2006年08月15日

ウェブに立つ墓標

ふと思い立ち、今までに拙ブログにいただいたコメントを読み返してみた。

読み返してみると、ブログの本文と違って、自分の書いた文章に「へぇ、こんなこと書いてたんだ。」と、 忘れているのが多いのが興味深かった。

自分が書いたであろう言葉にハッと気づかされたりして。

なかなかイイことを言う(笑)。


ブログの記事に書いている文章は、基本的にモノローグ(独り語り)である。

もちろん、書いている最中にふと、読んでくださっている方々を思い浮かべたりすることもあるが、 かといって特定の誰かに向けて書いているわけではない。

私も気分によって、そのつどいろいろな語り口を試して、マイ「ヴォイス」(@内田樹)を探求中(チューニング中?)であるので、 文章によって響きや息づかいなどは多少異なるとは思うけれども、基本的にはすべてモノローグであると言ってもいいだろう。


それに対して、いただいたコメントに対するお返事はダイアローグ(対話)であり、最初から言葉の宛先がはっきりとしている。

宛先のはっきりしている言葉のほうが忘れていて、宛先の不明瞭な言葉のほうが覚えているというのは、我ながらなかなか面白い。

言葉の引き受け手がいない(あるいは実定できない)ということが、自らを引き受け手として喚び出すのだろうか?

う〜む。


「テクストに作者はいない」とはロラン・バルトの言だが、当然ダイアローグにも作者はいない。

「Aさん」と「Bさん」が対話をしたときに、その対話の作者の欄を「Aさん」「Bさん」の連名で書くということは、単純に作者が 「Aさん」プラス「Bさん」である、ということではない。

全体は部分の総和ではない。

ダイアローグの作者は「Aさん」でも「Bさん」でもなく、「Aさん」プラス「Bさん」でもない。

「出会う」ことで生まれる何か新しいモノが、必ずそこに混じりこんでいる。

作者の欄に「Aさん」「Bさん」の連名で記すということは、その「『間』も含む」ということである。


ゆえにダイアローグの作者ははっきり実定できない。

強いて言うならば、「当事者がいる」だけである。

その場にいるすべての者たち、つまり、問う人、答える人、聞く人、見てる人、聞いているかもしれない人、見てるかもしれない人、 実在の人から空想の人まで、何人もの当事者によって作り上げられてゆくテクスト。

「テクスト」とは、その語義通り「織り上げられたもの」であり、そこにはさまざまな縦糸、横糸がいくつも織り込まれ、複雑な 「肌理(キメ)細かさ」(テクスチャー)が表現されている。

今回、ブログにいただいたコメントとそれに対するお返事を読み返しながら、そこに描かれた複雑な「肌理細かさ」(テクスチャー)は、 本文よりはるかに豊かなものであることに、改めて驚嘆した。


私は何も、コメントが欲しくてブログを書いているわけではない。

けれども、私の書いた文章に、読んでくださった方からコメントをいただけることは何よりも嬉しいことだし、愉しみなことだし、 さらにブログの記事を種としたダイアローグの織り上げられていく様は自分の思惑を超えていて、そういう意味でも見ていて愉しいし、嬉しい。


私はいったいこのブログを「誰に向けて」書いているのか?

それに答えることはとてもムツカシイ。

だれか特定の人間に向けて書いているつもりはないし、そんな感じもしない。

不特定多数の人間に向けて開かれているわけだけれども、かといって不特定多数の人間に向けて書いているというのも、 また何か違うような気がする。

www(ワールド・ワイド・ウェブ)上にポツンと置かれた、私の文章はいったい「誰に向けて」書かれているのか?

