「ある衝動」が、私たちにあるフォルムを保たせ続け、そのためのスタイルを絶えず保持し、また新たに獲得させようとしている。

いや、スタイルが先か、フォルムが先かは分からない。

形式が様式を生み、様式が形式を生む。

それは絶えず双方向的なものだ。

現象は真実の一つの現われに過ぎないが、その一つの現われには真実がすべて現れている。

絶えずある「フォルム/スタイル」を実現させようとする衝動が、この世界に「生命」を、いや「時間」を生み出しているのだ。


…なんだろうか。

哲学的な思索などしてみせて気を紛らわしている。

寂しく、悲しい。

悲しいと人は哲学的な思索に沈潜したくなる。

静かに閉じて、自分という現象を見つめなおしたくなる。


人を人たらしめている衝動を変えることはできまい。

それは物理法則を変えるようなものである。

どれだけ遺伝子操作の技術が発達しても、生命が生命たらんとする衝動そのものを変えることはできまい。

だがしかし、その衝動の「現われ」として現実に生じるさまざまな瑣末な現象においては、同じ瑣末な現象の端くれとして、そこに働きかけることはできるだろう。

そう。たしかにできるのだ。

たしかにできるからこそ、私はそれを実践してきた。

そして今もしている。

が、それでもなお現実に生きていると、たびたびふと立ち止まってしまうことがあるのだ。

生易しいものではない現実に打ちのめされて。


なんだか自分がずいぶん巨大なものと向き合っているような気もしてならない。

あるいは逆にあまりにちっぽけなところに目を向けすぎているのかもしれない。

私はあまりにちっぽけなところばかり見て「変わらないよ!」と叫んでいるだけであって、もう少し身を引いてみれば、そこは大きな変化の中のごくわずかの凪の地点であるのかもしれない。

「そういう近視眼的なものの見方はダメだよ」と絶えず自分がたしなめているはずの陥穽に、自ら陥っているのかもしれない。


私が心の師匠の一人として仰いでいる(お会いしたこともないけれど)料理家の辰巳芳子先生は、ある番組の中でご自身の料理教室に参加されていた一人の受講生の質問に、というより料理に対するその姿勢に、「あなたは私の何を聞いていたんですか?!」と静かに、しかしはっきりと怒りを込めて叱りつけた。

自分が必死になって伝えんとしていたことが、まったく伝わっていなかったことに対する落胆から、つい語尾が激しくなってしまったのであろう辰巳先生のその様子は、まるで私ごとであるように私の心にグッと迫ってきたのを、今でも覚えている。

そのあと一人台所に立ち、「教育者はね、あきらめが悪くなくちゃいけないですよ。」とつぶやきながら、再び真摯に料理に向き合う辰巳先生のお姿に私は心深く打たれ、「私もこうあらなければならない」と強く決意したものである。


だが、それでもやはり、悲しいときには悲しい。

悲しみが生み出す虚脱感に、私はよろよろと力なくうなだれ、そのまま倒れこむ。

歩くことも、しゃべることも、物を持つことも、実はこれほど大変なことだったのかと思い知らされるほどの状態に、私はいつも自分の力の源泉を思い知らされる。

私のこの肉体と精神を支えているのは他でもない。

「希望」なのだと。

そう。初対面の人に突然、「この極楽とんぼ!」と言われるほどに、見るからにオプティミスト(楽観主義者)である私の力の源泉は、「希望」なのだ。

本当に文字通りの意味で、「希望」が私を生かしている。

茂木さんの言う「ホープフルモンスター」は、実はこんなに近いところにもいて、ずっと私を支えてくれていたのだ。

悲しみと絶望と孤独と邪悪のカタマリであるこの私を、いつも元気づけ、奮い立たせ、そしてそれら私の中にあるモノたちを、喜びと希望と愛情と優しさの振る舞いに変えてくれていたのは、私の中にいつしか棲みついていた一匹のホープフルモンスターだった。

どんな絶望をも食べ尽くし、どんどん希望へと変えてくれるホープフルモンスター。


いつ頃からいたのかな。

初めからいたのかな。

「生きるのがつまらない」と嘆いていた少年期にも、いたんだろうか。

「なんで分からないんだ!」と猛っていた青年期にも、いたんだろうか。

私の中のホープフルモンスターは、私が絶望しそうになると、すぐとなりにやってきて、何でも噛み砕いてしまうその鋭い歯をガチガチ言わせながら猛り、私を奮い立たせてくれるのだ。

フフフ。

怖いね。でも優しいね。

やるよ。

人生は短くて忙しいからね。

悲しみに閉じこもっている暇があったら、泣きわめきながら走ったほうがマシだ。

さあ、忙しいぞ。

ほら。こうして文章を書いている間にも私を元気づけてくれている。

ホープフルモンスター。

パンドラの箱から、最後に出てくるモンスター。



My Hopeful Monster

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2008年04月07日

朝カル親子講座&お花見会

金曜日。

今日は朝日カルチャーセンターの「ママは子どもの整体師」講座。

朝、お花見用のシートやブランケットなどを紙袋に抱えて、早めに家を出る。

天気もよくお花見日和である。うむ。幸先が良い。

新宿の高層ビル群の合間を抜け、朝カルに着いたら、さっそく更衣室やら教室の後ろのほうにあるオーディオやらの危険物チェック。

講座でも私自身よく言っていることだが、子どもに触られて困るようなものを子どもの手の届くところに置いておくのは、それは単純に大人が悪いのである。

今回は大勢の親子連れが来る予定なので、あらかじめ壊れそうな物、倒れて危険そうな物はすべて片っぱしから片付けて、なるべく安心して子どもを放っておける「場づくり」をする。

けれども子どもは「大人の想定外」を発見する達人。油断は禁物。

教室には座禅用の座布をお借りしてテキトーに積み上げ、更衣室に授乳・オムツ替え用にブランケットを敷き、レジュメやパンフレットも並べて準備万端。


しばらくすると親子連れが次々と教室にやってくる。

朝カルスタッフのNさん、Mさんとその光景を見ながら「いやぁ壮観ですねぇ…」と語りあう。

なにしろ本日の講座、「満員御礼!」である。(多謝!)

教室は隅まで親子で埋まり、外の廊下もベビーカーのプールである。

朝カルの講座はおもに大人向けのものが中心であるので、これほど親子がわんさか集結したのも、おそらく新宿朝日カルチャーセンター創設以来であろうという話。

そうでありましたか。これはまた伝説を作ってしまいましたな。はっはっは。

…ってイヤイヤ、しかしこれは大変だ。

いちおう今日は子どもも大勢来るというので、いろいろ人手も必要かもしれないと稽古生など何人かに声をかけて手伝いに来てもらったのだけれど、考えてみればこれは「お目付け役が大勢いる」ということでもあると、はたと気づいた。

しまった。講座が終わったあとに「話が長い」とか「実技が足りない」とか、あとでみんなからつべこべ言われてはタマラン。

これはいつも以上に講座をテキパキと進めていかなければならない。

ええ、やりますとも。もちろん。任せやがれ。


時間になってNさんより、講師紹介の一言を頂いてさっそく講座開始。

「整体とは生活術なのです」というお話に始まり、病気をどう見るか、子どもをどう見るか、そんな基本的なところをひと通り押えてゆく。

今回は講座の中で「大人が謝る」ということについて、ちょっぴりだけ触れた。

私はこれはすっごく大事なことだと思っているのだけれど、もしかしたら今まで講座で触れたことはなかったかもしれない。(あるかな?)

む…なんでだろう。

こういう「意図せず触れない」という話題はセンシティブなことが多いが、今回は講座の中で触れてしまったので書いてみよう。


「子どもにきちっと謝る」。

これってけっこう、いやすっごく大事なことなのだけれど、なかなかこれができない人も多い。

うわべは謝ることができても、きちっと謝るというのはなかなか難しい。

しかも相手が子どもであればなおさらである。

これだけ尽くしている相手に対して、なおその自分の不備を詫びるというのは、これはなかなか高い精神性を求められることである。

大人が、自分に落ち度があったときには、子どもに対してきちっと謝るということ。

そういう大人の態度を子どもに対して示すということ。

何度だって言うが、これはすっごく大事なことである。

大人は狡猾だから、たとえ自分に落ち度があって子どもに不愉快な思いをさせた時にも、なんだかんだと言い訳つけて言いくるめてしまうけれども、そういう態度を子どもに対して示すというのは、子どもに対して失礼であるのみならず、「虚偽の振る舞い」を教えることになる。

「こういうときは(自分がミスしたとか)、そういうふうに振る舞うもんだ」と。

それってやっぱりいかがなものだろうか。

子どもは、言い訳している大人の「言葉」と「態度」と「身体状態」のデタラメな混乱ぶりを、その直観的感応力でもって全部感じ取っている。

はっきり言ってしまうが「子どもは全部見抜いている」。

「なにか嘘だ」と。


子どもはまだ言葉に拙く、言葉の意味の読解に慣れていない。

だがそれゆえにむしろ、そこに伏流する「メタメッセージ」のほうを繊細に受け止める。

言葉というものには複数のレイヤーが重なり合っていて、人はふつうその複数のレイヤーを同時並列的に解釈しているのだが、子どもはそのうちの「文章の意味のレイヤー」の解釈にまだ習熟していない。

平たく言えば「何を言っているのか難しい」ので、その語義の解釈に意識を集めるよりもむしろ他のレイヤー、つまり「それを言うことでどうしたいのか」という相手の欲求のほうが強く意識化されるのである。

子どものコミュニケーションにおいては、「言葉の意味」よりも「言葉の意図」に焦点がある。

「発話された言葉」よりも「発話する主体」を見ている。

子どもの勘がいいのはそれゆえである。

それが言語運用能力の発達とともに、焦点が「言葉の意味」に推移してくるので、大人になるにつれてアタマによる解釈が優先的に働き始め、勘が鈍くなってくるのだ。

だが、ぼんやり聞いている者にのみ浮かび上がってくる声というものもある。

ちょっと分かりづらいかもしれないが、そういうことなのである。


とにかく子どもはそうして言葉の意味を理解するよりも、その圧倒的な感応力でもって大人の虚偽に潜む混乱をからだで感じる。

アタマとからだと言葉のズレ。不一致。

子どものような素直なからだはその大人の不一致に、からだの奥深くから混乱させられる。

しかも子どもはそこで感じた違和感を、これまた言葉に拙いゆえにそれを言葉にすることができないので、ただその混乱のうちに浸っているしかない。

それにもし仮にそんなことを指摘したらもっと嫌なことになりそうな予感がするから、どっちにしても仕方なしに引き受けているのだ。

子どもはツライね。


私は、誠心誠意きちっと大人が謝れば、子どもは必ず許してくれると思っている。

少なくとも私が子どもだったら、そうして自分を一個人として扱い、真剣に向き合ってくれる大人がいたら、その誠意に対しては自分なりの精一杯の誠意をもって答えたいと思う。

もちろん大人としてその優しさに甘えてばかりじゃいけないが、子どもはいつだって「本気」で生きているのだから、こちらも「本気」で向き合うのが礼儀であろう。

そしてそういう大人の態度を目の前で示して見せることが本来の教育というものではないか。

ただ「本気になれない」というのはある意味「現代病」でもあって、なかなか難しいことだけれども、「そのつど本気」であるということはとても大切なことである。


…とまぁ、そんなことが言いたくて講座のなかで「落ち度があったらきちっと謝る」と言ったのだけれど、そんなことまでしゃべっていると、お目付け役の目がにわかに眼光鋭くキラリと光るので、講座ではあっさり流してしゃべったのは言うまでもない。

でも言いたいことはそういうことなのである。


30分ほどお話しした後は、いろんな手当ての実習に入る。

みなさん、子どもにやってみたり、となりの方とやってみたりして、ワイワイと楽しんでくださってる様子。

私は質問があるたびにうろうろとそこらじゅうを歩きまくって実技を見せたり、質問に答えたり。

そんなことをしているとあっという間に講座も終了の時間になる。


講座終了後、ここ数カ月Tさんが一生懸命編集し、ようやく出来上がった私の整体本「整体的子育て入門」を販売すると、なんと「買いたい」という人がぞろっと行列をなしてしまって、これには私もびっくり。

「先着10名のみ」というTさんお手製の布製ブックカバーが効いたか。

でもその先着に洩れてもなおほとんどの方が買ってくださったようで、これまたたちまち完売御礼となってしまって感謝感激。


その後、希望者を募って新宿中央公園にお花見に行く。

ちょうど桜も散り始めで、風が吹くたびに向こうの景色が霞むほどに見事な桜吹雪が起き、みんなで「ほぅ…」と心奪われる。

私もあまりに美しい桜吹雪に思わずポカンと見とれてしまったが、となりに馬祖がいれば思いきり鼻を捻られているところ。

「イタタッ! 何をするんですか!馬大師?」
「おや、ここにおったか。どこへ行ったかと思ったぞ。」

油断大敵。

しかしたとえ鼻を捻られたとしても、自然の美しさに心奪われる感動は譲れぬ。


公園の空いている一角を見つけシートをいっぱいに敷き、TさんやNさんが用意してくださった、パンやちらし寿司などをみんなでおいしくいただく。

日差しも気持ちよく、陽気も暖かく、風も心地よく、桜も美しく、皆が笑顔である。

こんなに素晴らしいことはない。

「お酒が欲しいね」と言いつつ買い出しに行ってくれたSさんがホントにビールを買ってくる。

「買ってきたんじゃしょうがないわね。」とママさんたちも渋りながら手を伸ばすが、その口元に密かに笑みがこぼれているのを邪悪な私の眼は見逃さない。キラン。

知ってなおかつ囚われず。それでよい。


でもホントに今回の講座は来てくださった方々みなさんに喜んでいただけたようで、我ながらとても良い形で終えることができたと思う。

これもみな手伝ってくれた人たちと、講座に参加された方々みなさんが、講座という場を作り上げることに協力してくれたからこそである。

感謝、感謝。

改めて思うが、私はやっぱり仕合わせ者なのである。

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2008年03月25日

パワーズ・オブ・テン

アマゾンに注文していた『EAMES FILMS(イームズ・フィルムズ)』が届いたのでさっそく観る。

EAMESというのは「イームズの椅子」で有名なあのイームズである。

私もその名は家具のデザイナーとしてしか知らなかったのだけれど、 DVDに付いている解説文によるとイームズ夫妻は映像作家としても有名であったらしい。

ほぉ〜。そうであったか。

今回、突然思い立って『EAMES FILMS』を購入したのは、6篇収録されているショートフィルムのうちの一つ、「パワーズ・ オブ・テン」を観てみたいと思ったからである。

「面白いフィルムがある」ということでその名前だけは覚えていたが、それが誰の作品でどんな内容のものなのかはほとんど知らずに、 「観てみたい!」という想いだけで今回アマゾンで注文してみたのだけれど、そうしたらあの「椅子で有名なイームズ」 の作品だったというわけである。

意外だったのでちょっとびっくり。


私が観たいと思っていた「パワーズ・オブ・テン」という作品は、イームズの映像作品のなかではもっとも代表的なものらしいが、 すでに30年以上も前の作品である。

そのタイトルは日本語に訳せば「10のちから」という意味になるが、その名の通り「10」という数字を手がかりに世界の神秘というか「スケール(尺度)」の神秘をぎゅぎゅっと凝縮した、そんなショートフィルムである。


フィルムは公園でピクニックをしている男女の映像から始まる。

芝生の上にシートを敷き、二人とも気持ち良さそうにごろりと横になっている。

カメラはそんな彼らの様子を真上から俯瞰的に捉えている。

画面には1メートル上空から1メートル四方の構図で撮られた画が映し出されている。

ナレーションとともにカメラはおもむろにぐーっと上方に引いていく。

これから10秒ごとに10分の1のスケールになるようにカメラを引いていくという。

つまり10秒後には10メートル上空から10メートル四方の構図で撮られた画に拡大されることになる。

10秒ごとに10倍の縮尺ということは、10の乗数でスケールが変化するということだ。

カメラはぐんぐん上空へと上昇してゆき、30秒後には男女は遠景に消える。

30秒後というのは10分の1、つまり1000メートル上空から1000メートル四方の構図である。

画面はなおもぐんぐんと引いていき、わずか70秒後には画面は地球全体を捉える。

スケールは10、1の後ろに0が7つ、つまり1万キロメートルである。

その20秒後には月の軌道までをも飛び出し、スケールの変化はさらに加速する。

10、1010、1011、1012

地球もたちまち点となり、惑星の軌道を抜け、太陽系を飛び出し、160秒後には1光年の距離に達する。

そこからは10秒ごとに10光年、100光年と桁違いの速度でもって離れてゆく。

(いちおう光速度による時空間の歪みは考えない事になっているらしい。メンドくさいからね。 てゆうか光より速い速度で後退する者の目には何も映らないので、主題がまさに置いてけぼりになっちゃう(笑)。)

3分半後には銀河系を飛び出し、4分後にはついに視界限界にたどりつく。

4分ということはスケールは1024、1の後ろに0が24個。

数字で書けば「1000000000000000000000000」となる。
(ちなみに日本語では「一予(じょ)」と読む。可愛らしい。)


宇宙への旅はいったんここで終わることになり、カメラは動きを止める。

ピクニックの光景からここまで、わずか4分の出来事である。

わずか4分の出来事であるが、画面がグングン引いてゆく間に、 スケールには濃いところ(変化が多い)と薄いところ(変化があまりない)があり、それらがまるで階層を成しているかのようにも見えたりして、 非常に考えさせられる。

う〜む、何だろうか。面白い。

視界限界にたどりついた後は、一番初めの「10(ゼロ)の世界」 、つまり1メートル四方のスケールにまで5倍の速度(2秒ごとに10倍)という速度で一気に戻ってゆく。

しゅるしゅるしゅる〜。

死ぬ前に観る「走馬灯のような…」とはこんな感じかもしれないな、などと余計なことを思う。


さて、スタート地点であるピクニックの光景にまで一気に帰還した後は、今度は宇宙(マクロ)への旅とは反対にミクロへの旅となる。

10秒ごとに10倍のスケール変化。

カメラは再びスピードをゆるめ、今度はピクニックで横になっている男性の手の甲に向かってグングンと寄ってゆく。

40秒後には10−4、つまり0.1ミリのスケールとなり、手の甲の毛細血管の中に入り込む。

70秒後にはDNAのらせん構造が見え始め、90秒後には人体を形成する炭素原子に到達する。

100秒後、スケールは10−10、1オングストロームのスケールに到達する。(懐かしいなぁ…)

