2017年2月 愉気の会
「やわらかな言葉」
『人間の皮膚は生きている限り、湿度を失わぬものである。どんな時に乾くか。ギョッとしたり、望みを失ったり、空腹が長く続いたり、裡の弾力の欠けたときに生ずる。乾くことも、体の言葉として読む可きであろう。』(野口晴哉「体運動の構造 第一巻」)
今月の愉気の会は最初に野口晴哉の著書「体運動の構造 第一巻」の「乾く」という章の一文を紹介して始まりました。
この季節、非常に空気が乾燥していますが、私たちのからだも予想以上に乾いています。
あまり喉が渇いた感じがしないので気がつきづらいですが、肌が荒れたり、唇が切れたり、目がしょぼしょぼしたり、なんとなく頭が重かったり、それらはどれもからだが乾いてきている表れです。
空気が乾燥して、からだが乾いてくるというのは誰でも空想しやすいかと思いますが、野口晴哉は「ギョッとしたり」「望みを失ったり」したときに乾くと言います。「そんなことで乾くの?」と皆さんは思われるかもしれません。
私も久しぶりに読み返してみて、「おお、こんなことが書いてあったか」と驚かされました。(野口先生の本はそんなことばかりです)
言葉というのは面白いもので、一つの単語にいろんな意味が込められていたり、まったく違う分野のものを同じ単語で表現したりします。
たとえば「適当」という言葉は、「ちょうど良い」という意味にも使いますし、「だらしない」とか「いいかげん」という意味にも使います。
あるいは「あたたかい」という言葉は、物の温度に使ったり、色味に使ったり、人柄を表現するときにも使います。
言葉のこういう性質は日本固有のものではなく、世界中の言語に見られることですから、どこか人間の認知構造の中に、物事の概念を把握するときに横断的に使われる感覚のようなものがあるのではないかと思います。
たとえば「乾く」という言葉にも、いろんなニュアンスがあります。
「あの人は乾いている」と言ったときに、皆さんはその言葉にどんな印象を受けるでしょうか? ただ「肌が乾燥している」という意味以外にも何か違う印象を受けるのではないでしょうか。
そういう表現は単なる比喩以上に、おぼつかないながらも非常に繊細なある種の感覚や印象をうまく捉えていることがあるのです。
整体のような、感覚を中心として組み立てられている技法においては、物事をその場で明確に認識分析するよりも、おぼつかないものをおぼつかないままに取り沙汰してゆくことが必要なことがあります。
ですから言葉の意味を、あまりエッジを立てずにどこかふわっとさせてやわらかいままにしておいた方が良く理解できたりするのです。
現代の思考はあまりに還元主義に過ぎていて、物事を理解しやすくするために一つの概念を一つの座標に縛りつけ過ぎます。
それは限定された一つの平面内に限れば、高度な精妙さを保証してくれますが、視点が多面的になった途端、とても薄っぺらなものになったり、あるいは見当違いなものにもなりかねません。
上記の野口晴哉の言葉も、「乾く」という言葉を文字通り解釈しようとするとなんだか因果関係が飛躍しすぎて途方に暮れてしまいますが、あまり言葉のエッジを立てずにふわっと読むと、言わんとするニュアンスが伝わってくるかも知れません。
「乾く」という現象一つ取っても、その意味や原因は非常に多面的な奥行きのあるものなのです。
まあともあれ、この季節は乾かぬようにすることが大事ですから、心にもからだにも潤いを与えておくと、快く過ごすことができます。できる人は『肩甲骨はがし』もしておくと良いですよ。
2019年06月21日
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