2022年10月01日

Facebookアーカイブ一覧

Facebookに挙げた記事のアーカイブ一覧です。
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(新しい記事が上に来ます)


2022年7月 「デフレ時は公務員のボーナスを上げよう」
2022年6月 「【動画】お金についての寺子屋講座」
2022年6月 「貨幣と贈与と愛の運動つづき」
2022年6月 「貨幣と贈与と愛の運動」
2022年6月 「【動画】明石市長の子育て政策」
2022年5月 「腰から動き出す」
2022年5月 「【動画】タッチの日『オノマトペのことばでタッチ』」
2022年4月 「からだころころ」
2022年3月 「活元あるいはウンコのススメ」
2022年2月 「消化器人間とか呼吸器人間とか」
2022年1月 「【動画】山上亮さんの寺子屋」
2021年11月 「空っぽ(虚)になって語る」
2021年11月 「お金は虚であって実ではない」
2021年10月 「いろいろな穴追い」
2021年9月 「ただ居るだけ」
2021年8月 「Web「北欧、暮らしの道具店」に掲載」
2021年8月 「【動画】『holos.TALK 003』」
2021年7月 「動詞で世界を見る」
2021年7月 「排除ベンチに考える」
2021年6月 「【動画】ホニャララLIVE 060」
2021年6月 「新型コロナの空気感染について」
2021年5月 「大阪市教育行政への提言」
2021年5月 「【動画】タッチの日オンラインイベント2021」
2021年4月 「映画『はじまりへの旅』」
2021年3月 「風邪が新型コロナを撃退」
2021年2月 「ネグレクトと腸内細菌」
2021年2月 「コロナに想う」
2020年12月 「感染症を防ぐ手指バリア」
2020年9月 「秋の食べ過ぎと冷え」
2020年9月 「新型コロナの重症化予防にビタミンD!」
2020年8月 「師匠を持つ」
2020年7月 「お金も血液も巡りが大事」
2020年6月 「ウィズコロナの健康生活」
2020年5月 「【動画】タッチの日オンラインイベント」
2020年5月 「7covs-7 連塾 方法日本」
2020年5月 「7covs-6 ゴールディーのお人形」
2020年4月 「7covs-5 宝石と四季のお祭り」
2020年4月 「7covs-4 まど・みちお全詩集」
2020年4月 「7covs-3 野の医者は笑う」
2020年4月 「7covs-2 子どもの体と心の成長」
2020年4月 「7covs-1 子育ての記」
2020年4月 「新型コロナは血管に感染」
2020年4月 「新型コロナと社会」
2020年3月 「唾液と新型コロナウイルス」
2020年3月 「私感〜新型コロナウイルスについて」
2020年1月 「冬の食べ過ぎ」
2019年10月 「女子の体育・暮らしの体育」
2019年9月 「いろんなからだ」
2019年7月 「嗜みとしての技術」
2019年6月 「夢見のダンス」
2019年6月 「入試問題」
2019年4月 「カナリヤの歌」
2019年2月 「人を育てる道具文化…つづき」
2019年2月 「人を育てる道具文化」
2018年12月 「私はチームプレー」
2018年10月 「共感と反感」
2018年9月 「何かを語る語り口」
2018年6月 「梅雨の発散」
2018年4月 「人間の意志と背骨」
2018年3月 「翼の埋もれた天使」
2018年1月 「健康の3つの要因」
2017年12月 「冬の乾きとお腹の手当て」
2017年11月 「感覚を使って”あたたかさ”を取り戻す」
2017年10月 「こんな夢を見た」
2017年9月 「冷えるということ」
2017年7月 「忘れることの滋味」
2017年6月 「自分のエネルギーは自分で発散させる」
2017年5月 「子どもに愉気を教わる」
2017年4月 「手当ての指の使い方」
2017年3月 「春の変動」
2017年3月 「こころに翼 からだに根っこ」
2017年2月 「やわらかな言葉」
2017年1月 「関係性と病い」
2016年12月 「活元運動」
2016年11月 「意図なき集注」
2016年10月 「からだの記憶」
2016年9月 「自分の恐怖を感じる」
2016年8月 「愉気とはともに同じ夢を見ること」
2016年7月 「七夕」




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2022年09月30日

デフレ時は公務員のボーナスを上げよう[FB]

2022年7月
「デフレ時は公務員のボーナスを上げよう」

国家公務員の夏のボーナスが、過去最大の減額だそうですね。

そんなニュースを聞いて「こんな不況なんだからまあしょうがないよな…」と思いますか?

結論から言うと、これ完全に間違っている政策です。ダメです。

逆に「この不況に何やってんだ!」と怒らなくてはいけません。

ことデフレの時は、公務員の給料を増やさなくてはいけないんです。

不況とは、世の中にモノやサービスがうまく巡っていない状態です。

モノやサービスが足りなくなって巡らなくなると物価はどんどん上昇し「インフレ」になりますが、モノやサービスを買う人が少なくなって巡らなくなると物価はどんどん下落し「デフレ」になります。

どっちもあまり良い状態ではありません。

いま日本ではそれが同時に起きていて大変な状況です。

「購買力が無いのに物価だけが上がる」という「スタグフレーション」になっているので、ある意味最悪な状況と言えるでしょう。

政府としてやるべき事はいろいろありますが、物価を下げることはすぐさまできるのだから今すぐやるべきでしょう。何しろ物価の10%分は政府が上乗せしている分なんですから。

モノやサービスの確保はすぐさまできることではありませんが、これもゆくゆくはできる限り自前で用意できるように、中長期的な視点で育てていかなくてはいけないでしょう。

それでもって「公務員の給料」の話ですが、お金が足りなくてモノやサービスが巡っていないのだったら、社会の中を「流れるお金」を増やさなくてはいけません。

その流入口の一つが、公務員なんです。

政府が、公務員を雇って、お金を渡して、働いてもらう。

そのお金は、生活費として使われ、私たちの社会に流れ込むのです。

ですからそこを絞ったら、ますますお金の流量が減ってしまうのです。

現時点でいろんな流入口が考えられます。

「作物を育てて〜」と言って、畑を耕してもらっても良いでしょう。
「子どもを産んで育てて〜」と言って、子育てしてもらっても良いでしょう。
「新エネルギーを研究して〜」と言って、研究してもらっても良いでしょう。

それは何も公務員というものだけでなく、いろんなお金の流入口を世の中のあちこちに設置していくということです。

必要ならばいくらあっても良いと思います。

あらかじめ増えすぎたとき用の排出口をきちんと用意しておけば良いんです。

つまりある水位にまでお金が増えすぎたら、そこからジャバーッと排出される排出口です。あるいはこっちに流れたら困りますっていうところにも用意する。

お金の流れがあるところは必ず人もモノも寄ってきて、そこを上流とした営みが巡り始めることでしょう。流れが滞らずに巡っていれば、それは健全な社会になってゆくのです。

もちろんお金の流入口には、変なのも寄ってくるでしょうが、必要なのは「滞り」を感じるセンスです。

「滞り」を感じたら、掃除をして、風通しを良くして、流れを良くして、それでもってその閊えた部分に日の光でも当ててあげれば、また気持ち良く流れていくことでしょう。
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【動画】お金についての寺子屋講座

2022年6月
「お金についての寺子屋講座」

ここ最近、お金についての話題を継続的にポンポンとアップしていたら、私のオンライン寺子屋講座などを主催して下さっているTeachersさんが、先日行なった「お金についての講座」のアーカイブ録画の一部を、「もし良かったらご興味のある方に観ていただきましょう」とご提供下さいました。

本来、有料講座であるので全部の公開とはいきませんが、でもかなりの部分を公開してくれました。これこそまさに贈与ですね。ありがとうございます。

動画は70分ほどあるので、観ようと思ったらそれなりに時間を作る必要がありますが、もし今回の記事で「お金って何だろう?」というご興味が湧いたのであれば、ぜひご笑覧いただければ嬉しく思います。

ただ、お金についてものすごく単純化してお話ししてますので、ハッキリ言って説明不足ですし、私自身、貨幣の専門家ではないので、まだまだ理解できていない部分や、誤解している部分もいろいろあるかと思います。

ですので、今回の動画を観て「お金のことが分かった!」という風には決して思わずに、どうぞぜひここから興味を持ってご自身で学んでいっていただけたらと思います。この動画がそのきっかけとなってくれるなら、それこそが私にとってもっとも嬉しいことです。

みんな大好きで、みんな大嫌いな「お金」というもの。

そんな私たちの人生を大きく振り回したりもする「お金」という存在について、ぜひみなさんも一緒に考えていきませんか?



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貨幣と贈与と愛の運動つづき[FB]

2022年6月
「貨幣と贈与と愛の運動つづき」

先日の記事ですが、読み返してみると泉市長の「お金がない時こそお金を使う」という発言について書き始めたのに、その説明が不十分なままに何だか暴走気味に書き散らしていましたね…(笑)。

あの私の分かりづらい話の展開で「でも言いたいことは何となく分かったよ」と言って下さる勘の良い方はありがたい限りですが、でもいちおう最初のお題についてもう少しだけ補足説明をしておきます。

整体の創始者の野口晴哉は、自宅の井戸の水が涸れかけたとき、家族で集まって「しばらく水を節約しよう」と家族会議をしていたら、「そんなことをしていたらますます水が涸れる。どんどん使うんだ!」と怒ったと言います。

家族は「いったい何を言っているんだろう」と思いつつも、でも先生が怒るからと節水することなくいつも通り使っていたら、水が戻ってきたそうです。

まあ、それはちょっと極端な話のような気もしますが、でも「流れ」という現象においては、確かにそのようなところはあるのです。

流れというのは、流れているところに集まり、流れのないところは詰まったり涸れていったりするものです。ですから「流れが来ないから」と言って渋っていたら、ますます流れが涸れていくのです。

野口晴哉という人は、徹頭徹尾、気しか見ないし、流れしか見ないような人だったそうですから、井戸が涸れても、人が病気になっても、そこに同じことを見たのでしょう。

そして前にも書きましたけれども、お金はモノじゃないんです。

お金とは、負債と資産という異なる方向に同時に伸びる貸借関係の一表現であり、そこを起点にグルグルと巡っていきながらさまざまな関係を取り持っていく、一つの「流れ」なのです。