ここでカメラはいよいよ量子の世界へ突入する。

いちおうは目に見えるカタチを保っていた炭素原子はおもむろに電子が不確定的に飛び回る電子雲と化し、 画面には先ほどまで旅していた銀河系のような風景が広がる。

ただしこちらは星々(電子)が活発に動き回る、きわめてダイナミックな銀河系である。

(実際には電子をそんなふうに見ることはできないけど)

カメラはそのダイナミックな銀河系の中心へとなおも近づいてゆく。

2分後。原子核に最も近いところを飛び回る2個の衛星(電子)軌道の雲を抜ける。

中心である原子核にたどり着くまではしばらく何もない空間が広がる。

まるでふたたび宇宙空間を旅しているようである。星もない静寂。

さらに20秒後、カメラは炭素原子の原子核にいよいよ到達し、核が画面いっぱいに広がる。

さらに20秒後には、10−16メートルの世界、陽子のさらにその中にまで入っていってしまった。

数字で書けば10000000000000000分の1。
(ちなみに日本語では「一瞬息(しゅんそく)」と読む。速そうだ。)

「そこから先は未知の世界である」というナレーションとともに画面はフェードアウトしていって、フィルムは終わる。


わずか9分足らずのこのフィルムのなかで、観る者はミクロの世界とマクロの世界のあいだ、10−16から1024までを一気に旅することになる。

数字にすればわずか1040のスケールの旅であるが、ともに人間のスケールにとっての限界までを網羅している。


私は以前から、物事の「スケール(尺度)」ということと、「フォルム(形態)」というものは、 ともにきわめて重要な秘密が隠されているような気がしてならなかったので、このフィルムにはいろいろなことを考えさせられた。

同じモノを中心に据えながら、スケールの変化によってそこに現れるフォルムは大きく変化するということ。

「どのスケールでもってそれを見るか」ということは、そのモノの意味すらも変える。

意味とは決して自明のものではない。

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2008年03月13日

へりくつ問答フォース

「RYOさん、こんにちは。またまた『へりくつ問答』の時間がやってまいりましたよ。」
「いやぁ、またおもむろに書き出してしまいましたね。これで4回目。前回はえ〜っと… 7月でしたから、今回は8ヶ月ぶりですか。早いですね〜。お、でも前回と一緒だ。」
「あ、ホントだ。狙ってました?」
「いやいや偶然です。何かそんな周期でもあるんですかね? へりくつ周期(笑)。」
「でもホントにあっという間ですね〜。 いかがでしたか? この8ヶ月は?」
「そうですね〜。なんだかぼちぼちと忙しかったような気もしますね。おかげさまで。」
「クーヨンの連載も始まりましたしね。そういえば前回はクーヨンに初めて出た直後でしたね。」
「そういえばそうですね。」
「私が前回 『顔が固い』って言ったら、ちゃんと次の記事では素敵な笑顔で写っていましたね。やればできるじゃないですか〜。」
「あなたがここでそんなこと言ったから、編集者のHさんに『今回はちゃんとカメラマンを用意しましたから』 なんて気を使わせちゃったじゃないですか! まぁでもおかげさまで素晴らしい写真を撮っていただきましたけどね。私の周りでは 『実物よりはるかにいい』ってもっぱらの評判ですよ。褒められてんのか何なのか。」
「さすが邪悪の人。外ヅラになるほどいい顔になる。」
「あなたの失敬ぶりも相変わらずですね。」
「い〜え〜、先生には足元にも及びませんわ。」

「ところで今回は講座に参加された方から質問が出ているんですよ。 それで今回はRYO先生にそれに答えてもらう形で進めてみようかと思いまして。」
「あら、そうですか。」
「それではさっそくですけど読ませていただきますね。では…コホン。
『RYO先生、いつもためになるご講義をありがとうございます。質問があります。 先生は講座のなかでよく『病気の中に元気を見る』とか『イタズラの中に知恵を見る』とかおっしゃっていますけど、 それって具体的にはどのようなことをおっしゃっているんでしょうか? 何となくは分かるんですけども、 できましたらそのへんのことをもう少し詳しく教えていただけますでしょうか? よろしくお願いいたします。 …できれば簡潔に。
…と、いうことですけど、いかがでしょうか? センセイ?」
「最後のひとことホントに書いてありました? そこだけ地声でしたけど…。」
「書いてありますよ。ホントホント。見てみます?」

「まぁいいですよ。でも聞かれてしまったからには答えねばなりませんね。 …う〜ん。そうですねぇ…。まぁ端的に言えば『着眼点』 なんですよね。『現われてしまった現象』よりもその『現象を引き起こすエネルギー』を見るっていうのかな…。そうですね…、 たとえばここに電池があるとしますね。これってエネルギーですよね?」
「はい。」
「この電池はエネルギーのかたまりですから、これに電球を付ければぴかっと光るし、モーターを付ければぐるぐる回るし、 電熱線を付ければ熱くなるわけです。『電気』と言うエネルギーは同じでも、付けるものによってその『現われ』は異なるわけですよ。」
「そうですね。」
「それでね。『病気の中に元気を見る』ってことは、その電球がぴかっと光ったり、モーターがぐるぐる回ったりという『現われ』 そのものよりも、それを引き起こす電気という『エネルギー』のほうを見るって事なんですよ。そちらのほうがはるかに重要なんです。」
「はい。」

「なぜそれが重要かって言うとね、 自分の中にあるエネルギーをどのように外に現わしていくのかってことはけっこう外形的なものなんです。だから『電球をより明るく光らせる』 とか『モーターをもっとパワフルに回す』とかっていうことは、これからゆっくり学んでいけばいいことであって、 それよりはその電気がきちんとスムーズに流れていけるような『電線コードの回路』のほうをきちっと作り上げてゆくことが、まず基本なんです。 」
「電線コードの回路。」
「それでそのときにね、そのエネルギーの噴出という『現われ』を、どの角度からどのようなものとして認めるかってことが、 その後の回路の構築の仕方、ひいてはエネルギーの発散の仕方に非常に大きな影響を及ぼすわけです。」
「ちょっと分かりづらいんですけど…」

「う〜ん…だからね。たとえばここに膨大な遺産を相続した小さな子どもがいるとしますね。」
「遺産?」
「遺産。」
「遺産…」
「そう、遺産。でね、その子は当然お金の使い方なんて知らないわけですよ。ただ周りの大人がワイワイ騒いでいるもんだから、 どうも自分は何かとても大切なものを手に入れてしまったらしいということだけは、その気配を感じる。」
「はぁ…」
「で、さっきの電気の話と同じですけど、お金もエネルギーみたいなもんですから、それはさまざまなものを動かす『力』があるわけですね。 でもその『力』をどういうふうに行使するかは、使う人次第なわけです。」
「まぁそうですね。」

「子どもはまだそれが何なのかよく分からないもんだから、膨大な遺産を相続したって言ったって、 何のことやら分からなくてきょとんとしているわけですけど、その価値を知り、そしてその使い方を知っている…「と思っている」 と言っておこうかな…そんな大人が周りにワラワラと寄ってくるわけですよ。それでみんな寄ってたかって、 『おじさんに預ければ悪いようにはしないから』とか、『おばさんが好きなもの何でも買ってあげるわよ』とか言って、 その力の使い方をコントロールしようとするわけです。」
「はぁ…」
「ってまあそこまで喩えてしまうと遊びすぎですけど、とにかく大人はその力の使い方を、 自分の都合のいいように子どもに教えるたがるわけです。教えたがるというか、子どもはその大人の振る舞いを通じて、 自ずと使い方を学んでしまうんで、近くにいるだけで微妙にその影響を受けてしまう。『ああ、お金っていうのは、こういう使い方をするんだ』 って。だからそれは必ずしも意識的に行われるわけじゃないんですけど、 いずれにしてもすぐそばの大人の振る舞いはかなり大きな影響を及ぼすわけです。」
「う〜ん…」

「それでたとえば、その子が自分のエネルギーは自分の欲望の赴くままに使っていいんだという振る舞いを身に付けてしまったとしたら、 何だか賑やかで愉しそうだからという単純な理由で、『え〜い、こっちにやっちまえ!』とその大金をドッカーンと動かしちゃって、 とんでもない事態を巻き起こして、『みんながそれで右往左往しているのが愉しい』みたいなことになるかもしれない。 でもそれは周りもはた迷惑だし、そんなことを続けていたらやっぱりその子もいつかは自らがドッカ〜ンと破滅せざるを得なくなると思うんです。 だってもしそれ以外の発散方法を身に付けてこなかったとしたら、そうならざるを得ない。」
「う〜ん…それでそれが先ほどの話とどうつながるんですか?」
「うん。でね、いま私は『遺産』って言いましたけど、私たちはみな親からもうすでに『いのち』という大きな遺産を受け継いでいるわけですよ。 だからいまの話はそのまま『いのちのエネルギー』の使い方の話でもあるんです。」
「なるほど。」

「で、整体では病気というのは一つのエネルギーの発散行為として観るわけですけれど、すでに私たちは『膨大な遺産を受け継いでいる』 わけですよね。大事なことはそれをどのように使うかです。エネルギーの発散の仕方が重要なんです。『吸収よりも排泄のほうが重要だ』 というのは野口先生もシュタイナー先生もおっしゃっていることですけど。」
「へぇ〜、そんなこと言ってたんですか。」
「たしかね。」
「たしか〜?」
「でね、そういう病気のような発散の仕方をしたときに、それをどのように認めてあげるかってことは、すっごく大事なことなんです。 病気という『現われ』を貫いてその奥にあるその子を見る。源泉を見る。表面の『現われ』じゃなくてね。そしてそこにある『力』を認める。 それが本人が根っこのところで自分の力を信じられるかどうかということにつながってゆくんです。」
「ふむ。」
「そのような『現われ』としての『発散行為』をどのようなものとして解釈し、位置づけするかということは、あくまで私たちの社会的、 文化的な振る舞いなんです。だからエネルギーが病気という『現われ』をとって表出してきたときに、それをどのように解釈するかの身振りを、 大人が身をもって子どもの前で実践して見せるということが、病気を通じて子どもを育てるということなんですよ。」
「う〜ん…なんだか難しい話ですね。」

「まだ続きますよ。でね、起きている現象をどのように解釈することが自分自身のエネルギーを最大限に引き出し発揮し、 人生を溌剌と生きていけるのかって、そういうふうに考えたときに、『世界を語る語り口』というものがとても大切になってくるわけです。」
「語り口?」
「病気をしているその子をどのようなものとして物語るか。イタズラをするその子をどのようなものとして物語るか。それは 『その子を主人公とした物語』を親は語り聞かせてあげるということなんです。その親の紡ぎ出した物語のなかを子どもは生きている。 それがファンタジーの時代を生きる子どもなんです。いつかやがてその子が大きくなったときに、 それを引き継いだ形で彼らは自らの物語を語りだすんです。でもその基盤には子ども時代のファンタジーの世界がある。」
「ファンタジーですか…」
「どのようなファンタジーを語り、どのような心象風景を子どもに持たせるかということは、 晩年にまで渡るその人の世界観に大きな影響を与えるんです。幼少時のファンタジーによって作り上げられた世界は、 その根底のところでその人を支える基礎になる。人を支えるのは決して確固たるモノなどではなくて、 何だかよく分からないおぼろげなモノなんです。それがその人の持っているファンタジーの力なんです。 そこに幼少時にファンタジーの時代を生きる意味がある。」
「……。」
「そしてそこに焦点を向ける。すべての源泉をそこに見る。そこをより豊かなものへと育ててゆくということ。それが『病気の中に元気を見る』 とか『イタズラの中に知恵を見る』とかいう身振りをすることの、さらに突っ込んだ深いところの意味なんです。」

「ふ〜む…それで質問に対するお答えは?」
「……いまの話、聞いてました?」
「聞いてましたよ。 『ファンタジーを読みましょう』ってことですよね?」
「…ちょっと違うんですけど…」
「今のが質問に対するお返事なんですか? 何だかすごく質問の内容から脱線しまくって離れすぎてる気もしますけど。 電池とか遺産とかファンタジーとか…」
「…もういいです。それで。はい、それが私のお返事です。どうせ私の言ってることなんて誰も聞いちゃいないんです。いつも『長すぎる』 とか何とか言われて…いいですもう。ブツブツ…」
「何をすねてるんですか。」
「私はそんなことにもめげずに、ひとり大地に立って明日のそのさらに先を見据えています。」
「私も一緒に眺めてあげますよ。」
「ほら、あれをごらん。あれが『あさっての方向』だ!」
「だからダメなんですよ…。」

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2008年03月02日

此処にいない人へ

世界は日々めまぐるしく変化している。

しかも最近の科学技術の進歩のスピードはどんどん加速し、それに伴って世界の変化のスピードもどんどん速くなってきている。

そのせいなのか何なのか、人々の「空想できる時間の範囲」がどんどんせばまってきているような気がしてならないのは気のせいだろうか。

どうもあたりを見回すと近視眼的なモノゴトの捉え方ばかりが目について、そのたびムムムと押し黙ってしまうのだが、 「長い息でモノゴトを考える」という思考の作法はもはや顧みられることが少ない。

より遠くまで空想するためにはそれなりの精神的肺活量が必要とされるものだが、どうも確実にその肺活量は衰えてきているようである。


地球の裏側でさえもほぼタイムラグなしで繋がることができてしまう現代、私たちの日常生活から「プロセスに時間をかける」 という経験がどんどん無くなってきてしまっている。

汽車やバスを乗りついで何日もかけて移動していた行程は、ジェット機や新幹線により数時間に短縮され、 手紙が現地に届いてからふたたびその返事が返ってくるまでにひと月かかっていたやり取りは、電子メールで3分で済んでしまう。

とにかく「間」がなくなり、「待つ」ということがなくなった。

経過の間を「待つ」という経験をしなくなった私たちは、もはや自然の経過を「待てなくなって」きている。

ふと気づくと「自然の経過を待つことができずにイライラする」ようになってやしないだろうか。

これってもう一度よく考えてみたほうが良いような気がする。


視覚的情報処理の優位性からか、つい私たちはまるで画用紙の上に図を描きこむように、モノゴトを図式的に分類処理しようとしがちだが、 そこではどうしたって「時間」という概念が抜け落ちる。

視覚的情報処理に、「時間」を組み込むことはできない。

イヤ、できなくはないが、ゲーテ的観察法のような厄介な思考トレーニングが必要である。

時間も空間も対称性も溶け合っていたような「神話的思考」を捨て、図式的分類的思考に慣れてしまった私たちには「時間を空想する」 のは難しい。

図式的にモノゴトを考えている限り、私たちの世界観が「無時間モデル」へと収束されていくことは避けられないだろう。


ふと思い立って昔のブログを読んでみたら、こんな事を書いていた。


『かつてはおそらく、もっとはっきりとコミュニケーションを「時間モデル」 でイメージしていたのではないかと思うのだが、それが「無時間モデル」へと移行していくきっかけとなったのは、おそらくいつかどこかで 「死者を殺してしまった」からではないかと私は想像している。
それがいつ頃のことなのかは知らない。それほど昔のことではないだろう。
養老先生が「水洗便所の普及とともに、排泄物(死者)を嫌悪し可及的速やかに排除する文化が普及した」という、 卓抜した意見をどこかで述べておられた覚えがあるが、もしかしたらその頃かもしれない。
「死者」とは端的に言えば、「ご先祖さま」である。
「死者」を畏れ、敬うということは、そのまま「先祖」を畏れ、敬うことであり、それは脈々と続く「生命の連鎖」の実感に、 深く身を浸すということに他ならない。
つねに身近に「死者の気配」を感じ、「死者」と対話し、自分の判断が誤っていないかどうか、「死者」にお伺いを立てる、という文化は、 かつてはおそらくほとんどどの国にも存在した。
今やそのような振る舞いは妄信的なものとして眉をひそめられ、顧みられることは少ない。
「死」から眼をそらし「死者」を無きモノとして扱うようになれば、“まだ”死んでいる者、つまり、 これから生まれてくるであろう者たちに対しても、その気配を感じることは難しくなる。
「死者」に対する空想力(メメント・モリ)は、そのまま「これから生まれてくる者」に対する空想力でもある。』
(2006年7月30日記事「ユダヤと大人の時間軸」 より抜粋)


久しぶりに読み返してみて我ながらムムムと唸ってしてしまったけれど、たしかに時間に対する空想力は過去と未来とに同時に広がるものである。

「もう死んだ者」と「まだ死んでいる(生まれていない)者」はともに、「今はいない」という存在のあり方において、 きわめて近いところにいるのであって、彼らに対する空想力は過去に対しても未来に対しても同じだけの振り幅をもって広がっている。

「過去の人の声」に開かれている者は、「未来の人の声」に対してもまた開かれている。

なぜならそれらは「神話的思考」の下では「同じ声」だからである。

「神話的思考」の下では私たちは容易に「私」も「あなた」も「彼」も入れ替わり、主客はすべてまどろみのうちに溶け合っている。

私が遠い過去のご先祖様を見つめている時には、また同時に、私自身がご先祖様として未来の子孫から見つめられているのだ。

私はいつかは「いなくなる人」である。

ご先祖様に敬意を払うということは、私自身がご先祖様として敬意を払われるということであり、それは引いては「私はこの “未来からの敬意”に対してふさわしい振る舞いをしていかなくてはならない」という、有責性の宣言にもつながる。


この「今いない人を気遣い尊重する」という振る舞いは、 私たちが持続可能な社会を築き上げてゆくために何よりも大切なものであると私は確信しているが、その思想の育成と実践は、 じつはとても身近なことでしかない。

私はいつだって同じことしか言わないけれど、一番大切なことは大上段に構えたお題目的な思想のうちにあるのではなく、 とても身近な日々の振る舞いのうちにあるのだ。

「今いない人を気遣うこと」は、日々の振る舞いのうちで実践されるものである。

遅れてくる人のために席を空けて取っておくことだったり、次に利用する人のために整頓しておくことだったり、 あるいはそうしてくれていたかもしれない前の人に対する感謝であったり。

「死者に対する敬意」とは、そのまま「席を外している隣人に対する敬意」であり、「次の人に対するホスピタリティ」なのである。

「今いない人」の声なき声を聴くことが、そのまま死者の声に耳を傾けるということなのだ。


そのような「今いない人」に思いを馳せる能力こそが「時間的空想力」であり、その能力に長けた者が、子どものなかに未来の叡智を見出し、 病人のなかに明日の元気を見ることができる。

