2011年10月03日

キワ立つnobody

暑い暑いとドタバタしていたら、いつのまにかすっかり秋の気配になってしまった。寒い寒い。

毎度のことながら更新が遅くなってスミマセン。

ブログも書こう書こうと思いつつ、パソコンの前に座るとメールの返信やら原稿書きやらが何やかやとあり、それらが一通り終わるとホゲッとしたくなって、そのまま放置されていってしまうのである。

もっとサクサクっと書ければ良いのだろうけど、なかなかそうもいかない。

もうちょっと日常的な軽い文章をサクサク書いてアップしていけばいいのかな?


先月、読書会で一年かけて読み解いてきた野口先生の『嫁と姑』がようやく読み終わった。

改めてみんなで読んでみると非常に深い内容であったけれども、まあずいぶんいろんな話で盛り上がった。

いまは嫁姑関係というのも、昔に比べればずいぶんあっさりしてきたのだろうけれども、やはりこれは世界普遍の永遠のテーマであるのだろう。

そりゃあ「一人の男が女の手から女の手へと渡される」のだから、当人たちも意識しない所でさまざまな感情や潜在意識が渦巻いて当然である。

異性同性の関係性は、たとえ家族や親子といえどもその影響は大きい。


人間関係というのは何とも不思議なもので、そこでは当人同士の意識や認識とはべつにさまざまなことが蠢いていて、そこにかかわるすべての人たちの意識、無意識、潜在意識が絡まりあって、生じているところがある。

だから私の口から何か言葉が出てきたとしたって、それは私が「しゃべっているのか」「しゃべらされているのか」、そんなことは正直分からないのだ。

たとえば、誰かがその場の雰囲気にもう黙っていられなくなって何か言葉を発したのなら、それはいったい「誰の言葉」と言うべきなのだろう。

それはある意味、その場にいるみんながその人に言わせているとも言える。

その人が言わなければ、誰か他の人が言ったかもしれないし、あるいはひょっとしたらそれは自分の口から飛び出たかもしれない。

だとしたら、その言葉はいったい「誰の発言」なのか。「誰の思考」なのか。「誰の言葉」なのか。

そんなことは正直分からない。

はたして私は「考えている」のか、「考えさせられている」のか。

場には場の思考があるし、関係性には関係性の思考がある。

それがいつどこで誰によって顕現するのかということは、個人の意思や意図など軽く超えていることである。


だから「“私の”発言」なんてものに、あまり価値を置きすぎないほうが良い。

私の口から飛び出てきた以上、その責任を私が背負うことは社会市民として当然ではあるけれど、それだってたまたま白羽の矢が立ったという程度のものなのだ。

人はみな「関係性のイタコ」である。特に日本人はそうだ。

誰も己の言葉でなんてしゃべらない。関係性にしゃべらされているだけだ。

別にそれが悪いとはちっとも思わないけれど、それを「己」だと思いすぎてしまうことは、息苦しくなる原因だからあまりおススメしない。

そもそも日本語なんて、主語が消えても平然と成り立つ言語なのだから、もともと日本人の「わたくし」なんていうものがそんな程度のものなのだ。

日本語で生きていくなら主語に縛られすぎないほうが良い。

わたくしなんて、つまりはnobodyだし(@池田晶子)、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明なのだ。(@宮澤賢治)

もし仮に個性というものがあるのだとしたら、どんなに主語を消したとしても、どんなにわたくしを捨てたとしても、それでもなお最後にしぶとく残る「際立ち」こそが、いわば個性と呼ぶべきものであろう。

そもそも個性と呼ぶべき本質は、“私”や他人の手に負えるようなものではない。

吹けば飛ぶよな個性など、浅薄な表層の「毛羽立ち」に過ぎない。

もっと全てを投げ捨てたギリギリの「個の際」こそが、危険で色っぽくてセクシーなんじゃないか。そこに際立つものがある。

私は「nobody」かつ「キワモノ」でありたい。


ところで話は全く変わるのだけれど、いま来年の3月に向けて、整体の大きなイベントが企画進行中で、その準備が着々と進みつつある。

詳細についてはもうしばしお待ち願いたいが、野口整体系の指導者の先生方が一堂に会して、整体について、あるいは野口晴哉という人について、大いに語り合うという、なかなか貴重な会である。

