前に茂木さんの文章を書き留めておきながら、どこからの引用だかきちんと記しておかなかったので、 引用先が分からなくなってしまった文章がある。
おそらく時期から言って、『脳内現象』(茂木健一郎、NHKブックス、2004)の中の一文であると思われるのだけれど、
そのつどきちんとタイトルとページ数ぐらいはメモしておかなければならないなぁ、と改めて反省のしきりである。
……とここまで書いて、「やっぱり分からないよなぁ。」とあきらめ気分でもう一度パラパラと斜め読みしていたら、 なんと見つけてしまった!
おお! すごいぞオレ!
よく見つけた! エライ! パチパチパチ(拍手)!
というワケで以下がその文章である。
『運動制御の神経機構を見る限り、<私>という意志を持った主体があって、 その主体が脳の各領域をコントロールしているというような素朴な意味での自由意志は、成立しそうもない。私たちは、 自らの意志で自らの行動を決めていると思っているが、実際には、行動を開始する1秒ほど前に、頭頂葉に「準備電位」 と呼ばれる活動が生じることが知られている。この段階では、私たちは自分が行動を始めようとしていることを意識していない。 意識に上るのは、これ以上時間が経つと行動が実際に開始されてしまうという段階になってからである。この段階になって初めて、 「自分は今、行動を始めようとしている」ということが意識に上り、それに対して「拒否権」を行使することもできるようになる。
ここでいう「自由意志」とは、すなわち、運動出力に至る最終段階でそれを差し止める、否定的な役割としての自由意志に他ならない。 運動の生成、つまり、そもそもどのような運動をするかという「案」そのものは、意識以前の無意識のプロセスによって準備され、 意識はそれを行なうかどうかの「選択」を行なうだけであるというモデルになる。』
(『脳内現象』茂木健一郎、NHKブックス、2004、p112−p113)
ここに書かれていることは、自由意志であると思われている思考が、じつはからだに引きずられて事後的に想起されるという事実である。
私たちの意志は、からだに対して「動け!」と命令しているのではない。
すでに動き出そうとしているからだに対して「許可」を出すかどうか、なのである。
考えてみれば、からだ中の「現場」に対する指示、命令を、脳という一器官で行おうなんて、土台無理な話なんであって、 脳は現場から上がってくる企画書に「Go or No」の判断を下したら、後は現場に任せて、 次から次へと現場から上がってくる膨大な量の企画書、報告書にざざっと目を通していかなければならないのだ。
現場で何をするのかまで、いちいち社長が口を出さなければならないようなシステムでは、 とてもこんな複雑極まりない人体というシステムは成り立たない。
私は講座で「からだは勝手に動くものである」というお話をよくするのだが、そのことの意味がどこまで世間的に認知されているのだろうか、
と最近ふと思う。
「からだが指示待ち症候群」という人は世の中ホントに大勢いて、そういう人の「からだ」は「意識」に命令(正確には「許可」か)されるまで、 固まったまま律儀にジーッと待ち続けているので、見ているとこちらの肩まで凝ってきそうで、思わず「自由にしていていいんだよ?」 と手を出し、「からだ」に声をかけたくなってしまう。
けれども、痴漢だとかセクハラだとかで訴えられても困るので、私もまたジーッと我慢するほかないのであるが、私自身の「からだ」 はその我慢を発散させるために、絶えずモゾモゾと動いているので、さいわいなことに未だかつて「肩が凝る」という事態に陥ったことが無い。
なのでいつも、「肩叩いてあげる〜。」という心優しい子どもには、「凝ってなくてやりがいがない!」 と文句を言われる羽目になるのだけれど。
でも考えてみれば、学校教育の中で「自分のからだと丁寧に向き合う」ということが、一切なされていないのだから、
そういう人が多いのも当然と言えば当然なのかもしれない。
そんなカリキュラムを組んで、何時間もイスに座って話を聞き続けることの不快さに、生徒たちが目覚めてしまっては、 管理する側が困るのだから、するわけが無い。
導入するのであれば、現在の教授システムそのものを見直さなければならなくなるだろう。
学校教育として行われる体育は、いろんなメソッドはあるだろうけれども、多くはたいてい「思い通りにからだを動かすこと」を目標とする。
