『ゴーストバスターズ』を観る。
「何だって今ごろ?」と思われるかもしれないが、理由はある。
昨年末に京都大学で四日間にわたって行なわれた内田先生の集中講義を、ちょっと前にダウンロードしておいたのを、 最近になってちょっとずつ聴いていて、『ゴーストバスターズ』がその題材の一つだったのである。
その集中講義のお題はと言えば…、
『映画が図らずも語ってしまうことについて私が考える二、三の事柄、 もしくは私は如何にして映画の耐えられない軽さに目をとじることなく映画を愛し続けてきたのか』
…長い(笑)。
まぁ早い話が、「映画を観て内田先生が一席ぶつ」という内容である。
これで単位がもらえるんだから、大学って素晴らしいところだなぁ(笑)。
『「将来の夢は?」って訊かれたら「学生」って答えるね。』なんて、ときどき洒落で言ったりするが、 実はけっこう本気だったりして(笑)。
内田先生の『映画の構造分析』(内田樹、晶文社、2003)、『新版
映画は死んだ
』(内田樹・松下正己、いなほ書房、2003)は、
ともにたいへん興味深く拝読させていただいたけれど、内田先生は映画を語っているときが最も「面目躍如」って感じがする。
いや、他のトピックについて語っているときも、もちろん素晴らしいですけどね(笑)。
内田先生の真骨頂というのは、どうも私には「ストーリーテリング」にあるような気がしてしかたがないのである。
「何かを見ているときに、ふとある物語を想起する」という形で語られる物語。
「ところで、そういえば思い出したんだけどね…」といって語られることは、
その前に語られたお話と何か関係がありそうだけれど飛躍がある、というお話が後に来るし、
「あ、コレってアレなんですよ…」といって語られることは、その前に語られたお話と“要素”は異なるのだけれど“構造”が一緒、
というお話が来る。
「何かが一緒だけど、どこか違う物語」のような、そういう似たもの同士があったときに、 それぞれ一つずつ見ても前景化されなかったものが、並べてみた瞬間、前景化されるというのはよくあることである。
それら似たもの同士の二つの間には「遊び」があるわけだが、その「遊び」を架橋し、つなげているのは私たちの脳であるので、その 「間にかかる橋」 は私たちに馴染み深いし、たいへんすんなり腑に落ちる。
だって、その橋は「自分で」構築したんだから。
繋がりそうで繋がっていない二つは、見る者に繋げることをアフォードする。
くっつきそうでくっつかない男女が、見る者にくっつかせることをアフォードするように(笑)。
そのように「コレってアレなんですよ…」といって語られるときに、語り手の中で起きている「二つをつなぐ空想、連想」
の未だ言葉を持たぬ道筋。
それらを結ぼうと「語り手の中で行なわれているダイナミックな作業」。
それが実は、最も本質的なところのギリギリの水際を迂回して通る漸近線であり、 その道程を共に行くことが大事なのであって、お話の内容そのものは実はどうでも良かったりする。(というのは失礼か(笑)。)
だから教育的観点からすると、話の内容を正確に把握することよりもむしろ、語り手の中で行なわれているダイナミックな飛躍に感応し、 同調し、そのダイナミズムに翻弄される感覚を、全身で感じることのほうが大事なことなのではあるまいか、と私は思う。
まぁそれはともかく、今回の集中講義でとりあげた映画を挙げてみると、
『エイリアン』『大脱走
』『北北西に進路を取れ
』、そして『ゴーストバスターズ』の四本。
なので、講義を聴くに当たって、それらを借りてきて「映画を観て内田先生の講義を聴く」という、 講義内容そのままを体験してみようと思ったのである。
それで選んだのが、まずは『ゴーストバスターズ』。
「なんで『エイリアン』からじゃないの?」という声も聞こえてきそうだが、梅雨の湿気にやられて頭があんまり働かないので、 とりあえず「もっともリーズナブル」なところをチョイスしてみただけの話であって、深い意味は無い。
というわけで、この『ゴーストバスターズ』。
詳しくは内田先生の講義をぜひご聴講いただきたいが、内田先生いわく、これは「トラウマ退治の物語」だと言う。
つまりゴーストは「トラウマ」であり、ゴーストバスターズはそれを治療する「精神分析医」であるというのである。
前にこの映画を観たのはいつだったか覚えてないが、「よくあるチープな娯楽映画」というくらいの記憶しかない。
けれども、なるほど、「トラウマ退治の物語」を念頭に置いてあらためて観てみると、たいへん面白い物語へとたちまち変容する。
「ゴーストバスターズ」を開業したとたん、ニューヨーク中に「ゴースト」による事件があふれかえること。(⇒ゴーストバスターズがゴーストを実体化させた?)
物語の中心となる「ディナのルイスに対する欲望」が、最後まで前景化されないということ。(⇒欲望は意識化されず、それを抑圧するもののみ意識化される。)
ルイスが、キーマスター(鍵の神)に取り憑かれる直前の言葉が、開かないドアの前で叫ぶ「入れてくれ!入り口がない!どこ?」 ということ(それも「食の欲望を満たす」レストランの前で)。(⇒鍵を持たない(不能)者に、鍵の悪霊が取り憑く。)
……などなど。
見事、精神分析の物語としてきちんと成立している。
う〜ん、オモシロイな。 なんかこういう映画の見方もハマリそう。
そういう視点で、いろんな映画を観てみようかな。
とりあえずは、『エイリアン』、『大脱走』、『北北西に進路を取れ』の三本が手元にあるから、内田先生の講義を聞きながら、 それらをまずは観ていこう。
愉しみ愉しみ。
ところで、改めて未公開シーンを観ていたら、ゴーストを退治した後に、ルイスが「ディナ、僕たちもしかして…」と言うと、
ディナがちょっと考えた後、「いいえ、そんな事ないわ」と答えるシーンがあった。
『「それ」を否定するシーンすら編集作業で取り除かれてしまっている』という、あまりにも深く抑圧されたルイスの立ち位置に、 私は同情を感じてしまった(笑)。
がんばれルイス! 君は鍵を手に入れた! それがたとえ憑依中ではあっても(笑)。


すてきですよねえ(うっとり)。
改めて思ったけど、声がいいんですねえ。
この講義、こんなふうに販売されていたとは知りませんでした。ありがとうございます。
まだサイトを見に行っただけですが、
本というか講義ノート+付箋+古い映画らしさなどなど、
演出が心憎くてまたそこもすてきですね。
実際に映画を見てから講義を聴くのはナイスな&正統な試みですね。
通信教育みたい。
「ところで、そういえば……」「コレってアレなんですよ……」
この絶妙なる&度重なるジャンプが内田先生の大いなる魅力であるということには大賛成であります。
いちどお話をうかがってるので胸を張って賛成できます。
内田先生の寄席(笑)、よかったらぜひ聴いてみて下さい。
『映画の構造分析』で読んだ頃より、さらにはじけた映画論を展開しておりました。
置換、隠喩、転換、異化、忘却、迷子(笑)…etc.
内田先生の講義のさまは、さしずめ
「トリッキーかつフレキシブルなポジショニングによるマルチビジョン映像」
といったところでしょうか(笑)。