2006年10月30日

カオスに舞う胡蝶

「バタフライ効果」と呼ばれる現象がある。

バタフライ・ エフェクト』というそのままのタイトルの映画が2年くらい前に上映されていたので、 どこかでその名前を聞いたことがある方も多いと思う。

「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」という表現でよく語られる現象である。

これは、地球の気象のような、あまりにも多くのファクター(因子)が介在するシステムにおいて見られる現象で、 このようなインプット(入力)とアウトプット(出力)の関係が、単純な比例関係になく、 線形方程式では表わせないようなシステムをカオス(混沌)と呼ぶ。

このことは自然界の現象にとどまらず、経済の市場動向や株価の変動といった人間の活動においても見られる現象であり、 今さかんに研究が進んでいる分野でもある。


あるシステムを構成する因子が両手で数えられる程度の数であれば、その組み合わせもたかが知れたもので、 そこにはランダムさの入る余地はほとんど無く、起こりうる事態は単純な計算と思考で導き出すことができる。

けれども、その因子(自由度)が100、1000、10000とどんどん増えていったときには、 その増えた因子そのものの振舞いの複雑さもさることながら、増えた因子の組み合わせの数は級数的に増加し、 その複雑さたるや空想することすら困難な状態になる。

そのような状態になったときには、単純な状態では無視できるくらい小さかった初期のズレやノイズ、ランダムさが、 計算結果に大きな影響を及ぼすようになり、線形方程式が成り立たないカオスの世界へと突入する。


私たちはふだん何気なく、立ったり、歩いたり、料理をしたり、仕事をしたりして、日常生活を営んでいるが、 それらのことがどれだけ複雑な事態の上に成り立っているか、考えたことがあるだろうか。

私たちのからだは、ロボットと違って「やわらかい」。

「やわらかい」ということは、それだけからだが自由に柔軟に変化するということであるけれども、それはつまり、 私たちがからだを動かすときにとり得る行為可能性が、ものすごい数の組み合わせを有しているということに他ならない。

私たちが現実に何か行動しているということは、 毎回その無限に近い選択肢の中からたった一つの組み合わせを抽出しているということであるが、先ほどの話を考えてみれば、 ある行動を取ったときに、「あらかじめ計画を立て、その通りに選択した行為の結果」という語り口で説明することは果たして可能なのだろうか? という疑問がわく。

果たして「意図(入力)」と「行為(出力)」は、そんなに単純な線で結ぶことができるのだろうか?


義手のロボット化などを研究している研究者によれば、ロボット化においてもっとも難しいのは、「水道の蛇口から出る水をコップに入れる」 というような操作であるらしい。

「コップに水を入れる」なんて、私たちがふだん何気なくやっている行為であるが、実際にどういう現象が起きているかというと、 徐々に水がたまり重くなってゆくコップを絶妙な加減で持ち上げながら、握る強さも割れない程度に徐々に強くしていって空中で静止させ続ける、 という芸当を私たちはやってのけているのである。

ほかにも「生タマゴの殻をボウルの縁で割って、中身をボウルに入れる」という作業など、ロボットには劇的な困難さを要求する。

何しろそれは、タマゴの殻にヒビが入るほどには強く、けれども破壊するほどには強くない、 絶妙な加減でタマゴをボウルにぶつけたいのだけれど、その加減をタマゴを割らずに探る(割ってからでは遅い)、 というもう尋常でない複雑な芸当なのである。


そのように複雑な人間の運動というものを、非線形という複雑系科学が登場する以前の生理学モデルでは、単純な知覚があり、単純な動作がある、 というまさに線形的な思考で、なんとか説明しようと努力を積み重ねてきた。

そのときに、どうもそれらの考え方ではうまく説明できないのではないか、という疑問を抱いていたのがロシアの運動生理学者ニコライ・ ベルンシュタインである。

彼は、今から半世紀以上も前、パブロフの反射理論が主流だった時代に、「運動制御の本質は自由度問題である」と主張して、 手を動かすという単純な行為でさえ50以上の筋肉と18の関節が介在する運動に、単純な「知覚―運動反射モデル」 を導入することの疑問を投げかけた。

彼の提起した「仮定された中枢的な制御によらない運動の説明はできるのか?」という問題は、彼の名前をとって「ベルンシュタイン問題」 と呼ばれ、現在ではどの運動研究でも必ず言及されるくらいのテーマとなっている。