僭越ながら私もその末席に加えていただくことになっているので、今から期待と緊張でからだがドキドキワクワクし、顔が(‘A`)こんなになっている。(ってただのモノモライ)

まあ野口整体について少なからぬ興味をお持ちの方には、とても面白いイベントになるかと思うので、乞うご期待。


ついでにいうと11月23日(水・祝)にも、横浜で大きなイベントを企画していて、そちらは私は裏方として参加するのだけれど、そちらもまたそうそうたるメンツが集結することが決定している。

そのメンツとは何を隠そう、東城百合子先生、吉村正先生、真弓貞夫先生のお三方である。

「聞いて驚け」とは、まさにこの顔ぶれのことを言うのだなと思う。

自然療法に興味のある方なら、誰もがその名を知っている大御所の大先生ばかりを一所に集めてしまうという前代未聞の「ちゃぶ台企画」であるが、これはひとえに師匠の河野智聖先生の「人結び力」の賜物である。

けれども登壇者がみなさん80代の大御所ばかりということで、いったいどんな会になるのやら、いろんな意味で今からドキドキしっぱなしで、おかげで私も顔が(‘A`)こんなに…(以下略)

まあ、そちらのほうも詳細を近いうちに出すので、こちらもまた乞うご期待。

posted by RYO at 21:08| Comment(17) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
おひさしぶりです。
「言葉」により、少しへこんでいましたところ、心にしみるお言葉により、
少し元気になりました。
先生の言葉は愉気ですね、ありがとうございました。
Posted by かずまま at 2011年10月03日 23:50
こんにちは。ご無沙汰してます。
何か元気になられたのなら良かったです。
言葉は不思議ですね。人を傷つけたり癒したり。
どうぞキワ立つnobodyとなって、
必要な言葉を必要なだけしゃべれる人となりましょう。
Posted by RYO at 2011年10月04日 04:44
全く、私も言葉で日々悩まされております。
最近は一つの関係も終わり、その要因の一つに言葉というものの意味や働き、その背後の歴史などが顕著に感じられた、出来事でした。言葉とうまくつきあっていきたいものです。
キワ立つnobody !!なるほど、関係性のイタコ、ちゅのも、おもしろい。なるほど、愉気されました!!。

Posted by よっちゃん at 2011年10月04日 16:01
再度、すみません、最後のこのイラスト。
誠にこの通り。
Tシャツ作ってくだされ〜!!
Posted by よっちゃん at 2011年10月04日 16:05
人と人、そしてその間に横たわる「言葉の海」。
それはあまりに深くて 広くて 大きくて。
なんだか時にその中に身を投げてしまいたくもなりますが、
それを何とか踏みとどまって舟を漕いでいくしかないのでしょうね。
「Keep paddling!」(漕ぎ続けよ!)
地球交響曲の中で伝説のサーファー“ジェリー・ロペス”が託した言葉です。

しかしTシャツですか。
いつかは何か作ってみようと目論んではいるのですが…
Tシャツとか、手拭いとか…ねぇ。
ひょっとしたらそのうち作っているかも。
Posted by RYO at 2011年10月04日 21:56
RYOさん、こんばんは。
久しぶりにうかがいました。
ふふふ、出ましたね、RYOさんの「キワ」好き!
モノモライどうぞおだいじに。

ぼんやりとまとまらないながらですが、
「じゃあ、『婿と舅(と妻/娘)』はどうなんだろう?」
ということが気になっています。
「嫁と姑(と夫/息子)」とは質の異なる関係なんじゃないかなと
想像してるのですけど。
Posted by うきき at 2011年10月08日 00:52
こんにちは。お久しぶりです。
おかげさまでモノモライは無事経過できました。

「婿と舅」、これも一人の女をめぐる男と男の関係性ですね。
ただおっしゃる通り「嫁と姑」の関係性とはだいぶ毛並みの違うような気がしますね。
それは「男」と「女」という性の違いによるのか。
あるいは「働きに出る」「家事をする」という社会的役割によるのか。
まあ両方の側面があるような気もしますけど、
「婿と舅」は「嫁と姑」ほどあまり複雑な関係にならないような感じがします。
もちろん例外はあるでしょうけど…。

