2011年06月17日

欲望のカタチ

気が付いたら3ヶ月間もブログの更新が滞ってしまった。ブログのみで交流している方には大変長らく失礼をばいたしました。ご心配をおかけしまして申し訳ないです。

震災にまつわるさまざまなことが私の中でグルグルと動き回っていて、とてもブログを書く気になれなかったというのもあるし、ちょうどいま新刊本を執筆中ということもあって、その忙しさにかまけていたら、あっという間に3ヶ月が経ってしまったというのが、実のところである。

執筆自体も地震の後はちっとも手を付けられなかったので、いま追い込み中で大変だ。

最低限、8月上旬のクレヨンハウスの夏の学校までには間に合わせないとならないので、どんどん詰めていかないとならない。うう…、がんばろう自分。


しかし、ホントに今回の震災については、いろんなことに気づかされ、また考えさせられた。

16年前の阪神大震災もたしかに大きな災害ではあったが、今回の東日本大震災は地震に加えて、津波と原発事故がさらに追い打ちをかけるという、まさに人類未曽有の大災害となってしまった。

こんな巨大な大打撃の前には、人はもうどう受け止めていいのか途方に暮れるしかない。

私も途方に暮れているうちに3ヶ月が経ってしまったわけだけれど、もちろんそのあいだ何もしていなかったわけではなく、関東近辺の子どもたちのからだのケアや、家庭でできる手当てについての無料講習(チャリティー)などは行なっていた。

今の状況の自分にできることはせいぜいそれくらいであるが、それでも多くの人に喜ばれ、またずいぶん元気になってもらえたのは、私にとってもせめてもの救いである。


しかし日本列島が強大な打撃を受けてすぐに、日本中から多くの人や物が被災地へ集まりながらグルグルと動いていったさまは、まるで傷ついた日本という生命体がその傷を癒すために、修復細胞たちを集めているかのようだった。

赤血球には赤血球の、白血球には白血球の、血小板には血小板の、リンパ球にはリンパ球のそれぞれの役目があって、急いで現場に駆け付ける者あり、遠くから支援物資を運ぶ者あり、必要物資の増産体制に入る者あり、それぞれがそれぞれの才能や持ち味を生かして、傷ついた日本という生命体を必死になって救おうとするのは、何とも言えない不思議な思いを抱かせた。

これはいったい何だろう。いったい何が起きているのだろう。天災?人災? なぜこんなことが起きたのだろう。何をすればいいんだろう。できることをやらなきゃ。これからどうなるんだろう。何とかしなきゃ。何とかしてくれ……。

錯綜と混乱、さまざまな思いと願い、そして祈り。

打撲のあとの細胞の気分というのはこんな感じなのかな…と、そんなことを思ったり。


しかし、これほどまでに地震の多い日本という国が、何ゆえにこれほど多くの原発を抱え込むことになったのか、それがいまだに分からない。

原発に限らず発電所のようなエネルギー施設というのは、私たちの「もっともっと」という欲望が具現化したものであろう。

それ自体には良いも悪いもない。

人間だって自分の中に発電所のようなものは大量に抱えているわけで、それはたんなる生命の欲望であり、要求であるということなのだ。

ただそのバランスを間違えれば、その種は衰弱し絶滅する危機に瀕するということだけである。

でもそれにしたって、なぜ原発なのか。

私たちの欲望が原発を生み出したのは確かである。

それは誰が何と言おうと、事実である。

「もっと電気を」「もっとエネルギーを」という人間の欲望が、原発になっている。

その強い欲望の力が小さな違和感や反発をはねのけて、圧倒的な勢いで日本中に原発を作っていった。

それ以外のカタチも取り得たのに、昂進する欲望自体がそのカタチを望んだのだ。

だから今、ある。

欲望の欲望の、硬結。 人々の欲望の集合体。

今回、その硬結がひとつ、巨大な津波によって弾かれた。

私たちが何とはなしに見ないで済ませてきた欲望が爆発し、大量の放射性物質とともにばら撒かれ、広く天下に露わになった。

そして「何とかシーベルト」とかいう不思議な言葉とともに、私たちは生活のあらゆる場面でそれを突きつけられることになったのだ。

「これがお前たちの欲望だ」と。

それはあまりに過酷な突きつけられ方であったが、そこから逃れられる者はいない。


どうも私は最近は、これほどまでに人間が原子力にこだわるのは、もはや「利権」という言葉だけでは説明できない気がしてきている。

たしかに利権による動機は大きいだろうが、「原子力」というもの自体が、ある意味で人間の欲望のカタチを現わしているような、そんな気もしてきたのだ。

石油であれ石炭であれ天然ガスであれ、あらゆる化石燃料と呼ばれる物はすべて地球が浴びた太陽エネルギーを植物たちが変換し、炭素系のエネルギー物質として充填保存してきたものである。

植物を燃やしたときにメラメラと燃え上がる炎は、それまでその植物が貯め込んできた太陽エネルギーの解放現象に他ならない。

私たちが化石燃料を使うとき、それは生態系が何十万年かけて保存してきた太陽エネルギーを消費しているということなのだ。

私たち人間はその先祖代々の莫大な遺産を食いつぶす道楽息子のようなものであるが、しかしそれでもまだ生態系の貯金の使い回しの範囲内である。

たとえ時間のスパンの圧倒的な違いはあったとしても。


だが、「原子力」は違う。

それは「燃焼」という地球生態系の採用した炭素系のエネルギー循環とは、本質的にまったく異なる。

核自体の分裂や融合から生み出される核エネルギーというのは、それはすなわち地球のすべての生態系が遠くからその恩恵を享受している太陽という恒星上で行なわれているエネルギー活動の原理なのだ。

「炭素燃焼」は地球エネルギーの原理であるが、「核反応」は太陽エネルギーの原理である。

人間の欲望は、その「神の火(太陽原理)」を求めた。

すべての根源である太陽を地上に作ろうとした。

たしかに地上に太陽を作り出せれば、そこから無限に近いエネルギーを絶えず取り出すことができる。

その空想は、さぞ人間の欲望を喚起したことだろう。 いや、今でも変わらず喚起している。

その欲望のカタチが、今の原発事情を生み出しているのだ。

この「太陽原理」を完全にコントロールできれば、不便な「地球原理」に縛られずに済む、と。

嘘かホントか、インドの原発は破壊と創造の神シヴァのリンガ(男根)のカタチをしているそうだ。

人が求めてやまない、欲望のカタチ。


震災にまつわるあらゆる状況は、私たちに「考えよ」と言っている。

私たちは「思考せよ」「決断せよ」と突きつけられている。

今回の大災害は、徹底的に私たち日本人に「考えること」「決断すること」を突きつけている。

日本は本当に大きな曲がり角に来ている。


どうも私は震災以降、ことあるごとに宮澤賢治の姿がちらちらと頭をよぎる。

宮澤賢治は、あの貧しい東北地方の窮乏を憂いながら、そこに理想郷としてのイーハトーヴを見ていた。あの時代、宮澤賢治という精神が東北に光り輝いていた。

宮澤賢治は早すぎて、当時はその光は孤独にポツリと灯っていたにすぎないが、けれどもその火はその後、着実に多くの日本人の心に広がっていった。

多くの人が宮澤賢治が夢見たイーハトーヴを、ともに夢見た。私もその一人である。

貧しい東北地方の現状を知りながら、そこに理想郷としてのイーハトーヴを見ていた宮澤賢治の精神は、これからの東北地方の復興に何か非常に重要な役目を担うような気がしてならない。

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……
                                       宮澤賢治

posted by RYO at 00:16| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月18日

深呼吸の必要

11日の大地震以降、ドタバタとあわただしい日々が続いている。

読んでくださっているみなさんは無事にお過ごしだろうか。

買いだめ問題やら停電騒ぎやら原発問題やらいろいろあって、不安や心配な心はあるかもしれないけれど、それぞれがそれぞれの範囲でできる限りのことをしていくということが、復興への最短ルートであると思う。

だからみなさんも落ち着いて日々の暮らしを過ごしていってほしい。

とくに小さいお子さんがいるならば、ちょっとニュースを消して穏やかな日常を過ごしてほしい。

それが、まず一番身近な子どもたちにとっての一番の支援活動である。


みんな地震から気が上がってしまって、気づかぬうちにからだが緊張して弛まない。

鳩尾が硬くなって、首も弛まない。

不安に駆られて、あれもしなくちゃこれもしなくちゃ、あれはどうだこれはどうだ…


とにかくみんな、深呼吸が必要だ。
思いっきり吸って、思いっきり吐く。
もう一度吸って… ゆっくり吐く…


そう、深呼吸が必要。


吸って… 吐いて…
…落ち着いた?
落ち着いたら、やるべきことをやろう。



さて、では落ち着いたところで…

被災地では、避難した被災者の方たちの生活環境や、行方不明者の安否、あるいは亡くなった方たちの身元確認など、いろいろ課題は山積みである。

けれども、その中でも日本のみならず世界中の人間にとっての一番の懸案事項といったら、やはり福島第一原発の状況だろう。

これはニュースを見る限り、まだまだ予断を許さない。

とにかく原発のまさに核となる燃料棒はどんどん冷やし続けなければならないのだ。

しかもその冷却期間は処理可能となるまで数年はかかる(らしい)。

核の熱はそうそうたやすく収まらない。延々となだめ続けなければならないのだ。


けれども放射線の漏洩拡散状況はひとときに比べてマシになっている。

文部科学省が作成・更新しているこちらのウェブページをご覧になっていただければ分かるが、一時期の爆発云々の頃に比べて、ずいぶん低下したまま落ち着いている。

ちなみに上記のウェブサイトは、各都道府県の放射線量がほぼリアルタイムで分かるので(数時間遅れではあるが)、皆さんも逐次確認いただければと何かの参考になるかと思う。

これを見てみると放射能濃度は栃木・茨城方面のほうに広がっているようである。

詳しいデータを見てみると、計測値が平常値より大きく上に超えている。

数値で言えば、およそ平均0.18〜0.20マイクロシーベルト/hほど。


これがどれほどの数値なのかと思って調べていたら、面白い記事に出くわした。

Rai News 24

イタリアのテレビ局のウェブサイトであるが、こちらの方が日本語に訳してくれている。

何が書いてあるかというと、

『16日、イタリアの市民保護局の隊員が、東京で放射線量を調べてみたところ、0.04マイクロシーベルト/hであった。ちなみにローマの平均放射線量は0.25マイクロシーベルト/hである』

とのことである。

つまり今の東京よりも、ローマのほうが6倍の放射線量があるということだ。

放射線量が平常値を上回っている栃木・茨城ですら、ローマの放射線量には及んでいない。

もちろんまだまだ原発は予断を許さない状況であることに変わりはない。

原発の周囲では相変わらず多量の放射線が漏洩し、近くまで近づけない状況で冷却作業は非常に難航している。

少し離れた地点でも、ときに高い数値が検出される。

けれどもそれ以外の離れた地域(とくに50km以上)では、先日の水素爆発による放射性物質の拡散事件以降は、またいつもとほぼ変わらない状態になっている。

放射能が流れてきている地域ですら、いつものローマより低いのだ。

ここをローマと思えば、じつに何でもないことである。


私たちに必要なのは深呼吸だ。

被災地以外の私たちがまず落ち着かなければならないだろう。

放射能だって、上記のデータをチェックしながら、いざというときの対処をしっかり身に付けて、それでも気になるなら今から実践しておけばとりあえずは大丈夫だし、お米だって国内にはパンにして売らなきゃならないほどあるし、食料品や日常品や石油だって、どれも供給がプッツリ途絶えたわけじゃないのだ。

停電生活だって、一週間もすれば慣れるだろう。

むしろ暗闇の中で、いつもより家族の距離が近づくきっかけになった家庭もあるかもしれない。

だからまずは落ち着いて暮らしてほしい。大きくゆったり一息ついて欲しい。

被災地以外で慌てることが、被災地の方たちの支援や復興のどれだけ妨げになるか分からない。

福島に真っ先に手を差し伸べるべきなのは、いつも電気を作ってもらっている首都圏の人間なのだ。

その手を差し伸べるべき人間が慌てふためいて、被災地の立ち直りの邪魔をしてしまってはいけないだろう。

「私たちはあとでいいから、まずは被災地へ回して」と、一言言えないか。

こんな非常時なのだから、いろいろな失敗や不手際があるのは当然だ。

私たちにできることは、その非を責めることではなくて、「がんばれ!」という応援の声を挙げることだろう。


東京は関東大震災や東京大空襲を乗り越えて復興してきたし、広島・長崎は世界で唯一(二?)の原爆投下を乗り越えて復興してきたし、神戸は阪神淡路大震災を乗り越えて復興してきた。

福島もきっとこの震災と原発事故を乗り越えて復興するだろう。

とくに広島県民には、福島県民に対してこれからぜひとも大きなエールを送って欲しいと思う。

「大丈夫だよ。私たちを見なさい。必ず復興できるから」と。

「ヒロシマ」を復興した人々からのエールが、どれだけ心強く届くか知れない。

今回の事故で「フクシマ」の名前は世界に知れ渡ったが、これがいつか「奇跡の復興」の代名詞として語られるようになる日が来ることを、私は祈っている。

posted by RYO at 18:18| Comment(26) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月12日

【地震】

昨日の地震は、東京でもすごい揺れの地震でした。
みなさま、とくに東北方面の方々はご無事でらっしゃいますでしょうか?
甚大な被害が出ているようで、不安な夜を過ごされた方々を思うと胸が痛みます。
みなさまのご無事といち早い復興を心よりお祈りいたします。

RYO 

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2011年02月16日

ファイル名を付けずに保存する

「ファイル名を付けずに保存」。

そんなことを、ふとつぶやいてみて「うふっ」と笑う。

うん、いいじゃないか。なかなか。


二十代にからだのことに興味を持ち、「感覚」というものと真摯に向き合い始めてから、私は何か感じたときに、それを安易に「言葉にしない」ということにしている。

「言葉にしない」というのは、「考えない」ということとは違う。

考えなければ反省はなく、反省なければ進歩もない。

だから考えることは考えるのだが、「取り扱いをしやすくするため」という理由で、感覚や経験を安易に言葉にパッケージ化することをしない、ということである。

言葉にするといろんなものが抜け落ちる。

自分自身のボキャブラリーの貧困さはもちろん、人間の認知構造というか、意識構造というか、言語構造というか、とにかくそういうものの性質上、言語化する過程で膨大な量の情報がごっそり抜け落ちてしまうのだ。

そしてたいていその中にこそ、私自身にとって最も重要なものとなるであろう、「未だ私がその価値を発見できていない原石」がある。

だから安易に言葉には、しない。 必要以上に言語化しない。

それで「ファイル名を付けずに保存」なのである。


「名乗るまで待つ」と私は言っているのだけれど、自分自身の何かの体験を、そのときの手持ちのボキャブラリーで安易に言語化してしまうことをせず、いつかそれ自身が自ら名前を名乗るまで待つということを、普段から心がけている。

私の経験から言って、重要なファイルというものはいつか必ず自ら名前を名乗り出る。

そしてそれはたいてい、ピンチの時に訪れるヒーローのように「ちょうど今!」というタイミングで訪れてくれるのだ。今まさに必要なモノを携えて。

ゲド戦記じゃないけれど、もし何かが自ら本当の名前を名乗ってくれたなら、それはきっとそのモノとの間に深い絆が結ばれた証である。

それは、こちらが受けた印象から名付けた俗称とは意味が違う。

おそらくそれはもう一生ものの関係だ。


私のからだのアーカイブには、「ファイル名を付けずに保存」された膨大な量の「無名のファイル」たちがある。

以前はその膨大な「無名のファイル」も、私の奥底のハードディスクの中に適当に放り込んであっただけだけれども、いろいろ勉強したり、経験を積み重ねてゆく中で、その量がどんどん増えてゆき、それがある程度のところを超えたあたりから、それぞれがお互い相互リンクするということが起き始めた。

私の中の「無名のファイル」たちが、私の意図せぬところでお互い連鎖連想しはじめたのだ。

おう、なんだこれは。知の相転移か。

これは面白いな、これは人間ってすごいな、と思い、これはどんな情報処理システムが動いているだろうとそんなことを思っていたら、最近になってコンピュータの記事か何かを見ていた時に、「あ、これは『タグを付ける』ってことか」とふと思い立った。


「タグを付ける」という方法はもちろん昔からあっただろうが、このある種ITならではの情報処理法がこれほど発達し一般化したのは、おそらく長くてもここ10年ほどの話だろう。

今まで人類が何千年と採用してきた社会的な「情報処理システム」とは、つまりは書庫や図書館のようなものだった。

その情報処理の仕方とは、大きな分類から小さな分類へと、つまり「暮らし・生活」→「健康法・民間療法」→「整体」というような、上位から下位に下がるにつれて項目が増えてゆくピラミッド型(あるいはツリー型)の分類方法である。

それは具体物を配架する際には非常に便利な情報処理法で、だからこそそのような情報処理システムがつい最近まで、というか今でも主流を占めているのだ(PCのインターフェイス(フォルダとか)ですら基本的にはそうである)。

けれどもITは、情報がどんどん電子化されていく中でそれらの物理的な制限を一気に解除し、新しい情報処理システムの構築を可能にした。

その一つが「タグを付ける」という方法である。


先ほどの図書館のような従来の情報処理システムは、その情報処理の初めに「名付け」が必要である。

それが何の本であるのか、どんな内容の本であるのか、どんなジャンルの本であるのか、その判断無くしては情報処理のシステム上に置くことができない。

だからまず「これは何々の本である」という名付けが先行し、その判断に基づいて情報処理されるわけである。

けれども「タグを付ける」分類法には、その情報処理に「名付け」や判断は要らない。

それが何の本であるかということは、さほど重要ではない。

なぜならタグによる情報処理においては、その本の中に出てくるトピックを拾って、そのままタグを付けていけば良いのだから。

つまりたとえ「法律」の本であっても、本文に「料理」についての記述が出てくるならば、「法律」と「料理」のタグをそれぞれ付ければ良いのだ。

物理的な制限がないならば、その本が「法律」のグループに顔を出そうが、「料理」のグループに顔を出そうが、あるいはその他のあらゆるグループに顔を出そうが、何の支障もない。

その当該の記述部位にダイレクトにリンクし、一気にジャンプすることができるのだから。

だから「ファイル名を付けずに保存する」ということができる。

ファイル名など無くとも、あるいはファイル名に一言も触れられていなくとも、そこで取り扱われている小さな一つ一つの情報が、自分自身のアドレスを持ち、タグに登録され、世界中とつながることができるのが、物理的な制約から解き放たれたモノたちの世界である。


この分類法は、実は人間の認知過程で行なわれているプロセスでもある。

私たちが初めて何かと出会う時、「それが何であるか」の判断以前に、そのものの持つ特徴のタグ付けと、私たち自身の経験のアーカイブとの参照が行なわれている。

「目の前のもの」と「経験」のそのタグの一致率から、私たちは「およそこんなものに似ているから、おそらくそんなものだろう」という類推をしている。

そのタグは、生態心理学では「アフォーダンス(⇒Wiki)」と呼ばれている。

アフォーダンスとは「行為可能性」とでも言うもので、たとえばコップを見たときに「持つことができる」「水を入れることができる」「歯ブラシを入れておける」など、私たちがそのモノに見つける「関わり方の数々」のことである。

何かを見たときに、そこにどれだけ多くのタグを付けられるか、どれだけ多くのアフォーダンスを見出せるかということは、「知の相転移」ということを考えたときには最高に重要なことになる。

なぜならそれはそのまま、それがアーカイブされる時の「リンクの数」になるからである。


コップを見たときに、「水が飲める」というタグしか付けられない人は、たった一つのリンク、たった一つの視点でコップを捉えることになる。

それはつまり、コップとそれ以外の自分の中にある膨大な情報との間に、たった一つのつながりしか見い出せないということである。

けれどももしコップを見たときに、「水が飲める」「歯ブラシを入れられる」「食器である」「ガラスである」「透明である」「投げれば武器になる」「楽器になる」「円が描ける」「麺を伸ばせる」「マキビシになる」「盗聴器になる」…その他云々かんかん、そこにさまざまなアフォーダンスを発見し、そして多くのタグを付けることができる人間は、自分の中の膨大な「人生アーカイブ」と多数のリンクで結ぶことができる。