「お金がないから」といって、お金の流れを小さくしていくようなことをしていたら、その共同体はどうなっていくでしょう。

「元気になったら動きます」という人に「動くから元気になるんです。動きなさい!」と叱り、「足が治ったら歩きます」という人に「歩くから治って丈夫になるんです。どんどん歩きなさい!」と叱った野口晴哉の哲学は、一見乱暴にも見えますが一貫しています。

人の住まない家がたちまちボロボロになっていったり、橋を保存するために通行禁止にしたらあっという間に劣化していったり、純粋な「物」ですらそんな現象が起こったりもするのですから、町や国といった有機的な共同体においてはなおのことでしょう。

町の元気が失われていく様子を見たときに、「子どもにお金をかける!」という決断を下せた泉市長は、きっと「野性的な知恵の持ち主」なんだと思います。

それは現代においては非常に貴重となってしまった「叡智」で、現代の記憶中心の学校教育の中では失われていく知恵の在り方でもあるかも知れません。

止まっているモノから学べることは、止まっているモノにしか適用できないのです。

人もお金も、決して止まったりはしていません。
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貨幣と贈与と愛の運動[FB]

2022年6月
「貨幣と贈与と愛の運動」

先日シェアした明石市の泉市長の発言に「お金がない時こそ(こどもに)お金を使う」というのがありました。

これは分かるようで分からない、なかなか理解しづらいロジックかも知れませんが、でも本当にその通りなことで、整体でもまったく同じように考えられているのです。

まあ、整体は「お金について」ではなく「気について」のお話ですけどね。でも私は同じものだと思っているので、やっぱり同じ話でしょう。

それを理解するためには「貨幣とは何か?」というところから理解をしなくてはなりません。

日本の現金紙幣には「日本銀行券」と書かれています。

その意味するところは「日本銀行の発行する債券」ということなので、日本銀行の貸借対照表(バランスシート)を見ると、現金は右側の「借り方(負債)」の項目に記入されています。

つまり「現金というのは日本銀行にとっては負債」なんです。

ちょっとややこしいんですけど、分かりますかね?

「現金が負債」って、たぶん空想が追いつかないですよね。

でも例えば「デパートの商品券はデパートにとっては資産ではない」と言えば、分かりやすいですかね? 自分が作ったその紙を持ってこられたら自分の資産を差し出さなければならないんだから負債ですよね。

お金というのは、誰にとっても「資産」であるかのように思ってしまいがちですが、実はそうでなくって誰かにとっては「負債」なんです。

ある人の背負った負債が、それ以外の人にとっての資産になるのです。そうやってお金は生まれています。

こと現金紙幣に関して言えば、日本銀行が負債を背負ってくれているお陰で、その分の現金紙幣が社会に流通することになり、私たちの資産の一部となって、そして経済活動を支えてくれているのです。

同じことが「銀行預金」にも言えます。

銀行預金はその銀行にとっての負債で、銀行が負債を背負うことで、それと同じだけの資産を作り出して、預金口座を持つ者に資産を渡しているのです。

つまり全体として見てみると、どこかで負債として沈んだ分だけ、他で資産として浮かび上がっている。

その水面より上に浮かんだ部分(資産)だけを私たちは評価してしまいがちですが、それは必ず水面より下に沈んだ分(負債)だけ浮かび上がっているのであって、その沈んだ部分もまた同じだけ評価されなければならないと思うのです。

分かりづらいと思うかも知れませんが、そう思うのです。

それは何かと言うと「愛と贈与の運動」にまつわることなのです。

急に話が飛んだような印象があるかも知れませんが、私の中では思いっきりつながっているのです。

どうして人は無力な状態で生まれてくるのか。
どうして人の子どもはずいぶん長い時間、世話がかかるのか。

それは分かりません。分かりませんが、貧しき者や無力な者がいて、それを起点として人間社会の中にある運動が生まれていることは確かなことであるでしょう。

子どもというのは、ひたすらに愛を施される存在であり、贈与を受ける存在であり、投資される存在であって、それで良いのです。

そうやって子どもたちは、私たち大人から無尽蔵な「贈与の運動」を汲み出しているのです。無限の債務者です。愛の発行者です。ブッダもキリストもそのことを言っています。

そんな営みに、経済合理性だの、等価交換だの、稼げる大学だの、そんな概念を持ち込んでくる人間は、かつては自分も子どもであって、ひたすらに周りから贈与を受け取って育ってきた、ということを忘れてしまっているのだと思います。

あるいは「自分は愛されて育った」と、そう思うことができないのかも知れません。悲しいことですが…。

そんなことはないはずなんですけどね。でも怒りや悲しみや寂しさばかりが募っていると、そんな風にも考えてしまうでしょう。もう一回言いますが「そんなことはないんですよ」。

だって生まれたときに無力であったあなたが今生きている。

それこそがすでに誰かに愛された証拠でしょう。

お腹の空いたあなたにお乳を与え、寒さに震えるあなたに毛布を与え、表現を知らないあなたに言葉を与え、寂しさに泣くあなたに抱擁と接吻を与えた人がいるのです。

そのときあなたに何が返せましたか?

何も返すことなんてできませんよ。いやたとえ返せたとしてもその人は受け取らなかったでしょう。

いったい今までどれだけ多くの愛が自分に向かっていたのか。

この世に生を受けて以来、自分に向かったすべての愛のベクトルとその始点に思いを馳せ、その圧倒的な事実に気づいて途方に暮れたとき、人は初めて大人になるのです。

大人とは贈与する人です。

子どもが、私たちを大人にしてくれるのです。

今度は私たちの番なんです。

「等価交換の原理」では運動はいつか停止してしまいますが、「贈与の原理」では運動はとめどなく増殖していきます。尽きせぬ活力を生み出します。

いま日本を覆っている空気は、私たちから愛もお金も活力も失わせ、不幸な子どもたちばかりを再生産する「悲しい子どもたちの国家」となりかけています。

私は日本の政治家たちを見ていても「悲しい子ども」にしか見えないんですよ。

この国の大人たちはどこに行っちゃったんだろう…と思います。

もちろん、ごくわずかに残っている大人たちもいます。

これ以上悲しい子どもたちを増やさないためにも、私はその人たちを応援したいと思います。
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【動画】明石市長の子育て政策

兵庫県明石市の泉房穂市長の子育て政策が、非常に注目されています。

泉市長は「こどもを応援すればみんな幸せ」というコピーで、子育て政策にとても力を入れていて、さまざまな子育て支援の無償化を実行しました。

その成果はと言うと「9年連続人口増」「出生率1.7に増」「地価7年連続上昇」「8年連続税収アップ」ということで、自前の財源を用意することの難しい地方自治体であるにも関わらず、非常に良い形での好循環を作り出しているのです。

「明石市で実現できたことは全国どこの自治体でも実現可能だし、ましてや通貨発行権を持つ国ならすぐにでも実現可能」と、泉市長は述べていますが、まったくその通りだと思います。

そんな泉市長が、先日の参議院内閣委員会で「こども家庭庁設置に伴う参考人」として、子育て政策に関して「忌憚のない意見」を述べている動画が、テロップと配付資料の画像入りでアップされていましたので、シェアいたします。

泉市長の「忌憚のない意見」、素晴らしいです。




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腰から動き出す[FB]

2022年5月 愉気の会
「腰から動き出す」

今月の愉気の会は、腰と骨盤についてのお話とワークを行ないました。

日本語には「弱腰」とか「本腰」とか「腰掛け」とか「腰を据える」とか、腰にまつわるからだ言葉が多いですが、基本的に腰を使った言い回しというのは、その人の「物事に対する意欲や向き合い方」のようなものを現わします。

それはおそらく昔の人たちが、経験や感覚的にそのような「心の在り方」と「腰」という身体部位との関連を感じ取っていたからだと思います。

実際に骨盤や背骨を触っていると分かりますが、人が何かをしようとするとき、腰に力が集まります。私たちが行動するとき、まず背骨に力が入り、それがさらに腰に集まって、それが手足の動きとなるのです。

ですから弱腰であったりへっぴり腰であったりして、腰に力が入らない人は、いくら考えてもなかなか行動に移れないのです。腰が抜けてしまったら立つことすらできません。

ですから背骨や骨盤に弾力があるということは、単純に身体能力とか運動能力とかいうこと以上に、私たちの意志や行動と密接に関連してくるのです。

講座では、頭でっかちになって動いてしまいがちな現代人の「頭で動く所作」と、しっかり腹を決めて「腰から動く所作」の違いを感じ分けてみるワークを行なってみました。

頭で動いている人は、頭から突っ込むような姿勢で動いてしまいがちで、そうなると腰が後からついてくるような形で足下がおぼつかなく、慌てて転んだり失敗したりしやすくなります。

いざ動くときに、頭からではなく、腰から動く。

急いでいるときほど、いったん深呼吸をし、腹を決め、腰から動く。

それだけでずいぶん所作も心持ちも変わってくるものです。

「腰から動く」ということ。

そしてもう一つは「腰が動き出す」ということ。

「腰から動く」をもう一つ深く突っ込んだところに「腰が動き出す」があって、それもまた目指したい構えの一つです。

目指すのは、子どもが何かをやりたがっているときに、思わずモジモジ動き出してしまう、あの腰です。ジッとしていられず思わずフリフリ踊り出してしまう、あの骨盤です。

みなさん、最近「やりたいやりたい!」と思わず腰がフリフリと動き出してしまうような、心ときめくことがありましたか?

大人になると、そんな素直なときめきをどこかに忘れてきてしまったように冷めた振る舞いばかりしてしまいがちですが、実はそんなことはないんですよ。

からだはいつだって素直に「やりたい!」を現わしますから、頭が気づいていないだけで、からだ静かに傾聴してみれば、腰も今まさに動き出さんとウズウズしているはずです。

股関節の動きを良くして、腰の弾力を保ち、強張らしたりしなければ、きっともっと分かりやすく腰が動き出すはずです。

あとはその腰に乗って一歩踏み出せば良いのです。
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【動画】タッチの日「オノマトペの”ことば”でタッチ」

5月5日は「タッチの日」。
ということで今年もタッチの日がやってきまして、日本タッチ協会のメンバーで、タッチの日のオンラインイベントを行うことになりました!

