2009年07月31日

私が退けばそこに神が座る

最近、ある人から「鏡(カガミ)に映る自分の姿から、我(ガ)を抜いたら神(カミ)になる」という言葉を聞いて、「ほう、なるほど。うまいことを言うもんだ」と感心していたのだけれど、しかし、この「我」というもの、これがなかなか抜けないのが人間というものですな。

とにかくこの「我」「自分」というものが、ことあるごとに摩擦を引き起こす。

いい加減そんなものは棄てたらいいんじゃないかと思うのだけれど、何かあると気がつけばひょいと顔を出してきて、周りの流れをかき乱している。

ああ、邪魔だなぁ。 「自分」が一番邪魔でしょうがない。

まぁ摩擦が引き起こされて初めて「我」が存在するのだから、「我」があればそこに摩擦が生じるのは当たり前っちゃ当たり前だし、無きゃ無いで困るんだけど、もう少し何とかならんものかといつも悩んでしまう。


日本人は昔からよく「自分というものがない」と言われる。

いわく集団主義であり、周りの目を気にし、みんなと一緒を好んで、KYをハブにする。

たしかに空気を感じ、雰囲気に流され、その場その場で言うことを変えて、まるで自分というものが無いようにうごめいているのが、日本人という民族の心性であるようにも思える。


広辞苑には、日本語の一人称の代名詞が100個以上載っているそうである。

私、僕、俺、儂、自分、我、手前、己、拙者、某、などなど…、思いつくだけでも挙げていけばキリがない。

相手との関係によって、発言する場によって、あるいはある目的のために、そんなさまざまな周りの状況に応じて立ち位置を変え、自分の呼称を使い分けている日本人の「わたし」は、たしかにつねに相対的であり、絶対的な自分が無いといえば無いかもしれない。


日本語はそんなふうに自分を表す代名詞が状況に応じてセンシティブに変化するうえに、いつしか「手前」が「てめぇ」となって主客混然としてしまったりもする、あやうい言語である。

だいたい主語自体が消えてしまうことがしょっちゅうなのだから、一人称の「手前」が二人称の「てめぇ」に入れ替わったところで、もはや瑣末なことなのだろう。

主客が入れ替わり、ついにはどこかに消えてしまうようなあやうい主体を孕んでいる日本語というもの自体が、すでに構造的に「無主体」というものを持ち合わせているわけで、そんな言語によって精神を構築している日本人が、その言語構造に精神構造のモジュールを重ねていたって、不思議ではない。


日本は古来から「空(くう)」の思想があって、「空からすべてが生まれる」といってモノゴトの中心には虚ろなるものを据えていた。

日本人が祭事に神を迎えるときにはその場に「空」を用意して、その空席をみんなで奉ることで神を招き入れた。

日本の神の本質というのは、あくまで「客神」であり「マレビト」であって、西洋人が「主よ」と呼びかける神とはその性質が大きく異なる。

これからやってくる客であるのだから、その席は空けておかなければならない。

だから日本人は、虚ろなる「依代(よりしろ)」を空席として用意し、そこに客たる神が招かれ到来するという、そういう方法をとってきたのだ。

人がやるべきことは神が座る席を空けることであり、そのためには自分の席を空けなければならない。

なぜなら、だだっ広い空間があれば誰も席を空けなくていいかと言えばそういう訳ではなく、神を招くためには「そのために場所を空ける」という振る舞いが必要だからだ。

そのためにわざわざまずは空間を充填し、そしてその後「退く」ということをするのだ。
(日本の国生み神話である「古事記」も、独り神が現れてはただ消えてゆくことから始まる)

まず初めに「我」があり、そしてその「我」が消えたときに「神」が到来する。

そういうことなのだ。


講座でもときどき言っているが、私は「お茶が入りましたよ」という言葉が好きだ。

この言葉を聞くと「日本語って美しいな」と思う。

何もしないで勝手にお茶が入るわけはない。誰かがいれてくれたのだ。

けれども「私がお茶をいれました」とは言わない。

そこはあえて口にしない。

そのたおやかな決意によって、そこに美しい世界が生まれている。

お茶をいれてくれた人がフッとその姿を消すことで、まるでそこにおのずから熱いお茶が立ち現れたかのような、「成り成りて成る世界」が現出する。

「そこにお茶がある。しかもそれは私のためのお茶である。」

ただそれだけの世界。

「私が」「私が」が消え、「それがそのままあるがまま」の世界へ。

それをおそらく昔の人は「随神(かんながら)の世界」と呼んだのだろう。


私が退けば、そこに神が座る。

私がすることは、その席を整え、そして消えること。

抜き型の関係。


つまりはそういうことをやっていかなくちゃいかんと、そう思うわけですな。

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2009年07月14日

相手の世界の言葉で語る

いやぁ、何だか忙しいなあ。

書いたりしゃべったりの連続で月日が過ぎていくぞ。

まぁ、小学校時代には通信簿に必ず「RYOくんは授業中のおしゃべりが…」と書かれ、中学校時代には社会科の先生から「口から生まれたRYOくん」と呼ばれ、はては生みの親からも「へりくつ大王」と呼ばれた私であるから、まこと素直にすくすくと育った証しであるのやも知れないが、それにしたってしゃべりすぎの感がしないでもない。

こんなにベラベラしゃべっている人間の話なんて絶対信用しないほうがいいと私は思うのだけれど、聞くところによると「人柄がすばらしい」などという噂が流れているらしい。

いったいどこから出てきたんだろう。 …オレじゃないぞ。

ブログでもしょっちゅう「私は邪悪だから信用するな」と繰り返し忠告しているにもかかわらず、そのような噂が流れているということは、これは私が想像する以上に世の人々がみなよっぽど邪悪であるか、あるいは私が想像している以上に私が邪悪であるということなのであろう。

もし、私が多少なりとも残っている最後の善意から「私は邪悪ですよ」とご忠言申し上げても、取り合ってもらえないくらいに邪悪なのだとしたら、私の腹の中は鞭毛から大腸菌からミトコンドリアまでおよそ真っ黒であるに違いない。

う〜ん…真っ黒クロ助だな。 どうりでこの前トイレに入っ(以下自主規制)

もう今度からは「私はホントにいい人だから、絶対信用しなさい」と言ってみようかな。

…やっぱり信じてもらえなさそうだなぁ。


まぁそれはともかく。

最近、話を聞いてくださった方々から「話がとても分かりやすい」という感想をいただくことが増えてきた。

「微妙なところをきちんと言語化してくれるので分かりやすい」などと言っていただけると、それは私自身とても意識していることであるので、言われて素直に嬉しい。

私の今のテーマが「表現」であるということは、最近もブログでたびたび触れているが、とくに言語による表現に関しては、こう見えてもずいぶんいろいろ試し続けているのだ。

そのさまざまな実験的表現に対するレスポンスとして、みなさんから「とても分かりやすい」というお返事が返ってきているのなら、これはなかなか首尾上々。よろしいのではなかろうか。

日々是実験。日々是対話。


表現というものを考えたとき、たいていまず第一の目的となるのは、「自分の表現したいことを正確にぴったりと表せる方法を見つける」ということである。

「言いたいことを正確に言い表せる言葉」とか、「情動を正確に表現できる動作、ポーズ」とか、そういう表現を獲得して、表現したいことを自分にとってピッタリの表現で表現するということはとても気持ちがいいし、何より自分自身が納得できる。

けれども少し考えれば分かるけれども、「自分が納得できる自分にとってピッタリの表現」というものの中には、必ずしも「相手(他者)」が存在するわけではない。

「自分にとってピッタリの表現」というのは、見る人聞く人にとってどういう受け取られ方をするかということとは、無関係に存在する。

いや、むしろその理念上、相手のことなど考えていたら「自分にとってピッタリの表現」から遠ざかるに決まっている。だって「相手の理解度」なんて余計なことを考えて、表現を言い換えれば言い換えるほど、自分の言葉では無くなっていくはずである。


パフォーマンスアートとしての表現であるならば、自分にとってピッタリの表現を突き詰めていけばいいのかもしれない。「分かる人にだけ分かればいい」と。

それは一つの選択である。

ひょっとしてそれを究極にまで突き詰めたときに、万人に通じる表現が開花するかもしれない。分からないが、そういうことだってありうるだろう。


けれども私にとって重要なのは、コミュニケーションという出来事の中で、「めぐること」であり、「変わること」であり、「解体すること」であり、「再構築すること」なのだ。

もちろんそれだけに限定することも無いのだけれど、私は整体を実践する者として、とりあえず目の前の人が「健やか」であることを第一の目的とするものであるから、まずはそれらが大事なのだ。

だから私はなるべく、コミュニケーション自体がめぐり、また組替えを促すものであろうと、つねに心がけているのだけれど、そのためにはまずは相手の使っている言語、相手の理解できる言語で話しかけていかなければならない。

そうでなければ、どんなに簡単で素朴なことであっても、なかなか通じないし、めぐりもしないだろう。

私たちはともすると、お互い「日本語が通じる」という単純な共通理解にあまりに寄りかかり過ぎて、日本語の中にもさまざまなレイヤーがあるということを忘れがちである。

だから私たちはいくら言っても分からない人間を相手にしたときに、「あいつは話が通じない」という結論に安易にたどりついてしまうのだけれど、でももし相手が初めから日本語が通じない外国人であったなら、私たちはもっと英語でしゃべってみたり中国語でしゃべってみたり、筆談してみたり、身振り手振りを活用してみたりして、もっと「別の表現方法」をいろいろ試しながら、通じそうなコミュニケーション回路を模索するだろう。

私は、日本人どうしでももっとそういういろんな表現方法を試してみる必要があるのではないかと、そんな風に思うのだ。

人間や文化が目まぐるしく流動し、多様な価値観がどんどん混在するようになってきた現在では、日本人どうしであっても、日本語どうしであっても、同じようにさまざまな表現方法を試すということがますます大事になっていくだろう。

コミュニケーション能力が低下していると言われる現在において、ディスコミュニケーションによって身心を病まないためにも。


ちなみに最近「話が分かりやすい」と言っていただけるようになった私が心がけているのは、まずは「通じない」から始めるということ、そして「相手の世界の言葉で語る」ということである。

自分の世界にとどまったまま、「あなたには分からないかもしれないけれど…」と、相手の世界の遠くから語る言葉は、ただでさえ通じない言葉をますます届かないものにさせる。

けれども自分の世界を歩み出て、できる限り相手の世界に歩み寄り、「私が伝えたいことをあなたの世界の言葉で表現すれば…」と、相手の世界の言葉を駆使して語れば、意外とすんなり腑に落ちることもあるだろうし、たとえ相手の理解を超えた意であっても、その誠意は聞く者の耳を開く。

耳が開けば、たとえ意は通じなくとも、何かは動く。

一歩歩み寄ってから言葉をかけてみると、関係は変わってゆくかもしれない。

posted by RYO at 20:50| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

発酵酔仙

朝から蒸し暑い東京を抜け出して新幹線に乗っていたら、小田原を超えたあたりで車体をぽつぽつと叩く雨音が。

ふと窓に目をやれば、雨だれがガラスを真横に走る。

山にけぶる雲の合間にのぞく富士山の山頂付近には、谷間に残る残雪がちらほらと見え、あそこはどんな空気なんだろうと空想してみたら、肌にぞわぞわと不思議な感覚が起きた。

車窓に映る色模様は、遠い山にけぶる薄紫と、地上にポツポツと紫陽花の濃紫。

梅雨だなぁ。 いやニッポンだなぁ。


しかしこの最近のジトリと肌にまとわりつく湿気にやられて、けっこう体調を崩している人が多い。

息苦しいとか、だるいとか、湿疹が出ているとか、気持ち悪いとか。

高い湿度に呼吸が浅くなりハァハァと胸で息をしているときにシケた食べ物を口に放り込んで、みんなますます鬱々として、からだのなかをけぶらせている。

ずいぶん前にも書いたけれども、このまとわりつくような湿気と、どよんと晴れない低い空と、かすかに傷んだ食べ物で、誰もが自家中毒気味になって、だるさに中っているのだ。

そんな私もふと気を抜くと、横になってだらだらと堕ちてゆく誘惑にかられ、「ああ、このままダメになってしまいたい…」と、ひとり呟いていたりする(笑)。

いやぁ、イカンイカン。やること山ほどあるぞ。

こういうときこそ発酵食品をばかばか食べて、中からデトックスだ。

なんてそんなことを考えて、ここ最近おもむろに梅干しやらぬか漬けやらを食べ始める。

やっぱり梅雨こそ発酵食品だろ。ボリボリ。

腐ってないで発酵するべし。ボリボリ。


発酵大好き人間である私などは、発酵食品を食べるのはもちろんのこと、飲んで酔うのも大好きだし、漬けて発酵させるのも大好きなのだが、それはもう「発酵」という営み自体に対する限りない偏愛であると言っても過言ではない。

で、最近ふと思ったのだけれど、人が酒を飲んで酔うっていうのは、これは微生物の仕事に酔ってるんじゃないかと、そんなことを思うのだ。

微生物たちは時間とともに劣化してゆく有機物をどんどん分解しながら、そこからスピリッツ(酒精)を取りだすという、あまりに美しすぎる仕事を果たしている。

それは穀物のメタモルフォーゼ(変容)であり、スピリチャライズ(霊化)と言ってもいいだろう。

どうしてそんなことができるのか。まったく霊妙というほかない。

そんなものを体内に取り込めば、人も酔いしれるに決まってる。

だって、そんな仕事はたまらんぜ。

シュタイナーは「アルコールを飲んで酔っている人は、自我をアルコールに明け渡している」とか何とか言っているけれど、そりゃあだって気持ちいいもの(笑)。

自我? こんなすげぇ仕事してくれたんなら、いくらだってあげちゃうよ。あげちゃうあげちゃう。 ハハハ…。


穀物のスピリッツ(酒精)が人の代替自我となって人のスピリッツ(精神)をコントロールするとき、誰かに自我の座を明け渡してしまった快感に人は酔いしれている。

それは、人に代わってそれだけの仕事を果たしてくれた微生物たちの働きに対するリスペクトでもあるのだろう。

私たち人間がやるべきことを、微生物たちは物質レベルでやっているのだ。

だからこそ人は自分の自我を明け渡しその仕事に酔える。

でもそこで、「じゃあもうオレはいいや。お前らに任せる」と言って完全に投げ出してしまったら、それは単なるアル中だ。

そうじゃなくって、その素晴らしさに酔いしれたら、「自分だってこんな仕事をやってやるぜ」と発奮しなきゃいかんのだ。

「物質レベルでお前たちが果たした仕事を、オレは精神レベルで果たしてやるぜ」と。

手足に力をみなぎらせ、世に倦む澱を分解し、それを発酵メタモルフォーゼさせ、見る人を酔いしれさせるような、そんな仕事をやっていくのだ。

発酵という営みを、私の精神の中でも起こすのだ。

目の前の事象を取り込んで、人が吐き出したものも飲み込んで、どんどん分解して、そこからスピリッツを取り出せ。

怠惰に腐って周囲に悪臭を放っている場合じゃない。それじゃ微生物以下だぞ。


そうだ。やるぞコンチクショウ。グビグビ。

しかし旨いなコンチクショウ。ボリボリ。

いい仕事してやがる。

負けてたまるか。ボリボリ。

…クソー。

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2009年06月16日

遠くから呼ぶ声

この週末、新潟、長野と出張が続いたので、ずっと読み進まずに滞っていた池谷裕二さんの『単純な「脳」、複雑な「私」』(池谷裕二、朝日出版社、2009)を新幹線の中で一気に読了。

以前読んだ『進化しすぎた脳』(池谷裕二、朝日出版社、2007)もそうだったけれど、この本もまた最新のトリビアルな科学的知見がふんだんに盛り込まれていて、読んでいて「ほぉ〜」とか「へぇ〜」とか一人唸りながらあっという間に読んでしまった。

いやぁ面白い。最新の脳科学の知見はおおむね網羅されているんじゃないかしら。

しかもこの人若いんだよなぁ。若い人が頑張っているのは嬉しいなぁ。


非破壊的な検査技術の発達や、シミュレーション科学の発達により、最近の脳研究は一気に突き進んでいて、今までとうてい科学的研究の対象にはならなかったようなことまで、どんどんそのメカニズムが解明されている。

本書を読むとけっこうビックリ仰天な実験結果がてんこ盛りである。

読んでいると、「とにかく脳は大嘘つきである」という事実ばかりがバンバン目に飛び込んでくるけれど、それもこれも私が穏やかに生きていけるように脳がついてくれている優しい嘘。

ありがとう。脳みそ。死ぬまで私をだましてね。

でもゴルフのパットが入るか入らないか、さらにはどれくらい外してしまうのか、そんなことまで3秒前にはもうすでに分かっているなら、頼むから先に教えてよ。


池谷さんもこの著書の中で言っているけれど、理系文系を超えて学際的なつながりを作り上げていくときに、脳科学的な知見から分かり始めてきた「私たちの脳の癖」というものを前提に含んでおかないと、いつまで経ってもいろんなところで「バカの壁」(@養老猛司)が立ちはだかり続けることになるだろう。

私たちは、「私たちのからだ/感覚」(脳という臓器を含めて)を抜きにしては、決して世界も自分自身も語れない。

私は、私のからだを使って、世界を感じ、また考えている。

どうあってもそれは主観以外の何ものでもない。

それはたとえ精妙に作られた計測機械を使って、統計学的データを長年にわたって取り続けたってさえ、そうなのだ。

どんな精妙な機械を使ってデータを取ろうと、その測定結果から何らかの結論を導き出すときには、それを解釈する人の主観から免れ得ないし、何より、何らかの測定機械のデータを採用するということは、その時点ですでにその機械の測定手法を有効的なものだとする「機械の設計理念」に同意署名しているということなのだ。


そういうメタ認知レベルでの自覚は、さまざまな分野とつながりながら新しい活動をしていこうとするときに何より大切なことである。

私たちには「構造的に気づけない」ことがあり、また「選択的に無視している」ことがあり、そして「その不能性があって初めて私たちは何かを認知することができる」ということ。

そのあたりに関しては、これまた若い研究者である西條剛央さんという方が、「構造構成主義」(⇒Wiki)というメタ理論を構築して、分野を超えて話し合いのできる「言論場」を作ろうと一生懸命活動されているけれど、そういう活動が本当に大事だと思う。

でもこうして自分と同世代くらいの若い研究者の方たちが、どんどん活躍していっているのはホントすごく勇気づけられるなぁ。

オレも頑張ろっと。


前回、わらべ唄の神谷さんとの対談のことを書いたけれども、神谷さんは話の中で「どんなに一人遊びに集中している子どもがいたとしても決して一人にはしないと、阿部ヤエさんに教わった」とおっしゃっていた。

それは長年保育の現場に関わってきた神谷さん自身も最初は意外であったそうだけれど、私も神谷さんと同じく、一人遊びに集中している子は何となくそっとしておいてあげるという感覚を持っていた。

けれども、遠野のわらべ唄の世界ではそういう子にも必ず声はかけていくのだそうである。

でもそれを聞いたときにふと、「それってとても山伏的だな」と思ったので、そのことを神谷さんに言ってみたら、「そうかもしれないですね」というお返事をいただいた。


決して一人遊びに夢中にさせない。一人の世界に没頭させない。

それはおそらく、村という共同体を維持していくための知恵であり、また、山伏たちが精神の病に陥らないための知恵でもあったのだろう。

一人遊びに没頭している子にも必ず声はかけていくということ。

それは「遠くから呼ぶ声」である。

ともすれば一人の世界に没入していってしまいかねないときに、「遠くから呼ぶ声」に必ずつながりを持たせておくということ。「私の名を呼ぶ声」が聞こえたときには返事をさせるということ。

山伏のような、ストイックで求道的な世界においてはしばしば起こることだが、過酷で内省的な修行に没入しすぎるあまりに、完全なる自分だけの世界を作り過ぎてしまって、俗世とのつながりが切れて、場合によっては他人や社会とのディスコミュニケーション症状を引き起こすことがある。

最近で言えば、韓国かどこかで「ネットゲーム(ネトゲ)のしすぎで死者が出た」なんていう、ちょっと信じられないニュースが報道されていたけれど、それももし現実世界から「彼を呼ぶ声」があり、またそれに応えるという構えが身に付いていたならば、そんな事態にまでは至らなかったはず。

きっとあまりに没入しすぎた彼にとっては、「眠気」や「空腹感」や「疲労感」といった「内的な呼び声」さえも、もはや彼を現実世界へと呼び戻すシグナルにはならなかったのだろう。

「自分の世界、自分の物語」(この場合はネットの世界)があまりに強くなりすぎると、周囲との「合意された現実」(@ミンデル)の世界と乖離し始め、それが過ぎれば精神や身体に失調をきたし始める。

それは当然のことなのだ。

だって私たちは「物理世界」や「合意された現実」の世界から離れては生きていけないのだから。

私たちは物質としての肉体を持っているし(だから食わなきゃいけないし、寝なきゃいけないし、暑さ寒さから身を守らなきゃいけない)、また周囲の人間との参照によって人間性を獲得していくのだ(人は人に育てられて人になる)。