たしかにそれは大切なことである。
けれども世の中、バランスというものも大事である。
私がふだん、からだについての講座を行なう中で目指していることは、「思い通りにからだを動かすこと」よりもむしろ、 「思いがけずにからだが動くこと」である。
それは決して、「思い通りにからだを動かすこと」よりも、「思いがけずにからだが動くこと」の方がより素晴らしいことである、 ということが言いたいのではない。
実際、私も講座の中で、型や所作、立ち居振る舞いなど、「思い通りにからだを動かすこと」の稽古も行なっているし、 それもまたとても大切なことであることは確かである。
それでもなお、「思いがけずにからだが動くこと」を強調するのは、現代という時代が、あまりに「思い通りにからだを動かすこと」 にのみ価値を置きすぎているので、そのバランスを取るために、あえて「思いがけずにからだが動くこと」の重要性を強調せざるを得ない、 というそれなりの事情があるからである。
であるので当然、反対に、あまりに「思いがけずにからだが動くこと」に偏重している人があれば、まったく正反対に 「思い通りにからだを動かすこと」の必要性を語るので、しばしば言っていることが矛盾していたりするかもしれないが、 それは上記のような理由からであるので、そんなときはどうか、「テキトーなこと言いやがって。」とお怒りにならないでいただきたい。
お願い。


叩かれちゃったんですね……。
>現代という時代が、あまりに「思い通りにからだを動かすこと」 にのみ価値を置きすぎている
なるほど。
それに、からだだけじゃないですね。
進学先とか、職業とか、就職先とか、なんでもかんでも「思い通りに」せよ、と煽っていますね。
各方面に力が入っている感じ。
どんな動作でも、そこに意味とか目的とか効果とか、そういうものをくっつけないと納得できずに動けないのは、もう現代病の一つですね。
人間そんなに深く考えて動いているわけじゃない、ってことは今までの自分を省みてみれば分かると思うんですけど…。
「もうちょっと他力に委ねましょうよ」と、ソッとつぶやいてみたりして。
遊びはもちろんのこと、家事についても、
私がたたんだ洗濯物を、その場にいる私が気づかないほど
自然に片付けてしまっていたり。
それが本当に自然で驚いてしまう。
それに比べて私は、、
洗濯しなきゃ、ご飯を作らなきゃ、
そう言えば、快気法やらなきゃ、と
一生懸命考えてバタバタと行動していて、
ちょっと恥ずかしい。
意味とか目的とか、そういうものから離れて、全身全霊今ここに浸っている。
私はそこに「神の業」を見て仕方が無いのですが、自由闊達、融通無碍、誰もが一度は経てきたその在り方を、もう一度、次数を一段繰り上げた形で身につけるというのが、私の人生の目標であります。
神は遊びの中に宿るのだ。
そうそう、極端に頭でっかちなんですね。
たまには頭をほっとくのもいいんじゃないでしょうか。
(と書きながら、これは自戒だとも感じてます)
「他力にゆだねる」ということばの謙虚さがいいですね。
いろいろくっつけようとするのは傲慢というか、いささか分をわきまえない行いのような気がします。
ところで、深く、というよりもほとんど考えずにしたことが思いがけず発展していく、という体験をひとつ、このごろしています。
ブログに書いたので、RYOさんは読みに来てくださってるかもしれませんが、トラックバックさせていただきます。
今でもその傾向はありますけど、私もかつてはかなりの頭でっかちでしたから、そんな自分に対する戒めの言葉でもあります。
「分をわきまえる」というのも、いい言葉ですね。
我を張らず、他力に委ね、いい塩梅でいきましょう。
そういえば「旅するCDプロジェクト」なんて、まさにそのとおりですね。
気持ちよく手放したところから始まった、音めぐり。
完全なる他力で日本中を旅するCDは、その在り方に見習うべきところがあったりして。
私もトラックバックさせていただきますね。
いろいろと、アレコレと、気が付くとず〜〜っと
考えたり思いあぐねたりしています。
大切なお話をしていただきました。
では、その頭でっかちな子どもたち、さらには大人たちを
ほぐしてゆくには…その糸口を見つけるのも
もしかしたら「降ってわいたように」「出会いがしらに」とか
「出たとこ勝負」って感じのほうがいいのでしょうか?