私は、今年は「オノマトペの”ことば”でタッチ!」と題しまして、”ことば”という切り口から、タッチについてみなさんと一緒に感じて考えるワークショップを行いたいと思っています。

「タッチを広めよう」というのに”ことば”? ”ことば”でタッチ?
そんな印象を受ける方もいるかも知れません。

「現代は、言葉のやりとりばかりになっちゃって、お互いふれあうことが少なくなったから、それでいろんな問題が起きている、そういうことがタッチ協会の言いたいことなんじゃないの?」

そんな風に感じる方もいらっしゃるかも知れない。

確かにその通りなんです。確かにその通りなんですけど、でもやっぱり”ことば”も大事だと思うんです。

何故って、やっぱりそれでも私たちは世界を”ことば”で語るからです。”ことば”でアーカイブするからです。

これまで毎年「とにかく親子でふれる!」ということをやってきたので、今年はちょっと毛色を変えて、今までと違うことをやろうと思っているのです。

あなたの感じていることを、あなたの”ことば”にしてみましょう!

…ということで、以下のリンクから当日のワークショップのアーカイブ動画が視聴可能です。

アーカイブ動画「オノマトペの”ことば”でタッチ」
https://fb.watch/fSgt6CKV6B/



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2022年04月24日

からだころころ[FB]

2022年4月 愉気の会
「からだころころ」

今月の愉気の会は、ひたすらころころと転がる愉気の会でした(笑)。

今月のテーマは「からだとの対話」ということで、自分のからだがどんなことを要求しているのか、からだに聞いてみるワークとして「七転び八起き」というワークを行ったのです。

たとえば正座をしようとしたときに、姿勢がゆがんでしまうとか、どこか強ばってしまうとか、痛みが出てくるとか、あるいはついモゾモゾしてしまうとか…、どうも正座という「座りのワーク」に集中できないということがあります。

その原因を「からだのゆがみ」とか「からだの強ばり」という風に捉えることもできるわけですが、からだそのものをもう少し生命的な現象として見てみた場合に、違った捉え方もできると思うのです。

つまりそれは「正座のワークからの逃避」であり、「そうでないワークへの要求」であり、要は「正座じゃなくって、他の動きがしたい」というからだの要求という風に捉えることもできるのです。

私たちのアタマというのはけっこう強権的で、からだに無理矢理言うことを聞かせようとしがちで、そしてからだはけっこう良い奴なので、「しょうがないな。いいよ」と言って、ツラくても素直に従ってくれたりするんですよね。

だから私たちはやろうと思えばいつでも正座ができるわけですが、それはからだがそうしたいかどうか、ということとは別の話なのです。

それで、本当はどうしたいのか、どんな動きがしたいのか、どんな姿勢が取りたいのか、からだ自身に聞いてみようというのが、この「七転び八起き」のワークなのです。

ワークとしてはころころと床に転がるワークなので、最初にその練習としてみなさんに好きなようにころころと転がってもらったのですが、その時点でけっこうみなさん盛り上がって、床を転がりながらいろんなことを感じたり、気づかされたりして、それぞれがころころ時間をとても楽しんでいたのです。

この「ただ転がる」ということも、じつはけっこう大事なワークではあるので、これはぜひみなさんにもお勧めしたいことです。

誰でも大人になると、逆立ちもでんぐり返しも、ほとんどやらなくなってしまうものです。

いろいろひっくり返って楽しんでいた子ども時代から、安定を求めて最適解を学習してゆくうちに、世界も思考もだいたいの落とし所に安定してきて、そうなるとやがて、ひっくり返る事への不安や恐怖心の方が勝るようになってきます。

だから「転がるワーク」をやろうとすると、けっこう多くの人が「怖い」という言葉を口にするのです。たしかに転がることもひっくり返ることも、怖いのです。

でも実生活において、その怖さにからだを強ばらせたまま転んでしまうことの方がもっと怖いのです。

ご年配の方がガタッと調子を崩すことの大きな理由の一つに、「転んでケガをする」ということがあります。転んで動けなくなっている内に、一気に体調を崩し、老け込み、風船がみるみるしぼんでしまうかのように生命力が衰えてしまうのです。

そんなことが起こらないように、元気なうちに転がっておきましょう、ひっくり返っておきましょう、ということなのです。転がることやひっくり返ることは確かに怖いかも知れません。でも、思っているほどは怖くないのです。

だって、子どもの頃にはさんざんひっくり返ったでしょう? どんなにひっくり返っても、からだは何ともなかったし、世界はきちんと元に戻っていたのではないですか?

大丈夫。ひっくり返ってもからだはけっこう何とか対処してくれるし、世界もふつうにそこにあるのです。

この「ころがる/ひっくり返る」というワークは、じつは自分のからだや世界に対する信頼感によって支えられているワークなのです。

「思い切ってからだに任せてみる」ということ。

ぜひ、みなさんにもやってみて欲しいと思います。予想もしない方に転がることもあるので、ちゃんと周りは片付けてね。
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活元あるいはウンコのススメ[FB]

2022年3月 愉気の会
「活元あるいはウンコのススメ」

今月の愉気の会は、活元(かつげん)運動についてお話ししました。

野口整体の基本のメソッドである活元運動は、「錐体外路系運動の訓練法」と呼ばれます。

それは何かというと、私たちが無意識のうちに動いている動き、つまり内臓の運動や反射的な動きなどの無為運動を活発にするための訓練であるということです。

私たちの重要な生命活動のほとんどが、意識していない運動であることを考えると、その部分を訓練することが非常に大切であるということは容易に想像できますが、意識していない部分だからこそ、その訓練というのがまた難しくなってきます。

心臓の拍動を早くしてみたり、肝臓の解毒能力を上げてみたり、腸の蠕動運動を速くしてみたり、皮膚の排泄能力を高めてみたりといった、そんなことはなかなか意識してできませんからね。

あるいは私たちが意識して動かす部分である腕や脚といった随意筋の部位でさえも、意外と動かし切れていないのが現実なのです。

どういうことかというと、動こうとしているからだの部位に、私たちの意識がブレーキをかけてしまう、といったことが非常に多く起きているのが現代人の生活だということです。

私たちの現代生活が、いかに多くのからだの本能的な運動を抑制することで成り立っているか、考えてみれば分かります。

人前だろうが急に大声を上げて踊り出し、素敵な人を見かけるや否や抱きしめて顔を舐め、イヤな奴はぶん殴り、お店の美味しそうな食材をその場で食べ始めて、気が済んだらその辺でゴロリと横になって、ところ構わず排泄する…。

上記の行動はすべて本能に忠実なだけですが、みんながそんな身振りをし始めたら社会は破綻しますね。

そんなことにならないのは、私たちが自身の行動に抑制をかけ、コントロールしているからです。

それは私たちの社会が成立するために必要な身振りなわけですが、でも間違えてはいけないのは、「上記の行動はすべて間違っているから止めなくちゃいけない」訳ではないということです。

つまり、上記のどの行動もそれ自体が間違っているわけではなく、行動する「時と場所あるいは方法」いわばTPOが間違っているのであって、それらが満たされた上ならばやって良い、あるいはやった方が良い、ということなのです。

人間は大声を上げて踊って良いし、好きな人を抱きしめてキスして良いし、イヤな奴を法に触れない方法(?)で殴って良いし、美味しい食べ物を何でも食べて良いし、ゴロリと横になって良いし、好きに排泄して良いのです。

それら内から湧いてくる要求を、現実社会においていかに表出してゆくのか、それが私たちが考えなくてはいけない課題なのです。

そのある種の自己検閲があまりに強固に自動化しすぎて、自分が何をやりたいのかも分からなくなってしまっているような、そんな状態になってしまっている人も少なくないのが現代です。

出すべきものが出せなくなって、あちこち強張っている。

だから、そんな人に活元運動。ということなのです。

「抑えなくちゃいけない」「我慢しなくちゃいけない」「こんなことはイケないことだ」、そんなことを考えて悩んで縮こまっているならば、私は「違うよ」と言います。

出して良いんです。出せば良いんです。

考えなくてはいけないのは、その「出し方」です。

誰だって「社会的にそれはいかがなものか?」というような要求を持つことくらいあるでしょう。人間だもの。

私だっていくらでもありますよ。ヤベーこと考えちゃったりしますよ。誰だってからだの中にウンコはあるんです。

「私の中にこんなイケないウンコがあるなんて…」なんて悩まなくて良いですよ。みんな言わないだけで持ってますから心配しないで。

ということで、今回は森山直太朗さんのとっても素敵な「うんこ」の歌のリンクを貼って終わります。私は地味にツボりました(笑)。

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消化器人間とか呼吸器人間とか[FB]

2022年2月 愉気の会
「消化器人間とか呼吸器人間とか」

今月の愉気の会は、体癖と内臓の感受性についてのお話をしました。

体癖論というのは野口整体の人間分類法で、体勢や焦点や感受性の違いなどからその人間の傾向を観察するメソッドなのですが、私はそれを内臓プロセスという観点から考えてみるということをお話ししました。

たとえば、左右型と呼ばれる体癖は消化器に特徴があって、食べることが大好きだったり、好き嫌いの感情が強かったり、みんなと仲良くワイワイやるのが大好きだったり、片付けが苦手だったり…といった大まかな傾向があるのですが、それを消化器という内臓プロセスの拡大として見てみると、いろいろ腑に落ちる部分があるということです。

たとえば、好き嫌いという感情は消化器にとって毒や腐った物をいち早く排除する防衛本能だし、みんなと仲良くワイワイやるのはみんなを自身の中に取り込んで一体感に浸る食後の至福の瞬間だし、片付けが苦手でバッグや押し入れの中がグチャグチャなのはそれこそまさに胃袋そのものだし…と、まあ言ってしまえば左右型というのはつまり「消化器人間」なのではないかと、そんなことを思うわけです。

それはもちろん他の体癖にも言えて、さながら脳神経が歩いていたり、呼吸器が歩いていたり、泌尿器が歩いていたり、骨盤生殖器が歩いていたりするというわけなのです。

そのように捉えてみると私の中では非常に腑に落ちる部分があるのですが、もちろんきわめて感覚的で大ざっぱな見方ですから、これはもう少し語り口を磨き、深め、そして整えてゆくことが必要だなとは思っています。

この見方は、私の中にある「動詞で世界を観る」方法の体癖バージョンのワークでありまして、体癖を動詞で見ていったら何だかどんどん内臓に見えてきたということなのです。

ただこのまま突き進んでいくと、私が何を言っているのか誰にも理解してもらえないファンタジーの領域にまで突っ込んでいってしまうので、その手前の境界線はつねに忘れないようにしたいと思います。