いろんなレイヤーが重層的に重なり合って成り立っている私たちの世界。

ひとりひとりが皆、脳という臓器の持つ独特の癖によって、それぞれの関心の度合いによって、微妙に時空間をゆがめられた世界を生きている。

それは、それぞれの脳が優しくついてくれている嘘。

誰もがみんな、胡蝶の夢を見ている。

他者の世界を理解することはできないが、それでもともに支えあって何かを作り上げていくことはできる。

それはきっと、自分の世界を囲む壁を越えて、夢のはるか彼方から聞こえてくる「遠くから呼ぶ声」に応えようという、お互いの優しさによって支えられているのだ。

遠くから私の名を呼ぶ声がする。

それが、人がこの世に生き続けられる理由なのかもしれない。

みんな、一緒に遊ぼうよ。

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2009年05月17日

量子の見る夢

いやぁ、もう何というか非常にドラマティックなゴールデンウィークだった。

とってもドラマティックだったので、いまだにどんな文脈の中に位置づけていいのかよく判らず、ぼんやりと考え続けている。

前回のブログでは滝に行ったと書いたが、その後プロセスワークの創始者であるミンデル夫妻(アーニー&エイミー)の3日間のワークショップに参加してきた。

プロセスワークの土台となっているものは「プロセス指向心理学(POP)」と呼ばれるもので、今まで興味は持ちながらちっとも勉強してこなかったのだけれど、今回参加するに当たって本を読んでみたら非常に面白かった。もっと早く読めばよかった。

でも今だから深く読めるのかもしれないし、出会うべきときに出会ったのかもしれない。


「プロセス指向心理学とは何か?」という質問に答えるのはなかなか難しい。

もちろんそれは「私がまだよく知らない」ということが一番の理由であるが、それ自体のもつ包括的で動態的なスタンスにも拠る。

何と表現すればいいのか分からないが、プロセス指向心理学とは「ユング心理学と東西のシャーマニズムと量子論のアイデアをミキシングしたもの」であり、プロセスワークとは「とりあえずそれを動いてみたもの」である。

どれもすごいのだけれど、この「とりあえず動いてみた」というところが、私にとっては何よりすごい。

それはミンデル夫妻の絶妙なチームワークによって支えられていた。

プロセスワークの場で起きていることは、とってもシャーマニックなことであり、夢や神話の世界の表出であり、波動関数の収斂の体現であり、重苦しい重力場からの解放であった。


量子論については私も語りだすと止まらないくらい関心を持っているのだけれど、とてもこの場で説明できるものではないので、ここでは触れない。

ただひとつだけ簡単に説明しておくと、量子論の数あるアイデアの中からミンデルが特に注目して取り入れていたアイデアとは、「量子のもつれ(⇒Wiki)」であり、「量子の非局在性」というものである。

つまり、「量子は時間も空間も越えてつながりあっている」というアイデアだ。

量子はたとえ何千キロ、何万キロ離れていようと、片割れが変化するとその情報が瞬時に伝わり、何千年、何万年前の「過去の振る舞い」が、「現在の観測」によって事後的に決定されるという、時も空間も越えた不可思議な振る舞いをするのだけれど、ミンデルはそれを私たち人間存在にも採用した。

私たち人間にもそういうことが起きているんじゃないか、と。


私たちの通常の世界観から照らし合わせて言えば、そんなアイデアを導入するのは、荒唐無稽といえば荒唐無稽、ナンセンスといえばナンセンスだ。

けれどもその話を聞いて私の心が深いところで打ち震えることは確かだし、からだの奥から熱が湧いてきて元気になるというのは、まぎれもない事実なのだ。

そしてそのアイデアによって場が立ち上がり、何事かが起きていく。

まるでそうとしか思えないような出来事が積み重なってゆく。

いったい何が起きているのだろう?

とうてい私たちのリニアル(線形)な言語体系では説明できないことが起きているわけだけれど、その並走し重奏している現象は、はっきり私たちの中の何かと対応しあっている。

ミンデルはそれを「ドリームランド」と呼んだ。

私たちはみんな、いつだって夢を見ている。


今回、ワークショップの最終日、私たちは何の因果かデモンストレーションとして200人近くの聴衆の前に出されてワークを行なうことになってしまった。

みんなに見つめられながら叫んだり踊ったり言い合ったり、いろんなことをしたのだけれど、最後に私は死んだ。死体になった。

ミンデルが「ここにゴーストロールがいる」と床を指差した瞬間、思わずからだが動いていた。
(「ゴーストロール」とは、その場にいないのだけれど影響を与えている役割のこと)

考えるより早く、私はミンデルの脇をサッと抜け、そこにバタリと仰向けに倒れた。

そこで起きている出来事に会場は静まり返り、会場のあちこちからすすり泣く声が聴こえた。

すすり泣く声を聴きながら、しばらく私は死体になっていた。

ワークをしている私たちと、それを観ている人たちと、いろんな夢がそこで交錯していた。

私はみんなの中のゴーストとして、そこで死んでいた。

遠い静寂。 流れ込む夢。

そこで私が何者だったのかは、誰にも言えない。

誰でもあり、誰でもない、誰か。

何が起きていたのか、あまりに多くの物語が殺到していて、これとはっきり言えるものはない。

けれども私はそこで確かに死んだのだ。

その意味はこれからゆっくりじっくり考えていきたいと思う。

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2009年04月20日

へりくつ問答 Penta

「RYOさん、どうもご無沙汰してます。久しぶりの『へりくつ問答』ですね。」
「ホントにねぇ。気がついたら最後にやったのがもう1年以上前ですよ。いやぁ、この1年またいろいろありましたね。変動の年でした。」
「あちこち呼ばれて、あちこち行って、お忙しそうですもんね。」
「ええもうおかげさまで。このまえの土曜日も代々木公園で行なわれているアースデイに遊びに行ったら、いろんなお母さん方に声かけられちゃってね。人ごみ歩いていると、前から歩いてくるお子さん抱っこした女性が、私の顔見て「あ。」とか言うわけですよ(笑)。そこからはもう分かるでしょ?(笑) 知ってる人から知らない人まで「どうもどうも」なんて挨拶ばっかりしてましたよ。なんだかごく限られた一部でずいぶん有名人になってしまったようで…。落ち着かなくって尻がむずむずしますよ。」
「なんですか? ムシでもいるんですか? 胸椎9番に愉気するといいですよ。」
「違うって。」

「でもいいじゃないですか。そんなに大勢の方に覚えていただいて。モテモテですねぇ。RYOセンセー(笑)。だって来月はまたクーヨンで特集でしょう? しかもRYOさんのイラストまで載るとか。」
「いやぁ何だかねぇ。モテモテっていうか何ていうか…。イラストも「今回はぜひ描いてくれ」って言うんで、「お安い御用」とサラサラッと描いたんですけどね。まあ小っちゃく載ってます。でもありがたいことですよね。ああ、これはもういろんなことを引き受けてお返ししていくしかないな、なんてつくづく思いますよ。」
「でも代々木と言えばアレですよね。なんか今度やるんですよね?。」
「ああ、自然育児友の会ね。そうそう、講座をお願いされてるんですよ。」
「いや、じゃなくって、なんか飲み会かなにか…」
「ああ〜、そっち?(笑) 夜の飲み会ね?」
「え? 講座もやるんですか?」
「うん、講座もやるの。てゆうかそっちがメインね(笑)。 で、前夜(イブ)は飲むの(笑)。」
「お母さんたちと?」
「そう。ほら、いまずっと「ママは子どもの整体師」って講座を朝カルでやってるでしょう?」
「ええ」
「でね、いつかやりたいなぁと思いながら「まだまだ先かなぁ」って思ってたことがあって、それは何かっていうと、「ほろ酔い講座・不埒に育児を語る会」ってやつなの(笑)。」
「ええ〜? お酒飲みながらやるんですか?(笑)」
「そう。たまには不埒にいきましょうってね(笑)。でもそんな不埒な会を開くには、自分はまだまだ年の功ってもんが全然足りないからもっと先だななんて思ってたんですけど、今回なんかそんな話がポッと出てきてね。これもまぁご縁というか何というか。話が出てきたんなら「じゃあやっちまいましょうか」ってことでね。なんだかやることになっちゃったんです。」
「へぇ〜」
「でね、そうと決めたら会の名前もパッと思いついてね。ずっと「ママは子どもの整体師」ってやってるからその「埒外編」ってことでね。「ママもたまには酔いたいし」(笑)。 どう? いいでしょう?」
「ママもたまには酔いたいし!(笑)  いいですね!そりゃ響く人が多いでしょう?(笑)」
「たぶんね。不埒でいいでしょう?(笑)」

「え、でそこでRYOさん、なんかしゃべるんですか?」
「いや、自分はどうでもいいんですよ。隅っこのほうでちびちび飲んでますよ…」
「なに、始まる前からいじけてるんですか(笑)。」
「いや、ホントにいいんですよ。別に。私は。なんか隅っこのほうでちびちび飲んでね。それをママさんたちに遠くから指を指されつつ「ほら、センセイ寂しそうに飲んでるよ。あ、こぼした。慌ててる慌ててる!」とか何とか言われてれば、それでいいんですよ…」
「なんですか。そのいじけ虫は? やっぱり胸椎9番?(笑)」
「いやいや、たしかにやることにはなっちゃったけどね。でも自分はまだまだそんな不埒な会で語るにゃ青臭さが抜け切れてないですよ。もっと先の話です。そうだなぁ、せめて五十は超えないと…。」
「なんですか?それ。」
「いや、あるんですよ。何かそういうのって。いまの自分じゃなんだか「しゃらくせえ」っていうか何ていうか…。自分自身で鼻持ちなりませんね。」
「ふ〜ん…よく分かりませんね。やるんならやればいいじゃないですか。」
「いや、いいの。そういうことなの。」
「そーですか。」

「でもね。冗談ばっかりじゃなくってね。世の中きれいごとばかりじゃないでしょう? そうやっていろんな表現のパターンが持てるように、いろんな場を用意することって大事だと思うんですよね。」
「いろんなパターン?」
「そう。泣いたり笑ったり怒ったりっていうのと一緒でね。ちょっぴりエコだったり、ロハスだったりするのと同時に、ちょっぴりセレブだったり、ゴージャスだったりね。いつもはベジだけど、たまにはジャンクも食うみたいなね。「久しぶりのポテチうめー(笑)」とか、「アタシだってたまには飲んじゃうわよ」みたいな、なんかそういうフレキシビリティって、これからの時代は大事だと思うんですよ。これからますますボーダレスな多様性社会になっていきますからね。」
「まぁねぇ。私もよくお互いの言い分が分かったりしちゃうから、何とも言えなくなっちゃうことってよくあるんですよね。難しいですよね。そういうことって。」
「そうなんですよね。別に自分の信念を曲げて付き合う必要はないんだけど、そういう世界もあるっていうことをどこまで許容できるのかってことでね。いろんなものが高速で行き交う現代に必要な構えだと思うんですよ。ハレとケのバランスというか、埒と埒外のバランスというか、そういうものをどっちもアクセス可能にしておくっていうね。だって今の時代、隣にどんな思想を持った人が住み始めるか分からないでしょう?」
「そうですねぇ。」

「だからね。やっぱりこうやっていろんな表現できる場を用意するのと同時に、それぞれの個人がいろんな表現のパターンを身に付けていくことって大事だと思うんですよ。じつはこの「へりくつ問答」もその試みの一つなんですけどね。」
「これが?」
前も言いましたけど、こういうふうに対話の形でしか語れないことってあるんですよね。こうやって二人の間で交わされるダイアローグ(対話)っていうカタチをとることで、モノローグ(独白)では決して語れないことが語れるようになる。これはやっぱり一つの語り口であって、一つの方法なんですよね。」
「それで突然、私が呼び出されるわけですか。」
「いや、申し訳ない。」
「じゃあ、このまえ落語みたいな文章書いてたのも何かそういうことなんですか?」
「そうそう、そうですそうです。分かってきたじゃないですか。落語で語れることって普通のダイアローグとまた違うんですよね。もちろん講談でも漫才でもまたそれぞれ違う。詩でも違うし、歌でも違う。そういう意味じゃ人間はいろんな語り口の方法を編み出してきましたけれど、私たちはそこをあんまり使いこなせていない。」
「う〜ん…」

「うまく表現できなかったり、どうしても言いたいことが伝わらないなら、いろんな方法、いろんな語り口を試してみるべきなんですよ。詩にしてみたり、歌ってみたり、叫んでみたり、落語で語ってみたりね。泣きながら、笑いながら、怒りながら。いろいろやってみればいいじゃないかって思うんです。」
「でもふだんいきなり落語でなんか語れませんよ。」
「いや、だからホントに落語で語らなくたっていいんですよ。その落語に潜んでいる「方法」ってもんがあるじゃないですか。それを応用すればいいんです。たとえば「愚かさを否定しない」とか、「ひっくり返してみる」とか、「勘違いを訂正しない」とか、「悪巧みの過程をすべて語る」とか、そういう落語に潜む方法をふだんの語り口でも活用してみるってことなんです。」
「う〜ん…なんだか難しいですね。」
「別に難しくなんかないですよ。やってみりゃいいんです。やってみれば当然いつもと違う反応が返ってきますから、その結果を引き受けていけば次につながるんです。「ああ、こういうふうにやると、こうなるんだな」と。」
「なんだか実験みたいですね。」
「そうですね。実験ですね。自分を素材にして実験するんです。私はそういうのが好きでよくやってますけど、身銭を切りますから、真剣にならざるを得ないんです。失敗したら全部自分で引き受けなきゃいけませんからね。でもそうして真剣にやるからこそ自分が成長するし、周囲にもその熱意が伝わるんじゃないですかね。」

「ちょうどいま読んでるこの『多読術』(松岡正剛、ちくまプリマー新書、2009)っていう本のなかで、松岡正剛さんが『世の中でうまくいかないことの多くは、実は当人の言葉の使い方によっているんです』なんて言ってますけど、これホントに最近切実にそう思います。言葉の使い方。もっと広く言えば表現の仕方。出し方。インターフェイスの問題。」
「たしかに言葉の問題は大きいですよねぇ。」
「でしょう? 分かってるんですよね、みんな。でも分かっちゃいるけどやめられない(笑)。言葉はなかなか変えられない。でも結局そこに切り込んでいかないとダメなような気がしてならないんですよね。言葉の牙城を切り崩さないと表現自体が変わらない。」
「“言葉を変えてゆく”ねぇ。」

「それはどんな「単語を使うか」ということに始まり、「何を主語に置くか」「どんな文脈にしていくか」「どんな声で語るか」「目線をどこに向けるか」、そしてさらには「どの立ち位置から語るのか」「どこで語るのか」「いつ語るのか」「誰がそこに居るのか」、そんなことまで含めて「言葉の使い方」というものを、もう一度きちんと捉えなおしてみると、まだまだできることってずいぶんあるんですよね。ふだんそこまでして、そんなことまで考えて言葉を伝えようとはしていないでしょう?」
「そこまで考えてしゃべる人はどこにもいませんよ。」
「確かにどこにもいないけど、いたっていいでしょ?(笑)」
「別にいたっていいけど、そんなことまで考えてしゃべるなんて私は嫌ですよ。メンドクサイし。だいたい「どこでだれと語るのか」なんて、自分でどうしようもないことだってあるでしょう?」
「まぁそうなんですけどね。でもね、私が一番言いたいのは、まだまだコミュニケーションには試行錯誤の余地があるってことなんです。「こうやったらもう少し伝わるんじゃないか」っていう試行錯誤を、まだまだやってないんじゃないかって、そういうことが言いたいんです。それは分かってもらえます?」
「まぁそれは分かりますよ。でも私だったらさっさと諦めますけどね。なんで私がそこまでやらなきゃいけないのって思うでしょう? まったく聞く耳持たない人なんていくらだっているじゃないですか。」
「いや、だから、それは分かるんだけど、それをどこまで踏ん張れるかって…」
「あ〜はいはい、分かりました分かりました。踏ん張り好きのRYO先生ですからね。」
「“踏ん張り好き”って…(笑)。」
「だってそうでしょう?」
「まぁねぇ…そうねぇ…否定はしませんけど…。でもいま言いたいのは踏ん張るっていうより、諦める前にいろいろ試してみようよというか何というか…。 ………踏ん張りましょうよ(笑)。」
「はいはい。でもさ、それこそRYOさんだって「踏ん張る」以外の方法試したっていいんじゃない? そんなこと言ってるくらいなら。ねぇ? いろいろ。そんなにこだわらないで。」
「う……」
「ほら、何か、いろいろ。」
「じゃあ…… 「放り出してみよう」か…?」
「…やっぱり怖いからやめてください(笑)。」

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2009年04月04日

セクシーでいこう

私の講座に参加して私の話を聞いたことのある方はその意味が何となく分かるかもしれないけれど、私は「こころ」と「からだ」とを重層的に語りたいといつも願っている。

「身心一如」と昔から言われているように、本来、それぞれバラバラにして語れるようなことでないのに、言葉(あるいは認知)の限界からバラバラにしか語れないということがどうにも私は歯がゆくて、そこを重ね合わせたような語り口というものがどうにかして紡ぎ出せないかと、日々いろんな語り口を試行錯誤しているのだ。

言葉を選び、語法を試し、語り口を変化させ、さんざんそんな試行錯誤を繰り返してきて、最近はホントにごくわずかではあるが、それでも以前に比べれば一義的な単調さにとどまらない、もう少し何らかの気配を帯びた、そんな「色気」のようなものが語り口に出てきた、そんな気がしている。

ここで私が言う「色気」というのは「セクシャルな」という意味よりもむしろ、「そこに何かが潜んでいる」「別の含みがありそうな」、あるいは「その奥に秘密がありそうな」というような意味合いである。(あるいはもっと露骨に「違うものが結ばれる」ということ)

私はべつに「私の話そのもの」を聞いて欲しいんじゃなくて、私の話を聞くうちにそこで語られていることに誘われて、「ああ、そういえば…」と、自分の中に潜む何かを思い出して欲しいのだ。

だから私の話を聞いていて、聞く人がそこに何らかの気配やおもかげを感じて何かを思い出してもらえたのなら、まずは私の「セクシー化計画」の試みは、一歩前進なのである。


なんてことを私の中で最近ひそかに企んでいたのだけれど、つい先日、私の講座に参加してくださった方に「RYO先生はセクシーだ」という感想をいただいたので、思わずビックリしてしまった。

セ、セクシー? 未だかつてそんなことを言われたことはありませんでしたが…。

いやぁ、バレちまうもんだなぁ(笑)。ハッハッハッ。

自分など、セクシャルな意味での「セクシー」とはとても程遠い存在だと思っているし、その方もたぶんそういう意味で言ったのではないと思うのだけれど、それでも私が言う「セクシー」というような、そこに帯びる雰囲気のような、気分のようなものは、意識しているとじわじわと滲み出ていくものなんですねぇ。

いやぁ、なんだかマイッタマイッタ。 (ノ∀`)タハー

こういうのってホントに内も外もありませんな。

色即是空 空即是色


このまえも朝カルのMさんとたまたま新宿で出会って話しているときに、「自分には色気が足りない。それじゃダメなんです。色気を身につけようと思います。」と熱く語っていたばかりだけれど、それから数ヶ月もしないうちに受講生から「セクシーだ」という感想をいただくということは、私もきちんと努力をしているという証拠である。

エライぞ自分。ちゃんと要望に応えようといつだって変わろうとしてくれるキミが大好きだ。愛してるよ。


私は自分が「今のままでいい」と思ったことは一度もない。つねに変わろうと思っている。

けれども「自分を変えよう」とするときに、意識的に「こうしよう、ああしよう」ということはほとんどしない。

それは確実に「今(まで)の自分」の反発を招くし、小賢しい企みはたいてい失敗に終わるということを経験から学んだからだ。

だから私は目指すべき方向をしっかりと思い描いたら、あとはほとんど無意識に任せている。

そうすると時間はかかるが着実に自分が変わっていって、それは自分自身が気づかぬうちに起こっているので、今回のようにたいてい「周りの人の指摘」によって気づくことが多い。

気がつけば「変わっている自分」を発見するのだ。


けれども、この「無意識に任せる」というやり方にもおそらく「ある方法」があると思うのだけれど、一番肝心なそこが自分でもどうやっているのかよく分からない。

「ダメじゃん」というツッコミが聞こえてきそうだけれど、分からないものは分からない。

「忘れりゃいいのか」と言われれば、忘れて何もしてないわけじゃないし、「強く願い続ければいいのか」と言われれば、そんなことをしているわけでもない。

何と言うか、もっと静かな出来事なのである。

自分の中で、灯篭の火が静かに燃え続けているような、そんな感じ。

「こういう方向に変わりたい」という思いは、自分の中で静かに燃え続けているが、だからといってどうこうしようということはあまりしない。でもいつだってそこで静かに燃え続けているし、その熱は私の一挙手一投足に確実に染み渡っている。そういうイメージだ。


自分に嘘をつかない、言い訳をしないということだろうか。
誤魔化さないということだろうか。
あるいは黙って行動するということだろうか。
結果をきちんと受け止めるということだろうか。

何かそこに「方法」があるのだけれど、それが何なのかはまだはっきり分からない。

何かが潜んでいることは確かなのだ。

でもたぶん、自分が変わろうと思っているその過程で起こるさまざまな出来事を、自分の「いつもの物語(ドミナントストーリー)」に落とし込んでしまってはダメなんだと思う。

