2019年2月 愉気の会
「人を育てる道具文化」
今月の愉気の会は「人を育てる道具文化」についてお話ししました。
最近はまた少し変わってきたかもしれませんが、日本人というのは、「気遣い」とか「察する」とかいうことを大切にする、あるいは比較的得意な民族であるような気がします。
そういう特徴というものは、いろんな人と接するうちに人から人へと直接引き継がれていく面が大きいですが、それだけでなく、そもそもその文化の道具や環境自体が、人をそのように育てるように作り上げられている面があります。
たとえば「障子」というものは、人の目や冷気を遮り、湿気を調整し、外の明かりをほのかに中へと入れる、そのような装置として働いていますが、その家屋にいる人間に対してはある種の「結界」として働いてもいます。
つまり障子をスッと閉めることで、他人に対して何の気なしに入ることを自制させるような結界を張っている。「一寸ご遠慮願います」というメッセージになっているわけです。
ただ、これが日本文化の面白いところですが、その隔てているモノそのものは、吹けば飛ぶよな「薄っぺらな紙一枚」なのです。
基本、カギもついていませんし、入ろうと思えばいくらでも蹴り破って侵入できる、そんな儚く覚束ないモノによって、人除けをするのです。
もし本気で人除けをしたければ、もっと頑丈な扉でガチャンと締めれば良いのに、よりにもよって薄紙一枚です。
現代であれば、プライベートスペースをしっかり仕切るために、遮音効果もバッチリな壁と扉でしっかり密閉して、中でどんなに騒ごうが、外がどんなにうるさかろうが、まったく気にしないで済むようにするかもしれません。
扉を閉めた瞬間に、外界との関わりを一切遮断でき、まったく気にも留めなくても良くなる。それは確かにずいぶん気楽でホッとできます。
ところが薄紙一枚で仕切った部屋ですと、隣で何をしているのかいろんな気配が感じられます。咳もクシャミも衣擦れの音も聞こえるかもしれない。
ですが、いちおう空間としては仕切ってあるワケなので、障子という結界は、「向こうから何か聞こえても、別の空間にいるので聞こえていないことにする」という複雑な身振りを私たちに要請します。
そのような身振りが暮らしの中でくり返し反復することで、私たちの中に隣の他者に対する「気遣い」という感覚が、自ずと育まれてくるのです。
障子という薄紙一枚の儚い結界は、「切りつつも繋がっている」、そんな間合いを作り出し、人にそのような関係性の取り方を立ち上げさせます。それは強固な鉄の扉では作り出せない間合いです。
考えてみれば、神社などの神聖なところに張られる「注連縄(しめなわ)」も、ずいぶん儚く覚束ない「結界」です。
邪悪なモノを阻むにはあまりにも頼りなく、ペロンとゆるんで張ってある。大切なモノを強大で邪悪なモノから守るなら、もっと頑丈で強固な物であった方が良いのでは無いか。そう思うかもしれない。
でも違うんです。
強固で頑丈な物で守ってしまったら、人々は「コレでもう大丈夫」と安心します。
すると、それを守るべき人々の心に油断が生まれてしまうのです。神聖なものを蝕む「邪」や「魔」は、そこから侵入してくるのです。
物質的に儚く覚束ないモノだからこそ、私たちの心と精神に強固な「結界」を作り出していくのです。
そのような道具文化は、「人を育てる」ということを大切にしています。
だからあえていろいろなところに「引き算」がある。
何故なら、すべてを足して具現化してしまったら、人はもはや考えず、育たないのです。
そのようなことが加速していった社会は、もはや成り立つことが難しくなっていくことでしょう。
整体の創始者である野口晴哉は、「整体は、治療ではなく体育(教育)」だと言います。
からだを育て、人を育て、末永く人々が幸せに生きていくために、先人たちの築き上げてきた日本文化から私たちが学ぶことは、まだまだいっぱいあるような気がします。
2019年06月21日
この記事へのコメント
コメントを書く