…ということで、だんだん人間を観たときに「ヒトとしての姿の輪郭」がおぼつかなくなってきているような気がする今日この頃です。

世界はさまざまなレイヤーの重なったミルフィーユのようで、その彩り豊かな一層一層の深度に合わせて見つめてみると、世界というのはなんて豊かなんだろうと感嘆させられるばかりです。

世界は、見方によって七色に輝き、どの色もまた本当に美しいです。
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【動画】山上亮さんの寺子屋

「【動画】山上亮さんの寺子屋」

先日、マインドフルネス・ビレッジで行なわれた「山上亮さんの寺子屋」講座が、無料公開されました。

「マインドフルネスと整体の共通点について」ということをテーマに90分ほどお話しさせていただきましたが、いつものように話はあちらこちらに拡がって、「共感と反感」とか「現代の冷えという課題」とか「ミラーニューロンと幽体離脱」とか「どこまで私なのか」とか「先駆的な追体験」とか…何だかいろんな話をしてしまいました。

参加された皆さんにどこまでご満足いただけたのか分かりませんが、「スバラシイ内容でした」というご感想もいただけたので、まあ良かったのかも知れません。

でもプログラムの名前が「山上亮の寺子屋」ですからね。山上亮がいろいろ考えていることを語り尽くすという感じでも良いだろう…と自分自身に言い訳して、「良かった」ということにしておきます。

ということでともかく「山上亮の寺子屋」第1回は、誰でも無料で視聴できますので、ご興味ある方はお時間ある時にぜひご覧になっていただければと思います。

またぜひ「マインドフルネス・ビレッジ」の方も、ご興味持っていただければ嬉しいです。


山上亮さんの寺子屋 from Teachers on Vimeo.

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空っぽ(虚)になって語る[FB]

「空っぽ(虚)になって語る」

先日、愉気の会の記事をアップしたら、その講座に参加された方から「これは私のための講座なの?と思った」という嬉しいメッセージをいただきました。

そんなお言葉をいただけると、本当に「講座をやっていて良かったな」と思えて、講師冥利に尽きるというものです。

実はそのように思ってもらえることこそ「虚」の働きでもあるのです。だからこそ私としてはなお嬉しくて、「きちんと空っぽで語れたな」と思えるのです。

何故なら、語っている主題が「空っぽ」で「虚ろ」なカタチを取っているからこそ、聞く人はそこに自分のテーマを見るのです。

まあ、鏡を考えれば分かりやすいですね。

鏡は空っぽです。周りを映しているだけで、鏡そのモノは主題に登りません。むしろ主題に登るような鏡は問題です。

それはつまり「この鏡、何か歪んでるな」とか「汚れてるな」とか、そういうことですからね。

鏡は虚ろで空っぽであるからこそ、見る人はそこに自分を見ます。自分自身の姿を振り返り、自分自身のテーマに気づき、自分自身でどうすれば良いのか考え始めるのです。

これも私は講座でよく言うことなのですが、参加者の方に「私の話なんて聞いてなくても良いんです」とお話しします。

私の話を聞いているうちに、何となく「そういえば、アレってこういうことだったんじゃないか…」とか、不意に何か別のことを思い出して、そのことについての考えが急に進み出すような、そんなことが起きて欲しいと思っているのです。

ですから講座のカタチとしては、私が何かよく分からないことを一生懸命説明していて、受講生はみんな思い思いに何か別のことについて考えながら一人納得している、という状態が理想なのです。

何だかシュールな光景でよく分からない状態ですけど、でもきっと感覚的にはみなさんよく分かるんじゃないかと思います。

受講生側からすると、それって一番盛り上がっている時なんですよね(笑)。

むしろ、講師に邪魔をしないで欲しい瞬間というか…(笑)。

そんな時にうっかり話を振ってしまうと、フッとイヤな顔をされてしまって「あ、スミマセン…」と思うのです。

そんな営みの中に「人が育つ」ということの本質がある、と私はそう確信しているのです。
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お金は虚であって実ではない[FB]

2021年11月 愉気の会
「お金は虚であって実ではない」

今月の愉気の会は、先月に引き続き「穴追い」の実習と「虚の活用法」という野口晴哉の言葉についてお話をしました。

この「虚(きょ)」という概念は、人間のさまざまな営みを語る上で非常に重要な概念となるのですが、いかんせんその性質上、語り口がもどかしいものにならざるを得ないので、話そうとするたびに、私はもだえながら落ち着かない思いをすることになるのです。

今回も私は講座中、皆さんにお話ししながら、ずっとモジモジしてました(笑)。

何故なら、「虚」について話そうとすると、言い淀み、言い直し、言い閊え、言い繰り返すしかないのです。

でもそうやってひたすら語りながら最後まで語り得ないところに、「虚」の姿がボンヤリと抜き型のように浮かび上がってくるのです。穴ぼこなんです。

「虚」は訓読みで「虚(うつ)ろ」とも読みますが、その何とも捉えどころのないモノを扱うために、私たちは「器(うつわ)」を用います。

器の本質は、中が虚ろであることです。器に中身が詰まっていては器の働きを為しません。空っぽであるということが器の本質なのです。

中が虚ろであるからこそ、そこにさまざまなモノを容れることができるようになり、持ち運ぶことができるようになるのです。

虚ろであるということは、あらゆるモノを受け容れます。さまざまなモノを受け容れ、受け渡します。そこで起きていることが「虚」の働きで、その本質です。

ですから「虚」は人を動かします。

そして人を繋ぎ、もっと言うなら人を育てます。

その営みを支えるのが「器」です。

そういう意味では、古来より「器」を作り用いることこそが、人の為すべきことだったのかも知れません。

ということで私が講座中、皆さんの前でずっとモジモジしながら何だか要領を得ないことを言い繰り返しているその身振りは、できる限り自ら「器」であろうとするその懸命な努力の姿なのだと、そうご理解賜わりますと大変幸甚なのでございます。ハイ。

ただ、人というのは分かりやすさを求めます。(分かっております…スミマセン…)

それは私も同じで、「虚」を追いながらも、どこかで「実(じつ)」を求めているのです。

その働きはおそらく人間の本性に関わってくるほど強いもので、なので気がつかないうちに、仮の容れ物である「器」が本質だと思い始めてしまうことがあります。

それは、誰もが陥りかねない落とし穴で、よくよく気を付けておかなければなりません。

現代人で言えば、「お金」というものがまさにそれに当たるでしょう。

本来、実体を持たないモノであったはずが、今やほとんどすべての人々がその存在をまるで実体を持つかのように扱い、その人々の信仰によって巨大な「マネー」という空想上の巨獣が生み出され、それが世界中を駆け巡りながら、現実世界に多大な影響を及ぼしています。

そういうことが好きな人たちが、空想のゲームに興じてマネーの行く末を予想しつつ「儲かった〜!」とか楽しむのは一向に構いませんが、それがあまりに盛り上がりすぎて、現実の家の家具などを壊すほどになったら、皆さんだったら怒りますよね? いや、怒るべきです。

「こら! そこまでやったらアカン!」と言って叱る大人が必要なのですが、それは本来、政府の役目であるはずが、その大の大人役である政府までもが空想のゲームに興じてしまって、「いや、お金が大事だ」とか本気で思い始めてしまったので始末に負えません。

大事なのは「お金」じゃありませんよ〜。実体である「経済活動」そのものですよ〜。見るとこ間違えていると、見事に「落とし穴」にハマっちゃいますよ〜。

経済活動がグルグルと巡るためにお金があるのであって、お金を生み出すために経済活動があるのではありません。

これが「虚」を容れる「器」を「本体」だと思い始めてしまうという、人間の陥りやすい「落とし穴」なのです。

お金とか愛とか神様とか、本来「虚」であるモノを「実」と思い込み始めると、現実世界に齟齬が生じるので、それを無理矢理是正しようとして現実をねじ曲げる「暴力」が生まれます。不幸のはじまりです。

でもシステムというのは、それを引き起こしやすいんです。共同幻想で補完し合いますからね。だから難しい。

それは有史以来、延々と繰り返されている人間の業(ごう)であるかも知れませんが、それに気づく大人を一人でも増やしていけば、世の中はちょっとずつ良くなるはずです。
はるかずっと昔に、ブッダもキリストもムハンマドも老子も教えてくれているはずなんですけどね…。難しいものですね…。

とにかく、ゲームに興じる子どものレトリックに振り回されてはいけません。

私は「アカンもんはアカン」と言える大人でありたいと思います。

いや、確かに子どもの空想に付き合うのも大事なことですよ。でも、そもそもその子どもの空想を成り立たせている「現実の営み」があるでしょ…っていうことです。

ご飯を作ったり、お掃除をしたり、お洗濯をしたり…っていうね。誰がやってくれてると思ってるんですか。マッタク。お金なんかいくらあったってそれだけじゃ何にも生み出さないんですよ。

政治家はみんな「家事必須」にするべきですね。てゆうか選挙の時には選挙カーなんて走らせずに、家事をしている姿を動画配信して、有権者はその姿を見て投票するかどうか決めたら良いんじゃないですかね?!(暴論)

畑ぶっ潰して、お店ぶっ潰して、工場ぶっ潰して、働く人ぶっ潰して、共同体をぶっ潰して、それでお金をいっぱい集めて、そのお金でいったい何ができるのか教えて欲しいですよ。お金使うところ残ってませんよ?

