2012年08月28日

カタチと境界

ご存じの方も多いかもしれないけれど、隈研吾さんという建築家は「負ける建築」というコンセプトで建築設計を行なっている面白い方である。

(「負ける」というコンセプトは、野口体操の創始者である野口三千三先生もおっしゃっていたことである。「負けて、参って、任せて、待つ」。)

「負ける建築」と言っても、何も吹けば飛ぶよな家を建てようということではない。

その建築を建てる土地や気候や風土に「勝とうとしない」ということであり、もっと言えばそういうものと「勝負しない」そんな建築のことである。

もともと日本の建築文化は、「自然を征服しよう」という気のさらさらないようなものであった。

そうでなければ、障子のような「薄紙一枚張っただけの仕切り」など、思いつこうはずもない。

日本の建築はどちらかといえば「自然と折合いを付けていこう」という思いがある。

日本人の世界観には「一緒に生きていかなければならないモノとは、勝ち負けを決しない」というような考え方がある。(勝ってしまうくらいならむしろ負けておけと古人は言う)

それは長い経験に裏付けられた偉大な「人類知」であると私は思うが、その思想が建築そのものの中にも現れていた。

それが隈さんの言う「負ける建築」というコンセプトなのだと思う。


その隈さんの『境界』(隈研吾、淡交社、2010)という本を、夜中に晩酌しながらパラパラと読む。

良い本である。

スキマとかアワイとかハザマとか、そんな「境界」好きの私にはもうたまらない。

「境界」というのは、隈さんの言う「負ける建築」というコンセプトにおいても大事な概念であるのだが、この本の中では、さまざまな日本の「境界、仕切り」を美しい写真とともに紹介されている。

垣根、障子、暖簾、欄間、犬矢来、枝折戸、土間、衝立、屏風…。

私たちの祖先はなんと美しい「境界」を、身の回りに作り上げてきたのであろうか。


私たち日本人は聖域に注連縄をしめ、紙垂を垂らす。

それはもちろん「境界」であり「結界」の意であることに相違はないが、あんな弱々しい縄や紙切れに、邪悪なモノの侵入を拒むだけの力があると本気で信じるほど、私たち日本人の祖先はナイーブだったのだろうか。

いやいや、そうではない。

結界とは「人間の心の中に張るモノ」だからこそ、古人は具象としては極めて儚く覚束ないものに、その働きを仮託したのだ。

ドデカイ鉄板とか巨大な石塀とか、そんな強固な具象物をどかどかと積み上げて結界を張ったなら、やれやれと安心してしまって、それがいつか心のどこかに油断を招き、やがて綻びを生んで「本来の結界」が破られることになるかもしれない。

それはマズイ。

大事なことは「いまの私たち」が束の間の安心を享受することではない。

魔を防ぎ護り抜く「結界」が、子孫代々末代までも連綿と受け継がれ、護り続けるために、「いまの私たち」は何をすべきなのか。

おそらくそんなことを古人たちは考えたに違いない。

「物質的に儚きモノが、霊的な強さを保持する」ということはよくあることである。


日本の「境界」は、どれもどこか「壊れやすさ」や「儚さ」というようなものを帯びている。

壊そうと思えば壊せるし、乗り越えようと思えば乗り越えられるような「境界」だからこそ、「壊さない」「乗り越えない」という自制の心をその前に立つ人の心に呼び起こす。

日本の「境界」の立ち上げ方には、その前に立つ人間の心に「託そう」とする意匠がある。

『あなたの「律する心」に任せます』という思いが、カタチとなってある。

そのようなカタチに囲まれて育てば、やはり人の心もそれに応えるように育つだろう。

そんな相互作用的なカタチを、私は限りなく美しいと思う。


そんな美しい日本の「境界」を説明する隈さんのコメント。

「暖簾」
通過の際、頭を下げず、手を使わない人は稀である。わずかでも頭をかしずかせ、手を使わせる「弱い力」が、思いのほか強い力となって、人に空間の質の違いを認識させる。

「玄関」
「バリアフリー」という聞こえのよい言葉で画一化された空間とは一線を画す。通過時に身体に負担を強いるほどの段差。身体がそう感じるからこそ、意識にも確かな変化が刻まれる。

「垣根」
乗り越えようと思ったら、簡単に乗り越えられる。その抑制は、見る者の良識に委ねられる。仮設性の強い、意識に「待った」をかけるためのまじない。
(前著より抜粋)

