2006年05月05日

ワタシイラズの暮らし

便利な世の中になったなぁと思う。

たいていのことは指先一つで事が済む。

スイッチ一つで明かりは点くし、ご飯は炊けるし、お風呂も沸くし、室温も最適になる。

のどが渇いたら蛇口をひねれば、いつだって新鮮な水がいくらでも出てくる。

でも考えてみれば、蛇口から水が出ること、ご飯が炊けること、お風呂が沸くこと、室温が快適になること、それらの現象と 「スイッチを押すこと」は何の関係性もない。

私たちの生活はなんの脈絡もないことで溢れている。

かつては水を飲むということは、水場まで行きそこで水を汲んでくることと不可分であったし、ご飯を食べるということは、 薪を集め火をおこし、お米を研いで火にかけ、炊けるまで火の加減を調節することと不可分であった。

そこには一連の流れがあり、脈絡がある。

その脈絡を見出し、つながりを結んでそれらがうまく流れるよう段取り仕組むのは、この“私”にほかならない。

“私”が関わらなければ、それらはこの世に生まれない。

“私”が生きていくためには“食べること”を必要とするが、“食べること”もまた“私”を必要とするのである。


ご飯を炊くのに、水を汲み、薪を拾い、火を起こし、コメを研ぎ…といった一連の作業を省いてゆくということが、人々の目指した近代化であり、 合理化であった。

いや、それは今でも変わらない。

私たちはみなその恩恵にあずかり、ほとんどあらゆることをたいした手間をかけることなく済ませることができる生活を手に入れた。

私たちの世界は「手間」を極限まで省き、最初の【入力】から望む【出力】までが一瞬で終わるという「無時間モデル」 を理想の頂点として、これまで進歩してきたし、これからもしてゆくだろう。

畢竟、便利とは“手間を省くこと”なのである。

もちろん、その恩恵は限りない。

けれども、世界が徐々に「無時間モデル」によって構築されてゆくことは、私たちの生活から「生き生きした情感」 のようなものが徐々に奪い去られてゆくことにつながる。

なぜなら、「生きる」とは「時間そのもの」にほかならないからである。

「愛着を持つ」とは「手間をかけることそのもの」にほかならないからである。


私たち人間の一生を【入力】と【出力】から考えてみれば、ただ「生まれて」「死ぬ」だけである。

「子孫を残す」ということも「無時間モデル」からすれば何の意味も無い。

「無時間モデル」は突き詰めていけば、生命にとって自らを否定することになる。


何の脈絡もない【入力】と【出力】の中に生活し、「間」を奪われ、「無時間モデル」に終始晒されている私たちは、「連動失調」 という病態を呈し始めているような気がする。
(「運動(うんどう)失調」ではなく、「連動(れんどう)失調」。)

【入力】と【出力】の間に横たわる、さまざまな手間を自動化し省いていくことによって、そのつながりは隠され、見出せなくなり、 やがていつしか考えなくなっていく。

「段取り」と呼ばれるようなことが、徐々に身のまわりから消えていき、 やや長いスパンで物事を考えて現在の行動を選択するということが、生活の中からずいぶん減っていった。

そういったことの積み重ねが連想力、段取り力の育成を損ない、近視眼的なモノの見方につながっていくのかもしれない、と言えばちょっと強引だろうか。


かつては、明かりをつけることも、お米を炊くことも、洗濯をすることも、それが成立するためには、私の「働き」が必要とされた。

そこにつながりを持たせることができるのは“私”であり、そのどれもが私の“手”を必要とする“手間”仕事だった。

しかし今では、家電製品がスイッチ一つでそのすべてのことを代わりにやってくれる。

振り返ればさまざまな家電製品が身近にあふれる生活の中で、そのすべての家電製品が、私たちに語りかけてくる。

「あなたは必要ない。スイッチだけ押して。」

私たちはすることがない。

「暮らし」はもはや私たちを必要としないのである。

私たちは、私たちが「暮らし」ているつもりであるけれど、実は「暮らし」が私たちを支えてくれていたのかもしれない。

「暮らし」が私たちの“手”を必要とするので、私たちはその要請に応じるようにして「働き」を担って、それによって「私」と「暮らし」 の「私の暮らし」が成り立っていた、という面があるのではないだろうか。

何かに必要とされなくなることは、それに対する愛情やつながりが薄れていくことにつながる。

私たちが「暮らし」に必要とされなくなり、「暮らし」に私たちの痕跡を感じられなくなったとき、私たちはもはやその「暮らし」 に愛着を持つことができない。

“私”の要らない「暮らし」、“私”のいない「暮らし」。

「暮らし」だけが“私の手”を離れ独立して存在し始め、“私”は交換可能な代替品になっていく。

現代の「暮らし」に感じるある種の希薄さは、もしかしたらそんなところから生まれてくるのかもしれない、ということを考えてみると、 私たちはもう少しきちんと「暮らし」と向き合って、丁寧に「暮らし」を過ごしていかなければならないんじゃないかと、そんなことをふと思う。


思えば、誰かに必要とされるということは、どれほど仕合わせなことだろう。

そして、「暮らし」に必要とされなくなるということは、どれほど悲劇なことだろう。


火が水が食べ物が衣類が土地が街が人がそして「暮らし」が、私を必要としている。
“私が”必要とするすべてが、“私を”必要としている。

それがどれほど仕合わせなことか。

それらすべてが、私に“働き”を与えてくれる。

“暮らし”が、“私”という現象を立ち上がらせてくれる。

“暮らす”ことは“生きる”こと。

It’s LIFE.

posted by RYO at 08:46| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「無時間モデル」「連動失調」「誰かに必要とされる仕合せな私」どれも気になるキーワードでした。このテーマは、この頃よく聞く「ユビキタス社会」も、このこととても関係が深い気がしました。いつも素敵なエントリを楽しませていただいてます。
Posted by えこま at 2006年05月06日 22:33
えこまさん、こんにちは。
ゼミ発表お疲れさまでした。レジュメ(&コメント)も興味深く拝見させていただきました。
身体性の切り口からの発表ができなかったというのは、なるほど無念ですね。同意。というか同感(ん?共感?あれ?)。
でも、身体性について述べる、ということはホントに難しいですね…。
個人にとっては「最後の聖なる砦」ですからね。もっとも防衛本能が強く、また早く働く場所でもありますね(性の問題もそうですね)。
下手すりゃ「喰われて」しまいますから…。

そうですねぇ。便利さというのは確かにありがたいものですし、私も決して悪いものだとは思わないんですが、『その「働き」に私が参画することができない』ということが人の身心に及ぼす影響というものもまた、忘れてはならない問題だと思います。
おっしゃる「ユビキタス社会」が実現しようとする社会は、ともすれば人を愚かにし、身体技法の習熟を妨げ、生命力(充実感)を奪ってゆく、ということになりかねないということは、私が大変危惧するところでもあります。
整体でもシュタイナー教育でも言われることですが、「最後の完成を自分の手でする」ということがとても大切なことだと思うのです。

その「働き」に自分の名を刻印する、と言いましょうか。
「いのちの祭り」「存在の祭り」に名を連ね参加する、と言いましょうか…。

ぜひ技術者の方々には、そのようなことを踏まえた「カスタマイズ性」というか「刻銘性(という言葉があるのなら)」を加味したインターフェース作りをしていっていただきたい、とこのように思う今日この頃です。
Posted by RYO at 2006年05月08日 07:51
ワタシイラズからワタリガラスを想像してしまいました。失敬。
これからも心に刻む文章を楽しみにしております。なんでも手間隙かけたら、人や物に愛情がくっついていくものですね。そういえば、インド派遣隊員?は帰国後、対話ノ−トを持って伺っているのでしょうか。先日ある雑誌に、エチオピアのある記事がのっていました。水を汲みに村から5時間という時をかけるそうです。しかし、その水は汚染されているそうです。だが、必要だと。その後ろのぺ−ジには日本の記事が。小動物をマスコット・ペットとして、お金をかけ異常に扱う人種と。同じ人間なんだけんどね。草々。
Posted by ひまわり天国 at 2006年05月08日 21:54
ワタリガラス、星野道夫ですね。
インド派遣隊の面々は帰国の連絡もありませんでしたので、こちらから出向いて先輩として殴っておきました。ポカリ。「連絡ぐらいよこせ」と。
(ちなみに2年生が2人、木村家に入居いたしました。)

エチオピアの村の話はなんともやるせないですね。
5時間もかけて汲む水が、汚染されているとは…。
なぜそのようなことが起きてしまうのでしょうか。う〜む。
Posted by RYO at 2006年05月09日 07:25
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