夕暮れ時に、相手をしてくれていた友だちはみんな居なくなってしまって、宝物だと思って集めたガラクタのお金をぎゅっと握りしめたまま、帰る故郷(ホーム)もなく、心配して探しに来てくれる家族もなく、途方に暮れて佇んで、そうして初めて気づくとか…そんなの寂しすぎますよ。

私はそんな身振りを見ていると、そこに「寂しさ」ばかりを感じてなりません。

寂しい子どもを作っちゃいけませんよね…。ホントに。

…ということで、私は最近「お金」のことがやたらに気になって勉強しているのです。何故って私たちの社会の抱えたもっとも大きな「穴ぼこ(虚)」だからです。昔はそこに神様とか真理とかありましたけど、もはやほとんどすべて「お金」に集約されてしまいました。

「お金」というものについては、いつか皆さんと一緒にその根本から考えたいなと前々から思っていたのですが、その気持ちがますます高まってきている今日この頃のご時世です。

ところで講座中、そんな「穴」についてのお話をしていたら、来ていた子どもが部屋中の「穴」を探してあちこち覗き込んでいまして、その姿がホントに可愛くてなりませんでした。ほっこり。
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2021年10月25日

いろいろな穴追い[FB]

2021年10月 愉気の会
「いろいろな穴追い」

今月の愉気の会は「穴追い」の実習を行ないました。「穴追い」というメソッドについては、以下のアーカイブ記事で細かく触れています。

「意図なき集注」:2016年11月 愉気の会

上の記事でも書いたように穴追いというのは不思議なメソッドです。

何だかハッキリしてなくて、理解もしづらければ、説明もしづらく、何とも覚束ないメソッドなのですが、私は整体のメソッドの中でもかなり本質的なメソッドだと思っています。

「整体とは虚(きょ)の活用法なり」という野口晴哉の思想を、上手い形でワークに落とし込めたメソッドの一つであるでしょう。

でもそれゆえにこの「穴追い」というメソッドは、指導者によって本当にさまざまな解釈がされているのではないかと思います。私のような解釈をしている方が他にもいるかどうか知りませんが、おそらくいろんな語り口で語られているはずです。

そのような多様な解釈が生まれてしまうのは、このメソッドが「虚」であるゆえの特徴です。神とか愛とか幸せとか、そういった概念が人の数だけその形を取るように、穴という概念もまた人の数だけその形を取るのです。

ですから、どれが正解ということはありません。
真実はあるかも知れませんが、正解はありません。

その解釈に、深さや高さや厚さや重さや濃さや激しさや柔らかさといった色味はあっても、正しさは無いのです。

そして、私はそのような多様な穴の姿を、見たいし、聞きたいし、感じてみたいので、穴追いを受けるのも愉しいし、穴追いをやってみた人の話を聞くのも愉しくてなりません。

さまざまな形を取るその「穴」が、さまざまな匂いを立てるその「虚」が、さまざまな旋律を奏でるその「空」が、さまざまな言葉で表現するその「人」が、私には本当に本当に面白くてならないのです。

世界は本当に多様で豊かです。
そして限りなく自由です。

私は穴追いを受けていると、相手と結ばれているその一点の穴に、相手の存在が丸ごと感じられてきます。

触れ方、押さえ方、動き方、離れ方、そのすべてに相手が現われるのです。ポカンとしているが故により一層くっきりと浮かび上がってくるのです。

その、私の中に立ち現れてくる相手の姿にすべてを委ねて、浸ります。それが、私の穴追いの受け方(愉しみ方)なのです。マニアックです(笑)。

というわけで(?)、次回の愉気の会も、ふたたび「穴追い」の実習をしてみたいと思います。
興味のある方はぜひぜひご参加いただければと思います。
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2021年10月22日

ただ居るだけ[FB]

2021年9月 愉気の会
「ただ居るだけ」

今月の愉気の会は、東畑開人さんの著書『居るのはつらいよ』からお話を始めました。東畑開人さんはいま大活躍中の新進気鋭の心理学者で、私もとても注目している方です。

講座では「居ることはけっこう難しい」というお話をしました。ただ「居る」ということは、意外と思っている以上に難しいものです。さして用のない場所で、ただポカンとした時間を過ごす。ただ居るだけ。

たった一人でポツンと居るならまだしも、そこにはいろんな人が居て、忙しそうに動いている人も居るかも知れない。そんな環境の中、ただ居るだけ。

たぶん意外とできない人が多いんじゃないかと思うんですよね。ソワソワしちゃって、つい腰が浮いちゃう。とくに日本人には苦手な方が多いのではないかと思います。

ただ「居る」ことができないときに私たちはどうするかというと、何かを「する」のです。

身の置き所がなくて、居心地が悪くて、手持ち無沙汰で、ただ「居る」ことができない。そんなところにそれでも居るためには、居る意味が欲しい。あるいはただ居るということから目を逸らしたい。

そんなとき、私たちは何かを「する」ことでその場における自分の役割(居場所)を作って、忙しくしていることでようやく安心してその場に身を置くことができるのです。

そのとき、身振りとしては進んでその役割を担おうとするわけですが、半分無意識的な身振りですから、当人は必ずしも喜んで行なうとは限らず、ブツブツ文句を言いながらのイヤイヤであるかも知れません。

そしていざ作業が終わってしまいそうになると、居場所がなくなってしまうわけですから、何となく不安になってきて、また何か別の「する」を探し出すのです。

とにかく回避したいのは、「する」が無くなり、ただ「居る」だけの現実が押し寄せてきて、自分の「居る意味(存在意義)」と向き合わなくてはならなくなってしまう事態です。

現代社会は、ただ「居る」ことに対して厳しい眼差しを向けてくることが多々あります。「生産性」とか「費用対効果」とか、そんな言葉で語られることの背景には、ただ「居る」ことへの咎めの眼差しがあります。

そんな世の中に溢れる「咎めの眼差し」を内在化してしまった人は、つねに自身に対して「意義のある存在であるべき」ことを要求し、ただ「居る」ことを怖れて、「する」ことに逃げ続けることになります。

忙しいことは、現代人のアジール(逃げ場所)でもあるのです。

ただ「居る」ということが不安で不安で仕方なく、過剰にあるいは半ば強迫的に何かを「する」ことでしか居場所を作れない人は、生きづらさや息苦しさを抱え込むことになるでしょう。

私はそんな人たちに「そんなことないよ」と言いたいのです。

私が若い時からひたすらに試してきたいろんなことは、目の前の人に「ここに居て良いよ」と言う、ただそれだけのことだったかも知れません。

学生時代の私の下宿は、鍵などかけたことがなく(というかどこにあるのかも忘れてました)、多くの知人が自由に出入りするほぼコモンスペースでした。部屋に戻ったら知らない人が寝ていて「ここで寝て良いって言われた」なんて言われたこともありました。

卒業してから毎月開いていた集まりは、とくに目的は無く、ただみんなでご飯を食べながらおしゃべりするだけの会で、誰でも好きなようにやってきて、好きなように食べたりしゃべったりして、好きなように帰る会でした。

そして今やっている講座や整体も、突き詰めていけば「居て良いんだよ」という一言に尽きるのかも知れません。

何かに追い立てられるようにして「する」に焦っている人たちに、「別にそのまま居て良いんだよ」ということを伝えたい。

もし皆さんもそんな風に「する」に焦ってしまった時には、オススメの対処法があります。

ただ夜空を見上げてみて下さい。最低10分。
あるいはただ猫を愛でて下さい。最低10分。

ただ「在るだけ」の存在が、ただ「居るだけ」を、きっと優しく包み込んでくれるはずです。
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Web「北欧、暮らしの道具店」に掲載[FB]

2021年8月
Web「北欧、暮らしの道具店」に掲載

「北欧、暮らしの道具店」さんのWebページに取材記事が掲載されました!

「北欧、暮らしの道具店」【夏の疲れを取る、ながら手当て】

「夏バテのからだにやっておくと良い手軽な手当てを…」ということで、妻のかさねにモデルになってもらって、簡単にできるお手当てをご紹介させていただきました。

もうしばらく暑い日が続くでしょうし、世の中もこんな状況ですから、ぜひセルフケアをしつつ暑い夏を健康に乗り切ってもらえたらと思います。

本日の第1話に引き続き、明日も第2話が掲載されますので、ぜひぜひそちらも合わせてご覧になっていただければ幸いです。

ちなみに「北欧、暮らしの道具店」さんと言えば、映画『青葉家のテーブル』が全国各地のミニシアターで絶賛公開中ですが、その元となった短編ドラマ版も大変素晴らしい作品です。

短編ドラマ「青葉家のテーブル」

じつは我が家は、映画化される前の短編ドラマ版の頃から「青葉家のテーブル」のファンで、家族で楽しみに観ておりました。どのお話も何とも素敵なんですよね〜。

こちらもWebページで全4エピソード配信中ですから、ぜひお時間ありましたらそちらも合わせて観ていただければと思います。オススメです。
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【動画】holos.TALK 003

2021年8月
『holos.TALK 003』

8月6日の『holos.TALK』に出演しました。

『holos.TALK 003』
MOTOKO(ヒーラー)×井出武尊(子ども遊び)×山上亮(整体)


MCはホニャララLIVEでもお世話になりました、子どもの遊びデザイナーの井出武尊さんと、アーユルヴェーダ専門家でヒーラーのMOTOKOさんのお二人。

前回のホニャララLIVEの後に「いろんな魔女の方とお話ししたいんですよ」というお話ししたら、「でしたらぜひご紹介したい魔女の方がいます」と井出さんにご紹介いただいたのがMOTOKOさんです。

とにかくいろんな魔女の方たちから、その智慧と経験から紡ぎ出される珠玉のお言葉を拝聴したいと思っている私としては願ってもないオファーで、ぜひぜひお願いしますと二つ返事でお引き受けいたしました。

最近の政治家たちの発する「言葉」とも呼べないほどに酷い空疎で腐臭のする言語らしきモノが、あちこちで目に付き耳に付き、もはやそれだけで心身の失調を引き起こしかねないほどの状況なので、魔女の方の発する「事物にピッタリ寄り添ったお言葉」を拝聴して、心身を整えて癒されたいと思う今日この頃です。

今回もぶっつけ本番のLIVE配信でしたが、そんなLIVEのアーカイブが無料で観られますので、ご興味のある方はぜひぜひご覧になってみて下さい。
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動詞で世界を見る[FB]

2021年7月 愉気の会
「動詞で世界を見る」

今月の愉気の会は「動詞で世界を見る」ということについてお話ししました。

「動詞で世界を見る」というコンセプト自体は、拙著『整体的子育て2』の中でも触れているように、ずいぶん前から自分の中にあって、講座の中でもたびたびその方法についてお話しすることはありました。

それを今回、電通さんにスコップスクールという場を用意していただいたことがきっかけで、小学生たちと一緒に動詞について取り組むことができたのです。

小学生には難しいかな…とも思ったのですが、でもやってみたらけっこうみんな理解して、そして十分に楽しんでワークに取り組んでいってくれました。

そこで改めて思ったのは、この「動詞で世界を見る」というワークは、自分も含めた人間理解の手助けとなる、なかなか良いワークであるかも知れないということです。しかも小学生高学年あたりから十分に取り組める。

私たちは世界を名詞で捉えがちです。なぜなら名詞で捉えると非常に取扱いをしやすくなるからです。それは言ってみれば「虫をピンで刺して標本にする」身振りに似ています。

カブトムシを観察したいと思った時に、毎回森に入ってミツの出ている樹を探し、そこに寄ってくるカブトムシを待たなければならないのは大変ですが、カブトムシをつかまえて防腐処理を施して虫ピンで刺して標本にしておけば、いつでも自由に観察することができるようになります。