ベルンシュタイン自身はその問題の解決に向けてのアイデアを、いくつか遺稿に遺していて、 それをアフォーダンス研究で有名な佐々木先生が著書で紹介している。


『一つは、「運動」を、身体という境界を越えて、 運動が行われている環境にあることにまで拡げ、そこにあることと一体の「大きなシステム」と見なすことである。たとえば、 スキージャンパーが空中でしている、全身のかすかな動きは、変化し続けている風向きや風の速度変化と接続している。ジャンパーの 「空中姿勢」という運動は風や重力と一体にしか記述できない。

 運動を環境と一つのものととらえる考え方は、運動に起こる障害のリハビリテーションの現場にも浸透している。 たとえば持続して一定の歩行をすることに障害が現れるパーキンソン病のリハビリに、路面に一定の幅の縞模様を描いておいてその上を歩く、 という方法がある。われわれの歩行リズムが、部分的にではあれ、路面にある見えのリズムに同調していることを利用する治療法である。

 ベルンシュタインの提案した第二の解法は、運動に起こる変化、つまりその発達が、 運動を構成している、より「小規模の運動」間の関係によって生じてくるとする考え方である。

 この発想をこれもパーキンソン病のリハビリに応用した試みがすでにある。ゆっくり歩くことから、 速く歩くリズムへとうまく移行できない患者の両脚の交替運動を改善するために、二脚の運動に、両腕の交替運動を「付加する」。 つまり通常の歩行において加速という変化を可能にしている下位運動の一つである、両腕のリズミックな交替運動を、 全身の動きのシステムに「投入」する。大きな協調システム(この場合、高速の歩行)を可能にしている下位運動を身体に観察し、抽出し、 それを大きなシステムに「投げ入れる」ことで、うまく動けていない運動全体を変化させるという方法である。』
(@『知覚はおわらない』佐々木正人、青土社、2000、p256−257)


床に描いた格子模様によって歩けなかった患者が歩き出すという驚くべき出来事(逆説的歩行)は、ロバート・デ・ニーロとロビン・ウィリアムスという実力派二人が好演した映画『レナードの朝』の中で、感動的なシーンとして描かれているが(イイ映画。オススメです!)、 床の模様という視覚的なリズム情報によって、足のリズム運動がサポートされるという、 見事なまでに繊細な協調作用をもつからだには改めて驚かされるばかりである。

しかも、それが実際の臨床のリハビリに生かされているのだから、また素晴らしい。


第二の解法として紹介されている「小規模の運動をより大きなシステムに投げ入れる」ということもそうだが、ここに描かれていることはともに、 「複雑な身体のシステムを、もっと複雑なシステムに組み込む」ということである。

ふつう、複雑な難問を解決しようと思ったら、できる限り単純に簡単にして捉えやすくしようと、誰もが考えると思う。

けれども、ベルンシュタインは全く正反対の解法を提示する。

「もっと大きくて複雑なシステムに組み込め!」と。


「そんなことしたら、ますます複雑になってワケ分からなくなるじゃないか!」

と、誰もが考えると思う。

私も思う。

けれども現実のリハビリにおいて、それによって運動の巧みさが取り戻せるということもまた事実である。

そして興味深いことに、「より複雑にしたらうまく協調しはじめる」という、このなんだかとっても分かりづらい現象は、近年、 複雑系科学の研究が進む中で、似たような現象が見られはじめたのである。


『ロジスティック・マップは構造不安定性を持っており、 パラメター(原文ママ)を無限の精度で設定しない限り、運動を制御することができない。ところが、そのロジスティック・ マップを多数連結したシステムでは、パラメターの組合せを決めると、ある種の運動のありかたを安定的に取り出すことが可能となる。 つまり、構造不安定な素子を結合したシステムに、構造安定性が見られるのである。

 あるいはまた、ある種のカオスにノイズを加えることで、秩序を創り出すことができるという観察が知られている。「ノイズがある」 ということは、カオスになんらかの「外部」が接続されている、ということであり、カオス単独の場合よりシステムは複雑になっている。 ところが、カオス単独の場合よりも、「カオス+外部」というより複雑な場合の方により高い秩序性が見られるのである。』
(@『複雑さを生きる』安富歩、岩波書店、2006、p121−122)


なんと、最近の研究では、複雑な系どうしを連結したり、複雑な系をそれだけで閉じずに外部とつなぐ、 という一見さらなる混乱を引き起こしそうなことをすると、 逆にある種の秩序が浮かび上がってくるという現象があることが分かってきたのである。

う〜む…そうであるか。

ここに何か、複雑なものを複雑なままに取り扱うためのヒントがありそうな気がするのは、私だけではあるまい。


「私たちが運動する」という複雑な事態は、複雑なからだに複雑な環境を組み込んで、それこそものすごい自由度(因子)の集合現象として、 引き起こされている。

私が講座で「からだを動かす」ことを指導する中で、「そのような複雑な事態に、私はどう関わっていけばいいのか?」 ということに悩んだとしても、ここまで読んでいただけたみなさんには共感していただけると思う。

