2017年7月 愉気の会
「忘れることの滋味」
今月の愉気の会は七夕の日だったので、まずみんなでお願い事を書きました。昨年の七夕の記事にも書きましたが、整体の願い事の書き方というのは「何々をする」と断言するように書きます。
たとえば「ハワイに行けますように」と書くのではなく、「ハワイに行く」と書くのです。それもできれば具体的な方が良いですから、「家族みんなでハワイに行って、ハワイを満喫して楽しく過ごす」と書くともっと良い。
そしてもう一つ大切な事は、一度書いたらそれをもう意識しないようにすることです。
つまり願い事を書いた紙を棄ててしまって、そして忘れてしまうのです。忘れることによって、意識の表面上にとどめるのではなく、もう少し深い潜在意識的な部分にまで落とし込んでゆくのです。
これはシュタイナー教育でも大切にされていることですが、「体験/記憶」と「忘却」のリズムというのは、人間の成長にとって深い意味を持っています。それは人間が毎日眠ることによって行なっていることと同じ意味があります。
私たちは、自分の体験したさまざまなことを、眠ったり忘れたりすることによって自分の力にしています。
それは何かを食べて消化する営みに似ています。
たとえば私たちはニンジンを食べて、それを自分の栄養としていますが、「これは私の大切な栄養だ」と言って、ニンジンをいつまでも大切に持っていてもそれは何の栄養にもなりません。
ニンジンを自分の力とするためには、ニンジンを噛み砕き、破壊し、原形をとどめないレベルまで分解してしまわなくてはいけません。
それをニンジンと呼べなくなる位にまでニンジンを破壊することによって、はじめてニンジンが自分の力となるのです。
私たちが意識できていることは、私たちにとってさほどの力とはなりません。それはいわば手に持ったニンジンです。
それはやがて何かの力にはなり得ますが、意識にある限りはどこかニンジン臭さをあたりに漂わせているのであって、まだまだ真に自分の力になったとは言えません。
私たちを突き動かす力となるのは、眠ることで、忘れられ、手放されたことたちです。噛み砕き、破壊され、そのカタチを失ったものたちです。
そのカタチは破壊され、忘れ去られてしまいましたが、その力は私たちの血となり肉となり、今この瞬間の私たちの力となって、私たちを突き動かしています。
そうやって、体験や認識が、人の意志となってゆくのです。
その意志がどこからきたのかは、私たちはもはや思い出すことはできません。
「三つ子の魂百まで」と言われる所以です。
私は昔から講座の時に、「自分の話なんて覚えなくて良い、忘れても良い、というよりむしろ聞いていなくても良い」と、そんなことばっかり言ってきました。
今でもそうですが、私は「自分の話を聞いてもらうために」しゃべるのではなくて、「私の話を聞いているうちに、ふとあることを思い出すように」しゃべりたいのです。
だから変な話ですが、私の話を聞く人がぼんやり何か他のことを考えて、「ああ、そうか〜」と一人得心しているのが、私の理想なのです。
私にとって、「滋養がある」ってそういうことなんです。
とっても分かりづらいと思いますけど、でもそうなんです。スミマセン。
なぜか謝っちゃいますけど、そうなんです。
私の話はサプリじゃ無くて、根菜なんです。
そういうことが、その人の力を呼び起こすのだと、私は思っているのです。
サプリ全盛の時代に、自分は何やってるんだろうとも思いますが、そうせずにはいられないのが、私の性なのです。そうか、だからスミマセンと謝っているんですね。なるほど。ってやっぱり分かりませんね。スミマセン。
今回、みんなに書いてもらった願い事は、講座の後にすぐ隣の代々木八幡神社に持っていって、そしてお焚き上げのところに奉納してきました。
みんなの手放された願い事たちは、燃えて煙となって、お星様にまで届くことでしょう。
そしていつかやがて、それらがみんなを突き動かす力となる日が来ることを楽しみにしています。
2019年06月21日
この記事へのコメント
コメントを書く