今はまだ萌芽であるものが近い将来に大きくたくましく育っているさまをありありと思い浮かべることができるということ。

「待てる」ということは、その力を信頼できるということだ。

いや、むしろ積極的に「私は信じる」と宣言するということなのだ。

愛せるものを愛したり、信じられるものを信じることは誰だってできる。

そんなものには何の覚悟もいらない。

報われる保証など誰もしてくれないものに対して、それでもなお愛すること、信ずること。

「愛する」とか「信じる」とかいうことは、もっと遂行的な「己に対する宣言」であるはずだ。

そして何より大事なことは、その宣言が、その眼差しが、「相手をそれに応える者に変えてゆく」という事実である。

それは「無時間モデル的発想」からは決して導き出されない。

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2008年02月20日

ハッピィ クック

新しい靴を買った。

私は散歩が好きでよく歩くので、買うのはいつもウォーキングシューズやトレッキングシューズといったアクティブ系のものばかりである。

だから重視するのもいつもデザインというよりは機能性で、 今回も濡れた路面や凍った路面でも滑りづらいとかいうウォーキングシューズを買ってみた。

新しい靴を履くと、何だか足取りが軽くなってぐんぐん歩ける。

ふんふん。愉しいな。

街がいつもより新鮮に見えるぞ。


私は新しい靴を買ったときにいつもやることがある。

それは「その靴が履く人にどんな歩き方を要求しているか試してみる」ということである。

みなさんも新しい靴を買ったときには、その靴が足に馴染むまでに時間がかかると思うが、「靴を慣らそう」とは考えても、自ら積極的に 「靴に馴染んでみよう」とは、なかなか発想することはないのではないだろうか。

どんな靴にも、それを作った人の意匠が込められているわけだから、どんなふうに履いて欲しいのかはその形に表現されているはずである。

それで私はいつも、とりあえずその靴を作った人がどんな足とどんな歩き方を空想して作ったのか、 自ら靴に馴染んでゆくことで確かめてみるのである。


普通、靴を買うときには店で試し履きなどして、なるべく自分にぴったりくる「仕合わせな靴」を選ぶと思う。

けれども実際に買って外で1時間くらい歩いてみたときに初めて浮かび上がってくる「不仕合わせな部分」というものもある。

ちょっとウチくるぶしが当たるとか、小指がきついとか、カカトが擦れるとか。

何につれ、はじめはどれだけ仕合わせな関係のように思えても、 しばらく経ってみるとちょっとくらいの不仕合わせな部分というのが出てくるもの。

そのように、ある関係において不仕合わせな関係が生じたときには、必ず先に柔らかい方がそのカタチを変えて、 不仕合わせな関係を解消しようと努める。

「私の足」と「靴」の関係でいえば、私の足の皮膚の方が柔らかいので、私の皮膚がカタチを変えて解消しようとするわけだけれど、 それにも限度というものがあって、そんな関係を続けているうちに、そのうち「靴擦れ」が起きたりする。

けれどもそれはあくまで「私の足」と「靴」との不仕合わせな関係から生まれたものであって、必ずしも靴が悪いわけではなく、 私の足が悪いわけでもない。

摩擦は必ず関係の変化を促し、それは柔らかい方が先に引き受ける。

それだけのことである。


もちろんあんまりひどければ、それは「この靴は私には不仕合わせである」ということで、返品するのも止むを得ないであろうが、 そもそもお店で試し履きをしておきながらそんな靴を選んでしまったのであれば、そのときちゃんと最大限に「勘」 を働かせていたのか見直してみる必要がある。

だいたいそういう場合、振り返ってみると何か欲望に目がくらんでいたはずである。

「すごいお買い得だった」とか、「デザインが超好みだった」とか、「人の注目を浴びれる」とか。

別に「そういう選び方はダメだ」なんて野暮なことは言わないけれど、「そういった欲望は必ず感覚を鈍らせる」 ということだけはしっかり意識しておかないと、自分の中で「感覚に対する裏切り」を常習化させていってしまうことにつながる。

それだけはいけない。不幸につながる。

それは「とても大切なこと」である。


まぁとにかく、しばらく履き続けてみて初めて浮かび上がってくる「不仕合わせな部分」というものがあるわけである。

それで私は、そうしてしばらく歩いているうちに、少しずつ浮かび上がってきたそういう不仕合わせな部分をよく感じとり、 その部分によく聴いて、「はたしてこの靴はいったいどのように歩かれることを欲しているのか」、それを探るのだ。

てくてくと歩きながら、つま先で歩いてみたり、小指側を意識してみたり、歩幅を変えてみたり、内股にしてみたり、 とにかくいろんな歩き方を試して、その感触を感じ分ける。

するとある歩き方をすると、その不仕合わせな感覚がふっと消えるときがある。

「なるほど。この靴はこういう歩き方をされたがっているのだな」と、そのとき分かる。

そうしてまた自分一人では思いつきもしなかったであろう新しい歩き方を身につけ、さらに街をずんずんとゆくのである。

ふんふん。愉しいな。不思議な気分だ。

お、街がまたその表情を変えたぞ。


「歩く」という行為は、腕の振りを変えたり、首の傾きを変えたりといった、全身の協調動作によってはじめて成り立つものであるから、 「歩き方を変える」とは、自らの「身体操法の文法を変える」のにも等しい。

全身の協調動作のような複雑なシステムは決して意識に前景化されることはないので、よっぽど意識的でない限り、アタマにとっては 「歩行」とはきわめて単純な「脚の交互運動」としか認識されることはない。

(その証拠に、人は自分が歩いている時に手を振っているかどうかすら覚えてない)

そんな意識に前景化されない複雑なシステムである無為運動には、各々が経験によって身につけた特有の運動習性というものが現れ、 それがいわゆる「癖」と呼ばれるものであるけれど、よく言われるようにこれを変えるのはなかなか容易なことではない。

少なくとも自分だけでは変えられない。

「他者との交接」、「未知との遭遇」だけがその変化のきっかけをくれるのだ。

「靴」はそのきっかけになりうる自分の足元を任せる最も身近なツールなのである。


新しい靴を履いたときに積極的にその靴に馴染もうとすると、まず歩き方が変わり、それによって姿勢が変わり、 そのうち感受性まで影響を受けてくる。

新しい靴との出会いに、振る舞いが変化し、姿勢が変化し、そのうち本気でその気になってくるのだ。

新しい出会いに全身でもって応える。

そうして新しい自分に変化してゆく。

新しい自分に変化するのにはばかることは無い。

それが私と靴との「仕合わせな関係」なのだから。

だってこれからしばらくお付き合いして、雨の日も風の日も人生の困難な道程をともに歩んでゆこうというのだ。

仕合わせになったっていいでしょ。

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2008年02月11日

からだは目に見える音楽である

今回の子育て講座はちょっといつもと毛色が違った。

道場を引っ越して初の講座だったからなのか、クーヨンの取材のカメラが入っていたからなのか、いつものようにしゃべっていたら私の身体観の根幹を成す「流体的身体論」の片鱗が口からポロポロと出てきたのである。

おや、こんなことをしゃべってしまうなんて珍しい。

今から二年以上も前、ある講座でその頃まだあまりにも漠然とした思いつきにすぎなかった「流体的身体論」 の発想の一つを開陳しべらべらとしゃべっていたら、聞いている方々のお顔がみな一様にポカンとされていたので、「こりゃダメだ」 と封印したことがあった。

おそらくみなあまりにも「何を言っているんだか分からなかった」のであろう。

しゃべっている本人がまだよく分かっていないのだから当然と言えば当然であるが、「今まで空想したこともない身体観」 を突如としてべらべらとしゃべられたら、そりゃ誰だってポカンとするに決まっている。

それで私は「こりゃまだ早いな」と思って、もっと自分のなかで育てて、発酵させ、熟成させ、 さらにもっときちんと形を整えてから出さねばならないと、封をしてアタマの蔵の奥のほうにズズズとしまって置くことにしたのである。

それが今回、二年以上の時を経て、その片鱗とはいえ口からポロポロと出てきたので、こりゃどうしたことかと驚いた。

二年前に比べれば、発想も少しは発酵熟成してきたであろうし、 私の語り口も多少はマシになってきたであろうからまだ理解しやすいものにはなったとは思うが、 はたしてみなさんに私の言っていることが伝わったかどうかは不安である。

私としてはまだまだ尚早のような気がしてならないので、再びアタマの蔵にズズズとしまって置くことにしようと思うが、 こんなことがあったということは、もしかしたらそろそろ槽(ふね)にかけて濾過してゆく時期でもあるのかもしれない。

なので、もう少し蔵の入口近くに置いておくことにしよう。


…と思ったけれど、蔵にしまってしまっては講座の内容をブログに書くことができなくなってしまうので、 やっぱり備忘録としてちょっとだけ記しておく。


『頭部の骨と四肢は絶対的対極です。頭骨は丸い閉鎖集中形態で、縫合によって連結された、 平らなあるいは不規則な骨ででき上がっています(もちろん下顎は縫合されていません)。それに対して、四肢は線的であり、 いわゆる長骨でできています。…中略…これらの中間に胸郭があります。胸郭の構築性は両者の性質を少しずつもったものです。 閉鎖する傾向がありますが、頭骨ほど閉じているわけではありませんし、可動性も頭骨よりはるかに富んでいます。胸郭の構造が、 程度の差はあれ、類似した形態のリズミカルな繰り返しであるということは触れておく価値があります。静止の極としての頭部と、 運動の極としての四肢の間の対比で、私たちは原初の法則に出会います。つまり、 自然において静止と運動が出会うところでは必ずリズムが現れるということです。この法則はたとえば次のようなものに見られます。 弓が触れたとき振動する弦に、風に揺れる木の葉のささやきに、風と水の生み出した砂地の波紋に。』
(L.F.C.メース『シュタイナー医学原論』平凡社、2000、p184−185)


上記の文は、シュタイナー教育でも重視されている「ゲーテ的観察」 の手法をもちいて人体の骨を観た時に現れてくる人体の骨のメタモルフォーゼ(変態)の様子を描写したものである。

いわゆる解剖学的な身体観に比べてはるかに詩的であり修辞的であり空想的であるゆえ、 現代科学にはとても馴染まない表現であるけれども、私たちにとても大切なことを示唆してくれている。


人間のからだを頭部と胸部と四肢(手足)とに分けて考えたとき、その形態にははっきりとそれぞれの働きが現れている。

思考を司り、世界を観察し、世界を認識するために、世界と距離を保って客観的たらんとしている頭部においては、 その器官が頭骨という硬い壁によって世界と隔絶されていなければならない。

それに対し、運動を司り、世界のなかを動き回り、世界にたいして働きかけるために、世界とより密接であろうとする四肢においては、 その器官は世界とより深くつながり、感じ分けるための柔らかさ(肉)を表面に配し、 それを支えるための支柱(骨)は内側に引っ込んでいなければならない。

頭部は世界と距離を保つために閉じられ、四肢は世界とつながるために開かれている。

「閉じられた頭」と「開かれた手足」。
「観察する頭部」と「関係する四肢」。
「内の世界を作るもの」と「外の世界を作るもの」。
「思考」と「意志(活動)」、「反感」と「共感」、「静」と「動」。

人体においてその両端に、相異なる二つの要素が現れているのだ。

そしてそれら異質なもの同士をつなぎ、結ぶもの。

それが「胸部」である。


違う性質をもつもの、違う速度をもつもの、違う密度をもつもの、そのような異質なもの同士が出会うところには必ず摩擦が生まれ、 それは振動となって表出する。

振動とは、すなわち波であり、音であり、リズムである。

多様性に満ちた世界においてはいたるところにリズムが現れているわけで、「世界は音である」といにしえの賢人が語ったのはそれゆえのことである。


そこで胸部に目をやると、そこには肋骨に覆われた肺と心臓がある。

さらによく観てみると、それらのすべてがリズムに満ち満ちている事に気づく。

まず胸部の中心に心臓があり、そこでは脈のリズムを打っている。
それを覆うようにして肺があり、そこでは呼吸のリズムを打っている。

それらのリズムは「一息四脈」の言葉のとおり、正確に1:4の比率を保ちながら、やがてリズムが消えるその日まで、 命のリズムを刻み続ける。

その命のリズムを守るようにしてそっと包み込んでいる肋骨には、やはり繰り返しのリズムが形となって現れている。

砂漠に刻まれた風紋のように、12本の骨によって目に見えるリズム(パターン)を刻む肋骨は、 頭部に向かって閉じてゆき、脚部に向かって開かれている。

「胸部のリズム」が、「閉じられた頭」と「開かれた手足」を引き合わせている。

二つの異なる働きが出会う胸部において、まさに命のリズムの重奏が奏でられているのだ。


人体を弦楽器に喩えるならば、四肢が世界に張られた弦であり、頭部はそれを響かせる弓である。

頭部が四肢をかき鳴らし、四肢が世界と共鳴する。

頭部と四肢との仕合わせな拮抗、調和が、美しい音楽となって胸部に現れるのだ。

私に言わせれば胸部のデザインとは、まさに音楽そのものである。

命のリズムはその美しい調和においてもっとも光り輝く。

私が「動く」ということと「考える」ということの調和を最も大切にする理由はそこにある。

どちらだけに片寄っても美しい音楽は生まれない。

弓と弦との仕合わせな関係が美しい音色を生み出すのだから。

その人の人生における「動」と「考」のバランスは、胸部のリズムとデザインに直接現れる。

(そういえば野口先生が杉山寧という画家の「生」という絵に描かれた裸婦を観て、「この女は頭の働きでからだが活きている。知恵で育てたからだだ。」と評したことがあった。)

胸部における脈は、呼吸は、骨格は、その人の人生が奏でる音楽なのだ。

自分の胸に手を当て、その拍動を、その呼吸を、その構造を、そっと感じてみれば、そこに自分の奏でる音がある。

世界でたった一つのあなたの音だ。

もし私がさまざまな人間の骨格に出会う機会に恵まれたならば、世界中を歩きながらその骨格を奏でた人の人生を収集し、 譜面に落として回りたい。

世界には、どんなに美しい音楽があり、どんなに悲しい音楽があり、どんなに突拍子も無い音楽があることだろう。

人がいるところに音楽があり、人と人とが出会うところに無数の交響曲がある。


…と、ここまで書いてふと我に返ったのだが、私は一体どんな「子育て講座」をやっていたのだろう(笑)。

そりゃ聴いてる人もポカンとするはずである。

たぶん実際の講座はもう少し「子育て」について話していたような気がするが、 でもいつものことだが何をしゃべったのかはすでにおぼろげであるので、ここからどのようにして「子育て」 の話につなげていったのかは私にも分からないのである。

(でもそういえば「春のからだに向けて」ってことで「肩甲骨はがし」とかやって、みんな盛り上がっていたっけ。 30分以上もオーバーしつつ。)

まぁ、ともかくこれくらいで止めておかないと、さらに突っ込んでいってしまって私にも収拾がつかなくなりそうなので、 やっぱり蔵にしまって置くのである。

まったく発酵途中だというのに飲み始めると止まらんからなぁ…。

もうちょっと発酵していてね。

よいしょ。ズズズ。

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2008年01月29日

書いて書いて

最近、文章ばっかり書いている。

一つはミュートの会報の原稿2本なのだが、コラムはいつもどおりにシパシパと書き上げればいいのだけれど、 季節のからだの手当てについての連載は前号で一巡してしまったので、新たにネタおろしをしなければならず、 どうするかと目下思案中なのである。

でも締め切りは今月末なのでさっさと決めて書き上げねばならない。

う〜む。さてどうするか。


二つ目は横浜の精神障がい者の人たちの施設の開所3周年の寄稿文である。

このまえ訪ねたら、開所当時から関わっていた私に「何か書いてもらえませんか」とお願いがまわってきたので「いいですよ〜」 と返事をしたのであるが、引き受けたら突然すまなそうな顔をして「それですいませんけど明後日締め切りなんです」と無茶なことを言われる。

それで、たいした量でもないし今すぐ書いてしまえと思って、モバイルPCを取り出しパシパシと原稿用紙一枚分を書き上げその場で納品。

仕事はその場で終わらせるのが一番。


そして三つ目はクーヨンの連載記事である。

今まで2回ほど取り上げていただいたクーヨンであるが、 ありがたいことに「4月号から連載をお願いいたします」とのオファーをいただいた。

4月号からというのでまだまだ先の話と思い、「いいですよ〜」とへらへら返事をしたのであるが、 考えてみれば雑誌の4月号というのは3月に発売されるのだ。

雑誌を3月アタマに発売するためには2月の中旬には校了せねばならず、そのためコラムの原稿締め切りは1月末であるという。

げ。

すぐじゃん。

最初、編集部のほうから「こんな感じで書いて欲しい」とオファーがあったのだけれど、担当のHさんに 「そういうんじゃなくてもうちょっと違う感じがいいなぁ…もじもじ」とちょっと駄々をこねてみたらさっそく編集会議にかけてくれて、 「RYOさんのイメージで編集会議で『GO!』が出ましたのでそのイメージでよろしく」と、鮮やかな手腕を発揮していただけた。

さすがプロフェッショナルエディター。素晴らしい。

しかしそこは仕事人。

「でも私からはRYOさんのおっしゃるイメージをうまく説明できなかったので、一発目の原稿でバーンと説得しちゃってください」と、 しっかり締めるところを締められる。

げ。

プレッシャー。

でも自分で言った以上、吐いたツバ飲むわけにはいかない。

これまた締め切りは今月末。

う…。


さらにもう一つは朝日カルチャーセンターからのオファー。

朝カルの敏腕チーフNさんから「RYOさん、最近忙しそうだけど親子の講座やりませんか」と電話がかかってきたので、 「それはもうぜひ喜んで」とお答えしたら、「講座名はね、『ママは子どもの整体師』っていうの。どう?」と電話の声がはずむ。

それで私もすぐさま「お、いいですね!素晴らしいです!」とレスポンス。

最近私もまさにちょうどそのことを考えていて、あるママさんに「お母さんは自分のからだを整えるだけじゃなくて、 子どもを導かなくちゃいけないのだから、立ち位置としてすでに整体の指導者なんです。」と言ったばかりだったので、 これはめぐり合わせと思って「そうなんですよね。まさにそうなんです。」と電話口で盛り上がる。