新しい出来事を、自分の「いつものお話」で説明していってしまっては、今までと同じことの繰り返しにしかならない。それじゃあ何も変わらない。

変わりたいと願うなら、自分のお馴染みの(得意な)物語はいったん脇に置いて、「いま、ここで、新しい物語が紡ぎ出されているのだ」ということを、静かに、そして真摯に受け止めるという「構え」が必要である。

「いつもの物語」を変えようと思って「いつもの物語」に焦点を集めてゆくのではなく、「新しい物語」に差し招かれてそちらにふっと気が引かれるうちに、「いつもの物語」を忘れてしまう。

きっとそんな方法がいいのだ。

変えようと思ってそこに焦点を集めることは、むしろその構造を強化することにつながる場合がある。

だから「無意識に任せる」という方法なのだ。「ポカンとする」という方法なのだ。

整体ではこの「ポカンとする」というのが、ある種ひとつの目指すべき境地なのだけれど、そうすることでほどかれていく物語の結び目というものがある。


私が、「もっと色気をもって語りたい」と願ったのは、聞く人にその「いつもの物語」の埒外(らちがい)へと差し招く、そんな誘引力を身につけたいと思ったからだ。

自分の中で「ある一つの物語」によって連ねられている様々な出来事が、「別の物語」によっても連ねられうるということ。

新たな眼差しをもたらし、それに気づかせ、いつもの物語の結び目を解いて別の物語へといざなうのは、やはり「色気」というか「遊び」というか「狂い」というか、そんなようなものなのだ。


自分の「いつもの物語」を手放して、新しい「よその物語」へと身をゆだねる。

酔うて我を忘れたときに、ゆるりと解かれる私の結び目。

う〜む、やはり色気か(笑)。

posted by RYO at 00:47| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月20日

シュタイナー自伝を読んで考える

シュタイナー自伝〈上〉』(ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2008)を読了。

う〜ん、いろいろ非常にインスパイアされた。

ルドルフ・シュタイナーという人物の、あの卓越した洞察力と類まれなる直観力は、はたしてどのような幼少時代を経れば涵養されるのか、前々から極めて興味深く思っていたが、今回シュタイナー本人による自らの子ども時代の描写にじっくり浸ることで、少年期あるいは青年期のシュタイナーが何を焦点に自己形成しようとしていたのか、また現在行なわれているシュタイナー教育がどのような背景から生まれてきたのか、少し分かってきたような気がする。


シュタイナーの思想を知るおそらく誰もが驚くことは、彼によって構築されたあの精神世界のディテールの細かさと、圧倒的なスケールの雄大さであろう。

ただデカイだけであったり、ただ精密なだけであれば、そのような思想はおそらくごまんとあるだろうが、極小のスケールから極大のスケールまで、まるでフラクタル図形のように極めて精密に構築された精神世界というのは、おそらく世界中を探したってなかなか無い。

匹敵するとしたら、空海くらいのものではないか。

いずれにせよ圧倒的である。


あのシュタイナー独特の言い回しによって表現される「輪郭のはっきりした、精密極まりない概念」は、よほど訓練された「表象構築力」によって支えられているのではないかと思っていたが、自伝を読んでいたら、シュタイナーは幼少時から幾何学というものに熱中し、ずいぶん長いあいだ盛んに取り組んだということが書かれていたので、やっぱりなと思った。

シュタイナーのあの類まれなる「表象力」は、幼少時に涵養された幾何学的センスに支えられている。


シュタイナーの精神世界に構築された、きわめてシャープな輪郭をもったさまざまな表象群は、そのようなものがなければ成り立ちようがない。

普通はどんな人でもその精神世界を観照する際には、ぼんやりとした像として捉えるので、たいていところどころ矛盾し、混乱し、輪郭がぼやけ、いびつな部分や白地図が、そこかしこにあるものだ。

そして誰しもそういう部分を抱えたまま、それは見ないように、あるいは適当に誤魔化し、折り合いをつけながら生きている。

けれどもシュタイナーは幼少時から感じていたその世界への親密さから、そのような道は選ばなかった。確固たる精神世界を表象しようと願っていた。

そしてシュタイナー自身、精神世界をよりはっきりと認識するために、幾何学という方法が必要だということを、ずいぶん小さい時からはっきりと把握していたようである。


『私は幾何学への関心のなかに、次第に私に発展していった観照の最初の芽生えを見なくてはならない。すでに少年時代に、その観照は多かれ少なかれ無意識に私のなかに生きており、二十歳頃にははっきりと意識的な形を取った。
「感覚が知覚する対象と経過は空間中に存在する。しかし、この空間が人間の外にあるのと同様、内部に心魂の空間があり、それは精神的な存在・経過の舞台である」と、私は思った。
……人間は幾何学において、心魂自身が自らの力によって体験するものを知ることができる、と私は思った。この感情のなかに私は、私が体験している精神世界について、感覚世界についてと同様に語れる正当性を見出した。……私は「人々が見る」事物・存在と、「人々が見ない」事物・存在を区別した。』(『シュタイナー自伝・上』ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2008、p19−20)


この幾何学的センスは、シュタイナー教育のカリキュラムの中で、フォルメン線描やオイリュトミー、さらにはありとあらゆる教科指導の中で花開いている。

例えば歴史上の人物がはたして自分の何世代前の人間であるのか、クラスメートで手をつないで並ばせて、どれだけの「遠い血筋」であるかを「視覚的に」直観させるようなワークや、上がっていったものは必ず下がり、広がっていったものは必ず縮んでくるようなさまざまな指導の中に、そういった「幾何学的、あるいは空間的センス」が貫かれている。

子どもの精神世界の中に、何を作り上げようとしているのか、どんな運動を通そうとしているのか、その意図がはっきりしている。

そのようなところまで考えて構築された教育メソッドというものは、そうそう無い。

改めてシュタイナーという人のすごさに感じ入るばかりである。


それともうひとつ。

シュタイナーがこの自伝の中で、くり返し何度となく描き出している描写があって、それは何かと言うと、シュタイナーと多くの人との間の「感情と切り離された精神の交流」というものである。

シュタイナーはこの自伝の中で、自分に影響を及ぼした多くの知人や先達たちを登場させているが、誰に対しても心からの敬意と愛情を示しつつ、その関係の中に生まれた「共感」と「反感」を冷静に描き出している。

たとえば、ある人の結論には嫌悪を感じるが、その思考の方法には真実の一片を見て敬意を払い、またある人からは何も学ぶものは無くとも、その佇まいに敬慕の念を持つ。


『彼女の話は雄大だった。彼女の理念の内容は、私の精神に現れた世界観の正反対であった。その内容は嫌であったが、私は偉大だと思われるものへの驚嘆と関心を決して拒もうとはしなかった。「このような対立には、どこかで調和が見出されるにちがいない」と、私は思った。私は嫌なものを、それが私自身の心魂の方向に添っているかのように、理解して追っていくことができた。』(『シュタイナー自伝・上』ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2008、p92)


そうして、シュタイナーはそこで起きている「精神の運動」のみを捉え続け、そのような「思考」と「感情」とをきっちり切り離した「自らの思考の姿」を、くり返し描写しているのだ。

多くの人はほとんど、それとは知らぬうちに自分の感情に浸潤された思考を形成し、感情的に考え、感情的に結論を出すものだが、シュタイナーは極めて注意深く、その「感情」と「思考」を切り離して、純粋に考えた。

それこそ、「嫌なものにも我が事のように寄り添える」くらいに。(これがシビれる)

シュタイナーはこの「思考と感情を切り離す」という訓練もまた、若いときから自らに課して行なっていたようである。


『人間の思考が自然の創造に対してどのような位置にあるのか、私は判断したかった。この思考の努力に対して私が感じたものは、二つの側から影響を受けた。まず、どの思考も完全に見通せるものにして、不特定の感情が思考を何らかの方向に向けないように、思考を私自身のなかで形成しようとした。第二に、私のなかで、そのような思考と宗教の教えとのあいだに調和を作り出したいと思った。』(『シュタイナー自伝・上』ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2008、p32−33)


頭部の運動である「思考」という行為は、莫大なエネルギーを消耗する。

脳は思考しているときに、他の臓器とは比べ物にならないほど莫大な量の酸素と糖を消費している。

「考える」ということは、けっこうタフな「肉体労働」なのである。

それに対して、「胸部の律動器官は疲れることがない」とシュタイナーは言う。

たしかに、心臓という器官が生まれてから死ぬまで休むことなく拍動し続けることからも分かるように、あるリズムを保って繰り返される反復運動は、ほとんど疲れることがない。

それは自分のペースを強引に崩され、他人のペースに振り回されたときに、どれだけくたびれるかを空想してもらえばよく分かるかと思う。


3歳から8,9歳くらいまでの小さな子どもは、ぐんぐん成長してゆく四肢に比べて、呼吸・循環器や拍動器官といった内臓器官が、まだ十分に育っていない。

整体的には、呼吸器の成長はシュタイナーで言う「9歳の危機」と呼ばれる9歳頃にいちおうの区切りを見せ、そのあと第二次性徴期あたりまで生殖器が成長するのに伴ってさらに力強くなり、腰の力が付く頃には、内的な力でもって自らリズムを作り出すことができるようになる。

子どもの生活リズムが大切だとよく言われるのは、このようないまだ未熟な呼吸・循環器系の律動を、正確に刻まれる生活リズムによって外部から支えるためなのである。

子どもの脈と呼吸を支えるために、生活がリズミカルに拍動している必要があるのだ。


子どもがみな、ことあるごとに走り回るのも、彼らの呼吸器や心臓が活発だからなのではなく、むしろそれら内部の器官が未熟でしっかりとした強いリズムを刻むことが出来ないゆえに、走り、歌い、踊ったりして、外部のリズムにうまく乗って、そのことによって内部の拍動・循環を支えようとしているからなのである。

子どもがはしゃぎ、走り、暴れるのは必然的な生理欲求によるのであって、そうしなくては呼吸・循環器系が病んで病気になってしまうから、彼らはリズムを欲し、走り回るのだ。

だから呼吸器が弱いからと言ってじっとしていたら、呼吸器はますます負担が増え、その拍動は微弱になっていってしまう。


話がずれた。

ともかく胸部の律動器官はリズムを生み出し、そしてそのリズムにしたがっているうちは、ほとんどくたびれることなしに仕事を果たすことができるのだが、ここに、「感情」というものが絡んでくる。

胸部の律動器官から生み出される「感情」と呼ばれるものは、そのリズムが保持されているかぎり、さほどくたびれることなく運動し続ける。

そして、それに拠って運動が展開されている間、つまり感情に突き動かされて動いている間は、人は強靭的な体力を示すのだ。

怒りを持って、喜びを持って、憎しみを持って、運動が展開されている間は、エネルギーが次から次へと湧いてくる。

感情に浸された思考、感情に突き動かされた行動は、そのエネルギーを感情から供給され、きわめてパワフルにドライブする。

けれどもそのように感情に突き動かされることで多大なエネルギーを得るということは、その代償というわけでもないが、思考も行動もある意味、きわめて主観的な感情と分かちがたく結ばれることになり、一挙手一投足が己の感情に浸透され、その満足のために奉仕することになる。


別にそれがすべて悪いとは言わない。

それによって、およそ通常では考えられないような超人的な仕事をして物事を変えていくこともあるだろうし、またそのような感情に浸された運動(思考、行動)によって、人がずいぶん癒されるということもある。

私も自称「妄想族」であるからして、「思いっきり自分の感情に浸された思考に沈潜する快感」というものは知っている。

多かれ少なかれ、人はそのような思考を、社会生活の中でもしている。

感情に支えられた思考は、私たちにさほど負担を強いることなく次々と展開し、スムーズに構築されてゆくので、ある種の快感を感じさせる。

が、それはいわば施主のワガママな要求を優先するために、さまざまな条件をなおざりにして、無理やり強引に建築された建物のようなものであり、当然だが、長い自然の経過に耐えられるほどの「必然性(自然性)」を持つものではない。(あるいは嵐ひとつで吹き飛ぶかもしれない)

そのことだけは知っておくべきである。


私は、ゆくゆくは「概念そのものが自らのカタチを成したいという要求」に従って、思考できるようになりたいと願っている。

そこには静かではあるが、たしかに思考を支えるエネルギーがあって、その静かな力を汲み取りながら思考し続けることはできるのだ。

そうして思考は、思考そのものによって展開されるようになり、あるべくしてある思考が立ち上がることになる。

それは「思考における脱力」であり、「パワー(権力、暴力)からの離脱」である。

むずかしいことを書いているけれど、本当に目指すべきはそうなのだ。

それはなぜか私の中では、河井寛次郎の「手考足思」という詩につながるものがある。


シュタイナーが青年期に取り組み続けた課題。

そのような「アタマの使い方」を、身につけたい。

posted by RYO at 23:20| Comment(29) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月09日

もう落語で行くしかない

え〜、毎度こんなバカバカしいブログにお越しくださいましてありがとうございます。

世の中には奇特な方もあるもんで、こんなあたくしの雑念妄想をただ書き散らしているばかりのブログも、それなりに読んでくださる方がいらっしゃるようでして、あたくしとしちゃあ心苦しいばかりなんでありますが、それなりに楽しんでいただける方もチラホラいらっしゃるようですので、細々と続けているんですけどね…。

え? なんで突然こんな文体に?

いやぁ、前の記事にも書きましたけど、このひと月ほどいろいろありましてね、何だかあちらこちらでいろんなことが同時に起きて、まったく何でこんなにいろいろあるのかと悩んでいたんですけどね。先日ちょいと用事で実家の近くに行ったので久しぶりに実家に顔を出したら、母が陰鬱な顔をして「はぁ〜…」っと溜め息ついてる。

それで「どうしたの?」って話を聞いていたら、これがなかなかテリブルで、今度はこっちも溜め息うつっちゃって「はぁ〜…」(笑)。

親子一緒に、「はぁ〜…」(笑)。

まったくなんだってこんなにいろいろ同時にあるんですかね。ひょっとして貧乏神やら疫病神やらが、「こらぼれーしょんってやつでもやってみねぇか」なんて打ち合わせでもしてんじゃないかって思いますけど、まぁそんなこんなでいろいろ大変でしてね。

それでもう考えることがあんまり多くて複雑すぎて、グルグルしていたら何だか一回転しちゃってね、これはもう笑っちまうしかないってんで、「はっはっはっ!」って笑ってブログを書いていたらこんな文体になっちまったって、そんな具合なんですよダンナ。


落語ですよね。これは。もう落語しかない。

こういうときはもうね、落語で語るしかない。

人が交わりゃいろいろあるんです。落語はそこを語る語り口がある。

でもね。落語はエライと思うんですよ。落語の題材なんて「心中」だとか「借金」だとか、そんな話ばっかりですよ。フツーにしゃべったら重たくなってドーンと落ち込んじまいそうなことを、軽くしゃべることでプワーッと語って笑っちまう。笑っちまうってことは祓っちまうってことですからね。ずいぶん救われている人は多いんじゃないかと思うんですよ。

落語に出てくる人たちは誰も傷つけないんですよね。いや、失敗は山ほどしてますよ? むしろそればっかりです。愚かな人たちばかりです。あたくしたちと一緒です。でもね、悪人が出てこないんですよ。悪いことをする人は出てきても、でも決して悪人じゃない。愛嬌がある。そこに愛があるんです。すごいことですよ、それは。そんな話を聞いていればね、なんだか元気も出てきますよ。それで救われる人がいる。

ホントにね、エライですよ。落語家さんたちは。


そんなご専門の方々に比べりゃあたくしなんて足元にも及びませんけどね、でもあたくしも人前に出てしゃべることが半ば生業みたいになってきてますからね。それで最近つくづく思うんですけど、そうやって人前でしゃべるってこと自体が、その行為自体がね、すごく意味のあることなんだって思うんですよ。

そうやってしゃべって聞いて笑って元気になっちまうってことが、すごく大事なんだってね。

あたくしも整体なんてことをやってますから、人様のからだを触っていろんなこともしますけど、いろんな悩みや相談の話を聞いているとね、もう目の前で無防備に寝ている人の隣で落語でも一席ぶって、げらげら笑って涙やらヨダレやらを垂らしまくってもらって、シーツを汚して「ごめんなさい」なんてやってた方が元気になるんじゃないかなんて、そんなこと思うこともありますよ。いやホントに。

人間はね、元気になれば、元気になるんですよ。

言葉にしちゃあ当たり前なんですけどね。 でもホントにそうなんです。

だからあたくしは落語家はエライって思うし、料理人だってエライと思うんです。人を元気にしてる。あたくしから言わせれば整体なんですよ、それはやっぱり。こちらが勝手に「整体だ」なんて言い方は、ご本人たちに失礼かもしれませんけどね、でも敬意を評して言ってるんです。ホントに尊敬してる。


あたくしもつい去年の話ですけどね、こんなことがありました。

あたくしの知り合いがえらく落ち込んじまったことがありましてね。まぁそのきっかけはあたくしなんですけど…(笑)。とにかく落ち込んじまいまして、電話で励まそうとしていたら一方的に切られちまいましてね。こっちもなんだか腹が立ったもんだから、真夜中でしたけど、そのまんま終電間近の電車に飛び乗って、いきなり家に押しかけた。

それでこちらも腹が立っていたもんだから、どうしてやろうかと思いましてね、夜道を歩いていたら自動販売機が煌煌と明かりをつけているのが目に入ったんで、「そうだ。水をぶっかけてやれ」と思いついて、水を買って家まで行った。

それで口に水を含んで玄関をトントンと叩いてね、そいつが扉を開けて顔を見せるのを待ち構えて、いきなりその顔に思いっきり

「プーーーッ!!!」(笑)

それで一言二言だけ言ってとっとと帰ったんですけど、こちらもあんまり腹を立てていたもんだから肝心の要件を言い忘れた。それで5分もしないうちにまたまた戻って玄関をトントントン(笑)。

あっちもさっきのことがあるから用心深くこっそり扉を開けまして(笑)、こちらもさすがに二回も水をぶっかけたら本気で怒られますからね、そのときは率直に用件だけ言いました。


え〜、あたくしをあんまりご存じじゃない方はね、驚かれたかもしれませんけどね、そんなこともするんですよ? あたくしは。

なんだかあたくしも巷じゃ「とってもやさしいRYO先生」ってことで通ってるみたいですけど、そんな表面だけ見て騙されちゃいけないですよ?(笑) 一見やさしそうに見える人に限って、心のなかで何たくらんでるか分からないもんです(笑)。

だからあたくしはよく「私の言ってることを信用しちゃいけない」って言ってるんですけど、これは本気ですからね。本気で信用しちゃいけない。あたくしの言ってることを本気で信用しちゃいけないってことは、信用しなきゃいけないってことですよ。 …あれ?どっちだ?分かんなくなっちゃった(笑)。

とにかくね、あたくしみたいな人間なんて迂闊に信用しちゃいけない。


まぁそれでね、その後その人もいちおう元気になりましたよ。いちおうね。それでこちらの言い分聞いてくれました。だって夜中に突然、顔に水ぶっかけられて落ち込んでる場合じゃないですよ、そりゃ(笑)。乱暴だけど、何かは変わった。

あたくしだっていちおう指導者の端くれですからね。人に元気になってもらうためにゃ何だってやりますよ。まぁ元々あたくしのせいでしたしね。できることは何でもやります。使えるものは何でも使うし、神だって仏だって利用する。神様だって人を幸せにするためにいるんでしょう? 戦争ばっか起こさせてないで、人が苦しんでいるときくらい役に立てって話ですよ。こんなこと言ってるとバチが当りそうですけどね。でもホントに何でもやりますよ。


あのね、さっきの話だってね、ホントのとこ、裏も話しちゃえばなかなか大変なんですよ?