それは、さまざまな物事からコップを連想し、またコップからさまざまな連想をすることができるということである。

そのリンクは増えれば増えるほど、コップは世界とどんどんつながり、そして世界はコップを通じて一つになってゆき、やがてコップ一つが世界を語る出入り口(ハブ)となる。

目の前の一つのコップから、文学にもオイルマネーにも片想いにもカピバラにもオリオン座にも人生にも肘掛けにもサハラの砂にも跳べるということは、それはすごいことだし、そして実際、世界とはそういうものなのだ。

もしそれがあらゆるモノの中で動き出せば、おそらく私たちの「知の構造」はがらりと変わる。

それはある種の「クラウドコンピューティング」だし「暗黙知」だし「粘菌的知性」であるが、それはまだ私たちの背景でしか動いていない。

漠然と空想するしかないけれど、この「知の構造」がもう少し明るいところで動き出せるそんな世界を目指すことは、私はとても大事なことのような気がしてならないのだ。

別に「明るすぎる」必要は全然無いんだけれどね。


ひょっとしたら、そのとき私たちは「新しい言語」を必要とするのかもしれない。

あるいは新しい「知の作法」「対話の作法」を必要とするのかもしれない。

「安易に言語化されないこと」「言語化されないものの居場所があること」「からだの声を聴くこと」、そして「アタマもからだもすべてが等しく対話できること」つまり「大人と子どもが等しく対話できること」。

私がさまざまなワークを通じて目指したいと思っていることは、ただひたすらにそのことだけであり、私が動いているすべては、その実現を想って見ている夢である。

私はいつまでも、名前も分からぬ何だかよく分からないモノたちを愛してやまないのだ。

ここそこに ほのかに香る 色がある

posted by RYO at 00:07| Comment(13) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月10日

私という物語

「誰しも自分のことは分からない」とはよく言われることだが、確かに自分を認識するということは難しい。

占い師も自分の未来は占えないし、医者も自分の病気は気づかないし、カウンセラーも自分の心は癒せないし、坊さんも自分の供養はできない。(ってちょっとズレてるか)

「認識」という行為は基本的に「異化作用」であり、何かを認識するということは、それを遠くに離して置いてみて、それを外から見つめることで初めて成り立つことなのだ。

だから、共感・同化している対象を「認識する」という行為は原理的には難しいことで、恋をしている人が盲目になるのも、子どもに関して親が馬鹿になるのも、それは相手に共感・同化しているからであり、言い換えればそれがいわゆる愛の証拠であり代償でもあるのだから、いたしかたない。

恋人や家族であってすらそうなのだから、完全に同一化している「自分」なんてものは、本来からして「認識」などしようがない。

目玉が目玉を見つめようとするようなものである。


けれども、それでも人間は何だか知らないけれど「自分を認識したい」という止むに止まれぬ欲求に駆られて一生懸命脳みそを発達させようとした。

でもどれだけ発達させようとも、「自分を認識したいけど、認識するためには自分から離れなくちゃいけない」という身もだえるような原理的矛盾を解決することはできないので、延々と葛藤し続けることになった。

しかし、人間というのは頭がいい、というか脳というのは頭がいいもので(って変な言葉だな)、その止むに止まれぬ欲求を叶えるために、「矛盾はそのまま迂回する」という一世一代の大技を繰り出すことにした。

つまり、「自分を見つめることができないなら、誰かに自分の代わりになってもらって、それが自分ってことでそれを見ればいいじゃん」ということで、「何かに自己を投影し、それを参照する」という方法を思いついたのだ。


その投影する「何か」が鏡であれば、これは誰でも空想しやすいだろう。

毎朝、私たちが鏡を見ながら顔を洗ったり、歯磨きをしたり、髭を剃ったり、化粧をしたりするのは、鏡に映しこんだ似姿を自分だと見做すことによって、自分を認識しているのだ。

だが、「鏡」(あるいは「言葉」)は自己認識のツールとしてはずいぶん後になって発見したのであって、それよりはるか前に自己を投影できる「何か」を人間は発見しているのだ。

それが「仲間」である。

すげー似ている奴が周りにいるんだから、そいつらを見ていれば自分がどんな奴だか分かってくるじゃん、ということである。

それまでは身体から湧き起ってくる「印象」に振り回されていただけだったのが、仲間の振る舞いを通じて、その「印象」を客観的に外から「認識」することができるようになった。

他者の振る舞いと同期しつつ、それを参照することで、「ああ、オレはああいうことをしているのか」、「なるほど、こういうときはこういう状態になるわけね」と、自分の「振る舞い(無意識)」を「意識化」できるようになった。

さらにその意識化できたことを「言葉」に置き換えてアーカイブするという方法を発見するに至って、人間の中に物語というものが動き始めた。

よくもまあそんなことを思いついたなと思うけれども、この瞬間こそが人類にとっての大いなる「私という物語」の始まりだったと言えるだろう。


「私という物語」の根っこに「他人を自分と見做す(他者を鏡とする)」という「大きな詐術」が存在するという事実は、受け止めるのになかなか覚悟がいることであるが、でもそうやって迂回しなければ、「私」という意識は持つことができないのだから仕方が無い。

そういうわけで、「私」と「他者」というのは、「私」が成り立つためには切っても切れない依存関係であり、ある種の共犯関係であるわけだけれども、その共犯関係の中にうごめくさまざまな心象のうち、どれが「私」で、どれが「他者」か、というその仕分けの仕方に、時代や文化の個性というものが現れる。


…え〜、ここでふと我に返ってみたのですが…(笑)
何だかやたらややこしい話になってますね。
新年早々なんだかワケの分からない話で申し訳ありませんが、みなさん付いてきてますか?
まあいいや、たまにはトップギアで飛ばしちゃいます。
どうせ雑念書き散らすブログだし、へへへ…(笑)。


私は「私」自身を認識することはできずに、「他者」しか認識できないわけだけれども、「他者」のなかに「私」を見出すことによって、「私という物語」を語ることができるようになった。

そしてその「私という物語」と「自身の感覚」を参照することで、人はみな「現在の自己」の認識をし、さらなる「私という物語」を紡ぎ続けているのだ。

だが、「他者」という鏡のなかに映るさまざまな事象のうち、どれが「私」なのかという選択をする際には、恣意性が働いている。

つまり「鏡はすべて映している」のだが、そのうち「どれを自分だと思うか」は、受け止め方によるのだ。

基本的に「私という物語」に都合が悪いものは「他者」に分類され、吐き出されたままになる。


古い知恵は、そのあたりの取り扱い方も非常に練り上げられたものがあったけれど、現代人はそのあたりの取り扱い方がまったく分からなくなってしまっているので、それでなかなか大変なことになっている。

何と言うか、つまりは現代は「私という物語」が恣意的に過ぎるのだ。

現代人の「私」というものは、あまりにも「私だと思いたいこと」だけでできていて、そしてその外部に対しては取り扱うすべをまったく知らない。

「私」と切っても切れないほど密接に関連し、つねに周縁にまとわりついているにも関わらず、「私という物語」に採用されないモノたちが、現代人の周囲には大量にうごめいている。

妖怪たちが跋扈した時代は、決して遠い昔の話ではない。

まあ「それも私だ」と言えればいいんだけれどね。これがなかなか難しい。


人間は、人類が「私という物語」を語るために原初の時点でついた「大きな嘘」を、大人として成長してゆく過程で、どこかで回収していかなければいけない。

数学でいえば、計算しやすくするために或る未知数を仮に「a」という代数に置き換えた事実を、最後に解を導く過程で、どこかで右辺と左辺をそろえて打ち消さなければいけないのだ。

そうでなければ、最後の解に「a」という嘘が混じったままになってしまうことになる。

だがその大仕事は、現実には個人の手に委ねられている。

人類がついた初めの嘘を、私たちはみな個人の手で回収しなければならないのだ。

生きていく中でそれをどこまでスッと落とせるか、そこに人間の美学があるように私は思う。

私が仮に「私」だと思い込んだ「私」という概念を、人生の中でたびたび書き換えながら、いつかどこかで自ら回収するということ。

ときに、「ひょっとしてこの人はそれを自らの手で回収できたんじゃないか」と思える人間に出会うことがあるけれども、そういう人間が身にまとう雰囲気ほど美しいものはない。

何と言うか、愛に満ちている。

そういう人を知るたび「ああ、私もこうありたい」と願ってやまないが、最近はシュタイナーが言った「自由な人間」というのは、ひょっとしたらこの状態を指しているんじゃないだろうか、などと思ったりもする。

なぜならそういう人は、自分の運命ときちんと向き合えているからである。


…ということで、なんだかいきなりややこしいワケの分からない話をぶってしまった。

スミマセン。

年始早々に謝罪から始まるというのも某店舗のおせち騒動みたいで何とも言えないが、最近ずっと講座で分かりやすい話をしてばかりだったから、たまにこうして我流全開のワケの分からない話をぶちまけてみたくなるという、まさにその好例のような記事でありました。

まあすべて私の雑念妄想ですから、あまり気にしないでください。

いや、でもね、そういうのはね、きちんと出さなきゃいけませんよ。みなさん。

「自覚的に出していく」ということが大事ですね。

無自覚的な「垂れ流し」や「横洩れ」は、他人に迷惑をかけますから注意しましょう。

排泄にこそ、自覚と節度が大切です。 だってそれも「私」なんだから。

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2011年01月02日

物語のはじまり

みなさま、あけましておめでとうございます。

昨年中は毎度相変わらずの私の雑念妄想にお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。本年も変わらず雑念の限りを書き散らかしてまいりますので、よろしくお付き合いいただければこれ幸いに存じます。


昨年はクレヨンハウスからの新刊発売に続き、夏の学校、各地でのサイン会&ワークショップイベントと、あちこち忙しく駆け回っておりましたが、そちらも本当に多くの方々に足を運んでいただきました。

多くの方に支えられて今があるということは十分承知していたつもりでありますが、改めて実際に足を運んで来てくださる方々に接しますと、その感がより一層の実感を伴ってこの身に迫ってまいります。

前回の記事ではありませんが、「私という人間」と「私の名を呼ぶ人間」とは表裏一体であり、「私の名を呼ぶ人間」なくしては「私という人間」は存在できないのでありまして、みなさまの有形無形の愛と支援のおかげで今の私がいるということに、ただただ感謝いたすばかりです。

今年もすでに次の著作に向けて動き出していますし、それ以外にも面白そうな企画も進んでおります。

みなさまにも益々喜んでいただけるよう、より一層の精進を重ねてまいりますので、どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。


さて、毎年恒例のようになってまいりましたが、今年も気になった動画をご紹介することで、新年のご挨拶と代えさせて頂きたいと思います。

今年は何にしようかと悩んだのですが、結局絞りきれませんでしたのでいくつかご紹介したいと思います。


まずは、すでにご覧になった方も多いかもしれませんが、グーグルが最近プロモーション攻勢をかけております「Googleで、もっと。」キャンペーンの動画です。

リンク先に飛びますといくつもの動画があり、どれも楽しいイタズラ心が満載ですが、私がとくに気に入ったのは以下の2つです。

一つめはこちら。


みんなで何かを作り上げるという「祭り体験」を、私たちはもっと日常的に暮らしの中に組み込んでいかなければいけませんね。

二つめはこちら。


「It’s 男子」。(笑)

こういうバカっぽいのいいですね。好きです。がんばれ男子。いや女子も。


そして、最後にもう一つ。

こちらは台湾の学生のグループが卒業制作で作ったアニメーションらしいですが、なんとも心温まる優しく素敵な動画です。


最初、私はこの物語を支える小さな事実に最後まで気づきませんでしたが、みなさまはどうでしたでしょうか?

気づいてもう一度観てみると、いろんなところに素敵な仕掛けが散りばめられているんですね。

なんともなんとも素敵なアニメーションです。

みなさまの周りでもどうぞ素敵な物語が紡がれますよう。

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2010年12月04日

仏と木屑

私の大好きなまどみちおさんの詩に「リンゴ」という詩がある。

リンゴが一つここにあるということは、そこには他に何もないということで、そこでは「あること」と「ないこと」がまぶしいようにぴったりだという、そんな内容の詩である。

シンプルだが非常に美しい詩であり、また非常に哲学的でもあり、自然科学的でもある。

「さすが」としか言えない。 みちおさん、素晴らしいです。


最近ちょくちょく「抜き型」という概念について考えている。

それはまどみちおさんの言うリンゴであるし、松岡正剛さんの言う「鍵と鍵穴」の関係であるし、またあるいはアフォーダンス(⇒Wiki)という主体と客体の関係でもある。

「私」と「私の環境」とは、表裏一体の関係である。

警察が現場検証をして犯人像を空想するように、あるいは動物学者が動物の痕跡からその生態を調べるように、「私の環境」を丁寧に記述してゆけば、そこには必ず「私」という人間が浮かび上がってくる。

「私の環境」には「私」の痕跡が焼き付いている。

それは逆を言えば、「私」にも「私の環境」が刻み込まれているということでもある。

人間観察とは、その「人間に刻み込まれた環境(背景)」を読み解こうとする営みであるわけだが、それはちょうどフィールドワーカーが行なっていることと逆の痕跡を見出そうとしているとも言える。

いずれにせよ、どちらも「鍵と鍵穴」の関係の記述をしようとする営みであることに違いはない。


私が最近しばしば語るたとえ話がある。

一本の丸太から仏像を彫り出す仏師と呼ばれる人たちがいる。

仏師は木の中に眠る仏の姿を思い描きながら、ノミと槌とを振るい、一刀一刀丁寧に木を削り、徐々に仏の姿をあらわにしてゆく。

仏さまがその姿をはっきり現わす頃には、膨大な木屑が足元に積もっているわけだけれど、私たちは仏像を見てその姿に感慨を覚えることはあっても、その足元に積もった木屑の山を顧みることはまず無い。

というより、たいてい木屑はすべて掃き清められてしまって私たちの目に触れることは無いので、その存在は思い起こされることすらない。

けれども考えてみると、一本の丸太から仏像を削り出したときに出た木屑たちは、それらをもう一度パズルのように元通りに組み合わせてペタペタとつなぎ合わせたとしたら、それは「マイナスの仏像」になるはずである。

「丸太−木屑=仏像」であるなら、「木屑=丸太−仏像」である。シンプルなことだ。

つまり、組み合わされた木屑のかたまりの内側には、仏像の形にくり抜かれた空洞が存在することになる。

それは「抜き型としての仏像」であり、また「空虚としての仏像」である。

そこには仏が仏であるための「鍵と鍵穴」の関係があるとは言えないだろうか。


実際、仏像を彫り出す仏師がノミを振るって生みだしているものは木屑であって、仏像ではない。

仏師は作業中、木屑を生み出しているのであって、仏像はその営みの結果に過ぎない。

仏像の周囲を記述しつくす(彫りつくす)ことで、仏像を描き出す。

彫刻とは、もともとが虚の塑像であるとも言えるだろう。

だからそういう意味では、仏師は最後の最後まで仏像に触れえないのだ。

なぜならそれは仏像を傷つけてしまうことに他ならないからだ。

仏師に許されたことは仏像のギリギリをかすめることだけである。

ただそれだけをひたすらに行なう。なかなかシビアなことである。

だがまた同時に不思議な営みである。


丸太から、木屑が生まれて、そして仏が生まれる。

木屑は、仏がこの世に生まれるために、その身を削り落とすことを引き受けた一片一片である。

木屑は文字通り、その身を削って仏を支えているのだ。

その身を削ろうという膨大な木屑たちの決意によって、仏は初めて生まれる。

仏が尊いものであるならば、木屑もまたまったく等しいだけ尊いはず。


整体を作られた野口先生は「この世で一番偉大な仕事をした人はだれ?」という質問に、「キリストをキリストにした人たちだ」と答えた。

それは「仏を生み出すためにその身を削り落とした木屑を見つめよ」ということであったろう。

それは「野口晴哉を野口晴哉にした人たち」に対する感謝と敬意の表明であり、また、「己が何によってこの世界に立っているのかを知れ」という弟子たちに対する教えでもあったろう。

キリストがたった一人でキリストであったわけではないように、野口晴哉もまたたった一人で野口晴哉であるわけではない。

「図」のあるところ必ず「地」がある。「地」に支えられて初めて「図」が浮かぶのだ。


そしてそれは私たち自身の中においても同じことである。

からだには、意識化される過程で削り落とされていったモノたちの踊り場がある。

アタマの中の明晰な「図」は、からだに広がる薄暗い「地」によって支えられている。

アタマの中に仏を思い描くとき、その木屑はからだが引き受けているのだ。

歴史においても、明らかな正史として記録されることのない、人々のささやかな文化史や、数多くの陰謀や都合の悪い事実は、歴史教科書に記載される代わりに、唄や踊りや民話といった形で、芸能として風俗として大衆の中に語り継がれてゆく。

それこそがつまり「民族の無意識」であり「民族の身体」であるわけだが、同じように私たち一人一人においても、「ささやかなもの」や「生々しいもの」や「俗悪なもの」は、裏史としてからだの中へと留められ、正史として意識化されることはない。

だがあらゆる芸能、風俗が大衆の中に残り続けるように、それらはいつまでも踊り場で踊り続けており、隙さえあればいつだってそれこそまさに踊りや唄や奇妙な狂言となって、表に現れようとしている。


「それらを見つめよ」と、野口晴哉は言うのだ。

いや、本人はそんなことを言っているつもりはないかもしれないけど、私にはそう聞こえるのだ。如是我聞。

その眼差しは、何かを言葉にしたときに言葉にされなかったコトたちへの眼差しであり、何かを決意したときに脇へ押しやられたモノたちへの眼差しである。

「キリストをキリストにした人たちこそが偉大である」ということは、「キリストという現象を支える多くの人たちを見よ」ということであり、それはまずは「キリストを信じる者たちを見よ」ということであり、そしてさらには「キリストをこの世に吐き出した陰の者たちを見よ」ということなのだ。

俗な者、悪しき者たちがキリストをこの世に吐き出させ、信じる者たちがキリストを作り上げた。

「信じる者」たちを見つめ、そしてさらにはその陰にある「俗な者、悪しき者」をも見つめよ、ということ。

それらその身を削り落してくれたさまざまな木屑たちこそが私を私たらしめている、ということ。

野口晴哉は、何が野口晴哉を野口晴哉たらしめているのかを見つめていた。そして、それこそが偉大な仕事を果たしているのだと。

その眼差しを忘れて、からだを見つめることはできない。


いつかどこかで、仏像を彫った後にその仏像を捨てて、残った木屑の山を本尊に据えて、「これこそ仏である」と言ってはばからないファンキーなお寺でも出てきやしないかとひそかに期待しているのだけれど…、どうかなあ?(笑)

あるいはその木屑を集めてもう一度固めて仏像に仕立てて二体とも並べるという、二回転ひねりのトリッキーな遣り口なら、大丈夫なんじゃないかな? 遊びすぎ?(笑)

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2010年11月14日

贈与と子ども

内田樹先生がちょっと前にブログで「贈与」について書かれていた。

「そのとおり!」と思ったので、ぜひみなさんに紹介しようと思ったが、そういえば前にも内田先生のブログの記事を紹介したなと思って調べてみたら、やっぱり「贈与」についてのエントリーであった。(2009/10/23「愛のシャワー」)

なんだ、まったく同じものに反応している(笑)。

ほとんどパブロフの犬のようであるが、でもとっても大事なことなんだからしょうがない。

ずいぶん前にも、「贈与の環が動くとき霊力が動く」という言葉を紹介したことがあるけれど、「贈与」という営みは人間の人間性たるゆえんを考えるときに、とても大切なキーワードである。


昔は子どもは周囲の大人たちから「子ども扱い」され、ただ贈与のおこぼれをもらうだけで何も身銭を切らなくていい、という立ち位置を与えられていた。

「身銭を切るのは大人の役割である」という価値観が、大人たちの間で共有されていた。

子どもはただひたすらに「与えられる存在」だった。

親から贈与を受けるのは当然として、近所のおっちゃんおばちゃん、あんちゃん姉ちゃんからも、ただひたすらに贈りものを与えられる。

「飴ちゃん食うかー?」
「ほらここ座っときー」
「ええもん見せたるわ」
「お前は気にせんでええ」

…と、なぜか大阪弁なのだけれど(笑)、でもそういうふうに大人たちからいろんな贈与を、愛のシャワーとしてただひたすらに浴びていくことが、「子どもを生きる」ことなのだと思うのだ。