たぶん私たちは、こういうことを念頭に置いた「暮らしの作り方」を、もう一度模索していかなくちゃいけないんだと思う。

posted by RYO at 15:02| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
欧州や中国では都市は城壁に護られたものだった。壁の向こうに居たのは、察し合うことの期待出来ない異民族だった…。壁が戦乱で破られた時、凄惨な破壊略奪陵辱が何千年と彼の地では繰り返されてきた。そういう人達の末裔と今この国は領土紛争とかやっている訳ですな。日本人同士なら今でも辛うじてこういう感応的な空間の「間」仕切りは出来るのでしょう。それは素晴らしいし、この国に残って行って欲しいと切に思います。ただ欧州、中国、大陸の人達の感応以前に通じ合えない(だろう)他者への絶望感とそこに由来する諸々の事も理解していないと国際社会では生き辛くなっちゃうのかな〜と思えたりします。悲観的ですかねー。
Posted by 風 at 2012年08月29日 01:02
「外来種」の問題は、島国にとって永遠の課題かもしれませんね。
たしかにそこにある狭間は広大な海に隔てられた分だけ、
なかなかお互いに共有できないものがあります。

けれども日本の持つ「方法」自体、つまり徹底して相手へ入り込んでいって、そこから何か本質をつかんで戻ってきて、そしてそれに倣いそれを模したカタチで「境界」を立ち上げる。そんな日本の方法自体は、そういうことも含めた上での方法として、さらに深化し、発展できる余地がまだまだあると思います。

日中韓の間にどんな「境界」を私たちは立ち上げてゆくか。
現代を生きる私たちの力量が問われるところかもしれませんね。
願うならば千年先まで「これは見事であった」と言われるような間仕切りを
ぜひとも立ち上げ、子孫に遺していきたいものです。
Posted by RYO at 2012年08月29日 08:34
レスして頂き恐縮であります。

「壁」で他者を隔離排除していく文化と、他者と空間を共有しながらも畏れと慎みをもって「間仕切り」する文化の間で深い交流対話が持たれ、新たなる何かを産み出せたら素敵でしょうね。

地元の図書館に「境界」がありました。日本に伝えられている「仕切り」という空間の演出の知恵に見とれてしまいますね。ご紹介ありがとうございました。
Posted by 風 at 2012年08月29日 21:35
お、さっそく探して見てみたんですね。
美しい境界の写真たちに見とれてしまいますよね。
ホントに何というか、控えめにわきまえながらそこにはっきりと境界を立ち上げている。
そんな在り方に私はもうやっぱり参ってしまうのです。
Posted by RYO at 2012年08月30日 08:56
こんにちわ

二年前、一冊目の本が出版されたさいに

クレヨンハウス主催の子育て講座に妊婦として参加させていただいたものです。

そのときに山上先生に新大阪の講座を教えていただいたのですが
なかなか行けず・・・

やっと見つけた昨日の京都の講座
いく予定だったのですが、娘が発熱で行けず・・・

残念で・・・・

また関西に来られる機会はございますか?

あれば、教えていただくことなどはできますでしょうか?
Posted by michiyo at 2012年10月16日 07:56
こんにちは。コメントありがとうございます。
昨日の講座に参加される予定だったんですね。
お子さんが熱ということで残念でした。

今回主催してくださった方がまた来年の一月に講座を企画していますので、
そちらの方に連絡してみれば詳細を教えてくれると思います。
メールで送っておきますので、連絡してみてください。
お会いできるのを楽しみにしております。
Posted by RYO at 2012年10月16日 09:09
こんにちは。

趣味である日、人体図をみていたときに剣状突起と尾骨の尖がりがやけに類似しているとおもいました。

剣状突起のあたりは、緊張、不安などの反応がでる部位ですし、尾骨は犬などにとって感情を表す部位と聞きます。

剣状突起と尾骨ってこっそり結託して何かしているのでは?と踏んでいるのですがRYOさんはどう思われますか。

変な質問ですいません。
Posted by mitsu at 2012年10月28日 11:03
おお、そうですか。
剣状突起と尾骨のつながりについては寡聞にして知りませんが、
どちらも突端ということで類似点はありますし、
何らかのつながりがあってもおかしくはないかと思います。
それがどんなつながりなのかは実際に触りながら追いかけてみなければ分かりませんので、私もこれから少し意識して触れてみたいと思います。
もし何かつながりが発見できたらぜひぜひ教えてください。
Posted by RYO at 2012年10月29日 00:10
そうですか。
わかりました。

なにか熟成するものがあれば(されないかもしれませんが)、またコメントしたいと思います。

Posted by mitsu at 2012年10月29日 17:33
「カタチが似ている」というのは、予想以上に深いつながりがあることがありますからね。
昔の学問はその「象」を観るということが本筋でしたから、
いわば人類にとっては古典芸であると言って良いでしょう。

