からだのことをやっている方はよく分かると思うが、「からだをゆるめる」ということはホントに難しい。
「からだをゆるめる」ためにはまず今ある「からだの緊張」に気づかなくてはならないが、人間、 自分のからだの緊張にはなかなか気づけないものである。
このまえも久しぶりに大学時代の友人と会って話をしていたら、友人のからだの不調の話になって、 しばらく話を聞いていたらふと思い立ち、その友人の手をとって自分自身のからだの緊張を気づかせてあげようと色々動かしてみたことがあった。
最初は「ほら、緊張してるでしょ?」と指摘しても意味が分からず困惑していたけれど、しばらく動かしていたらそのうちハッと気づいて 「あ!ホントだ!」と、そのときはじめて自分がどれだけ肩に力をいれて肩肘張っていたのかを知って、「ホントにそのまんまだね。」 と感慨深げにつぶやいた。
多くの人は目の前で実際に示して指摘されても、そのことに気づくまでには時間がかかる。
それくらい人は自分のことは気づけないものであるが、たとえ自分が緊張していることに気づいたとしても、 それをフッとゆるめることができるようになるまでには、まだまださらに時間がかかる。
でもそれでも「緊張していること」自体に気づけたことが大事だ。
どれだけ指摘しても気づけなくなってしまっている人も多い中で、短時間で気づくことができたのは、 まだまだ変化する力がある証拠である。
何事も気づいたところから変わり始めるもの。
しかし、こうして「からだをゆるめる」ということを日頃やっていると、「ゆるめない」「ゆるまない」
ということと否が応でも向き合わざるを得なく、それはいったいどういうことなんだろうとずっと考え続けている。
そして最近ふと思った。
「ゆるめる」ということの極致には「ゆるす」ということがあるのではないかと。
「ゆるめない」ということは何か「ゆるせない」ことがあるのではないかと。
人間誰しも生きていく中でさまざまな「ゆるせなかったこと」があることと思う。
それらさまざまな「ゆるせなかったこと」たちは、決してその場限りで消えてなくなっていってしまうものではない。
きちっとその場で怒りを露にして「ゆるせないこと」を表明すればまだ発散は済むけれども、それを我慢し裡に押さえていると、抑圧され、 内攻し、からだの中に凝縮されてゆく。
幼少時から現在に至るまでのさまざまな「ゆるせなかったこと」たちは、それはそれこそ言葉どおり「しこり」となって、 からだの中にゆるまない部分を生み出し、その近辺に緊張と硬直を作り出している。
ある経験を通じてからだがゆるみフッと緊張がとれた人が、突然忘れていた過去を思い出し、激しく感情を発露して、 そのときの心体験をもう一度経過するということがしばしばあるが、そうして改めて経過を全うさせることで「しこり」が解けて、 芯のところからゆるみはじめるのだ。
その経過はときに物凄い激しいものとなることがあり、私の知人でも医者に「生きているのが不思議だ」と言われるくらいに血圧が低下し、 必死に自分自身と向き合って克服した人がいたけれど、自分のからだと向き合うということは演出家の竹内敏晴さんが言うように、ときに 「地獄の釜の蓋を開けるようなもの」であることもある。
真に「癒える」ということは生半可なことではない。
「癒える」ということが血ヘド吐くような経過をたどることだってある。
からだには、人生のすべてが刻み込まれているもの。
それと向き合い、それを解きほぐしてゆくという作業は、「ゆるむ」という言葉だけでは言い表せない「何か」がそこにあるように思えてならず、じゃあそれは何なのかと言われれば、それが「ゆるす」という言葉で表現されるような「何か」である気がするのだ。
「ゆるめる」ことは難しい。
「ゆるす」ことはもっと難しい。
けれども、自分はいつまでその「ゆるせない」ことを抱えて生きてゆくのかと、ふと冷静に考えなおしてみれば、 なんだかバカらしいなとも思えないだろうか。
ゆるめてみたらどうだろう。
ゆるしてみたらどうだろう。
