2022年6月
「貨幣と贈与と愛の運動」
先日シェアした明石市の泉市長の発言に「お金がない時こそ(こどもに)お金を使う」というのがありました。
これは分かるようで分からない、なかなか理解しづらいロジックかも知れませんが、でも本当にその通りなことで、整体でもまったく同じように考えられているのです。
まあ、整体は「お金について」ではなく「気について」のお話ですけどね。でも私は同じものだと思っているので、やっぱり同じ話でしょう。
それを理解するためには「貨幣とは何か?」というところから理解をしなくてはなりません。
日本の現金紙幣には「日本銀行券」と書かれています。
その意味するところは「日本銀行の発行する債券」ということなので、日本銀行の貸借対照表(バランスシート)を見ると、現金は右側の「借り方(負債)」の項目に記入されています。
つまり「現金というのは日本銀行にとっては負債」なんです。
ちょっとややこしいんですけど、分かりますかね?
「現金が負債」って、たぶん空想が追いつかないですよね。
でも例えば「デパートの商品券はデパートにとっては資産ではない」と言えば、分かりやすいですかね? 自分が作ったその紙を持ってこられたら自分の資産を差し出さなければならないんだから負債ですよね。
お金というのは、誰にとっても「資産」であるかのように思ってしまいがちですが、実はそうでなくって誰かにとっては「負債」なんです。
ある人の背負った負債が、それ以外の人にとっての資産になるのです。そうやってお金は生まれています。
こと現金紙幣に関して言えば、日本銀行が負債を背負ってくれているお陰で、その分の現金紙幣が社会に流通することになり、私たちの資産の一部となって、そして経済活動を支えてくれているのです。
同じことが「銀行預金」にも言えます。
銀行預金はその銀行にとっての負債で、銀行が負債を背負うことで、それと同じだけの資産を作り出して、預金口座を持つ者に資産を渡しているのです。
つまり全体として見てみると、どこかで負債として沈んだ分だけ、他で資産として浮かび上がっている。
その水面より上に浮かんだ部分(資産)だけを私たちは評価してしまいがちですが、それは必ず水面より下に沈んだ分(負債)だけ浮かび上がっているのであって、その沈んだ部分もまた同じだけ評価されなければならないと思うのです。
分かりづらいと思うかも知れませんが、そう思うのです。
それは何かと言うと「愛と贈与の運動」にまつわることなのです。
急に話が飛んだような印象があるかも知れませんが、私の中では思いっきりつながっているのです。
どうして人は無力な状態で生まれてくるのか。
どうして人の子どもはずいぶん長い時間、世話がかかるのか。
それは分かりません。分かりませんが、貧しき者や無力な者がいて、それを起点として人間社会の中にある運動が生まれていることは確かなことであるでしょう。
子どもというのは、ひたすらに愛を施される存在であり、贈与を受ける存在であり、投資される存在であって、それで良いのです。
そうやって子どもたちは、私たち大人から無尽蔵な「贈与の運動」を汲み出しているのです。無限の債務者です。愛の発行者です。ブッダもキリストもそのことを言っています。
そんな営みに、経済合理性だの、等価交換だの、稼げる大学だの、そんな概念を持ち込んでくる人間は、かつては自分も子どもであって、ひたすらに周りから贈与を受け取って育ってきた、ということを忘れてしまっているのだと思います。
あるいは「自分は愛されて育った」と、そう思うことができないのかも知れません。悲しいことですが…。
そんなことはないはずなんですけどね。でも怒りや悲しみや寂しさばかりが募っていると、そんな風にも考えてしまうでしょう。もう一回言いますが「そんなことはないんですよ」。
だって生まれたときに無力であったあなたが今生きている。
それこそがすでに誰かに愛された証拠でしょう。
お腹の空いたあなたにお乳を与え、寒さに震えるあなたに毛布を与え、表現を知らないあなたに言葉を与え、寂しさに泣くあなたに抱擁と接吻を与えた人がいるのです。
そのときあなたに何が返せましたか?
何も返すことなんてできませんよ。いやたとえ返せたとしてもその人は受け取らなかったでしょう。
いったい今までどれだけ多くの愛が自分に向かっていたのか。
この世に生を受けて以来、自分に向かったすべての愛のベクトルとその始点に思いを馳せ、その圧倒的な事実に気づいて途方に暮れたとき、人は初めて大人になるのです。
大人とは贈与する人です。
子どもが、私たちを大人にしてくれるのです。
今度は私たちの番なんです。
「等価交換の原理」では運動はいつか停止してしまいますが、「贈与の原理」では運動はとめどなく増殖していきます。尽きせぬ活力を生み出します。
いま日本を覆っている空気は、私たちから愛もお金も活力も失わせ、不幸な子どもたちばかりを再生産する「悲しい子どもたちの国家」となりかけています。
私は日本の政治家たちを見ていても「悲しい子ども」にしか見えないんですよ。
この国の大人たちはどこに行っちゃったんだろう…と思います。
もちろん、ごくわずかに残っている大人たちもいます。
これ以上悲しい子どもたちを増やさないためにも、私はその人たちを応援したいと思います。
2022年09月30日
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