それが言ってみれば「名詞で世界を捉える」方法です。

つまり「つかまえて」「変化しない状態に置き換えて」「保存する」。

時間経過の影響を排除する「無時間モデル」の思考形式です。

その方法は、あまり変化しないモノを観察する時には良いのですが、変化してゆくモノを観察する時にはあまり向いていません。時間という要素を省いている分、どんどん現実とズレていってしまうからです。

私がつねづね感じていたのは、「私たちは世界を名詞で捉えがちだけど、子どもを名詞で捉えていると必ずズレていってしまう」という葛藤です。なぜなら子どもは、変わり続け学び続け育ち続ける存在で、まさに時間的な「現象」のような在り方をしているからです。

私たち大人は、たいていいつも子どもを見誤ってしまうんです。

大人って、目の前の子どもを見ているようでいて、じつは自分の中のその子に関する経験とか記憶とか思い出とか、そんなモノを見ているに過ぎなくて、つまり子どもの過去というか夢を見ていることがとっても多い。

そしてそれは、子どもを名詞で捉えている限り、変わらないだろうと思ったのです。じゃあどうすれば良いんだろうと思った時に「動詞で捉えれば良いじゃないか」と思ったのです。

子どもを動詞で見てゆくことは、その子の「今」を見るために非常に役に立ちます。さらに言うなら実はそれは子どもの「未来」を見ることにもつながっていて、そしてさらにさらに言うならば、その子どもの「本質」を見ることにもつながってくるのです。

なぜなら「人間の動詞」というのは、たいていの場合、生涯を通じて変わらないからです。私たちの姿カタチ(名詞)や肩書きは歳を重ねるごとに変わっていきますが、しぐさや身振りは変わりません。だからこそ私たちは、そこに変わらない「その人らしさ」を見るのです。

そんな「動詞で世界を見る」方法こそが、このワークなのです。

このワークを誰もが取り組めるワークとして、さらに練り上げていきたいなと思っています。
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排除ベンチに考える[FB]

2021年7月
「排除ベンチに考える」

都市のデザインというのは、そのまま都市の思想であり、そこに住む人たちの思想だと思います。

「排除ベンチに抵抗した制作者のせめてもの思い」:withnews

日本の他の街の事情はよく知りませんが、東京の街は歩いていてもベンチはそんなに多くはなく、またたとえあったとしても座面に妙な突起が付いていることがよくあります。

「ここで横になるんじゃねーぞ」ということを訴えるデザインなのでしょうが、何とも無粋でケチくさくって、初めて見た時からまったく好きになれません。

「ここに自転車とめるんじゃねーぞ」のつもりで道脇に並べてあるパイロンも、ケチ臭さとセンスの無さが鼻について何だかイヤな気持ちになりますが、この「排除するベンチ」もまったく美しさを感じません。

「人間ってもう少し『美しい存在』なんじゃないんですかね?」ということを思わず問うてみたくなるようなデザインですが、もしそういう疑問を投げかけようというアート作品なのだとしたら見事に成功していると言えるかもしれません。

でもそうじゃなくって、本気で置いてあるんですよね…きっと。

これを見て「美しくないなぁ」と思うのは個人的な主観に過ぎないのかも知れませんが、でも同じように感じた人がやっぱり世の中にはいて、そして何とか格闘していたということをこの記事で知りました。

人はもっと美しく在ることができるし、街ももっと美しく作れると思うのです。

美しく問題提起してくれた田中元子さん、ありがとう。
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【動画】ホニャララLIVE 060

2021年6月
『ホニャララLIVE 060』

6月26日の『ホニャララLIVE』に出演しました。

『ホニャララLIVE 060』
yuji(星読みヒーラー)×井出武尊(子ども遊び)×山上亮(整体)


MCは著書『「風の時代」に自分を最適化する方法』が話題の星読み師yujiさんと、子どもの遊具や遊び場のデザインを手がけ、さまざまなワークショップをやっていらっしゃる井出武尊さんのお二人。

お二人とも私は初めての顔合わせでほとんど存じ上げないのですが、ぶっつけ本番でそのまま90分ほどトークするというなかなかヤンチャでホニャララな感じのライブイベントです!(笑)

でも「星読み師」と「子どもの遊び場のデザイナー」と「整体ボディワーカー」という、異色すぎる三人が集まって話をするのだから面白くない訳が無いのです。

そんなLIVEのアーカイブが無料で観られますので、ご興味のある方はぜひぜひご覧になってみて下さい。
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新型コロナの空気感染について[FB]

2021年6月
「新型コロナの空気感染について」

久しぶりに新型コロナウイルスについて書いてみます。

何かというと「感染経路」について新たなデータが出てきて、現状の対策とのズレを感じ、これは感染対策の意識の切り替えが必要になるなと思い、ぜひ伝えておきたいと思ったからです。

書いていたらやたら長くなってしまいましたが…(汗)、でもぜひいろんな方に読んでいただきたいと思います。

ただいちおう初めに言っておくと、私は感染症の専門家でも何でも無く、ここで書いていることはすべて私感に過ぎませんので、そのへんはご了承願います。

5月7日に、アメリカの疾病対策センター(CDC)が、新型コロナウイルスに関するガイドラインを改訂し、最大の感染経路を「エアロゾル感染」とし、接触感染に関しては「そのリスクは低い」としました。

数字で言うと「10万分の6.5」くらいだそうです。つまり10万回触って6.5回くらい感染が起こるということですね。思ったよりもかなり低いデータが出てきました。

つまり、「物品の表面消毒」(椅子をアルコールで拭くとか)は、そんなに労力をかけて行なっても効果は小さいということです。定期的に物品を消毒しているような施設の職員さんなどには朗報ですね。

「消毒作業はそんなに頑張っても効果は少ないので、無理ない程度に抑えましょう」と、CDCからお墨付きが出ましたよ〜。

まあ「対策やってます感のためにやらなくちゃいけない」とか、いろいろ事情はあるかと思いますが、「ハイタッチな箇所(スイッチとかドアノブとか)」だけ念入りに行なって、それ以外の箇所はもう少し頻度を減らしたりして、スタッフの健康管理の方に気を回した方が良いと、私は思います。

そして今回の改訂でもっとも注目すべきは、「エアロゾル感染がもっとも注意すべき感染経路である」とされた点です。

初期の段階から、「空気感染」についてはその可能性をいろいろ言われていましたが、ここに来てようやく最大の感染経路として認められたのです。

これはもうハッキリ意識しましょう。

「新型コロナは空気感染する」と。

これはしっかり意識を切り替えた方が良い、と私は思います。

そう書くと「は? エアロゾル感染でしょ。空気感染じゃないよね」という声も聞こえてきそうです。

たしかに「エアロゾル感染と空気感染は違う」という言葉はあちこちで見るのですが、どうも私にはよく分からない点があって、一生懸命調べてみたんですけど、やっぱりよく分からないんです。

「空気感染」の代表格とも言える麻疹ウイルスは、飛沫(5ミクロン)よりもさらに小さい「飛沫核」となって空気中を漂います。
一方「エアロゾル感染」の新型コロナウイルスは、飛沫(5ミクロン)よりもさらに小さい「マイクロ飛沫(エアロゾル)」となって空気中を漂います。

なるほど。違いがよく分かりません。

「それは飛沫に含まれる水分が…」という声も聞こえてきそうですが、「室内環境学会」によると、5ミクロン以下の粒子の水分は0.8秒で蒸発するそうですから、あんまり関係ないですね。

違いはよく分かりませんが、とにかく現象としてはどちらも「飛沫」の定義である5ミクロンよりも小さな粒子となって空気中を漂うということです。

そしてさらに重要となるのが、それぞれの空気中の生存期間ですが、麻疹ウイルスが2時間以内、新型コロナウイルスが3時間程度と言われています。

言われている数字だけ見ると、新型コロナの方が長生きしてますね。

どちらのウイルスも大きさはほぼ一緒。そして5ミクロン以下の小さな飛沫となって空気中を漂い、乾燥しても不活化せずにしばらく漂うのも一緒。そして生存期間で言えば、新型コロナの方が長生きをする、と。

それってつまり「エアロゾル感染」のほうが「空気感染」より危険ってことですか? そういう意味で使い分けてる? まさかね。

もしその違いを正しくご存知の方がいらっしゃるなら、是非ご教授いただきたいのです。違いが分かりません、というか分ける意味が分かりません。

確かに麻疹ウイルスは、再生産数12〜18(R=12〜18)という猛烈な感染力を有し、なおかつ感染した場合の発症率がほぼ100%という無双っぷりを発揮しているので、それに比べれば新型コロナウイルスは、まだおとなしいのかも知れません。「感染力」に限って言えば、ですけど。

新型コロナは麻疹ウイルスのような分かりやすい感染が観察できないので、いまだにその辺があやふやであるということもあるかも知れません。

でも、どうも「新型コロナが空気感染する」ということをとにかく認めたくないために、「マイクロ飛沫」とか新しい呼び方をしてみたりしながら、必死に言い回しを変えているように思えてしまうのは、私の邪推なのでしょうか?

