2016年8月 愉気の会
「愉気とはともに同じ夢を見ること」
私の話はいつもそうなのですが、思いついたままにつらつらと話していくので、どんな話になっていくかはあまり意図しておらず、私自身も予想をしていない方向に向かっていくことがほぼ常のことです。
今回も愉気についての話をしていたら、「愉気とはともに同じ夢を見ることなのです」という言葉が口をついて出てきました。それだけ聞くと「何のことやら」という感じですので、ちょっとその説明をいたします。
私たちは皆、たとえ同じ物を見つめていたとしても、そこに同じ物を見てはいません。ある人はそこにAというモノを見て、またある人はそこにBというモノを見る。
それは、それぞれがそれぞれの経験や価値観から、ある見方をしているということであって、その違いについて対話をすることには意味がありますが、どちらが正しい見方なのかと問うことには、あまり意味がありません。誰もが現実を見ているようで、じつは夢を見ているというだけのことです。
気功であれ、整体であれ、あるいはありとあらゆる修養系のメソッドは、「ともに同じ夢を見る訓練」をします。私もむかし気功のトレーニングとして「気のボールを交換する」ということをやりました。自分の手のひらの中に気のボールを作って相手にパスする。相手はその気のボールを受け取って、また私の方に投げ返す。それをしばらく延々とくり返す…。
…いったい何をやっているのでしょう?
ともに同じ夢を見ているのです。見えない気のボールをやり取りしている夢です。それがハッキリとまるで実感を伴うかのようになるまで、お互いにくり返すことがトレーニングなのです。それができるようになったとき、二人は深くつながり感応し合っています。同じ夢を見ることによって感応し合うのです。
現代人としては、それが現実に起きていることなのかどうか気になるところだと思いますが、それが本当に現実のことなのかどうかと問うことは、あまり意味がありません。
科学的には大切なことです。とても大切なことです。ですがそこで何をやろうとしているのかという目的からすると、その問いは何の意味もありません。むしろ余計なことですらある。
大事なことは、二人の見る夢が重なり合うということなのです。そのためには現実はおぼつかない空虚な幻想であった方が良いくらいです。それならそこにどんな夢でも見ることができますから。
今日の講座には大勢の子どもたちが来てくれて、講座後には座布団を使って遊んでいるうちに、タワー作りが始まりました。それが大きくバランスを崩して倒れるたびに、子どもたちは大きくはしゃいで、そのカタルシスを味わっていました。
高く高く積み重ねた座布団とそれが崩れるダイナミズムに、子どもたちはどんな夢を見ていたのでしょう。そんなことを空想すると、私も何だか愉しくなってきます。
2019年06月21日
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