夜中に水を買ってひとんち押しかけてですよ。玄関前で深呼吸した後、先ほど買い込んだペットボトルをパキリと開けて口いっぱいに含んでね。

怒ってるわりにゃ冷静じゃねぇかって話だけど、真夜中だからベルを鳴らすのも悪いと思って、玄関の扉を小さくコンコンコン…、気ぃ使うんですよ?あたくしは(笑)。

でもしばらくしても出てこないもんだから今度はもう少し強くトントントン、それでも出てこないから最後はドンドンドン…(笑)。

これ以上強く叩いたらさすがに申し訳ないと思っていたら、中から人の気配がしましてね。

(よ〜し、来やがった…)と思って準備万端待ち構えていたらね……、驚きましたよ。

「どちら様ですか?」と来やがった(笑)。

しまった。こっちゃあ口が開けらんねぇ(笑)。

返事をしなきゃ玄関開けてくんねぇよ(笑)。

かといってこのまま返事をしようってぇと、口からダバ〜ッとタリラリラ〜ですよ(笑)。

しょうがねぇから、ちいっと上を向いて口開けて答えようかと思ったら、水ってのは下のほうに溜まるんですねこれが(笑)。

するってぇと口は開いても今度はノドがふさがる。ゴボッ。

もう観念してゴクリと飲み込んで名乗りましたよ。そうしたら向こうもすぐ分かりますからね、ガチャガチャと鍵を開けはじめたから、急いで手に持っていたペットボトルの水をもういっぺん口に含んで、何事もなかったかのように澄ました顔しましてね、顔を見せた瞬間、いきなりその顔に思いっきり

「プーーーッ!!!」(笑)


まったくこんなことまでして、何やってんだって話ですけどね。

でも、ね?指導者ってのもなかなか大変なんですよ?(笑) もっともらしいことを言って「先生、先生」って言われていい気になってるだけじゃないんです。何だってやるんです。それが整体なのかって言われると困っちゃうんだけど、でも自分ん中じゃ一緒なんです。

何が人を元気にするのかってことは、あたくしはいつも考えてんです。その次に、何がその人を成長させるかってことですよね。やるべきことはそれだけだと思う。だからあたくしはやるべきことをやりますよ。やるしかない。それはもう決めたんです。


…ってことで、思いつくままにつらつら書いてんですけどね、何しろホントに思いつくまま書いてんで、「落ち」ってもんを考えてないから、どう終えようかとそろそろ困ってきてるんです(笑)。

まぁいつだって「落ち」なんてものを考えながらしゃべったことはないんで、関係ないんですけどね。いつもたいていつらつら書いているうちに、そこらへんに落ちてるもんを見つけて、「ああ、ちょうどいい。こいつでいいや」ってんで、ポンと最後に落としちゃうんで…。


ああそういえば「落ちてる」っていやぁこのまえね、古い仲間たちで友人の家をたずねた帰りに夜道を歩いていたら、十字路のど真ん中になんか落ちてるんですよ。

けっこう大きいんで「なんだこりゃ?」と思ってよく見てみたら、カエルなんですよ、これが。カエル。1月ですよ? 真冬ですよ? 何だってこんな時期のこんな時間のこんな道のど真ん中にカエルがいるのかと思ってビックリしましてね。

こりゃもしかして悪い魔法使いに魔法をかけられたお姫様が…なんて話が頭をよぎりまして…(笑)。

こんなとこに出くわすなんてこれはもう、あたくしがキスして救って差し上げるしかないと思いましたけど、でもね、聞くところによると最近彼らの世界じゃカエルツボカビとか何とかいうのが猛威を奮っているそうで…(笑)。世界中の両生類が絶滅の危機とか何とか…。

悩みましたよ。お姫様かツボカビか。キスしたらたちまちドロンと煙と共にお姫様が現れてね、「まぁ、ありがとう。あなたの勇気が私を元の姿に戻してくれました」なんてね(笑)、そんなロマンチックなのもなかなかいいじゃないかと思いましたけど、そのリスクがカエルツボカビですからね(笑)。

あたくしも何だかよく知りませんけどね、カビだけならともかくツボって付くのがなんだか怖い。しかも相手はカエルだ。それでね、あんまり悩んでいても駅まで見送ってくれている友人に悪いんでね、えいやっと決断しましたよ。

「やっぱりこのままカエルかな。」

…って、あれ? ダメ?

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2009年02月28日

鼻の奥がツンとする

この半月ほどずっと息つく暇もなくあわただしい。

とにかく、いろんなことがあった。

いろんなことがあって、いろんな人がいて、
いろんなことを感じて、いろんなことを突きつけられた。

身も心も落ち着かぬまま、怒涛のように日々が過ぎていった。

いや、まだその最中だ。


人の営みと言うのはなんだろう。

曼荼羅のように複雑に絡み合いながら、うわんうわんとうごめいて、結び目をひとつ解こうとしているだけなのに、あちらこちらで引かれ合ってまるで途方に暮れてしまう。

重重帝網。すべての網の目が鏡となってお互いのすべてを映し合っているのなら、外で起こるすべての出来事はまた、自分自身を反映した出来事でもあるのだろう。

私に起きる出来事が、「私」だ。


私自身は何もない。

背負うものも縛るものも区切るものも何もない。

いや、ないわけはない。でも、ない。

もうないし、まだない。

何もないから、私はいままで自分のことより他の人を空想し、その思いを受け止めたり、流したり、引き取ったりしてきた。

何もないから、それしかできない。

昔そんな私に、「アンタは偉いね」と涙を流してくれる人があった。

「アンタのせいだ」と激しくののしる人もあった。

もちろん私とてそんなことがあれば感情は激しく揺さぶられる。

でも、ただ静かに受け止め、また淡々と過ごした。

人は自分の心を御するだけでも精一杯なのだ。

ときおり、ふとものすごい寂しさに襲われ、夜の街をひたすら歩いたこともあった。

そんなときは、月と闇と夜の香りが私を慰めてくれた。


自分でもときどき、自分が何をしようとしているのかよく分からなくなる。

過ちや誤解されることばかりで、しかもできることは限りなく小さい。

目と鼻の先が 遠く 届かない。

でも、それでもやれることをやるしかない。

せめてもう少しだけ 善くあるように。


「ひと」というものを想う。

鼻の奥がツンとする。

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2009年02月15日

祈る体力

最近しばしば、私の口から「祈り」という言葉が出る。

「言葉は祈りの言葉であってほしい」と。

「かつて言葉はもっと力を、言霊を持っていた」と。

きっと最近感じている「世の中の呪いの言葉を吐く人のなんと多いことか」という思いから、そのような言葉が口をついて出てしまうのだろうけど、ホントに切実にそう思う。


最近そんなことを考えていたので、昨年末に出た松岡正剛さんの「白川静」(松岡正剛、平凡社新書、2008)を、「これは今読まねばならぬ」とさっそく手に取り読み始めた。

この本、「白川静を松岡正剛が語る」という、それだけでもうたまらん者にはたまらない垂涎モノのコラボレーションであるが、後半「正剛節」がうねりを利かせ始めるあたりからぐいぐいと引き込まれ、最後、加速しながら読み終えた。

う〜ん…読んで改めて思ったけれど、やっぱり言葉というものに本気で取り組んでいかなかければいけないのかもしれない。


「文字は呪能を持っている」と白川静は言う。

であるならば、かつてその文字を読む者の言葉にも呪力は宿っていただろう。

人々が、神や精霊たちと共にあった時代。

かつて、古代の人が満点の夜空を振り仰いで「星は巡る」と一言発したときには、それはただ「星が巡っている」という客観的事実を描写したわけではなかったはず。

それは事実を描写する言葉というよりもむしろ、未来へ向けた祈りの言葉であったろう。

「星は巡る」と一言発したときには、そこには「どうぞ星よ、これからも巡り続けたまえ」という切なる祈りが込められていた。それは全身全霊から発する言葉であった。

そしてそれは人に対しても、おそらく同じように語られたはず。

それはその人に対する祈りであり、願いであり、また予言であったろう。

その言葉にははっきりと言霊が宿っていた。そしてその言霊がまさに、現実を突き動かしたのだ。

言葉と世界はもっと密接であり、親密であり、抜き差しならない関係にあった。


今や、言葉にかつての呪力などありはしない。

人々ももはやそのような呪力を信じて、言葉を発することもない。

大量にあふれ、高速で流通する言葉たちは、どんどん透明化している。

だがそれでもなお、言葉の呪力がすべて完全に失われたわけではない。

私たちだって、巡っている星を見て「星は巡る」と口にした瞬間、星がぴたりと止まったり、ふっと消えたり、流れ星になって落っこちてしまったら、これほど不吉に思うことはないだろう(笑)。

そこで冷静に、「…しかし止まることもある。」などと新たに事実を描写するだけで、胸にざわめく只ならぬ気持ちがおさまるものではない。


そこが「科学の言葉」と「祈りの言葉」の違うところだ。

「科学の言葉」は世界を切り離し、主体と客体を断絶したところに成り立つものである。

むしろそこが混じっては科学の科学たるゆえんが揺らいでしまって困るわけで、徹底して主体を排除するように構築されている。

そうして初めて「客観性」というものが担保される。

だから何と言うか、「科学の言葉」が「事象」に対して何らかの責任を有するということはない。

そこに「誤謬」はあっても「責任」はない。


けれども「祈りの言葉」は違う。

「言葉」が「事象」に対して、少なからぬ責任を有している。

言い方を変えれば「つながり」を持っている。

言葉の主体が事象に対して積極的に関わりあっているのだ。

だから私は「魔女の言葉」だとも言っている。

魔女は言葉に自らの命を吹き込み世界に投げかけ、そこで起きる事象に他者の刻んだ徴を見、また自らの刻んだ徴を見る。

だからそれは呪力を持ち、モノゴトを動かし、「祈り」にもなれば、「呪い」にもなるのだ。


「祈りの言葉」は未来を見つめ、「科学の言葉」は過去を見つめる。

学術的な研究においては、その語り口は「科学の言葉」でなくてはならないだろう。

その研究がたとえ「己の祈り」に支えられていたとしても、研究内容そのものにそれが混じりこむことは、あってはならない。

だがしかし、生活の場面においてはその語り口は「祈りの言葉」であって欲しい。

今育ちつつある子どもと接するときなど、過去を見つめる「科学の言葉」で事実を認知し続けたところで、どんどん先を行く子どもの後追いにしかならない。

それでは「育てる」ということにならない。

今育ちつつある子どもと接するときには、子どもの中のいまだ現れぬ「萌し」を見て、そこに働きかける「祈りの言葉」で語りかけることが、萌しの成長を促す導きになる。

タマゴの中でカタチも持たぬままに眠る雛を、羽で覆い暖めること。

いまだカタチも無いところに、はっきりカタチを見て、そこに働きかけること。

それが祈りだ。

季節の萌しを感じて、花の咲く一足前に着物の柄に花をあしらうような「日本の方法」(@松岡正剛)など、それ自体が「幽かな祈り」でもあるように私には思える。

とくに子どもを育てる環境においては、そのような祈りが満ちていて欲しい。

「祈りの言葉」を述べるということは、そこに自分の命を分け与えるつもりで発するということだ。

そういう想いで語りかければ、「呪いの言葉」など吐きようが無いはずなのだけれど、まるで「己の事情」だけで言葉を発するから、人はそれと意識することもないうちに「呪いの言葉」を吐き出してしまうのだろう。


最近は、その「呪いの言葉」を最終的にとどめるのは、「かんがえる」ということなのかもしれないと思っている。

自分の中に入ってきたもの、あるいは自分の中から湧いてきたもの、それらがどれだけ醜悪なものであったとしても、それらを「かんがえとどめる」うちに、それが裡で熟して、深みのある滋味豊かなものとして表に提示できるのだ。

それができない人が抱えきれずに、表にいまだ未熟なものを熟さぬうちにダラダラと出す。

それを害ない形で逸らすのがテクニックではあるが、できればそれを思いとどめ、そして「かんがえる」ことができるようにしたい。


「かんがえるのが苦手」という人は、どうも「かんがえる」という方法に対する誤解があるようにも思えるのだけれど、どうなんだろう。

私はすごく素朴に、「2桁の掛け算が暗算でできれば、かんがえることは難しくない」と言ってしまおう。(祈りの言葉だ)

だからまずは2桁の掛け算の暗算を練習すればいい。

はい、23×16は?

…何? それができない?(笑)

ノンノン。さすがにそれは「できない」んじゃなくて、「やる気がない」だけでありましょう。

本気でやればすぐできる。元気があれば何でもできる(@猪木)。

必要なのは、「表象を思いとどめる」という方法だ。

シュタイナーもそのための行法を書いているけれど(薔薇十字の瞑想)、練習すればだれだってできるはず。

そこには「息を止める」という「呼吸」の力が関係する。

ふだん短距離走ばかりしているから、中距離走の息が続かなくなるのだ。

知的にタフであること。「知的肺活量」を鍛えよう。

祈り続けるのに必要なのはタフネス。

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2009年01月29日

呼ばれて応えて三分間

前回書いた「関係性」ということについて、「もう少し書いてほしい」というご要望をいただいたので、またまったく別の観点から思いつくままにつらつらと書いてみようと思う。


私が昔から比較的得意なことの一つとして、「その人の兄弟構成を当てる」というのがある。

このまえも初めて会った人となぜかそんな話になって、「じゃあ、私の兄弟は分かりますか?」と言われたので、その人の顔をじーっと見ながら、その人が二人姉妹で妹がいるということを見事当てたのだけれど、昔から何かそういう「関係の気配」のようなものを感じるのは得意だった。

その人の場合は、女兄弟が一人だけいるだろうということがまず浮かんだので、それはすぐ当てられた。

けれども、それが姉なのか妹なのかがもやもやしていて、最終的になんとなく「妹だ」という直感が湧いたので、それで答えてみたら正解だったのだ(ホッ)。

こういう感覚は分かる人には分かるだろうけど、分からない人には分からないかもしれない。

でもなんとなく兄弟構成が分かるという人は、比較的多いのではないだろうか。


昔、私の知人でやはり兄弟構成を当てるのが得意だという人がいたので、「どうやって兄弟がいるって分かるの?」と訊ねてみたら、彼女は「シャボン玉の泡のようなものがその人を取り囲んでいて、それが大きさによってお兄さんだったり妹だったりする」と答えた。

そのとき何気なく訊ねた私の予想をはるかに上回るユニークな返答だったので、「すごいなそれ!」とゲラゲラ笑っていたのだけれど、たしかにそういうはっきりとした感覚器官が存在しない、さまざまな感覚や経験を総合して知覚する超感覚というものは、人それぞれかなり独特なクオリア(質感)として浮かび上がるものである。

私の場合、強いて言葉にするならば「その人のそばにいて対話している人の気配」として感じるのだけれど、それが「シャボン玉の泡」に見えようが、「誰かの声」として聞こえようが、「独特の匂い」として匂おうが、それは人それぞれの経験や能力に応じた得意な表象イメージとして浮かび上がるものであろう。

そういった感覚を人はいろいろな名前で呼ぶけれど、私は呼び方自体に興味はないので、そんなことはどうでもいい。

私が興味があるのは、人それぞれ「どういう風に感じているのか」ということであり、そしてもっと興味があるのは、そういう人はいったいそこで「何を感じているのか」ということである。


前回も書いたように「関係性」というものは、少なからぬその人の人格形成に影響を及ぼしている。

とくにそれが幼少期であればなおさらだ。

子どもにとっての「親との関係」「兄弟との関係」というのは、その人の「対人関係の型」というものを決定的に基礎づける。

どうすれば可愛がられ、どうすれば怒られるか。
どうすれば振り向いてもらえ、どうすれば無視されるか。
どうすれば楽しく過ごせ、どうすればイヤな思いで過ごさなければならないか。

さまざまな経験をしながら身に付けてきた「型」は、それこそ身に沁み込んで、無意識の振る舞いとして滲み出ている。

ある人は「可愛い妹」として振る舞うことを引き受けたかもしれない。
ある人は「腕白坊主」として振る舞うことを引き受けたかもしれない。
ある人は「荒らぶるママのなだめ役」として振る舞うことを引き受けたかもしれない。

その育った家庭の関係性のなかで涵養された「対人関係の型」は、やがて大きくなって社会に出たときにも、「主たる構え」として発揮される。

だから例えば「妹としての型」を身に付け、その型の運用に特化して習熟した人は、どのような場に行っても「兄姉的存在」を見つけ、あるいは育て、そこと強固な関係を結ぼうとする。

なぜならそれが自分の得意な関係性であり、その関係性を構築さえできれば、その場における自分の立ち位置を「いつものやり方」でしっかり確保できるからだ。

そうやって、ある「型」を身に付けた人がジワリと場に要請する「対の型」というものがある。

場には、そういう運動が渦巻いている。


そのように、およそ人の集まる場には、その場には存在しないのだけれど、機能として要請され立ち現れるモノがある。

呼ばれることによってしか現われぬ、身を持たぬカタワレモノ。

それが現実の人に重なって機能することもある。

数人単位で重ねられて機能することもある。

誰にも引き受けられることなく、中空を彷徨い続けるモノもある。(なまねこなまねこ…)

そういった「精神運動」と「現実運動」との両輪で、私たちの関係は成り立っているわけだけれど、そこに不和が生じた場合、何らかの病を発症することになる。

まずは人と人との「あいだの失調」として、そしてやがては「人そのものの不調」として。

全体の「失調」は、必ずより小さな階層の「不調」として収斂されてゆく。


そういう引き取り手のないカタワレを、「引き受けることができる人」というのがいる。

それは、いい意味で「自分がない」人だ。

限られた時間、限られた空間でさえあれば、比較的多くの人ができる。

終わりがある程度見えていれば、どんなカタワレの役であろうと、それ相応になりきることもできるだろう。

だがこれが、「限りが見えないときにできるか」と言われれば、多くの人が躊躇することと思う。

それにはよほどの覚悟がいる。

ウルトラマンでさえ、日本中の期待を一身に背負ってヒーローを演じるのは三分しか持たないくらいなのだから、我々凡人など言わずもがなである。


でも考えてみれば、彼なんてなかなかいいやり方をやっている。

「オレは三分しかやらないよ」と初めに宣言してしまって、しかもそのためだけに、「からだにタイマーを埋め込んで光らせる」なんてことまでやってみせるんだから、そりゃそこまでされたら誰だってその条件を飲むより仕方がない。
(あれはどう考えたって地球人のための「地球仕様」である)

「そこまでするなら分かったよ。それでいいよ」と。

たしかにそれは一つのやり方ではある。

「この限りであれば引き受けるよ」と、最初に断固として宣言してしまうこと。

先に言った「彷徨いだしたモノ」のような、どんな災いを為すか分からないものは、とりあえず早めに対処しなければならないから、その一つのやり方として「ウルトラマン的方法」はいいかもしれない。

取り付く島のないモノは、何が何でも依代(よりしろ)を作り出そうとするから、先手を打って落とし処を用意してやる。

問題はカラータイマーをどのようにして周りに認知させるか、ということだけれど、それは「態度」で示さないと、やはり「症状」になってしまうから、はっきり態度で示すしかない。


ただ、うまく言えないのだけれど、最終的にそういう存在はそれぞれが自分の中に引き取らなければならないものだと私は思っている。

できるかどうかは別として、一人一人がそれを目指していくということ。

ウルトラマンはいつかは自分が引き受けなくちゃいけないし、仮面ライダーだって何とかレンジャーだって、ありとあらゆる「カタワレ」「要請に応えるモノ」は、いつかは自分のなかで担わなくちゃいけない。

そうして初めて人は「間(関係性)」そのものを内包した、「人間」という存在になれるのではないだろうか。

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2009年01月15日

丸ごと全体を変えてゆくために

このまえの朝カル講座の前に、担当のNさんとおしゃべりしていたら、いろんな健康法や療法の本を読んでいると、大病を患った人たちに「生き方を変えなくちゃいけない」というようなことがよく書かれているけれど、生き方を変えるっていうのはホントに難しいことですよね、という話になった。

生き方を変えるのにその障害となるものはいろいろあるけれど、特にその中でも「関係性が変わらない」ということは大きいだろうという話で、二人で大きくうなずきあった。

自分自身が「生き方を変えよう」と決心して、小さなことから一生懸命自分自身の考え方や振る舞いを変えていこうと努力していても、周囲の人間が先入観や習慣によって、変容しつつあるその人を「今までのその人」として見つめ、そこに向けて言葉をかけ、レスポンスを求めてしまうゆえに、今までの立ち位置に引き戻されてしまうということは非常に多い。

いや、「非常に多い」というよりも、「必ず付きまとうこと」である。

ただでさえ自分自身の今までの習慣から脱却すること自体が困難であるのに、周囲の反応がその関係性において「今までの私」「いつもの私」を要求してくるのであれば、まるで後ろからたくさんの手に掴まれ引きずり戻されているような、そんな心境に陥ることだろう。

それで結局、Nさんとしゃべりながら、「生き方を変えるためには全部断ち切らなきゃいけないかもしれませんね」なんて話になったのだけれど、それはある土地に生えている植物が、『ここにいたら枯れるしかない』と覚悟を決めて、ブチブチッと自分の根っこを全部断ち切って、海を泳いで隣の島に渡って、そこでまた一生懸命、その土壌に合わせた根を生やしていくようなものだ。

下手したらその選択した行動自体によって命を落としかねない、まさに死に物狂いの決行である。

でも「生き方を変える」って、それぐらいのことだろう。


ただ、繰り返し周囲の人間が「今までの関係」「いつもの関係」を要求してくるのは、安定した組織構造を維持しようとする負のフィードバックであって、人間同士が集まった複合有機体としてのホメオスタシス(恒常性)の現われであるから、大きく見たときには一概に悪いというわけではないのだ。

それがまた厄介なことなのだけれど、当事者からすれば「冗談じゃない」という話である。

変化を望もうとする個々の生命にとっては、繰り返し克服していかなければならない壁でもある。

私が指導のなかで行なっていることは、そのホメオスタシスの働きを「もうひとつ次数の高い系(システム)に繰り込んでしまう」か、あるいは「外部の系とつなげる」ということになるのだけれど、そこを話し出すと、話が脱線したまま「線路は続くよどこまでも」になってしまうので、それはまたいつか別の機会に。


「es[エス]」というドイツ映画がある。

1971年にアメリカのスタンフォード大学で実際に行われた心理実験をもとにして作られた映画であるが、どのような実験かというと、新聞広告で募集した一般人に刑務所を模した実験棟に入ってもらい、無作為に看守役と囚人役に振り分け、演じてもらうというものである。

結果から言うと、演じている参加者たちがその役割にどんどん没入していってしまい、看守役が囚人役に非人道的な行為を振るい始めるにいたって、この実験がきわめて危険な実験であることが判明し、もともと二週間を予定していた実験期間を7日で中止せざるを得なくなってしまった。

その後、参加者たちによる訴訟問題にまで発展してしまったこの実験は、危険であるとの理由で現在も禁止されていると言う。

「『自分』とはいったい何か?」ということを強烈に考えさせられる映画であるが、「この心理実験を行なうことを禁止しなくてはならなかった」という歴史的事実が、人間の人格というものがその場の関係性によって危険なまでに大きく左右されるものだという、けっこう悲しい事実を物語っている。