その都度、自然体でそれらに迎えるように
いつも一呼吸しつつ、RYOさまのように
ゆったりしていたいなぁと想いました。
素敵なお話を、ありがとうございます!!
いいですね(笑)。好きです。そういう構え。
未来のことも、あんまりいろいろ考えているとだんだん不安になってきてしまいますから、何が起こるか分からない「未来」よりも、まさにリアルである「今」を見て感じれば、やるべきことはもっとシンプルにダイレクトに分かるような気がします。
というよりひょっとして、考えるより先にからだは動いてしまっているかもしれません。
アタマは、そのからだのやりたいことをやりやすいようにサポートしてあげる…そんな関係が意外と良かったりして。
感慨深く読ませていただきました。
「思いがけずにからだが動くこと」
これ、今の私にとっても必要なことです。
まぁとにかくハンパじゃないくらい「頭で考えている」んです。
「○○しなきゃいけない」とか、常に頭でぐるぐるしています。快気法していても、「うーーっ 筋肉に力入れちゃっているけど、だめなのかなぁ? でもあくびが出たし・・・ 間違っているのかなぁ??」など、一体何しているかわからない状態です(恥)
「神は遊びの中に宿るのだ」
日常生活は、これにつきます。神遊びは私も前から目標としております。
いいお話、ありがとうございます。
でも、からだが動いていれば、それに伴っていろいろな思念が湧いてくるのは当然と言えば当然なんですよね。脳もからだの一部ですから。
大事なのは、それに捉われずに感じたままにしておくこと。
たとえば、「右手に何か違和感があるなぁ…」というのは感じたままですが、「この右手の違和感は何だろう…」というのは、「判断」の領域に入っています。
当然、「良い」とか「悪い」とか、そういうのもすべて「判断」ですが、「感じたままに即興で返す」のが「遊ぶ」ということですから、まずは感じたままに動き、その意味は終わってからじっくり考えてみてください。
あるがまま、神ながらの、神あそび。
「思いがけずに」でた動作が納得のいくものかどうかは毎日を想いの通りに生きているかがでるのかな〜と思ってみたり。自由闊達、奥深いです。
部屋に帰れば知らない人が寝ていたり、自分の部屋なのに「貸して」と言われて追い出されたり、OBの襲撃があったり、台風で雨漏りしたり、猫が食べ物あさっていたり、知らない服が増えていたり、取って置いたビールが無くなっていたり、オーディオが壊れていたり、壁に穴が開いたり、酒が舞ったり、マヨネーズが舞ったり…。(マヨネーズは見事だったなぁ…)
自分の手の届かぬところで、世界は粛々と進行してゆくという事実に、そのつどどう振る舞うか、まるで禅問答の公案でも受けているようなもの。
「思い通りにしよう」なんて、そんな小細工が通用するような世界でなかったけれど、考えてみれば「そんなところに住んでいた」という事実が、ほとんど奇跡。
「思い通りに生きる」のではなく、「想いの通りに生きる」。
これまた素晴らしい言葉が飛び出てまいりました。
わだっちに言葉の神様降臨。
2年近く前の自分の言葉に再び出会って
苦笑しています。
変わっていないようでいて螺旋階段を二めぐりして
また違った景色を見ているのでしょうね…
思いがけず…また良いきっかけをいただいて
本当にありがとうございました。
(自由意志のくだり…最近の茂木先生のお話も気になりましたが)
なかなか「一歩を踏み出せないでいる人」を
見守っていくには、待つほうにも余裕や覚悟がいるのでしょうか?
時が経つのは早いものです。
私たちも気がつかないうちにいろいろ変わっているんでしょうね。
考えてみれば私たちが成長するということも「思い通り」というよりは、
「思いもよらず」ということのほうが大きいかもしれません。
自分自身についても他人についても、じっくりと「そのときを待つ」ということは
大切なことなんでしょうね。