2017年04月18日
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2016年06月06日
テーマは魔女修行
なぜ男である私が女性を相手に魔女修行などをやることになってしまったのかよく分からないけれども、ともかく今年のテーマは魔女修行なのである。
まあ本当は魔女修行というのは裏テーマだったのだけれど、裏テーマの方が参加希望者の心の琴線に触れたと言うことで全面に出すことになったというのが、そのいきさつだったりする。
魔女と聞いて皆さんがどんなイメージを持たれるか分からないが、私は魔女というものに前々から非常に興味を持ち、そしてつねづね「現代には魔女が必要だ」と言い続けてきた。
その思いは近年ますます強まっていて、これはもう四の五の言っている場合ではなくて、魔女の素質を持った人にその自覚を持ってもらうべく、私にもできることはどんどんやっていかなくてはいけないのではないかと思えてきた。それで今回の「魔女修行」である。
とはいえ魔女修行って何するの?って感じだけれども、それは私にもよく分からない。男だし。よく分からないけれども、でもとにかく決まった以上はやらなくちゃということで、一年分の講座内容を一生懸命練り上げていった結果の、第一回。
その第一回のテーマは「うごく」。
どんどんからだをうごかすことで、自分のからだ(無意識、潜在意識)に気づいていこうという狙い。
「力=意図」という構図から始まった脱力のワーク。
自分の力みに気づくということは、自分の意図に気づくということであり、もっと言えば欲望に気づいていくということでもある。
単純なワークだけれども、意外と深い自覚を促されるワークで、混乱してしまうこともある難しいワークを進めてゆく。
終わってみれば参加者の皆さんも、とても楽しみながら魔女修行のレッスン(入門)をしていただけたようで、みなさんからとても良い感想をいっぱいいただけた。
魔女修行なんて大仰なことをやり始めてしまった「へなちょこ男」としては、とりあえずホッとできた今回の講座であった。
ちなみに魔女についてはこのブログの過去記事でちょこっと触れているのでそちらを呼んでいただければと思う。
→「魔女の教え」2006年6月18日
2016年04月24日
最新メディア情報2016年4月
Webマガジン「エル・ママン」に取材記事が掲載されました。
「香菜子のこどものからだにいいこと」という新連載で取り上げていただいたのですが、この連載は2児の母でもあるモデルの香菜子さんがいろんな人と対談していくというもので、その栄えある第一回記事にお声掛けいただきました。
香菜子さん、ありがとうございます。大変嬉しく思います。
そんなに量はありませんが4ページにわたって記事が載っていますので、ぜひぜひご覧いただければと思います。
記事はこちら
→エル・ママン「香菜子のこどものからだにいいこと」
2016年03月27日
最新メディア情報2016年3月
フリーペーパー「MAMMOTH(マンモス)」No.32に取材記事が掲載されました。
「ハンドパワー、使ってる?」という特集で、私以外にも木版画家やパン職人、視覚障害クライマー、編みもの作家の方などが出ています。
記事自体はそれほど多くありませんが、フリーペーパーですので、機会があればぜひお手にとってご覧下さい。
※配布場所はこちら。
MOKU出版から出ている月刊誌「MOKU」4月号に取材記事が掲載されました。
こちらは8ページに渡っての掲載で、けっこう言いたいことをワーワー言ったのをまとめてもらったので、読み応えがあるかも知れません。
ご興味あればぜひお手にとってご笑覧ください。
2016年03月01日
こどもビームス&クレヨンハウス コラボ
そのコラボイベントにお声をお掛けいただいて、私も講座を開催することになりました。
こどもビームスの取扱商品である抱っこひも「boba」の紹介イベントということで、私も整体的な見地から抱っこについてのお話とちょっとしたワークをさせていただきます。
ビームスもクレヨンハウスも今年で創業40周年で、そのつながりでのコラボイベントだそうですが、実はかくいう私も40周年。
私がかぶったのは全くの偶然でありますが、これまたなんとも不思議なご縁。
「不惑」のコラボイベントに、お時間ある方はぜひぜひお越し下さいませ。
詳細は以下の通りです。
「だっこだっこ会」@代官山ヒルサイドテラス
日時 2016年4月3日(日)
@10:00〜11:30
A14:00〜15:30
※各回定員がありますのでお申し込みはお早めに
参加費 1000円
場所 クラブヒルサイドサロン
渋谷区猿楽町30-2 ヒルサイドテラスアネックスB棟2階
東急東横線「代官山駅」から徒歩3分
問合せ こどもビームス
03-5428-4844 (10:00〜19:00)
2016年02月05日
北川さんとの対談メルマガ
とりあえずは現況報告ということで、今ネット上で読めるものをご紹介。
「コ2[kotsu]」というサイトで、ロシア武術システマのインストラクター北川さんとの対談メルマガが連載されている。アーカイブを読むためには会員登録(無料)が必要だけれども、最新話は登録せずに読めるので興味のある方はぜひどうぞ。
北川さんは野口整体を勉強していたこともあるので、考え方など似ているところもあり、毎回話をするたびに面白い話題で盛り上がっている。基本テーマは「親子体育」ということで、以前朝カルで行なった親子ワークのコラボ講座が元になっているのだけれど、話はあっちこっちに拡がっているので、それもまた楽しんで読んでいただければと思う。
北川さんの行なっているシステマという格闘技もなかなか面白いメソッドで、まえに北川さんにセミナーに招待していただいて参加したことがある。そのときは創始者のミカエル・リャブコ氏の息子さんで、同じくシステマの指導者であるダニール・リャブコ氏の来日セミナーだったのだけれど、その中で鞭を使ったワークを行なった。
初めに相手に鞭で軽く打ってもらって、それを硬くならずにリラックスしたまま受けるという準備体操のようなワークと、そのあとはもう少し本気で打ってもらってそれを手や足を使ってなるべく痛くないように受けるというワーク。
初めは軽く打ってもらうのでたいしたことはないかと思っていたけれど、受けてみると地味に痛い。でも「痛み」や「恐怖」に対して「リラックス」するというのがシステマの基本理念であるので、その地味に痛い鞭打ちを受けながら、ひたすらゆらゆらとからだを揺すってリラックスし続ける。
次にもう少し本気で打ってもらうのを腕や足で上手く捌きながら受けるワークを行なうのだけれど、これがかなり痛い。きちんと避けられればだいぶ痛みはマシなはずだが、何しろ初心者がいきなりそんなに上手に避けられるはずもない。打たれるたびにビシッバシッという音が響く。地味…でなく痛い。
でもやっていると痛みはともかくなかなか愉しいので、上手く躱せたり躱せなかったりして参加者の人と二人で組んでやっていたら、そこへダニール・リャブコ氏がやってきて声を掛けてきた。おそらく北川さんが「アイツ俺の知り合いだからちょっともんでやってくれ」とか親切に紹介してくれたのだと思う。北川さんもそばに来てニコニコと笑っている。
「私と組んでやってみよう」というので「お願いします」と礼をして始めたら、今までの参加者の方との練習とは比べものにならないほどの速さと重さを持った鞭がビシバシと繰り出される。「え?ちょっ…ちょっと待って」という言葉もむなしくビシバシと繰り出される猛攻撃になすすべもなく轟沈。全身、本気で痛い。「あ…ありがとうございました…」。
鞭というのは良くできたもので、からだを壊すことなく痛みだけを与えることに特化した武器なので、どんなに痛かったとしてもそれでからだを壊すということは無い…はず…と、自分を慰めていたけれど、セミナー後、帰ってシャツを脱いでみたら全身内出血の青あざだらけになっていて、それを見て家族ドン引き。
骨や内臓にはダメージを与えずともやはり皮膚にはなかなかシビアであったようである。これだけ大きな内出血は雨で増水したときに入った滝行以来である。あれも我ながらビックリしたけれど、パパはいったい外で何をやってきたんだという懸念と疑問が湧いた山上家であった。
でも何故かからだも心もすごいスッキリしているのが不思議で、平和ボケしてしまった現代ではこれくらいのワークも良いかもしれないと、何かが目覚めた体験であった。
いちおう念のため言っておくけれど、システマの講座がいつも鞭でビシバシやっているわけでは無い。なので興味を持たれた方は怖がらずに講座に参加して欲しい。新しい自分と出会えることと思う。からだというものは誠に面白い。
2014年04月10日
昔記事の掘り起こし
お会いした方たちから「ブログ楽しみにしてます!」なんて言われると、たいへん嬉しくありがたいのだけれど、そんな現状なので「なかなか更新できなくてすみません…」と平謝りするばかりである。
ブログを始めた2005年(!)当初は2日に1回、3日に1回くらいのペースでわんさかアップしていたけれど、今思えばよくそんなに書くことがあったものだと呆れてしまう。
まあその頃は今のようにあちこちで講座をやって人前でベラベラとしゃべることもなく、弟子として師匠のお手伝いを黙々とこなす日々であったので、しゃべりたいことが山ほど溜まっていたのであろう。
だから私はそれをあるときふと思い立って、ブログで吐き出し始めたのだ。
寡黙な青年だったヤマカミくん(まだ20代だったからね)はこれでもかと言わんばかりに書き散らし、その中でさらに思索の深まることもあったし、また新しい出会いがあったりもした。
けれども最近あちこちで講座を行なっていろんな人の前でしゃべるようになったら、講座の中で言いたいことを言っているせいか、あまりブログで吐き出そうという勢いは無くなってきた。
それで書こうと思ってパソコンの前に座ってもなかなか言葉が湧いてこないので、ふと昔のブログの記事を読み返してみたりなどすると、我ながらなかなか面白い考察をしていて、思わず懐かしみを感じながら引き込まれて読んでしまう。
そして結局記事を書かないままに一日が過ぎてしまうのだ。済まぬ。
まったくテメェでテメェの書いた文章に引き込まれて読んでいれば世話はないのだけれど、自分の本をときどき引っ張り出してはパラパラと目を通し、「イイコト書いてあるなぁ」と癒やされてしまうような人間が私であるので、もう仕方が無い。
それでブログの更新も実際なかなか進まないことだし、これから毎回記事をアップするときに、その時々でふと思い立った古い記事にリンクを貼って、ちょこっと文量増加の足しにしようかと思う。
以前から読んでいる方は「ああ、こんな記事があったな」と思って懐かしく思い出していただければ良いし、初めて読まれる方は「おお、こんなことも書いていたんだな」と楽しんでいただければと思う。
今回はこんな記事。
●2008年1月12日記事『からだゆるし』
2014年01月01日
自然の幾何学とアーカイブ
「みなさん新年あけまして…」と言いたいところなのですが、私は昨年末に身内を亡くして喪中の身でありますので、「今年もよろしくお願いいたします」とだけ申し上げておきます。
このブログもここ最近は忙しさにかまけて全然更新できておりませんけれども、それでも細々と着々とここまで続けて参りました。
これもひとえに読み続けてくださった方々のおかげであります。
重ねて御礼申し上げます。
さてさて、新年最初の更新は、毎回恒例となった動画の紹介でいきたいと思います。
いろんな動画をざっと見返しつつ今年のテーマは何にしようかと悩みましたが、今年のテーマは「自然の生み出す幾何学模様」ということで決めました。
それではさっそく一本目。
まずは自然の美の公式「フィボナッチ数列」から。
「フィボナッチ数列」は自然界のあらゆるところにひそんでいる数列で、「きれいだな」と思う自然の造形の背後によく見つけることができます。
お次は地球の海流図。
どこで見つけた動画なのかもすでに定かではありませんが、なかなかすごい動画です。
いったいどうやって海流の流れなど捉えたのでしょうか?