そうしたら、からだの片隅で、固まり、こわばり、止まっていた時間がゆっくりと溶け出し、流れ始めるかもしれない。
変わることなんてありえないと思っていたものが、少しずつ動き始めるかもしれない。
もしかしたら。
ひょっとして。
何事も気づいたところから変わり始めるもの。
ゆっくりと。


年明けからとても素晴らしい内容の『文章』をありがとうございました。
人を『ゆるす』ことはほかでもない、自分自身を大切にいたわることに繋がるのですね。相手を心から思いやり、感謝すること。そして自分の至らなさをもゆるし、がんばらせていただく。そうなって行きたいものです。
こちらこそ今年もどうぞよろしくお願いいたします。
(重複分、削除しておきますね。)
私の文章にえみ花さんの心に響くものがありましたようで、私としても嬉しい限りです。
「ゆるす」ことの難しさと、また、「ゆるせた」ときの人の変化を目にするにつれ、そこに何かとても大切なことがあるのではないかと、そんなことを思うようになりました。
人をゆるし、自分もゆるし、ありのままのすべてを受け入れられた時に、はじめて「今」を生き始めることが出来るのではないかと、そんなことも思うのです。
いつまでも「あのとき」の時間で止まってしまったままのところに、風を招き入れるということ。
「あのとき」の時間に戻り、自分と向き合う、今はそんな作業の繰り返しでどんどん心も体も軽くなっているような気がします。
「あのとき」止まってしまった時間も、動き始めるとどんどん動き始めていきますよね。
ときにそういう作業をしておくと、自分自身のなかで滞ってしまっていることが、またもとの流れに返ってゆくようなそんな気がします。
深い示唆に富んでいますね…
このところ…自分のことを含めて、人のかかえているアレコレを想うとき
そのことの重さを感じることがあります。
私の場合は「人との会話」の中で…出会うことが時々あります…
コチラも、まだ修行中なので…気づかなかったり
うまく受け止めたり(?)流せなかったり(?)しますけれど。
それって「意識して」するのか「無意識の内に」できるのか…
ドチラなんでしょうか〜?
でも「ゆるす」ってそういうことなんですよね。
やはりよほど自分の中に可塑性(やわらかさ、ゆるみ)を持っていないと、受け入れたことそのものが自分を壊しかね始めない。
アレルギー症状を起こすというか、発熱するというか。
でもそういうことを、意識してするのか無意識のうちにするのかは難しいところですね。
無意識のうちに我が身の安全のためにそういう危険なことは避けようとするかもしれないし、あるいは変化しようとして突然そういうものを招き入れるかもしれないし。
バランスが大事なんでしょうね。
先生のおかげでここ数日自分の中の『ゆるせないもの』
や『怒り』と対峙しており、どろどろ状態でした。
子の固くなっていた肝臓は、もしかしてそんな私の『怒り』を
受け止めてくれていたの?
そして先生に癒してもらいました。
不思議なご縁を感じています。
子どもは本当に自らすすんでさまざまな事を受け止めようとするものです。
アタマでは分かっていないんですよね。からだが分かっている。
家族のこと。世の中のこと。
いろんなものを受け止めてその身に一身に引き受けようとする。
子どもを見ているといつもその子の背負った使命を感じないではいられません。
子どもには教えられることばかりです。
なるべく子どもに重すぎる荷物は背負わせたくないものですが難しいものですね。
どうぞお母さん自身もあまり重すぎる荷物を背負わぬよう、まずは深く呼吸をしてみることから始めてみてください。
自分自身がまず深い呼吸をして、それから子どもの呼吸に添って、彼の言葉を親身になってただじっと聞いてみる。
そうすると意外とどうすればいいのか彼自身の口から教えてもらえるかもしれませんよ?
涙が出る自分に戸惑っています。
でも暫く、涙が出る自分とそれに戸惑う自分に付き合ってみたいと思っています。
これもRYO効果かな?
自分が傷つくから、人の痛みもまた知ることができる。
そのような「傷つく能力」を、ヴァルネラビリティと言います。
「強い」ということは、じつはただ「鈍い」だけかもしれない。
でも「弱く」ありながら、それを自分の能力として活かしてゆけるというのは、それはやっぱり「強さ」なのではないでしょうか。
痛みを感じないようにしてゆくのではなく、むしろそれを積極的に感じとり、その痛みの経験を最大限に活かしてゆく。
そのときはじめて、傷つき苦しんでいる人の傍に寄り添ってあげるということが、本当に自然とできるようになる、そんな気がします。
どうぞ自分の弱さを大切になさってください。
心は振るえ、どこまでも涙はあふれます。
心を寄せ一心に耳を傾けて往ける思いやりは
どうして育まれて往けるのかなと
不思議におもわれながら
欠けてゆけるかなしみの中にこそ
満ちてゆける歓びは潜んでいるのかなと
気づかされ
お月様はどの姿も毎日美しい
そう想っていたら
あの方はいつか教えて下さるのかなと
想われました。
そしてその日が来ても来なくても
たとえ来なくても
なんだかやっぱり
教えてくださる日を待っていたいなと
おもいました。
このブログを読んで
待つことから生じるいのちに気づかされました。
有り難うございます。
私もどんなときでもじっくりと「待つ」ことができるよう精進したいと思います。
ゆるめる
と
ゆるす
ほんと難しいです
許せないこと
わたし
いっぱいあります
でも
最近、許せるようになったことが
増えてきました
そしたらなんか
ゆるんできました
(とくに涙腺)
ゆるむ
ゆるす
ゆるされたら
もっと
ゆるみますね
亮せんせいのおはなし
楽しみにしています
「ゆるむ」と「ゆるす」の共通点について改めてまた考えさせられました。
すると書いた当時よりもさらに深く考えさせられたりして。
改めてホントにゆるむこととゆるすことは一緒のことかも知れないと思いました。
でも「ゆるすこと」「ゆるむこと」のホントに難しいこと。
何故にそんなに難しいのか、これもまた新たな宿題となってしまいました。
何かしなきゃ、何も始まらないのなら、
待つことは、何もしてくれないこと?
何もしてくれないと感じる方もいらっしゃるようだけれど・・・
会えばわかるはずと思われるのだけれど・・・
何かブロックのようなものがあるのかな?
そのブロックはどうしたら消えてゆけるのだろう?
そのブロックは身を守るために、今は必要なんだよね?
だけど、そのブロックがあったら、唯一の最高の本当に大切なものに出会えないんだよね?
そのブロックを手放してゆける出会いを大切にしたいです。
嫌な事には沈黙を貫き通す方に、我慢から待つことに転じてゆける嗜みとして、踊ることを教えてもらいました。
リズム感もセンスもない私はとっても下手だけれど、みんなで一緒に踊ることはとても楽しいです。
かなしいときに泣くことができる、有難うと伝えることができる場を
そっと見守って下さる静けさに通じてゆける動き、そういう方向性の踊りは美しく感じます。
バラバラだけれど、そろっていないけれど、踊りたいように踊る、ズンバ風あり、フラ風あり、なんでもありっていうのも、いいとおもうのだけれど・・・
先生はどのような嗜みをなさっているのでしょう?
演劇と並んで、ある意味「総合的な芸術(排出)」だと思います。
私自身はとくに踊りをやっているわけではないのですが、
思い返してみると日々日常のシーンの中でよく踊っていますね(笑)。
気分だけのテキトー踊りですが、それがなかなか良かったりするのかも知れません。
勝手にからだが動いちゃうんですよね。
自分でも言われないと踊っていることに気づかないかも。
自分の発した言葉に出会うとき・・・
偶然に出会えたこと
言葉を交わしていただいたことに感謝しております♪
そして、また・・・時を経ても
出会えることの偶然に驚くばかりです。