2022年6月
「貨幣と贈与と愛の運動つづき」
先日の記事ですが、読み返してみると泉市長の「お金がない時こそお金を使う」という発言について書き始めたのに、その説明が不十分なままに何だか暴走気味に書き散らしていましたね…(笑)。
あの私の分かりづらい話の展開で「でも言いたいことは何となく分かったよ」と言って下さる勘の良い方はありがたい限りですが、でもいちおう最初のお題についてもう少しだけ補足説明をしておきます。
整体の創始者の野口晴哉は、自宅の井戸の水が涸れかけたとき、家族で集まって「しばらく水を節約しよう」と家族会議をしていたら、「そんなことをしていたらますます水が涸れる。どんどん使うんだ!」と怒ったと言います。
家族は「いったい何を言っているんだろう」と思いつつも、でも先生が怒るからと節水することなくいつも通り使っていたら、水が戻ってきたそうです。
まあ、それはちょっと極端な話のような気もしますが、でも「流れ」という現象においては、確かにそのようなところはあるのです。
流れというのは、流れているところに集まり、流れのないところは詰まったり涸れていったりするものです。ですから「流れが来ないから」と言って渋っていたら、ますます流れが涸れていくのです。
野口晴哉という人は、徹頭徹尾、気しか見ないし、流れしか見ないような人だったそうですから、井戸が涸れても、人が病気になっても、そこに同じことを見たのでしょう。
そして前にも書きましたけれども、お金はモノじゃないんです。
お金とは、負債と資産という異なる方向に同時に伸びる貸借関係の一表現であり、そこを起点にグルグルと巡っていきながらさまざまな関係を取り持っていく、一つの「流れ」なのです。
「お金がないから」といって、お金の流れを小さくしていくようなことをしていたら、その共同体はどうなっていくでしょう。
「元気になったら動きます」という人に「動くから元気になるんです。動きなさい!」と叱り、「足が治ったら歩きます」という人に「歩くから治って丈夫になるんです。どんどん歩きなさい!」と叱った野口晴哉の哲学は、一見乱暴にも見えますが一貫しています。
人の住まない家がたちまちボロボロになっていったり、橋を保存するために通行禁止にしたらあっという間に劣化していったり、純粋な「物」ですらそんな現象が起こったりもするのですから、町や国といった有機的な共同体においてはなおのことでしょう。
町の元気が失われていく様子を見たときに、「子どもにお金をかける!」という決断を下せた泉市長は、きっと「野性的な知恵の持ち主」なんだと思います。
それは現代においては非常に貴重となってしまった「叡智」で、現代の記憶中心の学校教育の中では失われていく知恵の在り方でもあるかも知れません。
止まっているモノから学べることは、止まっているモノにしか適用できないのです。
人もお金も、決して止まったりはしていません。
2022年09月30日
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