気が付いたら3ヶ月間もブログの更新が滞ってしまった。ブログのみで交流している方には大変長らく失礼をばいたしました。ご心配をおかけしまして申し訳ないです。
震災にまつわるさまざまなことが私の中でグルグルと動き回っていて、とてもブログを書く気になれなかったというのもあるし、ちょうどいま新刊本を執筆中ということもあって、その忙しさにかまけていたら、あっという間に3ヶ月が経ってしまったというのが、実のところである。
執筆自体も地震の後はちっとも手を付けられなかったので、いま追い込み中で大変だ。
最低限、8月上旬のクレヨンハウスの夏の学校までには間に合わせないとならないので、どんどん詰めていかないとならない。うう…、がんばろう自分。
しかし、ホントに今回の震災については、いろんなことに気づかされ、また考えさせられた。
16年前の阪神大震災もたしかに大きな災害ではあったが、今回の東日本大震災は地震に加えて、津波と原発事故がさらに追い打ちをかけるという、まさに人類未曽有の大災害となってしまった。
こんな巨大な大打撃の前には、人はもうどう受け止めていいのか途方に暮れるしかない。
私も途方に暮れているうちに3ヶ月が経ってしまったわけだけれど、もちろんそのあいだ何もしていなかったわけではなく、関東近辺の子どもたちのからだのケアや、家庭でできる手当てについての無料講習(チャリティー)などは行なっていた。
今の状況の自分にできることはせいぜいそれくらいであるが、それでも多くの人に喜ばれ、またずいぶん元気になってもらえたのは、私にとってもせめてもの救いである。
しかし日本列島が強大な打撃を受けてすぐに、日本中から多くの人や物が被災地へ集まりながらグルグルと動いていったさまは、まるで傷ついた日本という生命体がその傷を癒すために、修復細胞たちを集めているかのようだった。
赤血球には赤血球の、白血球には白血球の、血小板には血小板の、リンパ球にはリンパ球のそれぞれの役目があって、急いで現場に駆け付ける者あり、遠くから支援物資を運ぶ者あり、必要物資の増産体制に入る者あり、それぞれがそれぞれの才能や持ち味を生かして、傷ついた日本という生命体を必死になって救おうとするのは、何とも言えない不思議な思いを抱かせた。
これはいったい何だろう。いったい何が起きているのだろう。天災?人災? なぜこんなことが起きたのだろう。何をすればいいんだろう。できることをやらなきゃ。これからどうなるんだろう。何とかしなきゃ。何とかしてくれ……。
錯綜と混乱、さまざまな思いと願い、そして祈り。
打撲のあとの細胞の気分というのはこんな感じなのかな…と、そんなことを思ったり。
しかし、これほどまでに地震の多い日本という国が、何ゆえにこれほど多くの原発を抱え込むことになったのか、それがいまだに分からない。
原発に限らず発電所のようなエネルギー施設というのは、私たちの「もっともっと」という欲望が具現化したものであろう。
それ自体には良いも悪いもない。
人間だって自分の中に発電所のようなものは大量に抱えているわけで、それはたんなる生命の欲望であり、要求であるということなのだ。
ただそのバランスを間違えれば、その種は衰弱し絶滅する危機に瀕するということだけである。
でもそれにしたって、なぜ原発なのか。
私たちの欲望が原発を生み出したのは確かである。
それは誰が何と言おうと、事実である。
「もっと電気を」「もっとエネルギーを」という人間の欲望が、原発になっている。
その強い欲望の力が小さな違和感や反発をはねのけて、圧倒的な勢いで日本中に原発を作っていった。
それ以外のカタチも取り得たのに、昂進する欲望自体がそのカタチを望んだのだ。
だから今、ある。
欲望の欲望の、硬結。 人々の欲望の集合体。
今回、その硬結がひとつ、巨大な津波によって弾かれた。
私たちが何とはなしに見ないで済ませてきた欲望が爆発し、大量の放射性物質とともにばら撒かれ、広く天下に露わになった。
そして「何とかシーベルト」とかいう不思議な言葉とともに、私たちは生活のあらゆる場面でそれを突きつけられることになったのだ。
「これがお前たちの欲望だ」と。
それはあまりに過酷な突きつけられ方であったが、そこから逃れられる者はいない。
どうも私は最近は、これほどまでに人間が原子力にこだわるのは、もはや「利権」という言葉だけでは説明できない気がしてきている。