人間というのはその字の通り、「間」によって、「関係性」によって、生きている存在である。

「ある状況」を再現し、そのなかでの役割を全員で分担すると、そこにはひとつの世界(系)が生まれる。

しばらく本気で演じているうちに、やがてその場に自己組織化にも似た現象が起こり、それぞれちょうどよい役割、関係性というものが構築され始める。

するとそこにはすでに、その関係性を維持しようとするフィードバック回路がおのずと立ち上がっていて、ホメオスタシスが働き始めているのだ。

およそどんなにありえない状況であろうとも、一度その中にポンと放り込まれ、しばらくそこから出られないのだとすれば、その中で人はおのずと自分自身の立ち位置を探し、そこでの役割を生き始め、そのうち虚と実が入り交じってくる。

はじめにどのような状況設定をするかによって、個々人の役割も、その集団全体が向かう方向も大きく変わる。

この構築主義的な考え方は、もちろん様々な異論もあろうけれども、少なくとも自分がある場を持って、そこに新しい関係性を作り上げようという実践をしていくならば、必ず考えなければいけないことである。

その場の状況設定を誤れば、それこそ映画「エス」のなかで起きた惨劇を繰り返すことになりかねない。


そういう意味では、たとえば「結婚」や「出産」のような、新しい関係性、新しい場をこれから立ち上げようという営みにおいては、最初にどのような状況設定をするのかということは、とても大切なことなのではなかろうか。

家族という場を立ち上げるときに、その場の原理として「非対称性」(男優先とか女優先とか)を導入しようと、「対称性」(男女一切平等とか)を導入しようと、それぞれの原理におけるより良いルールの在り方というものがあるのだから、「黙って俺についてこい家族」や「カカア天下家族」、あるいは「個人自由主義家族」や「原始共同体的家族」において、それぞれの性格や特徴や思想や労働形態に応じた決めごとを、それぞれ作っていけば良いのだ。

各人が担うべき役割というのは、それぞれの場の成り立ち方によってユニークであり、そのユニークさは場の要請と個人の性質に依る。

時折、それが大きく偏っていたり、欠落していたりすることがあって、するとその場のどこかに失調が起こるのだ。

そのように、ある場のなかで不調が起きたのならば、それはその部位、つまりその個人だけの問題なのではなく、その系(家族)全体の失調として、少なくとも一度は考えてみるということはとても大切なことだ。

それぞれ個々の現象を見つめながらもそれに捉われぬ、マルチフォーカスな眼を涵養し、そこに働きかけるすべを身に付ける。

とにかくこれをやっていくしかない。

posted by RYO at 20:59| Comment(8) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

整体的子育て講座の案内(2014年2月19日更新)

ご好評いただいている「整体的子育て講座」と「整体講座」のご案内です。

・6月   「ママは子どもの整体師」@新宿 朝日カルチャーセンター
・4月   「じっくり学ぶ整体入門」@新宿 朝日カルチャーセンター
・3月6月 「ママは子どもの整体師」@立川 朝日カルチャーセンター
・5月   「からだで感じる寺子屋」@立川 朝日カルチャーセンター
・1月〜6月 「整体的子育て講座」@国分寺 カフェスロー

子育て中の方で、初めて「整体」の講座に出てみたいと思われる方は、一度カルチャーセンターでの一般向けの講座に出てみるのがオススメです。興味のある方はこちらでご紹介している講座にぜひ一度ご参加下さい。

新宿朝カルの「じっくり学ぶ整体入門」講座は、「整体に興味がある」「愉気というものをきちんと学びたい」という大人の方向けの講座です。とくに「子ども向け・親子向け」に絞っているわけではないので、その点で躊躇されていた方はどうぞぜひご参加ください。

立川朝カルの「からだで感じる寺子屋」講座は、夜に開く大人向けのマニアック講座です。からだを動かしたり、からだを感じたり、からだを考えたり…。何をやるかは毎回お楽しみ。ディープでマニアックな山上ワールドを堪能したいという方はぜひどうぞ。

「自然育児友の会」の事務所があるということでご存じの方も多いかと思いますが、国分寺から徒歩5分ほどのところにある「カフェスロー」というところで、毎月講座を行なっております。

こちらは主催が自然育児友の会となっておりますので、直接お申し込みください。

基本的にどの講座も初めての方でも分かりやすいよう、初歩的なところから触れてゆきますので、どうぞお気軽にお申し込みください。

なお講座開催日近くなりますと、満員でお断りせざるを得ない可能性があります。受講のお申し込みはお早めになさいますようお願い申し上げます。

RYO


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●「ママは子どもの整体師」@新宿 朝日カルチャーセンター
 &「じっくり学ぶ整体入門」@新宿 朝日カルチャーセンター

講座名  「ママは子どもの整体師」
日時    06月13日(金) 10:30〜12:00 「梅雨の手当て」
講座名  「じっくり学ぶ整体入門」
日時    04月11日(金) 10:30〜12:00 「活元運動」
受講料  単発 3,360円 (朝カル会員 2,730円)
会場    朝日カルチャーセンター新宿
       新宿区西新宿2-6-1 新宿住友ビル4階
交通    都営地下鉄大江戸線「都庁前駅」真上
       JR「新宿駅」西口徒歩8分(地図
申込み  新宿朝日カルチャーセンター
<電話番号> 03-3344-5450
<受付時間> 月曜〜土曜 10:30〜18:00
あるいは新宿朝日カルチャーセンター(HP)から
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●「ママは子どもの整体師」@立川 朝日カルチャーセンター
 &「からだで感じる寺子屋」@立川 朝日カルチャーセンター

講座名  「ママは子どもの整体師」
日時    03月19日(水) 10:15〜11:45 「春のからだを整える」
       06月05日(水) 10:15〜11:45 「梅雨の手当て」
講座名  「からだで感じる寺子屋」
日時    05月29日(木) 19:20〜20:45
受講料  単発 3,045円 (朝カル会員 2,415円)
会場    朝日カルチャーセンター立川
       立川市曙町2-1-1 ルミネ立川店9階
交通    JR中央線「立川駅」真上
       多摩都市モノレール「立川北駅」すぐ
申込み  立川朝日カルチャーセンター(HP)
<電話番号> 042-527-6511
<受付時間> 月曜〜金曜 9:45〜19:00
          土曜 9:45〜18:30 日曜 9:45〜16:00
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●「整体的子育て講座」@国分寺 自然育児友の会(カフェスロー)

講座名  「整体的子育て講座」
日程    03月26日(水)、04月16日(水)、05月21日(水)、06月18日(水)
時間   10:30〜12:30 「整体的子育て講座」
      13:30〜16:00 「整体個人指導」(施術、相談など)
料金    自然育児友の会HP参照
会場    カフェスロー2階和室
       東京都国分寺市東元町2-20-10
交通    JR中央線「国分寺駅」南口から徒歩5分(地図)
申込み  自然育児友の会(HP)


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2009年01月01日

新年舞

みなさん、あけましておめでとうございます。
昨年中は、私の愚にも付かぬ雑念妄想に
お付き合いただきましてありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお付き合いいただければ
これ幸いと存じます。


さて、皆様への年始のご挨拶と言っては何ですが、年末に知人のうききさんから教えてもらった動画を、年始の挨拶代わりにご紹介したいと思います。

けっこう有名な動画だそうですけれども、ワタクシ全然知りませんでした。

なんか、いいです。素敵です。

うききさんも言っておりましたが、見ていると何か動かされるものがある。

こころが、からだが踊りだす。(昔コカコーラがそんなコピーでしたね)

何だかもっと元気になるような、何だかもっと人間を好きになるような、何だかもっと旅したくなるような、何だかもっと動きたくなるような、そんな動画です。音楽もいい。

こんな踊りから一年をはじめるのも良くないですか?


(リンク先に行くともっと大きな画面で観られます)
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2008年12月23日

平凡な場

忙しい。

さすがに師走である。

あれやらこれやら用事が立てこんで、なかなかブログを書くヒマがない。

ここにきてようやく目処がついてきたけれども、まだまだ今年中にやることはある。

そういえば年賀状だって…(う…)。

ブログを始めた当初は(もはや三年前の話になるが)、まぁ日々よほどヒマあったのか、ちょこちょこ書きつつ、だいたい三日おきくらいには記事をアップしていた。

今思えばずいぶん余裕のある生活をしていたものである。羨ましい。

「忙しい」ということはありがたいことであるが、「ヒマである」ということもずいぶんありがたいことである。


今までの人生を思い返してみると、自分の人生のなかで一番ヒマで、ひたすらこつこつと自分のことをやっていた時期というのは大学四年の時である。

私は四年の時には単位は卒論を残して完全に履修し終えていたから授業なんて一個も取っていなかったし、学科の研究室も「卒論はよそで書きます」とはやばやと宣言して飛び出してしまったし、就活もまったく就職するつもりがなかったから一秒たりともしなかったし、ホントに卒論以外、何もすることなどなかった。

晴れたらふらふらと多摩川を散歩し、雨が降ったら読書をするという、晴行雨読な贅沢な日々。

暗い部屋で一人ポツンと正座をしながら読書をしている私の姿を見た後輩には、「仙人みたいですね…」と言われるような、ホントにそんな浮世離れした生活をしていた。

散歩帰りに畑のわきの無人販売に寄って泥つき野菜を買い、夕方になるといそいそとご飯を作り始め、同じ下宿の友人に「ご飯作ったけど食べない?」と声をかけては一緒に食べ、夜中に仕事から帰ってくるアニキには「お帰りなさい。ご飯作ってありますよ」と声をかける、そんな平々凡々な毎日である。


私の部屋の鍵は、大家さんにもらってすぐどこかに置いたまま忘れてしまったので、三年半の下宿生活のあいだ一度も鍵をかけたことがなかった。

だから、私がいるときもいないときもずいぶんいろんな人が出入りした。

知ってる人もいた。知らない人もいた。猫もいた。漁られていた(笑)。

私のいないあいだに友人が使っていることなどしょっちゅうだったし、見も知らぬ男が寝ていたときにはさすがに「誰?」と聞いたけれど、彼は「いや、○○君にあの部屋なら使えるよって言われて…」と答えた。ああ、そうですか。


飲み会があるときは、だいたい二次会は私の部屋というのが定番だったから、木造土壁六畳間のむさ苦しい部屋にぎゅうぎゅう詰めで飲んで騒いで暴れたりした。

ときに深夜遅く近所の苦情で警官が来た時も、部屋のあるじとして単身向かい合い、ひたすら低頭平伏、お巡りさんの「今日はもう解散してくれますよね?!」という強権的威圧に、ただ頭を下げつつ「静かにしますんで…」とそれだけを繰り返し、最後の防衛ラインを死守したこともあった。

そして次の朝ツワモノどもが帰った後には、午前のまぶしい陽の差すなか、こぼれた酒やら柿ピーやらスルメやらが散らばる部屋を、二日酔いでボーッとするアタマで掃除をして、蔵書が下敷きになって折れ目がついていたり、CDケースが割れていたりするのを見つけては、「これが引き受けるってことだ…」と自分につぶやいていたりした。


…ってこう書いてみると、「自分のことだけやっていた」とか言うわりには、意外とそうでもないことに気づいてしまったりもするけれど(笑)、ともあれ、思い返すたびまことにうるわしきベルエポックである。

今から考えれば、それとは知らずに「場を持つ」ということを自分なりに練習していたのかもしれない。


いま子育て講座などをやって大勢の親子と関わっていると、こういう何でもない場というものの必要性をひしひしと感じてならない。

何となくいつ行ってもドアは開いていて、いて何をしなければならないということでもなく、のんびりしていると同じように誰かがふらりとやってくる、そんな場。

熱心なお母さんたちが、熱心に子育てをして、肩肘張ってくたびれてしまったときに、「まぁ、お茶でも」とか言って迎えてくれる場。

理想の育児は理想の育児として、でもときに肩の荷降ろして、「育児っていうのはウンコを拭くってことなのね」みたいなことをお互い言い合って、自嘲気味にケラケラ笑ってお茶でも飲むのもいいじゃないか。

サニーサイドばかりが語られがちな育児だけれど、ダークサイドも吐露できる、そんな場所もやっぱり大事だ。

「理想的な育児をしよう」と気負いすぎると、そこから追いやられた鬼や悪魔が見えないところでどんどん育つ。

鬼や悪魔は蔑まれ疎んじられ虐げられると育つから、ゆるく一緒にやっていくのがいい。

そのためには… ああ、やっぱり為すべきことは多い。

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2008年12月11日

見て聴いて触れて

講義録などをしこしことアップしているあいだに、世の中は猛烈な勢いで師走に突入してしまった。

寒い寒い。

そのあいだに私も、新潟に行ったり、長野に行ったり、大阪に行ったり、パパ講座があったり。

忙しい忙しい。

おかげさまで大盛況な朝日カルチャーセンター「ママは子どもの整体師」。

「パパ講座もやりましょうよ」という担当Nさんの声に、「よし、やってしまいましょうか!」と返事をしてやってしまったのが、先月末の「パパも子どもの整体師」。

正直どれだけ人が集まるのかドキドキだったけれど、ふたを開けてみれば大勢の参加者に集まっていただけたので、ほっと一安心。

新宿の高層ビルの一室に、野郎どもが集まって、育児を語り、手当てを学び、お互いからだを触りあって「気持ちいい…」とまったりするという(笑)、とても素晴らしい会であった。

来てくださったパパさんたちは、いつも集まるママさんたちに負けず劣らず熱心な方たちばかりで、手当ての実技をする私の手元を覗き込み、質疑応答でもポイントを突いた良い質問が飛び出し、パパたちも真剣に育児に関わりたいと思っているということがひしひしと伝わってきた。

そうそう、パパたち出番でありますよ。

最後に「これだけは外せません」と言って、ママへの手当ても実習したので、おそらく皆さん帰ってママに「お疲れさん」と手当てし、癒してあげたはず。

いろいろ思うところはあるだろうけど、まずはお互い優しさ持ち寄りそっと触れ合おうではないか。


親子講座をさんざんやりながら、改めて最近思うことは「触れ合うこと」の大切さである。

もちろん私が「触れ合う」と言うときは、文字通り手でもって「触れ合う」ということである。

私たちは「触れている」とき、じつは膨大な量の情報をそこでコミュニケートしている。

その情報量は「言語」によるやり取りの比ではない。

「言語」を代表とする「記号操作」に卓越した人間は、どうも物事を記号化して把握した時点でそのものを理解したつもりになってしまいがちだが、そこには記号化の時点で「膨大なディテールを塗りつぶして平面化している」という認識が抜け落ちている。


目の前にいる人間は「ヤマダさん」かもしれないが、「ヤマダさん」という記号化をした時点で膨大なディテールが消える。

「ヤマダさん」は今日ちょっぴり顔色が悪いかもしれない。髪型を変えてみたかもしれない。不満があるかもしれない。嬉しいことがあったかもしれない。一大決心をしたかもしれない。

そういうディテールは必ず表面に現われているものだが、「記号」として見ることに慣れてしまっていると、意識化されずにさらりと見過ごされることになる。

「松の木を松の木として見る」ことはホントに難しい。

「それは知ってる」とか「私は分かってる」なんて、軽々しく言ってはいけないのだ。

それはある種の暴力だ。

言語の誘惑から身をよじって離脱し、知ってるつもりの目の前のモノやヒトを、もう一度、よく見、よく聞き、よく触れ、よく嗅ぎ、よく味わってみよ。

対象を目で見、耳で聞き、手で触れ、鼻で嗅ぎ、舌で味わうということは、その対象の「記号化」が解体されてゆくということだ。

そこに生まれる対象とのエロティックな関係に身を置いてみれば、「記号化」ということの粗暴な暴力性がよく分かることだろう。

じっと見つめて、よく聴いて、優しく手で触れ、匂いを嗅いで、キスをしてみる。

ほら、そこで生まれるものは、言葉になんかできない。

La La La…♪

って、そりゃ小田和正(笑)。


ところで私はよく講座で「偽札」のお話をする。

たびたび発見され世間を賑わせる偽札は多くの場合、発見者が「触ったときに何かいつもと違う感触がした」ことから発覚する。

紙幣というものは、「毎日数えるのが趣味」とかそんなユニークな人でもない限り、ふだんそんなにまじまじと触ることは無いかもしれないが、それでも私たちは生活のなかでほぼ毎日触れるものだから、それなりにはっきりした質感(クオリア)というものが無意識裡に出来上がっている。

だからあるときぱっと手にした瞬間のホントにちょっとした微妙な差異に、「ん?」と気づくのである。

「1/1000mm(1ミクロン)の凹凸」であっても触知できるという人間の触覚の能力は、いつだって私たちの意識にのぼらぬようなディテールまでも感受しているのだ。


だからとにかく毎日触れること。

それもあまり意識しなくていいから、無心に、天心に。

家族のからだに手を当てポカンとすること。

手を当てているときに、意識が何か他のことに注意を向けてさえいなければ、その「1/1000mmのディテール」が私たちの意識に主題化されるのだ。

そのときそこで起きている微妙な変化の気配が、ポカンと意識に到来する。

偽札にフッと気づくのも、何でもないやり取りのなかでアタマがポカンとしているからであり、次の買い物のことなど考えていたら、おそらく決して分からない。

「天心で触れる」ということを整体では口を酸っぱくして言われるが、全身を一個の感覚器官として目の前の事象を感じきるためには、「触れている」という事実以外のどこにも注意の焦点を作ってはいけないのだ。

人は感覚すると、すぐそれに何らかの判断(記号化)を与えたくなってしまうが、それは注意の焦点が自分のアタマのなかの記号操作に集まってしまうということであり、触れているときには「それをしない」という「自制の構え」「慎みの態度」が何より大切なのである。

それだけが、物事を正しく見つめさせる。

まずは触れてみよう。

そして、ただ感じてみよう。

そこには準備されたものなど何もいらない。

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2008年10月25日

私と朝カルの子どもたちとは

朝日カルチャーセンターの「ママは子どもの整体師」講座は、ありがたいことに毎回のように親子連れの方々が大勢いらっしゃる。

当然、子どもたちも大勢来るのだけれど、少し大きい子どもたちは講座中もそこらじゅうをうろうろと歩きまわっている。

毎回教室として使っている朝カルの部屋は、向かって正面に大きな四つの窓があり、その向こうに都庁と新宿中央公園の樹々が見える、とても展望の良い素敵な部屋であるのだが、いつも子どもたちの様子を見ていると、必ず向かって一番右側の窓の段の上に乗り、外の景色を眺めながらドンドンと足を踏み鳴らして騒ぐ。

毎回来ている子どもたちは違うし、その窓だけ特別登りやすいとかそういうわけでもないのに、みんな決まって必ずその場所に登って遊ぶのだ。

何ゆえにその場所のアフォーダンスだけが、子どもたちに「登って遊べ!」と猛烈に誘惑するのか。

子どもたちは遊ぶのが仕事であるゆえ、にぎやかに騒ぐのは結構なのだけれど、ママさん方の視線を見ていると、どうしてもドンドンと騒いでいる子どもたちのほうに気を取られる。

それでこの前の講座は、毎回子どもたちが登って遊ぶ一番右側の窓の遮光カーテンを閉め、段の上には座禅用の座布を積み重ねてその上から布をかぶせて、その空間を埋めてみるという実験をひそかに試みてみた。

もちろん座布にかけた布がピラピラして、子どもたちに「布の端を引っ張ること」をアフォードしたりして、さらなるにぎやかな事態にならぬように、ぴっちりと布を張りつめ、気合を入れてピシッと強い結界を張っておく。

少しでも「ほころび」があると、結界というのはたちまち崩れ去るものだし、そもそも子どもという生き物が、「ほころび」や「ほつれ」にこそもっとも興味を引かれる生き物であるゆえ、そこらへんは抜かりない。

今までほとんどすべての子どもが登って遊んでいた空間を埋めてみたとき、子どもたちはどういう行動に出るのか。

ふっふっふっ、さぁどう出る?