まあ定義の話は研究者の人たちが喧々諤々とやっていくことであって、一般人である私にはどうでも良いんですけど、それより私たちにとって大事なのは、私たちがいかに効果的な感染対策をするかということです。

そうやって考えると、そのためにはやっぱり「新型コロナは空気感染する」という認識でいた方が良いだろうと思うのです。

何故なら「空気感染」と言った方が、ほとんどの人にとってずっとイメージしやすいと思うんですよね。感染対策のセオリーとして「空気の汚染に気を付けましょう」と言われた方が、すごくイメージしやすい。

もちろん「空気感染する」なんて言ったら、怖いイメージも湧いてしまうかも知れませんが、その感染のメカニズムをきちんと知ることが大事であって、きちんと知れば無闇に怖がることは無くなると思います。

ともかく「空気感染」が主な感染経路であるとするならば、その対策はとにかく「換気」に尽きます。徹底的に「換気」です。

いま現在、あらゆる施設や店舗で、手洗い、消毒、パーテーションと、いろんな対策をしていますが、もし空気感染が主な感染経路だとすると、それらの対策は感染対策としては不十分あるいはちょっとズレていることになってきます。

上記の対策は、「飛沫感染」や「接触感染」に対しては効果がありますから、感染対策として意味が無い訳ではありませんが、「空気感染」に対しては無力かあるいは効果が疑問です。

とくにパーテーションは「空気の対流を妨げるので、感染リスクを高める」という意見もあるくらいです。

たしかに空気感染に対してもっとも効果のある「換気」の効果を妨げてしまうのは、室内にいろいろ物が置いてある状態であって、そうするとパーテーションが乱立しているのは逆効果であるかも知れないのです。

ただもちろん「飛沫感染」対策としては強力に働いている訳で、そこら辺の最終的なリスク計算はとても難しく、専門家による研究結果を待たなければ結論は出せないので、いきなり店内のパーテーションを全部取っ払ってしまうのは決してオススメしません。

まずは換気を最大限効率的にするために、部屋の空気の流れを把握して、その流れをスムーズにする方法を考えるのが良いと思います。

そしてそんな「空気感染」対策を考える時に、非常にその助けとなるイメージは「タバコの煙」です。

タバコの煙の粒子の大きさは0.1〜1ミクロンと言われています。新型コロナウイルスの大きさはおよそ0.1ミクロンなので、じつはほぼ同じくらいの大きさなのです。

もちろん「マイクロ飛沫(エアロゾル)」となるともう少し大きくなりますが、定義上5ミクロン以下であり、とくに空気中を長期間漂うのは2〜3ミクロン以下の粒子と言われてますから、タバコ粒子の大きさとそこまで大きく変わらなくなってきます。

そうすると空気中の挙動としては、タバコの煙とエアロゾルはそんなに変わらない似たような挙動をするんじゃ無いかと思うんですよね。ちゃんと実験した訳じゃ無いから断言できませんけど。

まあでも「イメージしやすい」というのは、専門家でない一般人にとってとても大切なことです。

部屋の中で誰かがタバコを吸っていると考えてみて下さい。そしてあなたもその部屋の中にいます。

誰かがタバコを吸い始めてから、いつ匂うか、どこまで匂うか、あるいはタバコを吸い終えてからいつまで匂うか、どうやったらその匂いが消えるか、そんなことを考えてみれば「空気感染」についてイメージがしやすいかも知れません。

そしてマスク、消毒、パーテーションといったものが、「タバコの煙対策」としてどこまで効果的に働くのか、そう考えれば分かりやすいと思います。

実際に部屋の空気の流れをテストしてみたい時は、「香りの強いお線香」などで代用してみても良いのではないでしょうか。「匂い」でも「煙の動き」でも確認しやすいと思います。

とにかく大事なのは「換気」なのです。そして危険なのは密室なのです。密室では酸素ボンベでもしていない限り、すべての感染対策に意味がありません。換気をしましょう。そして換気がされていない空間はできるだけ速やかに退出しましょう。

今回は触れませんが、デルタ株(インド変異株)についてはけっこう厳しい情報がポツポツと上がってきています。後遺症の問題もありますし、書きたいことは山ほどありますが、今回は感染対策の基本姿勢として『「タバコの匂い」をイメージして「なんかヤだな」と思ったら気を付ける』という、そんな意識を持っておくと良いのでは?というお話でした。
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大阪市教育行政への提言[FB]

2021年5月
「大阪市教育行政への提言」

学校の教育現場に立つ人からの必死の提言が、行政の長に出されました。

「大阪市教育行政への提言 全文」:朝日新聞デジタル

これは大阪市長に対する提言でありますが、きっと日本全国どこであっても少なからず通じることでしょう。

ハッキリ言って日本の教育は「どうでもいい仕事(ブルシットジョブ)」に忙殺されすぎだと思います。

教育以外でもそうですが、ホントにどうでもいい作業ばっかりです。なんで?と思わないではいられません。

教員の仕事は「子どもと向き合うこと」です。
それ以外の仕事も、本来その目的の為に行なわれるべきはず。

でもどうも現実はそうなってはいない。

その理由は複雑に絡み合いすぎてややこしいけれども、でも私たち大人が考えなければならない社会の問題であるでしょう。

私は「先生たちにはもっと自由な時間を与えて欲しい」と思っています。

なぜならそれが子どもの為であるからです。

実際に日々子どもと向き合って子育てしている人間なら、誰でもそれは身をもって判ります。

「自由な時間」が、どれだけありがたいことか。

少しの自由な時間が許されるだけで、子どもと過ごす時間はもっと豊かで充実したものになります。断言できます。
(誰だってそうですよね? 違います?)

子育てに必要なのは「遊び」と「余裕」です。大人も子どもも。

「教員」や「子育て世代」にそれを用意できるのは……

なんと! まさに行政の仕事ではありませんか!

行政に携わっている方がどれだけこの文章に目を落とすか知れませんが、未来の国家国益に直結することでありますゆえ、ぜひぜひご検討いただければ幸甚と致すところであります。
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【動画】タッチの日オンラインイベント2021

2021年5月
「タッチの日オンラインイベント動画」

今年も5月5日のタッチの日にオンラインイベントを開催しました。
そのときに私が行なった「親子でタッチ〜からだコミュニケーション」と題したワークショップのアーカイブが動画で観ることができます。

「親子でタッチ〜からだコミュニケーション」(約40分):Facebook Watch
https://fb.watch/5hQ8YuTT6O/

親子でご参加いただき、オンラインでつながりながら、みんなでからだに触れあいました。
当日参加された方も、参加されなかった方も、ご興味ある方はぜひご覧になっていただければと思います。
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映画『はじまりへの旅』[FB]

2021年4月
「映画『はじまりへの旅』」

みなさんは理想と現実ってどうやって折合いを付けていますか?
とにかく理想に向けて全力を尽くしますか?
それとも現実第一でハナから夢みたいな理想は持ちませんか?
それとも現実的なレベルまで理想のレベルを下げますか?

何かっていうと、子育てとか教育とかって難しいなっていうことで、それはつねに理想と現実とのぶつかり合いだからです。

こう育てたい、こう育って欲しい、こんな親子になりたい…。そんな思いはいろいろあれど、現実にはお金のこと、仕事のこと、家庭環境、ママ友づきあい、いろんな現実が押し寄せてきます。

しかもその上、子ども本人だって一個の人間であって、そこには自由な意志が存在します。決して親の思い描く理想だけで進むわけがありません。

映画『はじまりへの旅』(原題:Captain Fantastic)はまさにそんなことを描いた映画でして、観たのは何年か前なのですが、ふと思い立って皆さんにお勧めしようかなと思った次第なのです。

『はじまりへの旅』のフィーチャレット映像(約4分)

この映画は、アメリカでたった4館で公開されたものの、口コミで世界中に拡がり、カンヌやオスカーといったそうそうたる映画賞にノミネートされるまでになった話題作なので、もうご覧になった方も多いかも知れません。

映画は、資本主義を嫌って森の奥深くで生活している家族が、町の病院で亡くなった母親の葬儀に出席するために、オンボロバスに乗ってはるばる母の実家のニューメキシコまで旅をするという物語です。

父と6人の子どもたちは、学校へは通わず、狩りをしたり、瞑想を行なったり、思想書や科学書を読んだり、過酷な身体トレーニングをしたり、楽器を奏でて歌ったりしながら、森の中で健やかに逞しく、オーガニックを通り越してワイルドに暮らしています。

父親の徹底した教育思想の下、子どもたちは6カ国語を操ることができ、大きな獣を仕留めてナイフ一本で捌くこともでき、あらゆることを包み隠さず家族内で共有し、徹底した個人主義とアナキズムによって貫かれた思想を持って、逞しく育っています。

それはもちろん父親の理想なわけですが、それでも家族はその理想の下、森の中の家族だけの暮らしをとても幸せに過ごしています。

それが、毛嫌いしていた現代医療の下で母が亡くなってしまったこと、そして森を出て町で出会ういろんな物事に対する違和感。おかしいのは社会だと思っていたけれども、ひょっとしておかしいのはウチの家族であって、間違っているのは父親なのではないか…。

森の中で理想的な生活をしていた家族(子どもたち)は、町に降りていったことで世の中の現実と出会って、そんなさまざまな葛藤と向き合うことになります。

それはたとえば整体やシュタイナーやヨガやマクロビなどに興味を持ってオーガニックな暮らしをしようとか、そんなことを考える人たちにとってはまるで自分事のように身につまされるお話なのではないかと思います。

映画は、いろんな考え方の人たちを偏ることなく描き出していて、それぞれの立場がぶつかりあったりしたとしても、どちらか一方を贔屓にするような描写はしないので、非常に好感が持てます。

ちなみに映画は子どもと一緒に観ても素晴らしい映画だと思うのですが、嘘を言わずにすべて包み隠さず教える方針の家族なので、6歳の女の子に対しても性交とは何かを正確に教えたりしているので、そのへんが気になる方はあらかじめ観ておくと良いかも知れません。
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風邪が新型コロナを撃退[FB]

2021年3月
「風邪が新型コロナを撃退」

「いわゆる普通の風邪が、新型コロナウイルスを撃退する」という面白い研究結果が発表されました。

「普通の風邪のウイルスが新型コロナウイルスを駆逐することが判明」:Gigazine

研究によると、いわゆる「普通の風邪」を引き起こす代表的なウイルスであるライノウイルスと新型コロナウイルスに同時に感染すると、48時間後に新型コロナウイルスが全く検出されなくなったそうです。

しかも、感染の順番を24時間の時差を設けて入れ替えた場合も、同様に新型コロナウイルスは急激に減少し検出されなくなったということなので、非常に有益な形でウイルス干渉が起きているのかも知れません。

実験室の限られた環境内での出来事ではありますが、とても興味深い研究結果であることは言うまでもありません。

昨年の新型コロナの感染拡大以降、世界各地でインフルエンザの感染者が激減していますが、それもウイルス干渉によるものとも言われています。

もしそうだとすると、インフルエンザは新型コロナに撃退され、新型コロナはライノウイルスに撃退されるという「普通の風邪ウイルス最強説」が誕生しますね。

つえーな、風邪。おいらワクワクすっぞ。
納豆菌とどっちがつえーのかな。
(@納豆菌最強説)

整体では「風邪の効用」と語られ、上手に風邪を引くことでさまざまなからだの調整をしますが、ひょっとしたらそれは今回の新型コロナにおいても通用する方法であるのかも知れません。