でもそれもこれからどういう関係性になっていくんでしょうね。
今までの「家(いえ)を背負う」という結婚観が徐々に薄れつつあることは確か。
舅姑問題はゆっくり消えていくんでしょうか…。
いや、やっぱり無くならないか(笑)。
Posted by RYO at 2011年10月08日 11:03
おっ、ようございました>モノモライ

「嫁と姑」「婿と舅」の違いには、
性の違い、社会的役割の違い、
たしかに両方の側面があるでしょうね。
前者のうちには、
「男はそういうことを(たとえ思っていても)ぐだぐだ言わないものだ」
みたいな文化的慣習も、
(人によっては、世代によっては)あるかも。

そのどちらとも関連してるかと思いますが、
もうひとつ思いつきました。

嫁は、舅(=夫の父)と姑がいる家(世帯)に新参者としてやってきますが、
婿は、舅(=妻の父)とは別の家(世帯)をかまえますよね。
(そうでないケースも多々あると思いますが、
ここでは単純に考えてみます)

物理的に(あるいは法律的にも)近くにいると、
なんだかんだと目につくのでなんだかんだとものを言いたくなり(あるいは、言うきっかけが増え)、
遠くにいるとその逆、
ということもあるかなあ。(単純すぎるかもですが)

そして「これから」は、うーん、どうなるのでしょうね。
世代ごとの考え方があり、
異なる世代の間にはギャップや対立あるいは理解があり、
全体としては、ゆるやかに変質していくだろう、という気はしますが、
私は「舅姑問題は消えない」に一票を投じます。

……いや、なんとなくですけど、「消える」イコール「動じなくなる」のだとしたら、
それはないんじゃないかな、と思ったので。
Posted by うきき at 2011年10月08日 23:42
どこかで「文化は女系で継承される」という言葉を聞いたことがありますが、
たしかに「家名」や「財産」みたいなものは男系で継承されていきますが、
「味噌汁の味」とか「着物のたたみ方」とかは女系で継承されてゆくんですよね。

家名や財産のようなある種の「虚構」を継承するのと、
所作や食文化のような身体的な「具体」を継承するのでは、
やはりその役目も働きもずいぶん変わってくるのかもしれません。
まあそれも別の家を構えればさほど強くは働かないのかもしれませんが…

とくに女性は家にいることが多いわけだし、
それはつまり仕事が「かぶってる」っていうことだから、
先輩としていろいろ言いたいこともあるでしょう。

まあやっぱりどう考えてもこの問題は消えませんよね。
でももし消えたのなら、それはそれでヤバイでしょう。
それはつまり家庭から「文化が消えたとき」でしょうからね。

家庭のあらゆる些事がコンビニエンスな消費財で片付けられるようになったら、
もう嫁も姑もありませんものね。
まるで星新一のSF世界のようです。
Posted by RYO at 2011年10月09日 00:13
女の人の美しい微笑の中には
姑などから圧し掛かる
重いかなしみ
それは、哀しみ、悲しみ、愛(かな)しみ
が潜んでいるのでしょう

そんな重みに挫けぬよう
人間関係の距離の
ちょうど良い間のとり方
教えてくださいね

挫けそうになっても、
どうにかなる、大丈夫と
見守ってくださいね

私は30代です。
一番、人間関係で、社会性で、
悩む世代でしょうか。
まだ5年以上も残っています。

その苦しみの真っ只中を楽しんで
そして、ファンタジーが生まれ、
それを、育てていこうと思います。

先生の生き方、かっこいいですね。
あかるくて、ワクワクします。
うれしいです。
Posted by Yoshi at 2011年10月10日 05:52
名字や役職がどうしたとか土地や財産がどうしたとか、
正史として語り継がれてきたのが男の歴史だとしたら、
所作や習俗、ひそかに何かに寄せる想いなど、
裏史として受け継がれてきたのが女の歴史。