けれども、そういう「子ども扱い」というある種の「大人社会からの疎外」を、「平等」という考えのもとに、あるいは「自主性の尊重」という考えのもとに、私たちは何となくやめてきてしまった。

それは民主化という時代の流れとしては、まあ必然であったかもしれない。

でも、そのことで子どもたちはずいぶん早くから「大人社会」に、「人間社会」に、参入させられることになった。

とくに資本主義社会という面においては、子どもたちは「被贈与者」からなるべく早く「消費者」として一人前になってもらうことを要請された。

そりゃ企業としては、子どもたちにはいち早く「消費者として一人前」になってくれた方が、マーケットが一人分増えるのだから、「被贈与活動」などさっさと卒業して、「消費活動」に入ってほしいに決まっている。

その必死の啓蒙活動もあって、おかげでマーケットは拡大し、経済はさらなる発展を遂げた。

が、そのときから子どもは「神の子」でなくなった。

人間社会から「消費者」として扱われ、「お客様」として扱われる子どもたち。

人間の大人たちの欲望によって、神々の世界から人間の世界へと連れ去られてしまった子どもたち。翼をもがれた天使たち。

そのことを想うと、私は何とも言えない寂しさを覚える。哀しくて哀しくて仕方がない。

もうそれこそ童話が一篇書けそうなくらいだ。 「神の子が人の社会に連れ去られる話」。


でもね、やっぱり早いんだよ。

そんなにすぐ彼らを「今の人間社会」に連れてきちゃいけないんだよ。

しっかり「神々の世界(ファンタジー)」を十分に生ききってから地上に降りてこないと、何か大切なものを決定的な仕方で損なってしまうんだよ。


子どもは「人間としては未熟な存在」として、人間社会のルールの適用外の存在として、等価交換のマーケットには入れずに、ただ大人たちに養ってもらう。

ただひたすらに大人たちから贈与を受ける。すべて「贈り物」「貰い物」だけで暮らす。

「借り暮らしのアリエッティ」じゃないけど、そんな時代を子どもは生きる必要があると私は思うのだ。

何かを手に入れるには、誰か(他人、自然)から貰うしかない。

自分ではなく相手が主体である、経済的受動態。

それは私たちがかつて狩猟採集生活をしていたときの世界でもある。

狩猟採集という営みには「交換の原理」などなく、すべては自然からただ「貰ってきて」暮らしていた。

自然の愛はでかい。自然はその代償など求めない。

その時代、人間はまだ自然の贈与の恩恵をただ浴びるだけで生きていた。

そういう意味では、そのころ人はまだ大人も子どももみな「神の子」だっただろう。


だが人は自由へと向かって成長している。

人は自分の足で立つ存在であり、いつまでも「神の子」であるだけでなく、「人の子」として地上に立つことを求められるし、またそうせずにはいられない存在なのだ。

人は9歳を過ぎたあたりから、ゆっくり「人の子」として人間社会に入っていく。

「贈与に対して何かを返礼する」のが人間の大人なのだと、そういう人間世界の成り立ちに気付き始め、ただ贈与を受けるだけでなく、自ら何かを差し出すことを意識し始め、そうして愛と贈与と交換の世界へ入っていく。

それは「人間」の目覚めであり、「大人」の目覚めであり、「性」の芽生えでもある。


そのとき「贈与の時代」に贈与をたっぷり受けていれば、必ずスムーズに移行していく。

あらゆる経過の変動は、きちんと全うすると至極スムーズに次のプロセスへと移行する。

それは病気の変動を通して、私がさんざんからだで体験してきた経験的確信である。

そして、充分に全うした「被贈与」の体験は、その後ゆっくりその形を変え、メタモルフォーゼをし、別の形をもって徐々に徐々に表に現れ始める。

それはまず青年期に「優しさ」や「敬意」のようなものとして。
そして晩年期には「感謝」や「祝福」のようなものとして。

「ひたすらに贈与を受けた体験」が時を経るなかで変容し、それがやがて「優しさ」や「敬意」や「感謝」や「祝福」のようなものとして、心のカタチを成してゆく。

「幼少時に充分に愛されて育った子どもは、晩年に人を祝福することができる人間になる」というシュタイナーの言葉は、その営みの「種子」と「果実」を教えてくれている。

「晩年になって実る果実の種を、私はいま子どもたちに蒔いているのだ」と、そういうことを意識して子どもたちと接していけると、何か少し違った関わり方ができるかもしれない。


前に「RYO先生にお金についての講座をやってほしい」と言われたことがある。

私のような貧乏人に「お金について教えてほしい」というのも何とも奇妙な話ではあるが、でも「交換の象徴」としてのお金という意味では、子育てと切っても切り離せないものではある。

「贈与」と「交換」、「子ども」と「大人」、「愛」と「お金」、あるいは「性」。

「子ども」と「お金」をどう付き合わせるか。

まあいつかそんなことを語るときも来るかもしれない。 そのときは「喜捨」制かな。

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2010年10月14日

書物化(ブッキング)する

新刊本発売記念のワークショップが続いている。

先週の日曜日は大阪のクレヨンハウスと旭屋書店を回って、次の日は東京のクレヨンハウス。

そして今週末には名古屋の丸善と正文館の二件を回って、ワークショップとサイン会を行なう予定。

本の売れ行きのほうはおかげさまで順調なようで、発売4ヶ月にして4刷まで増刷がかかり、累計1万9千部になったそうである。おーパチパチ。

この出版不況のご時世にありがたい話であります。ご愛読感謝感謝。


で、そんな中で「そろそろ次の本の企画を…」などという話にもなっているわけだが、クーヨンの連載が2年分たまるのもまだまだ先の話だし(再来年の春だ)、さてどうしたもんだろう。

ワークショップでみなさんに書いてもらったご要望を見ると、もっと具体的な手当てを知りたいとか、整体とシュタイナーのつながりを知りたいとか、このブログみたいな好き放題に書いているのを読みたいとか、年配向けのものが読みたいとか、もっと深く突っ込んだ「難しい話」が読みたいとか、ホントにいろいろあって、これまた嬉しい反面、困ってしまう。

まあそこら辺のスタイルは私も比較的自由に書き散らしていけるタイプではあるので、どれでもいいと言えばどれでもいいのだけれど、どこらへんを次に持ってくるか、「起承転結」の「承」の章として何がいいか、ちょっと悩んでいるところである。

個人的にはもう少し突っ込んでいった話を書いていきたい気もするが、まだもう少しやわらかく受けていくのも大事なような気もする。

う〜ん、どうしよう。


最近は自分の中でいろんなものが急速に言語化、あるいは書物化していることを感じる。

その中でも一番の自分の焦点と言ったら、やはり「講座」であり「ワークショップ」である。

つまりそこが「言語化」している。講座が一つの言語になってきている。

まあ当たり前と言えば当たり前なのだけれど、何かをずっとやり続けていくということは、それが言語化し、メッセージ化していくということなのだ。

絵を描く人は絵が言語となり、踊りを踊る人は踊りが言語となり、料理を作る人は料理が言語となる。

習熟していくとともに、それを通じて自分を表現するすべを持つ。

最初は「コレ トッテモ ダイジ」というような拙い片言の表現かもしれないが、単語を覚えて扱うレベルから、文法を使ってセンテンスを扱うレベルに至ると、メッセージがじょじょに「書物化(物語化)」してくる。

そして絵が童話となり、踊りが哲学書となり、料理が恋愛小説となる。

文字を並べて単語にし、単語を並べて文にして、文を並べて文章にして、文章を並べて書物にし、書物を並べて書棚にし、書棚を並べて書斎にし、書斎を広げて書庫にすると、そこでは壮大なフラクタルな言語化が起きてくるわけだけれど、それはすべてのさまざまなことで起きていることなのだ。


私の中でいま、講座をどう組み立て、どう並べて、どう言語化するかということが、ある種の必要にかられてどんどん起きている出来事なわけだけれど、それが単語のレベルから文章のレベルへと、ぐんぐん書物へ向かってブッキング(書物化)されていっているのだ。

私の言いたいことを一冊の本にまとめるということと、私の言いたいことを一つのワークにしていく、あるいは一つの講座にしていくということは、何も変わることがない。

それぞれのワークが単語であり、それが組み合わさってできた講座が一つの本であり、またその講座が単語となって組み合わさることで、より大きな一冊の本となる。

今まで講座をやっていて改めて思うことは、そのブッキング(書物化)されていったさまざまなレベルのメッセージは、全部ちゃんと伝わるらしいということである。

それはもちろん私なりにブッキング(書物化)のスキルが上達してきたということもあるのだろうが、何かそういうことだけでなく、本人の意識にはのぼらないレベルで、潜在意識のレベルでちゃんと感じているようである。

込められた「運動」は、やはりちゃんと動きながら伝わるのだろう。

そういうのはやっぱりフォルメンなのだ。

開けばそこでぐるぐると「運動する書物」を作りたいなぁ。


ところで全然関係ないのだけれど、今ぷうっとオナラをしたら、今まで沈黙を守っていた隣りの空気清浄機が、清浄度ゲージを真っ赤にして、突然ゴーッと大きな唸り声をあげはじめた。

うん、そうかそうか。

こういうことがな、一つの事件なんだな。

こういう何でもない出来事をだな、大切にすくい上げたいんだな、オレは。うん。

だってそこに愛があるじゃない。え?感じない?(笑)

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2010年09月27日

ゲーテとシュタイナー(&情熱大陸)

最近、シュタイナーはゲーテの正統な伝承者なんだなということを、ひしひしと感じている。

18日のジュンク堂のイベントでもちょこっとそんな話をしたのだけれど、どうもシュタイナーの思想にはそのインスピレーションの根幹にゲーテの世界観がドンと横たわっているのである。

知識としてはもちろんそういう背景があるということは知っていたが、それが実感としてしっかり感じられるようになってきたのは、ここ最近になってからである。


シュタイナーは、今みたいな「神秘学者シュタイナー」として名を馳せる前に、「ゲーテ研究家シュタイナー」として広く認知されている時期があった。

それはシュタイナーに言わせれば、「師の教えに従って40歳までは霊的なことに関して一切の沈黙を守った」そんな時期のことであり、そのおかげでと言うか何と言うか、当時の学者たちの間でも一目置かれるそんな研究者の一人であった。

そういうことに関して、「若いうちは口をつぐめ」と言う師の教えも素晴らしいものであるが、それを忠実に守った青年シュタイナーもエライと言えばエライ。

霊的な事柄を霊的な語り口で語るなんていうことは、ある意味とても楽なことであって、いきなりそこから入ってしまうと表現がちっとも深まらないままにある種の表現方法を確立してしまうが、それをあえて封じ、霊的な事柄を「常識的な概念」と「常識的な言葉」で語ろうと必死になって言語化する過程に、とても大切な営みがある。

シュタイナーが「師」と呼ぶその人が、どういうつもりで「40歳までは語るな」と言ったのかは分からないけれども、おそらく「社会的な評価」ということとともに「内的な修練」としての意味も込めていたのだろう。

シュタイナーの語り口には、その苦悩の痕が深々と彫り込まれているので、それが私などにはとても好ましく感じられるのだ。

何と言うか、霊的な語り口にありがちな「酔う」ということがない。

自分の表現に酔っていない。自分の語る内容にさえきわめてクールである。


とか言いながら私は最近、シュタイナーを読んでいると、ときどきおかしくってクスクスと笑っている。

シュタイナーはたいていとってもクールに振る舞っているんだけど、ときどきお茶目でロマンチックなユーモアを真顔でポロリと挟むもんだから、それが何とも言えない妙味を醸し出していて、それでクスクス笑ってしまうのだ。

ちょっと前(コメント参照)までは、シュタイナーにユーモアとかセクシーさなんてちっとも感じられなかったのに、いやはや我ながら成長したものである。

かつてはあまりに難解すぎて三行読む間に居眠りしてしまっていた自分が、まさかそのお茶目っぷりにクスクス笑いながらシュタイナーを読む日が来ようとは、御釈迦様でも分からなかったであろう。

何事も続けるものである。

14年目に気づくユーモアとかセクシーさというものもある。


まあそんなことはともかく、その時期はシュタイナーも「社会的に常識的な言葉」を使って、論文を書いたり、書評を書いたりしていたので、学術界の中でも新進気鋭の哲学者として名を馳せていた。

それが40歳を過ぎてからいきなり訳の分からないことを語り始めたので(笑)、離れる人は離れ、そして支える人は支えていくわけだけれど、その当時も今も「ゲーテ研究家」としては、第一人者と呼んで差し支えないほどの造詣を持っていたことは確かである。


ゲーテと言えば、日本では文豪ゲーテとして有名だが、きわめて優れた自然科学者としての顔も持っていたことはあまり知られていない。

最近、ちくま学芸文庫から「ゲーテ形態学論集」の植物篇動物篇が刊行されているが、それを見てみるとゲーテが非常に丁寧に自然と向き合っていたことがよく分かる。

「形態学(モルフォロジー)」というのはゲーテが確立した学問であるが、その独特の思考スタイル、観察スタイルは、現代の要素還元的な科学観にはない、有機的でダイナミックなものがあり、シュタイナーはそんなゲーテの「有機的世界観」に惹かれ、傾倒していった。

たぶんシュタイナーは、ゲーテに出会ってものすごく嬉しかったんじゃないかと思う。

まだ20代前半のシュタイナーが、自分の直観をこれからどのようにして理論化し、また具体化して活動していけばいいのかという課題に悩んでいるときに、「そうか、こういう方法があったのか!」と目を見開かれる思いであったのではないかと思うのだ。

それくらいシュタイナーの思想には、ゲーテの形態学(モルフォロジー)が浸透している。

いや、ゲーテやシュタイナー自身の表現を借りるならば、シュタイナーの思想は「ゲーテの形態学のメタモルフォーゼ」であるのかもしれない。

なんとまあ美しい運動であることか。

思想を、その思想そのものの原理によって、止揚する。

かつて、ゲーテが植物の運動の中に見たイメージが、ゲーテからシュタイナーへと引き継がれる中で、子どもたちの中の運動へと展開し、そしてさらにはそれ自体を導こうとする教育実践にまで高められていったのだ。

エライなぁ、本当に。こういうのをエライと言わずに何と言おう。 まこと美しき師弟愛。

人間ってのはこういうことをやっていかなきゃな。うん。ガンバロウ。


ところで話はまったく変わるのだけれど、先日の情熱大陸(TBS)の放送で、私の本のデザインを担当して下さった名久井直子さんが出演されました。

番組の冒頭で、私の本のデザイン校正作業をしているシーンが流れていたのですが、ご覧になった方もおられるでしょうかね?



出演されるということは存じていたのだけれど、私の本が出るかどうかは編集次第でまったく分からなかったので、冒頭で画面にバンと映し出された時には「オッ」とビックリ。

好きな番組にチラッとでも自分の本が映るのは、やっぱり嬉しいものであります。

まだ持ってない人。 いい本ですよぉ〜(笑)。 買ってね。

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2010年09月04日

モラルと算数

今度の18日のジュンク堂のトークイベントのために、シュタイナーの本を引っ張り出してきてパラパラと読んだりしているのだけれど、読めば読むほどやっぱり改めてこの人は凄いなと思う。

ずいぶん前にも取り上げたけど、たとえば算数の教授法についてシュタイナーはこんなことを言っている。


『単に論理的ではなく、いきいきと考察する者には、「正しい方法で算数を学んだ子どもは後年になって、正しい方法で算数を学ばなかった子どもとは、まったく異なった道徳的責任感を有する」ということが明らかになる。これは多分、非常に逆説的に思われるだろう。しかし、私は現実について語っているのであり、空想を語っているのではない。
…中略…子どもに全体を把握させて、常に少数から多数へと進んでいかなくてもよくさせる。そうすると、子どもを生活に近づけることができる。これは、子どもの心魂のいとなみに非常に強い影響を与える。数を足していくことに子どもが慣れると、特に貪欲に向かう傾向が発生する。全体から部分へと移行し、適切に掛け算も行なうと、子どもはあまり欲望を発展させず、プラトンが言う「慎み深さ」を発展させる傾向を得る。計算をどのような方法で学んだかに、道徳において何を好み、何を嫌うかが内密に関連しているのである。』
(『
シュタイナー教育ハンドブック』ルドルフ・シュタイナー、風濤社、2007、p57−58)


「子どもに算数をどのようにして教えるかということは、道徳教育の問題なのである」とシュタイナーは言う。

はたしてそんなことを考えて算数の教授法を組み立てる人が、他にいただろうか。

シュタイナー教育をご存知でない方もいると思うので少しだけ触れておくと、シュタイナー教育では、子どもに加減乗除を教えるときに、足し算よりまえに引き算、掛け算よりまえに割り算から始める。

それはつねに「全体から始める」という発想が根底にあるからである。

が、先のシュタイナーの発言を考えると、そこにはもっと深い意味があるようである。


足し算よりまえに引き算を、掛け算よりまえに割り算を子どもに教えていくということは、言ってみれば「全てを足すと1になる」という世界観と出会わせているということなのだ。

「2という数は、1を半分に分けた数である」ということ。
「10という数は、1を10個に分けた数である」ということ。

それは「全てを足すと1つ(全体)になるんだよ」ということを暗に示しているのであり、地球という限られた空間に生活している私たち人間の世界を、それと言うこと無しにまるっとそのまま示しているということなのだ。

「足し算(掛け算)的思考」から世界と出会った人間が、ある意味「無限の欲望」を肯定されるのに対して(足せば足すほどいくらでも増える)、「引き算(割り算)的思考」から世界と出会った人間は、「欲望の限界」を教えられる。

どれほど大量のモノを集めて貯め込んでも、それはあくまで地球全体のカケラであり、どんなに足しても地球一つ分にしかならない以上、人はみんなで分かち合うしかない、ということ。

部分はつねに「全体の」部分であるということ。

非常にシンプルだが強烈な世界観が、計算とのファーストコンタクトの中に潜んでいて、それが後年になって、その子の道徳観に「慎み深さ」としてメタモルフォーゼ(変容)していくと、そうシュタイナーは言うのだ。

すごい話である。でもナルホドのことである。


シュタイナーは「それを子どもに提示すると、子どもの心象にどんな運動イメージが生まれるか」ということを、つねに考えていた。

だから、子どもたちを数字の世界に出会わせるときに、「足し算/掛け算」から入っていくのか、「引き算/割り算」から入っていくのか、そこにどのような運動イメージの違いが子どもの心象に生まれるかを、真剣に考えていた。

「数を足していくことに子どもが慣れると貪欲になる」とシュタイナーが言うように、足し算に熱中していく中で起きてくる感情を言葉にしてみるならば、おそらく「もっと、もっと」というのが近いだろう。

そのエモーショナルな運動が、現代資本主義の土台になっている。


とにかく子どもは、身の回りで起きている運動を丸ごと「食べて」育つ。

子どもが足し算を習っているときは、単なる数字の計算法を学習しているだけでなく、そこで起きている運動を「食べている」のだ。

子どもたちは「学び」を食べ、「遊び」を食べ、「生活」を食べ、「物語」を食べ、そしてそこで起きている「運動」を食べている。

その中で子どもの内的な志向性が育まれていくのだ。

つまり、その子が一生を通じてどんな「運動」をしていくのか、ということが。

だから大人は、「子どもの前でいかなる運動体として目の前に在るか」ということが、つねに問われるのである。


シュタイナー教育と野口整体を並べて語ってみるためには、整体で「気」と呼ばれ、シュタイナーで「エーテル」と呼ばれる、この「運動」のようなものをどのように語っていくかということが、とりあえずのテーマになっていくような気がするのだけれど、さてさて、それをどう語っていこうか。それが問題である。

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2010年08月25日

『整体的子育て』出版イベント

『子どものこころにふれる整体的子育て』の出版記念イベントが、この秋、各地で催されますので、そのイベント情報をアップしておきます。

定員や参加費、申込先など、詳細が分かり次第、随時情報をアップしていきますので、ご興味のある方はときどきチェックしてください。

下記以外にもこれからイベント開催が決定することもあります。

お近くにお住まいの方はぜひぜひご参加ください!