こういう「間がいい」というか「勘がいい」というのが、さすがNさんである。

こういうご縁が起きるのを「縁起」というけれど、そういうのを引き寄せる人はやっぱり何かセレンディピティとでもいうべき資質があるような気がしてならない。

それでフライヤーに載せる講座案内の文章をイラストつきで書いて欲しいというので、それもまた書かなければならない。

ふと「これはもしや…」と思い、「それでいつまでに…」と恐る恐る訊いたら、「来月で大丈夫です」というお返事をいただいたので、 とりあえずほっと一安心。


…とまぁ、そんなこんなで書かなければならない文章がどどっと押し寄せて溜まっているのだけれど、 そんな合間に今こうしてブログなんか書いていると、「そんな場合じゃないだろう」というさりげないツッコミがアタマの片隅をよぎる。

そうですな。ごもっとも。

ということで、そそくさと文筆モードに戻るのである。

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2008年01月20日

食という祝祭

「前回のクーヨンおさらい会の記事をアップしておくれやす」というお願いコメントをいただいたので書くことにする。

しかし書くのはいいが、何をしゃべったかすでにおぼろげである。

たいてい私は、初めての方が多い講座の場合はあらかじめレジュメを作っておくのだけれど、ずいぶん前にも触れたとおり、 私は決してそのとおりに進めるためにレジュメを作っているわけではない。

そのとおりに進めようとしつつも聞き手の反応次第でどんどん話が逸脱してゆく、その「逸脱具合」 の目安になるようにと思って作っているのである。

レジュメの流れが一本線だとしたら、それをぐにゃぐにゃと道をはみ出し蛇行しつつ、最終的な締めに向かうのが実際の講座である。

私としては、「こんなに脱線してこの話はこのまま無事にちゃんとオチるんだろうか…」 という一抹の不安を受講者にみなさんに抱かせつつ、最後には見事にオトして「なるほど!」と膝を打っていただきたいと、 こう思っている次第なのである。

…ってそんなこと書いちゃって、自らハードルを上げているような気もするが、ともかくそういうことなのである。


たとえば前回の記事に書いた「からだゆるし」のお話は、本当はこのまえの講座の中でお話しようと思っていたのである。

(と言ってもその話そのものがレジュメには出ていないので、すでにして「脱線用のお話」であるのだけれど…)

講座の数日前、中央線に揺られつつ「今度の講座で何をしゃべろうかな」と考えていたら、「ゆるむことの極致にゆるすということがある」 という言葉がまるで天から降りてきたかのようにフッと湧いてきたので、その瞬間むむっと思って忘れないうちにその言葉をサラサラとメモし、 「よしよし、これは今度の講座のよいネタができた」と一人ぐふふと笑っていたのである。

しかし講座というのはナマモノであるので、しゃべろうと思っていた話が口から出てくるかどうかは、 そのときになってみなければ分からない。

そして結局、今回の講座では私の口からその話は出てこなかった。

私にもよく分からないが、ということはつまり、今回の講座では「お呼びでない」ということだったのであろう。

でもべつに全然構わない。

自分の腹積もりよりも講座の流れの方が大事だ。

それにブログで書けばいいし。で書いちゃったし。


とまあ、そんなことはともかく講座の話である。

講座ではいろいろお話したけれど、ここでは「食べる」ということについてもう一度触れてみたい。

誰しもうっすらとは感じていることだと思うが、現代人は、というより正確には先進国の人間は基本的に「食べ過ぎ」である。

書いてて自分も耳が痛いが事実である。

「食べ過ぎ」というと純粋に量的な問題、カロリー摂取量の問題として常識では考えられているが、整体で言う「食べ過ぎ」 とはもっと広義なニュアンスが含まれている。

たとえば目の前に自分のもっとも嫌いな人がいて、 その人のイヤらしい自慢話を延々と聞きながらご飯を食べなくてはならない状態にあったとする。

顔は作り笑いのために不自然に過度の緊張を強いられ、あんまり熱心に聞いてしまうとストレスが溜まりそうなので聞き流してはいるが、 適度に相槌を打てる程度には話を聞いていなくてはならない、というようなそんな状況でご飯を食べているときに、 からだの面から見た場合にそれは果たして「食べる」という行為をまっとうできているのか、ということである。

よく言われることだが、内臓の働きは感情の働きと密接に関連している。

そんな状況で胃袋などの消化器は活発に働けるのかと言われれば答えは「ノー」である。

胃袋が働こうともしていないところに食べ物をどんどん入れてゆくのは、消化器にとって負担でしかなく、からだの面から見れば 「食べたくもないのに食べる」のは、一口だって「食べ過ぎ」と言っても良いくらいなのである。

だから「食べ過ぎ」の問題は、その食事の「量」だけでなく、「食べ方」についても考えられなければならない。

誰と食べていたか。どんな雰囲気で食べていたか。話題は何だったか。料理の組み合わせは良かったか。タイミングは良かったか。 盛り付けは美しかったか。お皿は汚れていなかったか。お箸やフォークはちょうど良いものだったか。椅子の座り心地は良かったか。 お店ならばサービスは良かったか。値段は適切だったか(これは難しい)。ゴキブリは入っていなかったか(笑)。

…などなど、細かく挙げればキリはない。


さまざまな文脈の結束点としての「食」という祝祭が、きちんと言祝がれていたかどうかということは、「食」と「人間」 の関係を考えていく上でとても重要なことである。

大事なことは「食べる」という行為に向けて、からだを「その気」にさせてゆくことである。

そのためには、ちょっと我慢させるのも良し。頑張らせるのも良し。奮発させるのも良し。

「美味しい!」の一言のために意識を集中してゆくということ。

料理を作り、給仕し、それを食した人間の口から思わずその言葉が発せられたならば、そのときその人は最高の「食の指導者」である。

「食」を通じて、人を変え、人を癒し、人を奮い立たせることが出来るだろう。


野口先生のエピソードで「食べ過ぎの人」の話がある。

毎晩、接待接待で胃袋が荒れていた男性がいて、野口先生にからだを見てもらっていた。

「何を食べているんだ」と問われれば、「あんまり覚えていないんですけど…」と言いつつ、口から出てくるのは豪勢な料理ばかり。

「うまいのか」と問われれば、「よく覚えていません」と答える。

からだを見終わったあとに、野口先生が一言。

「接待が終わった後にあなたが本当に食べたい物を食べなさい」


人間だって胃袋だって、やりたくもないことをやらされていれば、そのうちクサって鬱屈してくるものである。

やりがいのあることならば、それがどんなに大変なことであっても、溌剌として活動できる。

くたびれるかどうかということは、仕事量よりもむしろ「その気」になれるかどうかの問題である。

食べ過ぎで胃袋が壊れかけている人に「食べたい物を食べろ」とは、乱暴なようでいてその実、 きちんと見るべきものを見ているような気がするのは私だけではないだろう。

前にテレビでやっていた実験で、お腹いっぱいの女の子の胃袋を医療機械で観察しながら目の前に大好物のケーキを差し出し、 「食べてもいいよ」と声をかけるとたちまち胃袋がモニョモニョと動きはじめ、 1分もしないうちにそのケーキ一個分のスペースを胃袋上方に作り出してしまうという映像があったけれど、 人間のからだというのは自分の要求に沿うものに対しては最高のパフォーマンスを発揮するものである。

人間は機械ではない。

口から入ってきたカロリーが、そのまま運動エネルギーになるわけではないのだ。

たしかに栄養も大事だし、カロリーも大事だ。

だが人間は栄養やカロリーを食べているわけではない。

「食べる」という「人間の営み」そのものを見つめる眼差しがあって初めて、「食べる」という行為が「育てる」 ということにつながってゆく。

だから「家庭の食卓」というものを考えたときにも、そのような「場作り」というものも観点に入れつつ、祝祭としての「食」 を作り上げていっていただきたいなと、このように思う次第なのである。

…ということで、やっぱり講座の話からはだいぶ逸脱してしまっているわけだけれど、どんなに話が逸脱しようと、 私の言いたいことはちっとも変わらないのである。

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2008年01月12日

からだゆるし

からだのことをやっている方はよく分かると思うが、「からだをゆるめる」ということはホントに難しい。

「からだをゆるめる」ためにはまず今ある「からだの緊張」に気づかなくてはならないが、人間、 自分のからだの緊張にはなかなか気づけないものである。

このまえも久しぶりに大学時代の友人と会って話をしていたら、友人のからだの不調の話になって、 しばらく話を聞いていたらふと思い立ち、その友人の手をとって自分自身のからだの緊張を気づかせてあげようと色々動かしてみたことがあった。

最初は「ほら、緊張してるでしょ?」と指摘しても意味が分からず困惑していたけれど、しばらく動かしていたらそのうちハッと気づいて 「あ!ホントだ!」と、そのときはじめて自分がどれだけ肩に力をいれて肩肘張っていたのかを知って、「ホントにそのまんまだね。」 と感慨深げにつぶやいた。

多くの人は目の前で実際に示して指摘されても、そのことに気づくまでには時間がかかる。

それくらい人は自分のことは気づけないものであるが、たとえ自分が緊張していることに気づいたとしても、 それをフッとゆるめることができるようになるまでには、まだまださらに時間がかかる。

でもそれでも「緊張していること」自体に気づけたことが大事だ。

どれだけ指摘しても気づけなくなってしまっている人も多い中で、短時間で気づくことができたのは、 まだまだ変化する力がある証拠である。

何事も気づいたところから変わり始めるもの。


しかし、こうして「からだをゆるめる」ということを日頃やっていると、「ゆるめない」「ゆるまない」 ということと否が応でも向き合わざるを得なく、それはいったいどういうことなんだろうとずっと考え続けている。

そして最近ふと思った。

「ゆるめる」ということの極致には「ゆるす」ということがあるのではないかと。

「ゆるめない」ということは何か「ゆるせない」ことがあるのではないかと。

人間誰しも生きていく中でさまざまな「ゆるせなかったこと」があることと思う。

それらさまざまな「ゆるせなかったこと」たちは、決してその場限りで消えてなくなっていってしまうものではない。

きちっとその場で怒りを露にして「ゆるせないこと」を表明すればまだ発散は済むけれども、それを我慢し裡に押さえていると、抑圧され、 内攻し、からだの中に凝縮されてゆく。

幼少時から現在に至るまでのさまざまな「ゆるせなかったこと」たちは、それはそれこそ言葉どおり「しこり」となって、 からだの中にゆるまない部分を生み出し、その近辺に緊張と硬直を作り出している。

ある経験を通じてからだがゆるみフッと緊張がとれた人が、突然忘れていた過去を思い出し、激しく感情を発露して、 そのときの心体験をもう一度経過するということがしばしばあるが、そうして改めて経過を全うさせることで「しこり」が解けて、 芯のところからゆるみはじめるのだ。

その経過はときに物凄い激しいものとなることがあり、私の知人でも医者に「生きているのが不思議だ」と言われるくらいに血圧が低下し、 必死に自分自身と向き合って克服した人がいたけれど、自分のからだと向き合うということは演出家の竹内敏晴さんが言うように、ときに 「地獄の釜の蓋を開けるようなもの」であることもある。

真に「癒える」ということは生半可なことではない。

「癒える」ということが血ヘド吐くような経過をたどることだってある。

からだには、人生のすべてが刻み込まれているもの。

それと向き合い、それを解きほぐしてゆくという作業は、「ゆるむ」という言葉だけでは言い表せない「何か」がそこにあるように思えてならず、じゃあそれは何なのかと言われれば、それが「ゆるす」という言葉で表現されるような「何か」である気がするのだ。


「ゆるめる」ことは難しい。

「ゆるす」ことはもっと難しい。

けれども、自分はいつまでその「ゆるせない」ことを抱えて生きてゆくのかと、ふと冷静に考えなおしてみれば、 なんだかバカらしいなとも思えないだろうか。

ゆるめてみたらどうだろう。

ゆるしてみたらどうだろう。

そうしたら、からだの片隅で、固まり、こわばり、止まっていた時間がゆっくりと溶け出し、流れ始めるかもしれない。

変わることなんてありえないと思っていたものが、少しずつ動き始めるかもしれない。

もしかしたら。

ひょっとして。

何事も気づいたところから変わり始めるもの。

ゆっくりと。

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2008年01月07日

しぜんいくじ全国ミーティング講座

5月10日(土)から5月11日(日)にかけて
代々木にある「国立オリンピック記念青少年総合センター」において催される
「NPO法人 自然育児友の会」主催の「しぜんいくじ全国ミーティング」で
『整体的子育て講座 武術に学ぶからだ育て』を行ないます。
ぜひぜひ振るってご参加ください。


●『整体的子育て講座 武術に学ぶからだ育て』

武術の動きのなかには長い年月をかけて磨き上げられてきた
合理的な身体運用の技術がたくさんあります。
「からだが資本」とはよく言われますが、武術という日本が誇る
身体文化から私たちが学べることはとても多いのです。
親子で簡単な武術の動きなどを体験してみながら
自分のからだにいろんなことを学んでみましょう。

日時    【しぜんいくじ全国ミーティング第2日目】
       5月11日(日) 9:30〜11:30 (受付9:00〜)
会場    東京都渋谷区代々木神園町3−1
       国立オリンピック青少年総合センター 【センター棟501】
       小田急線「参宮橋」駅より徒歩7分
講座名   分科会B こころとからだの講座
       B-4 『整体的子育て講座 武術に学ぶからだ育て』


料金などその他詳細・申し込みはこちらから
→『NPO法人 自然育児友の会

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2008年01月03日

こんな年始でスミマセン

みなさま、あけましておめでとうございます。

本年もみなさまにとってよりよい年でありますよう、心よりお祈りいたしております。

そして今年もまた、とりとめない雑念妄想にお付き合いの程、どうぞよろしくお願い申し上げます。


しかし今年は驚いた。

元日明けた2日の朝、からだの調子がすぐれないので「こりゃ風邪だな」と思ってどこにも行かない寝正月を決め込んでいたら、 みるみるうちに具合が悪化してきて、昼には猛烈な頭痛にのた打ち回ることになった。

ここ数年は無かったけれど年末年始あたりに激しい風邪を経過するのは私のからだのクセで、 いつもは消化器系の風邪を引いて下痢と嘔吐にのた打ち回るのだが、頭痛にのた打ち回ったのは初めてである。

私もからだの痛みにはずいぶん強い方だが、手足や他の部位が痛いのと違ってアタマの痛みがこれほど辛いとは思わなかった。

いやぁ、ホント死ぬかと思った。


もうどんな姿勢をとっても5秒後には辛くなるので延々と姿勢を変え続け、右を向いたり左を向いたり、上を向いたりうつ伏せになったり、 座ってみたり布団にアタマを突っ込んでみたり。

時折、気を失うようにして眠りに落ちるが、すぐまた目が覚めるとふたたび激痛に襲われる。

とにかく布団の中でびっしょりと汗をかき続けるが、 胃袋の幽門が閉じているのか口に何を入れても胃袋にとどまるばかりでしばらくすると全部戻してしまうので、水分の補給もままならない。

汗をかいて嘔吐してばんばん水分を失っているのに水分補給が出来ないもんだから、そのうち唇はカサカサしてくるし、 のどはイガイガして痰が絡んでくるし、そのあまりの苦しさに、

「うぅ…何でオレがこんな目に…、神様!私が何か悪いことでもしましたか?」

と天を仰いで悪態の一つでもついてやりたかったが、そんなことをしたら枕元で神様に、私の悪行の数々を諄々と列挙し諭され、 よりいっそうアタマが痛くなりそうなので諦めるしかない。

チクショウ。このやるせない思いをどうしたらいいんだ。

と、仕方が無いので友達に「アタマが痛くて死にそうだ」とメールを送ると、しばらくして返ってきたメールには「死んだら治るよ」 という温かいお言葉が。

持つべきものは友達だなぁ。コノヤロウ。


結局2日の昼から3日の朝まで20時間近くもだえ苦しんで、ようやく落ち着いてきたので、今こうしてブログを書く気にもなれたのだけれど、 今回「何事も無い」ということがいかに仕合わせなことであるのか、しみじみと感じ入った。

いやぁ経過してみれば、水もうまいし、空気もうまい。

東京に居てこんな仕合わせを感じられるのも病気のおかげか。

けれどもやっぱり正直、こんな劇症型の経過は今回限りでご勘弁願いたい。

からださんよろしく、ね。


みなさまには年始早々こんなエントリーで申し訳ないが、私の一年はこんな感じで始まりましたというご報告ということで。

今年もどうぞよろしくお付き合い。

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2007年12月28日

大掃除

今年も残すところあと3日。

年賀状を早いところ書き終わらせなければならない。

毎年早めに書き終えようと思いつつ、いつもこんな遅くなる。

学習能力がケータイ以下だ。

今年はゴム版画にしようと思って新宿の世界堂でゴム版を買ってきたのだけれど、「う〜む、何を彫ろうか」 と悩みながら筆でいろんなデザインを描いているうちに、結局手書きで書くことになってしまった。

相変わらず私の年賀状作りは思いつきでころころ変わる。

だが一度決めてしまえば後は早い。サラサラと年賀状を書き上げてゆく。

年賀はがきも手作りにすることにしたので、彫ったゴム印で表に郵便番号枠やら年賀の印やらポンポン押して、宛名を書いてゆく。

一晩かけて作業を終えたら、朝早く出来たばかりの年賀状を小脇に抱え、近くの郵便ポストまでトコトコと歩いて投函。

よし。年賀状終了。


すぐさま踵を返し、今度は部屋の大掃除である。

ここ数ヶ月ほとんど手を付けていなかった部屋は、ブタ小屋のようにグチャグチャである。

エントロピー最大とはこういう状態のことを言うのであろう。

熱力学的に言えば「ご臨終」に近い。

う〜む、床にうっすら積もった埃のグラデーションで私の日々の動線がうかがい知れるな…。

ってそんなことに感心している場合ではない。

サイクロンも使い捨て紙パックも無かった時代の骨董品級のピンクの掃除機を肩からぶら下げ、部屋じゅうガーガーと掃除機をかけてゆく。

骨董品とはいえ、なかなかパワフルに埃を吸い込んでくれる。

さすがメイドインジャパンの全盛期モデルはタフだぜ。ふんふ〜ん。


鼻歌混じりで快適にガーガーと埃を吸っていたら、部屋の片隅で雪崩を起こしている本の山が行く手を阻む。

むむ。来たな。

よく見れば雪崩れた上にうっすらと埃が被っている。

「ええ〜い、一体いつの雪崩じゃい」と我がことながら憤慨しつつ、 掃除機のアタッチメントをブラシに変えて本を清めてどさどさと積み重ねてゆく。

みるみるうちに本の塔がいくつも屹立する。

チクショウ。また塔の数が増えてしまった。

と、そういえば机の上にも読み終えたままPC入力をしていない本がやはり塔と化し、 私の目線の高さにまで積み上げられていたことを思い出す。

改めて机の上に目をやれば、そびえ立つ本の塔のまわりには何だかよく分からない資料がばさばさとテキトーに置かれ、パソコンがあり、 スタンドがあり、スケジュール表があり、そしてその片隅にかろうじてビールとおつまみがちょこんと置けるくらいのスペースがあるくらいだ。

