2006年10月22日

ヤジロベエの魔法

代々木公園を散歩していたらドングリがいっぱい落ちていた。

「カワイイなぁ。」と思って拾い始めたら止まらなくなって、どんどん拾っているうちに「そうだ、今度講座に来る子どもたちにあげよう。 」と思いつき、さらにどんどん拾っていく。

するとさらに「そうだ。ドングリ独楽とかヤジロベエを作ろう!」と思いつき、ますますどんどん拾っていって、結局コンビニのビニール袋にどっさり収穫。

後日、子育てママさんたちの講座の時に、ワサワサと言わせながらドングリを持っていき、錐で穴をあけて楊枝を刺したり、 竹串を指したりして、独楽とヤジロベエをいくつも作る。

やがてやってきた子どもたちの前で、テーブルの上でドングリ独楽を回してあげると声を上げて大興奮。

ヤジロベエの絶妙なバランス運動も、目をみはって見つめている。

こういう素朴なオモチャは、自然の働きがそのまま現れていて、もっとも根本的でシンプルで、自然の法則を学ぶにはもってこいである。


そうして子どもたちと遊んでいたら、「これは子どもに遊ばせているだけではもったいない。大人たちも学ぶものが多い。」と思い立ち、 結局そのあとのママさんたちの講座の中でもヤジロベエを見せながら、「この不安定さの中に揺らぎ続けるバランス状態というのが、理想的なからだの状態なんです」というお話をする。

そして、それだけでは収まらず、夜の講座でもヤジロベエを持ち出してはそれを見つめながら惚れ惚れと語り、 さらに次の日の朝日カルチャーセンターの講座でもヤジロベエを持ち出して、「美しいですよねぇ。」とみなさんの前で見惚れていた。

惚れたら一途(笑)。


生命にとって理想の状態とは、決して「どっしり安定した何があっても揺るがない」状態なのではなく、 小さな環境の変化にも反応し馴染んでゆく、「不安定の中で揺らぎ続けるバランス」状態なのであって、 チョンと触るとその力を受けながらゆらゆら揺れて、再びバランスを取り戻そうとするヤジロベエは、 まさにそのことを目に見える形で教えてくれる。

ヤジロベエを指先に乗せてあっちこっちに動かしても全然倒れない様子や、3つくらい縦に重ねて一番下をチョンと押して、 それぞれがそれぞれバランスをとりながら見事に立ち続ける様子を見てもらい、その精妙さ、不思議さ、美しさにみんなで感心しながら、 気がつけば「こんなからだを目指しましょうね。」と繰り返し告げていた。


私がいつも講座でみなさんにお伝えしたいと思っていることは、つねに言葉にできないことばかりで、 講座ではそれを言葉で語らなければならないというジレンマに、もだえ、あがき、ためらってばかりいて、だったらいっそのこと、 もう言葉なんて捨ててしまおうかといつも思ってしまうくらいである。

けれども、もちろんそんなことはできるわけもないので、イヤ、できるかもしれないけれど、もしそうしたならば、 誰も私の講座など参加しなくなるであろうことは火を見るより明らかであって、やっぱり私には実力的にも経済的にもできない(笑)。


昔から私は、『「場」の助けを借りて講座を行う』という感覚を、とても大切なものだと思って、できる限りそのように講座の場をしつらえてきたが、 ここ最近はとみにそれを感じており、講座をもっと「モノの助け」を借りながら作り上げていこうと考えて、いろんなところを散歩しながら、私の助けになってくれるようなモノたちを探している。

それはドングリのように自然の中からいただけるものであったり、古いお店の棚に並ぶ、古来から伝わる素朴な玩具たちの中にあったり、 あるいは新しいモノの中にも稀にある。


「モノの本質を理解し、その本質を引き出して、モノの助けを借りる」というのは、古くから語られてきた「魔法の本質」であり、 「魔女の教え」 であると私は思っているのだが、それは何も神秘的なことだったり、怪しげなことだったりするわけではない。

よくある、呪文を唱えるとホウキが部屋を掃除し始めたり、イスがゴトゴトと人のそばまでやってきたりするというのは、 あくまでそれを戯画化した描写であって、実際にまさか呪文を唱えたくらいでホウキやらイスやらが勝手に動いたりするわけはない(…と思う、 いちおう)。

実際はそうではなく、モノが人に従うというよりもむしろ、まず人がモノに従ってゆくのであって、そのモノの「本質」「働き」に、 こちらが添うことによって、それがそもそもそうなるように仕向けることによって、モノと人との間に見事な協調作用が生まれ、 それをはたから見たときに、まるでモノがその人と一体となって、意のままに操られているかのように見えるだけなのである(…と思う、 いちおう)。

卓越した職人やスポーツ選手の技巧に惚れ惚れとし、まるで魔法のように思えて仕方がないというような経験は、みなさんもたびたび経験することではなかろうか。


モノたちは、なんらかの「働き」によって結合し、具現化し、この地球上に存在している。

それらは物質として存在している以上、地球上の物理法則に従うものである。

私たちのからだも物質として存在している以上、物理法則に従うものであって、そこにモノたちと、私たちのからだに共通して現象する 「働き」を見つけることができる。

モノたちの振舞いに現れるある「働き」は、私たちのからだにおいても現れる「働き」であって、 それを目の前にいくつも並べて見せることによって、見る者の心象にその「働き」のイメージがおぼろげながら浮かび上がってくる。