海流の流れというのは世界の海を駆け巡っているのですね。
ウネウネしていてなんだか気持ち悪くもありますが、まさに「地球は生きている」という映像です。
そして最後は二本立て。
どちらも音の生み出す幾何学模様です。
鉄板の上の砂によって描き出された波模様というのは、いわば音と鉄板との出会いのアーカイブです。
一つの音楽がレコードの溝に波模様として刻まれていくように、音を拾って刻み込まれた音の記憶。
しかるべく再生装置にかければ、鉄板上に描かれた砂の波模様はたちまち一つの音楽を再生することでしょう。
地球上のあらゆるモノは何かと出会うたびにわずかに摩擦を起こし、震動となって音を奏でているけれど、その音は必ず何らかの模様となって痕跡を残している。
もしそれを再生できる装置があれば、その痕跡から再びすべての出会いが美しく軽やかに再生されていくはず。
地球上のあらゆるモノはあらゆる出会いのアーカイブ。
一枚のレコードが、そこに刻まれた音楽の模様を読み解く者によって再生される日が来るまでただ沈黙しながら在るように、地球上のあらゆるモノたちもいつかそこに刻まれた模様を読み解く者によって、その記憶を美しく再生される日を待っている。
どうぞみなさんも今年一年、美しい出会いをその胸に刻み込んでいけるよう、お祈りいたしております。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2013年10月16日
まっすぐに風立ちぬ
気づけば10月も中旬。
ということは夏休みが終わってからもう1ヶ月半も経っているということである。
う〜ん、時は加速して過ぎてゆく…。
この夏は映画「風立ちぬ」を観てから、その影響で子どもと飛行機三昧の夏を過ごした。
長野で出会った26年グライダー作りをしているというヒコーキおじさんに、重さわずか4gほどというバルサで作れるグライダーの作り方を教わり、久しぶりの模型工作に興じていたのだ。
これがその英姿。

ホントに軽くて、そして恐ろしくよく飛ぶ。
手で持って空気に乗せるように押し出すだけでもふわーっと軽く飛ぶし、太い輪ゴムに引っかけて打ち放すように飛ばせば軽く10mくらいは舞い上がって、そのまますーっと30秒以上は滞空しながらゆっくりと舞い降りてくる。
いや〜、美しい。
そのさまは何とも優雅で、バルサの白木色が蒼い秋空によく映える。
おじさんが20年以上もヒコーキづくりにハマってしまうのもよく分かる。
ところで映画「風立ちぬ」は、我が家では子どもも含めみな絶賛の高評価だったのだけれども、世間的にはずいぶん評価が分かれているようである。(子どもはとにかくヒコーキばっかり見てたけど)
まあたしかにこの映画、「親切な説明」というものはほとんど無いし、お話自体のクライマックスというものもよく分からないし、何の物語なのかもよく分からないし、最後も「ん?それで?」と思ってしまうくらい淡々とした描写である。
零戦の設計者が主人公というからその飛行機づくりがテーマなのかと思いきや、どうもそれが映画の主題なのでは無い、というトリッキーな物語構成に多くの方が戸惑ったことだろう。
前作の「崖の上のポニョ」を観たときも、「すごい作品を作ったものだ」と驚かされたのと同時に「これって一般に受け入れられるのかな?」という不安を抱いたが、今回の「風立ちぬ」もそれと似た印象はたしかにあった。
けれどもそういう映画に抱いた客観的な印象と、個人的に好きかどうかという評価とは別のものであって、私自身は「風立ちぬ」は好きである。
何がって、とにかく次郎の「まっすぐ」である。
主人公の次郎のまっすぐさは、幼少期のエピソードに始まり、ことあるごとにくり返し描かれているが、宮崎監督はあの「まっすぐ」を描きたかったんだと思う。(と思っていたら、まったくその通りのことを企画書に宮崎駿本人が書いていた)
宮崎監督はとにかく「まっすぐ」を描きたかった。
だが、次郎のそのまっすぐさは、妹の加代には「薄情」と呼ばれ、親友の本庄には「マンネリズム」と呼ばれ、上司の黒川には「エゴイズム」と呼ばれ、劇中の人物の口を借りて、たびたびボロクソに言われている。
次郎はどれも否定しないし否定できない。本人が「その通りだ」と思っているからだ。
次郎本人も最後のシーンで「最後はボロボロでした」と言っているが、だが次郎あるいは宮崎駿にとっては「それでもなお」なのである。
「芸術は爆発だ!」のフレーズで有名な岡本太郎は、スキー場に行けば直滑降しかしなかったそうだし、車の後部座席に座っていても顔は運転手より前に出ていたそうである。しかも赤信号で止まると「止まるな!進め!」とどなりつけたというから、その「岡本太郎っぷり」たるや筋金入りである。
岡本太郎もまたまっすぐな人であったが、次郎のまっすぐっぷりはそれを彷彿とさせる。
私が一番印象に残っているのは、結核の療養所を抜けだして会いに来た婚約者の奈緒子を、次郎が抱き止めながら「帰らないで」と口に出すシーンだ。
病院を抜けだしてきた重病人に「帰らないで」とは、あんまり素直でまっすぐすぎる。
薄情でエゴイズムと言われても仕方が無いだろう。
でもその「まっすぐさ」が美しいのだ。
次郎自身が自分の業をすべて知りながら、「それでもなお」のまっすぐが美しいのだ。
宮崎監督はなんだかややこしくなりすぎてしまった今の時代に、こんなまっすぐさを描きたかったのだと思う。
まっすぐ生きるなんて、どう考えたってボロボロになっていくしかない。
それはホントにホントに大変な生き方であって、自分自身がそんな生き方をしたいとは思わないけれども、でもその在り方に美しさを感じないではいられないのも、また事実である。
「風立ちぬ」。「何の映画か」と言われると何とも答えに窮するが、「どんな映画か」と言われれば「まっすぐを描いた美しい映画です」と私は答える。
それはやはり主題歌通り、「ヒコーキ雲」のような映画であるかも知れない。
2013年08月02日
新刊「子どものしぐさはメッセージ」発売
いよいよ新刊が8月5日に発売となります。
その名も『子どものしぐさはメッセージ』(クレヨンハウス)。

2冊目の本から2年ぶりの刊行となりましたが、ようやく上梓できました。
本のまえがきにも書いているし、このブログでも書いたけれども、今回の本は「動詞で世界を語る」ということの、ほんの一歩目の駆け出しのような作品である。
今回は「子どもと楽しむワーク」ということを中心にまとめていったので、どちらかというと「子どもワーク本」という感じだけれども、いつか「大人の動詞」を考える「大人のワーク」もまとめていきたいなと考えている。…いつになるか分からないけれども。
しかし、今回自分が「子どものしぐさ」として挙げた動詞の数々を見ていて、そういえば人間って大人になると動詞の数が減っていくんだなと思い当たった。
たとえば今回の本で取り上げたしぐさでも、ほとんどの大人は「ころがる」なんてことしないし、「とびおりる」ことも「つみあげる」ことも「まねる」こともほとんどしないだろう。
子どもはいろんな動詞を試してみるけれども、大人になると「動詞の実験」ということはしなくなる。
私はときどき「いろんなシチュエーションに自分を置いてみる」ということをやってみるのだけれども、自分が自分だと思っているものは、じつは限られた動詞の中での自分に過ぎないわけで、今までにないシチュエーションで、普段やったことのない動詞を動いているときには、自分も知らない自分自身が出てきたりするものである。
だから普段はあまりないシチュエーションに自分を置いてみると、「へぇ、こんなときにはこんなこと感じて、こんな反応するんだ」と新しい自分を発見できる。
この本の中でもいろんな「しぐさのワーク」を紹介しているけれど、ぜひぜひ皆さんにもいろんな動詞を動いてみてほしい。
ありきたりな日常やありきたりな関係が、また全然違って見えてくること受け合いである。
とくに「新しい動詞」は、こわばり始めた身心に新鮮な息吹を吹き込んでくれる。
いや、というよりもむしろ、つねに「新しい動詞」に満ちているのが子どもの世界であり、若さであるのかも知れない。
つねに「新しい動詞」を食べ続けようという人は、おそらくいつまでも若々しい。
2013年06月13日
システマ北川さんとの往復書簡
今度、9月に立川の朝日カルチャーセンターで、システマインストラクター北川貴英さんとコラボ企画を行なうことになった。
システマ(⇒Wiki)というのは軍隊格闘術から始まったロシアの武術で、「脱力」というところを重要なポイントとしており、その独特な思想やトレーニング方法で、最近注目を集めている武術(ボディアーツ)である。
もともと朝カルの緑川さんが「この二人を引き合わせたい」と企んでいたようで、「システマの北川さんと一度会ってみませんか〜?」と誘われたので、「それはぜひ」とお答えしてシステマのクラスに飛び入り参加させていただいたのだ。
そして講座終了後、そのまま立川の小料理居酒屋へと向かい、そこで美味い酒など飲みつつどんなことをやろうかと企画を練って、その席で親子連れで参加できる体験型の「武術&整体」ワークショップをやろうということになったのである。
親子連れの方たちにいっぱい来てもらって、北川さんがシステマの親子向けワークをやって、そして私は…まあテキトーに何かやって(笑)、それで親子でからだをいっぱい動かしながら「からだを感じてみよう」という、そんな趣旨のワークショップである。
考えるだけですっごい賑やかな会になりそうだけれど(笑)、それでさらにその企画に先駆けて、ウェブ上で北川さんと私の往復書簡を行なおうという話が緑川さんの方から提案された。
わお、公開交換日記ですね。なかなか素晴らしいアイディアであります。
ということで、さっそくつい先日から公開往復書簡ブログが始まりました。
素敵なブログができましたが、なんと北川さんが自分で作ってくれたそうです。感謝。
しかし、ブログの更新もおぼつかないのに、新しいこと始めてどうするんだという思いもあるけれど、まあ往復書簡方式だと、話の相手がいるとか、影から担当のスタッフにせっつかれるとか、そういうことがあって更新も継続的に続きやすいので、そちらの方もぜひぜひちょくちょくのぞいてみてくださいな。
私もさっそく書いておりますよ。
でも、このブログもなかなか更新が進まず滞っておりますが、もっと軽いことをさらさらと書いていけば良いのですよね。
なるべく更新していくように心がけます〜。
2013年04月09日
分かっていること、分からなくなること
私は最近、講座で「人間は無意識のうちにはすべて分かっているので、今さら自分の欠点を隠しても仕方が無い。隠しているとむしろその「隠している」という身振りそのものがもうバレバレなんです」ということをお話しすることがある。
それは私がもう最近、実際にそう感じて止まないのでそう言っているのだけれど、たぶんホントにそうなのである。
私たちはすべて分かっている。あるいは感じている。
ただそれを言語化/意識化できないだけで。
先日、講座でそんな話をしていたら、参加者の方が「私は子どもの頃、トランプをやっていてもジョーカーがどこにあるのか全部分かったんです」という話をしてくれた。
ババ抜きなどやっていてもジョーカーがどこにあるのか分かっているから、ゲームとしては何も楽しくない。
だから周りの大人たちが「ババ引いたー!」などと言って楽しんでいる様子が、なぜだかよく分からなかったそうである。
それで子ども時代のその方は、頭を悩ませ考えた末にある結論に達した。
「分かった。みんな分からないふりして楽しんでるんだ。」
賢い子である。
このゲームを楽しむために、みんな分かっていることを分からないことにして、「ごっこ遊び」をしているのだ。なるほど。
そう考えたその子は、自分も分からないふりしてみんなと一緒にトランプを楽しむことにしたそうである。
それでどうなったか。
その人曰く、「そうしたら、いつの間にか分かんなくなっちゃったんですよ〜(笑)」
悲しいお話である。 だがきわめて興味深い話でもある。
最近の認知心理学の研究によると、赤ちゃんというのはサルの個体識別ができるそうである。
私たち大人は、サルが何匹かいたときにその顔をどんなによく見比べたところで、それぞれのサルの区別など到底つけることはできないが、乳児はすべてのサルの顔をきちんと識別できるというのだ。
しかし残念ながら、その能力は長くは持たない。
歳を重ねるにつれ消えていき、そしてやがて我々大人と同じように「サルはサル」という十把一絡げの認識になってゆく。
何故かということは単純だ。そんな能力は必要ないからである。
私たちにとって重要なのは、身の回りの人間たちの個体識別なのだ。
サルの個体識別などにその能力を振り向けるなら、日本人の個体識別能力に特化して磨いた方が良い。
まあきわめて妥当な生存戦略であると言えよう。
私たちを取り巻く日常は、良くも悪くも虚構に満ちあふれている。
私たちはみな、お愛想を言い、おべっかを使い、世間体を気にし、TPOをわきまえる。
分かっていることをあえて言わずにおいたり、見て見ぬふりをしたり、心にもないことをつぶやいたり、嘘でも褒めたり…。
それは良く言えば「社交辞令」、悪く言えば「欺瞞」である。
だが私たちの社会というものは、ある種そういうものによって成り立っているところがある。
だからそういう能力を身に付けてゆくことを「大人になる」と言い、そういう能力を身に付けていない人間を「子ども」と呼んで、彼らに「大人になれ」と言うのである。
世の中、分かっていても言ってはいけないことがある、と。
おそらく私たちはみな、無意識のうちにはすべて分かっている。
だがその分かっていることを、そのまま表に出して生きていくことは、大変リスキーなことであるし、しんどいことであるし、集団から阻害されていきかねないことである。
だから私たちはたとえ分かっていたとしても、言わないようにしながら、気づかぬようにしながら、分からないようにしながら、暮らしてゆくのだ。
そしてそのうち、ホントに気づかぬようになってゆく。
しかし、そんなことが「大人になる」ということであるとするならば、何とも悲しいことである。
最近の私のテーマでもあるのだけれど、私たちが真に大人になってゆくためには、「それを知ってなお」とか「すべて分かった上で」とかいうようなことがキーワードになってゆくような気がしている。
不都合なことから目を背けていては、分からなくなっていくことばかりである。
だが、そういうことに直面してなお、それと向き合うことに覚悟を決めて、それと向き合う作法を身に付けていけば、いろんなことに気づかぬようになってゆく「無知の病」に陥らずに済むのかも知れない。
う〜む、肚を決めていくしかない。
2013年02月12日
人間のワーク
年明けから、クレヨンハウスから出す3冊目の本の執筆に取りかかっている。
今度の本ではいろんなワークを紹介することにしたので、どんなワークを取り上げていこうかと頭を悩ませ、ふらふらと町を歩きながらもワークのことばかり考えている。
人間が生きていく上で、「どのようなワークを行なっていくのか」ということは、最高に大事なことである。
「ワーク」という言葉の意味は、狭義には「みんなで一緒になってゲームのようなことをする」という意味合いであるけれど、私が言わんとしている広義の意味では、「人間が行なうあらゆる活動であり運動であり仕事であり遊びであるところのワーク」というものである。
そんなことを言っても、なかなか意味が分かりづらいかも知れないけれども、それは私が2冊目の本の中にも書いた「世界を動詞で語ってみる」という言葉のさらに深めた意味なのだ。
もし世界を動詞で語ってみたとしたならば、その言語世界において私たち人間存在は、「ワークするメディア(媒介)」ということになるだろう。
ダンサーにとってその存在が「ダンスのメディア」であるように、私たちはみな「何かのワークのメディア(動詞のメディア)」なのである。
それは人によってそれぞれ異なるフォルムとダイナミクスを持って行なわれているが、それぞれにおいては固有のリズムとパターンが現われており、そこから外れることはあまり無い。
自身に固有のリズムとパターンを理解して、そこから自分にとってどのようなワークを行なっていくことが自分の能力を最大限に発揮していくことなのか、それを見極めていくことはより良い人生を送っていく上で大切なことになるだろう。
自身に固有の動詞のワーク表現(アート)をしっかり身に付け、それを全うしている者はじつに溌剌としているが、ときに自身に固有の動詞から外れたワーク表現を身に付けてしまって、その中でうまく自身の動詞を発散全うしきれずにゴタゴタしている人というのは意外と多い。
その「動詞の視点」というものは、人間関係を考えていくときにも大事な視点である。
たとえば夫婦関係がうまくいかなかったときに「離婚する」という決断があったとして、じゃあ相手を変えればうまくいくかと言ったら、そういうわけでもないということなのだ。
パートナーという「名詞」を変えたところで、相手とどのような関係をとりつないでいくのかという「動詞」の部分が変わらなければ、また同じような関係が繰り返されていくことになる。
関係において、名詞を変えるのは簡単だけれど、動詞を変えていくのは大変だ。
意志を保った時間をかけた訓練が必要になる。
だが、自分がどのような動詞を動いているのか、いかなるワークを繰り返しているのか、そんなところを見つめる視点を持ち、そして必要とあらばそれを変えていこうという意志を持たなければ、延々と繰り返される宿業のような連環から抜け出すことはなかなかできない。
関係において大事なのは、それぞれの名詞そのものなのではなく、そこに潜んでいる動詞なのだ。
二つのオブジェクトを並べて見つめたときに私たちにやってくる印象は、その二つのオブジェクトに潜んだ動詞と動詞が交わるダンスのワークから来ているものである。
そして私たちの人間関係もまた、二つの動詞の交わるワークだ。
もしもその関係において、いつも同じようなところで引っかかったりつまずいたりするのであれば、そこでどのような動詞が動いているのか、そんなことを考えてみることは自己理解の一助になるだろう。
そして、そこで今動いている動詞の理解ができたならば、その次に必要なことは「違う動詞のワーク」を動いていくことである。
いつだってやるべき事はシンプルだ。実践することは大変だけれど。
今回の本のワークのことをつらつらと考えながら、「そんなところまで触れられたら素晴らしいなぁ」とちらりと思ったりはするけれど、まあ私の力量では到底そんなところまではまだまだ触れられない。
それでも多くの人たち、とくに子どもたちには、ぜひいろんな動詞のワークを体験していって欲しいとつねづね願っているので、いま一生懸命考えているのである。
これがなかなか大変だ。
でもそれこそ私のライフワークの一つでもあるのです。
2013年01月04日
This is a pen.
みなさん新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年は結婚、出産、転居と自分にとっていろんな転機の年であったけれども、その最後の締めくくりに家族そろってクーヨンに出るという出来事があった。
来年度の連載の打ち合わせを兼ねて担当の編集者さんが我が家に遊びに来たときに、「今度ぜひ一家で出てくださいね〜」などと言いながら去っていったのだが、数日もしないうちに「企画が通りましたのでどうですか?」と、いきなりオファーがあったのである。
最初は写真に写るのは自分と生まれたばかりの子どもだけのつもりだったが、念のために上の子(5歳)に「雑誌に出る?」と訊いてみたら、「やだ」とか言うのかと思ったら予想外にも「出たい!」と言うので、結局家族そろって出ることになったのだ。
肝心の特集のテーマはというと、「夫婦仲が良ければ子育てはうまくいく」とか何とか。
そんなこと新婚夫婦に訊いてどうするんだろうとも思うが、私には前に書いた出産にまつわる記事あたりのことをしゃべって欲しいと言うので、「そんなんで良いなら」とお答えする。
私のような新米夫に夫婦関係の何が語れるのかは知らないけれど、先方から「しゃべってほしい」と言われれば仕方がない。いろいろ語ってみましたよ。
そんな私の「男の出産」についてのお話と、私の一家の写真とが、暮れの12月29日に発売されたクーヨン2月号に載っております。
今なら取り扱い書店に行けばきっと並んでいるはずですので、どうぞぜひぜひご笑覧。
さてさてところで、毎年年明けには昨年見た動画で印象に残ったものをご紹介するのが恒例のようになっているのだけれど、最近はなかなか動画を見る機会が減ってしまったので、正直何にしようかとけっこう悩んでしまった。
有名なものを紹介しても「もう見た」という人も多いかもしれないし、なので、今年はとっても地味だけれど思わず最後までぼーっと見てしまう、そんな動画にしてみました。
まあ内容の紹介などは特に要らないでしょう。
職人技と言いますか、達人技と言いますか、まあとにかく見事で見とれてしまいます。
無性に自分もペンで字を書いてみたくなる、そんな動画でありますね。
2012年11月17日
カタチ以前を見つめる
記事のアップが遅くなってしまったけれど、先月末に行なった氣道協会での講演&対談は無事終了。
その中で「野口整体とシュタイナー教育を結ぶものとしてのゲーテ」というものを語ったけれども、どこまできちんと語れたかは自分でもよく分からない。
でもとにかく「カタチに潜む流れ」「空間に込められた時間」というものを軸に、整体とシュタイナーに通じる教育観(人間観)というものを一生懸命語ってみた。
「シュタイナーはゲーテの正統な伝承者である」というようなことをずいぶん前にこのブログで書いたけれども、そのときの思いは今になってより一層強くなっている。
シュタイナーはゲーテの見た世界の在り方をさらに深め、その世界観に基づいた教育方法を立ち上げた。
それがシュタイナー教育だ。
そこにはすべてがつねにダイナミックに動いているものとしての世界観があり、そのダイナミズムは教育方法のダイナミズムとなって、「教育」という営み自体があたかも一つの成長し続ける生命体のようなとして立ち上がってくるように作り上げられている。
そのシュタイナーの透徹した眼差しには驚かされるばかりで、昔の記事にも書いたことだけれども、「算数の学び方の中に、道徳教育が動いている」なんていうことは、とうてい普通の人が考えつくようなことではない。
しかしゲーテ的な世界の見方で見れば、その算数の教授の中で子どもに染み込んでいく運動性や志向性は、決してなおざりにできるようなことではないのである。
そこには子どもの中で動いている「ある種の運動」を見つめる眼差しがある。
そして整体において野口晴哉が人間の中に見ていたことも、また同じようなものがあるのである。
それは言ってみれば、「カタチに潜むカタチ以前」「カタチを作る流れ」とでも言えるだろう。
そもそも私たちのカタチは、それ自体が世界とのせめぎ合いの中で私たちが出した一つの「答え」である。
私たちは世界に対して、この人体の姿カタチをもって「答え」を提示しているのである。
(もちろんその「答え」は今でも揺らぎ生成され続けているカタチであることは言うまでもない)
私たち人間の「生きる」という営みの中で、世界に対して押したり引いたり曲げたり突っぱねたりした結果がこのカタチなのであり、そして世界に対してこのカタチを示し続けるということが、つまりは私たちが「生きている」ということなのである。
だからカタチの中には、私たちの「来歴(過去)」も「現在」も「願望(未来)」もすべて顕れている。
だとしたらそのカタチをしっかり見通すことが、私たちの「生きる」というある種の運動やプロセスの理解につながってくるはずである。
その具体的な方法をシュタイナーや野口晴哉は教えてくれている。
ただ、「ボタンを押したらすぐさま結果が出る」ということを目指して発展してきた現代の合理主義的世界観の中では、そういうようなモノの見方はとても難しくなってきている。
「効率化」の名の下に、何かが作り上げられていくプロセスをどんどん省いていくということは、カタチからプロセスの痕跡が消えてゆくということでもあり、使い捨てのサイクルの短縮化はその後のプロセスによる「カタチの微修正」をも受け付けることがない。
そんな入力から結果への「プロセス」がどんどん省かれよう省かれようとしている中で、その合間の「プロセス」をもう一度見つめ直そうというのだから、それはある意味、現代人的な感覚に対して抗おうということなのだ。
けれども3・11以降、日本人全体の中にそういう志向性ははっきり高まりつつあるし、私自身これからの時代に必要な思考法であると確信している。
「モノに込められたプロセス」、それはつまり「時間そのもの」であるけれど、そういうものを見つめていくことは私たちにとってホントに大事なことなのだ。
まずはふだん何気なく見過ごしていた樹や川や海や水の流れをジーッと見つめてみるところから始めると、ちょっとずつ見える景色が変わってくるかも。
もしそのような眼差しをもって目の前の人間を見つめられれば、きっとまったく違うものがそこに見えてくるはずだ。
2012年10月17日
ゲーテの師弟の対話
今月末に、横浜の氣道協会で「整体とシュタイナーの人育て」と題した講演&対談を行なう。(チラシはこちらから)
対談のお相手は、今年の3月に清澄庭園で行なった整体シンポジウムのときの対談相手である長谷川淨潤先生である。
淨潤先生ご自身は特別シュタイナーの研究をされているわけでもないけれど、何のご縁か小さい頃に、シュタイナー研究の第一人者でもある高橋巌先生のお弟子さんに家庭教師についてもらっていたそうである。
その心温まる「師弟関係」については、二人の間でやりとりされた往復書簡を掲載していくという形で、氣道協会の会報誌のほうに連載されているけれども、「ああ、青春期にこういう師弟関係を持つことができたら幸せであるな」とつくづく思わされるような関係である。
家庭教師というと、現代のイメージは「学校の教科を教え、授業の補完をし、テストの点数を上げるパーソナルティーチャー」という感じだけれども、淨潤先生とその家庭教師の先生との関係は、そういうものとはまったく違う。
その家庭教師の在り方はむしろ、「物事の考える方法を教え、人生を楽しむことを伝え、一人の人間として豊かな生き方ができるように導くメンター」という感じである。
だから二人は手紙をやりとりしたり、一緒に旅行に行ったり、山登りをしたりもする。
それはつまり「一人の人間として丸ごと関わる」ことが家庭教師であるということなのだろう。
ちなみにシュタイナーも若い頃、水頭症の子どもの家庭教師を引き受けたときに、同じように一人の人間として丸ごと関わったことがあるけれども、シュタイナー曰く、その経験はその後発展していくこととなる「シュタイナー教育」のインスピレーションの大本となったそうである。
十代前半の一人の少年(淨潤先生)に対して、そのように親以外の大人が一人の人間として丸ごと関わり、ときに音楽について、ときに哲学について、ときに映画について、ときに人生について、お互いに思うところを語り合ったり手紙を出し合ったりして対話する関係は、不思議な温もりとすがすがしさを感じさせる。
昔はそのような「人としてどのように生きてゆくのか」という人生の生き方全般についての学びこそが「教育」の根幹であったように思うが、現在、教育問題についての論議の中にそのような主題が表立って語られることはほぼ皆無と言って良い。
いったいいつからそんなことになってしまったのだろうか…。
今回の講演&対談に向けて、「何かあらかじめ読んでおくべき本などありますか?」とスタッフの方から訊ねられたので、「何でも良いのでシュタイナーの本で何か気に入るものを一冊」と軽く答えておいたら、淨潤先生の方からは「野口先生の『偶感集』と、エッカーマンの『ゲーテとの対話』」というお返事があったそうである。
「野口整体」と「シュタイナー教育」の教育論についての講演会において、あらかじめ読んでおくべき本として『ゲーテとの対話』をあげられた淨潤先生に、同じ質問に軽く答えた自分は一瞬たじろいだけれども、そのチョイスに今回の対談において淨潤先生が言わんとしていることをすでに感じたような気がした。
『ゲーテとの対話』には、作者であるエッカーマンと彼が敬愛してやまないゲーテとのやりとりがふんだんに散りばめられている。
若き文学者であるエッカーマンが文豪ゲーテの下を訪れ、詩について、文学について、さまざまな教えを受ける。
それは言ってみれば「師弟の物語」そのものである。
一人の弟子が師匠から賜った珠玉の言葉の数々をさまざまなエピソードとともに紹介し、そしてそのやりとりが読む人にとってもまた祝福となるよう、祈りを込めながら物語ってゆくというそのカタチは、すでに「人がいったいどのようにして成長するのか」ということに対する一つの答えであるかもしれない。
私は「人はみな幾つになっても師匠を持つべきである」という信念の持ち主であるのだが、それはそのことがどれだけ人生を豊かなものにしてくれるか、計り知れないものがあるからである。
けれどもそれは実際に師匠を持った者でなければ分からないことなので(持っただけでも分からないけど)、「なんで?」と言われても私はその質問に答えうる回答を持たない。
淨潤先生もそんな私を知ってか知らずか、二人の対談の前に読むべき本として『ゲーテとの対話』を持ってくるのだから面白い。
何しろゲーテ自身がまた、その本の中で言っていることなのだ。
「独学は良いことではない。先人に学ばなくてはいけない」と。
むむむ…、これはやはりその真意を改めてご本人に問いただしてみなければなるまい。
じつは私も今回の講演において、「野口整体」と「シュタイナー教育」の人間観を約分するための分母に、「ゲーテ」というキーワードをまったく別の観点から持ってこようと思っていたのであるが、そういうところにきて向こうからきたのが『ゲーテとの対話』であるのだから、これがまたまた面白い。
いろんな糸が交差する妙縁の結び目。
さてさて、いったいどんな対談になるのか今から楽しみである。
2012年08月28日
カタチと境界
ご存じの方も多いかもしれないけれど、隈研吾さんという建築家は「負ける建築」というコンセプトで建築設計を行なっている面白い方である。
(「負ける」というコンセプトは、野口体操の創始者である野口三千三先生もおっしゃっていたことである。「負けて、参って、任せて、待つ」。)
「負ける建築」と言っても、何も吹けば飛ぶよな家を建てようということではない。
その建築を建てる土地や気候や風土に「勝とうとしない」ということであり、もっと言えばそういうものと「勝負しない」そんな建築のことである。
もともと日本の建築文化は、「自然を征服しよう」という気のさらさらないようなものであった。
そうでなければ、障子のような「薄紙一枚張っただけの仕切り」など、思いつこうはずもない。
日本の建築はどちらかといえば「自然と折合いを付けていこう」という思いがある。
日本人の世界観には「一緒に生きていかなければならないモノとは、勝ち負けを決しない」というような考え方がある。(勝ってしまうくらいならむしろ負けておけと古人は言う)
それは長い経験に裏付けられた偉大な「人類知」であると私は思うが、その思想が建築そのものの中にも現れていた。
それが隈さんの言う「負ける建築」というコンセプトなのだと思う。
その隈さんの『境界』(隈研吾、淡交社、2010)という本を、夜中に晩酌しながらパラパラと読む。
良い本である。
スキマとかアワイとかハザマとか、そんな「境界」好きの私にはもうたまらない。
「境界」というのは、隈さんの言う「負ける建築」というコンセプトにおいても大事な概念であるのだが、この本の中では、さまざまな日本の「境界、仕切り」を美しい写真とともに紹介されている。
垣根、障子、暖簾、欄間、犬矢来、枝折戸、土間、衝立、屏風…。
私たちの祖先はなんと美しい「境界」を、身の回りに作り上げてきたのであろうか。
私たち日本人は聖域に注連縄をしめ、紙垂を垂らす。
それはもちろん「境界」であり「結界」の意であることに相違はないが、あんな弱々しい縄や紙切れに、邪悪なモノの侵入を拒むだけの力があると本気で信じるほど、私たち日本人の祖先はナイーブだったのだろうか。
いやいや、そうではない。
結界とは「人間の心の中に張るモノ」だからこそ、古人は具象としては極めて儚く覚束ないものに、その働きを仮託したのだ。
ドデカイ鉄板とか巨大な石塀とか、そんな強固な具象物をどかどかと積み上げて結界を張ったなら、やれやれと安心してしまって、それがいつか心のどこかに油断を招き、やがて綻びを生んで「本来の結界」が破られることになるかもしれない。
それはマズイ。
大事なことは「いまの私たち」が束の間の安心を享受することではない。
魔を防ぎ護り抜く「結界」が、子孫代々末代までも連綿と受け継がれ、護り続けるために、「いまの私たち」は何をすべきなのか。
おそらくそんなことを古人たちは考えたに違いない。
「物質的に儚きモノが、霊的な強さを保持する」ということはよくあることである。
日本の「境界」は、どれもどこか「壊れやすさ」や「儚さ」というようなものを帯びている。
壊そうと思えば壊せるし、乗り越えようと思えば乗り越えられるような「境界」だからこそ、「壊さない」「乗り越えない」という自制の心をその前に立つ人の心に呼び起こす。
日本の「境界」の立ち上げ方には、その前に立つ人間の心に「託そう」とする意匠がある。
『あなたの「律する心」に任せます』という思いが、カタチとなってある。
そのようなカタチに囲まれて育てば、やはり人の心もそれに応えるように育つだろう。
そんな相互作用的なカタチを、私は限りなく美しいと思う。
そんな美しい日本の「境界」を説明する隈さんのコメント。
「暖簾」
通過の際、頭を下げず、手を使わない人は稀である。わずかでも頭をかしずかせ、手を使わせる「弱い力」が、思いのほか強い力となって、人に空間の質の違いを認識させる。
「玄関」
「バリアフリー」という聞こえのよい言葉で画一化された空間とは一線を画す。通過時に身体に負担を強いるほどの段差。身体がそう感じるからこそ、意識にも確かな変化が刻まれる。
「垣根」
乗り越えようと思ったら、簡単に乗り越えられる。その抑制は、見る者の良識に委ねられる。仮設性の強い、意識に「待った」をかけるためのまじない。
(前著より抜粋)
たぶん私たちは、こういうことを念頭に置いた「暮らしの作り方」を、もう一度模索していかなくちゃいけないんだと思う。
2012年07月19日
出産前後の機
出産のドタバタがあって、ブログの更新がずいぶん遅れてしまった。
まあ身近な方にはすでにお知らせいたしましたが、おかげさまで妻は無事出産いたしまして、現在母子ともに健康に過ごしております。
出産は、野口整体式のいわゆる「整体出産」というものを行なったのだけれど、産後の起き上がりも順調にクリアし、今は自宅で暗がり生活をしているところであります。
整体出産というのも、自ら当事者としてかかわってみて改めて思ったけれども、現代人の生活様式の中では、その実践がなかなか難しい点がいくつかある。
その中でも一番は、産婦の寝たきり生活中のいわば「介護人」を誰かが務めなければならないのだけれど、これがよほど整体に理解がある人でなければ務まらないということである。
整体そのものの知識に詳しい必要は必ずしも無いかもしれないが、やはり産婦の要求にある程度応えられるだけの理解がなくては務まらない。
私自身はいろんなことを鑑みた上で、これはやはりパートナーが行なうことの意味というものを強く思ったし、何より私自身が「ぜひ」やりたいという思いがあったので(好奇心旺盛なので実はそちらが強い)、予定日を挟んだ三週間あまりの仕事をがっつりお休みさせていただいて、出産前後の生活にこれでもかというくらい関わったのだけれども、これもいわば自由業の強みであって、会社勤めであったらなかなか難しいかと思う。
公務員であれば、産休育休についてはかなりきっちり対応してくれるだろうが、このご時世、そんなに誠実に対応してくれる会社ばかりではないだろう。
けれども、そこのところをきちんと押さえておくということは、その後の育児あるいは夫婦生活においても非常に重要なポイントであると、私は今回改めて確信した。
別にそれは何も「整体出産」に限ったことではない。
もし、人生において「決して外してはいけないポイント」というものがあるとするならば、真っ先にその候補に挙がるのが「出産前後の生活」であるだろう。
そこに気を込め、徹底した集注で過ごすということ。(もちろんその対象は「母子」である)
それはその後のあらゆることに関わってくるから、とにかくホントにホントにホントに大切にしてほしい。
介護人にならなくとも、会社を休めなくとも、不器用でもいいから、とにかく集注してほしいのだ。
それほど重要な機は、この機を逃して他にはない。
この機の刺激は、その関係において一生残ると思って集注することが大事である。
このことはまあ当然のことながら主にパートナーである男性に対するメッセージであるわけだけれど、それだけでなく、母子に関わるあらゆる人たちに対するメッセージでもある。
私もいろんなママさんのお話を聞くけれども、出産前後のパートナーの挙動や、心ない言葉を投げかける親族や、脅すばかりの医療者の存在が、その後の「子育て生活」にどれだけ影響を及ぼしているかは計り知れないものがある。
それらはどれも到底「母子に対する集注」の欠片も感じられない挙動ばかりで(まあだいたい自分の都合ばかりを見つめているわけだけれど)、そういうものは「出産前後の生活」には、一切不要なものなのであります。
というより毒なのでむしろ避けた方が良いのであります。
必要なのは「母子に対する集注」。
それは一言で言えば「愛」であるけれども、具体的に言えばつまり「母子の要求を丁寧に聴こうとする態度」なのであり、そして「その要求に応えようとする行動」なのである。
…というわけで、私はまたしばらくシコシコと、母子に集注しながら暗がり生活に引きこもるのであります。ゴソゴソ。
2012年05月26日
毎日新聞の記事と「ふれること」
5月21日の毎日新聞に、私の講座を大きく記事で取り上げていただいた。
「桜美林大学の山口創さんと一緒に取り上げます」と記者の方に言われていたので、「おお、それは光栄。一緒に並ぶのかな」と思っていたら、私ばかりがデカデカと取り上げられて(しかもカラー写真)、山口先生はコメントのみで私の活動の学術的後方支援をしていただくという構成だった。
そんな構成とは思ってもいなかったので、記事を見て恐れ多くてビックリしていたら、太陽まで月の影に隠れてしまったのでありました(笑)。(みなさんご覧になりました?)
東京の天の岩戸開きの記念日に、新聞に取り上げていただきました。妙縁妙縁。
山口創さんといえば、身体心理学の観点から皮膚を研究されている研究者として有名だけれど、私のように整体をやっている者からすれば、学術的立場から自分のやっていることを解説していただけるので、とてもありがたい存在である。
最近も『手の治癒力』(山口創、草思社、2012)という新刊を出されて、まさに私たち手技系の活動者たちのやっていることの意味と重要性を熱く語ってくださっているので、ぜひぜひばんばんご活躍いただきたいと願う研究者のお一人である。
思えば、山口創さんを知ったのはずいぶん前、NHKブックスの『愛撫・人の心に触れる力』(NHKブックス、山口創、2003)という本だったけれど、あれもとても良い本でありました。
それ以来、著書はつねにチェックし続けているけれど、さすが触覚や皮膚の研究をされているだけあって、書かれている言葉の言い回しもその差し出し方も、どれもとてもキメ細かくて手触りが良く、私はとても好きである。
皮膚というのは、実はその働きがまだまだ良く分かっていないところがいっぱいある。
あまりにいろんな働きを担っているので、研究対象としてはなかなか厄介なのである。
いろんな働きを担っているということは、その働き自体が非常に複合的で相互作用的であるということであり、そうなるとその作用における関係因子が膨大になってしまうので、科学的実験的手順の机上に載せづらいのだ。
実験というのは、そこに関係する要因(温度とか、湿度とか、観測機器とか)をできるかぎり不変の状態に固定して、影響を知りたい要因のみをピンポイントで少しずつ変動させながら、変化の度合いを観察していくという手法を取るゆえ、いろんな因子と密接にリンクしてしまっている素材に関しては、その分析手順が非常に煩雑なものにならざるをえないのである。
皮膚の活動は、温度によっても、湿度によっても、気分によっても、食べ物によっても、内臓の調子によっても、服装によっても、人間関係によっても、ずいぶん変化するということだけは経験的に分かっているわけで、そんな部位がいったいどのような因果関係に基づいて一つの化学的プロセスを起こすのか分析しようなんて、空想するだけでややこしそうなことになるということは分かり切ったことである。
それでもなおそんなところを研究しようというのだから、山口先生はエライ。
きっと単なる研究意欲だけではない、熱い使命感をお持ちであるに違いない。
まあそんなわけで皮膚の研究はこれからが面白いところだと思うのであるが、おそらくは人間の深層心理やあるいは脳の活動などと連携しながら研究が進んでいくことだろう。
そしてそれと歩調を合わせるように、教育分野での応用がもう一度見直されていくはずだ。
嘘かホントか知らないが、セクハラやパワハラなどの観点から、体育指導の際に教師が子どものからだにできる限り触れないように指導しているところがあると聞いた。
けれども、「ふれる」こと抜きにしてからだを育てようなんて、なにか根本的なところでボタンを掛け違ってしまっているような気がしてならない。
「ふれる」という行為は、たしかに良くも悪くもキワドイことである。
だが、キワドイからと言って、安易に禁止してしまってはならないのではなかろうか。
人は「ふれる」だけで、他人を奮い立たせることもできれば、最大の屈辱感を味合わせることもできる。
その差はホントに紙一重のキワドサである。
でもたとえば、「子どもを抱きしめること」ははたしてセクハラだろうか?
あんまり親しくない先生にいきなり抱きしめられて、何とも言いようのない困惑に立ち尽くして固まる子どもの気持ちは、世間で言われる「セクハラ」の一言で片付けられることだろうか?
そこにはもっともっとキメ細かい感情の襞が、さざなみだっているのではなかろうか。
気恥ずかしさと、嫌悪感と、嬉しさと、困惑と、同情と、愛情と、苛立ちと、いろんなものが渾然一体となって動いているその時の気持ちは、決して他人がそれを名付けることなどできない、生々しい人間感情であるだろう。
何度も言うが、それはホントにキワドイことだ。
子ども心に「片付かない気持ち」が残るかもしれない。
けれども、個人の心や気持ちの「片付かなさ」を、法やシステムで「片付けよう」とし過ぎることは、決して良い方向であるとは思わない。
たとえば「それはセクハラだ」と近くの大人が言えば、子どもはその片付かない気持ちに「そうか。これはセクハラだったのか」と得心するだろう。
そうして、のちのち何かとても大切な心情に気づくかもしれなかった原体験が、安易な言語に摩り替わってしまって、そしてもう二度と顧みられなくなるかもしれない。
「教師の不祥事」という記憶とともに。
けれどもそれは何だか、とても とても とても 寂しい。…私は。
こんなブンガクな気持ちが分かってもらえるか分からないけれど、すごく人間が寂しくなる。
ホントに何度も言うが、「ふれる」ということはとってもキワドイことである。
上に挙げた例だって、ホントにキワドイ。
安易に「良い」とか「悪い」とか、そんな判断も下せないほどにキワドク、むずかしいことである。
でも、だからこそ、もうちょっと考えてみようよ、と思うのだ。
キワドイということは、それだけ大事な核心にふれているということなのだ。
何かに「ふれている」とき、私たちはその感覚をとうてい言語化しきれることなどできない。
「ふれる」ということは、本来からして、言い表しようのないもの、片付かないものと向き合っているということなのだ。
そのような体験を幼少時からいっぱい経験していくことが、子どもの中にどんなものを育んでいくことになるのか、少し考えてみるだけで想像できるはず。
さまざまな手触りのものをふれてきた経験を持つ子どもは、きっといろんなものに「ふれよう」と伸ばす手が、より緻密に感じ分けようとやさしいタッチになるはずだ。
人生を生きていくということは、いろんな人の気持ちに「ふれてゆく」ということだ。
できれば、そこに手触りや体温を感じさせる、そんな教育と社会を作り上げていきたいものである。
2012年04月19日
大受媽媽歓迎的整體治療師
クレヨンハウスから待望の本が届いた。

バーン! 私の著書『整体的子育て』の台湾語バージョンです!
その名も『随著四季………変化……ナントカ』でーす!(笑)
なんと海を越えて海外まで進出してしまいました〜。パチパチパチ。
よく見ると表紙の日本語がなんだか怪しいが、まあそれはご愛嬌でむしろ可愛いものである。
自分が書いたはずの文章が、自分の知らない言語で活字になっているというのは何とも不思議な気分であるが、いったいどんな翻訳をされたのか、さらには文化の違う台湾の人々にどんなふうに読んでいただけるのか、非常にドキドキワクワクしている。(野口整体って野口整骨って言うんですね〜)
私の文章が好きだと言ってくれる稀有な人々(あなたのことです)によって、私の物書きとしての活動は細々と続いているわけだけれど、ハッキリ言って私の文章は国語の先生に見てもらったら、そこら中に朱が入るようなそんな体の文章である。
だから「台湾語に翻訳して出版したい」というオファーをいただいた時に、「これ、訳せるの…?」という疑問が浮かんだのだけれど、まあその苦労は私が心配することでもないので、「あ、イイっすよ」と気軽にお返事させていただいた。
それがおよそ1年前の話で、それからさっぱり連絡がないので、「そういえば、あの話っていったいどうなっているのかな〜…」とふと思い出した最近になって、「できました!」と我が家に届いたという話。
正直、「よく訳したな〜」というのが私の素直な感想だけれど、きっと私の知らんところで大分意訳をしたことだろう。
何しろ私の文章は、論理は矛盾しているし、ときおり主語は入れ替わるし、ハッキリ結論を出さないし、まあ論文としては体をなしていないと言って良い。
そんなことは指摘されるまでもなく自覚していることであり、文句や苦情を言われても「そうなんです。スミマセン」とお答えするしかないので、だからあらかじめ言っておく。
「そうなんです。スミマセン」。
けれども、そんなことを自ら述べることから推測できると思うが、私はそんなことをあえてやっている。
そのことの意味を語ろうとすると、これまた非常に長くなってしまうので割愛させていただくけれど、決して私の国語能力の欠如によってのみそのような文章になるのではなく(それも多々あろうが)、私はハッキリとした意図を持って、確信的にあえてそのような語り口を採用しているのだ。
いちおう(笑)、それだけは申し上げておく。
ひとつ分かりやすいところを上げれば、私の文章は「途中で主語が変わってゆく」というスタイルを取ることがある。
そんな文章はきっとキリスト教圏の言語体系においてはバッサリ切られて終わるだろうが、日本人はなんとなく読んでいってしまう。
なぜならそれが日本語の言語体系だからでもあり、つまりは日本人の思考体系だからでもある。
広辞苑を開いてみると100以上の一人称単数を表わす言葉があるらしいが、それくらい日本人は「私」というものを使い分けている。
それはつまり、それだけ日本人にとっての「自分」というものが、文脈依存的に立ち現れているということでもあって、その挙句には主語そのものが抜け落ちてしまっても内容的に一向に差し支えないという特徴にもつながっている。
私はそんな日本人の言語癖を狙って働きかけているわけだけれど、それはいつの間にか変わってゆく主語に導かれて、いつの間に変わってゆく主体というものを、読者の皆様の中に「ある種の運動」として誘発したいからなのだ。
これは現代病の1つだと思うが、「本当の私」幻想によって息苦しくなっている人というのは、けっこう多い。
そういう人は、「頭の中の本当の私」と「現実(現在)の生々しい私」との乖離の中で、「現実(現在)の私」を受け入れられないままに「現実(現在)の私」を生きていかなくてはいけないという、本当に生き苦しい状況に陥っている。
自分なんて言うものはもっと不埒で、平然とタガを超えて、どんどん変化していくということを受け入れられると、ずいぶん楽になれるのだけれど、それがなかなかできない。
「自分というのはこれこれこういうものである」という自己規定の名指しによって、それにそぐわない自己部分のネグレクト(育自放棄)が起き、その部分の反感的作用から引き起こされる症状にさいなまれている。
その原因は家庭や学校や職場の人間関係とか、あるいは学校教育やメディアの語り口とかいろいろあるだろうけど、それは「自分というものの規定」、あるいは「言語体系」そのものの変革によって、ずいぶん変わってくるような気はしている。
私はそんな現代人の「自分」というものを平然と連れ去りたくって、ときおり主語をするすると変化させながら文章を書くのだ。
気づかぬ内に「私」が「あなた」になり「誰か」になり、また「私たち」になっている。
もし私の文章を読んで、少し元気になって気が楽になるのなら、小さな「私」から手放されていく自分というものがあるからだと思う。
読み進めるうちに、するすると主体が変化し、いつのまに見える光景が変わっている、感覚。
それはじつは私が言語の中で行なおうとしている「潜在意識教育(指導)」のひとつである。
私が「言語」の中でチャレンジしていることはいくつかあるけれど、「現代的論理思考形態」を乗り越えていきたいという思いは強い。
神話の時代にまでさかのぼらないにしても、たとえば研究者たちがその学術的成果を、詩や散文のように語ることができるようになったなら、きっと世界はずいぶん変わるはず。
現代人にとって、「言葉」の問題は大きい。
しかしまあそんなことはともかく、この私の肩書きはいったいどんなもんだろう。

「大受媽媽歓迎的整體治療師」って…(笑)。
まあ、今の私の立ち位置が分かりやすいけれどもね。
2012年03月21日
3・11の整体シンポジウム
震災からちょうど一年の3月11日に、清澄庭園で「今こそ野口晴哉が必要だ」と題した整体シンポジウムを行なった。
独立して活動されていらっしゃる野口整体系の指導者の先生方が、私も含めて6名も集まるというなかなか他では見られないイベントであったが、こんな大それた企画を立ち上げるのは、当然のことながら私の師匠である河野先生以外にはいない。
どんな御人であろうとつなげていってしまうのが、河野先生の天賦の才であり、技であるが、私はその技の真髄を、前回の身体サミットのご参加を躊躇っていた東城百合子先生を口説き落とすために、薩摩琵琶を担いでいって目の前で「祇園精舎」の生謡(?)をしてみせた河野先生の姿に見たのである。
成城学園前の「あなたと健康社」の応接室のソファーに深々と座りながら、「私は出ないわよ」とおっしゃっていた東城百合子先生が、「これもお天道様のお導きかしらね」と言いながらこちらのオファーにご承諾くださったのは、ひとえに河野先生のねばり技(と謡い)による。もちろん、私もささやかながら側方支援をさせていただいたが…(ここぞというところで横からもお願い(攻める)する係)。
今回の整体シンポジウムに集まったのは、熱海で活動されている金井省蒼先生と、今は本拠地を小樽の方に移された三枝龍生先生、そして横浜で活動されている長谷川淨潤先生と、自由が丘で活動されている浜田貫太郎先生、それに河野先生と私である。
なかなか濃ゆいメンバー(笑)であるゆえ、いったいどんな会になってゆくのか興味半分ドキドキ半分であったが、なかなか良い感じで進んでいって、来てくださった方々からも「とても面白い会でした」と喜んでいただけたので、ちょっとホッとしている。
非常に貴重な会なので、どのような形で参加者を集めるか悩んで、スタッフ同士でもいろいろ話し合ったが、最終的にはあまり宣伝しない形で100名ほどだけ集まっていただいた。
なので、「ええ〜! そんな人達が集まるなら参加したかった〜!」という方には申し訳なかったが、今回のシンポジウムの様子は映像化して、何がしかの形で皆さんの手に届くような方向で動いているので、そちらをご覧になっていただければと思う。
ちなみに今回の会は、先生方すべてノーギャラである。
「収益はすべて被災地に回す!」というかなり強引な捨身技的提案に、たじろぐことなくご快諾いただいた先生方には頭が上がらない。多謝多謝。
昨年2011年は東日本大震災の年ということで忘れられない年となってしまったが、じつは野口晴哉生誕百年という節目でもあった。
奇しくも、野口晴哉という人の活動の一番初めは、かの関東大震災である。
野口先生の奥様、野口昭子先生の『朴葉の下駄』(ちくま文庫から「回想の野口晴哉」の名で出版されている)を読むと、そのあたりのことが書かれているが、震災後、近所の煮豆屋のおばさんが下痢で苦しんでいたので、手を当てて愉気してみたらそれで治ってしまって、それから多くの人に頼まれて手を当てるようになったと言う。このとき若干12歳。
関東大震災で困っている人たちに手を当ててゆくところから始まった野口晴哉が、もしこの東日本の大震災の今生きていたら、いったい何をしていっただろうか。
やはり被災地へ飛んで手を当てていただろうか、あるいはドンと構えて絶対的な安心感を放っていただろうか。
それは分からない。だが分からないからこそ、何をすべきか私たち自身が問われている。
全体のシンポジウム前の対談では、私は長谷川淨潤先生と対談させていただいた。
淨潤先生はいろんなことを勉強されていらっしゃるので、こちらも聞いてみたいことが山ほどあって、ほとんど私は質問に終始してしまった気もするが、いったい対談自体はどうだったんだろう?
こういうのは端から見てどんな感じで進んでいるのか、なかなか本人は分からないものである。
整体との出会いの話、東先生のシステムズアプローチの話、エリクソン催眠の話、死の四日前に現れる禁点の硬結の話、福岡先生の動的平衡の話、野口先生の遺稿にある「虚の活かし方」の話…。
対談に出てきたトピックを思い出すだけ上げてみるとそんなところだけれど、私自身が淨潤先生の口から出てくるいろいろな話をワクワクしながら聞き入っていたので、なんだかあっという間に終わってしまった感がある。
いろいろ突っ込んで聞いてみたいことがもっともっと山ほどあったのだけれど、それは今回の対談では叶わなかった。
う〜む、やはりもっと時間が欲しかったな…。
でも今回、対談前から淨潤先生とはまるでメル友のようにメールをやり取りさせていただいていたのだが、その中で「ぜひまたお会いしましょう」という話になっていて、それでつい先日、私の家族も一緒に淨潤先生のお宅(!)にお邪魔させていただいたのである。
まさか今回のことをきっかけに、淨潤先生とこんな家族ぐるみのお付き合いをさせていただくとは夢にも思わなかったが(なんと手料理までいただいてしまった。美味でございました)、おかげで思いっきり個人的な質問をエビスビールをカパカパ飲みながらズバズバとさせていただいて、私の知的好奇心を大分満たさせてもらった。
う〜む。なるほど。そうであったか…。
淨潤先生もホントにいろんなことを実践(実験?)されていらっしゃる。
けれども当然ながら、そういう席でのお話はあまりこういうところに書き散らす訳にはいかないので、皆様にはそのご報告だけで悔しがっていただくしか無いのである。
2012年02月15日
溌剌ニッポン
先日、群馬県上野村で行なわれた「上野村シンポジウム」にパネリストの一人として参加してきた。
(こちらからシンポジウムのいろんな動画が見られます。私のインタビュー動画もあり)
この上野村シンポジウムは、『<里>という思想』(新潮選書、2005)や『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書、2007)などの著書を書かれている哲学者の内山節さんが発起人となって始めたもので、今回で4回目になるそうである。
自治体の人や中小企業の人、NPOの人などが集まって、「地域」や「エネルギー」というものを軸に、これからの時代、何を目指していけばいいのかそんなことを話し合った。
地域経済や地域文化活動の担い手が大勢登壇される中、ポツンとひとり身体系の人間がいるというのは何とも不思議な居心地ではあったが、でも私自身は、「地域」とは「からだ」に他ならないと思っているので、まあ別に良いのである。
3.11以降、効率性を重視した「集中型」のシステムというものが、見直しを迫られている雰囲気が広がっている。
たしかに世界的にもやばいくらいに「集中化」、あるいは「フラット化」が進んでいるような気がするが、3.11の震災以後に続く電力事情や復興政策の暗澹たるさまは、図らずもその弱点を見せつけてくれた。
日本の電力事情は言わずもがなであるが、さまざまなジャンルで「分散化」、あるいは「地域化」のようなものが見直され、求められてきているし、フットワークの軽い人たちはすでにそのような動きをどんどんし始めている。
「集中型」のシステムは、ともすれば「細部」を十把一絡げ的に扱った「集権型」のシステムになりがちである。てゆうか基本的にそうである。
集中型システムは、基本的に中央部のオンデマンドで動いてくれるユニットを求めるゆえ、つねに細部は「脱個性化」を求められることになる。
だが、「個性」を奪われたものが元気に溌剌となるということは、決してありえない。
依存的な形で個性を捨て、過渡的に元気を回復するという現象はたしかにあるが、それはあくまで期間限定的な現象であって、私の言いたい本質的で持続可能な「溌剌性」とは違う。
細部の(それはつまり国にとっての「地域」であり、人にとっての「からだ」だが)、その部分の個性を奪って元気を無くしておいて、全体としていったい何を目指そうというのだろう?
からだが疲弊した人間はもはや病人であるだろうし、地域が疲弊した国もまた「病国」であるだろう。
そんなことが続けば、当然だけれど、やがて大きな発熱(反乱)が起こる。
生命体が健やかであるためには、「からだが溌剌としている」ということが大事だと思う。
それはつまり、「細部」や「地域」が溌剌としているということだ。
そう考えたとき、はたしてニッポンは溌剌としているだろうか?
日本はたしかに巨大な打撲を負った。
そういう意味では重症人であると言えるだろう。
だが、病人であれ、怪我人であれ、その病気や怪我の重さと、溌剌としているかどうかということは、また別の話なのだ。
細部が溌剌としているかどうかということは、その組織が健全であるかどうかの目安になる。
これから私たちは、経済も文化もエネルギーもありとあらゆることを含めて、細部が溌剌としていくようなシステムを考えていかなければならないだろう。
そのためには経済構造や金融構造からの見直しが必要で、さらに突っ込んでいえば現行の貨幣システムそのものが、地球生命体の生命活動の原理に本当に適っているのか、問い直していく必要があるだろう。
それには数十年、あるいは百年単位の時間がかかるかもしれない。
何度かの大きな発熱や排泄も経なければならないかもしれない。
だが、やらなければいけない。
私は未来を担う子どもたちの屈託のない笑顔が見たい。
屈託のない笑顔、それは爪先から髪の先まで溌剌としているときに、初めて湧いてくる。
2012年01月03日
ふたり
みなさま、あけましておめでとうございます。
昨年中は私の雑念妄想にお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。どうぞ今年もまたお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
昨年は本当に大変な年となってしまいましたが、今年はいったいどんな年になっていくのでしょうね?
さて、今年も新年恒例となった動画のご紹介をしようかと思います。
今まではせっかく撮れた貴重な奇跡的映像やきらめくような映像作品も、ごく身内でしか共有することができませんでしたが、Youtubeやニコニコ動画などの動画サイトが発達した今では、すぐさま世界中で共有されるようになりました。
そういう意味では、今までは発揮するチャンスになかなか巡り合えることのできなかった個性たちに、スポットライトが当たるようになったと言えるでしょう。
今年も多くのきらめくような動画たちに出会い、紹介するにあたって何を紹介しようか悩んでしまいましたが、今年のテーマは「ふたり」ということにしようと思います。
ではまずは一つめ。これは素晴らしい「映像作品」と言えますかね。
人体の動きの再現が見事で、見とれてしまいました。
二つめは可愛い動物篇。「ねこふたり(二匹?)」
ふたりは何を思ってこんなことをしているでしょうかね。吹き込みの無いオリジナル版もありますが、そちらは埋め込みができなかったので、こちらを載せておきます。
三つ目も動物です。こちらは「ハムスターふたり(二匹?)」
素晴らしい連携体操ですが、やっぱり本人たちは何を思っているんでしょう…。
最後は「人は対話する生き物である」ということを教えてくれる動画です。
いやぁ、可愛らしくて微笑ましい。でも大人の対話も実はこんなものなのかもしれませんね(笑)。
人間、対話が大事です。
まわりの方々と美しい関係を紡ぎあげるためにも、丁寧に対話をしていきたいものですね。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2011年12月20日
男は女の夢の一かけら
『シュタイナーはこう語った』(ルドルフ・シュタイナー、アルテ、2011)を読んでいたら、こんな文言が出てきた。
『女性の場合、愛はファンタジーから発して、常にイメージを形成する。女性は、現に人生のなかにいる男性を完全に愛することは決してない。今日の男性は、健全なファンタジーをもって愛されるような存在ではない。男性は願望をもって愛する。男性の愛は、はっきりと願望の性格を持っている。』(同著、p38)
ちょっと。シュタイナー先生。
「今日の男性は、健全なファンタジーをもって愛されるような存在ではない」って…。
そこまではっきり言われてしまうと、男として立つ瀬がないじゃないですか。
でも言いたいことがなんとなく分かってしまうのも、また悲しい…。
福岡伸一さんが『できそこないの男たち』(福岡伸一、光文社新書、2008)という本を書いているけど、たしかに男という性は、女のできそこないなのかもしれない。
私も、男というのは女のどこかの部分が欠落して生まれているような気はしている。
「欠落」というと、なにか負のイメージを連想するかもしれないけれど、それは別に必ずしも不幸なことではない。
「欠落」しているからこそ、何か別の代替機能が働くのだから。
実際、男は「欠落」を帯びているからこそ、女には無いある種の能力を持っているのだ。
「欠落」は必ず、それにまつわる「精神」を呼び起こす。
それこそがつまりは「創(きず)」である。
しかしそれでも、「健全なファンタジーをもって愛されるような存在ではない」とか言われてしまうと、何とも言えない哀しみを覚えてしまうなぁ。
それは別に自分自身が哀しいんじゃなくって、男全般に対する哀愁の念だ。
男って哀しい生き物だなという、そんな想い。
ふん、いいのさ、別に。
男の子は男の子で、強くたくましく生きるのさ。
男の子って何でできてる?
ぼろきれやカタツムリ
子犬の尻尾
そんなものでできてるよ
(マザーグースの唄より)
男は自らが断片だからこそ、世界の断片を愛してやまない。
だから、馬鹿だよね、男って。
ただ一言だけ、馬鹿な男の側から言わせてもらえるならば、女は男のそんな馬鹿を愛さなくちゃいけないよ。
だって世界は事実断片でできているのだし、それに何より男は女が育てるものだから。
男なんていうのは不完全な幻想。
だから女が育てない限り、この世に誕生しない。
いやいや、それどころか男なんてひょっとしたら女が見ている夢かもしれない。
世界中の女が夢見ることをやめたら、この世の男たちはみな儚く消えるかも。
ちいさなぼろきれやカタツムリの欠片だけを、そこに残して…。
男なんて「健全なファンタジーをもって愛されるような存在ではない」かもしれないけれど、それでも愛すべき存在だし、ぜひ愛してあげてほしい。
女の目から見てみれば、男なんて命を吹き込まれたぼろきれやカタツムリぐらいにしか見えないかもしれないけれど、でもそんな断片たちに宿るきらめく精神を見てほしいんだなぁ。
私だってそんな世界の断片を愛する一かけらとして、子育て中のママさんたちに元気になって欲しいと思って、子育て講座などやっているのだ。
別にそこに崇高な理念などありはしない。
ただ、自分がやりたいからやっているだけだ。
なぜって?
それは女を愛しているからに決まっているじゃないか。
私は「そんなもの」だけで、できているんだ。
2011年11月28日
感謝!「賢者からのメッセージ」
11月23日の横浜赤レンガの「身体サミット2011 賢者からのメッセージ」が無事に終了。
横浜まで足を延ばしてくださった皆さん、手伝ってくださったボランティアスタッフの皆さん、そして何よりご登壇いただいた講師の先生方、本当にどうもありがとうございました。
おかげさまで素晴らしい会となりました。
当日は一時、人が入りきらないほどの大盛況ぶりとなって、ご来場いただいた皆さまには大変ご迷惑をおかけしましたが、その「是が非でも聞きたい」という熱い熱気は壇上の先生方にも十分に伝わったことと思います。
私も裏方として舞台裏から会場まで駆け回っていたけれど、まあ素人仕事でこんな大きなイベントをやってしまって、いろんな不手際もあったとはいえ、大きな事故もハプニングもなく終わったことがホントに奇跡であります。
何より、講師として来ていただいた真弓先生に「素晴らしいご縁をありがとう」と言っていただけたり、吉村先生に「夢のように楽しかった」と言っていただけて、もうそのお言葉だけですべての苦労が報われる思いです。
でもそれも今回のイベントに立ち会ってくださったすべての皆さんあってのことです。
すべての皆さんに「感謝!」です。
とにかく真弓定夫先生、吉村正先生、東城百合子先生という三人の先生方は、みなさん80を超えるというのに、その熱のこもりっぷりといったらすごいもので、とくに皆さんのその肚の決まり具合は、それはもう恐れ入るほどでありました。
吉村先生など、放送禁止用語の連発で(まあそうなるかなとはうすうす思っていたけれど…)、舞台裏ではひえ〜っと踊ったりしていたが、それはそれでどこか楽しかったりして(笑)。
でも会場の皆さんからは、拍手は出るわ、「そうだ!」などという合いの手は出るわで、盛り上がっている様子だったので結果オーライ。
そんなことを叫んでも、その言いたい真意がこちらにぐっと伝わってくるのは、吉村先生が今までやってきたことの積み重ねがあるからだろう。
まあでも、80過ぎたら好き放題しゃべったって別にいいよね。
ちょっとした失言で辞任騒ぎにまでしてしまう今のメディア論調の方がどこかおかしいのだ。
とにかくお三方のお話は、一言で表現するならば「説教」であった。
「若えの、しっかりやれ」という、私たちに発破をかけるお言葉の数々。
こんな真っ当に説教できる大人は日本中を探したってそうはいないだろうから、そんな説教をいただけるだけでもホントにありがたいことであろう。
私も大人になってつくづく思うけど、「説教してくれる人がいる」ということは幸せなことなのだ。
真っ当な説教に居住いを正して、「はい、スミマセン!」と言える幸せ。
「正しい大人」に出会えることは、この世でもっとも幸せなことのうちの一つである。
べつに人格全部が正しくなくったっていい。いつも正しくなくったっていい。
その瞬間、「正しい大人」であることが大事なのだ。
それは子育て中の大人たちにも言えること。
説教の瞬間、「正しい大人」であること。それはとても大切なことである。
そのきらめく瞬間をたずさえて、子どもは大人のあるべき姿を夢見ることができるのだ。
とにかく今回、お三方の先生をお招きできて、そしてお説教をいただくことができて、何より幸せなことでありました。
きっと会場に居合わせた方たちもそれぞれに先生方のお言葉を受け、熱い思いを受け取ったことでありましょう。
その熱い思いは人々の心に灯をともしながら、どんどん着実に広まっていき、そして広まりつつ受け継がれつつ、古の賢者たちの知恵がやがて未来にも生かされていくことでしょう。
どうぞこのたびお集まりいただいた方々の心にともった熱い灯が、皆さんと皆さんの周りの方とを明るい未来へといざないますように。
2011年10月20日
【イベント】賢者からのメッセージ
遅ればせながら、11月23日のイベントのチラシをアップします。
2011年11月23日(祝)に、横浜の赤レンガ倉庫にて「賢者からのメッセージ」と題した企画を行ないます。
東城百合子先生、真弓定夫先生、吉村正先生という、自然療法や健康法の世界においては第一人者の先生方と呼んで差支えの無い方ばかりを招いて、とにかく語って叫んで説教していただきます(笑)。
こんなちゃぶ台ひっくり返すような勢いの企画はおそらく最初で最後となるでしょうから、ぜひぜひお時間ひねり出してでもお越しいただければと思います。
とはいえ、なにぶん関わる人たちみな素人仕事ゆえに、こんな大企画を立ち上げちゃっててんやわんやでありまして、いろいろ不手際もあるかと思いますので、そのへんは平にご容赦を。
私も当日は裏方としてうろちょろしておりますので、ぜひ来てね。
申込や詳細などは下記のリンクから。
⇒ミュートネットワーク
〜〜〜【当日詳細】〜〜〜
題 名:身体サミット2011「賢者からのメッセージ」
日 時:2011年11月23日(祝・水)
開 場:12:30
開 演:13:00
場 所:横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホール
(〒230-0001 横浜 市中区新子1-1-1 045-211-1515)
※駅から遠いので徒歩でいらっしゃる方は時間にお気を付けください。
料 金:前売3800円 当日4800円
〈当日プログラム〉
12:30 開場
13:00〜13:20 河野智聖 挨拶
13:20〜14:10 真弓定夫先生 講演
14:10〜15:00 吉村正先生 講演
休憩
15:30〜16:20 東城百合子先生 講演
16:20〜16:40 琵琶演奏 岩佐鶴丈
16:40〜18:00 シンポジウム「未来へ向かっての価値観」
(東城、真弓、吉村、島袋、河野)特別ゲスト:三枝龍生氏
18:00 閉会
2011年10月03日
キワ立つnobody
暑い暑いとドタバタしていたら、いつのまにかすっかり秋の気配になってしまった。寒い寒い。
毎度のことながら更新が遅くなってスミマセン。
ブログも書こう書こうと思いつつ、パソコンの前に座るとメールの返信やら原稿書きやらが何やかやとあり、それらが一通り終わるとホゲッとしたくなって、そのまま放置されていってしまうのである。
もっとサクサクっと書ければ良いのだろうけど、なかなかそうもいかない。
もうちょっと日常的な軽い文章をサクサク書いてアップしていけばいいのかな?
先月、読書会で一年かけて読み解いてきた野口先生の『嫁と姑』がようやく読み終わった。
改めてみんなで読んでみると非常に深い内容であったけれども、まあずいぶんいろんな話で盛り上がった。
いまは嫁姑関係というのも、昔に比べればずいぶんあっさりしてきたのだろうけれども、やはりこれは世界普遍の永遠のテーマであるのだろう。
そりゃあ「一人の男が女の手から女の手へと渡される」のだから、当人たちも意識しない所でさまざまな感情や潜在意識が渦巻いて当然である。
異性同性の関係性は、たとえ家族や親子といえどもその影響は大きい。
人間関係というのは何とも不思議なもので、そこでは当人同士の意識や認識とはべつにさまざまなことが蠢いていて、そこにかかわるすべての人たちの意識、無意識、潜在意識が絡まりあって、生じているところがある。
だから私の口から何か言葉が出てきたとしたって、それは私が「しゃべっているのか」「しゃべらされているのか」、そんなことは正直分からないのだ。
たとえば、誰かがその場の雰囲気にもう黙っていられなくなって何か言葉を発したのなら、それはいったい「誰の言葉」と言うべきなのだろう。
それはある意味、その場にいるみんながその人に言わせているとも言える。
その人が言わなければ、誰か他の人が言ったかもしれないし、あるいはひょっとしたらそれは自分の口から飛び出たかもしれない。
だとしたら、その言葉はいったい「誰の発言」なのか。「誰の思考」なのか。「誰の言葉」なのか。
そんなことは正直分からない。
はたして私は「考えている」のか、「考えさせられている」のか。
場には場の思考があるし、関係性には関係性の思考がある。
それがいつどこで誰によって顕現するのかということは、個人の意思や意図など軽く超えていることである。
だから「“私の”発言」なんてものに、あまり価値を置きすぎないほうが良い。
私の口から飛び出てきた以上、その責任を私が背負うことは社会市民として当然ではあるけれど、それだってたまたま白羽の矢が立ったという程度のものなのだ。
人はみな「関係性のイタコ」である。特に日本人はそうだ。
誰も己の言葉でなんてしゃべらない。関係性にしゃべらされているだけだ。
別にそれが悪いとはちっとも思わないけれど、それを「己」だと思いすぎてしまうことは、息苦しくなる原因だからあまりおススメしない。
そもそも日本語なんて、主語が消えても平然と成り立つ言語なのだから、もともと日本人の「わたくし」なんていうものがそんな程度のものなのだ。
日本語で生きていくなら主語に縛られすぎないほうが良い。
わたくしなんて、つまりはnobodyだし(@池田晶子)、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明なのだ。(@宮澤賢治)
もし仮に個性というものがあるのだとしたら、どんなに主語を消したとしても、どんなにわたくしを捨てたとしても、それでもなお最後にしぶとく残る「際立ち」こそが、いわば個性と呼ぶべきものであろう。
そもそも個性と呼ぶべき本質は、“私”や他人の手に負えるようなものではない。
吹けば飛ぶよな個性など、浅薄な表層の「毛羽立ち」に過ぎない。
もっと全てを投げ捨てたギリギリの「個の際」こそが、危険で色っぽくてセクシーなんじゃないか。そこに際立つものがある。
私は「nobody」かつ「キワモノ」でありたい。
ところで話は全く変わるのだけれど、いま来年の3月に向けて、整体の大きなイベントが企画進行中で、その準備が着々と進みつつある。
詳細についてはもうしばしお待ち願いたいが、野口整体系の指導者の先生方が一堂に会して、整体について、あるいは野口晴哉という人について、大いに語り合うという、なかなか貴重な会である。
僭越ながら私もその末席に加えていただくことになっているので、今から期待と緊張でからだがドキドキワクワクし、顔が(‘A`)こんなになっている。(ってただのモノモライ)
まあ野口整体について少なからぬ興味をお持ちの方には、とても面白いイベントになるかと思うので、乞うご期待。
ついでにいうと11月23日(水・祝)にも、横浜で大きなイベントを企画していて、そちらは私は裏方として参加するのだけれど、そちらもまたそうそうたるメンツが集結することが決定している。
そのメンツとは何を隠そう、東城百合子先生、吉村正先生、真弓貞夫先生のお三方である。
「聞いて驚け」とは、まさにこの顔ぶれのことを言うのだなと思う。
自然療法に興味のある方なら、誰もがその名を知っている大御所の大先生ばかりを一所に集めてしまうという前代未聞の「ちゃぶ台企画」であるが、これはひとえに師匠の河野智聖先生の「人結び力」の賜物である。
けれども登壇者がみなさん80代の大御所ばかりということで、いったいどんな会になるのやら、いろんな意味で今からドキドキしっぱなしで、おかげで私も顔が(‘A`)こんなに…(以下略)
まあ、そちらのほうも詳細を近いうちに出すので、こちらもまた乞うご期待。
2011年08月25日
夏の学校2011
今年もクレヨンハウスの夏の学校に参加してきた。
今年は「生物と無生物のあいだ」の著者である福岡伸一さんがトップバッターとしてお話をされる。
私も大好きな先生なので、わくわくしながらお話を聞いた。
世界初の顕微鏡の話からググッとフェルメールへとつなげ、そこからルリボシカミキリの鮮やかな青色に展開して、そのまま生命の不思議な成り立ちへと話を持っていく…。
その流れるような話の進め方は、ロマンチックさに満ち溢れ、まるでよくできた舞台を観ているかのようであった。
福岡センセイ自身は、ぬぼっとした風貌でぼそぼそっとしゃべっているにもかかわらず(失礼)、その言葉たちが草原を吹き抜ける風にように物語を紡いでいくのは、何ともロマンチックでならない。
不思議なセンセイである。(お互いのサイン本交換しちゃった〜(嬉))
やはり科学者はロマンチストであるべきである。
数ヶ月前、実家に帰ったら母が「あなたのイラスト全部持ってきて」というので、「どうするの?」と聞いたら、「キルトにする」と言う。
私のイラストのパッチワークキルトなど、いったいどんなものになるのか想像もつかなかったが、とても素晴らしいものを縫い上げてくれたので、部屋の正面に飾って講座を行なった。
講座後、わざわざ他の教室から見に来てくださる方も。
キルトの外枠に配してある小さな刺繍は「背守り」というもので、昔、我が子の無事を祈る母親が子どもの着物の背中にさまざまな模様を刺繍したものだそうである。
(参考⇒「背守り」(AssistOn))
つまり、今回私は母の「背守り」をバックに講座を行なったわけであるが、大変にぎやかなうちに終えることができたのは、母の「背守り」のおかげであるやもしれない。
謝謝、母上。
夏の学校には、去年に引き続き二回目の講師参加であったが、今年も変わらず非常に楽しませていただいた。
「講師として参加してそのイベントが面白い」というのは、そのイベントがいかに面白いかということの一つの目安になるのではなかろうか。
参加される講師陣が個性あふれる素晴らしい方々であるというのはもちろんだけれど、それ以上に、受講生の方々の「楽しもう!」という構えのそのハイパフォーマンスぶりがすごいのだ。
だからやっていて私も面白い。
公演でも講演でも、あるいはもっとささやかなパフォーマンスでも、あらゆるライブは、それが面白いものになるかどうかは、パフォーマー(演者)とオーディエンス(聴衆)の相乗効果によるところがある。
言ってしまえば、パフォーマーの力量が多少拙くとも、オーディエンスの「楽しもう!」という構えがホットであるならば、かなり良いパフォーマンスが実現することになるのだ。
私もあちこちで講座を行なう一人のパフォーマーとして、良きオーディエンスに出会えることは、至福の喜びである。
なぜなら最高に良きオーディエンスは、私ですら知らない私の未知のパフォーマンスの領域に、私を連れ去っていってくれるからである。
良きオーディエンスは、私に今まで思いつかなかったアイデアに気が付かせ、考えもしなかったロジックを展開させ、今までできなかった技術を可能にさせ、わずか数十分のうちに、私に急激的な成長をもたらしてくれる。
自分一人では決してそんなオーバードライブは起こせない。
どんなものを見ても、どんな話を聞いても、それを「面白がれる能力」というのは、そこで行なわれるパフォーマンスの「ポテンシャルを引き出す能力」でもある。
その秘密を知っている人は、どんなライブに参加しても、オーディエンスとして主体的にそのライブの構築に加わわって、結果、「とっても盛り上がるライブ」に参加できるよう、自らを活用している。
だから「面白がれる人」は、ますます「面白いこと」に出会えていく。
見ていると夏の学校の受講生の方たちは、その能力が高い人たちが多いようなのだ。
だから皆さん楽しんでおられるし、また講師である私も非常に快適で、また楽しい。
非常に良いカタチで、ポジティブフィードバックが働いている。
まこと美しき哉。
そのような「積極的受動姿勢」のことを、私は「受ける技術」と呼んでいるが、それはあらゆるパフォーマンスを上げ、あらゆる学びを起動し、あらゆる能力を呼び覚まし、あらゆる奇跡を呼び起こすために必要な資質である。
講座を受け、学びを受け、治療を受け、芸術を受け…、あらゆるもののパフォーマンスを最大化したカタチで「受ける技術」。
それは人生を豊かで楽しいものにするための秘訣であるはずだが、あまり顧みられることがない。
というよりむしろ蔑まれたり、馬鹿にされたりすることが多いかもしれない。
目の前のことを「さも大したことがなさそう」に振る舞うのが知的な振る舞いだと思われているのが現代である。
だがしかし、「受ける技術」の高い人はたしかにいて、そういう人は人生を楽しむすべを知っているのだ。
そりゃどこへ行っても、そのときその場における最高のパフォーマンスと出会えるのだから、人生楽しくならないわけがない。
いつどこへ行っても、素敵な人と知り合い、美味しい料理に出会い、素晴らしい光景に巡り合い、楽しいひとときを過ごせる。
一回こっきりの人生ならば、ぜひそんな能力を磨いていきたいものである。
2011年07月29日
人のあいだを巡るもの
先ごろAmazonをのぞいてみたら、さっそく新刊本が発売になっていました。
まだ発売日になっていないんだけど……なんで?
まあともあれ、よかったらぜひぜひご購入下さい。(⇒購入はこちら)
前回触れた「世界を動詞で語ってみる」というチャプターでは、あるお母さんから受けた相談についてのエピソードを書いている。
本の中ではページ数が少ないこともあって、詳しいことはカットしてさらっと書いたのだけれど、以前「童心社」という絵本や紙芝居を作っている出版社の会報誌「母のひろば」に、もっと詳しいエピソードを載せたことがあった。
掲載号の出版からもう数ヶ月経つし、ご覧になっていない方も多いと思うので、ここに再録しようと思う。
読んでみれば「動詞で語る」ということの意味が、またより分かりやすくなるのではないかと思うのだけれど、どうだろう?
それでもやっぱり「よく分からない」というのであれば、それはもう……私の講座に出てください(笑)。
ではどうぞ。
「人のあいだを巡るもの」
私はふだん子育て中のお母さんたちを相手に「子育て講座」というものを行なっています。子育てというのはホントにいろいろなことがあって悩みは尽きないものですが、講座ではお母さん方から子育てに限らずさまざまな相談を受けます。あるとき一人のお母さんからこんな相談を受けました。
「旦那としゃべっていて、ときどき旦那が不快になってくると、チッと舌打ちをするんです。それを聞くと本当に嫌な気持ちになってくたびれてしまって…。こういうのって、どうしたらいいんでしょうか…?」。
なるほど。夫婦というのは関係が近い分だけ難しいもので、ちょっとしたことが気になったり、何気ない一言に傷ついたり、イライラさせられたりするものです。他人であれば「まあいいわ」で済ませられることも、夫婦となると、病める時も健やかなる時もつねに顔を突き合わせているものだから、なかなかそうは済みません。
「そうですか。そういうのは苦しいですね」と私が答えると、そのときのことを思い出しているのか、ふっとくたびれたような顔をして「ホントに嫌なんです」と言う。それでその方に言いました。「そうですね。でもね、それはね、呪いですよ。そういうのは。良くないです」。
すると彼女は「え? 呪い?」とちょっとビックリして笑いました。「そうですよ。だって舌打ちなんてされても、返事のしようがないでしょ? そうしたらそれをまともに受けちゃいますよ。やり返せない。防御できない。そういうのを呪いって言うんです」。
彼女は「呪い」という言葉に最初こそ驚いたようでしたが、私の話を聞くうちにだんだん真剣な顔になっていきました。何だかよく分からないけど、でも何となく分かるような、何かが自分の中で必死にピッタリする言葉を探し出そうとしている、おそらくそんな感じがしたのかもしれません。私はさらに言いました。
「あのね、世の中、呪いの言葉や仕草というのは予想以上に多いんです。でも必ずしも言っている本人が意図しているわけじゃない。もちろん旦那さんだってそうでしょう。だからそれは『やめて』ってお願いすることはできても、そのふるまいを責めることはできない。まず、あなたにできることは、あなた自身が呪いから身を守るすべを身に付けるということです」。彼女は真剣に聞いています。私は続けました。
「そうですね…。今度、旦那が『チッ』と舌打ちしたら、すぐさま『パッ』と言い返してみてください。顔を見て言い返す。『チッ』と言われたら『パッ』。すぐさま返す」。
そう言ったら、真剣に聞いていた彼女とその場にいた人たちがみんな、いっせいにゲラゲラ笑い出しました。そう、何のことはない。要は私は彼女に「チーチーパッパ」のやりとりをお伝えしたんです。何だかふざけているようですが、私はいたって大まじめです。でも彼女を含め、その場にいるみんながいっせいに笑ったということは、みんな私の言っている意味が「分かった」ということです。向こうが「チッ」なら、こっちは「パッ」です。
人間関係というのはいったい何なんでしょう? 世の中にはさまざまな問題がありますが、それも元をたどっていけば、おそらくほとんどは人間関係の問題に行き着くのではないでしょうか。
ひょっとしたら彼女と同じような悩みを抱えている人は、世の中、大勢いるかもしれません。何だかよく分からないままに人と会うことがどんどん苦痛になって、やがて生きていくことにくたびれてしまう。
何でもない小さなことなのに、それを深く受け止めてしまうから呪いにかかる。いや、何でもないことだからこそ何も言えず、対処できずに呪いになる。一つ一つは小さなことかもしれないけれど、それはたび重なるごとに徐々に心に小さな傷をつけ、やがては歩くことさえ辛くなってしまうほど、身心を消耗させてしまいます。それはまさに「呪い」と言っていいでしょう。
人間関係が良い状態であるかどうかは、コミュニケーションがスムーズに行なわれているかどうかにかかっています。向こうからやってきたものを受けとめて、こちらがそれに対して返事をして、それを今度は向こうが受けとめる。やりとりされているものが何であれ、その「ある種の対話」が二人の間できちんと行なわれていれば、関係はすこやかでいられるのです。
「喧嘩するほど仲がいい」なんてたとえもありますが、それは「やりとりされているものが何であるか」ということよりも、「やりとりそのものが大切である」ということなのではないでしょうか。大事なことは、お互いの間をきちんと巡るものがあるということです。そのお互いのやりとりが滞り、二人の間で巡っていたものが止んでしまった時、そのとき何かが病んでくるのです。
きちんと巡っていること。滞りなく流れていること。それは人間がお互いすこやかであるために必要不可欠なことです。川には自然浄化能力がありますが、それは流れがあるからです。きちんと巡っているからです。人にも自己治癒能力がありますが、それも流れがあるからです。きちんと巡っているからです。
私たちの周りでも、何か問題があったり、何か病んだ状態になっているのだとしたら、それは巡るべきものが巡っていないのではないか。そういうふうに見てみると、何をすればいいのか思いつくことがあるかもしれません。
私に相談したその方は、旦那の舌打ちに対する返事の仕方を知りませんでした。素直に「やめて」と言えれば良かったかもしれない。あるいは言ったけれど、まともに取り合ってくれなかったのかもしれない。でもとにかくそこには滞っているものがあり、それが彼女の悩みとなったのです。だから私は彼女に「返事の仕方」を教えたのです。返事をすることで、それがきちんと「一つのお話」になる、そんな返事の方法を。
どんなことでも一方通行なのではなく、きちんと対話になること。キャッチボールができること。それはあらゆる人間関係の基本になることでしょう。私に悩みを相談したその方は「今度さっそくやってみます!」と笑顔で答えてくれました。
2011年07月19日
新刊本「整体的子育て2」
今度出る本のタイトルと表紙です。
『整体的子育て2 わが子にできる手当て編』8月4日発売!
⇒購入はこちら
試し刷り段階の表紙画像だけれど、本式のがなかなか届かないのでとりあえず上げておきます。(色が若干変わるとか何とか…)
もともとは子育て講座の内容をテープ起こししたものをまとめるという企画で始まったものだったけれど、結局書いているうちにほとんど書き下ろしになってしまった。
執筆中に3・11があったりして、予想以上に四苦八苦した本だったけれど、中身はなかなか良いものに仕上がったと思う。
整体について、子育てについて、私の中にあるエッセンスをふんだんに盛り込んでみたので、興味のある方はぜひぜひ手にとって読んでみてください。
もちろん内容はクレヨンハウスならではの「分かりやすさ」と「ポップさ」を重視してまとめられているので、このブログの文章のような「噛みにくさ」(笑)はほとんど無く、ノド越しの良い感じに仕上がっている。
(「書け」と言われりゃ書けるんですよ。そういう文章も。いちおうね(笑))
なのでその反面、色気や際どさのようなものは少ないが、初めての方でもすんなり入っていけると思うので、ぜひぜひいろんな方に手にとって読んでいただければ幸いであります。
読書用、保存用、贈呈用と一人三冊くらい取り揃えていただけると、家内安全、無病息災、心願成就と、さまざまな御利益ももれなくついてくること請け合いです。
これから出版記念のサイン会やワークショップなどがあちこちで催されることになるかと思いますが、それらの予定は決まり次第、逐次このブログの方に情報をアップしていくので、ご興味のある方はどうぞチェックしておいてください。
ちなみに7月30日にすでにワークショップが決まっているので、よろしかったらぜひどうぞ。
ところで今回この本の中で、「世界を動詞で語ってみる」というチャプターを書いた。
一見、「整体」にも「子育て」にもつながりそうにないタイトルであるが、私が前々から大事なことだと思っていたことであり、今回書いているうちに気づいたらふと筆が走っていったので、そのまま一つのチャプターとして作ったのだ。
「世界を動詞で語る」というのは、いつか何らかのエクササイズやワークとして組み立てて、いろんなカタチで多くの方々に練習していってもらおうと思っていることの一つなのだけれど、これは「世界のものの見方」を変えるために、けっこう大事なキーワードだと思っている。
多くの場合、私たちは世界を「名詞」で語る。
名詞というのは、瞬時に対象をガシッと掴む。
それはつまり実体的でカチッとしたものとして世界を捉えるということだ。
掴まれた対象は即座に概念化され、結晶化され、一つの名詞として存在することになる。
「世界を名詞で捉える」ということは、スチールカメラでパシャリと写真を撮るように、世界を一枚のピクチャーの中に封じ込めるという、そんな振る舞いなのだ。
そこには時間軸というものは存在しない。
だから世界を名詞で捉えていくと、そこからじょじょに「時間」が失われていく。
だが、時間とは生命そのものだから、時間という要素を取り除いて世界を見つめていくと、そこには生命感が欠けてくることになる。
むんむんと湧きたつような「生命の匂い」がそこには無い。
私たちの思考はどうしても世界を名詞で捉えようとする癖がある。
それは思考そのものの癖なのか、現代人の思考の癖なのか、あるいは私たちの言語構造に拠るのか、それはよく分からないけれど、ともかく世界から時間を剥ぎ取って捉えようとする傾向がある。
たしかにその方が捉え処があって、ハンドリングしやすいので、便利であることは確かだけれど、そこで捨ててしまった「時間」というパラメータについて、どこか頭の片隅に置いておくことは大事なことなのではないか。
だって、世界は生命に満ちていて、それはつまりいつだって「動き続けている」ということであり、「時間軸とともに在る」ということなのだ。
「動き続ける世界」を捉えるためには、「名詞」だけでは太刀打ちできない。
「動き続ける世界」を生け捕りにし、踊り食いにするためには、どうしたって「動詞」が必要で、だから「世界を動詞で語ってみる」ということなのだ。
本の中では一つの例として、『「夫婦」というものを動詞で語ってみる』という提案をしている。
自分たちの「夫婦」という運動は、いったいどんな「動詞」がぴったりくるのか。
「支える」だったり、「向き合う」だったり、「寄り添う」だったり、「負かす」だったり…
夫婦を「夫婦」という名詞でさっくり語っているだけでは見えてこないものが、動詞で語ってみようとしたときに見えてきたりする。
そこで繰り返し行なわれている「運動の本質」が見えてくる。
それは子育てにおいても、まったく同じことである。
ついつい名詞で捉えてしまいがちな「子どもの理解」を、動詞に置き換えてみたときに、動き続ける運動態としての子ども、成長し続ける現象としての子どもが見えてくるだろう。
するとそこで何が行なわれているのか、何をやろうとしているのか、徐々にではあるが、そんなものが浮かび上がってくるはずである。
子どもという運動態、親という運動態、親子という運動態、家族という運動態…
世界を動詞で語ろうとした野口晴哉やルドルフ・シュタイナーやゲーテのような人たちに、少しでも近づくためにもおススメのエクササイズである。
まあ、育児書のくせにそんな変なことまで書き込んだ本書であるが、中身的にはかなり面白い本になったということは自信を持って言えるので(なぜなら書いた本人が読んでいてすっごく面白いから(笑))、ぜひぜひ手に取ってみてくださいな。
どうぞよろしくお願いいたしまする。