……。

…とりあえず見なかったことにして、目の前の仕事に集中だ。

掃除は目の前のことだけ集中するというのがベッポ爺さん(@モモ)の教え。


ぐぅ。

そういえば腹が減った。

先にメシを喰おう。

台所に行き素早くうどんを茹でて、足の踏み場も無い部屋で荷物に囲まれながらズズズとすする。

しかし、これはまたずいぶん本がたまってしまったな。

未読の待機本はおそらく200冊を超えているだろう。

独り者でなかったら、怒り狂ったパートナーにすべてブックオフにでも売り払われているところだ。

剣呑、剣呑。

師走にすする一人うどん。

さて、もうひと踏ん張りだ。

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2007年12月19日

寝顔を撮られるような

今年最後の一大イベントであるミュート15周年記念祭が終了。

会場設営をしたり、司会進行したり、演武をしたり、ご挨拶に回ったり、お願いしたりお願いされたり、 あれやらこれやらでてんてこ舞いの一日であったが、なんとか無事に終了したのでホッと一息。

ワニ眼化していた自分のことなどどうでもよいが、いらしてくださった方に喜んで帰っていただけるかどうか、 それだけが心配であったけれど、幾人かに「良い会でした」と言っていただけたので、それだけでワニ眼もゆるゆると緩むというもの。

お心ありがたし。


しかしまだ緩んでほげっとしている場合ではない。

2日後には、新年早々に発売されるクーヨン2月号の記事の校了日が控えている。

子どもたちの武道の授業の合間に手つかずだったゲラに急いで眼を通し、ガシガシと筆を入れてゆく。

筆を入れたらしばらく放っておいて、ふたたびアタマから読み直してまた手を入れなおす。

こういうのは時間を置いて何度も見直さなければ、その文体のリズムや語呂の引っかかり感など気づけないことが多い。

文は意味だけではない。

リズムや呼吸、 音韻といったものもものすごく大事だ。

そんなものもさらっと書ければカッコいいのだが、不器用な私は時を置いて何度も何度も眼を通さなければ、 なかなか引っかかり感に気づくことができない。

むむむと頭をひねって言葉を探していると、一人の生徒がトコトコとやってきて「先生。プレゼント」 とサンタのポストカードをくれた。

そんな心遣いにワニ眼もさらに緩む。

ありがとう。

一足早いちびっ子サンタクロース。


ところで今回のクーヨンの記事は写真が多い。

都内のあるお宅の縁側をお借りして、陽だまりのなか子どもたちが足湯をしている写真を撮影したのだけれど、 どうも写真は苦手なのでカメラはほとんど意識しないで子どもと接していた。

そうしたら上がってきたゲラを見たら全ページに登場している上に、プロフィールなど陽だまりのなかアタマをぴかりと光らせて、 やたら爽やかな笑顔で笑っているじゃないか。

うぅ…恥ずかしい。

こんなに大量に登場しているとは思わなかった。

なんだって私はこんなに自分の姿を見るのが恥ずかしいのか。

多分ふだん暮らしている中で、私がほとんどまったく自分を外から見る眼で見ていないということも関係しているんだろう。

着るものも着心地最優先だし、食べ物も要求優先だし、とにかくなるべく自分のからだの内側からの要求優先で生きているので、 自分を外から客観的に捉えることなんてよほど意識的にやらない限りは日常生活ではないもんだから、改めてそれを見せつけられると、「あ、 こんなふうに見えるんだ」と、なにか夢から醒まされるような状態になるのかもしれない。

そうだなぁ。 自分でも思うけど、半分夢の中を生きてるからなぁ。

写真はつねに寝顔を撮られているようなそんなもんか。


まぁとにもかくにもクーヨン2月号。

子どもの足湯や脚湯、風邪の手当てや冬の過ごし方など、分かりやすくまとめてみましたので、 よろしければ皆さんぜひ書店で手にとりご笑覧。買ってくれればなお結構。

1月4日には店頭に並んでいる予定であります。

うぅ…でも恥ずかしいなぁ。

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2007年12月08日

So touch! Touch! Touch!

先月に引き続きふたたび 「クーヨンおさらい会」を行なう。

先月が盛況で参加できなかった方が何人かいらっしゃったので、今月も第二弾ということで行なったのだけれど、 またもや満員御礼でキャンセル待ちまで出てしまう事態。

なんてこったい。

せっかく問い合わせてくださったのにお断りしてしまった皆さんには申し訳ない限りです。

参加してくださったみなさまには、遠いところはるばるありがとうございました。


とりあえず話の枕には、インフルエンザが大流行しているのでその話。

菌やウィルスというのは空気中いたるところに蔓延しているわけだけれど、その中にいてかかる人とかからない人がいるということは、 かかりやすい人とかかりづらい人がいるということですよ、というお話しからはじめる。

ナスやジャガイモや稲やほうれん草など、いろんな種を同じ土にパラパラと蒔いた時に、どれが芽吹くかあるいはどれが繁殖するかは、 その土の質に拠るように、ウィルスやら菌やらがいたとしてもそれがからだの中で繁殖するかどうかは、からだの質に拠る。

「インフルエンザにかかりやすいからだ」というものがあるのである。

空気中の菌やインフルエンザを全滅させるわけにはいかないので、 私たちにできることはまずそういうものが繁殖しづらいからだを作ってゆくことであり、その上で手洗いやうがいなど、 いわゆる予防対策をしてゆくことである。

じゃあ、どんなからだにしていけばいいのかと言われると、まぁいろいろ細かいところはあるけれども、 整体的に言えばとりあえずこの時期は「水が満ちて、胸が開かれた姿勢」を目指しましょうということに尽きる。

冬の乾燥した空気は予想以上に私たちのからだから水分を奪っており、その乾きによるからだの変動はないがしろにできないくらい大きい。

だから前にも書いたけれど、 冬の間は「寒の水」といってとにかく水を摂ることが健康法になるのである。

そうして、からだ中にみずみずしさが満ち溢れ、新年の希望に胸が広がり深く息が入ってくるような、 そんな姿勢であればとりあえずはよいのだ。

インフルエンザだろうとノロウィルスだろうと、あるいはどんな菌が流行しようと、私たちにできることは、 まずそのようにしてからだという生態系が健やかであるよう整えておくことである。


そんな時節ネタの枕話の後は、整体の基本的な話といろいろな手当ての実習。

ママさん同士手当てをしたり、子どものからだに手当てをしたり。

私がいつも講座の中でママさんたちに繰り返し申し上げていることは、お子さんに毎日触ってくださいということである。

経穴がどこだとか、調律点がどこだとか、チャクラがどうしたとか、スポットがどうだとか、そういうことは何も分からなくてもいいから、 とにかくちょっと意識を集中して、あちこちからだを触ってあげてくださいということである。

私はよく偽札の話を喩えに引くのだけれど、最近の精巧な偽札は一目見てもほとんど分からないくらいすごいものになっているらしい。 (見たこと無いから知らないけど)

けれどもそれでもなお偽札がバレることもしばしばであり、「なぜ偽札が見破られるのか?」といえば、その発見者のほとんどが 「触った時になんとなく感触が違った」と口をそろえて言う。

おそらくほとんどの方がお札の手触りを改めてじっくり確認したことなんて無いと思うけれども、それでも毎日毎日触るものなので、 ちょっとでもその質感が違うと「ん?」と思うのである。

「何が違うのか」は分からなくても、「何かが違う」ことはすぐさま感じ取ってしまう。

それぐらい人間の触覚というのは敏感なのである。


それは子どもを触れるときでもまったく同じことであって、ふだんから意識して触っていれば、何か変化があった時に、「何が違うのか」 はすぐには分からなくても、「何かが違う」ことは感じ取れるのである。

あなたも得意じゃないですか? 男のウソを見破るのとか(笑)。

「何かが違う」のだ。そういうときは。

その直感は、アタマを一生懸命使って考えていたり、 手順どおりに事を進めようとしていたりすると見過ごされがちな小さなシグナルであるけれど、 自分の中でそのシグナルに対するレスポンスの優先順位を高めに設定しておけば、もっと気づけるようになるし、 その感受性はどんどん高まってゆく。

「予定通り進めること」よりも「自分の中の直感」を優先させるというルールを作っておけば良いのだ。

それを「分からない」と言って「分からないつもり」でいられるのは、「まぁいっか」と思う心がどこかにあるからである。 (男のウソの話じゃなくてね。それもそうだけど…)

だから私は、人が何かについていつまでも「分からないつもり」でいるのを見て、なんとも歯がゆく思うこともしばしばである。


ところで話は突然飛ぶのだけれど、講座の中でお互いのからだに触りあったりした時に、受講されている方から「よく分からない」 と言われることがときどきある。

ふだんあまり人のからだに集中して触れることなどないだろうから、「よく分からない」と言われる気持ちも分からないではないけれど、 あまり「そうは言ってくれるな」という気持ちも実はある。

だって、私はべつに何かを分かって欲しくて触れてもらっているわけではないからである。

「分からなくていい」のである。

いや、ホントに。 冗談抜きで。
(さっきと言ってることが矛盾してる気がするのは、気のせいであるのでドントマインド)

いきなり人のからだに触れて「何かが分かる」わけなどないし、 そもそも人のからだに触れるということはそういう発想で触れるものではないのだ。

「分からない」という表現がつい出てしまうのは、何か「感じるべき正解」があると思って、それ以外の感じているものを「不要」 として捨象してしまっているからなのだろうけれど、感覚の世界とはそういう世界ではないのだ。

そうではなくて、触れれば確かに「何か」を感じるのだから、その「何か」をただ感じてほしいだけなのである。

「こう感じなきゃいけない」なんてことはない。

感覚はつねに未知との遭遇だ。

ただ感じたごとく感じるだけなのだから、それはそのありのままを感じればよいのである。

やるべきことはそれを限りなく丁寧に、微細化してゆくことであって、それが客観的な事実とどうつながるかということは、 また別の問題であり、別の作業なのである。


感覚に正解なんてない。

ましてや私が正解を知っているわけでもない。

学校で身につけた「学力テスト的思考」は捨てて欲しい。

私には私の「感覚の世界」があり、あなたにはあなたの「感覚の世界」があり、ただ私には多少の経験からその私の「感覚の世界」と 「現実の世界」を架橋するための知恵があるというだけで、その二つの世界の行き来の仕方はみなさんがご自分で体得されるしかないのである。

私にできるささやかなことは、その入口らしきところまでみなさんを案内してあげることだけである。


「感じる」ということは、言葉でないものを言葉にしてゆくという作業であり、「考える」 ということはその言葉になったものを類型化し分別してゆくという作業であり、それら「感じる」という「情報化作業」と、「考える」という 「情報処理作業」を、きちんと分けて行なうことが大事だ。

「分からない」という人は、いきなり「情報処理」しようとしているのである。

「情報化」も済まないうちに「情報処理」しようとしたら混乱するのは当たり前だ。

それでも無理に「情報処理」しようとすると、「情報処理」しやすいように「情報化」することになるので、それはつまり「既存の知識」 に適合するよう恣意的に感覚してしまうことになり、当然だが感覚が曇ってくる。

もちろん、まったく「情報処理」を意識しない「情報化」などありえないけれども、それでもその点について自覚的であるということが、 とても大切なことである。

高度情報化時代の現在はほとんどの作業が「情報処理」ばかりであるので、学校で習うこともそんなことばかりだけれど、 何だかよく分からないものと向き合うときはまず「情報化」するところから丁寧にしていかなければならない。

私はつねづねその「情報化」、つまり「名付け」 の大切さを強調し、またその危険性も強調しているのだけれど、ホントにいっつもそればっかり言っているような気もする。


…話がどんどん脱線していくな。

クーヨン講座の話のはずなのだが(笑)。

ともかくふだんから子どもにいっぱい触ってあげていると、子どもの変化にいち早く気づくことができるようになり、 そのことがどれだけいろんなことの予防になるか計り知れないものがあるのだ。

ともかく「何かが違う」ことさえ気づければ、あとはまぁそれなりの対処をすればよいのであって、 それはその後じっくりアタマで考えればよい。

そのためには実践しかなく、そして積み重ねでしかなく、 だからママさんたちには毎日毎日とにかく触って子どものからだを感じてほしいのである。

So touch! Touch! Touch!

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2007年11月28日

ワニ眼

何だか最近忙しい。

恒例の高野山合宿も無事終わり、フゥと一息つきたいところだが、やるべきことが山積している。

まずもっとも肝心な骨組みの部分を手早くササッと片付け、 そうして生まれた余白に遊びを入れながら仕事全体に甘みというか丸みを出してゆくタイプである私は、 いろんな理由でやるべきことがササッと片付けられずにぐちゃぐちゃのままいつまでも目の前に置かれていると、じょじょに不機嫌になって 「ワニ眼化」(@椎名誠)してくる。

かつて学生時代は「つぶらな瞳のRYO」と呼ばれ、友人たちにその眼ヂカラ(?)を称えられた私であっても、 さすがに不機嫌になってくるとワニ眼化してくるものである。

ふだんは犬が甘え、ネコがすり寄り、鳥が歌って祝福してくれる私も、ワニ眼化してくると、犬に吠えられ、ネコに逃げられ、 鳥にフンを落とされるようになる。

ワニ眼化した人間に世界は容赦ない。


バッグに付いた鳥のフンをティッシュでごしごしと拭きながら、「これじゃイカンな」と思った。

身のまわりの潮の流れがぐるぐると激変している。

これはもうさまざまなことのターニングポイントなのであろう。

ワニ眼化して鳥にフンなど落とされている場合じゃない。

やるべきことをやり、言うべきことを言い、目指すべきところを目指すのだ。

やるぞコノヤロウ。


でも「やるぞ」はいいが、いま私はモーレツに勉強がしたいのだぞう。

野口先生とシュタイナー先生の本をもう一度読みなおして、その人間観をまとめて整理したいし、フロイトも読みたいし、 ラカンも読みたいし、茂木さんとか、松岡さんとか、中沢さんとか、いろいろ読みたい本は山ほどあって、 部屋の片隅で雪崩を起こしているんだぞう。

勉強する時間が欲しいぞう。

(うぅ…からだとアタマが3つ欲しい。)


まぁそんなことを言っていても始まらない。

どうしたって目の前のことを一つ一つ丁寧に片付けてゆくしかないのだ。

いよいよ師走。

師も走らねばならぬ。動くべし。

チクショウ。まずはこの鳥のフンからだ。

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2007年11月18日

ほの暗い暗闇のふちで

ダイアログ・イン・ザ・ダーク(DID)」に参加してきた。

去年DIDに参加したという知人の話を聞いてとても興味が湧いて、いつか参加してみたいなぁと思っていたのだけれど、 また今年もやるという情報をうききさんから教えてもらったので、これはぜひ参加せねばと参加してみたのである。 (うききさん、情報ありがとうございます。)

DIDというのは何かというと、いっさいの光が遮断された完全な暗闇の空間を、 数人の参加者とともに視覚以外の感覚を駆使しながら体験するという体験型ワークショップである。

人間はたとえごくわずかな明かりしかない暗闇であっても、 30分から1時間くらいずーっとその中にいるとじょじょに見えるようになってくるという「暗順応」という性質をもっているのだけれど、 DIDではそれすら起こらないような完全な暗闇を再現している。

(ちなみに10年ほど前、「光の芸術家」とも呼ばれるジェームズ・タレル(⇒Wiki)の作品展が世田谷であったとき、 その体験型の作品展示を体験してまわったことがあるのだけれど、 そのうちの一つに真っ暗闇の中に20分間(だったと思う)じっと座り続けて、 前方に設置された超微量の光を発し続ける発光体を知覚するという、地味〜な暗順応体験作品があった。)


今回は、廃校になった旧赤坂小学校の体育館を利用して「放課後」をテーマに開催するということで、 一緒に参加した初対面の人たちと童心に返ったつもりで「真っ暗な放課後」をわいわいと愉しんできた。

だいたい8人程度の参加者が1グループとなって、「アテンド」 と呼ばれるガイド役の人にガイドされながら会場を探検してゆくのだけれど、まずは会場に入る前に目を暗闇に慣らすため、 しばらくほんのり暗い空間で内部の説明や暗闇での振る舞いの作法などを教えてもらう。

ひと通りの説明を聞き、目もだんだん慣れてきたところで、いよいよ完全な暗闇の中へ。

なんだかホントに子どもに返ったようにドキドキ、ワクワクする。


人間というのは普通、はじめての場所に入ったらまず真っ先に「空間認識」ということをするのだけれど、 その一切が暗闇にさえぎられてしまっているので、入ってすぐいきなり軽い混乱(と言うのか何と言うのか)が訪れた。

何となく広いらしいことだけは音の反響で空想できるのだけど、情報はそれだけである。

この感覚はうまく言葉にできないが、「空間を認識できない」ということは「自分の立ち位置をロケーティングできない」 ということであって、おそらく「自分の身体を喪失する」ということにもつながるのではなかろうか。

だからなんだか自分自身が急に不確かなものになった気がした。

「誰にも見られない」ということ。

音もたてずにじっとした瞬間、自分の存在が消えてしまう世界。

「空間の喪失」、「位置の喪失」、「世界との関係性の喪失」。

触ることでしか確認できない「身体」のみがあるということ。

そんな「空間に対する想像力」がいきなり奪われた不安ゆえか、みんな最初は周囲の人たちとどこか触れていないと安心できないようで、 全員カルガモ親子のようにアテンドの後をくっついて「え?どっちどっち?」とか言いながら、押し合いへし合い歩いていくのが、 我ながら何ともおかしかった。