「いったい目の前に起きているこの複雑な事態に、どう声をかけ、どう手を出せばいいのか?」

そのことの解決は容易ではない。

けれども、その解決に向けてのアイデアもまた、ベルンシュタインは私に与えてくれている。

「もっと大きくて複雑なシステムに組み込め!」と。


そうなのだ。

「あなた」という複雑な事態に私ができることは、もっと複雑なシステムの中に「あなた」を置くことなのである。

「あなた」という複雑な事態を「閉じた系」からまず「開かれた系」へと導き、それを「私」という複雑な系と結び付けてみたり、 あるいは「場」というより大きな複雑なシステムに組み込んで、上位の協調作用の中に巻き込んでいくこと。

私は、そのための触媒であればいいのだ。

私も、私の言葉も、私の所作も、そんなことは別にどうでも良い(は言い過ぎか…)。

みなさんが、みなさんを含めたより複雑なシステムを瞬時にパッと立ち上げ、さらにそこへスッと入り込める、 そんな技法を身に付けていただけさえすれば、構わないのである。

私の語る言葉や触れる手は、そのきっかけである。


『人間は、実行不可能と思われるような複雑な操作を実現するために、 自らのシステムの中の複雑さを利用する、という手法を用いているのではなかろうか。 対象とすべきシステム(投手の場合はボールの流体力学的複雑さ)を制御するためには、 身体の非常に多くの部分を参加させて複雑なシステムを用意し、これを対象システムに接合し、複雑さをさらに高くすることで、 そこの安定的なダイナミクスを創り出していると私は解釈する。このとき、 強い非線型性の作動を前提として成り立つ操作性を実現することが可能となる。とはいえこのやわらかな制御は、 線型的なシステムを操作するのとは全く違う話である。

 コーチの単純なコマンドは、 このような操作可能な部分をとりだすことで可能となっていると予想される。 システム(ボール+選手)の持つ複雑さとさらにそれに働きかけるコーチの判断・思考回路という複雑さを接合し、 そこでさらに高次の操作可能性をつくり出すことで「指導」という現象が可能となり、それを単純なコマンドで操作している、 ということになろう。それはコーチと選手が双方向にコミュニケートするなかで、ひとつの複雑なシステムが構築され、 そのなかでコーチングという現象が立ち現れるような力学が構成されることで実現される。 選手とコーチのコミュニケーションの構成するコンテキストのなかで、単純なコマンドが意味を持つ形でたち現れることで、 操作可能性が見えるのである。

 ベイトソンのイルカの訓練を思い出していただきたい。 飼育係とイルカの信頼関係を前提として、上位のコンテキストに到達することで、イルカは新しい動きを獲得した。 それと同じ結びつきが選手とコーチの間に形成されたときにのみ、指導は可能となる。
問題は、このようなコーチングの手法が非線型性と自由度の高い複雑なシステムを、やわらかな制御によって実現していることを忘れ、 線型システムを操作しているかのように認識してしまったときに生じる。』
(@『複雑さを生きる』安富歩、岩波書店、2006、p124−125)


う〜む。

指導する者として、最後の文章は、とくに肝に銘じておかなければなるまい。

精進、精進。

posted by RYO at 22:22| Comment(16) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おお、『レナードの朝』。
これまででもっとも大量の涙を流した映画です。
見ながら(映画の半分以上)号泣、見終わっても涙滂沱でありました。

しかし、その、床の格子のエピソード、そんなのありましたっけ?
全然覚えていないのです。
見直してみます。
Posted by ukiki01 at 2006年10月30日 23:10
おお、ukiki01様も『レナードの朝』に感動いたしましたか。
素晴らしいですよねぇ。私も涙なしには観れませんでした。
「アルジャーノンに花束を」にも通じる感動があります。

私も最後に観たのは10年くらい前の話になるのですが、途中のエピソードでそういうシーンがあるんです(あるはず!)。
それを観たときには「へぇ〜」と思いましたが、そのときはまだそのことのスゴさがよく分かっていなかったかもしれません。
自分で触れておいて何ですが、私も改めて観てみたいと思います。
Posted by RYO at 2006年10月31日 00:03
そうそう、たしかにアルジャーノン(これもまた涙なしに読めません)に通じるものがありますね。
ストーリーのうえでも、主人公がいったん前進するもののまた後退してしまうというところが共通していますし。