RYO


【関東】

千葉県 流山(終了しました)
・日時:9/18(土)14:00〜15:00 整体ワークショップ&サイン会
・テーマ:「整体的子育て〜からだに聞いてみよう!」
・会場:「流山おおたかの森SC 3階 K-WEST」
・定員:30名(お子さん連れでもどうぞ)
・参加費:無料(要予約)
・申込み:紀伊國屋書店流山おおたかの森店(店頭受付のみ)

東京都 池袋(終了しました)
・日時:9/18(土)19:00〜20:30 トークショー&サイン会
・テーマ:『「野口整体」と「シュタイナー教育」の結び目』
・会場:「ジュンク堂書店 池袋本店 4階 喫茶」
・定員:40名(トークイベントのため、大人のみの参加になります。)
・参加費:1,000円(ドリンクつき)
・申込み:ジュンク堂書店 池袋本店 1階案内カウンター
 電話予約:03-5956-6111(10時〜22時)

東京都 青山(終了しました)
・日時:10/11(月)9:15〜10:30 整体ワークショップ&サイン会
・テーマ:「整体的子育て〜からだに聞いてみよう!」
・会場:「クレヨンハウス 東京店 地下1階 レストラン」
・定員:25名(お子さん連れでもどうぞ)
・参加費:500円(要予約)
・申込み:ミズ・クレヨンハウス
 電話予約:03-3406-6465(11時〜19時)


【大阪】

大阪府 吹田市(終了しました)
・日時:10/10(日)10:00〜11:30 整体ワークショップ&サイン会
・テーマ:「整体的子育て〜からだに聞いてみよう!」
・会場:「劇団ひまわりビル シアターぷらっつ江坂」(アクセス)
・定員:30名(お子さん連れでもどうぞ)
・参加費:1,000円(要予約)
・申込み:クレヨンハウス大阪店
 電話予約:06-6330-8071(11時〜19時)

大阪府 なんば(終了しました)
・日時:10/10(日)14:30〜16:00 整体ワークショップ&サイン会
・テーマ:「整体的子育て〜からだに聞いてみよう!」(仮)
・会場:「旭屋書店 KuLaSu season なんばパークス産経学園」(アクセス)
・定員:30名(お子さん連れでもどうぞ)
・参加費:1,000円(要予約)
・申込み:Books & Culture KuLaSu season なんばパークス産経学園
 電話予約:06-6641-4880(月〜土11-20時、日11-18時)


【名古屋】

名古屋市 中区 栄(終了しました)
・日時:10/16(土)11:00〜12:00 整体ワークショップ&サイン会
・テーマ:「整体的子育て〜からだに聞いてみよう!」(仮)
・会場:「丸善書店 名古屋栄店 6階特設会場」(アクセス)
・定員:70名(お子さん連れでもどうぞ)
・参加費:大人一人500円(要予約)
・申込み:丸善書店名古屋栄店 2階ナビゲーションセンター
 電話予約:052-261-2249(9時50分〜20時)

愛知県 知立市(終了しました)
・日時:10/16(土)15:00〜16:00 整体ワークショップ&サイン会
・テーマ:「整体的子育て〜からだに聞いてみよう!」(仮)
・会場:「正文館 知立八ツ田店 カルチャースクエア」(アクセス)
・定員:30名(お子さん連れでもどうぞ)
・参加費:大人一人500円(要予約)
・申込み:正文館 知立八ツ田店
 電話予約:0566-85-2341(10時〜22時)

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2010年08月11日

「夏の学校」終了

クレヨンハウス夏の学校2010が無事終了。

全国各地から集まってくださった大勢の受講生のみなさんや、素晴らしい講師陣の方たちに囲まれて、とても密度の濃い素敵な3日間を過ごせた。

講師の方々はみな、詩人や作家やミュージシャンといった方々だったので、やはり言葉とつねに向かい合っている人たちならではのある種独特の雰囲気をお持ちで、それがとても刺激になった。

「詩人たちの佇まい」とでも言えばいいのか、その「世界に対する構え」が帯びた独特の雰囲気は、今回いろいろご一緒させていただく中で、最もインスパイアされることであった。

今年の初めに放映されたNHKスペシャル「ふしぎがり〜まど・みちお 百歳の詩〜」に出てきた詩人まど・みちおさんのお姿にもいろんなインスピレーションをいただいたけれど、やはり学びは「先達と同じ空気を吸う」こと以上に素晴らしいものはない。


今回の講師の中には「魔女の宅急便」で有名な角野栄子さんもいらっしゃったので、食事の席で「これからの時代はぜったい魔女が必要だと思うんです!」と熱く語っていたら、「読んでみるといいわよ」と一冊の本をご紹介いただいた。

魔女に会った』(角野栄子、福音館書店、1998)。

ロビーで販売していたので、さっそく買って、もちろんサインもいただく。


(ワーイ。魔女のサインだ。)


今回の夏の学校は、北は北海道から南は沖縄まで、総勢400名以上の方々が参加されたそうだが、その受講生のみなさんの溢れんばかりのパワーは驚くべきものであった。

スケジュールを見ると、3日間朝から夜までイベント続きでほとんど合宿状態だったけれど、それでもみんな朝から夜までみっちり参加されて、そして大いに盛り上がる。

私も時間さえあれば「サイン会をお願いします」と言われて、ちょこちょこロビーの机の前に座っていたが、午前中並んだ人たちにサインを書ききったと思ったら、午後も夕方もそれぞれやっぱりどこからともなく行列が並びだすので、いったいどこからこんなにやってきたのかとビックリするくらいであった。

ある人など直前に帯状疱疹にかかり、痛くて椅子にも座れないというのに、「ぜひ先生の講座に参加したくて」と言って講座に参加してくださって、その熱心さにはもうホントに頭が下がるし、また、それだけの情熱を持ち続けられるその人の仕合せを想った。

クレヨンハウスを支えるファン層の底力を見た思いである。

噂では、全食オーガニックを実現した料理長渾身のクレヨンハウス特別メニューも、みなさんの食べる勢いがすごく「予想の倍は食べた」ということであるから、そのパワーたるや底知れぬ(笑)。

(いや、確かに倍は食べてしまうほどの美味であった。)

厨房はさぞや大慌てであったことだろう。


そんな熱い受講生の方々と、素晴らしい講師の方々に囲まれて、今回の夏の学校ではホントにたくさんのインスピレーションをいただいた。

これからそのいただいたインスピレーションのタネがどういうふうに育っていくかは私にも分からないけれど、でもとても素晴らしいものになっていくだろうということは確信している。

さてさて、それで夏の学校も終わっていよいよ短い夏休みであるが、お盆を開けたらまたダダダッと忙しくなる。

その前に終わらせられることは終わらせておかなくちゃな…ってアレ?それじゃ休みないじゃん(泣)。

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2010年08月03日

必死にもがく生き物を見よ

暑い。そして忙しい。

先頃発売された著書「子どものこころにふれる整体的子育て」の関係で、クレヨンハウスのイベントが続いている。

本の方も、おかげさまでなかなか良い売れ行きのようであるが、これはみな、この記録的猛暑の中を、まるでミツバチのように全国各地を飛び回って営業してくれているクレヨンハウスの精鋭部隊のおかげである。

「結ぶ人」の仕事は偉大なり。謝謝。


その販売促進もあって、先月あたりからサイン会やお茶会などポツポツと行なっているのだけれど、これから秋にかけて、さらに東京、大阪、名古屋と、あちこちの書店でサイン会やワークショップなどを行なっていく予定。(詳細が決まったらお知らせいたします)

9月には、ジュンク堂の池袋本店でもイベントを行なうことになったのだけれど、自分の大好きな書店であるジュンク堂に招かれて自分がしゃべるというのは、何だかとても不思議な気分である。

ジュンク堂のイベントは時間帯が夜ということなので、対象を大人向けに絞ることにして、「野口整体とシュタイナー教育の結び目」と題したトークショーになった。

今まであまり表立って「野口整体」と「シュタイナー教育」を並べて語るということをしてこなかったけれども、今回は「これも何かの機会なのだろう」と思って、思い切って語ってみることにした。

整体とシュタイナーの思想には、数多くの通底する共通点があるのだけれど、それをうまく語るための語り口というものが、まだ自分の中にうまく作れなかったのだ。

それで今まではっきりとした形で語ってこなかったのだけれど、今でもそれほど自信があるわけではなく、だから今回はちょっとしたチャレンジである。

どこまで何が語れるのかは、私自身ドキドキものだ。

でも二つの思想に興味のある方には、それなりに面白いことが語れるのではないかと思うので、よろしかったらぜひどうぞ。


さて、ところで今週末はいよいよ、クレヨンハウス総力を挙げての「夏の学校」の開催である。

私の担当講座の受講生の人数が、どうも半端じゃないことになっているらしいので、もう今からどうなることやらヒヤヒヤものであるが、まあそこらへんはもう跳んで踊って叫んで皆さんに熱をお届けするしかない。やるぜ。父ちゃん!

もし、はるばる全国各地からやってきてくださった皆さんに、「熱」が伝わり、「運動」が伝わり、最後におまけで「意味」が伝われば、とりあえず私のやるべきことは果たしたと言えるだろう。

そのために皆さんの前で必死に全身を使ってパフォーミングするのだ。

もちろん世の中、講座というのは「意味」だけ伝えれば仕事は完遂したことにはなるのだろうけど、そんなのツマラナイし、何より野暮だから、そんなことするつもりはさらさらない。一生ない。

私がやりたいのは、聞く人の心にボッと火が灯ってグルグル動き出すようなそういうことなので、冷たい知識のかたまりをアタマに向かってポンポン投げ入れていくようなそんなことは、まったく興味がない。

大人はともかく、子どもをそんな冷たいキャッチボールの捕手にさせておきたくはない。

「人から人へと何が伝わるのか」ということに関して、いまだに社会的な誤解が広く蔓延している。

知識偏重の空気はいまだ重たく私たちを包んでいて、ここから逃れ得た現代人は私も含めてほとんどいない。アーリマンの囁きはいまだ強し。

きっと私たちはもっと詩を語らなければならないし、歌を歌わなければいけないのだろう。あるいは黙って踊らなければいけないのかもしれない。

私は全身を使って語る一人のパフォーマーである。

私が言いたいことを知ってもらうには、私を見てもらうしかない。

私の一挙手一投足が、私の言葉だ。

目の前で何かを伝えんとして必死にもがく生き物を見よ。

ネイティブアメリカンに倣って、アタマに鳥の羽根でも差していこうか。

「鳥よ、お前のその軽やかなるディオニュソス的精神の力を、私に分け与え給え。」

あ、でも坊主頭だから差せないや(笑)。

じゃあ小林幸子か宝塚か。

…何かそれはイヤだな(笑)。

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2010年07月15日

「集中講義・精神分析」

集中講義・精神分析 下』(藤山直樹、岩崎学術出版社、2010)を読了。

いやぁ、面白かった。

ずいぶん前に「上巻」を読んでから、「下巻」がいつ出るのかいつ出るのかと待ちに待っていたのだけれど、諸事情により下巻の発刊が大幅に遅れてしまったらしい。

だから書店で並んでいるのを見たときには、すごい嬉しかった。

出版を心待ちにする本なんていうのは、そうそうあるわけではないから、そういう本に巡り会えるということはとっても幸せなことである。


とにかくこの藤山直樹さんという人の文章は、「読ませる」。

うねりが効いているというか、こぶしが回っているというか、何かそんな感じがあってグイグイ読ませる。だから面白い。そしてラディカルである。

この本は藤山さんの上智大学での講義が元になっていて(受けに行きたいなぁ)、タイトルの通り「精神分析」について語っているのだけれど、そこで語られていることはとてもラディカルなものなので、「整体」という違うジャンルに身を置く私であっても、非常に響いてくることばかりである。

だから、精神分析の人に限らず、セラピーやカウンセリング、あるいは整体やマッサージ、そしてスピリチュアルなものも含めて、人と一対一で向かい合うことを仕事としている人には、ぜひお勧めしたいと思う。

もちろんそれぞれメソッドによって出入り口は異なるわけで、例えば私だったらどんどん相手のからだに触っていくわけで、それは精神分析においてはタブーだから、そういう技法上の違いはあるけれども、でもそこで考えるべき事柄は基本的にそう違わない。

「人と人が向かい合う」という状況において、そこで行なわれているある種の「営み」、泣いたり、笑ったり、居眠りしたり、質問したり、お金を払ったり、そういう中で動いている「何か」を感じるセンス、そういうメタレベルのセンスは、その現場にどんなメソッドが入ってこようが変わることはない。


私がつくづく「この本は名著だなぁ」と思い、また「この人はエライなぁ」と思うのは、大抵の人が考えるとメンドくさくなってしまうから考えずにスルーしているようなことを、藤山さんは一生懸命考えていることである。

自分の立ち位置を危うくするようなこと、自分のやっていることを根源から否定しかねないようなこと、それを認めたら謝るざるをえないようなこと、そんなことを考えるのは誰だって嫌だろう。だからふつうは意識にのぼらない。

けれども藤山さんはそういう誰もが嫌がるようなことときちんと向き合っているのだ。

「それは精神分析家なら当たり前なのだ」と言われてしまうかもしれないけれど、でもやっぱりそういう「タフなこと」ってなかなかできることではない。

少なくともそういうある種「ドロ臭いこと」を赤裸々に表立って語る本はあまりない。


上巻にこんな個所がある。


『普通の人間関係で、苦しい人がいたら「大丈夫よ」とか言ったりするでしょう? 「じゃあ、こうしたら」とか、「私が一緒にそばにいてあげる」とか言うでしょう? こういうアクションは精神分析では全部禁じられているわけです。「大丈夫よ」と保証しない。「よくわかるわ」と安心させない。ただ、「よくわかるわ」と言いたくなるのは事実です。そういうとき分析家はどうするかというと、「あなたは、私に、よくわかるよ、というふうに言ってほしい気持ちを強く持っているけれども、それが私に伝わっていないのではと心配なんでしょうね」と、たとえば、言うんです。自分がそういう気持ちになったということは、患者が必ずそういう無意識的な圧力を加えてきているんだということを想定して、そこから患者の気持ちを理解して、患者の内部を理解するというワークをこころのなかでやって、そこである言葉が生成されたら口に出すということ、そういうプロセスをやり続けるんです。それ以上のことをやらないんです。つまり、保証や激励や助言や命令や禁止といったアクションを差し控えてもちこたえます。直接的に何かを与えないんです。そういうことが何で意味があるのかということは難しいけれど。鮨屋でどうして肉は握らないのかみたいなもので、そう決まっているんです。でもそれには何かすごく意味がある。実際それで患者は変化していく。つまり分析家の第一の仕事は、もちこたえること、です。』
(『
集中講義・精神分析 上』藤山直樹、岩崎学術出版社、2008、p89)


いやぁ、なかなかタフなことをやっている。これはなかなかキツイ。どっちにとっても。

精神分析がここまで「考える」ということを重視しているというのは初めて知ったけれども、こんなにタフにガシッとしたことをやっているんだなあ。

整体は「考えること」よりも「動くこと」を重視しているので、自分の中で起きていることを言葉にしていくというようなことは、メソッドとしてはあまりない。

自分の中で起きていることは、そのまま動きにして表現してしまえば良いとしているからであり、それこそが整体の「活元運動」という思想である。

たしかにそれを意識的にどんどんやっていけば不必要に病むことは少ない。

多くの病は、それを「考えること」もできなければ「動くこと」もできずに、結局「動かされてしまうこと」によって生じているのだと考えれば、それを先んじて動いていくことによって回路を開いて流していくというのは、一つの出入り口である。


けれども精神分析が「考えること」を重視しているように、「あえて出さずにとどめる」という方法、さらには「とどめて昇華する」という方法、そういう方法もまた大事であると私は思う。

「とどめる」ということの端的なものは「考える」ということであるが、それはともすれば痛みを引き起こすようなモノを、表に出してしまうことなく、何かに投影してしまうこともなく、身の内に引き付けて、自分の生命力を注ぎ込んで活かしていく、ということである。

それはやはりかなりタフでないとできないことである。

人間は考えたくないことは決して考えない。

それはキツいからである。大変だからである。苦しいからである。自己破壊だからである。

基本的に人はみなそういうものを「外部化(転移)」して、ブツブツ言うことで解消しているわけだが、それをもう一度身の内に引き込んで、向かい合って、そして自分の中で動かしていくということ。

それにはかなりタフなアタマと深い呼吸を身に付けなければならないが、でもそれもまたやっぱりけっこう大事なことである。


…と書いていてふと思い出したのだけれど、そういえばむかし私はそれを「熱いボール」に喩えてお話したことがある。


火傷してしまうような熱いボールがあって、それを持ち続けなければいけない。
置いてしまうと死んでしまう、そんなボールがある。
自分が持っていれば自分が火傷する。
じゃあ他人にパスする。すると今度はその人が火傷する。
それは申し訳ないから自分で持つ。熱い。火傷してしまう。
そこで神様仏様を連れてくる。
神様仏様は手のひらが厚いから火傷しない。そのボールを預かってくれる。
ポンと預ける。ふう、やれやれ。一安心。
でも預けていると、そこを離れるわけにはいかない。
やっぱりもう少し先まで行きたい。となると結局自分で持つしかない。
自分で持つ。やっぱり熱い。どうすんだこれ。
アチアチ言いながら手の中でポンポン放りながら歩き続ける。
ときどきうっかり握ってしまって火傷しながら、歩く。
ときどきやっぱり神様仏様の手を借りながら、歩く。
歩く。歩く。歩く。
アチ。アチ。アチ。
ひたすら歩いていると、だんだん火傷する回数が減ってきた。
その「ポンポン」の仕方が上手になってきた。
熱いボールの「扱い」を身に付けはじめている。
むしろそれを愉しみだしている自分がいる。


そんなお話をしたことがある。

誰しもその「ポンポン」の仕方を身に付けていくというのが、大事なような気がするのだ。

人にぶつけて他人に火傷を負わせるんじゃなくて、自分で握って火傷してしまうのでもなくて、「ポンポン」して持ち続けるということ。

ともすれば火傷しそうなものを、手の内で遊ばせる技術。

熱さにすぐさま火傷せず持ちこたえるためには、深い呼吸と肚を作っていくことが大事だし、火傷しそうなものを手の内で遊ばせるためには、こわばりのないゆるんだ腕を持つことが大事だ。

そしてそれを具体的な行動として動いていくなら、からだの体力が必要だし、頭の中で知的な運動として行なうのなら、アタマの体力が必要である。


精神分析では、それを「考える(表象する)」という知的な訓練でもって行なっていくらしいが、それもまたなかなかエライことである。

この本を読んでいると、精神分析家の人のアタマのタフネスは、ひょっとしたら尋常でないかもしれない、と思う。

シュタイナーの行法の本を読んでいても、「タフなアタマだなぁ」と呆れることはしばしばであるが、藤山さんもそれに負けず劣らず訓練を積んでいるようである。

こういう本を読んでいると改めて思うけれども、自分も含めてみんなもっとトレーニングをしていかなくちゃいけないなぁ、なんてつくづく思う。

う〜ん、がんばろっと。

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2010年06月28日

ムシムシ天国

だんだんムシ暑くなってきた。

じめっとしたこの季節、「イライラしたらテルテル坊主の首でも絞めておけ」とは私がしばしば言っていることだけれど、ここ最近、中毒っぽい症状が出ている人も増えてきていることだし、ホントに何かそういうことをやっておくといい。

まえに講座の後にさらしを用意して、参加者の人たちみんなでテルテル坊主を作ったけれど、今日もお茶会に来てくださった方々みんなで作った。

そして、たっぷり首を絞めて、上から吊るして、「明日天気にな〜れ」とみんなで祈る。

はい、これで晴れ晴れしたら、笑顔でまいりましょう。


さて、そんな梅雨模様の最近ではあるが、午前中に少し時間がある時は、晴れ間を縫ってときどき代々木公園に行って、ハトやらスズメやらアリやら蚊やら何だかよく分からない虫やらに囲まれて、それらと戯れつつ本を読んだりパソコンをパシパシ打ったりしている。

最近は、木陰であっても湿気でべたつく季節になってきたが、まぁそれでも気温自体はまだ涼しいので、森でボケッとしたりしているわけだけれど、だんだん虫たちも増えてきたので、ちょっとボケッとしているとまわりにいろんな虫がやってくる。

気がついたら腕や首のところを這っていたり、本やパソコンの上を歩いていたりして、それらを手で払ったり息でふーっと吹きとばしたりしながら、本を読んだりパソコンを打ったりしているので、しっかり集中できない。気づかぬ間に刺されたりしている。ボリボリ。かゆ。

「それなら、そんなところに行かなければいいではないか」と思われるかもしれないが、それでも私はあえて行くのだ。

だってやっぱりそういうごちゃごちゃとした自然の中に身を置くっていうのは大事だ。

かゆいけど大事。大事だけどかゆい。ええいもう!


