2021年9月 愉気の会
「ただ居るだけ」
今月の愉気の会は、東畑開人さんの著書『居るのはつらいよ』からお話を始めました。東畑開人さんはいま大活躍中の新進気鋭の心理学者で、私もとても注目している方です。
講座では「居ることはけっこう難しい」というお話をしました。ただ「居る」ということは、意外と思っている以上に難しいものです。さして用のない場所で、ただポカンとした時間を過ごす。ただ居るだけ。
たった一人でポツンと居るならまだしも、そこにはいろんな人が居て、忙しそうに動いている人も居るかも知れない。そんな環境の中、ただ居るだけ。
たぶん意外とできない人が多いんじゃないかと思うんですよね。ソワソワしちゃって、つい腰が浮いちゃう。とくに日本人には苦手な方が多いのではないかと思います。
ただ「居る」ことができないときに私たちはどうするかというと、何かを「する」のです。
身の置き所がなくて、居心地が悪くて、手持ち無沙汰で、ただ「居る」ことができない。そんなところにそれでも居るためには、居る意味が欲しい。あるいはただ居るということから目を逸らしたい。
そんなとき、私たちは何かを「する」ことでその場における自分の役割(居場所)を作って、忙しくしていることでようやく安心してその場に身を置くことができるのです。
そのとき、身振りとしては進んでその役割を担おうとするわけですが、半分無意識的な身振りですから、当人は必ずしも喜んで行なうとは限らず、ブツブツ文句を言いながらのイヤイヤであるかも知れません。
そしていざ作業が終わってしまいそうになると、居場所がなくなってしまうわけですから、何となく不安になってきて、また何か別の「する」を探し出すのです。
とにかく回避したいのは、「する」が無くなり、ただ「居る」だけの現実が押し寄せてきて、自分の「居る意味(存在意義)」と向き合わなくてはならなくなってしまう事態です。
現代社会は、ただ「居る」ことに対して厳しい眼差しを向けてくることが多々あります。「生産性」とか「費用対効果」とか、そんな言葉で語られることの背景には、ただ「居る」ことへの咎めの眼差しがあります。
そんな世の中に溢れる「咎めの眼差し」を内在化してしまった人は、つねに自身に対して「意義のある存在であるべき」ことを要求し、ただ「居る」ことを怖れて、「する」ことに逃げ続けることになります。
忙しいことは、現代人のアジール(逃げ場所)でもあるのです。
ただ「居る」ということが不安で不安で仕方なく、過剰にあるいは半ば強迫的に何かを「する」ことでしか居場所を作れない人は、生きづらさや息苦しさを抱え込むことになるでしょう。
私はそんな人たちに「そんなことないよ」と言いたいのです。
私が若い時からひたすらに試してきたいろんなことは、目の前の人に「ここに居て良いよ」と言う、ただそれだけのことだったかも知れません。
学生時代の私の下宿は、鍵などかけたことがなく(というかどこにあるのかも忘れてました)、多くの知人が自由に出入りするほぼコモンスペースでした。部屋に戻ったら知らない人が寝ていて「ここで寝て良いって言われた」なんて言われたこともありました。
卒業してから毎月開いていた集まりは、とくに目的は無く、ただみんなでご飯を食べながらおしゃべりするだけの会で、誰でも好きなようにやってきて、好きなように食べたりしゃべったりして、好きなように帰る会でした。
そして今やっている講座や整体も、突き詰めていけば「居て良いんだよ」という一言に尽きるのかも知れません。
何かに追い立てられるようにして「する」に焦っている人たちに、「別にそのまま居て良いんだよ」ということを伝えたい。
もし皆さんもそんな風に「する」に焦ってしまった時には、オススメの対処法があります。
ただ夜空を見上げてみて下さい。最低10分。
あるいはただ猫を愛でて下さい。最低10分。
ただ「在るだけ」の存在が、ただ「居るだけ」を、きっと優しく包み込んでくれるはずです。
2021年10月22日
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