今ではそんなアプローチはやや置き去りにされてる感も否めませんが、
整体やシュタイナーといったものの中ではむしろ基本の観察法ですから、
「似ている!」という直感の下に、あとはどのように似ているかを
具体的に探っていけば、実際にいろんなことが分かってくるかもしれません。
もし何か分かったときにはホントにぜひぜひ教えてください。
Posted by RYO at 2012年10月30日 00:21
素っ気のないコメント失礼しました。

また何か気づくことがあれば、改めてまたコメントを書きたいと思います。

どうもお邪魔しました。
Posted by mitsu at 2012年11月01日 09:15
いえいえ、そんなことありませんよ。
こんなささやかなブログにコメントを頂けるのはいつだって嬉しいです。
またどうぞいつでもお越しください。
Posted by RYO at 2012年11月01日 16:58
こんにちは。
この記事をふと思い出し
私にはそのせつなく美しい結界を
壊す勇気は全く無いことに
気付かされました。

そのことに気づけたことがあまりにも
嬉しくてコメントというか、詩を書きました。



水をかけたら

とけてしまいそうな

はかない結界を

美しく繊細に

荘厳されたら

それを壊す勇気は

全く無いです

それどころか

守って差し上げたく

想います

音すらたてないように

おじゃましましたと

静かに

失礼致しましょう

また一つ

大切な人から

大切なメッセージを

分けたもらった

愛(かな)しみを

気楽に

身軽に

そして時々

思い出して気長に

大切に大切に

考えてゆこうと

おもいます

それは未来からのメッセージ

いつの日か

その未来からのメッセージに包まれて

過去からのメッセージを

手放してゆけるのかなと

不思議におもわれるのです
Posted by yoshi at 2013年03月28日 10:23
コメントを頂いて、私も久しぶりに自分の記事を読み返しました(笑)。
素敵な詩をありがとうございます。

騒々しい世の中で、
大きいもの強いものばかりがこちらに飛び込んできますが、
こちらの心をシンとさせ、静けさを呼び起こすものは、
微かなもの儚きものたちでありますね。

私も何かそこには時間というものが込められているような気がしてなりません。
たしかにそれは未来からのメッセージであるやも知れませんね。
Posted by RYO at 2013年03月28日 12:42
無数の星の一つに

成れたのなら

うれしいな

その星はどの星よりも

遠くにあって

一番小さくて

もしかしたら

見つけ難いかもしれないけれど

それでも輝いているんだね

いつの日か

流れ星に成って

落ちて往くときに

その星に気がついてくれて

願い事をしてくれたら

かなえてあげられるのかな


だけど

あまりにもの美しさに

見とれてしまって

願い事をするのを

忘れてしまって

いつの日か

誰かにとって

無数の星の一つに

成れることが

嬉しくて

寒い夜空の

満天の星の下で

じんわりと

あたたかいつながりを

感じるのかな
Posted by yoshi at 2013年03月29日 05:39
星の輝きはみな数百年数千年前の輝き。
それがいま小さな地球の小さな私たちの目に届いている。
それだけで計り知れない奇跡ですね。
何もない宇宙空間をものすごい速度で数千年疾駆し続ける光の気持ちって、どんなんでしょうね?
そして数千年の疾駆の後に私たちの目に飛び込んだ気持ちって、どんなんでしょう?
Posted by RYO at 2013年03月29日 20:19
その気持ちをお金で表現することはできても
買うことはできないのかもしれません。

お金で便利さは買えるかもしれないけれど
その時間と距離は買えないどころか
失ってしまうこともあるのかもしれません。

その時間と距離を無駄と考えていたら
失ったことに気づくことは難しく
自分の都合ばかり考え
相手の意思を尊重することは難しいのかもしれません。

Posted by yoshi at 2013年03月30日 06:14
お金とか合理性とか、そういうものは取り扱いが難しいですね。
決して悪いものではない。いやむしろ素晴らしいものである。
だがしかしそこにある陥穽に気づかぬ者はゆっくりと腐敗していくことになるのです。
その二つに共通するキーワードは「時間」ですね。
私たちは「自分の時間」というものを取り戻さなくてはいけないのかもしれません。
Posted by RYO at 2013年03月31日 21:18
腐ってゆく人の傍に
病んでゆく人あって

助けを求めようとは思わなかったのは
みんなの歓びを壊したくなかったから?
みんなの幸せを願ってお星様になったの?
はぐらかしたり
ごまかしたり
ウソついたりして

友だちがいても
家族がいても
食事療法でも
癒えない痛みを避けたくて
病む苦しみを恐れ
腐ってゆく私に有り難いご忠告
かたじけなく思います。
Posted by yoshi at 2013年04月02日 00:23
腐敗と発酵は紙一重。
どうぞ腐らずに発酵して参りましょう。
Posted by RYO at 2013年04月03日 22:11
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