実はこの「アテンド」と呼ばれるガイド役はみな、視覚障害者の方が引き受けている。

考えてみれば分かると思うけれども、私たちに何も見えないということは、ガイドの方だって何も見えないのである。

目の前にかざした自分の手さえ見えない完全な暗闇の中をガイドするためには、暗闇での振る舞いを熟知した人でなければならない。

だからいわば「暗闇の達人」である視覚障害者の方が、そのガイドを担ってくださっているのだけれど、 これが暗闇に入った時にどれだけ頼もしく感じられたことか。

参加者の人たちもみな、まずアテンドの声を聴き取ろうと必死になって、部屋を移動しようなんてときには、「○○さ〜ん。どこ〜?」 と呼びかけてばかりであった。


これから参加される方もいらっしゃるかもしれないので、中での状況はあまり事細かには書かないけれど、 最初の部屋では中に鈴の入ったボールを転がして遊んでみたりした。

まだ暗闇に慣れていないということもあって新鮮な驚きは山ほどあったのだけれど、アテンドの方の「暗闇の世界とのなじみ方」には、 一番驚かされた。

考えてみれば「当たりまえ」のことなんだけど。

転がしたボールが、だれもキャッチできずにどこかへ行ってしまった時に、ささっと行って取ってきてしまうその振る舞いは、 まるで神業のようであった。(って見えないけど)

彼らは普段の生活でそういうことをしていたのか、と思うと改めてすごいことである。

でもやっぱり、「当たりまえ」のことなのだ。

彼らにとってはそれは「当たりまえ」のことで、それは私の「当たりまえ」と現われは違うけれども、しかしそこには何の変わりもない 「当たりまえ」があるだけなのだ。

こんなにも違う「当たりまえ」と接することが、自分の「当たりまえ」を相対化してくれる。

前にこのブログで触れたことのある視覚障害者の内田さんに感じられている世界など、 はたしてどのような現われをしているのか、私には空想することもできない。

自分の知っている世界など、かぎりなく狭い。


そして全部で1時間くらいだろうか、いろいろな体験をしつつ、 ようやく暗闇での振る舞いにも慣れてきた頃にDIDのプログラムは終了するのだけれど、最後に暗闇を出た後、 わずかな明かりのある部屋でゆっくり目を慣らす時間がある。

その部屋は、入口の部屋よりももっと暗いということだったが、 完全に暗順応した私たちの目には入口の部屋よりはるかに明るい部屋であるように感じられた。

カーテンを垂らした壁で仕切られた小さなスペースには、壁際に沿って椅子がコの字に並べてあり、「どうぞ皆さん腰掛けてください」 というアテンドの声に促されて、参加者全員腰掛けてほっとひと息つく。

そしてみんな腰掛けた後、最後にアテンドの方が「空いてる椅子はありますか?」と私たちに何気なく訊いた。

その瞬間、私はドキッとした。

同じとまどいが一瞬みんなの間に走った気がした。

質問の後に訪れた一瞬の空白を埋めようとするかのように、近くの人がみんなとっさに椅子を差し示そうとする。

「あ、ここにあります。」

ごくわずかな光の存在が、瞬時にアテンド役を交代させた。


そのとき私の中で起きたことを何と表現すればいいのか分からない。

不意に訪れた出来事に動揺する自分がいて、その意味を瞬時に了解し動揺を抑えようとする自分がいて、 それらを冷静に感じている自分がまたいた。

不意の刺激に自分がバラッと分裂して、同時にそれぞれの立ち位置で感じ分けている自分がまた統合した時に、 結局カタチをとることができなかった居心地の悪さは、小さな違和感だけを残してぼんやり消えてしまった。

日常の中ではささやかなこととして流れていってしまうことであるかもしれない、ほんの小さな出来事だけれど、 それは確かに二つの世界の狭間で起きた強烈な変化だった。

ごくわずかに世界が変化しただけで、瞬時に入れ替わってしまった「何か」。

劇的な変化であったにもかかわらず、それはきわめて淡いで微細な、ほとんど無いにも等しい小さな変化の結果でしかなかったのだ。

たんに「目が不自由であるかどうか」という話ではない。

自分の存在しているまさにその場所が、いつ、ある二つの世界の境界線となってしまうのか、それは誰にも分からないということなのだ。

そのとき果たして自分がどちらの世界に身を置くことになるのか。

境界線が1ミリずれていたならば、もしかしてその変化を引き受けるのは私だったかもしれない。

あるいは境界線は今この瞬間も私の1ミリ隣にあるのかもしれない。


みんなでそれぞれの体験をシェアして会場を後にするとき、アテンドの方は次のグループのガイドをするため、 そのままほの暗い暗闇のふちに残り、私たちに手を振って見送ってくれた。

闇夜も煌々と明るく照らし出す光の世界へ戻る階段を降りながら、たった今起きたことを私は思っていた。

私が暗闇のふちで見たもの。

私が暗闇の中で対話した相手とは、いったい何だったのだろうか。

Dialog in the dark.

「知らぬままに対話する」という意味もある。

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2007年11月12日

「学問」という熱病

つねづね茂木さんが絶賛している小林秀雄の講演CDの全集を、最近アマゾンで購入し(じつは初アマゾン!)、さっそくMP3にして携帯に入れ、 ちょっとした合間にちょくちょく聴いている。

だいたい1960年代から70年代にかけての講演を収録したものなので、聴衆もまさに昭和の雰囲気で、「全員起立。礼!」 で始まる講演に何とも言えない新鮮さを感じてしまう。

「しゃべる方は自分の商売じゃありませんから、いっこう一生懸命なんかなったこと無いんで…」なんて、 ぶつぶつと愚痴のような言い訳をするところから始まる小林秀雄の講演は、中盤に差し掛かると最初の朴訥とした語り口とは打って変わって、 激しく熱のこもったものになる。

「どうぞ上着をお脱ぎください」と司会に促されれば、「ええ、ええ、勝手にやりますよ」とうっちゃらかして、それより 「もっと諸君と対話しようじゃないか」と、壇上から聴衆に語りかけるのだ。

「どうもやっぱりいろいろしゃべってもキリがないようなことで失敬したな。じゃあ失敬」 と言うが早いかサッと壇上を後にしてしまう去り際などは、もう惚れ惚れしてしまう。


そんな熱っぽい小林秀雄の話を聴いていて、「なるほど茂木さんのあの講演の熱っぽさは、小林秀雄の血を引き継いでいたのか」と、ふと思った。

前から茂木さんがブログにアップしている講演録もちょくちょく聴いているのだけれど、 語られる内容のオモシロさもさることながら、いつもその「熱」に感心してしかたがない。

茂木さんのお話を聴いていると、教育っていうものは「伝染させる」ものなんじゃないかと思えてくる。

「学問」という熱病にかかった人のうわごと(失礼)を聴いているうちに、やがてその熱が感染してきて同じ熱病にかかってしまう、 みたいな。

私なども繰り返し聴いているうちに、気づけばすっかり感染してしまったが、 これは気をつけないとそのうちアディクション(依存症)まで発症するんじゃないかしら。

ホントの学問ってのは「冷静を装った情熱」で、それは気づかぬうちに感染するのだ。

気をつけろ!


茂木さんの話は、一つお話をしゃべりだすと、それに付随したいくつものお話がぱぱぱっと浮かんできてしまって、どんどん連鎖的に次の「島」 へと話が飛んでいってしまう、という感じである。

「でさ、今思い出したんだけど…」と言いつつ、ずんずん進んでいってしまう。

茂木さんの振る舞いそのものが、人間の思考というものが本来決してリニアル(直線的)なものではなくて、 ネットワークのように張り巡らされているのだということを教えてくれる。

茂木さんは「人間の脳がいかなる構造をもっているか」ということを、まさに目の前で再現してくれているのだ。

そうか。

あの髪形を見て最初に気づくべきであった(笑)。


でもネットワークのままじゃ時間がつぶれているから、論理に起こすときにはそれを「一筆書き」で描き直さなきゃいけなくって、 「論理というものは、そのネットワークのうちの一つの経路を恣意的に抽出したものであるのだぞ」ということなのだ。

きっと。

知らないけど。

いつだって人間は綺麗にまとまった「納得いくお話」を欲望し続けている。

ヘンな生き物だ。

人間の頭の中はいつだってピタゴラスイッチで、 年がら年中ピタゴラピタゴラ転がりながら落としどころを探していて、ときどき現れるその絶妙な落としどころにピャーッと興奮するのだ。

落としどころにポコッとはまって、意味が立ち現れる瞬間。

さァ大変だ。

中からドジョウが出てくるぞ。


自らピタゴラ転がって、落としどころにポコッとはまってピャーッと輝くその振る舞いを、みんなの前で再演することによって、 見る者をその知的興奮の悦楽にぐぐぐいっと引きこんでゆく。

それこそまさに一回性の講演の醍醐味だろう。

みんなそんな舞台にぐぐぐいっと引き込まれて全身で熱を浴びたら、どんどん熱病に浮かされてみるのだ。

ふらふらになってぼーっとして、熱を出して汗をかけ。

熱こそがすべての構造をがらりと変える大事な要素。

こころもからだも、「たまには風邪を引いて熱を出せ」と古人は教えているぞ。

ようし。

私ももっともっとピタゴラピャーッとして、熱病感染の宿主(ホスト)を目指すのだ。

「聴けば熱に浮かされる」

おお、なんかカッコいいじゃないか。

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2007年11月06日

クーヨン講座

金曜日。

発売後、注文しようと思って編集者のHさんに電話をしたら、すぐに在庫がはけてしまったそうで「倉庫に一冊も無いんです」 という衝撃的事実を告げられ、嬉しいのか悲しいのか何とも複雑な思いにさせられてしまった『クーヨン8月号』の発売から、はや4ヶ月。

ようやく編集部の倉庫に何冊か戻ってきたということで、さっそく取り寄せて『クーヨン』記事のおさらい会を催すことになった。

前に下北沢のカフェで講座を開催してくれたTさんが、 ミクシィやらで呼びかけてくれたおかげで満員御礼。

取り寄せた『クーヨン』もたちまち完売してしまった。

みなさま遠いところからわざわざありがとうございました。


今回の講座は初めての方が多かったので、まずは「子ども(人間)をどう観るか、どう捉えるか」という整体的な発想のお話からはじめる。

整体的な人間観というのは、いわゆる一般的な人間観とはちょっと違う。

その違いはいろいろあるけれども、一番大事なことは「ダイナミック(動的)なものとして観る」ということであろう。

人間、あるいは人間の営為のようなあるダイナミックな現象があった時に、一般的にそれを考えようとするさいには、 時間を止めてある瞬間の姿形を取り出し、要素に分解して、スタティック(静的)なものとしてじっくり考える、 というのが現代的な考察の基本姿勢である。

なぜなら動き続けるモノは、二度と同じことが起こらない「一回性」の世界にいるわけだけれども、科学において一番重要なポイントは 「再現性」ということであって、そのままでは研究対象になりえないからである。

整体では、その「一回性」のダイナミズムを重視し、対象をもっと流れのままに、ダイナミズムの中に置かれたままで捉えようとする。

そこから見えてくる事象と、そこから出てくるアプローチと、そこから出てくる語り口は、 スタティックな発想の上にどれだけ積み重ねても、つながるものでない。

だから今までの発想の上にどれだけ整体的知識を乗っけていっても、決してその本質的なところはつかみきれないのであって、 発想の仕方そのものから違うんですよ、というアッピールから始めなくては、講座が始まらないのである。

「そんなこと初めて聞いた」という人もいるかもしれないけど、そういうことなんですよ。はい。


子どもにかぎらず、人間とは、きわめてダイナミックなものとして、要求があり、発散があり、活動があり、 絶えず変化し続けているものであるが、それを一瞬止めてじっくり考えてみようという一般的な発想による捉え方では、精密な論文は書けても、 その場で対処するには確実に「一歩遅れる」であろう、ということは誰でもすぐ分かることである。

じっくり止めて考えてみる発想から生まれた対処は、その止めた瞬間にとっては限りなく適したことであったとしても、 一瞬ズレればまったく間の外れたことになりかねない。


だいたい前日に「完璧に」立てたデートプランなど、当日、破綻するに決まっているのであって、 それよりも当日何があってもフレキシブルに対応できるよう、アタマを柔らかく、フットワークを軽くしておいた方が良いに決まっている。

独り妄想的に立てたプランが相手に適うかどうかなど、まったく保証できるもんじゃない。

まぁ、もし自分のために寝ないで完璧に立ててくれたプランを、当日「気が向かない」 とスネる自分のためにあっさり捨ててくれる人間がいたならば、それは愛と呼んでいいかもしれない。

(でも愛は試しちゃいけないよ。イエスがそう言ってる。)


ともかく、今まさにいのちと向き合う現場に置いては、ある限定された状況において100%適したことであるよりも、今この瞬間に70% 適したことであることの方がはるかに重要であることが多い。

「機に応じて敏である」ということが整体的な処し方の要であって、だから私はクーヨンの記事でも、 あのわずかな文章の中で申し上げたかったことは、何かあった時に理由や原因や対処を考えるよりも、まず手が出て、 手を当てることが大事なんですよ、ということだったのである。


一ヶ月間、ちょうど良い時間にちょうど良い湯加減でお風呂を沸かすことのできたお弟子さんに、「君はもう卒業だ」 と免状を出した野口先生のエピソードを取り上げるまでも無く、整体の技術とは、「処」の用い方よりも、「機・度・間」の用い方なのであって、 それが分からないうちはまだ何も分かっていないということなのだ。

それは実践の中でしか磨かれないものであって、いくら勉強したって稽古したって身につくもんじゃない。

私はときどき、「稽古なんていくらやったって上手くなるのは稽古だけだよ」とシニカルに言い放ったりもするが、 ホントにそういうもんである。

稽古は確かに大事だが、稽古だけやってたって何にもならない。

稽古という場を成り立たせているその「力」にまで空想が及ばなければ、稽古の場で何が起きているのか、 その本質を理解することはできない。

そのために必要なのは「場の主体感覚」ということなのであるが、それはまた全然別の話であるので、いつかまた別の機会に。


そういう意味では、講座に来てくださっているママさんたちは、稽古も何も、今まさに一回こっきりぶっつけ本番の現実を生きているのであって、 だからこそ私は本当にすごいと思っているし、尊敬しているし、その笑顔にホッとさせられるのだ。

私は、そんなママさんたちが、ときにあまりに強大に吹き荒れる現実の風に吹き飛ばされることなく、 がっちり大地に足を踏みしめて歩こうというその姿勢に心打たれるものであって、微力ながらでもその助けになることができればと、 心から思っているのである。


…というわけで結局、話はクーヨン講座と全然違う話になってしまったけれど、 同じ話は書いてるこちらが飽きちゃって筆が進まないからこういう事態になってしまうわけで、まぁ平たく言えばいつものことであるのでご勘弁。

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2007年10月28日

子どもを見つめる眼差し

今回の横浜でのボディワークには、整体やシュタイナーに興味があるというお子さん連れのお母さんが見学に来ていた。

6歳の女の子は現在シュタイナー幼稚園に通っているという。

いつもは大人だらけのボディワークに小さな女の子が加わり、非常に和やかで賑やかな雰囲気。

活発な女の子は、みんなの真ん中でいろんな踊りを踊って、おどけてみせる。

笑いが絶える暇が無い。


今回もいつものようにみんなで車座に座って講座を進めたのだけれど、こういうとき真ん中にぽかんと空間が空いていると、 たいてい子どもはそこでみんなの注目を浴びながら遊びたがる。

私はいつも子どもがいるときはなるべく真ん中にスペースを開けて、あえてそういう場を作るようにしているのだけれど、 それはそのように多くの大人たちに見守られる中で自由に振る舞うということが、子どもをとても満ち足りた状態にしてくれるからである。

子どもにとっては「注意の集中」こそが生きる糧である。

それがすべてと言っても良いくらいだ。

子どもに注意を集中してあげることが、どれだけ多くのゴタゴタを解消してくれるか分からない。
(もっとも大人の世界でもさほど変わりは無いかもしれないけど)


ただそのとき大事なことは、見つめる大人の眼差しに「何の要求も無い」ということだ。

たとえば今回の場などはいちおう「私の講座」であるので、社会的な合意としては「みんな私の話を聴いていることになっている」 ので(ホントはどうか知らないけど)、その合意を崩すような振る舞いに関しては、その場に強い自制がかかっている。

だから周りの大人は、遊んでいる子どもを見つめるときにも、言ってみれば「先生の話を聴いている」 という振る舞いをしながらの眼差しとならざるをえないので、どこか抑制のかかった眼差しで子どもを見ることになるのだ。

本来なら空間的中心にいる子どもには全員の集中がガッと集まるはずであるのだが、そこに表象的中心としての私がいることで、 過剰な集中が行なわれないように微妙に調整されている。

その場の中心人物である私が、その子の自由な振る舞いを許し、認めていることで、その子に対する周囲の干渉が何とはなしに自制され、 「先生が放って置いているんだから、放って置くか」という暗黙の了解がなされて、子どもの自由な振る舞いが許されることになるのだ。

その場の大人たちの集中を一身に浴びながら、そこに強制が無いということ。

子どもにとってこれほど嬉しいことはないだろう。


そのような「自由広場」こそが、そこにいる者たちに新しいチャレンジを促し、新しい発見を呼び込み、 新しい芸術を生み出すきっかけとなるということは、歴史を見ればよく分かることであるが、 それは小さな場においても同じことであると私は思う。

「何の要求も含まない眼差し」「ありのままを見る眼差し」で見つめられているときに、子どもはまったく自由に振る舞うことができ、 そのとき子どもは自分自身のさまざまな可能性を自由に探究することができるのだ。

大人が「ありのままを承認している」ときに、子どもは新しいことにチャレンジできるのであって、大人に「承認されていない」 と感じているとき、子どもは「その承認を得るための素振り」ばかりを振る舞うようになるだろう。

それは母子研究の第一人者であるジョン・ボウルビィが提唱した「安全基地(⇒参照)」 ということにも通じるが、安心して帰れる「安全基地」があって初めて、子どもは未知への探検に邁進することができるのであって、 もしも帰るべき「安全基地」がきわめて不確かな「不安基地」であったとすれば、新しい探索の旅に出ている場合などではなくて、 自分にとっての「安全基地」をより確かなものに構築することに専念せざるをえないのは当然のことである。

もし自分がどんなに変化したとしても、いつでもそれを丸ごとありのまま受け入れてくれる「安全基地」があったとしたならば、 どれだけ安心して自分を変化(成長)させてゆくことができるだろう。

そのことの意味は予想以上に大きいが、なかなか省みられることが少ない。


子どもは「見てて」が好きである。

子どもはいつだって「見てて」ほしい。

けれどもその「見てて」の要求は、あくまで「私を丸ごとすべて見ていてね」ということなのであって、 あらゆるこちらの色づけは一切要求の範疇の外にあるのだ。

もし自分をそんな眼差しで見つめてくれる人がいたのなら…

それはどんなに仕合わせなことだろうか。

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2007年10月18日

丸ごとドカンとぶっつかって

最近ずっと散歩をしていない。

いや、街中を歩いてはいる。

土のうえを、緑のなかを、歩いていないのだ。

むむ。それはイケナイ。

大地を歩け。植物と触れ合え。

意匠を凝らした記号あふれる街を出て、なんだかワケの分からないモノ溢れる森の中へと行こうではないか。

書を捨てて、町も出よう。


都市は意匠に満ちている。

見渡せばどれもすべてが誰かが考え、トンテンカンテン作ったものばかりだ。

ありがたい話であるが、それがうるさいときもある。

都市のど真ん中で、意味の無いモノがドデンと構えていれば、たちまち「責任者出て来い!」と怒鳴られ、 ガラガラと撤去されるしかないのだ。

意味の無いモノは、「とくに意味はありません」という文脈に乗っていなければ、その存在も許されない。

だから都市では、うるさいくらいのアジテーションが繰り返される。

「意味の無いモノは去れ。仕事の無いモノは消えろ。」

そうして気づけばいつのまにか、何らかの「意味」に回収されてゆく。

分解を担うモノの世界である「土」を固めて覆ってしまった都市では、解体するのも誰かがやらなけりゃいけない。

森では、ゴミも食べ残しも死体でさえも、「ポイ捨て」こそが自然の理にかなっていた。

ただそこに置いておけばよかった。

意味なんて無くても、いのちがそれをいのちに変えた。


都市にいると、「世界は丸ごと全体一つの混沌である」という事を忘れがちだ。

「エコロジー」とは本来そういうことであったはず。

そうなのだ。そういうことなのだ。

森に分け入り、なんだかワケの分からないモノを見て、なんだかワケの分からない音を聴き、 なんだかワケの分からない虫にまとわりつかれながら、なんだかワケの分からない所を歩くのだ。

足の行くまま森をずんずん歩いて、ワケの分からない存在に行く手を阻まれたら、「オマエは何だ?」と体当たりでぶつかってやれ。

そして、ドカンとぶつかったらいとも簡単に跳ね返されて、「痛い!」ともんどり打ってぶっ倒れたら、空を見上げて笑うのだ。

ぶつかった痛みが、激しい息切れが、心臓の鼓動が、空の青さが、土の冷たさが、草の匂いが、虫の声が、すべてが丸ごと全部「自分」 なのだ。

自分が感じている「世界」は、世界を感じている「自分」そのものでもある。

世界は自分だ。

自分が世界だ。

ワケの分からないのは全部自分なのだ。

何とか言ってみろ!