それでいざ講座が始まって一生懸命しゃべくりまくってしばらく経ったころ、ふと後ろを振り返ってみると、子どもたちは私のすぐ後ろ、右から二番目の窓の段に乗って騒いでいる。

今までは一番右側だったので、ひとつ左に移ったということである。

四つの窓の配置は対称になっているので、私から遠い端っこに行きたいのであれば、反対側の一番左側の窓に目をつけるはずであるが、私のすぐそばであっても右側の窓がいいらしい。

むむ、どうあろうとも君らは右側に行きたいのか。

何だろうねぇ。そんなにそちらがいいのかい。


ちなみに私もここ三年ずっと、私が講座を行なっている同じ部屋で、ほかの講座を受けている。

朝カルで稼いだ分を朝カルに返すというまことに朝カルボランタリーな私であるが、その講座に出ているときは、いつも必ず教室の右前方に身を置いている。

なぜかは分からないが三年ほど前からそこが私の定位置のようになっていて、だから不思議なことに、私が講座のたびに毎週外の景色をぼんやり眺めている窓に、子どもたちはよじ登ってはしゃいでいたことになる。

そこに何か関係があるのかどうかは分からない。

私と子どもたちが、その場に何か似た感じを受けてついそこに行ってしまうのかもしれないし、あるいは私がいつもそこに身を置いているものだから、私の講座でもなんとなくその場の雰囲気というか馴染みが良かったのかもしれない。

あるいはたまたま偶然であるのかもしれない。

けれども今まで五回講座をやって、すべて同じ窓に子どもたちが登ってはしゃいでいるという事実は、何かそうさせているものがあるのだろう。

こういうことは考えて答えの出るものではないが、こういうことを「何故なんだろう」と考え続けるのはなかなか面白い。


でも…たしかにあの窓から見える景色はいいよね。

毎週のようにあの窓から四季折々に色づく樹々を見ている私は、いつもあの景色に癒されているよ。

そこにいち早く気づいた君たちとは、やはり気が合うのかもしれない。

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2008年10月13日

粘菌的知性を

今月あたま、粘菌に迷路を最短ルートで解くことができる能力があることを発見した日本のグループの研究がイグノーベル賞を受賞した。

イグノーベル賞というのは「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に対して与えられる賞であるが、今までも多くの日本人が受賞しており、こちらを見てみるとそのバラエティーに富んだ研究ぶりに驚かされる。

世の中いろんな研究があるものである。

今回の受賞について当人は「狙っていても取れない賞。研究が『受けた』のはとてもうれしい」とのことだが、今回の研究は新しいシステム開発などにも応用されはじめている「かなり真面目」な研究である。


しかし粘菌というのは面白い。

私の「小さきモノ」たちへの限りない偏愛ぶりは、当然この異形の生物たちにも注がれている。

前に新宿の紀伊國屋書店で『粘菌』(松本淳・伊沢正名、誠文堂新光社、2007)という写真集を見つけたときなどは、俄然色めき立ってしまった。

中身をぱらぱらと見ているうちにどんどん目がキラキラと輝いていくのだが、部屋の片隅で雪崩を起こしている本たちを思うと涙を飲んで棚に戻すしかない。

それで棚を離れて店内をうろうろするのだけれど、気がつけばまた同じ場所に戻って手に取っている。

で、結局いま私の部屋の片隅の本の山のふもとにそっと置いてある。

それでときどきズズズと引っ張り出しては、さまざまな粘菌の写真を見つめて、「かわいいなぁ。フフフ…」と一人微笑んでいる危ない人と化しているのだけど、いや、だってホントにかわいいんだもの(笑)。

こっそり一枚だけ貼ってしまおうか。(nenkin.jpg←click!)

ほら。ね? かわいいでしょ?

一瞬「あ、かわいい」と思ってしまったあなたは、もう虜である。

フフフ…こっちへいらっしゃ〜い(笑)。


ところで粘菌という生き物について少し自制気味に語らせていただくと、まず粘菌とは動物とも植物とも言えない、きわめてあいまいな生物である。

あいまいなもの、あわいなもの、うつろうものをこよなく愛する私は、まずその時点でそそられる。

オスとメスがあって、餌を求めてうろうろして、どんなに大きくなってもたった一つの細胞でできていて(変形体の時期)、胞子で増えるのだけれど、胞子を作るときにはおもむろに奇妙な構築物を形成する。

しかもその気になりゃ迷路が解けるときたもんだ。

何だそりゃ。


今回のイグノーベル賞の受賞の理由にもつながったことだけれど、驚くべきことだが粘菌は迷路を解くことができる。

粘菌は「アタマがいい」。

が、もちろんアタマは無い。

知性の現れはあるけれど、知性そのものは無い。

脳がなく、知性が無いにもかかわらず、その振る舞いに「賢さ」が実現されている。

事実としての賢さ。結果としての賢さ。

「知性」が無くとも「賢さ」が実現できるということ。

それは、私たち人間のような思考形態とはまったく別の「知の形態」というものが、この世界にあるのではないかと、そんなことを空想させる。


でも考えてみれば、自然界を見渡せばそのような「知の形態」はそこらじゅうで実現している。

自然界は非常に巧くできているけれども、それを実現しているのは、私たちが空想するような知性の仕業というよりも、粘菌的な知性の現われであるというほうが正しいだろう。

私たちの知性は、「自分の知性」のような知性を過大評価する傾向があるが、私たちがおよそ空想できないかもしれないようなそれ以外の知性のあり方についても、もう少し謙虚であるということも大事であろう。

粘菌が迷路を解くような知があれば、セミが素数の年ごとに生まれるもある。

お隣同士の諍いに「やめようよ。やめようよ」なんてオロオロしながら丸く治める近所のおっちゃんの知もあれば、泣く子にさりげなく「アメちゃん食うか?」と声かける浪速のおばちゃんの知もある。

私たちの脳みそも所詮それぞれ粘菌みたいなものだ。

そんなさまざまな尺度を持つ「他者のものさし」について、使い慣れた「自分のものさし」で安易に判断を下してしまわないこと。

私の最近のテーマである。


ところで粘菌といえば、すぐさま思いつくのは南方熊楠(⇒wiki)である。

柳田國男をして「日本人としての可能性の極限」と言わしめた南方熊楠であるが、紀伊を訪れた昭和天皇に御進講した際に、粘菌の標本をキャラメル箱に入れて渡したというエピソードはあまりにも有名。

のちに天皇陛下は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語り、後年ふたたび紀伊を訪れたときには、「雨にけふる神島を見て紀伊の国生みし南方熊楠を思ふ」と歌までお詠みになったそうであるが、そんな南方熊楠が語った言葉に次のようなものがある。

「人が見て形の無いつまらぬ痰のようなものと軽視する状態こそが生きた粘菌の姿で、もはや胞子を守るだけとなった粘菌はまさに死んだ状態だ。死んだものを見て粘菌が生えたと言って生き物とみなし、生きた粘菌を見て死んだも同然と思う人間の見識のほうがまるで間違いだ。」

見渡してみれば、そんなことはホントに非常に多い。

そんなことだらけだと言っても過言ではない。

先の私のテーマにつながるが、人はみな事実を自分のものさしに引き付けて考えようとする。

それは避けられないことであるけれど、でもその自分のものさしは、世界に数多あるものさしのうちのたった一つに過ぎないということは忘れてはいけない。

そして、そのものさしは「必ず」自分に都合の良いようなゆがみを持っているということも。

安易な「死んだ知」に捉われず、困難ではあっても「生きた知」を見よ。

posted by RYO at 19:09| Comment(12) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月02日

「ゆるみ」と「ゆるし」と「たたり」について

「RYO先生のお話をもっと聞きたい」というご年配の方々の声にお応えして、細々と開いている会がある。

毎回毎回、ほとんど私が思いつくままにベラベラと好きなことをしゃべっていてこんな講座でいいのかしらんと思うのだけれど、「とってもいいお話。」とおっしゃってくださるお言葉に甘えて、そのままのスタイルで未だに続いている。

以前、このブログで「『ゆるむ』ことは『ゆるす』ことだ」と書いたことがあるが、今回の会ではそのお話をする。

あの記事はなかなか反響があって、いろんな方に「ハッとさせられた」などのご感想をいただいた。

まぁ書いてる私が、思いついて「ハッ!そうだったのか!」と感動したくらいなのだから、そんなこともありなん。


からだが「ゆるむこと」と、こころが「ゆるすこと」は同時に訪れる。

わだかまりが溶け、こだわりが溶け、こわばりが弛んだときに、ゆるしが訪れる。

整体では、あらゆる変動を「経過する」「全うする」という観点から捉えるが、「ゆるまない」ということは何かその経過を滞らせるものがあるのだ。

「ゆるまない」ということは、その緊張をもたらす原因が本人の中でまだ解消されていないということであり、「ゆるせない」ということは、本人の中でその出来事についてまだ終わっていない何かがあるということなのだ。

経過は全うしなければ、いつまでも終わることはない。

からだというのは経過を全うし、それが完全に終了したときに初めてゆるむもの。

だから「ゆるす」ということは本来、「ゆるさなくちゃ」と思って無理にすることなどではなく、その出来事と向き合い、それを全うしてゆくなかで、やがて自然に訪れることなのではなかろうか。

必死にそれと向き合ううちに、やがて気がつけばゆるんでいて、そしてゆるしていた。

そんなものではないか。


怒りとか、悲しさとか、悔しさとか、寂しさとか、そういったさまざまな肯定的、否定的な感情が入り交じった心的過程を、懸命に経過し全うしてゆくことが、「ゆるみ」と「ゆるし」につながる。

発熱や発汗、嘔吐や下痢といった症状を全うすることが、代謝を高め、免疫を高め、体内の毒や老廃物の排泄を促し、からだのバランスを整えてゆくように、さまざまな感情の発露をきちんと全うしてゆくことが、こころのバランスを整えてゆくのだ。

全うすることができずに残されてしまったモノは、流されることなく停滞し、やがてそのこわばりを大きくさせていきながら、周囲の流れを滞らせるまでになってくる。

できればそうなる前に、どこかで流し、排出し、解消していったほうが良い。

からだからのアプローチであろうと、こころからのアプローチであろうと、そのこわばりを解消するためには「全うさせ経過させてゆく」という原理に変わりはない。


なんてそんなことを講座の中でしゃべっていたら、気がつけば話は徐々にきな臭い方向へと向かい、やがて「祟り(たたり)」の話になってゆく。

相変わらずノってくると話が暴走するが、「とってもいいお話。」であるそうなのでそれもまた良しとしておく。


誰かが死んだというときに、残された遺族の人たちの心のなかでその事実を全うさせなければ、何かがそこに留まり、停滞し、やがてしこりとなって、それが止み(病み、闇)を生み出してゆくことになる。

昔の人はそれを「祟り」と呼んだ。

(白川静の字解によれば、「祟」という字の下の「示」は生贄などを捧げ、神を祭るときに使う机「祭卓」を意味し、上の「出」は足を踏み出すときにかかとの痕が強く残ることを意味する)


私たちの祖先は古来、そのような「祟り」「災い」といったことが起きぬようにするために、さまざまな儀礼を行なってきた。

葬礼という儀式を行なうことによって、「彼は死んだ」ということを多くの証人の元に同意し、その同意をもって「区切り」をつけて、残された者たちの心に「気締め(けじめ)」をつける。

「区切り」や「気締め」をはっきりと意識化させ、もはや彼は別の世界の存在であるということを徹底させることで、未練を断つ。

「祟り」とは、未練を種にして育つもの。

たびたび訪れる「祟り」という現象を何とか防ぐことはできないかと、試行錯誤の末に生み出されてきた多種多様な形式をもつ儀式。

それは長い年月のなかでの経験から生み出されてきた、暮らしの知恵だったのであろう。


日本には「情が湧く」とか「情が移る」という言葉があるが、長年連れ添った人やモノには情が移り、言ってみれば精神的な一体化というようなことが起こる。

それをあるとき急激に喪失するという体験は、どれだけ強烈な打撲であるか計り知れないものがある。

愛する人を亡くし、慣れ親しんだ家や道具を失い、愛でていた動植物を失うということは、一体化してしまった自分のからだを削ぎ落とされるような強烈な打撲である。

英語で配偶者のことを「Better half」というが、愛する配偶者を亡くすということは、本当に字義通りの意味で、からだの半分を引きちぎられるということなのだ。

あまりに強烈な打撲による感覚の麻痺、そして強烈な喪失感。


配偶者を失ったときに、女性よりも男性のほうがはるかに脆いのは、男性のほうが女性に無意識に甘えているからである。

女性は意識して男性を支えていることが多いが、男性は無意識に頼っていることが多い。

意識的なレベルでの喪失感と、無意識的なレベルでの喪失感では、打撲の程度のわけが違う。

目に見えぬところの無意識的な打撲ほど傷は深い。

手足を無くすのと、内臓を無くすのとの違いのようなものだ。

自分が「支えられている」ことに無自覚である者ほど脆いということは、多くの宗教者が説いていることにも通じるが、なかなか考えさせられる事実である。


老人が大切にしている庭の樹などを、平気で切ってしまうようなことをする人があるが、それがその人にとってはいかに強烈な打撲であり、いかに我が身を切られる激痛であるか、もう少し丁寧に感じ取って欲しいと思う。

そのような出来事をきっかけとしてガタガタと体調を崩し、ときにそのまま帰らぬ人となることもしばしばある。

まさに樹木の「祟り」であると言えようが、このように必ずしも不届きなことをした人間自身に「祟り」が訪れるわけではないことも忘れてはいけない。

とくに子どもや老人は比較的そういう世界を生きている、ということは意識しておいたほうがいい(それこそ「物」の怪たちの闊歩する百鬼夜行の世界である)。


それでもなお、さまざまな事情から離別しなければならないとなったときに、その強烈な打撲の影響を中和するためのものとして儀式が必要なのだ。

それはその離別を意識化し、その決別を覚悟させ、経過を全うさせるということであり、さらには、離別の対象を別のモノに移し(たとえば位牌や新しい道具に)、それを言わば義肢として、その喪失感をゆっくり現実化、身体化できるまでの支えとする応急処置を施すということなのだ(しかし「義」肢とはよく言ったものである)。

日本では人にも物にも供養をするが、それらはどれもそれに関わった人のための癒しの行為でもある。

医療費が膨大に膨れ上がっている現在、私たちの「身心の健康」というきわめて政治的で現実的な観点からも、そのような古くからの知恵というものを、もう一度考え直してみなければならないのではなかろうか。

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2008年09月22日

ときどき違う顔を見せながら

最近、野口先生の『叱言以前』(野口晴哉、全生社、1962)をテキストにした読書会というものをはじめた。

前々から、いつかこれをテキストにした読書会は行なおうと思っていたのだけれど、ちょうど「読書会を行ないたい」という声もあったことなのでやってみることにしたのだ。

この本の元になっているのは、野口先生が戦時中に水上村というところに疎開していたときに、その地域のママさんたちを集めて行なっていた「子どもの育て方に関する座談会」の講義録である。

だから出てくるエピソードが、野口先生自身が実際に周りの子どもたちと一緒に生活しているなかでのエピソードばかりで、それが面白い。

どれも親子の様子の一部始終をつぶさに見たうえでのエピソードであるので、とても詳細にその様子が描かれている。

その光景がありありと思い描けるエピソードは、そこからいろいろなことを引き出して解説していくのにはちょうどよく、だから読書会のテキストとしてはもってこいである。


けれどもこの本を読んでいて何より面白いのは、そのエピソードに出てくる当の本人たちが、まさにその書かれている講座に参加して直接聞いているということである。

読めば分かるが野口先生は徹頭徹尾、子どもの代弁者としての立ち位置から、親たち大人たちにずばずばと言ってのけている。

だからほとんどのエピソードが、「お母様がいけない」「大人が悪い」と、その猛省を促すことばかりである。

人によってはさぞかし戦々恐々としていたことだろう(くわばらくわばら…)。

もしこの講座に子どもたちも参加していたとしたならば、自分の目の前で親が叱られて、それでスカッと気が晴れた子どもたちもいたことだろう。


この本の中で言われていることすべてにも通じることであるが、私は、ここらへんのこともまた指導としてはとても大事なことではないかと思っている。

つまり、親と子のあいだに風を吹き込み、新しい関係を作るということ。

それは何も「親を叱る」ということばかりでなく、もっとさまざまな新しい関係の構築ということである。

「子どもの前で親を叱ってみる」というのは、新しい関係の模索の一つに過ぎない。


関係というものはできる限り、やわらかく、しなやかで、ニュートラルであるのが良い。

とくに全体の関係そのものが単純構成になりがちな現代においては一層大事である(核家族とか)。

もちろんその関係に「親子」という型はある。

それを基調とした関係であることを前提においたうえで、できる限りやわらかであるのが良いのだ。

関係というものは、往々にしてたいてい固着してゆくものである。

それが楽だからであるだろう。

けれどもそのまま固着してゆくに任せておくと、何かが淀み始める。

淀み始め、固まり始め、そのうち動かなくなってゆく。

動かなくなったところからは、生命は退去してゆくもの。

生命が退去してしまったところは痺れ始め、そのうち麻痺して、なお動けなくなる。

親子のあいだをそんな死んだ関係などにしてはいけない。

そうなってしまいそうなところには、新しい風を吹き込むのだ。

すると風が新たに気づき、息づき、活きづくことを促す。


関係は絶えず変化し、替わり、めぐり続けることで、そこにいる者たちを活性化してゆく。

だからこそ、自分のなかにさまざまな振る舞いのモードを持っていることは大事なのだ。

場により、時により、人により、いろんな顔を見せること。

「人は3つくらい顔を持っているほうが良い」と私が言うのはそのためである。

それは単なる処世術なのではなく、人が活き活きと生きてゆくための術なのである。

いろんな顔を持ち、そしてそれぞれを真剣に生きてみるということ。

さまざまな世界のレイヤーを持ち、いろんな層の世界とリンクするのだ。


もしも、「親」であろうとするあまりに苦しんでいる人がいたとするならば、それはおそらく、その人が思い描いている「親」という役割が、すでに固まってしまって生命の通わなくなった抜け殻になってしまっているからだ。

そんなところに身を置いて必死に「親」であろうとしても、残念ながらそこから活き活きと躍動するエネルギーを引き出すことはできない。

そんな生命の抜けた過去の抜け殻など、さっさと捨ててしまって歩き出そう。

抜け殻を捨てたところで世界はさほど変わらないかもしれないが、抜け殻を捨てることができたということが、その人がもうすでに違う関係への道を歩み始めている証である。

そうしてしばらくいろんな所(役割)に身を置いてみればいい。

ときに「親」とは違う役割を演じてみることもいいだろう。

親子で役割を交代してみてもいいかもしれない。

とにかく動き出せば何かが変わる。

もしそれでもどうしても「親」ということが見つからずに分からなくなったのなら、そのときは子どもに訊いて教えてもらえばよい。

答えは必ずそこにあるはず。

なぜなら親とは子がいてはじめて成り立つ「関係の一項」だからである。

私を呼ぶ声が、私に私の名前を教えてくれるのだ。

人は一人では何者でもない。

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2008年09月09日

騙されたと思って騙されてみる

私は受講生の方に、しばしば「声がいい」と言われる。

「声がいい」と言われるのはなかなか嬉しいもので、「顔がいい」と言われるよりもはるかに嬉しい。(言われたことはないが)

「顔の悪い詐欺師はいても、声の悪い詐欺師はいない」なんて言葉があるけれども、たしかに声というもの、聴く人にその言葉の信頼性のようなものを感じさせる。

キーとか抑揚とか間とかテンポとか呼吸とか、それら全体が複雑に交じり合って、発する言葉の信頼性を担保しているのだ。

けれども、明朗ならいいかというとそういうわけでもないのが難しいところで、つっかえつっかえしゃべる様子に誠実さを感じられることだってあるし、流暢さがかえって胡散臭さを感じさせることだってある。

でもだからこそ手放しに褒められると無性に嬉しい。

それでそんなことを言われて「そうですか? いやいや、そんなこと言われると嬉しいですね。ありがとうございます。」と喜んでいると、「だから聴いてると気持ちよくて眠くなっちゃって…」と続けて言われる。

ええっと…、んん? それって、素直に喜んでいいのか?(笑)

「聴いてて眠くなる講義」というのは、講師としてどうなんだろうか…。

う〜む…。


けれどもたしかに言われてみると、私は人を眠りに誘導するのは昔から得意であった。

赤ちゃんの額をさすりながら「ね〜む〜く〜なってき〜た〜」なんて暗示をかけて眠らせたりもしたし、「夜、眠れないんです」という人に「そうですか〜。夜ぐっすり眠れないと昼とか眠くなっちゃいますよね〜」とか言いつつからだを弛めて、そのままいびきをかかせたりもした。

整体の稽古中にも、組んだ相手の鼻を押さえちゃフガッと言わせて眠らせたり、首を押さえちゃコックリコックリ眠らせたりして、あんまりいろんな人がよく寝るもんだから、ひょっとして催眠術師にでもなったほうがいいのかしら、と思ったこともあるくらいである。

でもまぁ、いま私がやっていることも、遠路はるばるやってきた人たち相手にベラベラしゃべって、ポカンとさせて、それでご鳥目をいただいてるわけなので、詐欺師か催眠術師と言ってもさほど変わらないのかもしれない。


野口先生の話で、講座中に眠そうにあくびをする人が多いものだから気になって、「眠くなったら上唇を左から右に舐めなさい。そうすればあくびが止まる」と教えたら、みんな受講中に唇を舐めはじめて余計気になってしまった、なんていうエピソードがあるけれど、せっかくだから私も今度やってみようか。

そうしたら講座中に受講生がみんな舌をペロペロし始めて、そのうち私まで舌をペロペロし始めて…って、それじゃ落語だ(笑)。


…と、そんなことを久しぶりに帰った実家でパシパシと書いていたのだけれど、ちょっと休憩して母とお茶を飲みつつしゃべっていたら、私が前に実演販売の手口を見抜いたという話から、そのまま実演販売の「かたり」の巧さという話題になった。

結果から言えば二人とも、「気持ちよく騙されたら払ってもいいよね」という結論に至る。

聞けば母も以前、布団の訪問販売員が訪ねてきたときに、大学時代に落研だったというその販売員の「かたり」に惚れ惚れして、「まぁ、もう買ってもいいわ」とその場で羽毛布団の購入を即決したそうである。

幸い「まっとうな訪問販売」だったので適正価格での購入であったそうだが、あんまり「かたり」が見事だったものだから、「あなた、売り上げすごいんじゃない?」と何気なく訊いたら、「ええまあ、おかげさまで日本一です。」と答えたそうである。