今年はどうもムシが多く湧いているようである。

何年か前にもそんな年があったのだけれど、そのときがどういう年だったのかは今はっきりとは思いだせない。

けれども何かそういう虫が湧くような環境というのは、何かいろんなことにつながるような気がしているので、ちょっと今年は意識していろんな出来事を観察してみようと思っている。

日本では古来、虫とは「自然に涌いて出てくるモノ」を称して呼んでいた。

だから字を見れば分かる通り、蛇(へび)や蛙(かえる)や蜥蜴(とかげ)なども含めて、「虫」呼ばわりしていた。

そしてさらに言えば、そのように自然の中にいる小さな生き物たちにとどまらず、目に見えないようなモノに対しても「虫」という呼称を使っていた。

たとえば私たちの心に涌いて出る小さなモノたちである。

「虫の知らせ」や「腹の虫」などという言い方は、まさにその表れである。

それらは私たちの意識とは別に「おのずから涌いて出てくるモノ」だから、やはり虫なのである。

私たちの意図や意識の外にあるモノ。おのずから涌いて出てくるモノ。


パソコンのような線形的なプロセスを持つシステムにとっては、バグ(虫)はシステム全体にフリーズ(活動停止)を起こさせるような致命的なクラッシャーとして働く。

直線的に働くプログラム上にバグが一匹いれば、そこでコマンド(命令)は次に行くことができずに停止してしまうからだ。

しかし人間のような複雑系にとっては、バグ(虫)は逆に、新たな秩序を生みだすためのとても大事な契機になることがよくある。

まさに文字通りの「バタフライ効果」(⇒Wiki)と言えるかもしれないが、バグが一匹いることで、その後のステップが予想もしない方向へと大きく飛んでいくことになる。

つまりはハエが顔に止まったり、腹の虫が一匹収まらぬことで、事態は思いもよらぬ方向へと進展することがあるわけである。

だから虫とは、人間にとって「違う文脈へと移行する徴(しるし)」としてもある。

線形的に働こうとする人間の意識を、中断させ、破綻させ、困惑させ、違う文脈へと否応なしに持っていく。

勉強は中断され、恋の視線は妨げられ、愛の確認は集中を削がれ、冒険の物語からは引き戻される。

どれだけの人々が、虫にその物語の中断を余儀なくされたことだろう。

そのように虫とは、「もぞもぞ動いて」「注意を逸らし」「痒さや痛さ、煩わしさを引き起こす」存在として、人間の意識に介入してくる。


でも日本人は自然の中に八百万の神々を見出すように、人間以外のモノたちに対してもデモクラティブなところがあって、それら「外部から到来するモノ」もまた大事にして、その言わんとしているところに積極的に意味を見出そうとしてきた。

「何だかよく分からないけれども私を気にさせ煩わせるモノ」に対するセンシビリティがあった。

たしかにそのような「意識以前」は、とても大事なサインであることが多い。

無意識のうちにキャッチしているもの、何かの気配、予感、胸のざわめき、そのようなかすかな徴を「虫の知らせ」と呼んで注目してきたのは、多様性のある自然に囲まれた日本人が育んできた大事なセンスであったろう。

例えば、人が来るとぴょんぴょん飛んで逃げるハンミョウという虫を「ミチオシエ」なんて呼んで、「道を教えるモノ」として取り上げたりするセンスなんて、何とも繊細で、優しくて、幽玄で、色気があって、まるで月のような思考である。

ある種とってもシャーマン的だし、魔女的だし、呪術的なセンスである。

でもこれからの時代、おそらくとても大事な感覚である。

どんな些細なことにも聞く耳を持つということ。

じつはそこにこそインスピレーションの秘術が隠されている。


ということで、だからこそ私は蚊に刺されてまでも、虫に囲まれて森で本を読むのだ。

何だか途端に色気もへったくれも無くなるが、でもそういうことなのだ。

てゆうか全然違うことのような気もしてならないが、でもそういうことなのだ。

しかし、カイーな。こんちくしょう。

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2010年06月10日

新刊本「整体的子育て」発売!

いよいよ本日発売日です!


子どものこころにふれる整体的子育て
「子どものこころにふれる整体的子育て」(クレヨンハウス)
⇒こちらで購入できます。


いやぁ、おかげさまさまでとても素晴らしい本ができました。

自分で言うのもなんだけれど、我ながら「いいこと書いてあるなぁ」と思う(笑)。

「そうそう、そうなんだよねぇ、そのとおり」と、書いている本人が読んでいて深く共感して頷いてしまうくらいなのだから、やっぱりいいこと書いてあるのだ。…たぶん。

なんていうか「うん、オレも頑張ろう」って元気になるんだよね。

だから朝とかページを開いてはサッと読み返し、自分を元気づけている。

まぁ、自分で書いてるんだけど(笑)。


帯には「野口整体+シュタイナー教育」というキャッチコピーが入っている。

こういうキャッチコピーは出版社のほうで文面を考えているので、私が考えているわけではないのだけれど、たしかに私の講座の二大柱であるので、そのコピーで打ち出している。

けれども読んでみれば分かるが、この本には野口整体の用語も知識もそんなに詳しく入っているわけではないし、シュタイナー教育に至ってはほとんど一言も専門用語が入っていない。

というより「どこにシュタイナーが書いてあるの?」という感想を持つ方もいるかもしれない。

「シュタイナー教育と書いてあるから勉強になるかと思って」とか、何かそういうことを期待して手にされた方には正直申し訳ないが、本書はあんまりそういう勉強にはなりませんのであしからず。

でもそれは、「シュタイナー用語を一言も使わずにシュタイナーを語りたい」と願い、また、「整体の専門的な側面を最小限にとどめて整体を語りたい」と願った、私自身の願望が込められた本であるので、申し訳ないがその辺はご理解いただきたいと思う。


たしかに私のお話していることには、野口整体とシュタイナーの思想がどっと流れ込み、また複雑に入り混じっている。

でも私自身は先ほども述べたように、できたら「整体を整体の用語を使わずに語る」とか、「シュタイナーをシュタイナーの用語を使わずに語る」とか、とにかくそういうことを目指したいと思っているのだ。

なんて言うか、極端なことを言えばいつか、「酒蔵での日本酒の発酵における微生物の働きぶりを語りながら、それを聞いているうちにシュタイナー教育が何をやっているのか分かってくる」とか、「レジで行列ができていたときに、どの列に並ぶと一番早く会計が済ませられるのかということを語りながら、それを聞いているうちに整体の指導法が見えてくる」とか、そんな語り口で語りたいと思っているのだ。

兎にも角にもそういう仕事が、私は好きなのだ。

「何言ってんだ。もっと真面目にやれ」とか言われてしまうと、これはもう「スミマセン」と小さくなるしかないけれど、でも好きなんだからしょうがない。

だからとりあえず最初に謝っておく。スミマセン。


ところで、帯には「こんなにラクにしてくれる子育ての本があったでしょうか?」とかいう文面も入っている。

先ほども言ったが、こういうキャッチコピーは出版社のほうで考えているので、デザインが上がってきて私も初めて見るのだ。

そうですか。「ラク」ですか。 ふ〜ん…やっぱりそうなんですかねぇ。

私はしばしば講座の参加者の方や、ブログを読んでいただいた方に、「お話を聞いていて、すごくラクになりました」という感想をいただく。

そういう感想をいただくたびに、「そうですか。それは何よりです」とか何とかお答えしているのだけれど、正直毎度のことながら不思議でならない。

だって私はべつにラクにしてあげてるつもりなど無いのだ。

でもいろんな方に同じ感想をいただくし、自分の本の帯にまで書かれてしまうくらいなのだから、どうやらたしかに私の話には「人をラクにする効能」(笑)があるらしい。

本人だけがよく分かっていない。

本人は「元気づけよう」とは思っているが、「ラクにさせよう」とは思っていない。というよりむしろ「しっかりやれよオマエ」と言っているつもりなのだが、みなさんからは「ラクになりました」という感想をいただく。

ここに「大いなる謎」がある(笑)。 不思議だ。

その謎を解き明かすためにも、私は今日も自分の本を読むのだ。

いや〜、でもそんなことは抜きにしてもいい本だなぁ……(笑)。

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2010年06月05日

「嫁と姑」を読む

毎月、野口先生の著書を読む「読書会」というのをやっている。

ちょっと前に、同じく野口先生の著書である「碧厳ところどころ」を読んだ講座の音声ファイルをアップしたけれど、あんな感じで私が解説しながらみんなで野口先生の文章を読むというスタイルで、一文読むたびにみんなで思ったことを言い合って、毎度ワイワイとなかなか盛り上がっている。

それで一冊の本を読み終えるたびに、次に何の本を読みたいかみなさんにリクエストを訊ねているのだけれど、今回から「嫁と姑」という本をテキストにすることに決まった。

「嫁と姑」。 …なかなかディープである(笑)。

何ですかみなさん。ディープなのが好きなんですか?(笑)

こんなディープな本をテキストにして、私のような若輩者が読書会などできるのかなと一抹の不安もあったのだけれど、先頃、その読書会を行なってみたら、これがまぁまた盛り上がった。

出てくる出てくる、エピソード(笑)。

何だかみなさん溌剌としていらっしゃる。

嫁という立場からの姑に対する思いもあれば、姑の気持ちが判るという声もあり、みんなで賑やかにワイワイと言い合っている。

私の入る余地など無いくらいであり、まぁまことに結構なことである。


野口先生の本は何冊も出ているけれど、その中に「潜在意識教育叢書」と題したシリーズがあり、そこでは人間の潜在意識の働きを説いている。

今まで読書会で取り上げてきたテキストも、「叱言以前」とか、「背く子背かれる親」とか、「病人と看病人」とか、人間の関係性や無意識に行なっている人間の行動といった、そういうものを扱っている本を読んできた。

前回のテキストである「病人と看病人」も非常に深い話であったが、「嫁と姑」なんていうのもまた輪をかけてディープである。

ディープすぎて野口先生でも一冊にまとめられなかったと見えて、上下巻のセットになっているくらいである(笑)。

なんだか回を進めるごとに、ますますディープな本が選ばれているような気がしてならないが、このままいくと果たしてこの先いったい何を読めば良いのだろう。

でも「嫁と姑」を久しぶりに読み返していて気がついたのだけれど、今までのテキストは人間の関係性といっても、一対一の人間関係が主だったのに対して、嫁と姑という関係性になると、これは三角関係を描いているということなのだ。

二人の女がいて、そしてその間に一人の男がいる。

そりゃあ、いろんなことが起きてもしょうがない。

でもそれが世界中のいたるところで行なわれている出来事なのだから、きちんと考えていくのは大事なことだろう。


一人の人間を考えるということと、二人の人間関係を考えるということはずいぶん違う。

けれどもそこにもう一人加わって三人の人間関係を考えるとなると、これはさらに違うものになる。

相互作用する因子が三体あるという「三体問題」(⇒Wiki)は、いまだに科学の世界でも解きえないくらいの難問であるのに、それが人間関係となったら、これはもうカオスであると言って差し支えないだろう。

それに嫁と姑の関係となれば、そこに旦那が関わってくるのはもちろんのこと、舅も加われば小姑も加わるし、本家分家に親戚付き合い、さらには近所付き合いまで混じりあって、何だか訳の分からない力学が働き始めるのは、当然と言えば当然である。

いろんな背景を背負った人間関係においては、ある二人の間で何か問題が起きたからといって、それが当事者同士の問題であるとは限らなくなってくる。

お互い何か別のものを背負ってその言い分の争いが、たまたま二人の間で勃発しているだけかもしれない。

お互いにゴーストを背負った代理戦争、けれども当人たちはなかなか気付かない。そういうことはよくあることである。

そんなことを考えると、この「嫁と姑を考える」ということは、すべての人間関係の基本になってくるかもしれない。


「人が病む」とは、いったいどういうことなのか。

「嫉妬」や「愛情」といった人の感情というものは、いったいどういう形で現われるのか。

「なんでこんなことをするんだろう?」「どうしてこういうことになってしまうんだろう?」、そんな疑問を持ったときに、ちょっとこの本で語られているような視点から人間関係を眺めてみると、ずいぶんクリアに見えてくることもあるかもしれない。

嫁と姑の関係に悩んでいる人も、そのようなこととは無縁な人も、この本は読んでみるとなかなか面白いかもしれない。(購入は全生社のHPからどうぞ)

posted by RYO at 21:49| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月13日

忙中いろいろ

忙しさにかまけていたらブログの更新がずいぶん滞ってしまった。

いろんな大きな講座やワークショップが終わったのもつかの間、来月中旬に出る本の校了が差し迫っているので、校正やら書き直しやらをさくさくと終わらせていかなければならない。

今回の本はもともとクーヨンに連載していたものを本にまとめるということだったので、まあ楽チンかなと思っていたら、意外とやることがいっぱいあるのだ。

連載時の文体を変えることにしたので、全部見直して手を入れることになったし、判りづらい所にもう少し補足説明を加えるとか、手当ての具体的な説明のページを加えるとか、あらゆるところで増量を行なっているので、結局いろんな作業がある。

しかもそんな校正作業の合間の先週末は、自然育児友の会で二日間の講演、講座と大きなイベントがあったのだ。

初日は初の師弟対談ということで、いったい人前で師匠と何をしゃべればいいのか非常にやりづらい状況(笑)での講演会だったし、夜は去年は残念ながら中止となった幻のイベント「ママもたまには飲みたいし」改め「まま猫亭」のオープンだったし、次の日は体育館を使っての大講座だし、しかもその合間にいろんなお手伝いがあって、もうなんだかてんやわんや。

今はなんとか乗り切ったのでボーッとしている。ほげ。


が、まだまだやるべきことは終わってない。ほげほげしている場合じゃないぞ。

今日中に「はじめに」の書き直しをしなければいけないし、明日は朝カルの「ママは子どもの整体師」講座で、その準備もしなければいけない。

しかも明日はクレヨンハウスの取材が入るのだ。

「ようこそ。私の講座へ…」とか何とか言って取材陣を最高のスマイルで歓待しつつ、講座をきっちりかっちり進めねばならない。

なんだってこう世の中いろんなことは、まとまってドサッとやってくるんだろうか。


でもそんな忙しい中でも、それぞれはどれもとてもいい感じで仕上がってきたので、それはとても仕合わせである。

師弟対談は、「とても面白かったです」といろんな方からご感想をいただけたし、夜の「まま猫亭」は予想以上にパパ参加が多く、非常ににぎやかな宴となってみなさんの親睦も深まったようだし、次の日の子育て講座も盛況のうちに終えることができた。

本はタイトルも決まったし、表紙もいい感じでできてきたし、中のレイアウトやデザインもだいぶ決まってきた。いろいろできてくると何だかホクホクしてくる。

ちなみに本のタイトルは、「子どものこころにふれる整体的子育て」です。自分で言うのも何なんですがとても素晴らしい本になりそうです。いやかなり良い本です(笑)。

(追記:たったいま表紙のデータが来たのでアップします)

みなさんぜひぜひ買ってくださいな。

6月10日に書店に並びます。クレヨンハウス刊。


ところで自然育児友の会のイベントは、母の日にまつわるイベントであったので、全体の集まりの席で、私の母の作ったパッチワーク作務衣を着て、それにまつわるご挨拶をしたのだけれど、それも聞いていた人から「涙が出そうになりました」と、なんだか嬉しい感想をいただいた。(私の母はパッチワークの先生なのです)

そんなことを知ってか知らずか(って知るわけないか)、昨日母から「あんたのイラストで今度パッチワークを作るから持ってきて」という内容のメールが突然送られてきた。


え……?
俺のイラストでパッチワーク?


いったいどんなものが仕上がるのやら…。

完成した暁にはこちらのブログで発表させていただきますので、乞うご期待。

しかし、とにもかくにもまずは本の作業を今日中に終わらせねば。

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2010年04月03日

歌を忘れたカナリヤは

昨年末に亡くなった知人の偲ぶ会が先頃あったので、参加してきた。

精神障がい者だった彼は、とても明るくいつもみんなの話題の中心になるようなそんな人で、私のボディワークの時間にも必ず参加して、場をにぎやかにしてくれていた。

その彼が子どもの頃によくお母さんに、「カナリヤ」の歌をせがんでは歌ってもらっていたという話を聞いた。

彼が亡くなる数日前に、お母さんが彼と二人で道を歩いているときに、彼が突然思い出したようにそのことを語り、道すがら二人で一緒に歌ったそうである。

いい話である。

ひょっとしたら彼も何かの気配を感じていたのだろうか…。


ご存知の方も多いかと思うが、大正期を代表する童謡詩人である西条八十作詞の「カナリヤ」とは、こんな歌である。



歌を忘れたカナリヤは
後ろのお山に棄てましょか
いえいえそれはなりませぬ

歌を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に埋け(埋め)ましょか
いえいえそれもなりませぬ

歌を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか
いえいえそれは可哀相

歌を忘れたカナリヤは
象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた歌を 思い出す


う〜ん…美しい歌だなぁ。

最後の光景など、その美しい画がありありと目に浮かぶ。

子どもの彼が、この唄のどの部分に魅かれて母にせがんだのかは分からない。

でもこの歌は、その意味をじっくり味わってみるとホントに深いものがある。

「歌を忘れたカナリヤ」とは、いったい何なんだろうか。


カナリヤというのは、とてもかよわくフラジャイルな存在である。

かよわく、はかなく、傷つきやすいものの象徴として、カナリヤはある。

昔、人は炭鉱の採掘に入るときにカナリヤを連れて入った。

炭鉱は、ときに極めて危険な有毒ガスが発生することがあって、それに気づくのが一瞬でも遅れると大勢の死者が出かねない、そんな危険な現場である。

だから彼らはカナリヤを連れて入った。

かよわく、はかなく、傷つきやすいカナリヤは、ほかの誰よりも早く毒ガスに反応し、まず歌うのをやめ、そして倒れる。

人はその姿を見て危険を知り、その場から逃げるのだ。

誰よりも早く傷つくカナリヤは、その身を呈してみんなに危険を知らせる。

「これ以上ここにいてはいけないよ。これ以上進んだらもっと傷つく者が出るよ」と。

誰よりも早く傷つく者は、誰よりも早く気づく者である。


私たちの誰の中にも「かよわきもの」はある。

誰しも、かよわく、はかなく、傷つきやすい。

私たちの誰の中にもカナリヤはいて、そして私たちの誰もがカナリヤだ。

もしそのカナリヤが歌を忘れてしまっているなら、それはいったい何故なんだろう。

いや、そもそも私たちは、自分の中のカナリヤときちんと向き合っているのだろうか。

私たちは「人は強くならなければならない」とそう信じ、かよわさや、はかなさや、傷つきやすさは克服すべきものと、そう思ってやしないだろうか。

そして自らの内にあるそういうものを、脇へ押しやり、目を背け、無視してしまってはいないだろうか。「こんなことではいけない」と、必死にそれらを棄てたり、埋けたり、ぶったりしてきてはいないだろうか。