「わー!」

叫べば、それが世界の咆哮だ。


人間は永遠に謎で、世界もまた永遠にワケが分からないが、

その息づかいを感じることだけはできる。

ざわざわと。 がちゃがちゃと。 そよそよと。 ごうごうと。

ワケは分からなくても愛することはできる。

一緒に息をすればいい。

森に住む人がハダカで生きるのは、森とともに息をし、いのちを交歓しているからだ。

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2007年10月11日

読書のススメあるいは物語の相転移

読書の秋である。

食欲の秋でもあるし、スポーツの秋でもあるが、読書の秋である。

記録的猛暑であった今夏は、私もほとんど溶けかけのハーゲンダッツと化し、気づくと全開に開いた汗腺から魂がでろーんと抜けて、 完全な「ノータリン(脳足りん)状態」となっていたので、いっこうに読書が進まなかった。

けれども、ここ最近ぐぐっと深まる秋の気配にふたたび脳みそもきりりと凝縮し始めたので、 小難しい本でも読んでやろうかという意気込みとともに心地よいアイドリング状態を回復してきた。


私はいわゆる「本の虫」である。

多感な中学時代に二年間、図書委員長を務めて以来、片時も本を持たずに出歩いたことが無い。

たとえ手ぶらで外出することがあっても、ジーンズの後ろポケットにはテキトーな文庫本を差し込んでおくくらい、 本が好きでしょうがない。

あんまり本を愛して止まないので、他の人にもぜひその喜びを分けてあげたくて、後輩などには「本はいいよ〜。 本は人生を豊かにしてくれるよ〜。何でもいいから読みなさ〜い。今すぐ読みなさ〜い。」と暗示をかけてその気にさせて、 「じゃあ〜読んでみますぅ〜」と、その手に私のオススメ本を持たせてふらふらと帰らせたりもする。


松岡正剛さんは「いろんな状況下で本を読む」という読書術を提唱しているけれど、私もふだん 「新宿駅構内を本を読みつつ人ごみをスルスルと避けながら歩く」とか、 「電車内で吊り革や手すりにつかまらずにバランスを崩さぬよう本を読む」とか、そんなはた迷惑な「読書稽古」ばかりしている。

そのおかげか知らないけれど、最近は「何かをしゃべりながらアタマでは別のことを考える」という「パラレル思考」というか「インテル Core 2 Duo プロセッサー思考」も、徐々にだができるようになってきて、しゃべるということは必ずしも考えなくてもできるのだ、 というヘンな確信を持ちつつある。

「しゃべる」ということは、確かに「表象の現れ」ではあるけれど、「口舌の運動」という身体動作でもあって、 どうもかなりの部分まで思考を関わらせることをやめて、自動化できるようである。

平たく言えば「口が勝手にしゃべる」ということなのだけれど、ただ、知らぬうちに己の無意識が露呈して、 とんでもないことを口走る可能性も無きにしもあらず。

「無意識の扉」を開放するようなことは、きちんとその「放水弁の取り扱い」を身に付けてからにしないと、周囲の人のみならず、 自身の身心にとっても極めてテリブルな状況を招くこともあるので、あまり迂闊にオススメはできない。

でもそれより、そんなことばかりやって、ますますデタラメな人間になって、 社会不適応者になってゆく私の将来を心配するほうが先かもしれない。

はたして私はどこへ向かおうとしているのだろう。


本の話であった。

本というものは、それが小説であれ、学術書であれ、児童書であれ、あるいは写真集であれ、すべて一つの物語として成立している。

あらゆる本は、「はじめに」に始まり「あとがき」に至るまで、ある人物が、ある時間、あることを主題に置いた「思索の旅」 のその旅程の記録であり、それを読者に向けて語り聞かせた一つの物語なのだ。

そして、そんな物語を構成しているのが「言葉」であり「文字」である(写真集の場合は写真だけど)。


私は文章を打つ際にはいつも、「新解さん」 とともに先ごろ亡くなった白川静先生の『常用字解』(白川静、平凡社、2003)を傍らに置いている。

そして、文章をパシパシと打ちつつ、時折ふと「この字の由来って何だろう?」と思い立っては、『常用字解』をパシャパシャめくって 「ほぅ〜。そうだったのか」と感心して遊んだりしているのだけれど、そのたびいつも思うのは、「字というものも、 また一つの物語であるのだなぁ」ということである。

字には一つ一つその字源があり、由来があり、物語がある。

調べてみれば実に豊かな物語が、たった一つの文字に込められているもの。

「文字」とは、それらの物語が時間をかけ多くの人の手を渡るうちに抽象化され、簡略化され、記号化されていった、「一つの物語の結晶」 なのである。

そのような「物語の結晶」である文字を、何百という単位で紙に吹き付け、さらにその紙を何百という単位で束ねて作り上げられた「本」 というものは、いったいどれだけ重層的な物語を私たちに語りかけていることか、想像するだけで眩暈がしてくる。

そうして、文字が一つの物語であり、それを組み合わせた単語がまた一つの物語であり、それを組み合わせた文章がまた…と、 いくつもの物語が重層的に繰り返されていることを考えると、なぜ私が「とにかく本を読みなさい」と人に読書を勧めるのか、 そのことの意味が浮かび上がってくる。


本は数冊読んだだけでは、それぞれがバラバラの物語である。

それはいくつかの単語を知っていたとしても、その数があまりに少ないうちは、いくら組み合わせてみたところで、 言語がきちんとした意味をなさないのと同じことだ。

けれどもそれが数十冊になり、数百冊になり、数千冊になってくると、そこにある種の関係性が浮かび上がってくる。

つまり大量に本を読み重ねるうちにやがて「一冊の本」が「一つの文字」となり、その「文字と化した本」 がさまざまな別の本(=文字)と組み合わさることによって、また一つ次数の繰り上がった物語がそこに浮かび上がってくるのだ。

先ほどの重層構造から考えてみると、単なる関係性によって生まれていた物語が「本」というリーズナブルなサイズの「モノ」 に収斂した後、ふたたびそこを飛び出して、またより大きな関係性の海へと消えてゆく、そんなミクロとマクロの振り子のようにも思えてくる。


私と同じように「本の虫」である人には、おそらく経験があるのではないかと思うが、読んだ本の量がある閾値を越えると、急激に「“本” 同士のネットワーク」が形成されてゆくことがある。

それは、文中の引用が同じ論文のものであったとか、参考文献に同じ本が出ていたとか、著者同士がじつは親友であったとか、 同じ研究者を褒めていたとか、そんなきわめて些細なことの積み重ねに過ぎないのだが、 それでもやがてそれら小さな共通点の厖大なシンクロニシティが、あるとき急激にバババッとカスケード(雪崩)を起こし、 連鎖的につながってゆくのである。

そのようなある種の「相転移」が起こり、自分にとって大切なある「一つの本」が、より大きな物語を構成する「一つの文字」 であったことを見出す瞬間というのは、これは何物にも代えがたい。

「一冊の本」が厖大な本の中に埋もれて「一つの文字」に還元されてしまうときの、 立ち現れてきたモノがふたたび前景から消えてゆくときの、そのからだがフッと軽くなるような「洒脱感」。

それは、この地上からはるか上空へと舞い上がって世界を一望俯瞰的に見下ろしたときに、私たちの精神のうちで、何か 「解釈のスケール(目盛りの尺度)」がカチャリと入れ替わるような、そんな感覚にも似ている。

「一つの文字」から「壮大な物語」を呼び出しもすれば、「重厚な書物」をわずか「一つの文字」にも還元してしまうような、 解釈のスケールをミクロからマクロまで自由自在に変化させられるフレキシビリティ。

物事を突きつめて考えていく時に、その理路がどれだけのスケールで適用できるのか、その汎用性をどれだけ広範なものにできるかは、 論者が「スケールフリーな読解力」を身に付けているかどうかに大きく左右される。


というわけで、いつものことながら理路が暴走してしまっているけれど、そんな「スケールフリーな読解力」 を身に付けてほしいと思っているからこそ、私は人に読書を勧める次第なのである。

ではなぜ私が、そんな「スケールフリーな読解力」を身に付けるべきだと思っているのか?

なぜならそれは、その能力が「日々の幸せ」に直結しているからである。

たとえば、あまりにも大きすぎて一人では抱えきれないと思っていた悩みが、取るに足らないちっぽけな悩みであったことに気づき、 ほんのささやかな小さな幸せが、何物にも代えがたい本当の幸せであったと気づけるということ。

それはじつは先の能力ととても近いところにあるのだ。


…というのは今ふと思いついたのであるが、そういうわけで私は人に読書を勧めていたのである。

なるほど。

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2007年10月02日

秋の捻れと綱引き相撲

ここ数週間、学校の武道クラスがある月曜日が休日続きなので、昨日は久しぶりの授業だった。

とはいえ昨日も「都民の日」だったので都立の学校はすべてお休みのはずで、来週の休み(体育の日)も含めると、 ほとんどまるまる一ヶ月間月曜日がお休みということになってしまうのだけれど、他の公立学校はその調整をどうしているのだろうか。

う〜む。

まぁ、私の心配する筋合いの話ではないけれど。


しかし私の武道の授業はいつも「どんぐり体操」だとか「ソフトクリーム」だとか、ワケの分からない体操をやらせる上に、「ささら」だとか 「でんでん太鼓」だとかいった玩具を持ち込んでは、「いいかい。これを目指すんだ。」と、なおもワケの分からないことばかり言っているので、 受けている子どもたちもタイヘンだろうなぁ、と思う。

ヘンな先生についちゃったねぇ、キミたち。

ごめんね。

けれども、保護者の方々には「うちの子は武道のクラスを楽しみにしているんですよ。」と、 もちろん半分お世辞も入っているであろうけれども、そんなことを言っていただけているので、 ワケが分からないなりにも子どもたちには愉しんでもらえているようである。

うむ。ナイスだぞ。キミたち。

先生もキミたちと会える武道のクラスが楽しみだよ。


今回の授業は、前回に引き続きロープを持ち込んで、授業の後半20分ほど使って「綱引き相撲」を行なう。

「綱引き相撲」というのは、二人が向かい合ってロープの端っこをそれぞれ手に持ち、 引っ張ったり離したりして相手の体勢を崩しあい足が動いたら負け、という単純なゲームなのだけれど、このゲームで勝つためには「足腰の粘り」 と「相手との駆け引き」が必要とされるので、子どもたちのからだ作りと勝負センスを磨くには最適である。

さっそく子どもたちにロープを渡すと大はしゃぎで我先にと奪い取り、ワイワイギャーギャーと勝負し始める。

力で強引に引っ張ろうとする者、タイミングよく離そうとする者、こまめに引く者、一気に引く者、 それぞれが自分なりの知恵を絞って相手を何とか崩そうとするさまに、ホントに個性が出ていて面白い。


整体では、秋というのは「からだが捻れる季節」と言われている。

たとえば、新聞紙をただ丸めただけのものよりも、ギュッと捻って丸めたほうがその強さが増すように、 普段の自分の実力以上に頑張ろうとするとき、人はからだを無意識にギュッと捻る。

秋は「冷え」という別の理由からからだが捻れるのだけれど、こころとからだはその影響が密接に関わりあっているので、 からだが捻れたことから逆に、その頑張りのエネルギーを発散させるべくその目標を見つけようとする現象が起きる。

だから人はからだが捻れると、ちょっとしたことでムキになって剛情になったり闘争的になったりして、 つい人と喧嘩になってしまいやすくなるのだ。

この季節、それをうまく発散してやることが余計な諍いを避けるためにも大切なことであり、私がここ最近子どもたちに「綱引き相撲」 をやらせているのも、その発散のためでもある。

「勝った負けた」とワイワイやることが、もっともその発散になるのだ。


そうしてしばらく子ども同士で好きにやらせた後、「先生に挑戦コーナー」というのを設けて、私と挑戦したい子どもたちと片っ端から相手する。

先ほども書いたように、「ちょっと頑張らないと届かない目標」をやや挑発的にポンッと目の前に差し出すと、 この時期は俄然やる気を出すし、それがまたちょうどからだの変化に適っているのだ。

で、もう子どもたちはやる気満々なもんだから、「先生に挑戦コーナー」を設けるや否や、「ボクやる!」「あたしも!」 とわーっと一斉に大挙を成して挑戦しに来て、「門前市をなす」とはこのことかという勢いである。

正直、「おいおい…」と思わないでもないが、挑戦は丸ごと全部受けて立つのが師の務め。

多少手加減しつつも次々スッ転ばしてゆく。

(ちなみに基本的にみんな自爆である。私の邪悪さを知れ(笑)。)


前回やった際に、「次回の授業でもまたやるからどうやったら勝てるか必勝法をいろいろ考えておきな。」と挑発しておいたので、 冷えてからだの捻れた子どもたちは「何おう!」とここ三週間の休みの間、私にメラメラと闘争心を燃やしていたはずである。

今回いざ勝負をしてみると、たしかに子どもたちはいろいろ考えたのか、その勝負強さが劇的にレベルアップしており、 前回に比べ格段に苦戦した。

むむむ。成長したなおぬしたち。ワシは嬉しいぞ。

そうして子どもたちにとって「倒すべき相手」として、私をその欲望の対象に据えておくことで、 学校や家庭での秋の余計ないざこざを最小限にしようというのが、その指導の狙いなのであるが、 それによってどれだけ彼らの平穏な生活に貢献できていたのかは、誰にも判別しようが無い。

でもまぁそんなことはどうでもよい。

ただ、闘争心に満ちた小学生から高校生まで、おそらく延べ60人以上を一気に相手にしたので、私の手の薄皮がむけた、 ということだけが目に見える結果である。

でもまぁそんなこともどうでもよい。

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2007年09月25日

ロールテイキング

前回触れた 『カウンセリング方法序説』(菅野泰蔵、日本評論社、2006)の中に、「ロールテイキング」という言葉が出てくる。

今まで私はそれに似た感覚を「役割を引き受ける」とか「ロールプレイング」とか言っていたのだけれど、それを読んだ瞬間、「あ、 その表現いいな。」とえらく得心してしまった。

「プレイ(演じる)」という感覚もあながち間違ってはいないけれども、より「覚悟」を前面に出した「テイク(引き受ける)」 という方が、やっぱり私の感覚としては近い感じがする。


私は講座でからだのことや子育てのことについていろいろとお話をしているので、 当然のことながらいらっしゃる方々からさまざまな相談を受けるのだけれど、そのような相談に対して「どのような応答をするべきか?」 ということは、日々考えさせられている。

その際、私は「役割を引き受ける(ロールテイキング)」という感覚が何より大切なことだと思っているのだけれど、 それはこのような相談の場面に限らず、ありとあらゆるコミュニケーションの場面においても、その関係をよりよい関係にしてゆくために、 とても大切な構えであるように思う。


この本の中で著者の菅野さんは、カウンセリングの成否はこの「ロールテイキング」次第ではないかとハッキリおっしゃるくらい、 やはり重要視されている。

菅野さんは、この「ロールテイキング」という言葉を「相手の立場(ロール)を自分の中に取り込む(テイク)」 というニュアンスで使っているが、私はどちらかというと「望まれている私の役割(ロール)を引き受ける(テイク)」というイメージがある。

私はいつも「場」を主体として考える癖があるので、引き受ける(取り込む)べきロールが、必ずしも人称的なものとは限らない、 つまり特定の個人ではない場全体に要請されるロールのようなものがあるのではないかと思っている。

その場合、「そのロールの起源は誰なのか?」という問いに答えは見つからない。

もっとも「一対一」という対個人的なカウンセリングのような場においては、そこにほとんど差はないわけであって、 イメージとしては若干違うけれども、基本的には同じような事を指していると解釈したのだけれど、でももしかしたらやっぱり違うかもしれない。 (どっちなんじゃい)

