2012年11月17日

カタチ以前を見つめる

記事のアップが遅くなってしまったけれど、先月末に行なった氣道協会での講演&対談は無事終了。

その中で「野口整体とシュタイナー教育を結ぶものとしてのゲーテ」というものを語ったけれども、どこまできちんと語れたかは自分でもよく分からない。

でもとにかく「カタチに潜む流れ」「空間に込められた時間」というものを軸に、整体とシュタイナーに通じる教育観(人間観)というものを一生懸命語ってみた。


「シュタイナーはゲーテの正統な伝承者である」というようなことをずいぶん前にこのブログで書いたけれども、そのときの思いは今になってより一層強くなっている。

シュタイナーはゲーテの見た世界の在り方をさらに深め、その世界観に基づいた教育方法を立ち上げた。

それがシュタイナー教育だ。

そこにはすべてがつねにダイナミックに動いているものとしての世界観があり、そのダイナミズムは教育方法のダイナミズムとなって、「教育」という営み自体があたかも一つの成長し続ける生命体のようなとして立ち上がってくるように作り上げられている。


そのシュタイナーの透徹した眼差しには驚かされるばかりで、昔の記事にも書いたことだけれども、「算数の学び方の中に、道徳教育が動いている」なんていうことは、とうてい普通の人が考えつくようなことではない。

しかしゲーテ的な世界の見方で見れば、その算数の教授の中で子どもに染み込んでいく運動性や志向性は、決してなおざりにできるようなことではないのである。

そこには子どもの中で動いている「ある種の運動」を見つめる眼差しがある。

そして整体において野口晴哉が人間の中に見ていたことも、また同じようなものがあるのである。

それは言ってみれば、「カタチに潜むカタチ以前」「カタチを作る流れ」とでも言えるだろう。


そもそも私たちのカタチは、それ自体が世界とのせめぎ合いの中で私たちが出した一つの「答え」である。

私たちは世界に対して、この人体の姿カタチをもって「答え」を提示しているのである。

(もちろんその「答え」は今でも揺らぎ生成され続けているカタチであることは言うまでもない)

私たち人間の「生きる」という営みの中で、世界に対して押したり引いたり曲げたり突っぱねたりした結果がこのカタチなのであり、そして世界に対してこのカタチを示し続けるということが、つまりは私たちが「生きている」ということなのである。

だからカタチの中には、私たちの「来歴(過去)」も「現在」も「願望(未来)」もすべて顕れている。

だとしたらそのカタチをしっかり見通すことが、私たちの「生きる」というある種の運動やプロセスの理解につながってくるはずである。

その具体的な方法をシュタイナーや野口晴哉は教えてくれている。


ただ、「ボタンを押したらすぐさま結果が出る」ということを目指して発展してきた現代の合理主義的世界観の中では、そういうようなモノの見方はとても難しくなってきている。

「効率化」の名の下に、何かが作り上げられていくプロセスをどんどん省いていくということは、カタチからプロセスの痕跡が消えてゆくということでもあり、使い捨てのサイクルの短縮化はその後のプロセスによる「カタチの微修正」をも受け付けることがない。

そんな入力から結果への「プロセス」がどんどん省かれよう省かれようとしている中で、その合間の「プロセス」をもう一度見つめ直そうというのだから、それはある意味、現代人的な感覚に対して抗おうということなのだ。


けれども3・11以降、日本人全体の中にそういう志向性ははっきり高まりつつあるし、私自身これからの時代に必要な思考法であると確信している。

「モノに込められたプロセス」、それはつまり「時間そのもの」であるけれど、そういうものを見つめていくことは私たちにとってホントに大事なことなのだ。

まずはふだん何気なく見過ごしていた樹や川や海や水の流れをジーッと見つめてみるところから始めると、ちょっとずつ見える景色が変わってくるかも。

もしそのような眼差しをもって目の前の人間を見つめられれば、きっとまったく違うものがそこに見えてくるはずだ。

posted by RYO at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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