医学的な治療技術に関して私は詳しくありませんが、もし今回の発見が新型コロナの治療に上手く活用できるなら、こんなに良いことはありませんね。

だって普通の風邪を引けば良いんですから。
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ネグレクトと腸内細菌[FB]

2021年2月
「ネグレクトと腸内細菌」

「ネグレクト(育児放棄)に腸内細菌が関係しているかも知れない」という興味深い論文が出ました。

「ネグレクトを発症させる腸内細菌を発見…」:ナゾロジー

また非常に面白い研究データが出てきましたね。

そもそも研究者の方たちは何でこんな関連性を研究しようと思ったのでしょうかね? 発想がすごい。

論文によると、大腸菌「O16」に感染したマウスから生まれた子どもは異常なほど痩せていて、原因を調べると授乳や世話がほとんど行なわれていないネグレクト状態であったということです。

いやぁ、「腸(大腸菌)」と「育児」とを結びつけるとは、なかなかトリッキーな発想で、素晴らしい研究だと思います。

まあ今回はマウスの研究ですが、人間の腸内環境と心身の関連性の研究も、もっともっと進んでいって欲しいですね。

「腸内環境」という考え方はずいぶん市民権を得てきたと思うのですが、それでも体内の微生物がその生体の精神状態や具体的な行動にいたるまでかなり深く影響を及ぼすという考え方は、人間の自我や精神に価値を重く置く考え方からすると、なかなか迂闊に同意することのできない考え方であるかも知れません。

だって「人間は微生物に操られている」ってことにつながってきますからね。それは宗教の教義によっては神様と人の関係まで揺らがしかねない由々しき考え方でありましょう。

でもまあ宗教のようなオーソドキシーも時流に合わせて微妙に変容していく時代かも知れません。それこそ人と微生物がともに影響し合って変容していくように。

まあともかく、子育てに疲れてしまっている人に必要なのは、必ずしも「愛の大切さを説くこと」ではなくて、「ギューッと抱っこ」してあげたり、「ぬか漬けや手前味噌をご馳走」してあげることだったりするのかも知れないなぁ、と思った記事でした。

あぁ、初女さんのおむすび、一度食べてみたかったなぁ…。

初女さんの手の微生物をいただきたかった…(笑)。
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コロナに想う[FB]

2021年2月
「コロナに想う」

コロナウイルス。

世界中で人から人へと移り渡り、ときどき人に風邪の症状を引き起こす、そんなウイルス。

人はずっとそんなコロナと付き合ってきて、鼻水を垂らしたり、クシャミをしたり、熱を出したり風邪をひいたり、あるいはときに命を落としたりしながらも一緒にやってきた。

いったいどれだけ長い付き合いをしてきたのか知らないけれど、それはひょっとして、長く連れ添ってきた老夫婦のような付き合いであるのかも知れない。

声のかけ方、相槌のタイミング、注意の言葉選び、受け流しの技、仲直りの方法、そのやりとりのすべてがホントにこなれたものであるだろう。

でもきっと他人には判らないけれど、そんな域に達するまでにホントにいろんな事があって乗り越えてきたんだと思う。

ときに破局の危機を迎えながらも、その艱難辛苦を何とか踏ん張って、二人で続けてきたんだと思う。

素敵だなと思える老夫婦たちは、そんな苦労を周りにまったく感じさせることもないほどに、美しい関係の取り方を築き上げている。

「何でもないよ。ただの風邪だよ」

そんなことをさらっと言えるようになるまでに、いったいどれだけの付き合いを、人とコロナはしてきたのだろう。

何十年? 何百年? 何千年?

途方もなく膨大なやり取りと駆け引きとそしてその継承を重ね、尋常じゃないほどの摩擦と衝突と妥協と融和の果てに、人はその関係を「ただの風邪」として、むしろその発熱反応や排泄反応を上手く利用してしまうくらいの関係性として築き上げてきた。

新型コロナ。正式名称「SARS-CoV-2」。

よくあるコロナ? でもちょっと違うコロナ。
よくある出会い? でもちょっと違う出会い。
きっと初めての出会い。初体験。
だからゲキテキ。

初恋は…ただの恋?
初体験は…その後の体験と何ら変わりのないただの体験?

う〜ん…。そうなのかなぁ?

初恋は、ゲキテキで、過剰で、身を焦がすほどのものなんじゃないのかな?

誰でもいきなり老夫婦のような在り方を取れるわけじゃない。

初恋って、どうして良いのか判らずに、自身の過剰な熱量によって、過剰に反応しすぎ、過剰に与えすぎ、過剰に関わりすぎ、過剰に求めすぎるがゆえに、自滅するような形で破局を迎えてしまうような、そんな体験なんじゃないだろうか。

人類にとって今回の出来事は、久し振りの「初めての出会い」だったんじゃないだろうかと思う。

だからこそ人類は戸惑って、いったいどうして良いのか、過剰に反応してしまっている。
それこそ自ら傷つけてしまうほどに…。

新型コロナウイルス。
いや、新型なんて呼ぶからまた変な色が付くんだ。本名で呼ぼう。
SARS-CoV-2。
…学名って色気がないね。しょうがないか。

人類は初めて出会った。
久しぶりのゲキテキな出会いだった。

おかげで世界中が右往左往して、本当に大変なことになっている。

この出会いをどう位置づけて良いのか判らない人類は、もうみんないろんなことを言って、それぞれが譲らないもんだからてんやわんやでバラバラだ。

でもきっと元々そうだったんだよ。コロナのせいじゃない。

元々みんなバラバラに世界を見ていたけれど、あまり表面化していなかったことが表面化しただけなんだ。

どうしていいのか、まだちっとも判らない。
しばらくゴチャゴチャしているのかな。

でもたとえば子どもはさ、お互いに理解し合って仲良くしてるわけじゃないよ。理解し合うのは大事だけど、仲良くするための必要条件じゃない。

またみんなで一緒に飲み食いしながら「オマエ何言ってんだか分かんねぇよ」ってゲラゲラ笑える日が来ると良いな。
見ている景色が違ったり、話す言葉が違ったり。

人間ってもともとそんな感じで、ワイワイやってきたんだから。
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感染症を防ぐ手指バリア[FB]

2020年12月
「感染症を防ぐ手指バリア」

感染症にかかりにくい人の手指には、抗菌・抗ウイルス活性のある「手指バリア」があるという実験結果が、花王の研究所グループから発表されました。

「感染症にかかりにくい人の手指にはバリア機能がある…」:TECH+

記事内にある「手指に塗布した大腸菌の繁殖状態の写真」など、わずか3分ほどの時間でこれだけの差が出てくるのかと、なかなか興味深い結果で面白いですね。

人体上あるいは人体内に生息しているさまざまな微生物叢(マイクロバイオーム)は、私たちの生命活動や健康状態さらには心理状態などにもとても大きな影響を及ぼしていると、私は日頃から考えているのですが、こういう実験結果を見るとそういうものも大きく関係しているのではないかと思います。

今回の実験では、手指上のマイクロバイオームの影響にまでは言及していませんが、その部分もどれだけ関係してくるのか、ぜひ調べていっていただきたいですね。

今回の記事では、複数ある化合物の中でも「特に乳酸が重要である」ということが分かったようですが、だとすると乳酸菌をしっかりと飼い慣らしておくのはなかなか良いですかね? ぬか床かき混ぜるか…(笑)。

まあ、ぬか床はともかく、手洗いや手指消毒といった一過性の感染症対策だけでなく、恒常的な感染症対策あるいは健康生活といったものを考えることは、やはりとても大切なことだと思います。

微生物たちも含めた賑やかな多様性の中で、健やかに暮らしていく方法を模索したいですね。
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秋の食べ過ぎと冷え[FB]

2020年9月 愉気の会
「秋の食べ過ぎと冷え」

今月の愉気の会は、季節のからだについてのお話と手当ての実習をしました。

急に肌寒くなってくるこの時期、もっとも気を付けなければならないのは「冷え」ですが、そのことについては3年前の愉気の会の記事に書いたものがありますので、もしご興味ある方はぜひご一読いただければと思います。

アーカイブ:Facebook2017年9月「冷えるということ」
http://zatsunen-karada.seesaa.net/article/467336860.html

そしてまた昔から「食欲の秋」という言葉がありますが、秋になるとなんだか食欲が増して、ついつい食べ過ぎてしまうことがあります。

秋は美味しいものがいっぱいお店に並ぶということもありますが、じつはその旺盛な食欲の裏に「冷え」の問題が隠れていて、冷えるとついつい食べ過ぎてしまう傾向が出てくるのです。

そしてさらになんと、食べ過ぎているとまた冷えやすくなるということもありまして、そうなると食ベ過ぎと冷えとがグルグル回って悪循環の状態になってしまいます。

食べ過ぎにつながる生活としては「寝不足」というものもありますが、こちらはいくつかの研究グループによって「睡眠時間と食欲にまつわるホルモンの分泌の相関関係」が判明しています。

つまりこの時期、冷えて寝不足が続く生活をしていると、ついつい食べ過ぎてしまってさらに冷えてしまうということですから、気を付けないといけませんね。

「冷えやすい」「背中が張ってダルい」「からだが重い」などなど、食べ過ぎの状態が出てきているときには、正座仰向け体操を行なったり、脚湯を行なったりしつつ、しっかり発散するために秋の気配を感じに散歩やハイキングに出るのが良いと思います。

そして帰ってきたらポカポカお風呂でしっかり温まりましょう。

いやぁ、もうそれだけで気持ち良くって幸せでしょう(笑)。

温もりの幸せを感じるのも秋の醍醐味。善きかな善きかな。

つい先日、セラピスト誌の取材で、セラピストの大橋マキさんの司会進行で、同じくセラピストの冨野玲子さんと対談させていただきました。

対談のテーマは、アフターコロナに求められるものとしての「ホームセラピー」ということで、私もほとんど初めてお二人にお会いしたのにも関わらず、話がとても盛り上がって大変愉しい時間となりました。

また、会場となった冨野玲子さんが学院長を務める「自然療法の国際総合学院」もとても素敵な建物で、古いものを手直ししながら大事に使う心は大事だなぁと改めて思いました。

ここ最近、町を歩きながら「ああ、この建物良いなぁ…」と思っていた古い建物が片っ端から壊されてしまって、何とも哀しい気持ちになっていたので、そうやって素敵な建物が今もしっかり残されているのを見て、ちょっと元気になりました。
posted by RYO at 11:38| Comment(0) | Facebookアーカイブ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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