う〜む、見事なものである。

でもこういう世界ってすごい大事だ。

「騙されてもいいわ」と有り金賭けて、嘘も真も関係なしに「ああ良かった」とあっけらかんとした感覚。

完全に親鸞(⇒wiki)の世界である。

私もいまからその人に弟子入りしようかな。

みなさんもいつか私の講座に参加した後に、ふと気がついたら帰り間際に変なものを買わされていたなんてことがあるかもしれないが、そのときは「この私に買わせるとは…なかなかやるわね。」と、破顔一笑、笑って済ませていただきたい(笑)。

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2008年08月28日

化石が世界に返した力を

最近、読書がちっとも進んでいない。

シュタイナー教育ハンドブック』(ルドルフシュタイナー、風濤社、2007)を読み始めて以来、ずーっと同じ本を持ち歩き、読み続けているのだ。

あまり本を読む時間を作ることができていないというのもあるけれど、それ以上に、この本に「捕まってしまった」という方が正しいかもしれない。

シュタイナーの本は学生時代からずっと読んでいるけれど、それぞれの教科ごとにシュタイナー自身が述べた具体的な言葉をまとめたこの本は、何度でも手に取り読み直したくなる、そんな本である。

実際、読んでいても1ページごとに何度も何度も読み直して、その言わんとしていることをはっきりとイメージできるまで咀嚼しようとするので、一回の読書で3ページくらいしか進まない。

まるでスルメのような本である。

噛めば噛むほど味わい深く、気づかぬうちに顎が強くなっている。

まったくすごい本を作ってくれたものである。

西川隆範さんのこういう仕事にはホントに脱帽する。


しかし改めて思うが、シュタイナーという人は、人間を見る眼差しのその焦点が深層に定まっていて、まったくブレることがない。

たとえばこんな具合だ。


『本で学んだことを子どもに語ると、干からびた人間のようになる。その他の点では、まだ生気ある人間であっても、不思議なことに、干からびた人間のように語ることになる。記述されたものから学んだことの名残りを、自分の内に担っているからだ。それに対して、自分で考え出したものは、みずからの内に成長力、新鮮な生命を持っている。それが子どもに作用するのである。だから、童話のなかの植物・動物・太陽・星をいきいきと解釈しようとする衝動が、子どもに向かい合う教師のなかになくてはならない。そうすると、朝、学校に行く教師の歩みのなかに、子どもたちに伝わっていくものが、すでに現れている。』
(同著、p91)


ムムム…。

まことその類まれなるご慧眼に感服するのみである。

まるで説教を受けているようだ。

たしかに教育という意味で、伝えるべきは「知識」ではない。

「熱」とでも言うしかないようなものだ。

それがどのように教師の中で息づき、躍動しているか、そしてまた新たに生まれ続けているか。

その生命力が子どもに伝わり、息づくのだ。

みなさんも自分自身の小学校時代の先生のことを思い出していただきたいのだが、小さいときに先生に教わって今でも私たちを支えているものは、それぞれの教科の知識などではなく、先生自身の「どのように知(世界)と向き合うか」、そして「どのように人と接していくか」という、振る舞いあるいは生き方そのものではないだろうか。

少なくとも私が小学校時代や中学校時代の先生を思い出そうとするときには、そのような思い出ばかりがよみがえるし、そして自分も歳を重ねてそのときの先生の想いというものに思い至るに当たって、それがいかに自分の内面に染み込んでいたのかという事実に驚くばかりである。


教師自身が、カチッと固化した状態で取り入れたものを、そのまま子どもに引き渡すというのであれば、それは教育者のなすべきことではない。

単なる「知識の取次ぎ人」とでも言うような仕事である。

もしそれが教育だとするならば、教師自身が冷めた心魂でそれらをあしらう振る舞いを、子どもたちもそっくりそのまま真似して身に付けていくことだろう。

そこには熱がない。

活き活きと躍動し、新たな力を賦活するものがない。

冷めた世界と、それらをクールに取り扱うテクニックがあるのみである。

そのようななかにあれば、子どもの心象には、世界は冷えて、固くなって、バラバラになった断片の散らかったものとして描き出されていくことだろう。

どんなに脚色し、色鮮やかな装飾を施そうとも、それは心を震わし手足を突き動かす力の抜け落ちた「化石化した世界」に過ぎない。

そんな世界の石化の力に晒され続ければ、神経症が増えるのも当然だろう。


「化石」はたしかに美しい。

オパール化した化石など、一日中見ていても飽きないほどに美しい。
(写真は地中でオパール化した古代生物の骨)

生き物たちがやがて化石化し、ときにオパール化して七色の輝きを放つという事実は、「地球生命体の営み」ということが果たしていかなることであるのか、私たちに空想させてやまないが、それでもやはり、それらはすでに時の流れのなかに沈殿した残滓に過ぎないのである。

今まさに成長し、世界と向き合わんとしている子どもたちに必要なものは、そのような残滓ではなく、活き活きと躍動する力に満ちたミルクなのだ。

それはかつてこの世を謳歌した彼ら化石たちが世界に返した力であり、

そして、

「…雲からも風からも 透明な力が そのこどもに うつれ…」

と宮澤賢治が願った、あの透明な力なのだ。

いかにして自分のなかのバランスが、絶えず化石化しようとする傾向に傾き過ぎないように、「透明な力」を世界から汲み取り続けるか。

「からだの通り道」をいつも空けておくということが大事であろう。


最後にもう一つだけ、シュタイナーが算数について語っている言葉を載せておきたい。


『単に論理的ではなく、いきいきと考察する者には、「正しい方法で算数を学んだ子どもは後年になって、正しい方法で算数を学ばなかった子どもとは、まったく異なった道徳的責任感を有する」ということが明らかになる。これは多分、非常に逆説的に思われるだろう。しかし、私は現実について語っているのであり、空想を語っているのではない。
…中略… 子どもに全体を把握させて、常に少数から多数へと進んでいかなくてもよくさせる。そうすると、子どもを生活に近づけることができる。これは、子どもの心魂のいとなみに非常に強い影響を与える。数を足していくことに子どもが慣れると、特に貪欲に向かう傾向が発生する。全体から部分へと移行し、適切に掛け算も行なうと、子どもはあまり欲望を発展させず、プラトンが言う「慎み深さ」を発展させる傾向を得る。計算をどのような方法で学んだかに、道徳において何を好み、何を嫌うかが内密に関連しているのである。』(同著、p57−58)


「数の世界」に子どもを招き入れようとするときに、「計算」という人間の営みに潜む「道徳的感性」なんてことまで空想したことのある人間が、果たしてどれだけいるだろうか。

恐ろしいまでの透徹した眼差しである。

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2008年08月17日

渓流ソーメン流し

夏真っ盛りのお盆真っ只中ということで、定期的に行なっている群馬の子育て講座を避暑地で行おうということになる。

池袋から高速バスで下仁田まで行ったあと、参加者のママさんの車に便乗し、群馬の山奥の古民家に住んでいる知人宅へ向かう。

半分旅行の心持ち。

到着するともうお昼なので、講座に入る前にまずは腹ごしらえ。

だんなさんのKさんが作ったという家の目の前のジグザグ道を下りていくと、ものの1分で渓流へとたどり着き、そこの岸辺にバーンと流しそうめんの準備がしてある。

おお、なんと贅沢な。

本物の竹を割って節を取って作ったというソーメン流し台(?)はゆうに8mはある。

そこに引かれた山の水が目にも耳にも心地よくキラキラと流れる。


ソーメンを茹でるためのお湯を焚火で沸かしているあいだ、子どもたちは渓流で水遊びをしたり、Kさんが樹に登って作ったというターザンロープで渓流の上を飛んだりして遊んでいる。

いやぁ、これは楽しいだろうなぁ。

子どもはやっぱりこういう中を遊びまわっているのが一番生き生きしているなぁ。

子どもはみんなこういうところに放っておけばいいんだ。

勝手に遊んで、勝手に試して、勝手に怪我して、勝手に学ぶんだ。

それで手に負えそうになかったら、いつでも大人を呼べばいい。

でも街にはそんな場所が減ってしまったよね。

それは大人が悪い。ごめんね。


しばらくしてお湯が沸き、ソーメンが茹で上がったのでさっそく流しソーメンの開始。

山の水に乗って竹の中を流れるソーメンに子どもたちは大歓声。

私もお椀を片手に、いそいそと下流のほうに位置取ったが、上流の子どもたちのソーメン争奪戦が壮絶で、ちっともソーメンが流れてこない。

時折、一本二本、白蛇のようにするりと流れ去ってゆくだけである。

むむ…。

まぁ仕方あるまい。

ちょうど前日に福井のIさんから届いたミョウガを持ってきたので、それもソーメンと一緒に流す。

竹の水路を、ソーメンがするすると流れ、ミョウガがごろりごろりと流れ、ミニトマトがコロコロと流れ、キュウリがズズズと流れてゆく。

節ごとにぴょんぴょんと飛び跳ねるミニトマトがなんとも可愛らしい。

子どもたちは次々流れてくる食べ物たちをすくい取るのに一生懸命で、片手に持ったお椀はソーメンがてんこ盛りである。

キミたち、取るのもいいけど食べなさいね。

流しソーメンを存分に楽しみお腹が満ちると、子どもたちはお椀を放り出し、ふたたび川遊びやターザンごっこに興じる。

大人たちはスイカなどを食しつつ、しばし休憩。


そうしてしばらく休憩し、食休みも十分にとったあと、みんなで渓流を後にして、今度は尾根の中腹辺りまでよいしょよいしょと登っていく。

今回の講座は、せっかく緑豊かなところに来ているので、普段とは毛並みを変えて樹林気功と洒落込む。

尾根に立つ樹々の中で大人たちはみなそれぞれ自分の樹を見つけ、自分の世界に浸り、一緒に登ってきた子どもたちもみんなそれぞれ自分の世界を楽しむ。

尾根を吹き抜ける風が、夏の肌に心地よい清涼感を与え、まわりで遊ぶ子どもたちの声がまるでどこか遠くから聞こえてくるように淡く響く。

大人も子どもも、とても自然にただそれぞれの場所にいる。

木漏れ日が差し、川のせせらぎが響き、樹々が風に揺れ、子どもの遊ぶ声が聞こえる。

満ち足りた午後の日。

静かで、神聖な時間。

都会でもみんな少しでもこんな時間が持てれば、何か変わるかもしれないのにと、ふと空想する。

最後にみんなで集まってお互いの体験をシェアしたのもとても良かったし、たまにこういう講座をやっていくのも良いかもしれない。


とても素敵な場所なのでぜひとも一泊して、自然のエネルギーを目いっぱい充填して帰りたかったが、諸事情により泣く泣く日帰り。

でもすごい元気をもらったし、これでまたしばらく頑張れそうである。

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2008年08月05日

一人のパフォーマーとして

月末の原稿ラッシュを書き散らし、月初めの大きな講座の三連荘を終え、しばしの休息に部屋でほげっとする。

銀色にまぶしい窓の外からミンミンゼミとアブラゼミの合唱が聞こえてくる。

夏だなぁ。

15年近く使っていた部屋の扇風機がいよいよご臨終の時期を迎え、スイッチを入れても羽根がヨレヨレとしか回らない。

ウンウン唸る必死のモーターは、風を生み出すよりもむしろ廃熱のほうが生産性が高く、ほとんど暖房機と化している。

何が悲しゅうてこの猛暑に必死のモーターに付き合わねばならぬのか。

暑苦しいぞ。オマエ。

長い付き合いだったが、さすがにこれ以上は付き合えん。スマン。

とゆうわけで駅前の家電屋さんに行き、丈夫そうな扇風機を買ってくる。

おお、涼しい。

私はひょっとして今まで熱風を浴びていたのか。


最近は講座の数がぐんと増えたので、その準備に追われてブログの更新も滞りがちである。

忙しいのはありがたいことであるが、ブログの更新を心待ちにしてくださっている方には申し訳ない。(そんな人がいるならば)

朝カルの講座も立て続けに満員御礼となり、いろんな人たちに手助けしてもらいつつ、汗をかきかきこなしているが、朝カルのベテランスタッフNさんには「RYOさん、どんどん進化してるわね」とありがたいお言葉を頂戴する。

いやいや、どうもありがとうございます。

そう言っていただけると、とても励みになります。

「学習回路だけは死ぬまで全開にしておく」というのが私の信念でありますので、毎度至らぬところを反省し、日々これ新たに生まれ変わり、変化し、学び続けていくのであります。


それで「ママは子どもの整体師」講座があんまり好評なものだから、秋にもうひとつ講座を設けることになった。

その名も「パパも子どもの整体師」。

洒落ではない。本気である。しかもパパ限定。

これまたやはりNさんのインスピレーションによる発案であるが、たしかにパパも子どもの整体師である。大事大事。

野郎だらけで大いに子育てを語ろうではないか。


「でも何だって私の講座などにこんなにいっぱい集まってくださるんだろうか」と朝カルのスタッフとお茶をすすりつつ、ヒザをつき合わせ話をしていたら、私の講座のスタイルの話になり、なんとなく私の口から「私は最近、講座はパフォーマンスだと思っているんです」という言葉が出てきた。

そう。

それは私の中で最近じょじょに覚悟ができてきたことだ。

それは私の本音の吐露でもある。


私は自分の伝えたいことがうまく言葉にできない。

というより私の伝えたいことがどれも言葉にならないことばかりなのだ。

だから言葉にするとどこか嘘になってしまうので、そもそもしたくもないとも思っている。

でも言葉にしなければ誰にも伝わらないのだ。

それが私の中でどれだけ確信的なことであろうとも、言葉にしなければ誰にも伝わることはない。

そして何より、私は「伝えたい」と願っている。

だから言葉に賭けるのだ。

たとえ大いに誤解をされつつ伝わるかもしれないとしても。

それは、私はどこかで覚悟はしたことだ。


でも、やはり、できうるかぎり、それをそれとして、それそのままに伝えていきたい。

言葉にできないことを、言葉を使って、言葉に貶めることなく、伝えたい。

そうすると結局、私はもだえるしかない。

言葉にできないことを安易に言葉にしてしまうことなく、言葉にしようともだえ続けることだけが、私にできる精一杯の誠意なのだ。

講座という場で多くの人の前に立ち、何かを言葉にしようと必死にもだえ続けるということ。

目の前に、何かを伝えようとしてもだえている人間がいるということ。

その姿が、その事実が、私の精一杯のメッセージなのだ。

ある意味、それだけが見る者に間違いなく伝わることではないかと思う。

私は一人のパフォーマーであり、講座はその舞台なのだ。

分かりづらいかも知れないが、そういうことなのだ。


すると「それがあなたの良さなのね」と、Nさんが言ってくれた。

「洗練」という言葉からは程遠い「愚直」なやり方ではあるが、今の私にはそれが一番自分に馴染む。

とはいえ、雨にも夏の暑さにも負けるヘナチョコなデクノボーである。

が、そんなデクノボーが許される限りは愚直にやっていきたいと思う。


小賢しいアタマは、それだけではダメだということもどこかで分かっている。

だが、精一杯、今のスタイルを全うしてから、次なる段階へと進みたい。

今の自分を全うするということ。

それが全生というものだと私は思っている。

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2008年07月21日

打撲とリズムあるいは魔女の資質について

金曜日。

朝日カルチャーセンターで「ママは子どもの整体師」講座。

4月に行なった講座に引き続き今回も満員御礼で、暑い中、新宿まで足を伸ばしてくださったみなさんには感謝である。

みなさん、どうもありがとうございます。謝謝。

今回は夏休みももうすぐということで、夏休みに山や海など外で遊んでいるときに起きたとっさのときの救急法ということを実技のテーマにした。

必然的にケガの手当てが中心で、川で遊んだときの冷えの処置だとか、打撲の処置だとか、そういうことを実習する。


整体ではあらゆる変動の中でも打撲が一番影響が強いとされ、打撲というものには十分気をつけるよう指導する。

なぜかというと、打撲によってその人の持つリズムが最も乱れるからである。

よほどの急性疾患でない限り、病気というのはある意味、自分で生み出しているものであり、その点では馴染みやすいといっては何だが、急激にその人のリズムが変化し乱れるというようなことは少ない。

というより、余計なことさえしなければ、その人の持っているリズムのとおりにきちんと経過してゆくのが本来のあり方である。

けれども、打撲のように外から急激に強い刺激が入ってくると、その人のリズムをものすごく乱すのだ。

そうして調子が狂って、ガタガタと体調を壊す。そのまんまである。

命の本質はリズムであって、リズムが狂うと命は弱い。

疑うなら心臓に電気ショックでも与えてリズムを乱してみればよい。(ってホントにやっても責任はもたないけど)

「冷え」なども、ゆっくり冷えたか急に冷えたかでその影響はずいぶん変わり、その速度によっては「打撲」に近いものになる。

あるいはむしろ、そういう速度の速い刺激を「打撲」というのかもしれない。

だから急性疾患も、どちらかというと打撲的である。

物の打撲。温度の打撲。光の打撲。音の打撲。血液の打撲。心の打撲。

それらが一番その人のリズムに影響を及ぼす。

「じつは整体でやっていることは打撲なんですよ」と、私はときどき言うのだけれど、背骨を押さえたり、筋をはじいたり、いろんなことをやっているのは、からだにとってはある意味全部「打撲」なのである。

打撲だからこそ、相手にサッと変化を促せるのだ。

普通、打撲をする場合というのはたいてい過剰であり、壊す傾向のほうが強いのだけれど、それをうまくコントロールして活かす方向に用いていくのが、整体のワザということになる。


来月発売のクーヨンの「しかり方、ほめ方」特集の記事にもちょこっと書いたけれども(買ってね)、「しかる」ということもある意味、ここで言う打撲というものに似ているところがあって、同じようにそれが適度であれば相手に良い変化を促すし、さらには元気にすることすらできるのだ。

けれども、たいてい過剰になって反発を生み出すことが多い。

もちろんそれは叱る側の発散運動が叱言に「乗ってしまう」からであるが(だって人間だもの)、叱られる側からすればその分だけ余分になる。

だからそこには叱る側に「慎み」というものが求められる。

叱言の振る舞いそのものが、「自らを律する」という大人の実践であれば、そのフラクタルに貫かれた原則は、相手に対してより深く響いていくことだろう。

どこをどのレベルで切り取っても、そこに同じ旋律が流れているということ。

そのような重層的な共鳴こそが、「伝わる」ということを根源的なところから支える。


閑話休題。

ともかくそんなことで打撲は影響が大きいのだけれど、実際の手当てとしては、その人の本来のリズムを取り戻すために、「からだの手当て」と「こころの手当て」の両方が必要になる。

そこで「からだの手当て」はみんなで実技を実習し、「こころの手当て」は簡単なおまじないの原理を少しだけお話した。

みなさん熱心に聞き入ってらっしゃったので、これでおまじないを使えるようになって帰っていただけたのなら、まことに幸いである。

リーフレットにも書いてあるが、「ママの手は魔法の手」であり、ママは魔女なのだ。

今回参加されたみなさんには、ぜひとも魔女を目指していただきたいと思う。


ちなみに魔女にとってもっとも必要とされる資質は、「感性(センス)」と「意志(ウィル)」である。

今回、講座の中ではその「感性(センス)」についてだけ触れたけれども、「意志(ウィル)」については時間的事情もあり、ほとんど触れていない。

でもそれはもうブログでも講座でも今までさんざん触れてきたことであるので、今回はとくに触れない。

そう言われて「え? そうだっけ?」と一生懸命読み返してみても、そんなことはどこにも書いてないかもしれないけれど、でもそうなのである。

「でもそうなのである」というそれがどういうことなのか。

いつか書いてみるかもしれないし、書かないかもしれない。

「魔女」でブログ内検索してみると、少しくらいは書いてあるかもしれないし、書いてないかもしれない。

posted by RYO at 21:47| Comment(12) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月08日

世界に触れてゆく技術

人と人。モノとモノ。人とモノ。

それらにおいてとても大事なのはそのあいだであり、接点であり、触れ方である。

私たちは料理をしているとき、たとえば煮物が煮えたかどうだか確かめようと思ったら、菜箸でつついてみたりする。

もちろんそうすれば煮物が中まで柔らかくなっているかどうか分かるからであるが、考えてみればなぜ人は直接触っているわけでもない「煮物の固さ」なんていうものを触知することができるのだろう。

ほかにもこれは講座でやったことだけれど、まず一人の人に長いロープの片端を持ってもらって、そのまましっかり目をつぶってもらう。

そうしたら誰か別の人にロープの適当なところをソーッと踏んづけてもらう。

そしてロープを持っている人は目をつぶったまま、そのロープをいろいろ動かして、だいたいどの辺りを踏んでいるか当ててもらうのだけれど、これが多くの人がかなり精確に踏まれた場所を当てることができる。

煮物の固さを確かめるときにその人が実際に触れているのは「菜箸」だし、ロープを誰かが踏んでいることを確かめるときに実際に触れているのは「ロープ」だけである。

けれどもともに、その「触れているもの」を超えて、その先にあるものを感知している。

人は触れることで、触れること以上の感覚を触知できるのだ。


プロのレーサーが、複雑かつ緻密に組み立てられたマシンのタイヤの下の路面のコンディションを、ちょっと走っただけで正確に把握できるのも、打検士が缶を叩いたときのそのわずかな周波数の違いから中身の素材や容量を正確に言い当てられるのも、人間に、ある感覚のその先にある情報を知覚する「超感覚(メタ感覚)」とでも言うようなものがあるからである。