そうか、床の格子のシーンはRYOさんにとって印象が強かったのですね。なるほど。
Posted by at 2006年10月31日 11:57
ごめんなさい、
上の投稿も私です。
名前とURLを入れ忘れていました。
Posted by ukiki01 at 2006年10月31日 11:58
思えば「アルジャーノンに花束を」を読んだのも、高校時代だったか浪人時代だったか…。
「なんか題名をよく聞くから」みたいな、そんな理由から手にとった覚えがありますが、主人公(名前忘れた…)のラストのセリフなんて切なくて切なくて、たまりませんでした。
ひとときの夢。うたかたの幸。切ないですねぇ…。
Posted by RYO at 2006年10月31日 19:06
RYOさん、こんばんわです★
すごい!!この記事!!思いっきり勉強してしまいました!!
床の格子がパーキンソンの歩行の改善につながるなんて。「レナードの朝」っていう映画、絶対観てみます(・ω・)/
RYOさんの博識&頭の良さがうらやましいです。私は自分自身ががカオスなので、患者さんに関わると、カオスがカオスに関わって、物凄いカオスです、毎日(笑)目指せ、脱・線型です。
記事で紹介されていた本も頑張って読んでみたいと思います!大変そうだけど、すごい世界を知れそうでドキドキします◎
Posted by YUKI at 2006年10月31日 22:40
お、そうでありますか。それは良かったです。
でも「床の模様」と「歩き方」が関係しているなんて、ホントに不思議ですよね。
環境が人間の行動にどれだけ影響を及ぼしているか、よく分かる現象です。

私もかなりカオスなたちですが、YUKIさんもカオシィですか?
いいですねぇ。カオスレンジャーでも結成しましょうか?

カオスレッド!
カオスブルー!
カオスイエロー!
カオスグリーン!
カオスピンク!

5人揃って大混乱!(笑)
Posted by RYO at 2006年11月01日 00:48
爆笑です!!
Posted by YUKI at 2006年11月01日 22:59
(爆)
カオスグリーン! 
立候補させていただきます。

普段は自然農の畑で雑草と作物と虫の中に
のみこまれている、という設定で。

Posted by 亜弥 at 2006年11月03日 22:42
お、それは招集がかかると「なきがらの層」の中からむくむくと起き上がってくるということですか?
…ってそれじゃまるでゾンビ(笑)。

じゃあ私は、隊員の憩いの場である喫茶店のマスターにでもなりましょうかね(言い出しといて逃げる)。
怪人と喧嘩するなんてやっぱりイヤなので。何されるか分からない。
レッドをなだめたり、ピンクを慰めたり、そんな役どころでひとつ…。
グリーンの頭に生えてきた草の草刈りもしますよ(笑)。
Posted by RYO at 2006年11月04日 08:05
自然農、草刈りご無用。でも成長に応じて手をかしてくださいね(笑)

カオスレンジャーが怪人と喧嘩するわけないじゃないですか!
言い出しておいてひどいなぁ。カオス、ですよ?
得意技→バタフライエフェクト。ひらひら羽ばたくだけです。
怪人を、さらに怪奇な世界に巻き込むんです。
これぞ怪奇法。 
(あ、しまった!言ってはならないことを…)
Posted by 亜弥 at 2006年11月04日 20:30
それは失礼いたしました。
得意技「バタフライエフェクト」だとは。
怪人もその動きに誘惑されて意識が朦朧と…。
なるほど。たしかに怪奇法。

でも地球の裏側ではそれが暴風雨にまで発展して、もうてんやわんやだったりして(笑)。
正義の味方も、多くの市民の忍耐の上に成り立っております。
Posted by RYO at 2006年11月05日 07:15
先生

悪ふざけをすることは、「要するに…」同様、教えを乞う者として有るまじき失礼な態度であったと深く反省いたしております。


改めて本文を拝読し…

ふむ、 うぅ? むむむむ

カオス ではなく、突き詰めていない浅慮な自分の曖昧さに出会いました。
曖昧模糊。ご容赦下さりませ。
Posted by 亜弥 at 2006年11月05日 17:19
(いきなり謝られてしまった…。なんだろう…。)
ええっと、ええ〜…
じゃ、じゃあ、そうですね。そうかもしれません。
自分のことに気づくのは良いことです。
これを糧に、さらなる精進に励んでください。
(こ、こんな感じでいいのかな。)
Posted by RYO at 2006年11月06日 08:14
(あ、戸惑われてしまった。えっと…)
は、はいっ先生。励んでまいります。
これからもご指導、ご鞭撻、よろしくお願いいたします。
(あれ?なんか、こういうことだったのかな…?)
Posted by 亜弥 at 2006年11月07日 21:23
こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。
(で良かったみたい…かな?)
Posted by RYO at 2006年11月07日 21:53
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