たしかに利権による動機は大きいだろうが、「原子力」というもの自体が、ある意味で人間の欲望のカタチを現わしているような、そんな気もしてきたのだ。
石油であれ石炭であれ天然ガスであれ、あらゆる化石燃料と呼ばれる物はすべて地球が浴びた太陽エネルギーを植物たちが変換し、炭素系のエネルギー物質として充填保存してきたものである。
植物を燃やしたときにメラメラと燃え上がる炎は、それまでその植物が貯め込んできた太陽エネルギーの解放現象に他ならない。
私たちが化石燃料を使うとき、それは生態系が何十万年かけて保存してきた太陽エネルギーを消費しているということなのだ。
私たち人間はその先祖代々の莫大な遺産を食いつぶす道楽息子のようなものであるが、しかしそれでもまだ生態系の貯金の使い回しの範囲内である。
たとえ時間のスパンの圧倒的な違いはあったとしても。
だが、「原子力」は違う。
それは「燃焼」という地球生態系の採用した炭素系のエネルギー循環とは、本質的にまったく異なる。
核自体の分裂や融合から生み出される核エネルギーというのは、それはすなわち地球のすべての生態系が遠くからその恩恵を享受している太陽という恒星上で行なわれているエネルギー活動の原理なのだ。
「炭素燃焼」は地球エネルギーの原理であるが、「核反応」は太陽エネルギーの原理である。
人間の欲望は、その「神の火(太陽原理)」を求めた。
すべての根源である太陽を地上に作ろうとした。
たしかに地上に太陽を作り出せれば、そこから無限に近いエネルギーを絶えず取り出すことができる。
その空想は、さぞ人間の欲望を喚起したことだろう。 いや、今でも変わらず喚起している。
その欲望のカタチが、今の原発事情を生み出しているのだ。
この「太陽原理」を完全にコントロールできれば、不便な「地球原理」に縛られずに済む、と。
嘘かホントか、インドの原発は破壊と創造の神シヴァのリンガ(男根)のカタチをしているそうだ。
人が求めてやまない、欲望のカタチ。
震災にまつわるあらゆる状況は、私たちに「考えよ」と言っている。
私たちは「思考せよ」「決断せよ」と突きつけられている。
今回の大災害は、徹底的に私たち日本人に「考えること」「決断すること」を突きつけている。
日本は本当に大きな曲がり角に来ている。
どうも私は震災以降、ことあるごとに宮澤賢治の姿がちらちらと頭をよぎる。
宮澤賢治は、あの貧しい東北地方の窮乏を憂いながら、そこに理想郷としてのイーハトーヴを見ていた。あの時代、宮澤賢治という精神が東北に光り輝いていた。
宮澤賢治は早すぎて、当時はその光は孤独にポツリと灯っていたにすぎないが、けれどもその火はその後、着実に多くの日本人の心に広がっていった。
多くの人が宮澤賢治が夢見たイーハトーヴを、ともに夢見た。私もその一人である。
貧しい東北地方の現状を知りながら、そこに理想郷としてのイーハトーヴを見ていた宮澤賢治の精神は、これからの東北地方の復興に何か非常に重要な役目を担うような気がしてならない。
……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……
宮澤賢治



まるで神話の世界。
今私たちの周りで起こっている事象とその意味を、また違った眼差しで見つめられるね。
はじかれた硬結によってばらまかれた火の粉、か・・。
でも結果として、私たちを浄化してくれると信じたい。
破壊の後には、いつも創造があるものね。
この忍耐の時を超えて、
愛にあふれる未来に向けて、
私という小さな宇宙の中で、真っ直ぐで確かな意志を持とうと思うよ。
大きな人類史上の出来事として捉えていかなくてはいけないような気がします。
つまり「感性の時代」から「神話の時代」、そして「科学の時代」までを変遷してきた人類生命体として、どのように今回の出来事を受け止めるべきなのか、今を生きる私たちが代表して行なわなければならないような気がするのです。
原発というものの形而上学的な意味。神話的な意味。
神話の時代を生きた人たちが今の原発を見たときに、
はたしてそこに何を見て、何を語るのか。
そのことを空想してみなければ、人類史という長い射程の中で
またきっと人類は同じような過ちを繰り返すでしょう。
今回の出来事は本当に多くのことを気づかせ、また考えさせてくれますが、
そのムーブメントは着実に動いていっているように思います。
賛成派も反対派ももっともっと考えることを求められていて、
そしてともに深く考えた末に、そこに両者の対話が生まれてくるのだと思います。
『考えよ』ほんとうにその通りだと思いました。
考えることも決断することも、ひとまかせにしてきたように思います。
そのうちに誰かがやってくれると。
変わらなくてはならないのは政治家だけでなく、わたしもでした。
でもなんでしょう、生きているんだということを
初めて実感できたような不思議な感覚のなかにいます。
わたしも震災後宮沢賢治の絵本を集めこどもに読み聞かせていました。
わたし岩手っ子なので、朗読のたびに、こどものときの
ふるさとを思い出しうるうるしてしまいます。
ホントにまさに「考えよ」と言われております。
でも思ってみれば宮澤賢治も、
その不思議な雰囲気を帯びた童話や詩のなかでは、
つねに私たちに「考えよ」ということを突きつけていたような気もします。
私たちが何となく見過ごしてきたことをパッと突きつける猫やなめくじたち。
そのたび私たちはぎくっとして、そしてきょどきょどして、
まあねとか、そうねとか、何とか言いながら、まさに童話に登場する猫たちのように
何ごともなかったかのように日々の仕事に戻っていってしまっていたんですよね。
それじゃダメだってことを今回ホントに突きつけられたような気がします。
何度かRYO先生の講座や講演会に参加させていただいている者です。
先月、被災地にボランティアに行ってきました。
現地に行くにあたっては不安もあったのですが
ボランティア申し込みのHPを迷いつつ眺めていたら
ふと、RYO先生がサインの時に書いていらっしゃる
「感じたら動く」という言葉を思い出しました。
こうして迷っているということは
もう、体が行きたいと感じているからなのだと思い
現地に行くことに決めました。
被災地で被災者の方々とともに過ごした時間は
たくさんのことを感じ、学ばせてくれたように思います。
先生の言葉は、たくさんの考えるきっかけをくださっています。
ありがとうございます。
久しぶりの先生の文章を拝読して
お礼をお伝えしたくなり、記事とはあまり関係がないのですが
書き込みをさせていただきました。
新刊の出版も楽しみにしています。
そうですか。被災地へボランティアへ行かれたのですね。
今回の出来事に関しては本当にいろんなことを感じられたことと思います。
多くの方々が被災地へ入られたことと思いますが、
それぞれがとても深くいろんなことを考えるきっかけになったことでしょうね。
個人にできることなど本当に小さなものですが、
できる範囲でできるだけのことをささやかながらでも行なっていくことが、
大切なことだと思います。
このドタバタで遅れておりましたが、
新刊本もただいま鋭意制作中ですので、どうぞいましばらくお待ちくださいませ。
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
『つめくさ灯ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかはし
雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』
詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう
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まさにいま
かれら、まことの農民が
たべものを作らんとしてではなく
汚れた土を癒そうと種をまく
傍らにいてわたくしは、
ただ涙を流し、しずかに怒りの炎を胸にしずめる
音は天楽、かがやく風景画、語りはしずかな詩となろう
わたくしのできる僅かなことは
かれらまことの農民芸術を
傍らに見守ることだけであろう
学生時代に全文を印刷して、下宿の部屋の壁に貼っていましたよ。
これは人間の「根本思想」であるかもしれません。
汚れてしまった大地を癒すことができるのは、自然の営みに他なりませんからね。
「農業」という営みが人にとってもっとも重要な営みであるということを、
これからは改めて再認識されてゆくのではないでしょうか。
いや、むしろしっかり再認識していかなければなりませんね。
しかしそれを「農民芸術」と呼んだ宮澤賢治のセンスはやっぱり凄いと思います。
農業とそれにまつわる暮らしとは「人間芸術」なんですね。