もしそうだとしたら、カナリヤから歌を奪い、命まで奪おうとしているのは、ひょっとして私たち自身であるかもしれない。


はかなさや、かよわさや、傷つきやすさといったものは、克服すべきものなどではなく、むしろともに寄り添いながら生きてゆくものであるだろう。

それらと静かに添い寝して、そのかすかな歌声に耳を傾けていくことが、私たちに何か大切なことを思い出させてくれる。

はかなさや、かよわさや、傷つきやすさは、私たちに大切なことを気づかせる大事な能力だ。

傷つきやすいことは、決して悪いことではない。

むしろ傷つきやすい人こそ、まわりに大切なことを教える役目を担っている。

私は精神障がい者の人たちと付き合うたびに、まるでそのことを教えてもらっているかのようで、亡くなった彼もまた私にそのことを教えてくれていたのかもしれない。


自分の中の「傷つきやすさ」に、目を背けたり、耳をふさいだり、あるいは陰に追いやったり、そんなことをしないで、ぜひとも静かにじっくりと添い寝をしてあげてほしい。

耳を澄ませばきっとあなたの中のカナリヤは、今も小さな声で儚く美しい歌を歌っているに違いない。


象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に浮かべれば…

きっと
忘れた歌を 思い出す

posted by RYO at 18:58| Comment(10) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月14日

まっとうするための表現を

暑くなったり寒くなったりして、最近の気温の変化はなかなか激しいものがある。

ここのところのこの急激な気候の変化で体調を崩している人がずいぶん多い。

春はもともと変動が多い季節だけれど、あたりを見回すといつもこんなにいっぱいいろいろ出てきたかなと思わずにはいられないほど、変動を起こしている人が多く相談も多い。

だいたい三月四月頃は、からだが弛んでくるのでさまざまな変動が出てくる季節である。

とくに昔の「やりそこない」みたいなものが出てくる。

怪我したまま放っておいたとか、すごいショックを受けてそのまんまだったとか、ひどい症状だったのに無理やり薬で抑えて何かしなきゃいけなかったとか、何かそんな「終わっていないこと」が出てくるようである。

そういうことたちは、何がしかの形でからだにずっと残っていて、隙があればいつだってもう一度出てこようとしている。


いや〜、ホントに何事もきちんとまっとうせにゃいかんのう。

「イヤなことはイヤだと言う」とか、「やりたいことはやる」とか、「泣きたいときは泣く」とか、「叫びたいときに叫ぶ」とか、そういう至ってシンプルなことが、とっても大事なんだろう。

ただきっと、その表現方法をみな知らないのだ。

自分の中にあるものをそのまんま表に出したら、人に迷惑をかけるかもしれないし、誰も受け止めてくれないかもしれないし、あるいは馬鹿扱いやキ○ガイ扱いされるかもしれない。

でもそこで、「だからやっぱりやめておこう」というんじゃなくて、「だとしたらどのように出せばいいんだろう」というふうに考えたい。

「要求をどうやって表に出してゆくか。」

それはホントに人間の普遍のテーマであるのかもしれない。


子どもは、イヤなことは「イヤだ」と言うし、やりたいことは「やりたい」と言うし、何のためらいもなく素直に表現している。

それは例えれば「原始アート」のような、素朴さをもった表現である。
(もちろん言語の習得以前に、もっと素朴な「野生の表現」の時代はあるが)

「イヤなことをイヤだと言う」とか、「やりたいことをやりたいと言う」とか、そういう「言葉」による直接的な表現がシンプルで素直な「人間の子どもの表現」だとしたら、もっと高められた表現にしていくのが「人間の大人の表現」であり、「芸術」なのだ。

言葉はもっとも抽象化されているから、イヤなことを「イヤだ」と言ったときに、どれだけ自分がイヤだと感じているかというその「イヤさ」は、本当にすべてなんて表現し切れない。

だって「イヤ」なんていうのは、もっとこう生々しくて身悶えするような、そういうものだろう。

この私の「イヤさ」を、もっとそのまんま具体的に表現したいという思いが、「イヤ」に突き動かされる手や足や内臓や、あるいはそれを感じる感情や、それを見つめる思考までもフル活用して、表に現していくのだ。


それがどれだけ悩み抜かれているか、深みにまで至っているか、高みにまで上っているか、あるいはきめ細かくすくい上げているか、大きく引き受けているか、そういったそこに込められた「運動」が、表現の圧倒さにつながって、人の心やからだに響くのだ。

「そこに込められた運動」は絶対に人に伝わる。これは私の確信だ。

高速回転するコマが、まるで止まっているかのような静けさをたたえていたとしても、そこに込められているあらゆるものを弾き飛ばすようなエネルギーの凝縮は、人は絶対感じている。

クーヨンで神谷さんとわらべ唄の対談をした時にも、わらべ唄のそのエネルギーは感じたし、内田樹先生の時折ほとばしるセンテンスにもそれを感じるし、あるいは本や踊りや絵や建物や、さらには人の言葉や顔や姿勢に至るまで、そこに「込められた運動」は、やっぱりどこか感じている。

そういう表現ができることは、たぶんとっても仕合せなことなんだと思う。

まさに内の世界と外の世界がぴったりつながったような、そんな仕合せなことである。

そしてそんなものに時折出会えた瞬間も、私はとても仕合せを感じるのだ。

「ああ、なんて美しいんだろう。人の営みは」と、そう思うのだ。


「出るもの」ではなく、「出し方」にその人の生きざまが表れる。

いろんなイヤなことを引き受けました。はい、じゃあそれをどう出しますか、と。

そのまんま外に出す人は…、まぁそのまんま出す人なんだろう(笑)。

別にかまわないけれど、それはそんなに美しいとは言えない。

引き受けたものをいったん全部自分の中に入れて、それこそ中世の錬金術師たちが行なっていたように、釜に入れて熱や圧力を加えながらそこでふつふつと練り上げて、美しい貴金属として取り出してみせるような、あるいは「賢者の石」(⇒Wiki)へと結晶化させてゆくような、そんな営みに私は心を打たれてならないのだ。

べつに「賢者の石」が素晴らしいんじゃない。その結晶化のプロセスこそが素晴らしいのだ。

錬金術とは、鉱物を操作して変容させることで、術師の心的世界においても同じ変容を起こさせる、そういう物心一体の手法であり、その求道者たちが錬金術師と呼ばれる人たちだった。

東洋が瞑想を通じて果たそうとしていたことを、西洋は鉱物を通じて果たそうとしていたのだ。

今も昔も、東洋では精神が踊り、西洋では物質が踊る。

どちらも素晴らしい営みであり、表現である。

心的世界の道をゆく者、物的世界の道をゆく者、おのおのが自分の得意とする分野で自分なりの表現を磨き、おのれの内にある欲望を、人を感動させるような、世界をより良いものに変えてゆけるような、そんなものに変容して提示していければ、それがいいんじゃないか。

表現ということ。永遠のテーマかもしれない。

まっとうしよう。

posted by RYO at 20:55| Comment(7) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月22日

モノからコトへの相転移

感染症は実在しない』(岩田健太郎、北大路書房、2009)という挑発的なタイトルの本を読了。

以前紹介した『傷はぜったい消毒するな』(夏井睦、光文社新書、2009)もそうだけれど、医療の現場で実践されている方がこのようなタイトルをつけるには、それ相応の確信を持って世に問うていることがあるわけで、この本もまたとてもラディカルなところから病気というものを問うている。

著者の岩田さんは感染症の専門家で、まだ三十代という若さである。

自分と同年代の若手(ちょっと先輩だけど)がこうして頑張っているのは嬉しい。

この本は以前ちょっとだけ触れた「構造構成主義」というメタ理論を使って、感染症、あるいはその他の病気についての捉え方を考察した本である。

…とか紹介しておきながら何だけど、「ふ〜ん、で、その『構造構成主義』って何?」と言われてしまうと、私も正直「いや、実は私もよく分かんないんだけどね…」と口をごにょごにょするしかない。

まぁでも強いて言うなら、「何かね、いいんだよ。態度が。」とでも言っておこう。

態度というのは、整体や武術的に言い換えるなら「構え」ということになるのかもしれないが、とにかくその構えの佇まいが良いのだ。

「平たい構え」とでも言えばいいか。「対話する構え」がある。

まあともかく、本書はその「平たい構え」である構造構成主義という思索ツールでもって、感染症や病気といったことについて平たく考えた本なのである。


しかし「実在しない」なんて、なかなかインパクトのある言葉を繰り広げたものである。

しかも目次を見てみれば、「新型インフルエンザも実在しない」とか「他の感染症も実在しない」とか、なかなか激しく繰り出している。

「病気は実在しない」なんて断言されてしまうと、多くの人は「はぁ?」という感じになってしまうかもしれないが、ここで書かれている「実在」という言葉の意味は、おそらく一般的に使われているニュアンスとちょっと違う。

まぁでも、そのへんを突っ込んでいくと、「実在とは何か」という哲学的難題を克服しなければならなくなってしまうのでここでは触れない。

けれども、現実的にというか臨床的にというか、そういう極めてリアリスティックなところで、この「実在」というものがネックになってくるということは、私もしばしば経験していることである。

だから私の中では「実在」ということについては、「哲学的トピック」としてよりも、「現実的トピック」として存在している。


この「実在」ということを考えるとき、私はいつも「ロボットの反乱」という古典的なストーリーを思い出す。

人間が自分たちのために作ったロボットが、やがて意志を持って人間に反乱を起こし、逆に人間を支配するようになる、というよくあるお話。

最近でも、「ターミネーター」や「マトリックス」、「ウエストワールド」といったハリウッド映画などで繰り返し語られる、古くて新しいテーマである。

人間の「ツール」であったはずのロボットが、「実在」となって人間たちを逆に支配(ツール化)しはじめる、という構図。

これだけ繰り返し語られるということは、おそらく人類の持つ根源的な恐怖なのだろう。


「方法」や「技術」が確立してゆくに従って、やがてその構造が「実在」化しはじめ、実在し続けるために人や物を「素材・要素」化しはじめる。

「作り物(バーチャル)」が、実在化するために周りの「実体(リアル)」を食べ始める。

虚の自己目的化あるいは自己組織化。

虚が実を生み、実が虚になる。

でも見渡してみれば、その構造は現実社会のいたるところに見られる。

「お金」然り、「思想」然り、「社会」然り、「制度」然り。

お金はあくまでツールであったはずなのだが、それが目的化している人が今どれだけ存在しているだろう。


「病気」というのも、もともとは人間の健康状態を区分けしていく過程で、便宜上ラベリングしていったはずのものであったが、いったん名前が付くと、どうしても人はまるで実在しているかのように扱い始める習性がある。

良くも悪くも、名前にはそのような呪力がある。

それはさも、大学のサークルで思いつきで始めたおふざけが、10年後には「サークルの伝統」としてまことしやかに引き継がれているような、そんな出来事にも似ている。

大体そういうものは、のちのち至極もっともらしい理由付けがされてゆくわけだが、それこそが人間の営々たる営みの本質であると思うし(それは文化と呼ばれる)、私はそんな人間の営みを美しく感じてならないので、非難するつもりはない。

人はいつか必ず「ロボットに人権を!」と言うのだ。人間とはそういう生き物なのだ。愛とはそういうことだし、クリエイトとはそういう営みなのだ。

ただ、それに対してどこかで冷めて冷静に見つめているということは、大事なのではなかろうか。


著者の岩田さんは、病気は「実在(モノ)」ではなく「現象(コト)」である、と本書のなかで言っているが、おそらく今は「モノ」から「コト」への転換が起きている時代であるのではないかと私は思う。

もちろんまだまだ「モノへの眼差し」というものは強く存在しているのだけれど、「コトへの眼差し」というものもまた、どんどん生まれ始めている。

それは、これだけモノがあふれてきたからこそ、生まれてきたのだろう。

大量のモノに囲まれ、モノを見る目が変わってきた。

モノが少なければ、人はみなモノそのものを見つめるが、これだけモノがあふれると、人はモノそのものを見なくなる。

それがいいことかどうかは分からない。どちらの眼差しも大切なのだから。

ただモノそのものを見つめる目をぼんやりさせないと、コトは見えてこないという事情はある。

おそらく古代人はそのように世界が見えていたんじゃないかと、私はひそかに思っているのだけれど、まるで「認知の相転移」とでも言うかのように、「大量のモノ」というフェーズから、それらが素材と成った「ひとつのコト」へのフェーズへと、現代はゆっくり移行していっているんじゃないかと、そんなことを思っている。

それがどういう事態を引き起こすのかは分からない。

けれどもある種の揺り戻しとしては適当なことだろうと思う。

人はあまりにモノを見つめすぎた。「実」を重視しすぎた。これからは「虚」を見つめる時代なんだろう。

フレキシブルな思想とか、軽やかな宗教とか、柔らかい方法とか、小さなネットワークとか…。


ということでつらつらと書いていたら、また話が最初書こうと思っていたことからどんどんずれていってしまったのだけれど、まぁこのブログは雑念を徒然なるままに書き散らすブログであるからして、これで良しとしておこう。

posted by RYO at 21:34| Comment(18) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月04日

迷子名人

私がクーヨンで連載しているエッセイが4月あたりに本になるということで、その打ち合わせにクレヨンハウスに向かう。

いつもクレヨンハウスに行くときは、自転車でキコキコと表参道の坂を駆け登って行っていたが、今回は時間もあることだし全然違う道を通ってみることにした。

私は昔から迷子になるのが大好きで、どこかへ行くと必ず親の目を離れて迷子になっていた。

だから小さい頃は、歩くたびに音が鳴るピヨピヨサンダルを履かされていたのだけれど、結局ピヨピヨピヨピヨ言わせながらどんどん興味の赴くままに歩いていくので、気づくと知らないところできょとんと佇んでいた。ピヨ。

今の私と何にも変わってない(笑)。

今でも私は迷子になるのが大好きで、ときどき道を歩いているときにおもむろに意図的に道を外れて迷子になってみたりして、公私ともにいまだ「迷子道」を鋭意迷走中なのである。

迷子名人。雑念仙人。

それで今回は、渋谷あたりからざっくりとした方向感覚だけを頼りにふらふらとクレヨンハウスへと旅立ったのだ。


迷子になってみるというのは非常に面白い。皆さんにもぜひお勧めしたいくらいである。

知らない街を歩けば、まぁある意味最初から迷子なんだけれど、ほどよく知っている街を迷子になってみると、一番いろんな刺激があって面白い。街が新鮮に見えてくる。

とくに東京の街は、さまざまな時層が混在している面白い街なので、ちょっと路地に足を踏み入れたりして空間的に奥まった所に入っていくと、時間的にも奥まった所に入っていくことになるのだ。

30年や40年は軽くトリップできる。

原宿や表参道あたりも都市開発とともに急激に地価が高騰したような地域だから、そのグラデーションが豊かで面白い。

都市の生態系が豊かである。表と裏に時差がある。過去と未来が並存している。

路地をふらふらしながら、フラートされるままに、アフォーダンスの導きに従って、どんどんドツボに入っていくと、なんだか無性にハイになってくる。エヘヘへ。

そのうち何でもない看板や電信柱まで、何ともいえない輝きを放ち出して、いちいち感動してしまったり、味わい深さに沁み入ったりして、軽くアブナイ状態になってくる(笑)。

うお〜、いいなぁ。何だかいいなぁ。今ならポストの赤さにだって泣ける。

知らない路地。知らない街角。知らない階段。知らない猫。

私の知らないところで、私の知らない人生の痕跡が、無数に乱舞している。

なんだこりゃ。なんなんだこりゃ。

どんどん興奮しながら、ぐんぐん世界が色めき立つ。

時間が飛ぶ、空間が飛ぶ、世界が際立つ、いま、ここ、わたし。

? ! ? ! ? ! ???… !


現代はすべてが点と点で結ばれ過ぎている。

場所は地下鉄で結ばれ、情報はGoogleで結ばれ、物はAmazonで結ばれている。

そのなかで、その過程である道はなおざりにされ、見えなくなってきてしまった。

でも本当は、私はいきなり世界とは出会えない。

欲しい情報はいきなり手元には来ないし、欲しい物は玄関まで届かないし、行きたい場所へは座席で寝ているだけではたどり着けない。

私と世界のあいだには、必ず道(プロセス)がある。

そこには時間も空間も手間も圧縮されている。

もう一度そこに潜って、時間や空間や手間を取り戻して、それらをたっぷり感じてみるのだ。

目的に従うのではなく、今いる道に従って、そして、犬のおまわりさんと一緒に困ってみるのだ。

そうだ、そうだ。そうなのだ。


ハイになりながら角を曲がると、おもむろに見知った所にひょいと出る。

あ、クレヨンハウスだ。

そうだ。今日はクレヨンハウスに打ち合わせに来たんだった(笑)。

そして私は素に戻る。

posted by RYO at 22:59| Comment(18) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

ビバ!落下!

映画「落下の王国」(原題:THE FALL)のDVDを観る。
(リンク先にトレーラー映像あり)

何だか久しぶりに映画を観てものすごく感動してしまった。

とくに最後のシーンは何故か涙が込み上げてきてしまって仕方がなくって、何度も何度も繰り返し観る。

う〜ん… 美しい。

その一言だ。

ひょっとしてこの感覚はなかなか分かってもらえないかもしれないけれど、とにかく美しくて仕方がないのだ。


監督は前作「ザ・セル」で一躍有名になったターセム。

構想に26年、制作に4年、そして「本当に作りたかった映画」と監督自ら語る映画は、それだけの想いと情熱をビンビンに感じさせる。

評論やコピーにも書かれているように、世界遺産13ヶ所を含んだ世界中の美しい風景をふんだんに散りばめた映像美には、まず圧倒される。

CGではこの圧倒感は出せない。

現実こそがファンタジーだと言わんばかりの説得力。

あと、主演の女の子の演技もすごくいい。

監督いわく「少女が女優になる前に、急いで撮りきった」そうだが、その素直な演技はふとした勘違いやアドリブもそのまま活かされていて、とっても自然である。

けれどもそれにも増して、私が心打たれるのは、映画の内容そのものであるラディカルなストーリーテリングである。(以下ネタばれアリ)


「この映画のテーマはストーリーテリングだ」と監督が言うように、「物語を語る」ということが軸となって映画は進んでいく。

メインの登場人物は二人。

映画の撮影中に橋から落ちて大怪我をしたスタントマンの若い青年と、オレンジの樹から落ちて腕を骨折した小さな少女。

ともに「落下して傷ついた」二人が病院の一室で出会うところから物語は始まるが、その出会いも少女の一枚の手紙が彼のもとに落ちていくところから始まる。


大怪我をした上に恋人を取られてしまった若い青年は、人生のどん底に落ち切っており、ほとんど生きる希望を失っていて、動けない自分の代わりに少女に自殺するための薬を取ってこさせようと、彼女に思いつきの冒険譚を話し始める。

冒険譚は、個性豊かな六人の戦士がそれぞれの思いから総督オウディアスに復讐を果たそうと旅を続ける物語なのだが、そのお話は現実と物語とが交錯しながら、その場その場で生まれてゆく。

少女を利用するために思いつきで語りはじめた物語だったが、青年が決定的に落ちようとしているところで、青年のその思いを知ってか知らずか、少女の想いが彼女を物語の中に登場させて、囚われの彼らを救い出す。

思いつきで語っていた物語は聞き手を巻き込み、徐々に本物の「ストーリーテリング」へと変容してゆくのだ。


後半、現実の世界でさらに落ちようとする青年の願望のために薬を取りに行こうとした少女は、足を滑らせて棚から落下し大怪我をする。

目を覚ました彼女のとなりで、青年は素直に約束を信じる少女を利用して自殺しようとしていた自分にとことん嫌気が指して、「君を操るために話してたんだ」と告白し「ストーリーテラー」であることから降りようとするが、少女はそれでも「続きを聞かせて」と懇願し、語り手としての青年を支える。

聞き手の少女に支えられて彼はなんとか再び物語を語りはじめるが、それでもまだ絶望の淵にいる彼の物語は、仲間たちが次々と死んでいってしまう。

少女は「やめて!」と叫んで物語を拒否する。

「こんな物語は嫌だ。どうしてみんな殺すの?」

若者はしょうがないんだという顔をして「これは僕の物語だ」とつぶやく。

すると少女が言う。

「二人の物語よ」。

(そう、君は正しい。)


少女は最初から最後までずっと、「(固定されて)落下しない左手」に宝物を持ち続けているのだけれど、その「少女の落下しない左手と宝物」がこの映画の通奏低音なのだ。

彼女の「落下しない左手」が物語を支え、青年を支え、映画を支えている。

彼女は一度目に薬を取ったときは宝物をいったん手放していたが、二度目に薬を取ろうとしたときには宝物を手にしたままだった。そして落ちた。

「薬を取る」という行為は物語を壊す行為であるからこそ、宝物を手にしたままでは「いけない行為」だったのだ。


映画の最後に、チャップリンやバスターキートンといった古いフィルムの映像が流れる。

サイレンス映画お得意の映像集。

人が落っこちたり、ぶつかったり、飛んだり上がったり下がったり、そしてまた落っこちて落っこちて…

「THE FALL」という映画のテーマ通りに、めくるめく落下の世界。

Fall, fall, fall, fall…

繰り返し繰り返し、飛んで、落ちて、ぶつかる様は、まるで人の「人生」そのものであり、フィルム映像はそのオマージュだ。

なんだかその映像の乱舞を観ているだけで、人間っていいなというか、その悲しさと儚さと健気さに胸が熱くなってしまうのだけれど、その最後の締めくくりがまたもう最高なんだ。

「落ちる」ということを、これほどまでに言祝いでくれてありがとう。


でも、締めくくりの映像にあきらかに外野の声が入ってしまっているんだけど、あれはひょっとして監督の声なんだろうか。

だとしたら…

ますますいい!