「モノ」を並べることで、そこに共通する「働き」を、見る者の心象に浮かび上がらせるのである。

「たとえばコレとか、コレとか、コレとか、コレとか…」と、とにかくいろいろ提示することで、「ああ、なるほど。そういうことね。 それが言いたいのね。」と相手に分かっていただく。

そういうカタチで伝達することによって、言葉にならないものを、言葉にしないままで伝えていこうと、 言葉のもどかしさにアワアワして仕方のない私は、最近強く思うのである。


私たちのからだに通じる「モノ」の働きに学ぶということ。

それがあまりにリアルに私たちの肉体を連想させるようなモノではなく、受け手それぞれが各々の空想によって自らのからだと結び付けられるような、適度にからだと距離のあるような、「遊び」、「間」のあるモノ。

その「遊び」をいかにしてつなげるかという創造性が、受け手の個性の発揮されるところであって、自主的学びの秘訣であり、 単なる模倣に終わらない秘訣であるのだけれど、指導する側としては、その「遊び」の塩梅がなかなかムツカシイところであり、 またオモシロイところでもある。

受け手の連想力に合わせたギリギリのところまで「遊び」をとって、その人独特の遊び方(偏向具合)を誘発し、愉しみながら、 そこからこちらも学ぶという「学びの相互作用」。

そんなモノたちの助けを借りながら、モノに習い、モノに従い、 いろんな気づきをみなさんと共有していきたいと思う今日この頃なのである。

posted by RYO at 18:52| Comment(14) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
RYOさん、こんばんは。
ドングリ拾いですか。いいですねぇ。
子供のころ親戚の結婚式についていったのに、なぜか式場の庭でドングリを拾っていました。集合写真だけ参加してたような…
ドングリ拾いは楽しくて時間を忘れますよね〜。

家に持ち帰り、宝物のようにひとつぶひとつぶの形の違いをながめては楽しんでました。

ヤジロベエの美しさをテーマに人生をとくことができるRYOさんが羨ましくもあり、こうしてその話をブログで読める機会も作ってくださって、ありがとうございます。

自然体とはドングリのヤジロベエのごとし。

もっといっぱい気持ちの中にあるのに〜。言葉になりません。
Posted by モモ at 2006年10月22日 22:18
いやぁ、ドングリかわいいですねぇ。
久しぶりに夢中になってドングリ拾いなんてしてしまいました。
自然の造化というのはホントに美しくできているものです。
ヤジロベエも一つでも十分美しいですが、いくつも重ねてみると、また何とも美しく、なぜ人がそれを見て美しいと感じるのかも、考えてみれば不思議なことです。
自然(じねん)のあるがままという姿が、人の心に響くのでしょうか。
ヤジロベエに倣って楽々悠々、自然(じねん)のままに生きていきたいものです。
Posted by RYO at 2006年10月23日 07:29
 RYOさん、こんにちは。
 このところ拝見だけしてコメントしそびれていました。
 今日は思い切って。

>私がいつも講座でみなさんにお伝えしたいと思っていることは、つねに言葉にできないことばかりで、 講座ではそれを言葉で語らなければならないというジレンマに、もだえ、あがき、ためらってばかりいて、だったらいっそのこと、 もう言葉なんて捨ててしまおうかといつも思ってしまうくらいである。

が、心にしみました。
 「もだえ、あがき、ためらってばかりいて、だったらいっそのこと、 もう言葉なんて捨ててしまおうかといつも思ってしまう」
 というRYOさんの様子は、それもまた何かしらを目の前の方々に伝えているのではないでしょうか。
 RYOさんが伝えたいと思っておられることと同じかどうかはわかりませんが。
 顔を合わせること、同じ場に居合わせることには大きな力があると思います。
Posted by ukiki01 at 2006年10月23日 11:17
ukiki01さん、こんにちは。お久しぶりです。
そのようなことを言っていただけるとホントに嬉しいです。
おっしゃるように、私の思っていることが私の思っている通りには伝わらないということは、もしかしたらそのこと自体が伝わることが大切なことで、だから私はもだえていて、それでいいのかもしれませんね。
少なくとも私には、そのように言っていただけることで、かゆみが少し治まるような気がします(笑)。
それさえ伝われば、あとはみなさんがそれぞれ好きに解釈してもらえばいい…のかな?
Posted by RYO at 2006年10月23日 12:32
一生懸命なRYOさまの「その人らしさ」を

お言葉とともに感じておりました。

私の大好きな葉祥明さんの言葉がたくさんありますけれど

「心に響く 声がする

 何も心配はありません

 それで良い  それで良い、と」

というフレーズが、ふと舞い降りてきました… 
Posted by 風待人 at 2006年10月23日 18:06
風待人さん、こんにちは。
素敵なお言葉をありがとうございます。
言葉の網の目の粗さから零れ落ちていってしまうモノたちを、どうやってすくい上げようかと、いつもいつも悩んで、もだえてばかりいましたけれども、それはそれでまた言葉の余白となって、聴く人の心の中で新しいモノが生まれるきっかけになるのかもしれませんね。
そのズレというか遊びを、すんなり認めて愉しむことができるようになってきたのは、ようやく最近のことです。
それでもまだ、その遊びをすっかり愉しめるほど洒脱になれてはいませんが、まぁ、それはそれでとボチボチと(笑)。
Posted by RYO at 2006年10月23日 22:46
話が戻りますが、ドングリかわいいですね。まるまる太ってておしいそう。
ひとつ食べちゃったら、子どもに泣かれてしまいました(反省)
「ドングリ食べるのはトカゲだよー」だって(笑)

ヤジロベエ、作ろうとしましたら、なかなか難しかったですよ。
『不安定の中で揺らぎ続けるバランス』どころか、立ちもしないで
ドタッと寝てばかり。これはこれで学ぶところが…え?違う?
も、もちろんRYO先生作のヤジロベエは美しく揺れております。今も。


言葉ではなく、語る人の中の宇宙をみている…のかも。唐突ですが。
Posted by 亜 at 2006年10月24日 21:20
「ドングリ食べるのはトカゲだよー」って(笑)。
きちんと覚えているんですね。素晴らしい。でも泣いちゃいましたか。
それは運転手さんを食べられてしまっては、たしかに悲しいかも…。
あれ?でも「ドングリがトカゲを食べる」とか言ったような覚えが…(うろ覚え)。

ヤジロベエ、難しかったですか?
寝てばかり…もしかして自分の理想とする姿が現れていたりして(笑)。
重心のバランスを考えて、ちょうど真ん中のドングリの真下に来るようにすると、キレイにまっすぐ立ちますよ。
指先で立たせながら、両手の位置をちょっとずつズラして微調整すると、うまくできると思います。
Posted by RYO at 2006年10月24日 22:12
確かに「ドングリがトカゲ(の尻尾)を食べる」と仰ってましたよ。
その辺、4歳児だから(笑)。泣きたかったから、泣けて良かったんです。
(自分のしたことは棚にあげて。だって美味しそうだったんだもん)

ヤジロベエ。今日じっくり(ちゃっかり)盗み見してきました。
ふふふ、明日はドンクリ細工職人になります。


「インドラの網」…昨夜はどうやら、稀薄な空気がみんみん鳴っていたようですな。
次に迷い込む晩には、ドングリではなく天の子どもとともに参ります。
(そうすれば、あんまりやかましくはコメントしないかも?)
ご丁寧にお返事くださって、ありがとうございました(笑)。      山ねこ拝



Posted by 亜弥 at 2006年10月25日 22:33
ドングリを見て「美味しそう」と思うのも、なかなか珍しいですよ(笑)。
でも、いつのまにヤジロベエチェックしてたんでしょう?
参考になったかどうか分かりませんが、ぜひぜひ見事なヤジロベエをこしらえてくださいな、山ねこさん。
Posted by RYO at 2006年10月26日 00:57
RYOさん、先日は拙ブログにコメントありがとうございました。
(トラックバックさせていただきますね)

言葉で伝えるということについて、
RYOさんのこの記事を改めて読ませていただいて、
またうなずいています。
とりあえずできる限り発信して、あとは受け取る人にまかせるというくらいでいいのかもしれませんね。
Posted by うきき at 2007年12月03日 10:16
うききさん、こんにちは。
コメント&TBありがとうございます。

言葉ということ、伝えるということ。
どれだけ考えてもまた悩まずにはいられない問題ですね。
「伝わらなさ」が私たちの「かけがえのなさ」を担保しているのだとすると、やはりそこには引き受けなければならない孤独がありますね。
最終的に言葉の聞き手を信頼し、どこかで任せ、委ね、預けるしかない。
でも、そのことがまた私たちを結び付けようとする力になってくれているのかもしれない…と考えるのは前向きすぎますでしょうかね。
Posted by RYO at 2007年12月03日 21:48
なるほど、信頼ですね。
任せ、委ね、預ける、というのは、信頼して手放すということですね。

ことばは手放しますけど、
信頼、というのは、まさに「結びつけようとする力」だと思います。
自分ひとりで握りしめていないで、手放すからこそ、相手とつながるのかしら。
Posted by うきき at 2007年12月04日 01:39
もし人と人との間ですべてが通じ合えたとしたら、私たちはこれほどまで愛とか信頼とか、そのような美しい観念を意識することはできなかったように思います。
そもそもそれらを美しいと思う感受性もなかったかもしれません。

強い意志をもって結びつけない限りはたやすく離れてしまうような、そんなあわいな結びつきをお互いが精一杯つなぎ合おうとする。
そしてそのためにはお互いに手放し、相手に委ねるべきものがある。
自分にとって大切なものを相手に差し出し、それを完全に相手に委ねることができたときに初めて生まれる結びつきがあり、それを人は美しいと感じるのでしょうね。
Posted by RYO at 2007年12月04日 07:16
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