それはアタマとからだの、意識と無意識の、言語と非言語の、
歴史の物語の両輪であったでしょう。

けれども民俗学のような学問が現われるまで、
それら裏史はおそらく微塵も顧みられることはありませんでした。

女性たちは顧みられることもないままにそれらを一身に背負って、
そして自らの身体・所作をメディア(記録媒介)として、
子たちへ託していったのでしょう。

そうして私たち子等の身体、所作、習俗に刻み込まれた
おそらくこれからもほとんど顧みられることはない膨大な歴史たち。

その私たちが背負った「香ばしい欠落」に、私は惹かれてならないし、
何かの思いや言葉を、その手向けとして送りたいんですよね。

なんだか私は「誰もが忘れてしまった女の墓参り」をし続けているような
そんな気がしてきました。
Posted by RYO at 2011年10月10日 06:53
お墓は、うーん
人それぞれでしょう
けれど
要らない人もいるかもしれません

お墓の下になにがあるのかな
何もないような
もしかしたら
醜さを隠した
うつくしい執着が
潜んでいるのでしょうか

眼に見えず、墓標がないからこそ
輝きは増し、
永遠に、自由自在に光は放つのかもしれません

どんなに時代が変わろうとも
便利になっても

そう、感性が
奪われても
失われても

どんな国に住もうと
国や文化が異なっても
地球上であれば

お日さまは沈み
お月さまは微笑
そしてまた
お日さまは昇るのでしょう

怒りの真っ只中の
闇の中の
お月さまを指す
先生の指に
見とれぬよう
お月さまの光を
分けて頂きましょうか

つい先生の指に見とれてしまいます(笑)
Posted by Yoshi at 2011年10月10日 10:19
月の光はいいですね。
太陽と月で言えば、私は圧倒的に月が好きなのです。

太陽の光をやさしく反射するだけで、己自身は光ることなく、
そして日々満ちたり欠けたり、何ともあわいでおぼつかない。
そんなどこか「全体」に対する「カケラ」のような在り様に、
私は惹かれて魅かれてたまらないのです。

カケラのような在り様だからこそ、
月は雲にも合うし、雨にも合う、花にも合うし、団子にも合う。
怒りや哀しみや微笑みにも合うし、愛にも別れにも合う。
どんなものの隣りにも、そっと静かに寄り添うことができる。

ルナティクス。
月がなければ、人は人を愛することもできなかったかもしれません。
Posted by RYO at 2011年10月10日 23:04
RYO先生のイラスト入り手ぬぐいを首に巻いて
炭坑節を踊りましょうか。
あーよい、よい。

お団子を作って、お供えし、頂きました。
中秋の名月と夫はつぶやきました。

今日は雨が降りましたが、もう止んで
真ん円お月さまです。

見上げたお月さまを
どこかで、誰かが見上げているのでしょうか。

お月さまは一つしかないのですね。
Posted by Yoshi at 2011年10月12日 17:39
たとえ離ればなれでも、同じ時間に月を見上げれば、同じ月を見ているんですよね。
私もむかし大学時代の夏休み、「同じ月を見よう」と言って、
世界各地に散らばった仲間たちと同じ日に月を見上げたことがありました。
私は長野の山の中にいたので、あちこち歩き回って月を探したのを覚えています。

その時の仲間たちは今ももちろんそれぞれバラバラに生活しているわけですが、
やっぱりあの日の同じ月を見続けている親友たちです。
Posted by RYO at 2011年10月13日 01:29
美談!うらやましいです。

確かに、こちらは夜でもそちらは昼なので
同じお月さまではないのかもしれません。

少しだけ、譲歩して頂きまして

今見上げたお月さまは
かつて母国で見上げたお月さまとやっぱり想いたいです。

親からはみ出し、親族からもはみ出し、ついに母国からもはみ出してしまった私は

お月さまを見上げては必ず母国へ帰るんだと想います。



日本文化を守り伝えている尊いお仕事のようにお察し致します。

私の身体から少しずつ日本人の感性が減っていっているように感じ、さびしく思っています。
Posted by Yoshi at 2011年10月15日 22:55
月を見て故郷を想う。
かぐや姫ですね(笑)。

大丈夫。
どんなに吸いこむ空気が変わり、飲む水が変わっても
からだに沁み込んだ故郷の水や空気の記憶は、
決して抜け切れるものではありませんよ。

同じ月が今日も地球を照らします。
Posted by RYO at 2011年10月17日 01:11
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/228623945

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。