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2010年01月02日

Fun can change you!

みなさま、あけましておめでとうございます。

旧年中はとりとめのない雑念妄想に格別のご愛顧をいただきまして、まことにありがとうございました。本年もまた懲りずにお付き合いのほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

先ほど去年のエントリーを見ていましたら、去年のテーマは「顕(あら)わす」ということに決定というようなことがコメント欄に書いてありまして、そういえばそうだったと、はたと思い出したのですが、いやはや確かに昨年はいろんなことが「顕われてしまった」激動の一年でありました。

「顕わす」ことがテーマということで、私もいろんな「表現」の試行錯誤を繰り返してきましたが、そんな個人的な小賢しい企みなどまったく関係なく、世界は表に顕われようと欲しているようです。

はたして今年はどんな言葉が湧いてくるのでしょうか。迂闊なことは言えません。


さて、去年の新年のエントリーはマットさんの動画をご紹介させていただきましたが、今年もまた動画を一つご紹介して新年のご挨拶と代えさせていただこうかと思います。

ストックホルムでのある試みの動画ですが、「楽しさはあなたの習慣を変えることができる」というこのチームの素敵な試みは、とても大事なことを教えてくれているような気がします。

その成果が一目瞭然に表れているのはもちろん、どこか寂しげだったステアがまるで喜んでいるようにも見えます。素敵です。

何というか、こんなようなことを、やっていきたいですな。



エスカレーターを使おうとしてやっぱり階段で登る人、ぴょんぴょん跳びはねる人、リズムをとって演奏してみようとする人、たまには階段を使ってみようかというおじいちゃん。いろんな反応があって十人十色。

見ていてこちらも何だかほっこりしてきます。

他にもこのチーム、こんなことこんなこともしています。
なんかかわいいですね。私のイタズラごころをくすぐります。

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2009年12月29日

本に見る夢

早いもので、今年も残すところあと2日となってしまった。

年賀状はなんとか出し終えたけれど、大掃除がちっともはかどっていない。

さっさと片づけたいと思うのは山々だけれど、机の上にはPC入力待ちの待機本がうずたかく積みあがっており、その目に見える作業量の前についつい他のことに…うう…(泣)。

じゃあいちいちPC入力なんかしなければいいじゃないかという声もあろうが、一度読んだ本をしばらく経ってからもう一度ざっと見なおし、さらに気になった個所をPCにカタカタと入力するという作業は、気になった個所を最低三度は読み直すことになるので、この長所はなかなか捨てがたい。

しかも後になって「あれ、どこに書いてあったっけな?」とふと思い立った時に、PCを開けば10秒でたどり着けるというこの至福の快感は何物にも代えられない。

まぁ、だったら普段からちょこちょこやっていけという話なのだけれどね…。


しかし最近つくづく思うのは、私は根っから本を愛しているらしいという事実である。

何度も書いているが私は邪悪な人間であるのだが、いちおう人間社会では「表面いい人」を心がけているので、他人から何かオファーを受けたときには、「ああ、いいですよ」と比較的にこやかに引き受けるようにしている。

けれども唯一(でもないか…)、オファーを受けて露骨にイヤな顔をしてしまう事があって、それが「本貸して」という一言なのである。

私が読んだ本の話などしているときに「え〜、面白そう。貸して」とか言われると、「え…自分で買えば?」と思わず返してしまいたくなるのだけれど、さすがにそんな言葉は口にできなくて飲み込んでいると、それがついついイヤな表情となって表に現われてしまうのである。

いや〜、これはもう我欲であります。小我の我欲。

「本を人に貸すくらいなら、いっそあげてしまいたい」と思う虫心。本畜生。


私の寝床には眠る私を取り囲むようにして本棚があり、そこには読み終わった本がぎっしり並んでいる。

そんなてめえの寝床を眺めつつ、「ああ、これは愛しているのだな」とつくづく思う歳の暮れ。

私にとって読書の時間というのは、愉しい愉しい本とのおしゃべりの時間であり、蜜月期なのだ。

そんな蜜月を過ごした本たちはもう私にとっては愛するモノたちであり、だからいつも彼らに囲まれて夢の世界へ旅立ちたいという、そんな思いが知らず知らずに私の寝床に現われている。イッツドリーミング。

「貸して」と言われて、無意識のうちにイヤな顔になってしまうのも無理はない。

愛する人を「貸して」と言われて、どんな扱いを受けるかも分からないのに、おいそれと貸すことなんてできないでしょう。

私が愛するより愛してほしいとは言わないが、せめて私が大切にしているくらいは大切に扱ってほしいという私の欲望が、他人の手に渡すことをどうしても躊躇わせる。

いや〜なんともちっこい話で申し訳ないが、これはもう私の業であるから仕方がない。

ただ逆にいえば、私が愛する以上に愛してくれる人がいるならば、もう全部差し上げてもいいくらいなのだけれど、まあそんなことを思える人がいるわけないし、いても「やっぱりヤダ」とか言って駄々をこねているんだろう(笑)。


とまあ、そんな本畜生の話はさておいて。

本畜生が今読んでいるのは、ミンデルの最新刊『大地の心理学』(アーノルド・ミンデル、コスモス・ライブラリー、2009)。

今日、電車の中でパラパラと読んでいたら、ある一節にどえらいショックを受けた。


『人も素粒子もジグザグに歩く。ファインマンは美しい言葉で述べている。「素粒子はすべての道(経路)を探求しなければならない」。日常的現実でみることのできる全体的な方向性へと足し合わせるために、素粒子は多様な方向性のすべてを探求しなければならない。あなたが本を読んだり、目の前のコンピューター画面を見たりするために、光の粒子は本から飛び出し、コンピューター画面から放射されなければならない。そうした光の粒子は直接あなたに向かうのであろうか? ノーだ。いくつかの光はあなたが座っているところへ直接やってくるが、いくつかの光は東京やモスクワや月を経由してやってくる。光の波動の可能性が宇宙の至る所を旅して、最終的に足し合わされているので、あなたは本やコンピューターを見ることができるのである。自然は可能性のあるすべての道を嗅ぎ回る。』
(同著、p141−142)


ゲゲ。その通りだ。なんてこった。アワワワ…

量子物理学をご存じない方はよく分からないかもしれないが、光というのは量子的振る舞いをするので、今パソコンの画面を見ているあなたの目に届いている光は、モニターから飛び出て直接届いた光だけでなく、部屋の壁で跳ね返った光や、モスクワのバーのウォッカの瓶で跳ね返った光や、宇宙の果てで跳ね返った光もまた、その可能性を内包しているのだ。

…と、こんなことを書いてもさっぱり分からないかもしれない。

「なんで今モニターから飛び出た光が、宇宙の果てまで行って私の目に届くのか?」という当たり前の疑問が湧くだろうけれども、そんな時間も空間も超えた振る舞いが「有り」というのが量子という存在なのだ。

ファインマンの言葉を借りれば、「光はその可能性もまた嗅ぎ回っている」。

私たちが現実的に観測するのは、「最終的に最短ルートだと判明した経路」なのだ。

(ギブソンの生態光学や、華厳の帝網(インドラネット)にもつながるような…)


「ゲゲ」って思うでしょう?

あなたが見ている私の文章は、宇宙の果てまで行って帰ってきた光が「重なっている」。

確かに理論上はそういうことなのだ。どえらいこった。

ミンデルは最終的に現実化したルート以外のそのすべての可能性を、美しく「夢」と語っているが、それはまさにまさに「幽玄の夢」。

私たちはみな「夢の重ね合わせ」なのである。

しかもそれは宇宙の果てまで含んでいる。

「ゲゲ」って思うでしょう?

これだから本はやめられないんだよねぇ〜(笑)。

今日は宇宙の果てまで飛ばされちまったよ。 いや、参った。

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2009年10月23日

愛のシャワー

ずっと忙しくて、今日もへろへろと帰ってきてパソコンを開いたら、内田樹先生がブログでとても大事なことを書いていたので、「そのとおり!」と激しく頷きながらビールをぐびぐびと煽る。

「教育=贈与」。そうだそうだ。その通りだ。

資本主義思想が徹底して普及して以来、人間の思考はきわめて「貧困的」になってやしないか。

現代人は考え方が「ケチ」だ。すぐ「取引」しようとする。すべてが「取引」の発想だ。

ダメだろう、それじゃ!

内田先生が書いているように、『「贈与を受けた」という原体験をもつ人しか「反対給付の義務」を感じない。』

シュタイナーもまた、「幼少時に充分に愛されて育った子どもは、晩年に人を祝福することができる人間になる」と言う。

愛の贈与をたっぷり受けた人間こそが、他人に愛のお返しをすることができるのだ。

幼少時に、たっぷりと「贈与のシャワー」を浴びる経験がどれだけ大事なことか。

もういいから四の五の言わずに、子どもにはイヤというほど「贈与のシャワー」を浴びせてやるんだ。ケチケチするな。

子どもは愛のシャワーを全身で浴びながら、「愛されている」なんて気付きもしないのだ。

子どもは愛のシャワーを全身で浴びながら、「ありがとう」なんて言わずに育つのだ。

それが当たり前だと思っていること。そんなこと思いもしないこと。

それはどれだけ幸福なことだろう。

すべての子どもはいつかやがてあるとき気付く。

自分がどれだけ愛されて育ったのかを。

「自分は愛されたことなどない」という人は、自分が愛された経験をまだ忘れているだけだ。

人は皆、まったくの無力で生まれてくる。

その無力な子であったあなたが今生きている。

それこそがすでに誰かに愛された証拠じゃないか。

お腹の空いたあなたにお乳を与え、寒さに震えるあなたに毛布を与え、表現を知らないあなたに言葉を与え、寂しさに泣くあなたに抱擁と接吻を与えた人がいる。

この世に生を受けて以来、自分に向かったすべての愛のベクトルと、その始点を空想しろ。

どれだけ多くの愛が自分に向かったか。

その圧倒的な事実の前に、途方に暮れてみろ。

それに気付いたら、今度はそれが「自分の番である」ということなのだ。

「自分の番である」ということに気付いた人間。

私はそんな人を見るたびに、ただただ頭が下がる。

私もそんな人の後に続きたいと思う。

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2009年10月06日

お肌の生態系

忙しさにかまけていたら、ブログの更新がずいぶん滞ってしまった。

それで「そろそろアップしなきゃな…」なんて考えていたら、家のパソコンが頓死。 ゲゲ。

ついこないだモバイルPCが頓死してネットブックを購入したばかりだというのに、相次いで逝ってしまうとは果たしていかなることか。

それで時間を見つけて頓死したパソコンを担いて修理窓口まで持っていくと、修理に出すと一ヶ月はかかるという。

買ってまだ一年半だし持って帰っても仕方がないのでいちおう預けるだけ預けるが、「そんなに悠長に構えていられるか」と、その足で大型家電店に新しいパソコンを買いに行く。

一ヶ月後にウィンドウズの新しいOSが出るということもあって、どのパソコンもほとんど叩き売り状態だったので、適当なものを見つくろって「これ頂戴」と即買い。

Vistaにはまったく良い思い出がないが、もう新しいOSが出るという時にまた買うことになるとは思わなかった。「7」が出たら、さっさとアップグレードしよう。

でも不幸中の幸いだったのは、頓死寸前にデータのバックアップを取っておいたことだ。

頓死の気配を無意識に感じていたのだろうか。とりあえず「えらいぞオレ」と褒めておく。

データやら設定やらの引っ越しに2日ほどかけて(手動)、何とかほぼ以前の状態に戻ってきたのでブログの記事をカタカタと書き始める。


ということで、そんなこんなの合間に『傷はぜったい消毒するな』(夏井睦、光文社新書、2009)を読了。

最初に書店で見た時は、その挑発的なタイトルに「またキワモノの類か」と思ったのだけれど、副題名に「生態系としての皮膚の科学」とあるのを見て「お?」と思って手に取った。

そしてパラパラと見てみたら、これがなかなかどうしてハードな内容の本だし、何より私の気になるキーワードがあちこちに散見されたので、これは「買い」だと思ってさっそく購入したのである。

私もこの本を読むまでまったく知らなかったのだけれど、この著者の夏井さんの提唱する「消毒しない治療」(湿潤治療)はじょじょに広がりつつあるそうである。

とくに火傷の治療に関してはこの本の中でもずいぶん症例も出して、消毒をしないことの意味と効果を説いている。


私は大学で醸造学を専攻した関係で、微生物に触れる機会も多く、消毒や殺菌といった作業もそれなりに身近であった。

だからその重要性というのも、いちおうよく分かっているつもりである。

微生物の分離や純粋培養なんて、消毒殺菌作業無しではまず成り立たない。

「酵母を分離せよ」と命令されて、「へへん、ちょろいちょろい」と無菌箱の中に手を突っ込んでぐりぐりと培地に菌をなすりつけて培養したら、ものの見事にグラデーション豊かな培地が仕上がり、目的の酵母の影も形もないなんていうことはしょっちゅうであった。(つまりは雑菌だらけ)

本当に菌や微生物というのはそこら中にいるわけで、ほんのわずかの油断で大繁殖する。

だから微生物を利用した実験や研究などは、とにかく一に殺菌、二に殺菌、三四も殺菌、五も殺菌というくらい徹底して殺菌消毒をする。

けれども、それはあくまで実験器具やら何やらの無生物に対する行為に関してであり、生体に関しての消毒行為というのは、研究という目的があるならばやむを得ないとしても、健康という面からはいかがなものだろうかと思っていた。


私たちの皮膚にはふだんから常在菌というものがいて、多様な菌がひしめきあって生きている。そのなかには人間にとっていい奴も悪い奴もいて、それがごちゃごちゃやって生きているのだ。

それはある意味、もう一つの生態系と呼んでもいいほどに絶妙なバランスのうえに成り立っているものである。

そういった絶妙なバランスの上に成り立っている生態系に対して、無差別に行なう「殺菌消毒」という行為は、正直かなり乱暴な行為である。

それは言ってみれば、とあるアフガニスタンの山村にテロリストが潜伏しているからと言って、その山域一帯にB-2爆撃機を飛ばして絨毯爆撃を加えるような、そんな行為にも喩えられる。

たしかにそれでテロリストのグループは壊滅するかもしれないが、でもその土地とその土地に住んでいるそれ以外の人々はどうなるのだ、とそんなことを思わないではいられない。


生態系というのは、「多様性」という戦略を採用した生命活動の現われであるが、それはいろんな性質や好みを持ったものが共生することで、いろんな事象や環境の変化に対して、全体で弾力的に対処できるということがその強みである。

いろんなものがごちゃごちゃやっていると、「それなりのところに落ち着く」ということが自ずと起こるわけで、それこそが生命が採用したもっともエコロジーな戦略なのだ。

そういう環境の中では一事が万事、おたがいに影響を及ぼし合い、バランスを取り合っているので、外部からの介入的な操作に対して「負のフィードバック(ホメオスタシス・恒常性)」が働くようになる。

それが生態系というシステムだ。


そういうことを考えると、「良くない奴がいるから、そこら一帯にいる奴をみんな一斉排除する」という方法は、なんだかずいぶん無機的で観念的で暴力的で、健康とかあるいは治安維持といった観点から捉えれば、かなりリスキーなことであるように思える。

一斉排除して誰もいなくなったはいいけれど、そのあとの復興作業のことは考えているのだろうか。だってそのあとにそこにどんな菌がやってきて繁殖するかは誰にも分からない。

それなりにみんなでごちゃごちゃやっていれば、新参者がやってきたときにも「お?なんだアイツは?」と誰かが気付いて、しばらくごちゃごちゃとやりあっているうちに追っ払ってくれるかもしれないが、ほとんど誰もいないんなら、それこそ新参者もシメシメと思ってせっせと繁殖に精を出すに決まっている。

それを防ぐためには消毒後の徹底した治安維持管理が必要になるわけだけれど、どんなに徹底して管理したところで、先ほども言ったように微生物などいたるところにいるわけで、その侵入を防ぐことはまず不可能である。


私としては、そんなにエネルギーを蕩尽し浪費する方法は、やはりどこか無理があるのではないかと、そんなことを思うのだ。

もう少し、「任せる」とか「委ねる」っていう方法も取れるんじゃないかと。

そこに生態系という自治体がもともとあるのだから、その自治活動が健全に働くように支援することのほうがはるかにエコロジーだし、エコノミーじゃないかと。

それに何よりそのほうがサスティナブル(永続的)じゃないかと。

だってそこで起きていることは、秩序形成のために外部からエネルギーをどんどん注ぎ込むという「消費」や「消耗」などではなく、内発的で自律的な「成長」や「適応」といったダイナミズムなんだから。

最近の研究では、「うがい薬でうがいするより水だけでうがいした方が風邪の予防になる」(⇒News)なんていう、何だか不思議な統計結果も出ているが、そうなると私たちは消毒という作業でいったい何をやっているのかよく分らなくなってくる。


だから私はいつも皆さんには「発酵食品を食べるといい」とか、さらには「自家製のぬか漬けを作って毎日ぬか床をかき混ぜるともっといいです」とか、皮膚上の生態系を活発にするようなそんな指導をしてきた。

活発な生態系はきわめて活発なホメオスタシスを発揮する。

お肌にそんな生態系をはぐくんでいけばいいじゃないか。

生態系さえ活発に働いていれば、環境の変化や外部からの侵入に対して、弾力的なレスポンスを返すことができるようになるので、急激な侵略や感染といったものをかなりの程度まで避けられるだろう。

エコロジー(生態学)とは、そういうことなのではなかろうか。

「消毒」という作業は強力ゆえにその効果が分かりやすくまた重宝しやすいが、長い目で見た時には、その使いどころというものをきちんと考えるべきだろう。


今回この本を読んで一番おもしろく、またビックリしたのは、「化膿の原因は、傷口からバイ菌が侵入して繁殖することではない」ということであった。

著者の夏井さんは、「もしそうだとしたら、切れ痔の人の傷口が化膿しないのが説明できない」と言うのである。

おお、なるほど。

大便というものが、自然界を広く見渡しても屈指の「細菌パラダイス」であることは説明するまでもないだろう。

そんなものがしょっちゅう通過するうえに、それほど清潔に保たれているとはお世辞にも言い難い箇所において、傷口がまず膿むことがないのは何故か、という問いを立てるのである。

ふ〜む、ナルホドノコト。

もし傷口が化膿することを恐れるなら、切れ痔に向かってマキロンをプシューッと吹き付けるべきなのだが、そんな「恐ろしいこと」(笑)はおそらく誰もやっていないだろう。

だが、にもかかわらず膿まないということは、何か別の原因があるということなのである。

夏井さんは言う。

「細菌が繁殖するためには条件があって、それは淀みや溜まりがあるということだ。きちんと循環している場所には繁殖しない。そして細菌は必ずしも傷口から侵入しているわけではなく、すでに体内に侵入して巡っている細菌がそこにやってくるということもある。だから傷口からの細菌の侵入よりもむしろ、そこに細菌が繁殖できるような淀みや溜まりがあるということのほうが問題なのだ。」

その個所を読んだとき、私は思わず飛び上がってしまった。

「なんだ、いつも私が言っている事じゃないか!」

まさかこのような角度から私が考えていることを裏づけてくれる言葉を聞くとは思わなかったので、とても嬉しくなってしまった。いやぁ心強いなぁ。


流水中にも細菌はごくわずかに存在するが、流れ続けている限りそれは繁殖しない。

それが淀みや溜まりにいたって初めて繁殖を開始するように、人間のからだにおいてもやはり同じことなのだ。傷が化膿するのはそこに溜まりや淀みがあるからで、ゆえにただ切れただけでスムーズに出血している傷口は膿むことがない。

新型インフルエンザの大流行が懸念されているが、とりあえず私たちにできることは、この身に淀みや溜まりを作らないということだろうと私は思う。

水の循環を良くし、呼吸の循環を良くし、食べ物の循環を良くし、想念の循環を良くしておくということ。

皆さんもぜひ、日々とどまることなく巡りを良くし、そしてお肌に「マイ生態系」を育てて、ときにそれを撫でたり舐めたり褒めたりしながら、ペットのようにパートナーのように愛でつつ暮らしていけば、きっととても元気に健康的に過ごせるんじゃないかと思うのだけれど、いかがだろうか?

