「空っぽ(虚)になって語る」
先日、愉気の会の記事をアップしたら、その講座に参加された方から「これは私のための講座なの?と思った」という嬉しいメッセージをいただきました。
そんなお言葉をいただけると、本当に「講座をやっていて良かったな」と思えて、講師冥利に尽きるというものです。
実はそのように思ってもらえることこそ「虚」の働きでもあるのです。だからこそ私としてはなお嬉しくて、「きちんと空っぽで語れたな」と思えるのです。
何故なら、語っている主題が「空っぽ」で「虚ろ」なカタチを取っているからこそ、聞く人はそこに自分のテーマを見るのです。
まあ、鏡を考えれば分かりやすいですね。
鏡は空っぽです。周りを映しているだけで、鏡そのモノは主題に登りません。むしろ主題に登るような鏡は問題です。
それはつまり「この鏡、何か歪んでるな」とか「汚れてるな」とか、そういうことですからね。
鏡は虚ろで空っぽであるからこそ、見る人はそこに自分を見ます。自分自身の姿を振り返り、自分自身のテーマに気づき、自分自身でどうすれば良いのか考え始めるのです。
これも私は講座でよく言うことなのですが、参加者の方に「私の話なんて聞いてなくても良いんです」とお話しします。
私の話を聞いているうちに、何となく「そういえば、アレってこういうことだったんじゃないか…」とか、不意に何か別のことを思い出して、そのことについての考えが急に進み出すような、そんなことが起きて欲しいと思っているのです。
ですから講座のカタチとしては、私が何かよく分からないことを一生懸命説明していて、受講生はみんな思い思いに何か別のことについて考えながら一人納得している、という状態が理想なのです。
何だかシュールな光景でよく分からない状態ですけど、でもきっと感覚的にはみなさんよく分かるんじゃないかと思います。
受講生側からすると、それって一番盛り上がっている時なんですよね(笑)。
むしろ、講師に邪魔をしないで欲しい瞬間というか…(笑)。
そんな時にうっかり話を振ってしまうと、フッとイヤな顔をされてしまって「あ、スミマセン…」と思うのです。
そんな営みの中に「人が育つ」ということの本質がある、と私はそう確信しているのです。
2022年04月24日
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