う〜む…。


人はみないつか必ず死ぬ。

けれども、ウェブ上の情報というものはいつまでも残る。

怖い表現で申し訳ないが、近い将来、ウェブ上はそのような「死者の声」で満ち満ちることになるだろう。

私のこのブログもいつまで書き続けるのか知らないけれど、もし私がひょんな拍子でパタリと倒れて帰らぬ人となったとき、 このブログは書き手不在のままウェブ上にポツンと残り続けることになる。

世界には、ウェブ上のすべてのドキュメントを残すための「www図書館」のようなものも存在し、 そこのロボットが世界中のサイトを点々としながら、 そのすべてのキャッシュを何百だか何千テラバイトのハードディスクに保存し続けているそうであるから、 おそらくほぼ半永久的に残り続けることになるだろう。

あと50年も経てば、そのような「書き手不在のサイト」は、おそらくかなりの数に達することになる。

ウェブ上に遺された、膨大な数の死者の墓標。死者の声。

かつて生きた「思い」が「生き様」が、そこに書き連ねられており、時折訪ねてくる人に訴え続ける。

そしてやがて訪れる人も徐々に減り、最後のリンクが消えたとき(それを「ネットワーク上に存在している」 と言えるかどうかは微妙なところだが)、すべての参道を閉ざされたまったく孤独な墓標となったとしても、そのサイトは確かに存在し続けている。

いつか万が一にも、自ら参道を切り開き、直接アクセスしてくるかもしれない訪問者を待ちながら。


そういえば前にニュースか何かで、亡くなったお子さんのブログを、お母さんが書き込まれたコメントの返事を書いているうちに、 そのブログを引き継ぐことになって書き続けている、というような話を聞いたことがあるが、そのような形で引き継がれる「死者の声」 もあるだろう。

よく分からないけれども、それはやっぱり幸せなことかもしれない。

そんな形があってもいいかもしれない。


思えば「Windows95」が華々しく世に登場してから11年。

その合間にwwwのネットワークはそれこそ急激な勢いで成長を続け、 人間の手を完全に離れ自己組織化してまるで生き物のように振る舞いはじめ、今やコンピュータネットワーク(Web2.0)の研究とは、 完全に生態学(エコロジー)の様相を呈している。

その生態系を作りあげる死者の声たち。

「死者の声の生態学」。

宛先不明の私の「言葉」は、どこかで私の「言葉」を受け止め、返事をしてくれた方たちの「言葉」とともに、 豊かなテクスチャーを形成しながら、山稜に積まれたケルンのようにウェブ上にその痕跡を残してゆく。

やがていつか私も死者の参列に加わるとき、そのテクスチャーがウェブ上に墓標として残るのだ。

…そうか、しまった。もうちょっとカッコいいこと書くべきだったな…(笑)。



posted by RYO at 20:32| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
RYOさん、こんばんは。
死者の声。
墓標。
なかなかお盆にふさわしい題材でありますね。
(いま気づいたのですが、終戦記念日の8/15はまさにお盆まっただなかの日なんですね。狙ってはいないんでしょうけど)

何回か記事を拝読しながら、どういうふうにコメントしようかなあと考えていたんですが、
さっき、宇宙に飛び立ち、やがて軌道をはずれてスペースデブリとなってさまよい続ける人工衛星を思い浮かべました。
そうなるとwebという宇宙はもはや20年前に送信された情報も現時点で最新の情報もごっちゃになってますね。
でも、考えてみたら、墓地ってそんなもんですよね。
Posted by ukiki01 at 2006年08月17日 20:27
「スペースデブリとなってさまよい続ける人工衛星」とはまた何とも、ロマンティックな連想ですね。
なるほど〜。そう言われてみるとWeb宇宙がそのように浮かび上がってきますね。
たしかに宇宙には、そんな衛星がいっぱい今も飛び続けているのでしょうね。
やがてどこかの星に、それと意識しないメッセージとして届くのでしょうか…?
それって受けとった方は悩みますよね〜(笑)。
「これは一体どういう意味なんだ?」(笑)。

そんなロマンティックな連想の後に、貧相な連想で申し訳ないのですが、ふと4月1日のエイプリルフール記事のことを思いました。
多くのブログで「真っ赤な嘘記事」が書かれますが、それは別に構わないんですけど、その後のフォローはどうなっているのかな…と。
後日、同記事内に「エイプリルフールですよ」ということを明記しておかないと、はるか後に読んだ人が嘘と知らずに信じてしまいますよね。
そんな記事がどんどんWeb上にたまっていって、当然検索サービスのキャッシュなどにもたまっていって…。
ちょっと怖いです…。
Posted by RYO at 2006年08月17日 22:03
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