2006年05月30日

自己組織化する「型」

内田先生がブログの中で居合の剣の操法について書いている。

私もからだのことに興味を持つ者として大変興味深く拝読させていただき、読みながら「然り然り」とはげしく頷く。

内田先生は記事の中で、「剣が止まるのは、剣を含んだ身体全体の構造的安定性によらなければならない」という旨を述べ、さらに、 「構造的な安定というのは中枢的には統御できない。中枢が統御すると必ず局所的な筋肉の緊張が起こる。」と言う。

なるほど、私たちは手足を自由に動かすことができるが、それは多くの関節、骨、筋肉、 神経といったさまざまなものの協調によってはじめて成り立つものである。

私たちは日ごろ何の疑いも無く、自分の手足を頭で考えて動かしているつもりになっているが、「私たちの運動がある中枢的な指令により制御されている」と考えるには、 運動の制御にはあまりにも多くの要素が関わりすぎている(ベルンシュタイン問題⇒Wiki)。

いくつもの骨、数十の関節や筋肉、張りめぐらされた神経。

私たちの運動の「技巧性」は、それらひとつひとつの要素の「自由なふるまい」が協調的に働くことによってほとばしるものであって、 もしそれらの要素が中枢的な制御によって動くのであるならば、今より、はるかに高度な演算処理能力を持った脳やら、 はるかに優秀な情報伝達能力を持った神経やらが具わっていなければ、とうてい不可能な話である。

それでもなんとか、脳で制御するつもりで動かそうとすると、それぞれの要素は時間的空間的なズレを生じ、 その関係は必ずぎこちないものになる。

それこそグスタフの『ヒキガエルの呪い』のように。

(森一番の踊り手であるムカデがある日、その才能に嫉妬したヒキガエルに「いったいどのようなステップで踊っているのか、 どうか教えてください」と問われ、自分が一体どのように踊っているのか考え始めた瞬間、二度と踊れなくなってしまう、という寓話)


私たちの運動に見られる、身体各部位の「自由なふるまい」の競演による「技巧」の表出のさまは、まるでそれが「自ずと生まれた」かのように、 私の意志を超えて現出するが、それは人体が作り上げられていくときに細胞たちが見せる「自己組織化」のさまにも似ている。

私たちの身体は、細胞がDNAに付与されたごく単純な命令によって、それぞれ勝手にふるまっているうちに、 その集合体全体が自己組織化を果たし、ある種の形態を生み出していって作りあげられてゆく。

ひとつひとつの細胞は己の本性にしたがって、それぞれその場その場でちょうど良いように動いているだけであって、 それが全体的に観てみると見事なまでの人体を形成してゆくことになるのである。

「まさかそんなこと」と思わずにはいられないが、世界にあふれるさまざまな自己組織化の現象を考えたとき、たしかに「そこに中枢的な制御が働いている」と考えることの方が突拍子もないことのように思える。

水晶の結晶化や台風の形成など、そこに何らかの中枢的な制御が働いていると考えるのは確かに面白いけれども、でもそうすると、世界は「こういうカタチを作ろう」という意図を持っていることになる。

…う〜ん、このことについては、これ以上は深入りしまい。


右の写真は細胞の写真である。

それぞれの細胞がきれいにひしめき合って、隙間なく埋め尽くし、今まさに増殖せんとするさまがよく分かると思う。


……というのは嘘で、(笑)

ホントはこの写真は、薄い皿のような器に張られたオイルが底から温められることによって対流を生み出すさまを、アルミの粉を混ぜることによって可視化したものを上から覗いたところである。

(細胞の核のように見えるのが底から湧き起こってきた「上昇の流れ」で、 細胞膜のように見えるところがプレートが沈み込むように下に向かっていく「下降の流れ」である。)

このように温められた液体が自己組織化して作り出すこの「ベナード対流」は、私たちのとても身近なところにも見られる。

ベナードの味噌汁それは私たちの食卓にのぼる味噌汁である。

冷め始めた味噌汁は良く見てみると、沈殿した味噌が対流している様子が見られる。(⇒右図)

「ベナード対流」に示される細胞を空想させるこの模様は、水やオイルといった液体が対流したときに現われるほか、 冬の日本海上空の雲などにも時おり現われる形態であるが、しかしそれがさも細胞のように見える、というのはなんとも不思議なことである。

ともに自己組織化によって果たされるカタチであるわけだから、そこになんらかの共通性があっても別におかしくはないのだが、 なんともいろいろなことをインスパイアされる。

自己組織化の神秘は、それが要素に還元されないというところにある。

それはつまり、流れる川の水をコップで汲み上げて「これが川だ!」と言い張るようなもので、そのコップの中の水をいくら調べても、 川の本質を見つけることができないのに似ている。

台風を分解して水や空気を取り出してみても、器官や人体を分解して細胞を取り出してみても、それら水や細胞をいくら調べてみても、それらがいったいどのようにして台風や人体を作り上げていくのか、その仕組みは見つからない。


話がずれた。

ともかく、そのような自己組織化というものはさまざまなところに見られる現象であるのだが、 それが私と剣のあいだで果たされることが大事なことであるのだ、と内田先生はおっしゃっているのである。(…たぶん)

もしそこに相手がいれば、さらに入れ子のようにくりかえし取り込み、より大きなカタチへと自己組織化を果たしてゆくことになる。

人と人、人とモノとが出会うところで「こうしよう、ああしよう」という作為を手放してゆくと、 その出会い自らが要請するカタチへと自ずと向かうもの。

その自ずと生まれるカタチを教育的装置として利用するのが、武道やその他芸道で基本とされる「型」による稽古である。

「型」とは「型枠」と言われるように、流動的なモノを外側からせき止め、あるカタチへと成型する外枠のようなものである。

その「型」にニガリを含んだ豆乳のようなカオティックなモノをドロドロと流し込むと、 やがてそれがオイシイ豆腐へとカタチを成すように、「型」に流動的な身体(あるいは関係)をドロドロと流し込むことによって、 やがてそれがあるカタチを成してくる。

「カタチ」という言葉は「カタ」と「チ」とに分けられるが、「カタ」は「型」であり外枠のことを意味し、「チ」 というのは古語においては「霊」のことを意味する。

「血(チ)」「乳(チチ)」「力(チカラ)」など、今もその名残を残す言葉は多いが、つまり「型(カタ)」に「霊(チ)」 を流し込んでできるものを「カタチ」と呼ぶのである。

良い「型」とは、「どうやってもそういうカタチをとらざるを得ない」というような普遍性を必ず秘めているものであって、 それは丁寧に稽古するほどに身に沁みて理解されてくる。

もちろんそこに、それぞれの状況における特殊性は関わってくるが、基本的な「出会いの仕方」の構造は変わらない。

自ずと果たされるカタチにぴたりと収まる快感は、まさに「仕合わせ」と呼ぶのにふさわしい。


出会いの際に生じたカオスが自己組織化して、自ずと生じるある仕合わせなカタチ。

いったいなぜ世界はそれほどまでに協調して働くようにできているのだろう。

それは神のみそ汁。

いや、ちがった(笑)。

神のみぞ知る。

posted by RYO at 23:54| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私は「神の溝知る」だと思っていました。
神の溝。
それは、天と地をつなぐ通路である。
なんてこれは今考えたんですが。

それはさておき。
こざかしい作為を手放し、
良い型にお世話になることの大事さ、
というのを、
ようやく最近になって「そうだよなあ」と思っているのです。
長い間わかってませんでした。
(しみじみ)
Posted by ukiki01 at 2006年06月01日 01:10
神の溝。…フォッサマグナ?(笑)
天と地をつなぐ神の溝。中は何が通っているんでしょうかね?

「型」って大事ですよねぇ。でもまた同時につねに破っていかなければ、必ずずれてくる。
難しいものです…。
最近は私は「型とはつねに帰る場所であり、つねに旅立つ場所である」のではないかと思っております。ってまた禅問答みたいな宙ぶらりんな言葉で申し訳ありませんが…。

「型」が教えたいことって、「カタチ」じゃないんですよね。たぶん。
だって「カタチ」はその都度生まれてくるものですから。
そうではなくて、ある「感覚」なんですよね。
「型」にぴたりと収まったときの“あの感覚”。
“あの感覚”を手がかりにして身体を動かす、ということを教えたいんだと思うんですよ。
“あの感覚”さえ見失わなければ、一挙手一投足が「型」になってゆきますから。
そうすると、「型」とはつねにその場で生成されるものになってゆくんですよね。
「最も古いものでありながら最も新しい」と言いますか、
「プロセスそのものが目標になる」と言いますか…。

そんな境地をぜひとも目指したいものです。
Posted by RYO at 2006年06月01日 07:38
「型とはつねに帰る場所であり、つねに旅立つ場所である」
に深くうなずいています。
繰り返しであって繰り返しでない、
一期一会ですね。
「プロセスそのものが目標になる」といいなあ。すごく。
遠い未来をめざす必要はなくなって、
ちゃんと、今、ここにいる、ってことですからね。
Posted by ukiki01 at 2006年06月02日 01:02
「ちゃんと、今、ここにいる」。
まことにまことにその通りですね。

「即今」(そっこん)。
禅宗ではそう呼ぶそうですが、
過去に縛られるのでもなく、未来のために今をなおざりにするのでもなく、今を生きるということ。
今を一つ一つ、それこそ薄紙を重ねていくように丁寧に過ごしていくことが、結局、未来において、積み重ねられた時の地層としてその人の土台となるのだと思います。
「今を生きることが、未来において過去となる」という(なんだか複雑な表現ですが)、未来のある集約点に向かっていく「過去」「今」「未来」が、三位一体となって『現在』が果たされる。

「メメント・モリ」(死を思う)ということは、結局その集約点を「死の瞬間」に置いてみるということなのかもしれませんね。
「私はいつか死ぬ」ということを真摯に受けとめた人は、「将来こうしよう」とかいう未来のことよりもむしろ、「今何をすべきか」ということを大事にしますもんね。

そういえばミヒャエル・エンデの本の中に「瞬間は永遠です。」という言葉があったのを、ふと思い出しました。
思えばその通りです。
日々精進してまいりましょう。
Posted by RYO at 2006年06月02日 07:24
「守・破・離」
最近この言葉がよく目につきます
「型」
この言葉も目につきます
またシンクロが起き始めているようです

「おてての皺と皺を合わせて幸せ」
           ある仏壇屋のCMより
Posted by sugo at 2006年06月06日 11:51
「守・破・離」。
大事ですねぇ。私もつねに考える言葉です。
その「機」というのもまた難しいですけど、事後的にしか分からないものなのでしょうかね。自分が孵る時というのは記憶があるものではありませんもんね。
「卒啄の機」。

「おてての皺と皺を合わせて幸せ」
長谷川でしたっけね、たしか(笑)。
Posted by RYO at 2006年06月06日 11:55
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