身近な例で言えば、私たちが人の顔色を見てその人の心理状態が分かるなんていうのも、超感覚のひとつである。

あまりにも当たり前すぎてそうは思えないかもしれないが、「人の心」という目には見えないものを「視覚」を通して知ることができるのだから、これはやはり五感を超えた知覚である。

そういう意味では、たいていの人は「顔から人の心を読む達人」ではあるのだ。


しかし、それら超感覚が成立するためにはすべて「ある条件」が必要である。

それは「その人」と、その人の超感覚の手前にある「感覚するもの」とのあいだに、馴染みの深さがあるということである。

それは煮物の例で言えば「その人」と「菜箸」との馴染みだし、レーサーの例で言えば「その人」と「マシン」との馴染みだし、打検士の例で言えば「打検士」と「打検棒」との馴染みである。

それら「人」と「超感覚」を結ぶ「あいだ」にあるものに対する馴染みの深さによって、超感覚的な知覚は、それこそ壮大な世界にもなりうるし、まったく霧のなかの世界にもなる。

菜箸の先にある煮物の固さを知覚するためには、まず自分に菜箸との馴染みがなくてはならないのだ。

もし、菜箸を扱うのに不慣れで一生懸命にその持ち方に意識を向けなければならなかったり、あるいは菜箸そのものがチクチクして痛かったり、熱くて仕方がなかったりして、どうしても気にならずにはいられないようなものであれば、その先にある「煮物の固さ」なんていうことまで感知するどころの話ではない。

本来、菜箸の先まで届くはずの神経が、自分の手と菜箸との接点でいやが応でもとどめられているようなものである。

「菜箸との接点」がまったく気にならず意識の前景から退いていったときに、初めてその先にある「煮物との接点」を繊細に感じ取ることができるのであって、手元のことばかり意識にのぼっているうちは、その先を感じ取ることなんてできない。


そうして自分と世界との接点をどんどん馴染み深いものにして、その先へその先へとどんどん感覚の神経を伸ばしていけば、超感覚的世界は限りなく広大になってゆき、その知覚は対象のメタレベルにまで到達しうる。

レーサーで言えば、「自分」と「路面」とのあいだには「スーツ」やら「シート」やら「ボディー」やら「サスペンション」やら「ホイール」やら「タイヤ」やらとさまざまなものがあるわけだけれど、そのようにモノとの接点の層というのは幾層にも連なっていて、それらをどんどん馴染ませながら、どこまでその先へと神経を伸ばしていけるかが、達人としての成熟度である。

成熟したレーサーは「人馬一体」ならぬ「人車一体」の境地に立ち、まるでレーシングカーが自分のからだそのものであるかのように、エンジンの調子からサスペンションの固さまで、その変化や異常の具合を敏感に感じ取ることだろう。


「世界」を、「環境」を、どこまで自分の感覚の内に取り込めるか。

あるいは逆に言えば、自分の感覚をどこまで「世界」に「環境」に延長していけるか。

触れたモノとの接点に生じる摩擦を瞬時に溶け込ませ、そのモノの本質にまで一気に感覚を延長できるということ。

それが「触れ方」の技術である。

人とのコミュニケーションであれ、モノの習熟過程であれ、「触れ方」の技術が身に付いているかどうかで、どれだけ素早く深いところまで切り込んでいけるかが決まる。

どうしても表面上のところや自分に近い手元のところばかり気になってしまう人は、残念ながらその先の世界にまで感覚を延長することは難しい。

それをブレイクスルーし超感覚的世界にまで到達するためには、どんなモノとの出会いでも瞬時に馴染み、滑らかなインターフェイスを構築することのできる「やわらかな構え」(フレキシビリィティー)が必要なのだ。

そういうあらゆるものに共通する「触れ方の技術」「馴染むワザ」「インターフェイスの構築術」を、どのようにして磨いていくか。あるいは気づいていってもらうか。

それが私のもっぱらのテーマであるのだが、これがまた、考えれば考えるほど難しい。

しっかりと感じながらも、それに捉われずに、その奥にまで進んでいけるということ。

とにかくいろんな稽古の試行錯誤の毎日である。

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2008年06月27日

自動筆記による物語

この前の記事で「自動筆記」について触れた。

そのときにも書いたように「自動筆記」というのは、自分の中から湧き起こってきた言葉たちをいっさいの検閲をかけることなく書き留めていく、そんな筆記法である。

古くは儀式や薬物などによってトランス状態に陥ったシャーマン(巫女)が、ご神託や精霊の言葉などとして書き留めていくような、そんな神聖儀式を起源としている。

私のやっているものなど遊びのレベルであるけれど、より深いトランス状態に入れる者が行なえば、そこから紡ぎ出される言葉は巨大な英知の片鱗を示すものになるはずである。

もちろんそうなればなるほど、それを読み取るのも難しいものになるが。

制御されない野生の知が、驚くべきインスピレーションを発揮することは稀ではない。


自動筆記を一度やってみると分かるが、いっさいの検閲をかけることなく自分の中から湧いてきた言葉を書き留めていくという作業は、まるで自分が書いているようには思えない。

前にこのブログでも書いたけれど、人間の意識というのは基本的に「からだにブレーキをかける」という形で働く。

私たちが自分の意思で言葉を述べるということは、自分の中に渦巻いているさまざまな想念が無秩序に飛び出そうとしているのを押し留めて、適切に並んで出てくるようにブレーキをかけるということなのだ。

だからそれを外して、思いついたものは考えないでそのまま書くということを続けていると、自分の目の前を次々勝手に言葉が通り過ぎていくような、そんな感じになる。

湧いてきた言葉に対して「書き留めること」以外の関わりを持てないゆえに、書いている本人は「自分が書いている感」がまったく希薄であり、まるで自分という存在が「言葉の通り道」にでもなったようで、なかなか不思議で面白い。


だが、試すときには注意が必要である。

私は学生時代、何も考えずに一人で勝手にやってしまったけれど、今から考えるとけっこう危険なことをしてしまったものである。

整体の活元運動などでも「精神病を患ったことのある人は行なってはいけない」と言われるが、こういったメソッドは同じように自分の行動を制御できなくなる可能性がある。

強い抑圧がかかっている人間や、ぎりぎり自我を保っているような人が、このような垂体外路系の運動を行なうと、止まらなくなることがあるのだ。

滅多にあることではないが、それでも自分が情緒不安定だなと思う人はとりあえずやらない方がよい。(私の身近でも一例あった)

一番よいのは「そういうこと」が分かっていて、また対処法をきちっと身につけている指導者の下で行なうことである。


もし万が一そういう事態に遭遇してしまったときのための対処法だけ書いておくと、活元運動でも何でも、目の前でそのような無意識運動が止まらなくなってしまった人がいたときには、まずその人の左の肩を「バン!バン!」と相手の呼吸とずらして強く叩く。

相手の動きが止まるまで、リズムを変えながら左の肩を叩き続ける。

そして暗示をかけられる人はそこで暗示をかけて収まるよう誘導してゆくが、分からない人はとにかくその人の名前をしっかりと呼びかける。

そうすればじきに収まってくる。

けれども一度でもそういうことがあると、ふとしたきっかけで出やすくなってしまう。

出やすくなること自体は決して悪いことではないが、それをうまくコントロールできないというのは、やはりいろいろと不都合が多い。

だから一度でもそういうことがあったら、「そういうこと」の分かる信頼できる指導者にきちんと相談したほうがよい。


閑話休題。

それで学生時代にその「自動筆記」というものを知って、「面白そうだ」と思って試しに書いてみたのだけれど、それを前回キーグラフで分析してみたのだ。

23歳のときの文章である。

書く前に「物語を書く」と自分に暗示をかけて書いたので、いちおう物語の形式になっている。

一気に(何時間くらいだったかな…)バァーッと書いたわりには、いちおうそれなりに起承転結のようなものもあり、ちゃんと物語になっているのが不思議であるが、デタラメ過ぎになってないあたりに我ながら律儀さと言うか小賢しさを感じる。

途中で一度改行が入っているのは(ユリのくだり)、そこでいったん筆が止まって一息ついたからである。

けれども少し休んでいたらふたたび手がウズウズし始め、机に向かってペンを取ったら猛然と書き始めて、一気にクライマックスまで向かったのだ。

心理学とか精神分析とかやっている人が読んだら、ものすごく分析してみたくなるようなそんな文章であるが、なんだか若い感じが随所に感じられて、ちょっと気恥ずかしくもあるかわいい文章である。


それでふと思い立ったのだけれどせっかくなので、その「自動筆記の物語」をこのブログに載せてみようと思う。

その性質上、ダダ漏れの文章であり、脈絡のないところだらけであり、なんだか暗い世界観に満ち満ちている上、けっこう長い(笑)。

なので、暇な方だけ読んでいただければと思う。

あんまりクドイ部分などは(とくに前半部分)多少削除しているが、基本的にほとんどそのままである。

前回のキーグラフとあわせてご覧になってみるとまた面白いかもしれない。

では、私の若かりし頃のダークな部分満載の文章、暇な方だけ下からどうぞ。

⇒『自動筆記による物語』
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2008年06月23日

言葉の島をつなぐもの

5月末にNHKで放送された「サイエンスZERO」という番組で、「チャンス発見学」と題して買い物客の買った品物のデータ分析や、地震の連動の分析をしている回があった。

それを見ていて「むむ!これは面白い!」と思ったのだが、そのときに使っていたツールが「キーグラフ」というものであった。

それで最近また思い出して、さっそくネットで検索してみると、番組に出ていた東大の先生のページで試用版を発見。

さらに調べてみると、いろんな機能を強化したバージョンもいくつかあるようだけれど、見る限り使いこなすにはかなり気合を入れなければならなそうなので、とりあえず最もシンプルな初期型の「KeyGraph」をダウンロードしてみた。


「キーグラフ」というのは何かというと、ものすごく簡単に説明すると、というか簡単にしか説明できないのだけれど、大量にあるデータの中からそれぞれのデータ同士の関連性を探し出し、それをネットワークのように図示することで、感覚的に捉えられるようにしたものである。

まぁこれは言葉で説明するより実際に見てもらったほうが早いし、よく分かっていない私が説明して変な誤解を招いても仕方がないので、あとで直接ご覧になっていただくことにしよう。

それでとりあえず話を先に進めると、私はその番組を見ていてぜひ自分の文章の分析をしてみたいと思ったのである。

「キーグラフ」を使って自分の文章の言葉のネットワークを可視化してみたら、もしかして自分も気づいていなかったキーワードが浮かび上がってくるかもしれない。

そんな期待もあって、さっそく自分の文章を分析してみようかと思ったのだけれど、大事なのはその素材選びである。

私もブログやらコラムやらいろんな文章を書いている。

しかし分析するのに最も適した素材は何だろうかと改めて考えてみると、これがなかなか難しい。

う〜む。どうしよう。

パソコンのドキュメントをテキトーに見ながら、しばらく「う〜む…」と頭をひねっていたら「はっ!」と思いついた。

「大学時代に自動筆記した文章がいい!」


人間というのはふだん言葉を書いたりしゃべったりするときには、「これを言ってはいけない」とか、「これは違う表現にしよう」とか、ある意味、自分で検閲をかけながらしゃべっている。

「自動筆記」というのは、その「自己検閲」をせずに思いついた言葉はいっさい選別することなくすべて書き留めるという筆記法である。

いわゆる「お筆先」とか「神懸かり」だとかに近い。

「自動筆記」について書き始めるとこれまたもう一つエントリーが書けそうなくらいのテーマであるので、それはまた別の機会にまわしてそちらを読んでいただく事にして、さらに話を先に進めると、大学時代いろんなことを試していた私は、自動筆記も試してみたことがあり、その文章があるのを思い出したのである。

思いつくままにワーッと書き散らした文章であれば、私の潜在意識やら欲望やらが露出しまくりで、これはなかなか分析のしがいがあるに違いない。

どうなることやらちょっと怖いが、さっそくそれを素材にキーグラフを作ってみた。

「オレ」を中心にさまざまな言葉が置かれている。

書いた文章が基本的に「オレ」の物語であるので、ほとんどの言葉が一極集中的に「オレ」にリンクしている。

まぁ、当然であろう。

こういう多数の「リンク」(枝)を集めている「ノード」(点)を、ネットワーク論では「ハブ」と言うが、このようにたった一つの巨大なハブがほとんどのリンクを集めている構造というのは、ネットワーク論的に言っても単純すぎてあまり面白くない。

なので、こういう出しゃばりな「オレ」様には早々にご退場願って、「オレ」様がいなくなったときにそれ以外の言葉たちがまたどのようにネットワーク化されていくのか試してみることにしよう。

さっそくキーワードから「オレ」を削除し再解析。

スクランブル交差点のような「オレ」が消えたので、言葉たちがそれ以外のルートを使ってネットワーク化しはじめた。

こうなってくると徐々に「言葉の島」が浮かび上がってくる。

どうやら大きく分けて、下方の「オマエ/キツネ」の大きな島と、左上の「少年/手」の島、右上の「光/流れて」の島の、3つの島があるようである。

面白いのは、それらすべてが「いい」という言葉でつながっていることだ。

これはなかなか意外な展開。

文章自体は、検閲から開放された私の邪悪さが蔓延し、「死ぬ」だとか「血まみれ」だとか「食いころせ」だとかいった言葉が乱舞して、なかなかダークな黒魔術的雰囲気を醸し出しているのだけれど、意外にもその隠れたキーワードは「いい」という言葉であった。

ほぅ…そうであるか。

まぁ「どうでもいい」とか「それでもいい」とか、そういう使い方もされるわけだから、必ずしもよい意味ではないかもしれないけれど、う〜ん、予想外でやっぱり面白いなぁ。


多くのリンクを集めるハブのようなキーワードは、しゃべっている本人も十分意識化されているわけで、たしかに重要ではあってもそれほどの新鮮味はない。

けれどもそれほど頻出するわけではない言葉でありながら、いろんな「島」、つまりいろんな話題に登場してくる言葉というのは、じつは隠れたキーワードであると言える。

キーグラフの面白いところは、そういう普段は決して意識化されることのない隠れたリンクが浮かび上がってくるところにある。

よ〜し、それではさらに上位のキーワードを消して、さらなる隠れたリンクを浮かび上がらせてみよう。

頻出ランク上位5位の「オレ」「オマエ」「キツネ」「いい」「どこ」を削除して再解析だ。

これまた面白い言葉が飛び出した。

見てみれば分かるように、完全に一つの言葉がすべての「島」をつないでいる。

「透明」だ。

今までの解析では一度も出てこなかったのに、突然浮かび上がってきたと思ったらいきなりプリンシパルに大抜擢である。

これが面白い。

これは頭でいくら考えていても絶対分からないだろう。

しかし「透明」か…。

それこそまさに自ら透明になって、私の無意識の中でいろんなものをつなぎあっているのか。

でも言われてみるとたしかに「できる限り透明でありたい」と願っている私にとって、自分の中でとても重要な概念として存在しているかもしれない。


私は仕事柄、ふだんからいろんな人の相談に乗ったりすることが多いのだけれど、今まで人の話を聴きながらキーワードを探すというのは自分なりにやっていた。

人はキーワードを発するときと言うのは、呼吸が変わったり、スピードが変化したり、語尾が変化したり、言いよどんだりと、さまざまな振る舞いを見せるので、それによって「これかな…」と見当をつけたりしていたのだが、今回のキーグラフ分析で分かったキーワードのようなものは、おそらくそのようなやり方では浮かび上がってはこないだろう。

そこまで焦点化しては分からない、もっと潜在意識的で、もっと直感的なものであるように思う。

もっと意識を捨てたさらなる「なんとなく」の世界。

その人がほとんど口にしない言葉でありながら、さまざまな「意味の島」を結び合わせる「橋」であるような、そんな言葉。

いろんな「意識の島」を結ぶ中心にありながら、表には出ない漠たるモノ。

それって…まさに人間の無意識なんじゃなかろうか。

「無意識は言語構造を持っている」とは誰の言葉だったか。

ちょっと面白い研究テーマを見つけてしまったぞ。

posted by RYO at 14:36| Comment(12) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月12日

ムシたちの仕事

マゴットセラピーという治療法がある。

糖尿病が重度に進行してしまった患者さんのなかには、血行障害や神経障害により、脚の先端が壊疽を起こしはじめ、切断しなければ生命に危険が及ぶという状態に陥ることがある。

壊疽というのは、どんどんその周囲に広がっていってしまうので、基本的にはできるだけ早く壊疽を起こした部分を切断するというのが、よく行なわれる対症療法である。

ところが「もう切断しかない」と言われていた患者さんでも、場合によっては4割から5割くらいの方は、このマゴットセラピーによって切断を回避できるというのである。

なんとも素晴らしい治療法ではないか。

では果たしてマゴットセラピーとはいかなる治療法であるか。


それは「壊疽が起きているところにウジ虫を放す」というものである。

ウジ虫というのは説明するまでも無い、あのウジ虫である。

よくその辺をブンブン飛んでる、あの「ハエ」の幼虫である。

「ギョッ」と思われる方も多いかもしれない。

もう聞いただけで「ダメダメ。ありえない。」と嫌悪感を覚える方もおられるかもしれない。

しかし日本国内だけで年間1万人にも達するという下肢切断手術をするや否やという瀬戸際にいる方にとっては、可能性に満ちたひとつの選択肢であろう。


皆さんもご存知のようにウジ虫というのは腐ったものを好んで食べる。

だから壊疽を起こした部分にウジ虫を放してやると、生体部分には目もくれず壊死してしまった部分だけをきれいに食べてゆき、結果、見事に壊疽の進行を文字どおり食い止めてくれるのだそうである。

もちろん医療用として使用するウジ虫は、完全に無菌状態で育成したものを使うので、感染症の心配などはない。

なかなか画期的なすごい治療法であると思ったが、調べてみると「ウジ虫が湧いた傷は治りが早い」ということは昔からよく知られていたことだそうである。

古くはアボリジニの世界でも、マヤの世界でもそういう事実は知られていたそうだし、ナポレオン軍の軍医の報告でも、戦場で放置された兵士の傷口にウジ虫が湧いている場合は、そうでない場合より治る率が高かったとか。

実際に第一次世界大戦以後(1930年代ころ)には、治りにくい創傷の治療法としてウジ虫を活用していたらしいが、抗生物質であるペニシリンの普及によりその後じょじょに行なわれなくなったということである。

ところが、それがまたここに来て抗生物質が効かない耐性菌の出現などにより、再び脚光を浴びているらしいのだ。


なかなかすごい治療法が世の中には存在するものだけれど、しかしこの治療法を初めて知ったとき、私は「う〜む…」と考えさせられた。

「彼ら(虫たち)がいったいどういう働きを担っているのか」ということについて、私たちはもう少し考え直してみる必要があるのではないかと思ったのだ。

私たちは自分たちの死体や排泄物を忌み嫌い、そしてまたそれら腐肉や排泄物を主食とする彼らを忌み嫌う。

だがしかし考えてみれば、彼らのやっていることはまさにその私たちの腐肉や排泄物の「さらなる分解」であり、その働きによって私たちの環境は「排泄物の堆積」から免れているのである。

からだの壊死してしまった部分だけを食べ、それによって生体部分が再び活性化するように、彼らは私たちの環境の清浄化、活性化を促しており、それによって私たちは健康な生活を営んでいられるのだ。

どんなに忌み嫌ったとしても、その事実を変えることはできない。


私たちは生活していくうえで、さまざまなものを取り入れ、さまざまなものを排出している。

私たちは賞味期限とか言って、これは「食べられる」とか「食べられない」とか世界を勝手に分節しているけれど、もっと大きく見てみれば彼らのように、私たちにとって賞味期限が切れたところから、賞味期限が始まる生物たちもまたいるわけである。

生物全体で考えてみれば、食べ物の賞味期限などないのだ。

青いものを食べるものがいて、腐ったものを食べるものがいる。

そう考えると自然界の大きな巡りのなかでは、「もったいない」も何も無く、ただ健やかに次から次へと巡っているだけであるかのようにも思えてくる。


その大きな巡りのなかで滞るものが大きいところほど、それを分解する役割を担うモノたちが大発生し、それを速やかに巡らせてゆくというのが自然界で起きていることである。

次から次へとバンバン捨ててゆく私たちの背後には大量の滞りが堆積しているわけで、それを分解するべく、これからも彼らのような小さなモノたちが繰り返し大発生することだろう。

渋滞というのは現象として、流れの方向とは逆方向に遡行する。

私たちが私たちのすぐ後ろに渋滞を引き起こす生活を続けていれば、やがてその渋滞は遡って私たちの環境に浸潤してくるだろう。

そのとき私たちの生活には何が起こるのだろう。

滞りは私たちの生活に浸潤し、そのうち私たちの身体にも浸潤してくるかもしれない。

ひょっとして、そのときは、私たち自身が「世界に生じた巨大な滞り」として分解され始める番かもしれない。

そんな恐ろしいことを空想して、思わず後ろを振り返る。

いまだ「構築者」(留める者)ばかりがもてはやされる時代が続くが、「分解者」(流す者)の担う仕事はますます大きい。

posted by RYO at 21:15| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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