いずれにしても導き出される行動としては、おおむね似たものになるような気がするので、その違いはとりあえず置いておいて、 私の感覚で話を先に進める。


じゃあ、そのような「テイクするべきロール」というものはどのようにして浮かび上がってくるか、といったらこれはもう、「場の流れ」 を読むことに尽きる。

「流れ」というと、時系列に沿った事象の連なりを連想するかもしれないが、私が「流れ」という言葉を使うときには、 そこに空間的なニュアンスも含まれていて、喩えるならば「潮流の航空写真」のような、「流れ」 をある時間で切り取った空間的な配置も意味している。

すべての場には、時間的、空間的にマッピングできるある種の「流れ」が存在しており、それを読み解くことで、押さえると「全体の流れ」 が大きく変化するという「押さえるべきポイント(交流点)」が浮かび上がってくるのだ。

ありきたりの表現で言えば、「場の中心」とでも言えばよいか。
(ホントは中心というとちょっと違うニュアンスなのだけれど)

そしておよそ「テイクするべきロール」とはそのポイントの近辺にあって(私の感覚で言えばポコッと「欠如」がある感じ)、そこに「我」 を捨てた限りなく透明な状態で身を置くことで、全体の「流れ」をスムーズに活性化することができるのだ。


技量のある指導者であれば、そのロールテイキングを行うことによって、より活発な流れを誘導することもできるわけだけれど、先に 「我を捨てた透明な状態」と書いたように、原理的にはまったくカラッポであっても良いのである。

その場のコンテキストに乗ってさえいれば、その中心はカラッポであっても良い、 というよりむしろ下手に癖があるよりカラッポであるほうが良い。

なぜならその本質は「流れる」というところにあるのであって、「多くの流れの交わるところ」、つまり言ってみれば「流通センター」 のようなところは、できるかぎり摩擦の少ない方が、流れはより活性化され、多くのモノたちが自由に行き交うことができるからである。

だからカラッポでさえあればそれで充分なのだけれど、もしプロフェッショナルを目指すのであれば、基本的にはカラッポでありながらも、 そこに絶妙なワザで流れを誘導したり編集したりして、双方にとってより意義のある形でのやりとりができるようになれると素晴らしい。

ますます情報が溢れるこれからの時代、そんな「独特の偏向具合を備えたフロースポット(流れの焦点)」のような存在は、余人をもって代えがたい個性的な編集点として、おそらく多くの人々に重宝がられるに違いない。

「私の代わりに、私も知らない、私好みの情報を収集編集提供してくれる存在」というものが、社会的ニッチとしてこれから需要が増える立ち位置であるよ。きっと。


…で、

話は突如として全然カンケーないところに飛ぶのだけれど、新しいビジネスを思いついてしまって、 もしかしたらすでに似たようなビジネスはあるのかもしれないけれど、「OFFコンサルティングサービス」なんていうのはどうだろうか。

どんなものかというと、クライアントの趣味や好みについて綿密にアンケートを取った上で、「OFFの日」を丸一日使って、 「あなた好みのショッピングコース」をコンサルタントがエスコートするというビジネスである。

アクセサリーショップや、ブランドショップ、エステサロン、書店、雑貨屋、お洒落なカフェ、レストラン、バーから居酒屋まで、 すべてあなたの知らない「あなた好み」のみをセレクトし、それらを絶妙なコースでめぐって、ほっこりしようという計画。

その日の気分や天候によってフレキシブルに対応できるよう、コースは数パターンを用意しておいて、後日、 それらすべてのプランをまとめたものを、「世界でたった一つのマイセレクトブック」として、 ともに回ったコンサルタントからの一言も書き添えてプレゼント。

それを参考に、気の合う友人と一緒に別のコースを回れば、ふたたび愉しい時間を過ごせる上に、友人から一目置かれること間違いなし。

もちろんコンサルタントは「会話の弾む同性」から「大人な感じの素敵な異性」まで、自分の好きなタイプをチョイスでき、 言ってみれば好みのツアコンをつけて一日ショッピングを愉しむツアーのようなもの。

1人で申し込んでもいいけれど、仲の良い友達2,3人と一緒に申し込んでみれば、さらに愉しいOFFを過ごせるかもしれない。

なかなかイケるような気がするのだけれど、こんな「情報編集提供奉仕ビジネス」はいかがなものだろうか。 (痒いトコロは全部掻いちゃうよ!)

…とか言いつつ何だけど、別に私は自分でやる気はさらさら無いので、このアイデア、だれか欲しい人にアッゲ〜ル。

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2007年09月19日

文脈という流れに乗って

カウンセリング方法序説』(菅野泰蔵、日本評論社、2006)を読了。

好著であった。素晴らしい。

私がつねづね感じている事が、エッセイのような軽い文体で非常に丁寧に分かりやすく書かれており、正直、 「私の言いたいことはココに書かれています。」と人に進呈してしまいたくなるくらいである。

素晴らしい本を見つけたので、もはや私もこんなブログでだらだらと文章を書く必要もない。

この本を読んでいただければ、こんなブログは読んでいただかなくても結構です。


…嘘です。 読んでね。

まぁ、そんなわけなので、この本に関しては触れたいところはいろいろあるのだけれど、とくに私に響いた箇所は「コンテキスト(文脈)」 というところである。


『いずれにしても、自分はそこそこにうまくやれていると感じているのは、 ほとんどのクライエントが、カウンセラーの気を悪くしないように、面接やカウンセリングがうまくいくようにと配慮しているからである。 それはカウンセリングそのものの力ではなく、コンテキストの問題である部分が大きい。すなわち、うまくいくときは、 うまくいくようなコンテキストがそこにでき上がっているという原理にのっとれば、 クライエントの配慮なしにカウンセリングが成立しようもないことは明らかである。このことを強く自覚している者が、 まずは専門家としての入り口に立っていると言うべきであろうが、私の印象では無自覚な人が多いようである。
…中略…私たちがさらなる専門性を高めるということは、ひとつには、そのようなコンテキストから外れ、 カウンセラーにあまり配慮しないようなクライエントに対して、どれだけのことができるかということである。はっきり言えば、 先述のようなコンテキストに乗っかっているクライエントならば、誰がやっても「うまくいく」ものである。少なくともカウンセラーが 「失敗した」と思うことは稀れとなるだろう。』
(同著、p66−67)


非常に身につまされる話であるが、これは何もカウンセリングの現場だけの話ではあるまい。

あらゆる教育的関係においても言えることであると思うが、著者の菅野さんが言うように、たしかにこの「コンテキストの力」 に自覚的である人は、とても少ないのかもしれない。

「コンテキストの力」とは、たとえば同じ「バカだなぁ」という言葉であっても、 それがどのようなコンテキスト(文脈)の中に置かれているかによって、慰めの言葉にもなれば侮蔑の言葉にもなるように、「あることの意味」 を劇的に変える力がある。

ネットサーフィンをしていると、ときに素晴らしい知見にあふれるブログやWebページに出会うことがあるけれども、 「内容は素晴らしいのにどうも読みづらいな」と思うことがときどきある。

それは改めて考えてみると、必ずしも文章そのものの問題ではなく、テンプレートやページの色やフォントなど、 文章を成り立たせている広義の「コンテキスト」が原因であることもしばしばである。


そのように、現実のコンテキストとはそれこそ背景のようなものとして前景化されにくい状態で存在するので、なかなか顧みられることが少ない。

それはこの「コンテキストから考える」という思考のあり方が、 自分自身をもコンテキストの一部として考えるきわめてクールな思考である、ということと無関係ではないだろう。

カウンセラーに限らず、「成功を『自分の実力』の成果として認知したい」というささやかな欲望は誰しもが持つものであろうが、 指導者がそのようなささやかな個人的な欲望を持ち続けている限りは、その指導の先に暗い影を落とすことになり、もっとも肝心な「最後の伝授」 が果たされる事を阻むことになる、ということははっきり申し上げておかねばなるまい。


教育的関係における指導者の立ち位置について、菅野さんの言うように、ある程度までは 「コンテキストに乗ってさえいれば誰がやってもうまくいく」という事実を、指導者自身がクールに受け止めておく必要がある。

そのような事実は、指導者当人にとって(当然私にとっても)さほど愉快なことではないが、 そこはクールに受け止めた上で思考を進めていかなければ、最後の大切なところで必ず道を間違えることになるだろう。

指導の多くは、その「指導関係」を維持しようとする「相手の気遣い」というコンテキストなどによって支えられているということ。

その事実をまず踏まえた上で、指導者としてはさらにその先、つまり最初のコンテキストの生成に同意をしない相手を前にしたときにも、 徒手空拳のまま新たなコンテキストをその場で生成しつつ、それを自分の望む方向へと誘導してゆくというワザ、 それを身につけることが目指すべき目標であるだろう。


…え〜、ちょっと展開が早すぎた。

勢いに乗って、指導者が目指すべき目標をいきなり掲げてしまったけれども、とりあえず私たちにはその前にやるべきことがある。

何かというと、「すでにあるコンテキストを活用する」ということ、「コンテキストをあらかじめ構築する」ということである。

「コンテキスト」という概念自体があまり顧みられていないので、このことすらあまり重要視されていない感もあるけれど、 「コンテキストの力」に自覚的であるならば、それをつねにあらかじめ構築しておくこと、つまり「あたりまえのことをあたりまえに行なう」 ことの大切さが、ハッキリ浮かび上がってくる。


菅野さんは言う。


『それは数々の研修やセミナーを行っている経験から確信できることであるが、 ほとんどの人は、ある種の技法や効果的な手法に幻想を抱き、それを手に入れることに躍起となっており、 変化を生むためのコンテキストをつくるという基本を鑑みない。つまり、どのような大技や小技を知っているにしても、 それがあるコンテキストに乗っていない限りは何の効果も持たないのだということが理解されていないわけである。』
(同著、p69)


このことはまさに私もいつも危惧していることである。

どうも人は手軽に把握しやすいシャープでテクニカルなことに目を奪われがちであるけれど、この「コンテキストをつくる」 というもっと地道で堅実的なことこそ、現実の場においては何より大切なことなのである。

まぁ私が講座でしゃべっていることなんて、ほとんど「それしか言っていない」ので、講座に出てくださっている方には、 もはや聞き飽きた話であるかもしれない。

…ん?なに?

『そんなこと言ってたっけ』?(笑)

いやいや、何をおっしゃるウサギさん。そう思われるのは、私が講座のたびに「いろんな言い回しをしているから」というだけであって、 言っていることはホントに「これだけ」なのですよ。

場作り、コンテキスト作り。

つまりは、「あたりまえのことをあたりまえにやる」ということ。

その「あたりまえ」が、「コンテキストづくり」であり、「場づくり」であり、「日々の暮らし」 であり、その積み重ねが「自分の振る舞いを、一挙手一投足を支えてくれる」のである。

「役割」、「働き」あるいは「個性」というものは、 必ずコンテキスト内にあるそれ以外の何物かと参照されることで浮かび上がってくるもの。

文脈の流れのなかに身を置いている自分という存在を、今一度捉えなおしてみるのは大事なことだ。

それは「治療の関係」しかり、「指導の関係」しかり、「親子の関係」しかり。


整体の野口晴哉先生は、「世の中で一番大きな仕事をした人は誰だろうか」との質問に、「キリストをキリストにした人達だ。」と答えた。

野口晴哉という偉大な先人ですら、「そのこと」の意味を深く真摯に受け止めているということ。

人は一人では何者にもなれない。

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2007年09月11日

水晶の振り子は

第1感』(マルコム・グラッドウェル、光文社、2006)を読んでいたら面白い実験が出ていた。

裏に「○○ドルの勝ち」「○○ドルの負け」と書かれたカードを用意し、被験者に一枚ずつ引いていってもらって、 最終的に儲けが出れば勝ちというゲームをやってもらうのだが、カードには「赤いカード」と「青いカード」の二種類があって、 それぞれの山が二つずつ、合計四つの山がある。

実はこのゲームには必勝法があって、「赤いカード」のほうは大勝ちもあれば大負けのカードもあってリスクが高く、 それよりは勝ち負けともに額面の少ない「青いカード」のほうを引き続けると勝てるような割合でカードが構成されているのだが、 「その法則に被験者がいつ気づくか?」という実験なのである。


『しばらく前にアイオワ大学の研究者たちが行なった実験によると、 たいていの人はカードを50枚ほどめくったところで、なんとなく必勝の法則に気づいたという。まだ「青を引けば勝てる」 という確信はないが、なんとなく「青のほうがよさそうだ」と思い始める。さらに続けて、80枚ほどめくれば必勝法に確信を持ち、 なぜ赤いカードを避けたほうがいいのかも正確に説明できた。経験の積み重ねで一定の仮説をたて、さらに経験を重ねて仮説を検証する。 きわめて常識的な学習のプロセスである。
面白いのはここからだ。研究者らは被験者の手のひらに測定器を取りつけ、汗の出方を調べた。 手のひらの汗腺はストレスに反応する(だから緊張すると、手のひらがじわっと汗ばむ)。さて、結果は? なんと10枚目くらいで、 みんな赤いカードにストレス反応を示し始めた。彼らが「なんとなく」赤は危ないと意識したのは、それから40枚もめくったあとである。 それだけではない。手のひらが汗ばんできたのとほぼ同時に、参加者の行動パターンも変わり始めたのだ。青いカードをめくる回数が増え、 赤いカードをめくる回数は減った。つまり、「なんとなく」ルールがわかったと意識する前から、何らかの方法で法則に気づき、 危険を回避する行動を取り始めていたことになる。』
(同著、p15)


「意識」というのは、知覚した事象の「辻褄合わせ」がその仕事の大部分であるので、基本的に「からだの変化」 の後追いとして遅れて生じるものだけれど、それでも実際これだけ早い段階からからだには反応が出ているとなると、 その変化にできうる限り早く気づくことは、何にも増して有益なことである。

たとえば護身術として、ナイフを持っている相手の対処の仕方であるとか、後ろから羽交い絞めにされた場合の対処の仕方であるとか、 そういうことを身につけるよりも、そういう危険な場所や状況に至る前に、事前にそれこそ「なんとなく」 イヤな感じがして回避するということのほうが、はるかに理にかなっている。


けれども、そのようなからだの中に生じた微細な変化を感じ取るためには、それなりの訓練を必要とするし、 人によってはどれだけ訓練を積んでも「やっぱり分からない」ということも、よくあることである。

そこで昔の人は、少しでも多くの人に分かりやすくするために、先端に水晶などを付けた鎖を手に持ってぶら下げることで、 腕の微細な運動を増幅し目に見える形に変換する、というダウジングのような手法を編み出した。

たしかにそれなら実際に自分のからだの微細な変化を感じ取るより、はるかに短い訓練で自分のからだの変化を感じ取ることができる。

私も前に「五円玉を糸に吊るして裏向きのカードを当てる」という実験を、仲間とやったことがあるけれど、 たしかに非常にその変化が分かりやすい上によく当たるので、「こりゃ便利だな。」と感心したことがある。

実際、「糸を吊るして動きを見る」というのは非常に素朴で原始的な手法だが、やっていることは、 手のひらにセンサーを付けてその発汗の度合いから緊張度を計測するのと、たいして変わりはない。

まあ人間は、高価で、その理屈がよく分からなくて、構造も複雑そうな仰々しい機械のモニターにピコピコと出てくるグラフの方が、 なんだか信用してしまうものなので、五円玉を吊るした糸がぶらぶら揺れている程度では鼻にもかけないから、 もっともらしく装飾する必要があるというのも現実である。

だからダウジングも、「○○産の水晶にその精錬に手間暇かけた銀の鎖を付けた」とかいうデコラティブなものを使用して、 説得力を出したりもするわけで、そういう意味ではどっちも似たようなところがある。

いずれにしても、自分でやる分には五円玉と糸で十分なので、皆さんも実験してみると面白いかもしれない。

ただ何を使うにしても、「丁寧に」「真剣に」やらなければ結果は出ないのは当然のことであるので、そこだけはお忘れなく。

どうしても「五円玉では『丁寧に』『真剣に』できずに結果が出ない」というのであれば、 そんな時には自分の気に入るグッズでも何でも使えばよろしいのである。

それで結果が出るならば、まずはそこから始めればよい。

「どうでもいいようなもの」でも「丁寧に」「真剣に」なれるというのも、一つのワザなのだから。

真の剣士は笹の葉一枚で人を斬る。


ともかく私としてはなんにつれ、身体運用そのものを磨いてゆくことで、「モノに頼り切ることのない方向性」 というものを志向したい性質なので、どうもそのようにソトのモノに頼ることから脱却することを考えてしまうのだ。

普段からいつもそのようなモノを持ち歩き、いちいち取り出しては「こっちがいい」とか「あっちがいい」 とか生活上のすべての判断をそれに委ねるというのも、「周りの人に距離を置かれる」という社会性の問題だけでなく、むしろモノに頼り、 感覚を鈍らせる方向に行ってしまうような気がして、それではやはりダメなのではなかろうかと思えて仕方がないのである。

だから私も一時期、「モノを手放してゆくダウジング」に凝って練習していたことがある。

最初はモノの助けを借りながら、徐々にそれが無くても良いように、自分自身を変容させてゆくのである。

もう今は飽きてしまってやっていないので、今やってできるかどうか分からないけれど、 そうして徐々にモノを手放していく練習をしていくと、「モノは媒介にすぎない」という事実がはっきり浮かび上がってきて、最終的に 「モノは要らない」という結論に至る。

だって無くてもできるんだもの。

おそらく誰でも続けていればそのような結論に至ると思う。

私にとってはそのことがハッキリ自覚できたことが一番の収穫であった。

モノも言葉も、理解を進めるための「精神の補助線」でしかない。

水晶の振り子は自分自身の中にある。


そういえば前に「波動を測定する」とかなんとかいう機械を取り扱っている人の話を聞いていたときに、「別に中身は空っぽなんですよ。 何にもありません。」と言うので、そんなこと言っちゃっていいのかと他人事ながら心配していたら、 「別に中身を開けてみれば誰だって分かりますよ。」とあっけらかんとしているので、ヘンな人だと思いながらも、 「まぁそんなもんなんだろうな。」と妙に納得してしまったことがある。

結局どんな仕組みなのかはよく分からなかったけれど、「別に中身は空っぽなんですよ。」と言っても、買う人は買うし、 効果のある人は効果があるのだから、人間というのは不思議だ。

「でも高いんですよね〜。」と、自分でツッコミを入れるその人はホントにヘンな人だった。

ホメオパシー関連の団体のエライ人だった覚えがあるけれど、そういうヘンな人は好きだ。

私はそういう人とこそ、「人間の霊性」について大真面目に語り合ってみたい。

posted by RYO at 20:21| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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