2019年6月 愉気の会
「夢見のダンス」
今月の愉気の会は、『野生の哲学』(永沢哲、青土社、2002)という野口晴哉の研究本の紹介からお話を始めました。
この本を読んだのはずいぶん前でしたが、今になって改めて読んでみると、自分自身の思考のタネがふんだんに散りばめられていて、「ああ、コレが今になって花開いているんだな」と思わされます。(良い本は久しぶりに読むとつねにそんな印象です)
この著者である永沢哲さんという方は、チベット密教や身体論を中心に研究をされている方で、この本の中でも非常に深く面白い観点から、野口晴哉の思想を解説してくれています。
「野口晴哉のことを考えてみるとき、彼の思考は、外から見ると、「浅草」的な特徴に満ちている」(同書、39頁)なんて、思わず「浅草!」と叫んでしまうくらい何とも色気のある論考で、私の中で野口晴哉が地霊たちとともに踊り出してしまって、いろんな意味でたまりません(笑)。
また永沢さんは、プロセス・ワークの創始者であるアーノルド・ミンデルの著書の監修にも関わっていて、ミンデルの「ドリームボディ」というアイデアを、野口晴哉の身体観に重ねて「夢見の体」と呼んでいます。
そして「活元運動」とは、その「夢見の体」のダンスが、肉体の運動となって表現されてくるプロセスなのだと言います。
以前、日本でプロセス・ワーカーとして活動されている藤見幸雄先生が、「私たちが行なっていることは相互運動(二人で行なう活元運動)なんです」と説明してくれたことがあり、プロセス・ワークでやっていることと、野口整体でやっていることとが、ストンと繋がったことがありましたが、まさに私たちはそれとは知らぬうちに夢見のままに繋がり合って交歓し合って、ダンスしているのです。
今回の講座では、みんなで活元運動と活元操法とを実習しましたが、ひょっとしたら私たちはみな、つねに活元運動をしていて、相互運動をしているのかもしれません。
何故って、私たちはいつも、もっともらしい理屈を付け、都合の良い解釈をし、さも合理的な選択をしているかのように自ら暗示を掛けていますが、みんな誰だって、やりたいことしかやらないし、見たいことしか見ないし、知りたいことしか知らないし、考えたいことしか考えていないのです。
まったく困ってしまうくらい、私たちってそうなのです。
そして「主体性」なんて本当に覚束なくって、完璧に自分で選択し決断を下したように思いながらも、そこには多くの環境要因や周囲の思惑や切羽詰まった事情によって、そうさせられている背景が大きく横たわっていたりするのです。
そういう風に考えていると、「いったい「私」って何だろう?」と途方に暮れてしまいますが、そういうこともぜーんぶひっくるめた結節点が「私」なんだと思うのです。
「私」という生き物は、自分の欲望にしか従わないくせに、周囲と感応し交歓し合ってダンスもしているのです。
「みんなのために」と言いながら自分のやりたいことをやり、「自分がやりたいから」と言いながら世のために動き、「何をするべきか」ということを常に考えているくせに、行動するときにはちっとも考えていないで、決断しているようで決断させられていて、大いに矛盾して、そして開き直って生きている。
でもいいんです。それが自然なんだと思います。
私たちは「夢」の中では、平然と時間も空間も飛び越え、主客も入れ替わりますが、じつは目覚めているときにも、それと似たことは起こっているのです。
古代人はそのことを理解していましたが、現代人はもはやそう考えることはできません。
それが「夢見の世界(神話の世界)」です。
人生は活元運動。どんな動きが出てきて、どんな結果になるのか、そんなことは分かりません。私たちにできることは、それを味わい、それを楽しむことです。
人生、大いに驚き、そして楽しみましょう。
2019年06月21日
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