2019年10月 愉気の会
「女子の体育・暮らしの体育」
今月の愉気の会は「女子の体育」についてのお話をしました。
野口晴哉はたびたび「女子の体育」ということを提唱していました。現代の日本で「体育」あるいは「運動」というと、多くの方がイメージされるのは「競技体育」のイメージではないかと思います。
「競技体育」というのは、それぞれが持てる体力や技術を出し合って競い合い、その優劣をつけて愉しみ、そして切磋琢磨し合う、そのようなからだ作りの教育です。
それはある意味「競うからだ」「戦うからだ」を育てていくということで、厳しい自然環境に耐え、競争相手との生存競争に勝って、生き延びてゆくことを目的にしたときには、とても大切な体育です。
ただそのような体育は、その性質上アグレッシブで対立的で攻撃的な面があります。
子ども時代に「体育が嫌いだった」という人の中には、「からだを動かす運動が苦手だった」という人の他に、「人と競うことが嫌いだった」という人もあるのではないでしょうか。
けれども「からだを動かすこと」と「人と競うこと」は本来別物なのです。
からだを動かす目的として、人と競うと楽しかったりするから、それが競技運動となるわけですが、競うことがあまり好きではない人からすれば、「くっつけないでよ」と思うかもしれません。
「ボクはただゆったりのんびり動きを味わいながら、自分のペースでからだを動かしたいんだ」というプーさんみたいな人だってあるでしょう。
そんな人は「競争」と「勝敗」を基調とした運動ではなく、「協調」と「感応」を基調とした運動であったなら楽しめるかもしれません。
「それじゃ筋肉も体力もあまりつかないし体育にはならないじゃない」と思う方もあるかもしれませんが、筋力や体力をつけるのが体育であるという価値観自体が、すでに競技体育的な思考なのです。
野口晴哉が「女子の体育」と言ったときにどんなことをイメージしていたかというと、健やかに妊娠し、健やかに出産し、健やかに子育てのできる「からだ育て」です。
そこで求められるのは、競ったり戦ったりするからだではなく、共感し慈しんで育むことのできるからだです。自分の意志を貫き通すからだというよりも、相手の要求を感じ取れるからだです。
それは感覚的で対話的で融和的なからだと言えるでしょう。
そのような考えに基づいた体育が欠けているのではないか、それが野口晴哉の言い分でした。
野口晴哉は「女子の体育」と言いましたが、もちろん今の時代それは女子にだけ必要なわけではないでしょう。むしろ男子にも大いに必要となってきていますし、そのような男子も増えてきているように思います。
「妊娠・出産」に関してだけは、これは決して男性が取って代わることのできない部分でありますが、家族を形成し、子どもを育てる事に関しては、これはすでに性別によって役割分担する時代ではなく、個性や適性によって、そして対話を通して決めていく時代です。
ですから「女子の体育」という言い方ではなく、「競技体育」に対する体育として、「生活体育」とか「健康体育」とか何か別の言い方で呼ぶのがふさわしいかもしれませんが、ともかくそのような「育むからだ」を育てる体育が必要だと思うのです。
私が最近考えているのは、かつて家庭や共同体の中で、大人の仕事のお手伝いという形で行なわれていた「子どもの体育」です。
それは、餅つきのときの餅を返す手のように、毛糸を巻くときの毛糸を繰り出す手のように、受け取った藁の束をホイッとパスする手のように、仕事をする大人の息に合わせて合いの手を打つような、家族や共同体の持つリズムに同調し、それに合わせて動けるからだ育てです。
それは何と言いますか「暮らしの中にあるからだ」で「暮らしを支えるからだ」です。そしてそれはつまり「暮らしの中にある体育」で「暮らしを支える体育」なのです。
元々は「暮らし」と「体育」がもっともっと寄り添っていたのです。「暮らすこと」が「からだ育て」だったのです。
そうやって、暮らしがからだを育て、そのからだが暮らしを充ちたものにしていました。
暮らしの中にあるさまざまな労働に充実感を持って取り組み、暮らしそのものに幸福感を感じることのできる、そんなからだを育てる体育を作り上げていきたいものです。
私も「魔女修行」とか言って変なことをやっていますが、じつは私にとって「ホウキを持った魔女」というのは、そのアイコンなのです。
2019年10月31日
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