まぁ、その振る舞いが他人に「健全」と見られるかどうかは微妙なところだが…(笑)。

posted by RYO at 20:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月12日

秋 雑感

夏が過ぎ、秋の気配がしはじめて、なんとなく時の移り変わりを感じさせる季節。

今年はなんだか涼しく短い夏ではあったけれども、夕暮れ時の草葉の陰から虫の音が聞こえたり、夜陰の風に冷たい秋の匂いを嗅ぐと、それでもやはり確かに夏であったと、そんなことをふと思う。

季節の中では秋が一番好きだ。

盛りを過ぎ、その余韻をまだ残しながらも、やがて訪れる静かな時の気配を感じさせる季節。

表に現われその姿かたちを謳歌していた命が、反転し内側に向かい始める季節。

ちょいとメランコリックでノスタルジックでセンチメンタルな気分に、内面がいろめく。


この秋で、ずっと受けていた野口体操のクラスが終了することになった。

クラス開講以来ずっと毎週受講していたので、結局まるまる参加していたことになる。

講座の帰り道、お世話になった羽鳥先生に駅までご同行させていただいたとき、「終わってしまうのは寂しいですねぇ…」と先生につぶやいたら、「あら、あなたはもうそろそろ自分でやりなさい」とピシャリと厳しいご指導をいただく。

「いやいやそんな、自分はまだまだです…」なんてことをもにゃもにゃ答えながら、なんだかそういえば最近そんな言葉をあちこちで耳にするような…とそんなことを思う。

でも未熟な私にはピシャリとご叱正いただける先達がまだまだ必要に思えてならない。

「自然に貞(き)けばよい」とは、野口体操の創始者、野口三千三(みちぞう)先生のお言葉。


何の采配か、終わってしまう野口体操と同じ曜日にプロセスワークの連続講座があるというので、これは「こちらに出ろ」ということかしらと思ってさっそく申し込んだ。

プロセスワークは野口体操とはまた毛並みが異なるが(てゆうか心理学だし)、やはり同じようにある程度からだを動かしながら自分を探っていく営みでもあるし、面白そうだと思って今からわくわくしている。

なによりプロセスワークは、いま私の中でもっとも関心を持っているメソッドの一つである。


プロセスワークは、その舞台となるのが人間の営みのなかでも整体が取り扱うところときわめて近いと思っているのだけれど、その方法というかアプローチには大きく異なるスタンスがある。

それはオーソリティーとデモクラシーの違いと言えばいいだろうか。

別にどちらが良いとか悪いとかいうことではない。それぞれに長短があるというだけのことである。

整体はその指導のスタイルからしてオーソリティーのアプローチを採用している。

整体の基本である愉気と活元運動、とくに活元運動はまさにデモクラシーではあるが、指導そのものは多くの治療や指導の現場がそうであるように、オーソリティーのアプローチをとっている。

対してプロセスワークは、創始者であるミンデルが言うように、徹底したデモクラシーのアプローチをとる。(それをミンデルは「ディープデモクラシー」と呼ぶ。)

先にも書いたが、そのどちらが良いとか悪いとか言いたいわけではない。どちらを採用するかは指導者の好みと目的と状況によるだろう。

私自身の好みを言わせてもらえば、私はまず手放しでデモクラシーをこよなく愛している。

けれどもオーソリティーもまたやはりこよなく愛している。 ただそれが慎み深くさえあれば。

いや、むしろそのオーソリティーの「慎み深さ」によっては、私は限りなくオーソリティーを愛するかもしれない。ほとんどエロスに近いほどに。

だが改めて「どちらのスタンスを目指すのか」と問われれば、私はオーソリティーの先にデモクラシーを見る。

それは整体という限られた世界の中だけで語れば、愉気と活元だけでやってゆくということにも重なるだろう。

だがしかし、それだけで果たしてどこまで通じるのか。

現実として何がどこまでできるのか。いや、そもそも何かしようとなんてするべきなのか。

プロセスワークが目指そうとしているその境地を、私も見てみたい気がする。


竹内敏晴さんが亡くなったという知らせを知人から聞く。

大学時代に出会った竹内さんの著書『ことばが劈(ひら)かれるとき』(竹内敏晴、ちくま文庫、1988)には、ずいぶんいろんなことを考えさせられ、また気づきを与えられた。

思えば「言葉」というものとは、物心ついた頃から、ときに裏切られ、ときに励まされたりしながら、くんずほぐれつ付き合ってきたが、その偉大な先達の一人として、竹内敏晴という人がいた。

言葉を発する主体があり、発せられた言葉もまた主体となるということ。

人は同時に複数のものに注意を向けられないゆえに、多くの人は「発せられた言葉」「語られた自分」を主体と認識するが、そこで置き去りにされているのが「それを発している主体」、つまりからだそのものである。

「私」を語る「からだ」に目を向けよ。 そこに忘れられた「私」がいる。

竹内敏晴さんに教わった大事な教え。

思えば、この1年の間に多くの偉大な先人と呼べる方々が次々と亡くなった。

今はただその先人たちに感謝の念を現わすとともにご冥福を祈るだけである。合掌。


「パワー」ということが、たびたび私のテーマになる。

それだけ世には暴力性があふれているということなのだろう。

世の中で「脱力が大事だ」と言われ、脱力の有用性が語られるようになって久しい。

だがしかし、どんな人間にも潜んでいる「パワーへの欲望」の自覚を伴わない脱力は、「パワーへの欲望」の潜在化を助長することになる。

「私を認めよ」「私の思い通りになれ」「私に見合った報酬(賞賛)をよこせ」……。

表で脱力化され、カタチを持つことを封じられた「パワーへの欲望」は、そうしてその舞台を潜在意識下に移し、カタチを求めてうごめき続けることになる。

潜在意識下で暴れる「パワーへの欲望」こそが、「暴力」。

だからこそ古くから伝わる脱力を目指す数々の行法は、徹底して自分の欲望を見つめることを行者に課している。

脱力は、徹底した自覚的態度で臨まなければいけない。

脱力とは、真にあきらめることだし、断念することだし、引き受けていくことだし、従っていくことである。

世でいち早く脱力を説いた野口三千三先生は、「負けて 参って 任せて 待つ」と、その奥義を説いた。


脱力という思想。

だがしかし、「脱力を支えるモノ」とは、いったいこの世の何なのだろう。

だって脱力だけではそのカタチを保てない。それにカタチを与える包みや支えは必要だ。

脱力を支える…やっぱり力? 力は脱力を支えるためにある? 変な矛盾だ。
じゃあ骨? うん、骨は大事だ。他を支えるためにその身を投げ出したモノ。
でもそれはやっぱり脱力のカタチだ。だから骨だけじゃ人は立てない。

そんなことを考え始めると、まるで「ドーナツの穴」問答でもしているようでグルグルしてくる。

まぁ秋の夜長にのんびり考えよう。

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2009年08月20日

幸田家のしつけ

このまえの記事でお茶のことを書いたら、ちょうど今読んでいる『幸田家のしつけ』(橋本敏男、平凡社新書、2009)のなかにお茶をいれる話が出てきた。

幸田露伴とその娘、幸田文(あや)との親子関係は、いろんなところで取り上げられているのでご存知の人も多いかもしれないけれど、そのエピソードの数々は、現代でも「しつけ」とか「家庭教育」といったところを考えてゆくときにとても参考になるので、興味のある方はぜひ一度読んで見られると良いかと思う。

ちなみにお茶についての文章とはこんなものである。


『今日は我ながらおいしそうにお茶がはいった、というときはすっと部屋にはいれ、すっと茶碗が出せ、すっと引上げてこられる。部屋を出るときちらりとみると、父はもう茶碗を手にとり、目だけは本へいっている。つまり、相手を乱さない、なみのお茶だった。なんのことはない、上手にお茶をだすというのは、真っ先にうまいお茶をいれればいい。うまいお茶はどうするかというと、自分がのんで、味だの香りだの、色、温度などがわかればいい。うまさなどは比べればすぐわかってしまう。わかれば何処となく大丈夫な気がして、さっさと歩ける。こちらがうじうじしなければ、もともとあっちはあっちの仕事にかかっているのだから、こちらのことなど気にはしない。それだけのことだ。』
(幸田文『月の塵』所収「机辺」)


なるほど。ごもっともであるやもしれぬ。

仕事の最中の人にお茶を出すに余分は要らない。スッと出しサッと消えるのが一番であって、ごたごたまごまごしているのは、お邪魔虫というものである。

そしてそのごたごたまごまごの一番の原因は何といっても乱れた心であり、何事も本番に入る前に「これでよし」という軸を決めてからかかればピシャリと決まるものを、「美味しく入ったかしら」「ぬるくないかしら」「機嫌は良いかしら」「怒られないかしら」と、余計な心配を背負ってのこのこと現場にやってくるから、手元足元がぶれてごたごたまごまごを引き起こす。

何事もコトに至る前にすでに終わっている仕事というものがあり、それがコトに至ってぶれない軸を生み出しているのだ。

このこと、お茶に限らないだろう。


明治の文豪である幸田露伴が娘の文にどのような家庭教育を施したのかは、幸田文ご本人の著書である『父・こんなこと』(幸田文、新潮文庫、1967)に詳しいが、その徹底した教育振りには瞠目するものがある。

文の実母は、露伴がどこかの料亭で美味しい料理を食べてきて「こんな料理を食べてきた」と話をすると、その二、三日後にはそれとほぼ近い料理を膳に出し、しかも食べたことの無い西洋料理のソースやドレッシングさえも見事に再現したというから、よっぽど聡き女性であったようだが、不幸なことに文がまだ小さい頃に他界してしまった。

後妻に入った女性はミッション系の学校で英語を教える才媛ではあったが、家事や台所仕事を好んで行うタイプではなかったらしく、結局、娘のそういった教育全般を露伴が自分で教えることにした。

露伴自身は兄弟の多い貧しい家庭に育ち、小さい頃から掃除、洗濯、炊事、火炊きとさまざまな家事をこなさなければならかったそうで、そういったことを教える素質は十分に備えていたというわけだが、これがまた「明治の男」という感じで、その教え方たるやまさにスパルタ教育である。


女学校1年の夏休み、14歳の文は露伴に「掃除の稽古をつける」と言って呼び出される。

そして「道具を持ってきなさい」と云われて、三本ある箒の一番いいのにはたきを添えて持って出ると、露伴は見るなりいやな顔をして、「これじゃあ掃除はできない。ま、しかたが無いから直すことからやれ」と、こう来る。

そして結局、初日は曲がった箒の先を洗ってまっすぐに整えたり、はたきを使い良いように新しく改造したり、道具の手入れをするだけで終わるのだ。


『第二日には、改善した道具を持って出た。何からやる気だと問われて、はたきをかけますと云ったら言下に、「それだから間違っている」と、一撃のもとにはねつけられた。整頓が第一なのであった。「その次には何をする。」考えたが、どうもはたくより外に無い。「何をはたく。」「障子をはたく。」「障子はまだまだ!」私はうろうろする。「わからないか、ごみは上から落ちる、仰向け仰向け。」やっと天井の煤に気がつく。長い采配の無い時にはしかたが無いから箒で取るが、その時は絶対に天井板にさわるなと云う。

 煤の箒を縁側ではたいたら叱られた。「煤の箒で縁側の横腹をなぐる定跡は無い。そういうしぐさをしている自分の姿を描いて見なさい、みっともない格好だ。女はどんな時でも見よい方がいいんだ。はたらいている時に未熟な形をするようなやつは、気どったって澄ましたって見る人が見りゃ問題にゃならん」と、右手に箒の首を摑み、左の掌にとんとんと当てて見せて、こうしろと云われた。机の上にはたきをかけるのはおれは嫌いだ、どこでもはたきは汚いとしりぞけ、漸く障子に進む。

 ばたばたとはじめると、待ったとやられた。「はたきの房を短くしたのは何の為だ、軽いのは何の為だ。第一おまえの目はどこを見ている、埃はどこにある、はたきのどこが障子のどこへあたるのだ。それにあの音は何だ。学校には音楽の時間があるだろう、いい声で唄うばかりが能じゃない、いやな音を無くすことも大事なのだ。あんなにばたばたやって見ろ、意地の悪い姑さんなら敵討がはじまったよって駆け出すかも知れない。はたきをかけるのに広告はいらない。物事は何でもいつの間にこのしごとができたかというように際立たないのがいい。」』
(『父・こんなこと』p95−96)


始終こんな調子なもんだから、もともと勝気の強い文はそのうち反抗心がめらめらと燃え上がってくるのだが、そうすると露伴は「ふむ、おこったな、できもしない癖におこるやつを慢心外道という。」と、これまた一蹴する。

そして憮然としている文に「やって見せるから見ていなさい」と自ら手本を示してみせるのだ。


『房のさきは的確に障子の棧に触れて、軽快なリズミカルな音を立てた。何十年も前にしたであろう習練は、さすがであった。技法と道理の正しさは、まっ直に心に通じる大道であった。かなわなかった。』
(『父・こんなこと』p96)


すごい親子関係である。

だいたいいまどき家庭で掃除の稽古などすることがあるだろうか。

「花嫁修業」などというものが古臭い慣習となって以来、暮らしの稽古をつけてくれるなんていう、そんな人も機会もほとんど無くなってしまったのではなかろうか。

ずいぶん前の記事で「暮らしと私の関係が希薄になってきた」というようなことを書いたけれども、これだけみっちり「暮らしの稽古」をしていれば、きっと生きていくのにものすごい支えになったことだろう。

電化製品に「望んで仕事を奪われていった」現代人は、自分の暮らし(Life)自体と密接に関わることをやめて、きわめてクールな関係を作り上げていったが、その結果、起きてきたことが「私が生きている」という実感の希薄化だ。

どうも生きている実感が希薄でふわふわしている現代人は、みんなもういっぺんこんな「暮らしの稽古」をやってみる必要があるかもしれない。


また、別の日には水の掃除の稽古をする。

「水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない」としょっぱなからおどされ、「へーえ」と内心ちっともそんなことは思わずにバケツの水をとり回していると、「そーら、そらそら」と声をかけられる。


『しぼり上げて身を起す途端に、びんとした声が、「見えた」と放たれる。太短い人差指の示す処には水玉の模様が、意外の遠さにまではね散っている。「だから水は恐ろしいとあんなに云ってやっているのに、おまえは恐れるということをしなかった。恐れの無いやつはひっぱたかれる。おまえはわたしの云うことを軽々しく聴いた罰を水から知らされたわけだ。ぼんやりしていないでさっさと拭きなさい、あとが残るじゃないか。」』
(『父・こんなこと』p102)


文は自分がほとんど無意識に行なっていた不調法まで露伴に指摘されて、いかに自分がいろんなことを見落としているかに気づかされ、そして改めて水に対する態度、水をとり扱うための振る舞いというものを教え込まれる。


『この雑巾がけで私はもう一ツの意外な指摘を受けて、深く感じたことがある。それは無意識の動作である。雑巾を搾る、搾ったその手をいかに扱うか、搾れば次の動作は所定の個所を拭くのが順序であるが、拭きにかかるまでの間の濡れ手をいかに処理するか、私は全然意識なくやっていた。「偉大なる水に対って無意識などという時間があっていいものか、気がつかなかったなどとはあきれかえった料簡かただ」と痛撃された。云われてみれば、わが所作はまさに傍若無人なものであった。搾る途端に手を振る、水のたれる手のままに雑巾を拡げつつ歩み出す、雫は意外な処にまで及んで斑点を残すのである。更に驚くべきことには、そうして残された斑点を見ぐるしいとも恥かしいとも、てんで気にさえならず見過していたことである。』
(『父・こんなこと』p105)


そしてやはり自ら手本をやってみせる露伴の振る舞いは美しく、文はその父の姿に感じ入るのだ。


『父の雑巾がけはすっきりしていた。のちに芝居を見るようになってから、あのときの父の動作の印象は舞台の人のとりなりと似ていたのだと思い、なんだか長年かかって見つけたぞという気がした。白い指はやや短く、ずんぐりしていたが、鮮やかな神経が漲ってい、すこしも畳の縁に触れること無しに細い戸道障子道をすうっと走って、柱に届く紙一ト重の手前をぐっと止る。その力は、硬い爪の下に薄くれないの血の流れを見せる。規則正しく前後に移行して行く運動にはリズムがあって整然としてい、ひらいて突いた膝ときちんとあわせて起きた踵は上半身を自由にし、ふとった胴体の癖に軽快なこなしであった。「わかったか、やって見なさい」と立った父は、すこし荒い息をしていた。後にもさきにも雑巾がけの父を見たのはこの時だけである。』
(『父・こんなこと』p103−104)


とにかく露伴は徹底して、まずやらせてみて、そして自らやってみせて、もう一度やらせてみる、という三段教授を行なって、まず物事それ自体と「からだごと出会ってゆく」ということを大事にした。

徹底的にからだで感じ、そしてからだで覚えてゆく。

文はそんな徹底的に物事と関わろうとする父の教えをこう表現する。


『畢竟、父の教えたことは技ではなくて、これ渾身ということであった。』
(『父・こんなこと』p123)


とにかく幸田家では「ケチ」というのが最大の侮蔑の言葉であったそうで、それを言われたら「もうオシマイ」というくらいに蔑まれたそうであるから、そりゃあもうどんなときでも奮い立つしかない。

面倒がる、億劫がる、出し惜しむ、骨惜しみする、そんな振る舞いはすべて完全に見捨てられるのだ。

それは整体の「全生」(生を全うする)という思想とも通じるものがある。

「おまえはもっと力が出せる筈だ、働くときに力の出し惜みをするのはしみったれで、醜で、満身の力を籠めてする活動には美がある。」と娘に教える露伴にとっては、すべてが渾身であり、全生であり、一期一会であるということなのだろう。

それは今の私たちにこそ、しっかり身に染みこませなければならない教えではないだろうか。


最後に、ちょっといいなと思ったこんなエピソード。


『ある細かい雨が降る日、門から玄関への敷石道に、ずっと植えた萩がつっ伏されて道がなくなってしまっていた。そこへ客がやって来た。文には、その板垣のすき間から足元が見える。そのお客はおしゃれといわれた人だ。どうするかと見ていると、蛇の目を拡げて横へ倒し、たわわな萩の花を軽く押しやりながら傘をくるりくるりと回して歩み進んだ。自分はしおしおと雨にぬれたままである。文は思わず「花もきれい、傘もきれい、足も人もきれい!」と感じた。
 あとでこの話を父露伴にした。すると露伴は「おしゃれと云われるほどの女なら、咄嗟にもそのくらいの風情はなくっちゃあねえ。いくら萩が臥ているにしろ、むざと秋の庭へ足駄の跡を残したんじゃあ興がさめる。自分が濡れるのは何程のこともないけれど、おしゃれはそこだろうね」といった。』
(『幸田家のしつけ』橋本敏男、平凡社新書、2009、p149−150)


う〜ん、参っちゃうなぁ…。惚れるなぁ…(笑)。

ファッションのおしゃれなどではなく、子どもが思わず「花もきれい、傘もきれい、足も人もきれい!」と感じてしまうような、そんなおしゃれがもっともっと増えていったら、きっと日本もすごい粋でおしゃれな国になるんだろうなぁ。

渾身と粋。

いや、いいねぇ。

posted by RYO at 22:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする