2009年12月15日

「気話会」講話録('08.02) (9/9)

●巡り巡って恵まれる

 むかし愉気(手当て法)の稽古でやったことがあるんですけど、ダウジングって言ってひもの先に五円玉をぶら下げてブランブランさせて、裏向きのカードを当てるんです。あれが愉気の感覚にも活かせるなって思って稽古してみたんですよ。で、これが結構当たるんです。それで当たったらだんだんモノを無くしていくんです。最初はひもの先に五円玉を付けてぶら下げているんですけど、それを取っちゃうんです。でも手はそのまま。空想のなかで五円玉を垂らしているんです。空想のなかで動いているか動いていないかを感じるんです。それでも当たるんですよ。そうしたらそれもまた無くしていっちゃう。どんどんモノから離れていくんです。

 モノはあくまで媒介なんでね。たとえば私はひもの先に五円玉つけてやりましたけど、普通は水晶みたいな何かそういうものでやりますよね。別にあれはもっともらしいから水晶にしているんで、鉛だって五円玉だって何だっていいんです。もちろん水晶でやることの意味がまったく無いかって言われればそういうわけでもないんですけど、でも原理的に言えばそうなんです。

 それでこうやって手をのばして重りをぶら下げていると、からだが微妙に反応したのがひもに伝わって動きが増幅されるんです。ホントは手が動いているんです。でもその手の動きは自分でも意識できないくらい微妙な微細な動きなんで、普通にしていてもなかなか感じ取れない。で、じゃあ感じ取れないんだったらもう少し目に見える形にしてみようっていうことで、ひもをぶら下げてその先に重りをつけてみるわけですね。そうすると手が微妙に動いたときには、分かりやすく揺れますよね。右回りとか左回りとか、いろいろな動きが目に見えるように出てくる。

 そうするとどんなに手の感覚が鈍い人でも目に見えれば分かりやすいですよね。それで練習しているとだんだん当たるようになってくる。それで分かるようになってきたら「別にこれはホントは要らないんだよ」っていうことで取っちゃって、空想のなかでやってみる。空想の重りがどうやって動いているのかきちっと感じ分けてみる。それでだんだんモノが手放されていって、それがからだのなかにもういっぺん改めて帰ってくるんです。


 自分のからだの中で起きていることを、そうやって分かりやすい形でフィードバックしてあげることが、自分のからだとの対話を可能にしてくれるんです。ちゃんとフィードバックさえあれば、人間は自分の血圧も脈拍も意識でコントロールできるようになるんですよ。ヨガの行者さんなんてそういう訓練を積んでるわけですからね。

 成瀬先生っていうヨガの先生は心臓の鼓動をかぎりなく小さくできるそうですけど、そこまではまあ普通の人には到底無理だとしても、ちょっと練習すれば血圧くらいは簡単に変えられるようになるんです。血圧計をつけてそれを見ながら「上がれ」とか「下がれ」とかやって数字を見ていると、そのうちコントロールできるようになるんです。「ああ、こうやれば上がるんだ」っていうフィードバックがはっきりしていれば、そういう身体操作を身に付けられるってことです。


 「行(ぎょう)」って全部そういう構造を持っているんですよね。「歩くこと」「座ること」「呼吸すること」「食べること」、そういう普段の振る舞いを改めて意識化するっていうのが「行」ですよね。「行」っていうのは無意識の行動をいっぺん意識を通してまた無意識に帰ってくるっていうそういうことなんです。意識しないところまで。

 そのときに結局「現われ」としては同じかもしれませんけど、一段高い所、あるいは深い所に帰ってきてるんです。赤ちゃんの天心と大人の天心が違うっていうのと一緒で、赤ちゃんの天心は何も知らない天心。大人の天心は酸いも甘いも噛み分けたうえでもう一度帰ってきた天心。同じ天心だけど意味が違う。

 同じように「行」も歩いたり座ったり呼吸したりごはん食べたりということを一度徹底的に意識して…最初にお話ししましたけれども「意識する」っていうことは「分離する」っていうことなんです。自分のなかにあるものを突き放して、自分の「当たり前」を異化する。で、それをもう一度自分のなかに引き戻してきて一体化したときには、次元が違うんですよね。そのときに歩く、座る、息をする、食べるっていうことが何かね、意味が違うんです。大人の呼吸ができて、大人の座りができて、大人の食事ができるんです(笑)。

 さっきのダウジングみたいなこともホントは手が動いているっていうことを感じるのが大事なんですけど、最初は分からないから、あえて分かりやすいモノを利用して、モノの助けを借りて、モノの動きを通して、そこでどういうことが起きているのかちゃんと意識しなおしたら、もう一度モノから離れていって、自分のからだのなかに帰っていくと、「ああ、実は自分のからだのなかに起きていることだった」っていうね。その階段が「行」なんです。「行」そのものにべつに何の意味もないです。それは仏典の中にだって書いてある。でもその階段を経ないと帰ってこれないという境地があるんです。


 旅っていうのもそうですよね。べつに旅っていうのも帰ってくるためにやっているわけでしょう。「ために」って言っちゃ変ですけど、でも帰らないっていうんじゃ、それはただの夜逃げですからね(笑)。だいたいみんな旅行に行って帰ってくると必ず言いますよね。「ああ、やっぱり家が一番ね。」って(笑)。だったら最初っからずっと家にいればいいじゃないですか。でも家が一番だと思うためには、やっぱり旅しなくちゃいけないんですよね。旅して帰ってくると、家の良さが分かって、旦那の良さも分かって、奥さんの良さも分かって、いったん旅して帰ってくるっていうのはやっぱり何か一つ意味があるんだと思います。いったん離れて、そしてまた一体化するっていうね。

 …ということで話が旅して帰ってきたところでね(笑)、時間にもなりましたし、このへんでお話を終えましょうか。どうもありがとうございました。(了)

(2008.2)

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2009年12月08日

「気話会」講話録('08.02) (8/9)

●いざ気の世界へ

 今日は私なりのね、「気」というものをどういうふうに考えているかっていうことをお話ししていますけれど、こういうことを誰かに教わったわけじゃないんです。私なりの「気」というものに対する捉え方なんです。でもだからといってべつに私が思いついたんじゃない。先人のさまざまな知恵の総合なんです。いろんな勉強をしているうちに、だんだんそういうふうに浮かび上がってきたんですね。「気」っていう言葉で昔の人が何を表現したかったのか、何を言いたかったのかっていうことがね。

 お金の使い方もそうだし、祝祭や儀式もそうだし、そういういろんなものを見ていると、そこでどういう気の交流が起きているのか、何が巡っているのか、っていうことが見えてくる。そしてそういうものを感じていったときに、じゃあどうすればいいのかっていうところで、そういう本質的なところが自分のなかでだんだんはっきりと形をなしてきたら、次の連想が湧いてくるようになってきたので、それでようやくこうして講座の中でだんだんしゃべれるようになってきたんです。

 それまではまだこう自分のなかでぐちゃぐちゃして「何だかよく分からない」っていう世界にいました。それが少しずつ形をなしてきたんですけど、それでもまだやっぱり漠たるものでね、「何なのか」って言われると、「分からん」っていう世界ですけどね。でも絶えず動き続けて、変化し続けて、分かったつもりになっちゃいけないもの。ホントに「感じる」しかないもの。そういうものを感じられるようになったときに、じゃあ次にそれにどうかかわっていこうかっていう構えができて初めて「気の世界」に飛び込んでいけるんですよね。


 あのね、こういうことって普段の振る舞いのなかでやっていくしかないなと思うんです。日本語には「気を遣う」とか「気をかける」とか「気を働かせる」とかいろんな表現がありますけど、そういうのって普段の振る舞いのなかでしか身に付かないし、実行できないことなんです。「気の達人」っていうのはやっぱり文字どおり一番「気を遣える人」なんだと思うんです。

 ある場面で何かにフッと気づいて、フッと気を働かせるっていうことが、その場を変えるんですよね。それで場が変われば結局そこにいる全員が変わりますから、そういう人が社会のいろんなことを変えていくんです。一番根底にあるものですからね。その上にいろんなものが乗ってるんです。場の上にいろんなものが乗っているんで、その場に働きかけるっていうのが気の世界なんですよね。すべては気の現われの一つなんですから。

 あいだにあって変わり続けているものがあって、それは動くまえに動くもの、現れるまえに現れるもので、それをフッと感じて、フッと動いてっていう、そういう気の流れをすごくスムーズにすることができる人を「気が利く人」とか「気働きのある人」とか「気が遣える」とか、そんなふうに表現したんですよね。

 これはもう普段からパッと気づいたらパッと動くっていうことをやっていくしかないです。つねに辺りの気配に気をかけて、何かが動いたことを感じたら誰より早く「それ」を動く。普段からそうやって心がけていると、だんだんそういうことが身に付いてきます。

――身に付いていくのかしら。これから…(笑)。

 いやいや、それこそ「気づいた」瞬間から始まっていますよ(笑)。パッと動く癖を作るんです。気づいたら今からやる。それでいいんです。それが大事なんです。

――私はお尻が重いから…。

 それはね。腰の可動性とかからだの問題っていうのもやっぱり大事なんですよね。そこにからだの調整をしていく意味があるんです。腰とか調整していくと腰が軽くなっていきますからね。腰が重いってホントに腰が重いんですよ。だから触っていてもね、「この腰じゃ動けないな」っていうのはあるんですよ。整体の操法でも腰を軽くしていくってことはすごく大事なんですけど、足腰が弱まってくると動けなくなるんです。それで動けなくなってくると気づけなくなる。腰の可動性は本能や勘というものと密接に関係しているんです。

 自分が動けないのにいろんなことに気づくって嫌でしょう? だから気づかないようにしていっちゃうんですよ。やっぱり苦しいですからね。自分が動けないのにいろんなことに気づいちゃったら、「なんで誰も気がつかないの? なんで誰もやらないの?」ってワーッてなって、それこそ苦しくなってきちゃうから、だんだん気づかないようになっていっちゃうんです。自分が動けない状態でも快適に暮らせるようにね。

 そしてさっき言った「無知」の状態になっていっちゃうんです。いろんなことが見えなくなって、聞こえなくなって、感じなくなっていく。足腰を調整してパッと立てるからだにしておくと、気づいたことを自分でできますからね。それが実行力というものと、そしていろんなことに気づく勘というものを養ってくれるんです。

――入院した時につらいですよね。寝ててからだが動かないのに、アタマの中では「ああして欲しい。こうして欲しい」っていろいろ出てきて、子どもや主人には「うるさいから黙ってなさい!」って言われるんですけど…。

 それはね、もうそういうときはしょうがないですよ。そういうときはやっぱりちょっと手放さないと、自分が動けないんだからもう…旦那さんを育てるつもりで(笑)。

――それが難しいんですよ(笑)。

 まぁ分かりますけどね(笑)。自分の言う通りに動くロボットがあればいいんですけどねぇ。それはもう長い目で見ていただいて…。でもみなさん子育てしてらしたんだから、子どもを見るつもりで、育てるつもりで接すればいいんじゃないですか。「あら、そういえばアレどうだったかしら…?」とか言いながら、さりげなく相手に気づかせるとか。「その気にさせる」っていうかね。

 「その気にさせる」っていうのは女性は上手でしょう? 子育てって結局は子どもをその気にさせるっていうことですからね。自分で気づかせる。自分でフッとね「ああそうか」って空想が湧けばあとは勝手に動きますから、いかにその気にさせるかっていうね。そこは知恵ですよね。


 相手の行動とか態度にね、ついどうしてもパッと怒っちゃうとか愚痴っちゃうっていうのは「肚(はら)」ができてないってことなんですよね。それはもう肚を作るしかない。堪忍袋って言いますけど、一瞬息をこらえて不快にウムッと耐えられるかどうかっていうのは、肚ができているかどうかっていうことなんです。気づきながらも、なおそれをそのまま引き受けるってね、肚なんです。引き受ける覚悟ってもんがいるんです。肚で引き受けられないから、それがアタマに来るんですよね。ムカッと(笑)。

――私は顔を見るんですよ。鏡で自分の顔を見るんです。カーッとなってるときに「この顔はいかん」って(笑)。

 それはいいですね。そういうモノの助けを借りるのも一つの手です。御守りみたいに手鏡持って、ムッときたらパッと見て「あ、しわが寄ってる」とかね。何の助けもなくそういうものを身に付けていくのは大変ですから、そうやってモノの助けを借りる。はじめはモノの助けを借りて、そして「ムッときたらパッと鏡を見る」っていうことが身体化してほとんど無意識に連想できるようになってくると、だんだんモノが要らなくなってきます。そして、だんだんモノが要らなくなってくると、それがワザになり、術になってゆく。

⇒つづく

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2009年12月01日

「気話会」講話録('08.02) (7/9)

●親子のあいだで引き継ぐもの

 そういうときってね、生まれた時からの、いろんな中で滞っているものが出ようとするんですよ。こういう表現するとちょっとオカルトチックになっちゃいますけど、でもやっぱり自分が人のからだを見ているとね、その人の親、でさらにその親って三代ぐらい前のものまでは引き継いでいるなって思うことがあるんです。いろんなものを引き継いでいます。それは別に変な意味じゃなくてね。さっき言った振る舞いっていう意味でね、排泄の仕方、表現の仕方を引き受けてきちゃうんですよね。育てられているあいだに。

 で結局、子どもを見ているとね、「これは子ども自身の問題じゃないな。親の問題の現われだな」っていうことがあって、それで親を見ると親の中にもそのまた親の問題が出てきてね。そうなると、そこまではなかなか手がつけられなくなってくる。でもまぁなんとか親の「親との関係」くらいまではこちらが手を出せるかなと。起きたことは変えられないですけど、でも今から何かをしていくことはできますから、そのなかでのより良い関係をね。いびつながらも一番良い関係を作っていこうよっていうことをやっていくわけです。

 まぁ、いびつって言っちゃうのもアレですけど、でもいびつじゃない関係なんてないわけですよ。親子なんて必ず何らかの形で、ちょっとズレたり、ちょっとゴツゴツしていたりするわけですから。でもそのうえで一番良い間合いとか、一番良い位置取りをね、探ろうよっていう、そのお互いの「同意」が大事なんです。


 たとえばものすごく親子の間がうまくいっていない。「私はアンタのことが嫌いだ」と。「私もアンタのこと見ていると無性に腹が立つんだ」と。でもね。でも一緒にやっていかなくちゃいけないんだから、「一番良い関係を一緒に探してみようよ」っていうね。嫌いだけど一緒に何とかしようっていうその「同意」さえできれば、すごく変わっていくんですよ。それだけなんですけどね。

 それで「同意」するためには何が必要かって言ったら、相手を認めることなんですよ。対等な関係として。対話をする相手として。そこには相手に対する敬意と礼儀が必要なんです。そこに、何十年と苦労しながらそれでも生きてきた一人の人間の生き様を認めて、それに礼儀をもって接するしかありませんよ。当たり前のことでしかないんです。

 そのうえであとはもう二人で探るしかない。ぶつかったり、遠すぎたり、近すぎたりしながらね。やるしかない。そうするとそれが下まで伝わって、子どもまで変わってくるんですよね。そうして多分子どもがまた自分の子どもを育てるころにはね、もっとホントに良い関係を引き継いでいけると思うんです。野口先生も「整体になるには三代かかる」って言ってますけれども、やっぱり全部見ていって三代目、孫まで見てようやくそこで整体になってくるっていうね。引き継いでいくものがあるんですね。大変ですよね。でもそれを切り替えていく。


●お金を払って祓われる

――ことわざでもありますけど、「泣き面に蜂」とかって言いますよね。私の母はいつも「泣くも笑うも一緒よ。だから笑っていなさい」って言っていて、それを思い出しました。泣いてたらホントに悪いことがもっともっと来ちゃいますけど、「笑う門には福来たる」とかって、やっぱり笑顔には福が来るような気がします。

 とりあえずそうやって発散の仕方の一つとして、パッと笑っちゃうっていうのはいいですよね。一つのお祓いですからね。「笑う」っていうのは。あの「はらう」っていうのはやっぱりなんかそういう意味が込められていますよね。たぶん「笑う」っていうのは「はらう」っていうのと語源は一緒なんじゃないかと思います。舞台用語では片付けることを「わらう」って言いますしね。「ハレの日」とか「ハレの舞台」とか、祝祭のことをハレって言いますけど、あれはやっぱり「はらう」ためにハレなんですよね。


 最近思うんですけど、「お金を払う」っていうのも、すごく大事だなって思うんですよね。今はあんまりそういう感覚がなくなってしまいましたけど、お金っていうのはもともと不浄なもので、あんまり露骨に人前で扱っちゃいけなかった。お金は使い方によって人を不幸にもするし、幸せにもするものですよね。ある意味、危険なものなんです。

 だから私は小さな子どもに何も教えずにお金を持たせるのはいけないんじゃないかって最近思うんです。お金っていうのはちゃんとその使い方を学んでから使わなきゃいけないって。お金の使い方が分かっている人が今どれだけいるかって考えた時に、私は「う〜ん…どうかな」って思うんですよ。お金の使い方がホントに分かってる人って、けっこう少ないような気がします。

 ホントはお金っていうのは、何て言うんですかね、根本的にね、他人に向けて流れていくように使われるべきなんですよ。お金っていうのは通貨っていうくらいで巡ることがその本質なんです。そういう意味では気の現われの一つなんです。愉気なんです。愛なんです。ホントは稼いだお金は自分たちの次世代、自分の子どもであったり、あるいは教育とか医療とか、そういうところに流していくべきなんですよ。そうして社会という一つの大きな生命体の中で循環して流れていくものがあるわけなんです。


 でもそういう使い方が分からないのか何なのかね。そういう空想が湧かないんでしょうね。どうも自分の手元にとどめておくような使い方ばかりでね…。もちろん私だってそれが全部悪いとは言いませんけど、原則としてやっぱり使い方ってもんがある。いま世界中でそんなお金が暴れまわっていますけど、「育てる」っていうものが乗らないと、お金っていうのは人を不幸にするんですよね…。

 だからお金は「浄財」って言いますし、それは「はらう」もんですけど、日本語っていうのはホントによくできてますよね。すごく洒落てる。お金っていうのは払った時に自分の穢れが祓われるんですよ。それは発散ですからね。自分の中にたまったいろんなグチャグチャしたものがお金を払えば払うほどどんどん出て行くんですから、払えばいいんですよ。それもなるべく自分の手元にモノが残らないような使い方がいい。だから「ダイヤモンドを買いました」っていうんじゃ、それはホントは違うんです。結局、手元に残っているんじゃ「お金」と「ダイヤ」を交換したってだけのことで、何も払ったことにならない。

 …あの、別に「だから私に払え」って言ってるんじゃないですよ?(笑) それじゃ変な宗教になっちゃう。いや、もちろん「お払いさせてください」って言うんなら喜んで協力させていただきますけどね。みなさんの発散のためにね。仕方なく(笑)。


 このまえすごいお話を聞いてね。ある人から聞いたんですけど、その人にね、ある人が何千万だかをポンと出してやるっていうんですよ。たぶん経済界の大物かなんかなんでしょうね。ただね、「感謝するな」「ありがとうって言うな」「何も返すな」「返すんだったらやらない」って言うんですって。「こちらに何もするな」って言うんですよ。あしながおじさんなんですね。つまり。いくらでもお前が欲しいって言うだけ出してやる。そのかわり俺に何もするな。お前のやりたいようにやれって。すごい人がいるなと思いましたけど。

 その人はたぶんお金の使い方っていうものが分かってるんでしょうね。自分が見込みがあるなって思った人間にボンっと出して「俺には何も返すな。お前のやりたいことに全部使え」っていう出し方をする。世の中にはすごい人がいるもんだって、その人も褒めてましたけど、私もすごいなって恐れ入っちゃいました。

 そういう「お金を使う」ってどういうことなのかっていうことがね、そういう経済界のトップに立つような人はやっぱり分かっているんでしょうけど、何かお金を使うっていうことは基本的に「はらう」ってことなんですよね。どうしても溜まっていってしまうものをね、「はらう」。パッとね。


 子どもにもそういう振る舞いをね、そういうふうにお金はやりとりされるんだっていうことを大人が身をもって示していくっていうことがね、大事だと思うんですよ。シュタイナーの社会有機体三層構造では「経済の友愛」ということが言われますけど、お金っていうのは社会の血液なんですよ。だから愛に満ちていなくちゃいけない。

 心臓が「俺が一番大事なんだ」って言って血液を全部一人占めしたら、ほかの臓器が病気になって、それで心臓自身だって生きていけなくなっちゃうわけですよ。だからほかの臓器のために巡るものとしての血液、共同体のほかのメンバーのために巡るものとしてのお金というものを、大人のそういう振る舞いを通して、子どもが自然に学んでゆくっていうことが大事なんだと思います。

 お金っていうものがどういうふうにして人々のあいだを巡るものなのかっていうことがね、そういうことが子どものなかにだんだん染み込んできて、それがあるていど身に付いてきたところで、改めてきちっと「お金って言うのはこういうふうに使うものなんだよ」って教えてお小遣いを渡すっていうふうにね、お金の使い方を学ばせていく。家の中で愉気をしていくこととか、コミュニケーションでやり取りされるものとか、基本的にそういう「流れていくもの」の扱いっていうのは、一緒なんです。

⇒つづく

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2009年11月26日

「気話会」講話録('08.02) (6/9)

●排泄回路をつくる

 そういう自分のなかに生まれたものを解消するのに一番良いのは、もちろんそれをそのまま実行に移すことです。表に現わしていく。表現してゆく。そのためには、それを積極的に実現するための方法を考え、実行してゆけるだけの知恵と行動力を身に付けてゆく。それが理想ですよね。たとえば怒って人をぶん殴ったってそれは不満が解消されるどころか、他人を傷つけるうえに自分がより不幸なことになるだけですから、もっと現実的な解消の方法を考えてそれを実行した方がいい。

 でもそんなこと言ってしまうと、ほとんどの人は「だからそれができないから苦労してるんだ」ってことになってしまうんで、とりあえずは自分のなかで一番エネルギーを出しやすいものを見つけるってことになります。それはまあ平たく言ってしまえば「趣味を見つける」ってことになるんですけどね。それがとりあえずできる方法ですよね。

 一番自分が夢中になれるもの。何でもいいんです。これは。歌を歌うとか。踊りを踊るとか。絵を描くとか。自分の中にあるものを出す。表現する。表現っていうのは排泄なんです。自分のアタマの中にあるものに形を与えて表に出すっていうことはやっぱり排泄なんですよ。だから自分のなかで一番気持ちがいいと思うもの、そんな趣味を一つ持っておくといい。何かあったらそれをやる。排泄として。


 昔の女性はよく裁縫とかしていましたけれども、もちろん仕事としてやっていたんでしょうけど、あれは発散という意味ではなかなかいいんですよ。あの、針をね、刺して刺してっていうのがやっぱりね、けっこう大事なんですよ。腹が立ったら針を刺せばいいんです。ブスブスブスブスと。あれはなかなか良い発散になっているんですよ。

 人形を作るなんて言ったら、人型のものにブスブスと針を突き刺すってことになるでしょう。あれはお母さんが自分の子どものためにって人形を作ったりしますけど、起きている現象はけっこう怖いんですよ。実は(笑)。おとぎ話だって同じでしょう? ホワホワと可愛らしい表面とは裏腹に伏流していることはけっこう怖いんです。でもそういうことも買ってきたんじゃ起こらない。自分で作るっていうときに、人型のものをブスブスと刺していることで、いろんなものがね、意識していない中で発散されて、流れていくんですよね。

――私はパンを作ったりするんですけどね。あれ50回くらい机にバンバンと投げつけるんですけど、あれも上司とか思い浮かべながら…(笑)。

 なるほどね(笑)。いいですねそれは。バン!バン!ってね。洗濯とかも昔はね、河原で岩にバンバン叩きつけたり、洗濯板でゴシゴシこすりつけたり、「もう!」とか言いながらできましたけど、あれ全自動洗濯機みたいに「ボタンをピ!」じゃ何の発散にもなりませんよ。「ピ!」で終わっちゃったら、余ったエネルギーの持っていきどころがないですからね。そういう意味ではなんかこう、家事が「ボタンをピ!」で終わるようになってきちゃったのは、実は不幸なことであったのかもしれませんよね。「暮らし」と自分が隔絶しちゃった。

 だって「ボタンをピ!」なんていうドライで都合のいい関係をどれだけ続けていたって愛情とか愛着が湧くはずがないですよ。自分と暮らしのあいだで巡るものがほとんどない。やりとりされるものがほとんどないってことは愛がないってことでしょう。自分の暮らしに愛着がない、愛情が湧かないっていうのはけっこう不幸なことですよ。「暮らし」そのものにもっと愛着が湧けるような仕組みを考えていかなくちゃいけませんね。

 私の母はずっとパッチワークやってるんですけど、もうそれこそ私が子どものころからいっつもやってたんです。先生として教えていますから、もうずっとやってる。それで今でも言っていますけど、「私はパッチワークやってるときが一番ホントに幸せ」とか言って、ずっとチクチクやってるんですけど、それでそのチクチクが半年もすればすごい立派なキルトができちゃうわけですよ。それがまたすごい表現になっているし、やっぱりすごいですよね。それもやっぱり白魔術だと思います。


●からだは最善をつくす

 大事なことはね、現われる形はいろんな形を取りうるということなんです。自分の中にあるエネルギーが生まれたと。それが外に出るときにはさまざまな形を取るわけです。それが物を作るっていう方向に向かうかもしれないし、物を破壊するっていう方向に向かうかもしれない。良いとか悪いとかっていうのはあくまでアタマの世界であって、エネルギーがボンと出るときには良いも悪いもないんです。ただ自分の中に生まれたエネルギーが外に出て発散するっていうことがあるだけで、それが現われとしての振る舞いになったときに、人から褒められることだったり、非難されることだったりするっていうだけのことなんです。

 ある文化のなかでは褒められることであっても、ほかの文化のなかでは眉をひそめられることなんて、いくらでもあるじゃないですか。それでそうやってエネルギーが外に出るっていうときには、基本的にその人が身に付けてきた振る舞いが一番出やすいから、そういう形をとって出るんです。当然、社会的にもあるていど馴染んでいますしね。


 人間がね、肛門がここにあるのは、ここにあるのが一番具合が良かったからここにできたというだけで、もし人間のからだが生まれるときにもっと自由に作れるんだとしたら、人によっていろんなところに肛門があったかもしれない。前に膿がすごく出てくるっていう方の話がありましたけれども、その方は自分の中ですごい一大事件が起きて、肛門から出すルートを使っている場合じゃなかったんですよね。緊急時で。もっとすばやく出さなくちゃいけなかった。それで結局そういうところに排泄の道を作ろうとしたんですよね。からだが。皮膚に直結してそこから出そうとした。

 からだのなかにある異物があったときに、からだはそれを出そうとしますから、そのためのルートをね、臨時で一回こっきりの排泄のためのルートを作る。痛いですよ、それはもちろん。元々そのためのルートが無いところを切り開くんですから。でも一回出しても中にまだ異物が残ってて、それで膿が生まれ続けてくるとなったら、やっぱり何度もそこを通っていくわけですよね。そうするとだんだん道ができてくる。で、道ができてくるとからだが覚えてくるって言うんですかね。ルートができてくるんですね。必ずそこから出てくるっていうね。それはやっぱりからだっていうか命がね、自在性を持っていることの現われだし、ある意味幸せなことだと思うんです。


 あのね、もしそれを肛門から出そうとしていたら、おそらくもっと大変な症状を経過していたんじゃないかと思うんですよ。皮膚から出してるからまだ楽なのかもしれないってね。激痛ですよ。もちろん。でも激痛だけれどもそれだけで済んでいると思ったほうがいいんじゃないか。もしそれを本来の正規のルートで出そうとしていたらもっと苦しかったかもしれない。からだはまだ一番良い方法で出そうとしますから、たしかに痛いかもしれないけれど「痛いで済んでいるだからいいでしょ」っていうことかもしれない。乱暴ですけどね。分かんないですよ? でも私はそう思うんですよ。たしかに痛いけれども、そうやっていち早くからだが外に出そうとしていることは、本当に一番良いことをからだがしてくれているんじゃないかって。

 からだってホントによくやってくれていると思うんです。そうやって私たちが身に付けた振る舞いのなかで何とか対処しようとして、ベストを尽くしてくれている。でも、からだにそれだけ負担がしわ寄せされているっていうことは、やっぱり振る舞いそのものを見直していかなくちゃいけないと思うんです。そこまでからだに負担をかけずに、もっとスムーズに出していく方法は無かったのかってことなんです。


 でも、歳を重ねてそのルートがはっきりしてくるとね、別のルートに変えるっていうことがホントに難しくなってくるんですよね。それこそすごい高熱を出して、七転八倒するくらいの経過を経ないと変わらないんです。からだの中のルートを根本から変えるっていうのは、劇的な命の組み替えを行わなくちゃいけないんで、ものすごい熱とものすごい排泄を通じながら、大病をしたりとか、劇的な経験を経たりとか、そういうことがどうしても必要になってくるんです。

 だから大病を経てガラッと変わっちゃう人とかいますよね。こういう言い方は危険なのかもしれないですけど、それは自分が変わろうとしていたのかも知れないですよね。その人は。「どうあっても自分が変わらなくちゃ、もうこれ以上はやっていけない」とどこかで心底思ったときに、そういうものすごい大病を経過して、もっと言ってしまえば利用して、自分の中のある振る舞いのルートを解体して再構築しようとしているのかもしれない。

 それで見事、大病から帰還できたときにはいろんなルートが切り替わって別人になって帰ってくるわけです。今までこう何だか気難しかった人がガラッと好々爺になっちゃったとか、すごく人に優しい振る舞いをするようになっちゃったとかっていうことがありますけど、あれはホントに生まれ変わったんだと思います。

 そういう反応を「排泄反応」って言いますけど、変わろうとしているときにはブワーッと出るんです。すごい熱が出て、吐いたり、下したり、汗をかいたり、それから感情が出てきたりする。昔の忘れていた記憶がブワーッと蘇って、泣きじゃくったり暴れたりね。今まで抑圧されていたもの、滞っていたもの、言ってみれば宿便みたいなものが一気にブワーッと出てくる。ひどいときにはそれですごいことになるんですけど、そういうことも含めて見ていくってことが整体の指導なんです。

⇒つづく

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2009年11月21日

「気話会」講話録('08.02) (5/9)

●「無知」と「麻痺」

 それでまあとにかくね、私たちがまず気をつけなくてはいけないことは「抑圧しない」ということなんです。流れるものをとどめないということですね。何か自分にとってあんまり良くないことが起きた時に、それを「見なかった」ことにしようとしてたり、「聞こえなかった」ことにしようとしてたりする自分に気がついたら、そうしない。

 あのね。「抑圧」っていうと無理やり力づくで抑え込むようなイメージがあるかもしれませんけど、究極の抑圧っていうのは、存在そのものを否定するっていうことなんですよ。究極のいじめはシカトなんです。無視ってことなんです。先ほどもマザーテレサの言葉を紹介しましたけれども、存在そのものを認めないっていう無視、無関心こそが愛の対極にあるものであり、それこそが抑圧の究極の形なんです。


 でもね、そういう人間の「無知の構造」「無視の構造」っていうのは、ある意味、正しい防衛本能なんですよ。人間には、都合の悪いことを気づかなかったふりをすることで自我を守っているという面があるんです。だから全部が悪いわけじゃない。「もう死んでしまったほうがいい!」っていうくらいの強烈なショックに出会った時に、人は気を失って倒れてみたり、記憶喪失になってみたりしますけど、それらはなんとか自分を守るための苦肉の策なんです。言ってみれば「無知の振る舞い」の「劇症型」みたいなもんです。気を失っちゃえば無かったことにできますからね。阪神淡路大震災のときも、とくに子どもに多かったそうですけど、あの瞬間の記憶だけがすっぽり抜け落ちてしまった人はたくさんいるんです。あまりにツライ出来事は、意識化できないように無意識の中でブロックしてしまう。

 だからこれは人間が生きてゆくための大切な能力でもあるんですけど、残念なことに人はそれを悪用し始めることがあるんですね。かなり故意的にいろいろなものを見落とし、世界を自分にとって都合が良いように解釈し始める。最初はそれで何とかなるかもしれないけれど、でもそれを続けていると、どんどん見ないようにしてきたことがたまってきて、そのうち整合性が保てなくなる。見るわけにはいかないものだらけで、物事のつながりがそこらじゅう目詰まり起こしているわけですから、「脳梗塞」ならぬ「認知梗塞」を起こしちゃうんです。それでどんどん現実の世界とズレてきちゃって、それがそのうち症状として現われてくる。そのしわ寄せが自分のからだや他人に行くんです。これは今まで見ないようにしてきたものが多ければ多いほど、ますますそういう傾向が加速する。

 もちろん、その人はその人でね、必死になって生きているわけです。そうでもしなければ生きていけないくらいツライ人生だったのかもしれない。でもね、そうやって見ないものだらけで、穴ぼこだらけの世界っていうのはホントに脆いんです。ホントに脆いから、いろんなものにすがるし、その脆さを補うために人を巻き込んだりし始めるんです。それは決して良いことだとは言えない。


 それで、そういう状態からその人の世界を変えていくためには、見ないようにしていることを、改めて気づかせてあげなくちゃいけないんです。でもそういうふうに見ないようにしているところっていうのは、本人は「必死に見ないようにしている」わけですから、そういうところを問い詰めていくとたいてい怒り出します。そりゃそうでしょう。せっかく気づかないようにしているところを、あえて気づかせようとしてくるんですからね。でも怒り出すんならまだ完全に麻痺しているわけじゃないんでマシなんです。本人がその部分に触れられて「ヤバイ」と感じているわけですからね。うすうす気づいているわけで変わる可能性がある。

 でも、こちらが何を言っているのかまったく理解できずに困惑してしまうようであれば、これを変えるのはなかなか大変です。それはそのポイントだけでなく、周辺にまでその麻痺が広がってしまっているってことなんですよね。だから連想すらできない。気配も感じられない。麻痺っていうのは変えるのが一番難しいんです。それで、私としてはそうなる前に、麻痺してしまう前に、少しでもそこの感覚を取り戻しておきたいんです。


 そのためには「あ、いま自分は見なかったことにしようとしている」ということにフッと気がついたときに、その部分をウムッと堪えてもう一度捉えなおす、向かいなおす、ということをしていかなくちゃいけないんです。大変なことです。きついです。でも必要なんです。少しずつでもいいからやっていくしかないんです。それでじゃあ、向かいなおして自覚してそれをどうするかっていうところで、さっき言ったみたいにそれを外に出す出し方、表現の仕方っていうことを身に付けていかなくちゃいけないんです。

 でも逆にね、出し方さえきちんと身に付けられればね、イヤなことと向き合うのもそれほど大変ではなくなっていくんですよ。だって、「見たくないこと」の「見たくなさ」っていうのは、それを知っても自分にはどうしようもないっていうあきらめにあるんですから。排泄の仕方、表現の仕方を自分の中でワザとして身に付けて、それと向き合っても自分はなんとか対処できると思えれば、ちゃんと向き合えるようになりますよ。今まで見えなかったものが見えるようになってくるんです。気付けなかったことにも気付けるようになってくるんです。

⇒つづく

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2009年11月14日

「気話会」講話録('08.02) (4/9)

●アタマのはざま

 そうやって人々のあいだっていうのは、何かがぐるぐる巡っているわけですけど、それがきちんとスムーズに巡っているっていうことはすごく大事なことなんです。だからたとえば自分が何かを見たり聞いたりしたときに、自分の中からワッと怒りのようなものが湧いてきたのなら、それはきちっと出していかなくちゃいけないんです。

 でも、それをそのまま外に表出してしまったら誰かを傷つけたりとか、物を壊したりとか、人を不幸にしてしまうこともある。じゃあそういう自分の中に湧き起こってきた怒りみたいなものを、どうやって外に表出するかっていうときに、何かこう形を変えるフィルターみたいなものが自分の中にないといけない。私はそれを茂木健一郎さんにならって「白魔術」なんて言ったりもしてますけど、そういうものが必要になってくる。


 一度自分の中で生まれたエネルギーは必ず外に出ますから、まず絶対抑えちゃいけないんです。これはもう繰り返しになりますけど、自分の中に生まれたエネルギーは絶対抑圧しちゃいけない。巡るもの、流れるものをとどめておくことは絶対できないんです。抑えると自分の思いもしなかったところから、思いもしない形で飛び出していく。そうすると完全に自分にコントロールできない状態になっちゃう。それは一番良くない。

 不満をずーっと我慢していると、まったく自分の空想のつかない形、さっき言ったみたいに思わずこぼしちゃうとか、つい壊しちゃうとか、意識しないところで鬱散が始まる。本人は「わざとじゃない!」って言いますけど、でもどう見たってあきらかに不満がたまって噴出しているんです。証拠にからだを見れば不満が鬱散している。

 でも言っておきますけど、その人が「わざとじゃない」って言っているのはホントなんです。だから責めるつもりはない。たしかにそれはホントなんだけど、その奥をもう少し、要求とか、エネルギーとかっていうのを見ていると、明らかにその前に何かあって、その不満がたまってたまってたまって、何か別の形で「わざとじゃない」っていう形で噴出している。それは見ているとホントに見事なもんです。


 それが外にね、物をぶち壊すみたいな感じで出るならまだいいんですけど、もっと不幸なのは自分のからだを壊すような、病気を作ったり、怪我を招いたりっていう形にもなるんです。引き起こすんです。そういうものを。だから抑圧しているものが強ければ強いほど、そういうものを招くんです。

 よく「幸薄い」とかって言いますけど、そういう人は自分の中にいろいろな欲望をホントに我慢して我慢して抑えつけちゃってるんですよね。なんかイメージありません?「幸薄い人」って。言いたいことも言わないで、人の言うことも聞くままで、趣味もなんだか内向的で…って(笑)。そうするとエネルギーが完全に抑圧されてしまっているんで、本人もまったくあずかり知らぬところから漏れ出てきちゃうんです。それがそういう不幸なことを招くんですよね。意識が許してくれないから、意識してないところから噴出する。そうしなきゃ鬱散がつかないんです。


 昔はそれがきちっとあるていどの社会的な儀式の中に含まれていたんです。なんかこう、いたじゃないですか。お祓いする人だとか。祈祷する人だとか。まぁいろんな人がいてね、よく分かんないことやるわけですよ。こう、「キエーーー!」とか叫んで、なんかワケの分かんない棒みたいなものをバサバサ振りまわしたりしてね。アタマじゃ分かんないです。アタマじゃ分かんないんですけど、その、自分にものすごく集中してね、流すことを一生懸命やってくれているその振る舞いのなかに、なにかこう満ちるというか、流れていくものがあるんですよ。その人のなかに。アタマじゃ分かんないです。何やってんのか分かんないですよ。そんなもの。簡単に分かるようなことじゃダメなんです。

 だから基本的に呪文みたいなものっていうのは、ワケの分かんないものですし、なんかこうサラサラと書いた御札みたいなものも何書いてあるのか分かんない。あれハッキリ書いてあったら、あんまり効果ないんですよ。分かりやす〜い文字で分かりやす〜いこと書いてあったら効果ないんです。アタマで納得してそこで解消されちゃいますからね。よくお蕎麦屋さんとかに貼ってある「親父の小言」みたいになっちゃう(笑)。


 野口先生のお話の中にも出てきますけどね。四国に呪文を唱えて人を治しちゃうおばあさんがいたんです。それが変な呪文で「大麦小豆二升五銭(おおむぎしょうずにしょうごせん)」とか何とかね、何だかチラシの見出しみたいな呪文なんですよ。で、そのおばあさんも意味は分かんないんですけど、でも唱えて手を当てていると治っちゃうもんだから、それで村の人たちを治していたんです。

 それである日お坊さんがね、不思議なおばあさんがいるって言うんで見に来てね。おまじない唱えながら治しているのを見てハッとして「それは違う!」って言って、それは「大麦小豆二升五銭」じゃなくて、「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごうしん)」っていう金剛教のありがたいお言葉だって教えてあげたんです。意味と文言を。それで「そんなありがたいものだったんですね」っておばあさんもありがたがって感謝して、それで次の日からね、今度はちゃんとお坊さんに教わったとおりに神妙に呪文を唱えて手を当てたらね、治らなくなっちゃったんです(笑)。


 でね、それって何ていうかアタマになっちゃったんだと思うんです。自分でも何やってんだか分からないけれども、何だか分からないものをハッとやっているときは、それが効いていたものが、ありがたいお坊さんにありがたい教えを教えてもらって、「そういうことだったんだ!」って意味がはっきり分かったら、もう完全にアタマになっていたんですよね。アタマで唱えていた。

 今まではワケが分かんないから目の前の人に意識をずっと集中していたものが、今度はそのお題目のほうが大事になっちゃって、それで意識はすっかりお題目のほうに行っちゃった。気持ちがありがたいお題目ばっかり行っちゃって、目の前の人を見なくなっちゃった。そういうことが起きちゃう。アタマに還元しちゃいけないっていうところがある。だから「気って何ですか?」って言われると…「知らない」って(笑)。「気は気だ!」って野口先生が言ったのはね、やっぱりホントにこう正しい作法というのかな、正しい振る舞いなんだと思います。


 ちょっとずつね。かつて気と呼ばれていたものの片鱗は、科学の進歩と共に分かってきたわけですよ。たとえば微生物だってね。昔は気だったんです。気の仕業だったんです。でもそれはよく見てみたらなんか生き物がいると。お酒ができるっていうのは神様が何かやってできるもんだと思っていたのが、じつは微生物の発酵というものだったっていうのが分かってきた。

 でも分かったからってそれが気の全部じゃなくて、微生物だったり、マイナスイオンだったり、放射線だったり、低周波だったり、そういう人間の目には見えないよく分かんなかったものがいろいろ分かってきましたけど、それでもなお意識にのぼらないものがいくらだってありますよね。そういうものに対する敬意というか、「分からない」っていう自分の無能性、不能性を認めたところから、気の理解が始まると思うんですよね。

⇒つづく

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2009年11月10日

「気話会」講話録('08.02) (3/9)

●家族のあいだを巡るもの

 内田樹さんが『下流志向』っていう本のなかで言っていましたけど、やっぱりお父さんのお給料が振り込みになったあたりから、家族のあいだを巡るものが変わってきたっていうのもありますよね。昔はたとえば狩猟時代に男が外で狩りをしてきて、捕まえた獲物を家に持って帰って「さぁ獲ってきたぞ!」って言って「わーっ!」って家族みんなで喜んでいたのが、そういうものが時代とともにだんだん男の仕事が見えなくなってきてしまいましたよね。

 獲物が現金袋になって、現金袋が給与明細になって、っていうふうにどんどん仕事の価値が透明化してきてしまうと、「働いてきたんだぞ!」っていう男の人のアピールができない。銀行に直接振り込まれちゃったら自分がどれだけ外で苦労したのかっていうのが家族に伝わらないですよ。鹿一頭ボーンって持って帰れば、もう何も言わなくても「これが俺の仕事だ!」って言えるから黙っていたっていいんです。それで体じゅうに傷でも作っておけば誰も文句はないでしょう。「どうだ。父ちゃんすげぇだろ!」って。

 でも現金振込みみたいになってくると「どうだ!」って言えないですよね。それで結局自分が外でどれだけ家族のために身を粉にして働いてきたのかっていうことを認めてもらうためにはくたびれて帰るしかない。だから男は外で働いて帰ってきたら「ああ、くたびれた。今日も大変だった。部長のやつがさ…」って愚痴るしかないんです。「給料が安い」なんて普段から文句言われてればなおのことですよ(笑)。「俺はこれだけ頑張っているんだよ」っていうことをそういうふうにしかアピールできない。哀しいですね(笑)。


 でもね、当たり前ですけどそんなの奥さんだって黙っちゃいないですよね。「あたしだってどれだけ大変だと思ってんのよ!」って話です。家事やって掃除洗濯やって、育児もやって、PTAに出て…って。「あたしだって大変なのよ!」「俺だって大変なんだよ!」ってお互いの不平不満の言い合いで、どっちがより不満で、どっちがよりくたびれているのかっていう競争になる。

 そうして牽制しあって不満がたまっているほう、よりくたびれているほうがアドバンテージが取れるんです。より不満だったほうが優しくしてもらえる。「あたしのほうが大変だった」って奥さんがそのとき勝てば、旦那さんが奥さんの言うこと聞いて何かやってあげるとか、逆に旦那のほうが大変だなって思ったら、奥さんがちょっと優しくしてあげたりとか。


 子どもは見ているわけですよ。そうやって不平不満を言い合って、もっとも不満だった人間がみんなに優しくしてもらえるんだっていう事を見て覚えるんです。人々のあいだを巡っているものは「不快の表明」なんだと。そうしたら子どもは当然ですけど「だりぃよ。やってらんねぇーよ」とか言いながら、とにかく「俺は不快だ。なんとかしろ!」っていうことで人の注意を引いて、人から何かしてもらうっていうことを学びますよね。その振る舞いを。

 家庭の中で何が起きているかっていうことは、そのまま社会集団の中で起きていることの雛形ですからね。家庭の中で「ああ、共同体っていうのはこういうものが巡って成り立っているんだな」って思ったら、学校に行ったって、会社に行ったって、あらゆる社会に出て行ったときに、そこから空想しますよね。だから社会っていうのはそうしてできているって思ったら、立派なクレーマーになっていきます。


――見えないですよね。お父さんがどれだけホントに現実として働いているのかってことは。お母さんの仕事はまだ見えるかもしれませんけど。

 お父さんがどういう仕事をしているのか完全に見えなくなっちゃったっていうのはけっこう大きな問題だと思うんですよ。自分たちの生活がどんなものの上に成り立っているのかってことが見えなくなってきているということですからね。これは都市でも一緒ですけどね。私たちは自分が食べているものが、どこから来ているのかほとんど知りませんよね。都市が農村を忘れてしまっているように、家族の中でも父が忘れ去られてしまっている。

 そういう意味ではね、家族が自分たちの生活を成り立たせてくれているお父さんの働く姿を見れるような、もう少しそういう社会的なシステムを作るべきだと思うし、あるいはそこまでできないっていうんであれば、せめて、祝祭を設けるべきなんですよ。たとえばお父さんの給料日には、「お父さんありがとう!」って家族で感謝を述べるとかね。

 …あの、一応言っておきますけど、当然お母さんにもあるんですよ?(笑) お母さんに「いつもありがとう」って感謝を告げる日もね。今、国民的な祝祭が無くなってきちゃいましたからね。年中無休の二十四時間営業の国になってきちゃいましたから、そういう区切りが曖昧になってきちゃったんですよね。だから今の時代はね、そういうものは自分たちで作るしかないと思うんです。それぞれの家庭で文化行事やしきたりというものを作っちゃう。そういう「お父さんに感謝する日」「お母さんに感謝する日」っていうのをちょくちょく作って、鹿をボーンっとまではできないですけど、目に見える形でね。

 そういう意味では七面鳥を焼いたのをボンと出すみたいなことはすごく分かりやすいですよね。「これはお父さんが働いてきたお金で買ってきたのよ」って言って「お父さんに感謝して、みんなで美味しく食べましょう」っていうこととか。お母さんがやってくれていることに対して、「じゃあ今日はお母さんの代わりにみんなで家事掃除全部やるから、お母さんはそこで休んでて」って言って、子どもとお父さんが一生懸命家事をやるとか。それをお母さんが「あの二人で大丈夫かしら」ってドキドキしながら見てたりね。そういうその人が普段どういうことをやっているのかっていうことを意識化させることってときどき必要ですよね。


――こうしてゆっくり話をしていると「ああそうだな」って思えるけど、なんとなくバタバタ毎日過ごしていると、どうしてもそのまま過ごしてしまいますね。でもお父さんがみんなのためにどれだけ働いているのかって言うのはお母さんですからね。お母さんが言わないと子どもたちは分からないですよね。

 まぁ…そうなんですけどね。でも私は男なんで私の口からは言えない(笑)。

――それはやっぱりお父さんもお母さんのことをきちんと褒めるっていうか認めるってことが大事ですよね。女の人ってただ毎日毎日、掃除とか洗濯とか、次の日はまた汚れてまた掃除ってその繰り返しで「何のためにやってるんだろう…」って女の人って必ずそんなことをふと思うときがあると思うんです。でもそれはとても大事な仕事で、家族がまた次の日元気に仕事だ学校だって出かけていけるのは、それはお母さんのおかげだってみんなが思ったら、お母さんもすごく生き生きとやりがいを持って毎日を暮らせると思うんですけど…。

 そうですね。ホントにそうだと思います。自分の中でそういうものを喜びに変えられるっていうことが大事ですよね。そういう振る舞いを自分の中に身に付けている人なら、それがそのまま喜びになるんですけど…。でもそれを全員に期待するっていうのは、やっぱりちょっと難しい。

――だんだん歳をとってくるとね。そういうことも分かってくるんですけど…。

 酸いも甘いも噛み分けてくると「これこそ幸せなんだ」ってどこかで感じられるのかもしれないですけどね。やっぱり二十代、三十代っていう頃は、もう少しこう社会的な承認とか、そういうものを欲しますからね。何て言うんですかね。目に見えるものが欲しいんですよね。それで評価されたりしますからね。

 だんだん歳を重ねていくと、世の中の目に見えるものの奥にあるものが徐々に感じられるようになってきて、そうするとそういう名誉だとか社会的承認だとかいうようなものがどうでもよくなってくるんですよね。そんなことよりこういうことが大事なんだって、直観で見抜けるようになってきますけど、でもそういうのってやっぱりホントにいろいろな経験をして分かってくることなんで、なかなか二十代、三十代で「大事なんだ」って言われたって、「そんなこと言われたって褒められたいし…」って思いますよね。こう「形にして欲しい」っていうね。

 だからそれが祝祭みたいな形で、あれはやっぱり感謝を形に示すっていうそういう振る舞いですからね。そういうことをちょこちょこ設けることって大事なんだと思います。…でもこんなこと言って我ながらホントに「お前は一体いくつなんだ」って…(笑)。


――このまえ何で読んだのか忘れちゃったんですけど子育てのことが書いてあって、「あなたの家庭では人を褒めるという習慣がありますか?」っていう言葉があったんです。そういう中に子どもがいれば、その子は人を褒めるような子になっていくって。

 そういうのはホントに子どもは全部吸収するんですよね。「何が巡っているのか」って。さっきも「子どもはすごく気に敏感だ」って言いましたけど、気は流れていること、巡っていることがその本質で、だから家庭の中でね、何が巡っているのかっていうことはやっぱりスッと分かるんですよ。それで子どもはその振る舞いに参加しようとするんです。だからそれで言葉を覚えるわけですよね。子どもは何かやりとりされていると自分もそこに参加しようとする。人々のあいだを言葉が巡っている、やりとりされているっていうと子どもはそれを必死に覚えて自分もそこに参加しようとする。

 目の前で「これあげる」「ありがとう」とかやってると、自分もそこに参加して「ちょーだい」「ハイどーじょ」「ちょーだい」「ハイどーじょ」とかもう、延々と繰り返しますけど、あれはその、何て言うんでしょうね、その気の巡りの中に参加したいっていう本能的な願望というか、欲望がね、人間にはあるんですよね。その「現われ」が「学習能力」という形になって現われている。家庭の中でやりとりされているものが何であっても別に子どもにとっては初めて見るものですから、それが罵倒のやりとりで、不満の言い合いであれば、ああこうやって世の中はできているんだと。人々のあいだには不満が巡っているんだなと。で、同じように人を褒めるのが巡っていれば、ああ褒めるんだなと。そのままそこに参加して振る舞いを身に付けていくんですよね。

⇒つづく

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2009年11月05日

「気話会」講話録('08.02) (2/9)

●気の集まるところ

 このまえ雑誌の取材を受けたときに記者の方に「すいません。最後に質問があるんですけど」って言われたんで「はい」って答えたら「気って何ですか?」って言われて答えようが無くてね(笑)。まあたしかにね、こういう気功とか整体とかやっているっていうと誰もが疑問に持つことだと思います。「気って何ですか?」っていうね。

 私もこういう世界に飛び込んで「気がうんぬんかんぬん」って言われて何の事やらさっぱり分からないで説明受けても納得できないし、自分なりに「何だろう何だろう」って考え続けてね…。野口晴哉先生も本のなかで「気とは何か」ということについて語っていますけど、はっきりおっしゃっていますよね。「不識」って。「知らない」って。「気は気なり」ってそれしか言ってないんです。「ただ気とのみ解せり」って。

 それで私自身も改めて考えてね、「そうか。それが一番正しい態度なのかもしれないな」ってあるときふと思ったんです。気について「分かった」とか「こういうものだ」とか、迂闊に言ってしまうような態度が一番本質からズレてしまうんじゃないかって思ったんです。「分からない。分からない。」って言いながら追い続けることだけが、気について考える「正しい振る舞い」なんじゃないかなって思うんです。分かったつもりになった瞬間にスルッと逃げていっちゃうみたいなものじゃないかと思って。


 で、そういう気っていうモノというかコトというか、そういうものに関して、生命というのは本当に全部感じているんですよね。すべて。人間でも子どもっていうのはすごくそういうのに敏感でね、何がその場で集中しているか、働いているかっていうことにすごく敏感です。人間の子どもっていうのは本当に無力の状態で生まれてきて、親や周りの大人に意識を集中してもらわないとすぐにも死んじゃう存在なんですよね。周りに世話してもらわなきゃいけませんから、周りの気を引くことだけが自分が生き延びるすべなんです。

 だから気を引けているかどうか、気が集中しているかどうかっていうことに、もうとにかく敏感なんです。それができなきゃ死んじゃうんですから。だから子どもの振る舞いを見ていると、まさにみんなの気がフッと集まるようなことをするし、どこにみんなの気が集中しているかっていうことに、すごく敏感に反応する。

 子どもたちを見ていると、だいたいみんなママのお財布とかケータイとか好きなんですね。やっぱりママの気が集中しているんですよ。そういうところは。見ていると本当にちっちゃい赤ちゃんでもそう。何が大人の気を引いているのかっていうことにフッと気がいって、そのみんなの気を集めるものを自分の中に取り入れようとするんです。

 だからそれをほかの子が持っていれば欲しがって奪うし、それで奪うと、みんなの気がさらにフッと集まるから、どんどん奪い合いになっちゃったりする。それはモノそのものじゃなくてみんなの集中を奪い合っているんですよね。だから誰も見向きもしなくなればあっさり手放したりするんです。それは別にモノに興味があるわけじゃないからなんです。

 そういうところを見て、それをフッとずらすとか誘導するとかいうことが、整体の子どもと接するときの気の使い方なんです。そこでどういうことが起きているのか、どういう気の流れがあるのかっていうところで気の流れをつかむ。そしてそれをフッと逸らしたり、フッと変える。そうしてその子のリズムをパッと変えたりね。そういうのが整体でやっていることなんです。だから子どもと接しているとすごく勉強になります。


 もちろん大人でもそういうのはあるんですけどね。でも大人になるとアタマが発達して言葉を使うんで、「気を感じて動く」っていうところから「アタマで考える」「理論で考える」っていうほうにシフトしてくる。そうすると気を感じて動くっていうよりはアタマで理由つけて動くようになってきて、ちょっと振る舞いが変わってくる。気で動くのと違う世界になってくる。理屈で動く世界。

 こんなこと言っちゃ失礼ですけど、それでもあんまりアタマ使わないような人って、やっぱりすごく気に敏感でね(笑)。そういう振る舞いをするんですよ。子どもみたいな振る舞いって言えばそういうことなんですけど、でもそう単純な話じゃなくてね。平然とすごい仕事をしちゃうんです。何て言うんですかね…。これはホントに無意識なんですけど、みんなの気が集まるようなことをするんですよ。で、みんなの気が集まるようなところにスッと動く。

 だから「何でそんなことをやるの?」ってみんなが思うようなことをあえてやったり、今それをされるとみんな困るっていうときに失敗したり、あるいは逆にみんながホッとするようなタイミングで何かをしたり。なぜその人がそういうことするかっていうと、やっぱりその場の気の流れっていうものを感じていて、それに敏感に反応しているだけなんです。アタマでは分かっていなくても、からだで感じてる。

 だからそういう人はなぜか分からないけど場の中心にいるっていうことが多いですよね。みんなその理由は分からないんだけど、何となくその人が場の中心にいる。その人がいない場であってもその人が話題の中心になっていたりする。それはやっぱりある意味すごいことなんです。意図せずそういうことができるって。


 でもね、それが共同体全体のために動いているうちはすごく大事な役割を担っているんですけど、これが自分本位になってきたらこれほどいやらしい振る舞いはありませんよ。全部が「自分のため」になってくるんですから。それも無意識に。その人はアタマじゃない。からだで動いていますから、パッとみんなの気が集まるようなことを本能的にやってしまう。みんなが困るようなところで物を壊しちゃうとかね。でも壊そうと思って壊してるんじゃない。完全に無意識なんです。なんかよく分かんないけど、そういうところで裾が引っかかったり、つまづいたり、うっかり忘れ物したりして、みんなが困っちゃうような状況を作る。当然ですけど非難される。当たり前ですよね。でもその集中を浴びているっていうことで、からだは満ちるんですよ。ちょっと怖ろしいですけどね。

 マザーテレサが「愛の反対は無関心です」って言いましたけど、愛だって憎しみだって、誰かに自分のことを徹底的に集中して見てもらっているっていう意味では同じなんです。そういう気の観点からすると集中されているっていう意味では何も差がない。「集中されているか、されていないか」っていうところが命にとっては大きな問題なんです。

 だから憎まれるようなことばっかりやって、人から「何であの人はあんなことばっかりやるんだ?」って思われても、その人はそういうやり方でしか人の気を集めるやり方を学ばなかったんですよ。人から本気で褒められるってなかなか難しいですけど、でも人から本気で憎まれるって簡単なんです。それでその人がいつかどこかで身に付けちゃったんですよ。「あ、こうやればみんなの気を集中できるな」って。安易な方法なんですけどね。「困らせる」って…。

――子どもなんかやりますよね。

 そうですね。子どもの場合は基本的に自分本位であることが多いわけですけど、それはやっぱりそういうことがまだ全然重要じゃないからです。というよりまだ空想がつかないんですよね。他人が存在するということが。不幸にも幼少時にそういう形でしか周りの大人の注意を集められなかったりするとね、それしかやり方が分からなくなっちゃう。はっきり言いますけどそれは大人が悪いですよ。罪ですよ。それでそういうやり方でいいんだって思っちゃうと、そういう大人になっちゃう。

 でもそれってやっぱり周りとの関係を考えたときにはあまり幸せなことじゃないですよね。それでもまあなんとかやっていけるんですけどね。そうやって集まっていれば。でもその人がそれでまったく完全に孤立して誰からも関心を得られなくなると、ホントにガターンと落ちますけど…。でも憎まれている限りはその人は元気なんです。そういう人はね。

――いくつくらいまでの体験が大事なんでしょうか?

 う〜ん…原体験っていう意味では、ホントに小さい頃からですけど…。まあ、少なくとも6,7歳くらいまでのあいだにそういう場の中にいさせてあげるってことは大事なんじゃないでしょうかね。これはね、教えるんじゃないんですよ。ただそういう場に浸っているっていうことが大事なんです。だから子どもに対しては教えるんじゃなくて、大人同士の間でそういう作法を演じるって言うのかな…演じるって言うのも変なんですけど。子どもは見て全部吸収していきますから。大人同士がやりとりしているときに、どうやってそこでコミュニケーションが起きているのかっていう作法を丸ごと学びますから、目の前で「コミュニケーションというのはこういうふうにやるんだ」って実践していくしかないんです。

⇒つづく

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2009年11月02日

「気話会」講話録('08.02) (1/9)

以前の記事で「淀みや溜まりがあるということが化膿を起こす原因である」という夏井さんの説に触れたら、ふと自分が昔しゃべった講義録を思い出した。

それで、遅々としてテープ起こしの進んでいない講義録のなかでも、奇跡的に編集まで済んでいる1年半以上前の講義録を引っ張り出して読み直してみたら、まったく同じことを言っていた。

う〜む…やはりな…
てゆうかなかなか良いこと言ってるではないか、RYO先生(笑)。


ずいぶん前にも書いたけれど、私はしゃべっているときはほとんど何かに乗り移られている状態なので、しゃべりながら自分で「おお、なるほど!」とか思っているくらいで、あんまり主体性というものを感じたことがない。

私は「しゃべらされている」だけである。

「誰に」なのかは分からない。

それは私自身の「内なる何か」であるとも言えるだろうし、私の話を聞きとめようと熱心にこちらに耳を傾けてくださっている受講者たちの「何か」であるとも言えるだろうし、あるいはそれら全体を含めた場そのものの「何か」であるとも言えるだろう。

だから私の言葉に私自身が「おお、なるほど!」と驚いていたとしても、あまり変なことではないのだ。…たぶん。

私の言葉は私のものではない。

おかげで「波としての身体」とか「スピリチュアルニッポン」とか「抜き型としてのカルマ」とか、自分自身もしゃべっていて吃驚仰天の突飛なアイデアが講座中にポンポン飛び出てくるのだけれど、あんまり突拍子すぎるのでこういうところにはとても書けない。

なので、ゆっくりシコシコとひそかにテープ起こしをしては、「ほう、なるほど」とか言って一人楽しんでいるのであるが、それがまったく遅々として進まないので、まぁまたいずれもう少し熟成した形で、いつかどこかで出てくるのを待つしかないかもしれない。

言葉はナマモノ。気まぐれなのだ。


それでまあ、今回のこれもまた何かのご縁かと思って、その講義録をここにアップしようと思うので、ご興味のある方はどうぞご覧になってくださいな。

1年半以上前の講義録ではあるけれど、まぁだいたい今しゃべっていることとそう変わるものでもないので、ほとんど修正せずにアップします。

いちおう以前にアップした講義録の続きというか下の句のような感じになっているので、内容がかぶっているところもあるけれど、もしだったらそちらも合わせて読むと分かりやすいかもしれません。(以前の講義録はこちらからどうぞ)

全9回に分けてちょくちょくアップしていくけれど、ホントに勝手なことをベラベラしゃべっているだけなので、いろんなところツッコミ無しでよろしゅうお願いいたします。

それではどうぞ。


「気話会」講話録('08.02) (1/9)

●意識と一体感

 このまえも微生物の話をしたと思いますけれども、微生物っていうのは滞ったところに発生するんです。たとえば死体が腐るっていうのもそうですけど、死んだっていうのは流れが止んでしまったっていうことなんですよね。生きるっていうのは流れ続けること、変わり続けることですから、死んでしまった動物っていうのは流れが止んでしまったってことなんです。入ってくるものも出ていくものも無くなってしまって、ただの物体になってしまった瞬間に、それを流れのなかに返そうとする力が働き始める。

 死んで自ら流れのなかに身を置くことを止めた命を、今度は外から働きかける力がワーッとやって来て、それをバラバラに分解してまた流れのなかに返そうとする。バラバラに分解されると土に返って、土に返ったものがまた植物に吸い込まれてっていうふうに、それはまた別の命のなかに還元されてゆく。その働きを担っているのが微生物たちなわけです。

 不思議なんですけど、そういう流れが止んでしまったところは、必ずそうやって何か別の力が働いて再び流れのなかに返そうとするんです。病気のことを「病む」って言いますけど、からだの中でも同じように流れが滞って止んでしまったところが病んでくるんです。それで発熱したり、排泄したりとかしますけど、そういうところに菌やウィルスみたいな微生物が繁殖するっていうのは、やっぱり何かそこを分解して流れに返そうとしているんじゃないかって思うんですよ。滞ってしまったものをね。

 でもそれは命からすると痛いんですよね。痛いっていうか違和感を感じるんです。何かこう自分のなかの原理じゃないもの、外の世界の原理が自分のなかで働き始めると、それは異質なものなんで、それは命にとっては違和感を感じるんです。その強烈なのが「痛い」ってことなんですね。


 「一体感」っていうのは、自分の手の指先から足の指先まで丸ごと全部「自分」という同じ一つの原理で働いているときに感じるものですよね。でもね、変な言葉だと思うんです。だって一体だったら何も感じないですよ。一体なんですからね。まあいいんですけど。それがひとたび自分と違うリズムで働き始めたり、違う原理で働き始めると、たとえば心臓がバクバクいってるとか、胃に穴が空いたとかっていうと、とたんにその部分がフッと意識にのぼるんですね。「うっ!動悸が!」とか「うっ!胃が痛い!」とかいって、その部分が意識にのぼるっていうのは一体感がなくなっちゃった状態なんです。

 だからホントは健康な状態っていうのは自分のからだのなかを何も感じない状態なんです。自分のなかのいろいろな内臓、胃だとか心臓だとか肝臓だとか腸だとか、それらが一体になって動いているうちは何も感じないんです。まったく意識にのぼらない。自分のからだを感じようとしてもどこに何があるのか分からないんです。それは幸せなんです。でもそれがひとたび不調和を起こすと、「ここに胃袋がある」とか「腸がある」とか、そういうのが急に意識にのぼってくる。それは何かがズレたんです。調和が乱れたときに、それが意識にのぼる。


 人間の意識っていうのはそういう働きをもっているんです。差異とか違いとかズレとかを感じるようにできている。のんべんだらりと同じものが続いていると、そこに意識って生まれないんです。ひとたびそこに色が違うとか形が違うっていうふうに差異が生まれると、そこに感覚が生まれて意識が生まれるんです。上も下も右も左もないところには感覚も生まれないし、意識も生まれない。それは人間のアタマの働きの根本原理なんで、だからあんまりアタマばっかり働きはじめると、違いばかりが強調されてきて疎外感が増えていくんです。一体感ってアタマでは感じられないんです。感じられないっていうのかな…。シュタイナーも言ってますけど、意識っていうのは反感作用の働きなんです。

 それはつまり自分から切り離して客観的に捉えるっていうことで、だからアタマっていうのは基本的に違いを感じる器官なんです。アタマでいっくら何を考えてもそこから一体感は得られないんです。だから幸せなときっていうのは幸せなことに気づかないっていうのが本当なのかもしれないですね。失くしてみて初めて気づくとかね。ズレてみて初めて「ああ、今まで幸せだったんだ。」っていうことを感じなおすものかもしれない。


 人間がこれだけはっきりした意識を持ったっていうのは、その「ズレ」を認識するためにアタマをこれだけ発達させてきたわけですよね。そういう意味では人間存在というものがそういうものを認識したがっているんだとも言える。世界を分析したがっている。分けてみたい。世界を。バラバラに。で、できる限りバラバラにしてみてどうなっているのか仕組みを知りたいっていう命の願望が、人間の脳みそをこれだけ発達させてきたのかもしれない。

 でもバラバラにしていくだけじゃ物事の本質って分からないこともたくさんあるんですよね。たとえば目の前に川が流れていたとして、「川って何だろう?」と思った時に、目の前の川の水をコップですくって研究室に持ち帰って、その成分を一生懸命調べてみたところで「川の本質」というものは分かりませんよね。水は分かっても川は分からない。川の水は、川から離れてしまった瞬間に、その本質から外れちゃっているんです。もう川じゃないんです。ただの水なんです。川を知ろうと思ったら、やっぱり川を丸ごと全部捉えなきゃ決して分からない。

 生命というものもまったく一緒で、やっぱり切り離して調べていったところで、決して分かるものじゃないんですよね。もちろん要素は分かりますよ? 今の分析化学であれば要素は極めて細かいところまで分かるでしょう。でもそれらが膨大な量集まって、そして複雑に作用しあった時に現れてくる生命という現象は、そういうアプローチでは決して分からないんです。アタマでは…というより言葉では捉えきれないものがあるんです。

⇒つづく

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2008年11月29日

「気話会」講話録('07.11) (7/7)

●からだに任せて飛び込む

 一時期つくづく思ったんですけど、何か問題が起きた時にそういうところはつい見ないようにしちゃいますけど、飛び込んだ方が早いなって。イヤなことからはつい逃げたくなっちゃうんですけど、それよりは覚悟を決めてポンと飛び込んだ方が何かが起きて案外良い方向に向かうものなんですよね。人間関係でも「あの人といるとくたびれるな」と思って、だんだん離れていっちゃって、それでホントに離れられればいいですけど、それでも隣にずっといるとかね、そういう状況にいるとずっとくたびれ続けることになっちゃって、それこそホントに病気になったりね。それよりは飛び込んじゃった方がいいんじゃないかと思うんです。しっかり向かい合ってみたら案外何てことなく事が終わってしまったりして。見ないようにしてゆくとどんどんそれが大きくなりますから。

――どうやって飛び込んだらいいんですか?

 何も考えない方がいいと思いますよ。飛び込むときは。ただ肚に力を入れて覚悟を決めて、あとは飛び込んで自分のからだに任せるっていうのがいいと思います。ヘタに考えるとこじれるだけなんで、ありのままでボンと飛び込んでいくしかないですね。私の数少ない経験で思いました。ごちゃごちゃ考えていると余計にこじれるんで何も考えず覚悟だけ決めてボンと飛び込んじゃう。もちろん何が起きるかまったく分かりませんけどね。そんなことして。でもたいてい悪くなることはないですよ。何か通じるんでしょうね。そういうのは。

――イヤだったら逃げちゃう…(笑)。

 逃げられればいいんですよ(笑)。逃げられれば逃げるのも大事です。でもこれは逃げられないと思ったら、どこかで覚悟を決めて飛び込んじゃった方が逆に楽なことの方が多いと思いますよ。逃げられることは逃げて、逃げられないものは飛び込んじゃった方が楽かもしれない。影ほど怖いものはないですからね。見ないようにしていると影だけが、気配だけがいつまでも残りますでしょう。気配っていうのはどんどん巨大になっていきますからね。やっぱり見えないっていうのは一番怖いですから。正体っていうのは案外小さいもので、でも見ないようにしていると空想はどんどん大きくなっていきますから、ますます巨大で恐くて怖ろしいものになってゆく。でも飛び込んでしまうとその闇の中から正体が出てきたときには案外何でもないものだったりして、「何でこんなものを怖がって逃げていたのかな」なんて思ったりするんですよね。昔話の教えとかでもありますけど、ホントにそう思います。


●語り継がれる知恵

 「見越し入道」っていう妖怪がいるんです。最初は小僧みたいな小さな人影なんですけど、でも見ているとどんどん大きくなっていくんです。それで見上げれば見上げるほどどんどん大きくなっていって、ヘタをすると命を奪われるっていう妖怪なんです。それでそういうのに出会ってしまった時の対処法っていうのがあって、見上げるんじゃなくて頭から下に下に見下ろしていくんです。グーッと見下ろしていくとどんどん小さくなっていって、自分の背より小さくなった瞬間に「見越した!」って叫ぶんです。そうするとパッと消えちゃう。その話は意味深いですよね。ホントにそういうもんだと思います。なんだか正体の分からないモノっていうのはついつい見上げちゃってどんどん大きくなっていっちゃいますけど、頭から下に見下ろしていくとその正体はホントにちっぽけなもので、ちっぽけになった瞬間に肚に力を入れて「見越した!」って言うことで、それが雲散霧消してパッと消えちゃうっていうね。

 私もその話を聞いた時には「なるほどな」と思いましたけど、そういう昔話とかって深い教えがありますよね。神話に始まり妖怪譚とかお伽話とか。そういう目に見えないよく分からない災厄を呼び起こすものをモノノケとか妖怪とか呼んで、物語として語り継ぐことで教えを代々受け継いできたんだと思います。


 …まぁ、あんまりしゃべってばかりじゃなくてからだも動かしてゆきましょうね(笑)。
 そうですね。波を感じることをもう一度やっておきましょう。足を持ってゆらゆらと揺らすやつですね。足から伝わっていった波がズーッとからだの中を抜けていって頭の先から抜けてゆく、そういうイメージですね。波というのはエネルギーですから抜けてゆくんです。とにかくただ抜けてゆく。ただ抜けてゆくだけでからだの中の流れを呼び起こして整えてゆくんです。流れというのは通り抜けてゆくものなんです。通り抜けてゆくときに仕事をするんです。電気もそうですよね。電気も流れています。だから同じように通り抜けるときに仕事をしているんです。コンセントって穴が二つありますよね? それはなぜかって言うと、入ってきて、出てゆくためなんです。電気も通り抜けるときに仕事をしているんです。だからきちんと流れてさえいればいいんです。じゃあやってみましょう。(了)

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2008年11月25日

「気話会」講話録('07.11) (6/7)

●実践してゆくということ

 とにかく流れをちゃんと意識しておくことって大事なんです。それで整体の手当ての基本である愉気っていうのは、その流れを誘導してあげるっていうことなんですよね。何か愉気が特別なエネルギーを出して治すとかそういうことじゃなくて、ただ「あっちだよ」ってその流れの方向を教えてあげるぐらいのことをしてるんです。流れがきちっと通るようにしてあげるだけのことなんです。だから「愉気をして自分の気が減って相手の気が増えて」なんていうふうには捉えないのが整体の気の捉え方なんです。むしろやればやるほど自分も元気になるっていうふうに。減るもんじゃないよっていうね。どんなに風が強く吹いて風車を勢いよく回したからって、空気は減りはしないでしょう? 生命力っていうのはそういうもんなんです。

――現実に私なんかが手を当てても違うんですものね。帰るときに顔が違うんですよ。

 誰にでもあるものなんですよ。命の当たり前の行為なんで、「出来る」とか「出来ない」とかそんなことはなくて、ホントに誰もが当たり前に手を当ててあげれば起きる出来事なんですよ。愉気って。ちょっと忘れすぎてしまったんですよね。私たちが。昔はもう少し普通に村とか集落とかに「お手当て婆さん」というのがいて、もっと当たり前に民間療法家としてただ手を当てて呪文みたいなものを唱えたりして治していたんですよね。ものもらいが出来たっていうとそういうところに行ってお手当てしてもらうみたいなことが当たり前にあったって聞きますけどね。


 私の知り合いでもいますけど、その人のひい婆ちゃんっていうのがお手当てしていて、エピソードを聞くとやっぱり面白いんですよ。昔は野口先生みたいな人がもっと普通にいたんだなって思うとホントに愉快でね。その人はフッフッって背中に息をかけて払うんですって。それで子ども心に「何やってんだろう?お婆ちゃん」って思って、「何やってんの?」って訊いたら「思い込みを払ってんだよ」って答えたそうです。いろんなことを思い込んで自分の中でごちゃごちゃしてるのをフッフッと払ってあげて「ハイ大丈夫」って言ってあげてね。そうしたら何だか元気になったような気がしてそのまま元気になって…。フッと思い込みが外れるとね、何かが変わり始めたりしてね。

 野口先生も自分のやっていることを「暗示からの解放」っておっしゃっていましたけれども、自分で自分に暗示をかけてがんじがらめにして病気になったり、元気を無くしたりしているから、それから開放してあげるだけでホントに人は元気になるって言って、自分の生涯の仕事として「暗示からの開放」ということを貫いていましたよね。野口先生は。

――そういうことができたらいいですね。

 そういうのはね、できるかどうかじゃなくてね、やるかどうかなんだと思いますよ。もうやるしかないと思ってるんです。私は。何て言うんですかね。最近思うんですけど、こういうことって稽古できないなって思うんです。もうやるしかないなと思って。だからそういう人がいたら手を当ててあげたり、払ってあげればいいんです。そうして「大丈夫」って言ってあげてね。そうしたらフッとその人の目が輝いてきたりしてね。それはもう練習とかじゃなくて、フッと思った瞬間にやるしかないことで、だからもう機会があったら動くしかないんですよ。やるしかない。


 野口先生も「練習するな」って言ってますけどね。「稽古しちゃいけない」って。一回見て覚えたら忘れろと。必要な時に思い出すからって。奥が深いなと思いますけど…。練習していると…何て言うんですかね。練習しちゃダメなんですよ。言葉にできないですけど。

――自分の意識が入っちゃうから…

 何か余計になっちゃうんです。フッと思った瞬間にフッと動いて、そのとき何かが出来るんです。でもあんまり下手に練習しすぎるとそういうふうに動くことが出来なくなっちゃう。あのね、稽古なんてね、いくらやったって上手くなるのは稽古だけなんですよ。いや、もちろん稽古も大事なんですけど、そこをブレイクスルーするためには稽古だけじゃダメなんです。整体では「活法」といって倒れた人の息を吹き返す技術とかそういう救急法があるんです。そういうのも教えるんですけど「忘れなさい」って言うんですよ。「ノートなんか取っちゃダメだ」って。見て覚えたら忘れなさいって。そのことの意味を感じますね。だから自分の頭の中からもいろんなものを払って払って…

――払ってもらいたい(笑)。つまらないことばっかり。

 そうですね(笑)。なかなか自分のは払えないですから、誰かに払ってもらわないといけないのかも知れませんけど、でもそうして動かなくなって止まっていたものが外から来た風でフッと流れ始めると身が軽くなりますよね。わだかまりとか滞りとか。だからそういうものに気づいた時には、なるべくそこに風を入れるようにしてゆくといいですよ。

 私はよく「外の風を招き入れる」っていう表現をするんですけど、そういう感覚って大事なんです。外部とつながっていないと組織っていうのは必ず淀んでいくんです。熱力学ではエントロピーなんて言いますけど。自家中毒起こして自死に向かう。逆にいえば外部とつながっていることで、外からときおりやってくる新しい刺激によって秩序が保たれるんです。外部と交流することでしか生命は保たれないんです。

⇒つづく

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2008年11月20日

「気話会」講話録('07.11) (5/7)

●伝統文化に見る発散の知恵

 昔はそういうのをたとえば滝行なんかで滝に入って厄を落とすというか、そういうことをしていましたよね。むかし滝行をやったことがありますけどあれは強烈なんです。バーッと上から落ちてくる水に打たれて、水量が多いときなんて肩とか内出血するくらいすごかったりするんですけど、あれはもう事故なんですよね。事故に遭う前に自分で事故に遭っちゃうんです。滝の中に飛び込んで。

 そうしてからだじゅうにバッチバッチ浴びて悪いものを削ぎ落として流してゆくっていうのが禊(身削ぎ)ってことなんですけど、そうやってからだが「死ぬんじゃないか」っていうびっくりするようなことをあえてわざわざやることで、余計ないざこざを生み出してしまうような自分の中に溜まったものを発散させてしまうんです。寝ぼけた生命力を賦活させるんですね。そうするとしばらく落ちつくんです。自分の中に滞ってしまっていた余剰エネルギーが発散されますから、争いの種になるようなものがずいぶん減って、無病息災じゃないですけど、そういうことはからだから見ても確かに理に適っているんですよね。そういう意味で修行みたいな荒行みたいなものも時々やっているとすごく元気だし、ご利益的な意味だけじゃなくて、整体的な観点からしても病気も減るし怪我も減るだろうなと思います。

 各地にあった「喧嘩祭り」みたいなものもやっぱりそういうものなんだと思います。ヘタをすれば死者が出るくらい激しい祭りを何で毎年やっているんだって言えば、やっぱり一年ずっと暮らしているといろんなゴタゴタがあって、お互いが何となく我慢していることがだんだん溜まってきたときに、それをきちっと発散させるシステムとしてね、「今日はいいよ」っていう「喧嘩祭り」とか「悪口祭り」みたいなものがあって、「今日は無礼講ではしゃいでいいぞ」っていう全員の了解の下にワーッと出して、とにかく全部出して燃やしちゃって、共同体全体の毒出しをしてスッキリしちゃうっていうね。お祭りやってワーッと発散させると土地全体がゆるむっていう、そういうエネルギーをきちっと流してゆくための装置だったんじゃないかと思いますよね。


 あとはそういうときに火を焚いたりとかもね。昔から神社仏閣なんかで火を焚いたりしてますでしょう。からだにお灸を据えるっていうのも経穴とかあるポイントに据えますけど、土地でもそのポイントポイントに祠を建てて神社を建ててそこで火を焚いているっていうのは、やっぱりお灸を据えているんですよね。大地に。そういうところで熱を当ててね、発散させているんだと思います。大地のエネルギーの流れを中国では龍脈と言いますけれど、そういう流れの中にもポイントのようなものがあって、そうやって地球全体の流れの中のあるポイントできちっと発散させているっていうね。小さな火山みたいなもんですよね。そこで小さく噴火させて出してあげることで何かが発散される。

 火っていうのは上昇するものですから昇華させるためにはすごくいいんです。だから私は家の中でもそういうものを置いておくといいですよってときどき言うんですけど、淀んでいるところに火を置いておくといいんです。火はいろんなものを呼び込んで払ってくれるんで。火は上昇気流を生みますよね。それで上昇すると対流しますから風はそこに向かって流れていくんです。それで淀んだ暗いところには上じゃなくて下に、そういう火じゃなくてもいいから明かりをポンと置いておくと、その熱がフワーッと上がって、風がスーッと周りから入ってきて、そこの淀みを散らしてくれるんです。もちろん明るくなりますしね。だから部屋の中でどうもここは湿気が多くて暗い感じがするなと思ったら、そういうところに火を置いておくと風を呼び込んで湿気を飛ばしてくれます。そうやって流れを発生させて淀んでしまったところを流れのなかに組み込んじゃうんです。


●微生物の働き

 私は大学が醸造学科で、お酒造ったり、味噌造ったりしていたんですけど、微生物っていうのもすごく面白くて、あれは流れが停滞したところに発生するんですよね。腐るってそういうことですしね。何て言うんでしょうね。良い悪いとか関係ないんですけど、物事っていうのは流れている限りはそのままスムーズにいっているんですけど、流れがどこかで滞ってくるとその滞った流れをもとに返そうとする力が働いて、それが分解という働きを担っている微生物たちなんですよ。そういうところに微生物が湧くんです。流れが滞ったところに微生物が湧いて、それを分解して粉々にして流れに返そうとするんです。ムシが湧くところっていうのはやっぱりなにか滞っているんですよね。風通しが悪いところとかムシが湧きますでしょう。それでムシが湧いて腐らせてグチャグチャにして細かくすることでまた再び流れのなかに返していこうとするっていう。その「分解」というのは人間にとっては、というか生物にとっては「死」ということであって困っちゃうんですけどね。

 でもそうして命を分解して初めて他の命に受け継がれていくわけですから、大きな目で見たときにはすごく大事なことをやっているんですよね、彼らは。動物のからだが腐らなければ森は動物の死骸だらけになっちゃいますから、やっぱりきちっと腐って分解されて土に返ってまたもとの流れのなかに返ってゆくことではじめて森が循環しているわけで、それは大事なことなんですよね。でもそれが自分のからだに起きてしまうと困っちゃいますから、少なくとも生きているうちにはそうならないように、腐ってムシが湧くようなことはしちゃいけないですよね。自分のなかに何か淀んだところを作っちゃいけない。

 でも人間はあえてそれを利用して、流れをとどめて停滞させたところにムシを湧かせて、お酒を造ったり味噌を造ったりしてそれを食べるなんていうずいぶん高度なことをやってますけど…、人間ってホント面白いなと思いますね。おそらく発酵食品を食べない文化って無いんじゃないんですかね? 知りませんけど。そういうものを摂るっておそらく人間のからだにとってすごく重要な意味を持っているような気がします。生のものと発酵したものではその意味はまったく違いますからね。発酵好きの人間の贔屓目かもしれませんけど…(笑)。

⇒つづく

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2008年11月17日

「気話会」講話録('07.11) (4/7)

●自分のことは分からない

――人のことって見えても自分のことってなかなか見えないですよね。何かいま起きていることもそういうことなんじゃないかなって思っても、自分でどうやってそれを変えたらいいのか分からないんです。

 自分のことを知るというのはホントに難しいですね…。先ほどの話でも出てきましたけれども、自分のことって分からないんですよ。これはきっとキリストでもお釈迦様でも分からなかったと思いますよ。自分のことは分からなかったと思います。

――でも分かりたい(笑)。

 「こうなるだろう」っていうくらいは分かるかもしれませんけどね…。それはもう限りなく自分を捨ててゆくしかないと思います。もちろん不可能なんですけどね。自分は自分ですから。でも限りなく自分のことがどうでもよくなって、まるで自分じゃないくらい客観的に離れて、他人を見るかのように見ることができたときに、はじめて少しくらい見えてくるんだと思います。でもそれでもやっぱりお腹が減れば何か食べたくなりますし、殴られれば痛いですし、どうしても自分の要求に自分自身は左右されてしまいますからすごく難しいです。そういうところからどんどん離れていった時に少しずつ見えてくるものがあるんじゃないかとは思いますけどね。


 前にも申しましたけれども、「気」とか「生命」とかそういうものはホントは決して分からないんです。もしそれが分かるとしたらそれは自分が死んだときしかないんです。死んだ後に感じることができるのかっていう問題はありますけどね(笑)。自分が生きているっていうまさにその瞬間は、「生きている」っていうことが何なのかって分からないんです。自分のからだからその「生きている」っていう現象が消えていった時に、外から見てはじめて「ああ、生きてるってそういうことだったんだ」って分かるんです。目が自分自身を見ることができないように、離れないと見えないんです。

――もっとはっきり生きたいと思うんです。私は。自分が「こう」と思っていることをやっているときは、他の人が「そんなにしなくても」と言っていても、自分が生き生きしているなってことが分かるんですよ。まわりから「これがいい」っていくら言われても自分が納得しないと本当に思えないでしょ?

 そのときの充実している感覚だけが頼りですよね。

――でもそれを突き進んじゃっていいんでしょうか? 良くないって方もいるし…

 そこが難しいところですよね…(笑)。「心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず」っていう孔子の言葉がありますけど、そんな「もうやりたいことだけやってもそれが人を不幸にすることは無い」っていう老境の域にまで達することができればね…。すごいことですけどね。それは。

――求めないっていうことも分かる気がしますけど、でも求めるときのその人のエネルギーったらすごいものだと思うんですよね。だから求めるっていうことをあんまり否定してもいけないんじゃないかと私は思うんですよね。

 求めるのが命ですからね。矛盾したことを引き受けていかなきゃいけないんだと思います。

――それが人間なんでしょうかね…

 命なんだと思います。私は。矛盾しているんだと思います。命っていうのは。


●からだの排泄作用

――私の知り合いで見せてもらったんですけど、胃がんを手術で取ってからからだの中から膿が出るんですよ。縫ったところじゃないところから。出るまではものすごく痛いわけ。それを整体で手当てしてもらっていたんですけど、それが最近だんだん減ってきたんですけど、出るまではホントに痛くて七転八倒しているんです。出ちゃえば楽なんです。そういう方もいるんだなぁって…

 からだはそうやってからだの中に溜まったものを何とか出そうとして、一箇所にまとめてある道を作って出そうとしますからね。それが自分の中にあるルートができるとそこを通じてとにかく出そうとするんで、出しても出しても中に何かある限り、やっぱり同じルートを通って同じところに溜まって、それをまとめてからだの外にボンと出そうとする。

 それが腸みたいにきちんとそのためのルートがあればいいですけど、こんなところに肛門があるわけじゃないですから、何も無いところから排泄物をまとめて出そうとすれば、それは痛いですよね。

――十年以上耐えましたよ。その方は。すごいもんだと思いましてね。でも「怒る」っていうのもそうですね。いっぺん怒って爆発するとしばらく静かになりますね。

 そうですね。圧縮したものがちゃんと出ればね。それを抑えて我慢していると、別の形をとってやっぱり出てきてね。それが体癖によってどういう形で出るのかっていうのが人それぞれあって、大ざっぱに二つに分けると、それが外に向かう人と自分の内側に向かう人がいて、自分の内側に向かう人は自己破壊的なことが起こるんです。胃に穴が空くとか、肝臓が壊れるとか、そういう形で自分の中で発散させようとする人と、あとは外に出す人。何か物を壊すとか、人に当たるとか、突然大きなことをしはじめるとか。いい形で出せれば芸術作品を作るとかそういう形になるかもしれませんけど。そういう圧縮されたエネルギーが再び出ようとする時に何か拠りしろというか対象を必要とするんですよね。でもそれは本人は意識してないんです。

⇒つづく

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2008年11月13日

「気話会」講話録('07.11) (3/7)

●「出し方」という知恵を教える

 どうもお話がずいぶん心理的なものになってきましたけど、最近はフロイトとかラカンとかそういう精神分析を勉強しようと思っていて、そのことが自分の中にあったんで、ついそういう話になってしまいました。でもやっぱり「スムーズに出してあげる」っていうのが整体で一番大事な根本にある考え方で、熱が出たらその熱をきちっと出させてあげる、気持ち悪ければ吐けばいいし、皮膚から出ているものはちゃんと出してあげる。それを抑えるから何かいろんな形で出てきてしまうんですよね。子どもが何かをやろうとしているときも抑えつけるんじゃなくて出させてあげる。

 でも子どもはその出し方、振る舞いを知りませんから、それがたとえば誰か人を傷つけてしまうようなことであれば、それは少し工夫してやらせてあげる。投げようとしたものがガラスだったら「それは投げると危ないからこっちを投げようね」と別のものを渡してあげて、投げることそのものを禁止するんじゃなくて投げ方を教えてあげる。知恵ですよね。これを投げると危ないからこっちを投げようねっていう知恵を教えてあげる。行為そのものを止めるんじゃなくてね。からだから出てくるものもそういうことで、出てくることそのものは抑えずに、それを何かスムーズに行くようにしてあげるっていうんですかね。

 それがたとえば整体では「温めてあげるとこうなるよ」とか、「こういうところを押さえるといいよ」とか、そういうふうにしてからだが経過しようとしていることをあくまで尊重しながら、何かそこにサポートできるようにして手当てするということが整体の思想なんですよね。きちんと流れてゆくようにしてあげるっていうんですかね。


●きちんと流れを保つこと

 前にもお話しましたけれど、ちゃんと「流れている」っていうことがすごく大事なんです。ここでも踵を持ってからだを揺らしたりとかしましたけれども、自分の中を波が抜けていって、流れが抜けてゆく感覚っていうのはすごく大事なんです。入ってきたものがきちんと出て行っているうちは、それは川が流れているのと一緒で自然に綺麗な水になってゆくんです。自己浄化作用っていうんでしょうか。でもそれが何らかの形でどこかで抑えつけられてしまうようなことがあって、そこで流れが止まってしまうと、水が溜まって淀んできて腐り始める。「腐る」というのは「気去る(くさる)」とも書きますけれども、流れが止んでしまったところから腐り始めるんです。気が去ってしまうんです。気というのは流れ続けることがその本性なんです。

 流れを止められたところから淀んでいくということは、からだでも心でもまったく一緒で、きちんと流れてさえいればいいんですけれども、流れが淀んでうまく流れないものが溜まってくると病んでくるんです。流れが止むから病んでくるんです。だからそこの流れをもう一度取り戻してあげる。出口をちゃんと作ってあげて流していってあげると、あとは自然と清流のように澄んでくるんです。出口さえきちっと開いていれば、入ってくるほうは自然と入ってきますから、とりあえずは出すことだけ考えればいいんです。あとは放っておけばいつのまにか淀みが澄んでくる。


 その一つのきっかけが手当て、愉気なんです。これはホントにすごいことだと思うんです。手を当てて、そこで呼吸をするようなつもり、そうすると流れが取り戻ってくるんです。外の風を入れるっていうんですかね。自分ではどうしようもなくなってしまったところに外からの手がフッと加わることで何か動きが生まれるんですよね。それはホントに自然の妙です。仕合わせなことだと思います。自分でどうしようもなくなってしまったときに、そこに何か外部のものが加わることで流れが取り戻るということは、すごくよくできています。すごいことです。隣にただいてあげるとか手を当ててあげるっていうのはそれに近くて、本来の流れを取り戻してあげる時には余計な作為はいらないんです。

 これは整体では必ず言われますけれども、愉気しているときは何も考えなくていいんです。ポカンとしてただ手を当てればいいんです。ただ手を当ててこちらも滞りのない状態でいれば、自然とその滞りのない状態が感応していって、それでお互いのからだの中の通りが良くなって、いつのまにか徐々に淀んだものが流れ去っていって、整体でいう排泄反応という経過を経て、その本人のもとの素直な流れの状態に返ってゆくというのが現象として見事に起きるんです。


 そういうふうに流れがスムーズかどうかっていうふうに物事を見ていくと、世の中の現象もまた別の形で見えてくるものがあるんです。流れがスムーズかどうかっていうのは人のからだでいえば、酸素の流れだったり、血液の流れだったり、栄養素の流れだったりありますけれども、他にもこういうふうに人間が何人も集まっているところで何が流れているかって見れば、言葉が流れていたり、お金が巡っていたり、誰かに何かをやってあげることがぐるぐる巡っていたり、都市で言えば車が流れていたり物資が流れていたり、いろんなものがぐるぐる巡っていますけれども、それがどこかで詰まるとそこで何かゴチャゴチャし始めますよね。「あの人のところでお金が止まっている」とか(笑)。「挨拶したのに返事が返ってこない」とかね。病んでいるわけですよ。そこが。あるいはどこかで道が寸断されちゃってそこに車が詰まってくると、流れが止んでゴチャゴチャしてきて、空気も悪くなれば人の心も荒んで喧嘩も起きる。そういうのが都市のような大きなものを見ても、人間のからだのような小さなものを見ても、同じような現象としてあって、そういうふうに物事を見ると見えてくるものがあるんです。

⇒つづく

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2008年11月09日

「気話会」講話録('07.11) (2/7)

●「俗」と「無知」

 最近、自分の中ですごく近いなと思うことがあって、それは「俗っぽさ」ということと「無知」ということなんです。まるで表裏一体のように感じる。「無知」っていうと誤解されるかもしれませんけど、「知ることができない」という状態を私は「無知」と呼んでいるんです。「目の前にまつ毛が見えているじゃないか」といくら口を酸っぱくして言ってみても、分かってもらえないようなことってありますよね。それがひどい症状になっている状態を私は「無知」と呼んでいるんです。知ることが、気づくことができなくなっている。正確に言うと必死に目を逸らしているんですけどね。まぁそれはともかく…。

 「俗っぽい人」というのは、自分の本当に素直な要求が分からなくなっていて、何かが足りないんで要求するんですけど、それが何なのか自分でもよく分からない。気づくことができなくなっている。それでできる限り多くの人が要求しているもの、要求しそうなものを要求するんです。みんなが欲しがりそうなものをむやみに欲しがる人を、私たちは「俗っぽい」って言いますよね。それは自分が何を欲しているのかよく分からなくなっちゃっているんです。

 自分が何を欲しているのかよく分からないときというのは、人はみんなが欲しがるものを欲しがるように振る舞うんです。みんなが欲しがるものこそ自分が欲しいものだと。でもそれがホントに自分の欲しいものとは限らない。というよりほとんどの場合そうではない。ものが欲しいんじゃない。みんなの注意が集めたいだけだったりする。だから手に入れちゃうともう要らないんです。すぐ次のものが欲しくなる。

 そういう振る舞いを見ていると、どうしても私はその人の中に何か空虚のような穴ぼこを感じてならないんです。満たされない何かがあって永遠に欲求し続けている。でもそこに触れることは深いレベルで禁止されてしまっている。そういうのって自分の中の素直な要求が見えなくなっていて、そういうふうにしてしまうのは、子どもの頃の環境、経験が大きいように思うんです。


 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という物語の中に「鳥を捕る人」というのが出てくるんです。その名の通り、鳥を捕って生活している人なんですけど、それが銀河鉄道の中に乗り込んでくるんです。それがいわゆる俗っぽい人として描かれているんですね。相手が何かすごいチケットを持っているとなると「それはすごい」「たいしたもんだ」とか言って振舞ってきわめて俗っぽい人物として描かれている。

 そうして他人をおだてたり褒めたりして人に媚びるような人が出てくるんですけど、主人公のジョバンニがその人を見ていてすっごくやるせない気持ちになって、「あなたが本当に欲しいものは何ですか」って言いたくなるシーンがあるんです。でも結局言えないんです。それを言っても何にもならないということをジョバンニはたぶん分かっているんでしょうね。

 その人は自分が捕ってきた鳥を「どうです。美味しいでしょう」ってジョバンニたちに振舞うんですけど、ジョバンニはそれを食べながらそれがただの砂糖菓子だって気づくんです。でもその人は「鳥なんだ」って言って嬉しそうに振る舞っている。それでジョバンニは「何でこの人はこんな砂糖菓子を鳥だって言い張るんだろう」と疑問に持つ。それでジョバンニはつい言っちゃうんです(注1)。そこは子どもなんですね。見抜いたことをつい言っちゃうんです。「これは鳥じゃなくてただの砂糖菓子だ」って。それで言った瞬間、その人はぎくっとするんです。核心を突かれてものすごくビックリしてしまう。で、降りちゃうんです。その瞬間。「そうだ降りなきゃいけない」とか何とか言って。そのことに気づくわけにはいかないんです。銀河鉄道の夜はファンタジーなんでそのままパッと消えちゃうんですけどね。外に鳥を捕りに行っちゃう。(注1:私の記憶違い。本当はカムパネルラ)

 そういう鳥捕りの人が自分は鳥を捕っていると言いながら砂糖菓子を捕っていることだったり、人が持っているものを欲しがったりするのをジョバンニが見ていて悲しくなるシーンが私も身をつまされるというか、私もよくそういうところで悲しくなって、やるせない気持ちになることがあるんですよね…

 …何でそんな話になったんでしょう?(笑)
 あ、自分が見えなくなるという話ですね。自分が本当に欲しいものが見えなくなってくるということ。自分が本当に何かを欲しいって表現しようとしているときに、繰り返し繰り返しそれがダメだとか抑圧されているうちに、そのまっすぐ出る道がいつしか目詰まりしてふさがっちゃって、別の形をとってしか表現できなくなったときにそういうことが起きる。本当はもっと素直に表現できるはずだったものを繰り返しそこを避けていることで、自分でもそこに道はないって自分に暗示をかけちゃう。そうすると本当に見えなくなる。道が無くなっちゃうんです。


●無意識の振る舞い

 でも親も別に抑圧しようと思って抑圧しているんじゃないんですよね。当然ですけど。それもまた振る舞いの作法の問題なのかもしれない。言葉のかけ方だったり、導き方だったり。でも言葉になっているものはまだいいんです。何て言うのかな。親も自分が抑圧されているということに気づかないうちに子どもを知らぬまに抑えつけてしまうことが一番問題で、深く入っちゃうんです。そういうのが。そういうのは振る舞いの中ににじみ出ているので、その「自分の中の素直な表現を自分は抑えつけている」っていうことに自分が気づいていないと、その振る舞いを子どもにまったく無意識にしてしまうんですね。それを子どもはまるで霧雨のように始終サーッと浴びているので、徐々に染み込んでゆくというか、伝染ってしまって、そういう振る舞いを身につけていってしまう。そういう意味で「無知」というようなものは伝染るんですよね。振る舞いが。

 そういうのって、気づかないようにすることで関係がうまくいっているんで、お互い決して気づこうとしないんです。気づいたら危うくなる。だからそれは誰も気づけないっていう…怖いですね。

 でもそういうものは誰にでも、もちろん私の中にもそういうものがあって、そのことの危険性を常に考えているということがすごく大事ですね。人をそうやって「無知」にしてしまわない為に。それは私は整体を指導する立場になって、そのときに自分の中にそういうものがあるとそれを接している人にそんなことをしてしまいかねない、と怖くなりましたよ。なかなか自分では気づけませんからね。相手は大人になっていますからそんなに深く入るっていうことはないでしょうけど。でも気がつかないうちにその人を何らかの形で抑圧してしまうことがあったら怖ろしいなと思うんです。だから自分自身の振る舞いをつねにチェックしなくちゃいけないという義務が指導者にはありますよね。自分の欲望を相手に押しつけてしまうことがありますから。

 でもね、こんなこと言ってもみなさんちょっと分かりづらいかもしれませんけどね、「無知」っていうのは一つの「愛」なんです。もっと正確に言うと「愛」の周縁で起きる出来事なんです。だからできれば「無知」は善きものを志向したい。どうしたって人間は何かに向けて馬鹿にならずにはいられない生き物なんで、できればそれが善きものであってほしい。どこに向かって馬鹿になるか、どこに向かって「無知」になるか。それはすごく大切なことなんです。そんなことを最近強く思います。まぁそのへんについてはいつかまた詳しく触れたいですね。

⇒つづく

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2008年11月06日

「気話会」講話録('07.11) (1/7)

私はしゃべりだすと止まらないことがある。

「ことがある」なんて言うと、「いつもでしょ」と眉をひそめる人もいそうだけれど、とにかく非常にしばしば止まらないことがある。

そういうときは自分が自分のしゃべりに没入しているので、しゃべり終わると何をしゃべっていたのかおぼろげになっていることが、これまた非常にしばしばある。

ついこの前など、しゃべっているうちにだんだん思いが昂まって、ふと見たら聞いている方の目も潤んでいたので思わず感極まってしまって、「スイマセン…胸が詰まって…」としばし話を中断し、自分の呼吸を整えなくてはならなくなってしまったことがあった。

まったく自分の話に感動してれば世話は無い(笑)。

とにかくしゃべっているときはそんな調子なので、自分がしゃべっていることも記録していかないとどんどん忘れていってしまうなと思い、ここ1年ほど講座を選んで録音しているのだ。

それで突然だけれど何となくふと思いついて、そんな講義録のひとつをブログに載せてみようかと思う。


「整体的子育て入門」を読んでくださった方は読めば分かると思うが、私の「愉気の会」講義録として本に載っているものの原本である。

本に掲載したものはページ数の関係などで5ページほどに割愛されているが、実際の講義録としてはその3倍ほどある。

それで、1年ほど前の講義録であるが、ここにその完全版を公開してみようと思う。

販売している本の中身をウェブで無料公開してしまってどうするのか、というご指摘もあろうかと思うが、まぁ本にはそれ以外のこともまだまだいっぱい書いてあるわけで、これをきっかけに手にとってもらえればそれで良いのである。

ウェブと本は違う。

同じコンテンツでもインターフェイスが変われば別物なのだ。

だいたい私がしゃべっていることだって、毎回言い回しや題材が変わるだけで、いつも同じことしか言っていないわけで、だから1年前の講義といっても言ってることは何も変わらない。

こんなに毎回同じ話ばかりして、ずーっと聴いて下さる方はよく飽きないなとその息の長さに感服してしまうが、考えてみれば同じ話ばかりし続ける私もおんなじである。


まぁともかく講義録をアップするということである。

ふだんブログで書いていることは、相手が不特定多数ということもあり、これでも一応それなりに自制しつつ配慮しつつ書いているけれども、講義となればそんなこともあまり関係ないので、「おいおい、そんなとこまで言っちゃうか」的なところもちらほらある。

だから皆さんがどんな風に受け止めるのかは私にも分からない。

あんまり長い文章をびっしり載せても読む気が起きないだろうから、7回に分けてちょこちょこアップしていくので、ちょこちょこ読み進めていただければと思う。

それではどうぞ。


「気話会」講話録('07.11) (1/7)

●からだの中に残るもの

 このまえ手当ての講座に参加した方がまた見えられたときに、もう一度詳しくお話を伺ったんです。そうしたら前回の講座の後にまったく忘れていた経験をパッと思い出したそうで、急に出てきたそうです。ホントに小さい頃の記憶でまったく忘れていたそうで、それを思い出してワーッと涙を流したそうです。

 そういうふうに、からだが弛んできたときにワーッと出てくる古い心のショックとか、からだのショックとか多いんです。心理学かなんかの本で「感情が筋肉に記憶される」という表現がありましたけど、自分の中で起きた何か感情的なショックとかそういうものが筋肉のある緊張としてからだに残っていて、それが同じ形をとったときにフッとその感情がよみがえったりする。あるいは似た感情を抱いたときに同じ姿勢をとってしまったり、そういうことがよくあります。条件反射みたいに、そのときの心理状態になると同じ姿勢をとったり同じ振る舞いをしてしまったりするんです。

 あるキーワードが話題に出てくると心臓がバクバクいったり顔が青ざめたり貧乏ゆすりが始まったりするというのは、何かからだに記憶があってそれが心と密接につながっているということなんですよね。そういうのがからだを調整しているときに緊張が解けてワッと出てきたりします。


 整体をやっているときというのはからだに触れながら会話をするわけですけど、触れながらしゃべっていますから何か安心感みたいなものがあって、そういう突っ込んだ話になりやすいんですよね。それでこちらはからだを触ってますから、何かしゃべりながら緊張したり弛んだりするのが分かるんです。

 昔、整体の稽古でおなかを触りながら不意に「お歳はいくつですか?」なんて訊く稽古をやったことがありました。「お歳はいくつ?」なんて答えづらいことを急に訊かれるんでおなかがパッと緊張するんです。で、何か答えなくちゃいけない。それでつい見栄はって嘘をつくとおなかは緊張したままなんですけど、ホントのことを言うとおなかが弛むんです。それを感じ取るなんて稽古をしました。

 ある先生がおっしゃっていましたけれど、昔、離婚するしないでもめてる男性がいて、離婚がどうしたこうしたと、奥さんがどうしたこうしたとずっと言っているんですけど、なかなかからだが弛まない。で、あるときふとその方が「でもやっぱり自分が悪いんですよね…」ともらしたんだそうです。そうしたらその瞬間、おなかがフッと弛んだ。がんばって自分を防衛していたものが弛んだ瞬間、自分の過ちを認めることができた瞬間、フッと弛むものがある。素直な表現ができるとすごい弛むところがあるんですよね。

 それは整体が排泄を一番大事にしているということと密接に関係があると思うんです。出るもの出たがっているものは抑えないということ。皮膚から出ようとしているものは、それはきちっと皮膚を通して出させてあげるということが経過を全うするということなんです。それを抑えると別の形で出ようとしはじめる。それがたとえば皮膚から出るものを抑えようとすると、喘息やせきになったりするというように、別の形をとって出ようとする。中で圧縮されたエネルギーはますます高まって必ず出ようとする。これは必ず出ます。一度生まれたエネルギーは必ず出ますから、どんなに抑えてもそれは出る。抑えれば抑えるほど、まるで空想もつかないような別の形をとって出ようとする。しかも圧縮されますから出方が爆発的というか劇的になってゆく。


●子どもの素直な表現を抑えない

 人の行為もそういうところがあって、私は子育ての講座もよくやっているのですが、子どものそういう素直な表現をゆがめてしまうようなことをなるべくしない、抑圧しないということはとても大事なことだと思うんです。子どもが自分の中に湧き起こったことをポッと表現しようとするときに、それを抑えてしまうとその表現は別の形をとらざるをえなくなってしまう。何しろ一度生まれたエネルギーは表出するまで収まることがありませんから、そのままじゃダメとなったらそれは別の形をとって現れるしかない。

 そういうことをずっと繰り返していると次第に素直な表現ができなくなってきてしまうんです。素直に表現すると必ず外部から抑圧されるという経験を繰り返していると、素直な表現を世界は認めてくれないんだということが潜在意識に入る。自分の中に湧き起こったことをそのまま出すと必ずダメって言われる、必ず禁止されるっていうと、巧妙にそれをすり抜けて表現しなきゃいけないということを学習する。そしてそれが無意識にそうしてしまうようになってくると、どんどん表現がひねくれてきたり媚びてきたりする。そうなると自分の本当の素直な要求が見えなくなってきてしまう。それはつくづく罪だと思うんです。

 イソップ童話でありますけれど、高いところにあって自分が取れないブドウを「あんなブドウ、酸っぱいに決まってる」とか言って、自分が本当はいいなと思っているものを何か変な形で批判したりするような、そんなひねくれた表現しかできなくなってしまう。

 それでそういう表現を身につけて、そういう振る舞いをしているうちに、そのうちそれが自分の感受性なんだと思い込み始めてしまうんですけど、でもホントは違うんですよね。たんなる身につけた振る舞いの作法の問題なんです。でもそういう振る舞いというのは強力に人を縛りつけますから、それが自分の本心だと思い込んでしまう。そうして自分の素直な感情が分からなくなってしまっているということは多い。分かっていてやっているのはまだ救いがあるんですけど、そのことに本人が気づいていないというのが一番見ていて何とも言えませんね。そのことは本当に根が深い問題です。どうすればそれを気づいてもらえるのかというのが最近の私の大きなテーマなんです。そうなってしまった人にも、そうさせてしまうような人にも。

⇒つづく

posted by RYO at 22:14| Comment(6) | TrackBack(0) | 講義録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする