内田樹先生がちょっと前にブログで「贈与」について書かれていた。
「そのとおり!」と思ったので、ぜひみなさんに紹介しようと思ったが、そういえば前にも内田先生のブログの記事を紹介したなと思って調べてみたら、やっぱり「贈与」についてのエントリーであった。(2009/10/23「愛のシャワー」)
なんだ、まったく同じものに反応している(笑)。
ほとんどパブロフの犬のようであるが、でもとっても大事なことなんだからしょうがない。
ずいぶん前にも、「贈与の環が動くとき霊力が動く」という言葉を紹介したことがあるけれど、「贈与」という営みは人間の人間性たるゆえんを考えるときに、とても大切なキーワードである。
昔は子どもは周囲の大人たちから「子ども扱い」され、ただ贈与のおこぼれをもらうだけで何も身銭を切らなくていい、という立ち位置を与えられていた。
「身銭を切るのは大人の役割である」という価値観が、大人たちの間で共有されていた。
子どもはただひたすらに「与えられる存在」だった。
親から贈与を受けるのは当然として、近所のおっちゃんおばちゃん、あんちゃん姉ちゃんからも、ただひたすらに贈りものを与えられる。
「飴ちゃん食うかー?」
「ほらここ座っときー」
「ええもん見せたるわ」
「お前は気にせんでええ」
…と、なぜか大阪弁なのだけれど(笑)、でもそういうふうに大人たちからいろんな贈与を、愛のシャワーとしてただひたすらに浴びていくことが、「子どもを生きる」ことなのだと思うのだ。
けれども、そういう「子ども扱い」というある種の「大人社会からの疎外」を、「平等」という考えのもとに、あるいは「自主性の尊重」という考えのもとに、私たちは何となくやめてきてしまった。
それは民主化という時代の流れとしては、まあ必然であったかもしれない。
でも、そのことで子どもたちはずいぶん早くから「大人社会」に、「人間社会」に、参入させられることになった。
とくに資本主義社会という面においては、子どもたちは「被贈与者」からなるべく早く「消費者」として一人前になってもらうことを要請された。
そりゃ企業としては、子どもたちにはいち早く「消費者として一人前」になってくれた方が、マーケットが一人分増えるのだから、「被贈与活動」などさっさと卒業して、「消費活動」に入ってほしいに決まっている。
その必死の啓蒙活動もあって、おかげでマーケットは拡大し、経済はさらなる発展を遂げた。
が、そのときから子どもは「神の子」でなくなった。
人間社会から「消費者」として扱われ、「お客様」として扱われる子どもたち。
人間の大人たちの欲望によって、神々の世界から人間の世界へと連れ去られてしまった子どもたち。翼をもがれた天使たち。
そのことを想うと、私は何とも言えない寂しさを覚える。哀しくて哀しくて仕方がない。
もうそれこそ童話が一篇書けそうなくらいだ。 「神の子が人の社会に連れ去られる話」。
でもね、やっぱり早いんだよ。
そんなにすぐ彼らを「今の人間社会」に連れてきちゃいけないんだよ。
しっかり「神々の世界(ファンタジー)」を十分に生ききってから地上に降りてこないと、何か大切なものを決定的な仕方で損なってしまうんだよ。
子どもは「人間としては未熟な存在」として、人間社会のルールの適用外の存在として、等価交換のマーケットには入れずに、ただ大人たちに養ってもらう。
ただひたすらに大人たちから贈与を受ける。すべて「贈り物」「貰い物」だけで暮らす。
「借り暮らしのアリエッティ」じゃないけど、そんな時代を子どもは生きる必要があると私は思うのだ。
何かを手に入れるには、誰か(他人、自然)から貰うしかない。
自分ではなく相手が主体である、経済的受動態。
それは私たちがかつて狩猟採集生活をしていたときの世界でもある。
狩猟採集という営みには「交換の原理」などなく、すべては自然からただ「貰ってきて」暮らしていた。
自然の愛はでかい。自然はその代償など求めない。
その時代、人間はまだ自然の贈与の恩恵をただ浴びるだけで生きていた。
そういう意味では、そのころ人はまだ大人も子どももみな「神の子」だっただろう。
だが人は自由へと向かって成長している。
人は自分の足で立つ存在であり、いつまでも「神の子」であるだけでなく、「人の子」として地上に立つことを求められるし、またそうせずにはいられない存在なのだ。
人は9歳を過ぎたあたりから、ゆっくり「人の子」として人間社会に入っていく。
「贈与に対して何かを返礼する」のが人間の大人なのだと、そういう人間世界の成り立ちに気付き始め、ただ贈与を受けるだけでなく、自ら何かを差し出すことを意識し始め、そうして愛と贈与と交換の世界へ入っていく。
それは「人間」の目覚めであり、「大人」の目覚めであり、「性」の芽生えでもある。
そのとき「贈与の時代」に贈与をたっぷり受けていれば、必ずスムーズに移行していく。
あらゆる経過の変動は、きちんと全うすると至極スムーズに次のプロセスへと移行する。
それは病気の変動を通して、私がさんざんからだで体験してきた経験的確信である。
そして、充分に全うした「被贈与」の体験は、その後ゆっくりその形を変え、メタモルフォーゼをし、別の形をもって徐々に徐々に表に現れ始める。
それはまず青年期に「優しさ」や「敬意」のようなものとして。
そして晩年期には「感謝」や「祝福」のようなものとして。
「ひたすらに贈与を受けた体験」が時を経るなかで変容し、それがやがて「優しさ」や「敬意」や「感謝」や「祝福」のようなものとして、心のカタチを成してゆく。
「幼少時に充分に愛されて育った子どもは、晩年に人を祝福することができる人間になる」というシュタイナーの言葉は、その営みの「種子」と「果実」を教えてくれている。
「晩年になって実る果実の種を、私はいま子どもたちに蒔いているのだ」と、そういうことを意識して子どもたちと接していけると、何か少し違った関わり方ができるかもしれない。
前に「RYO先生にお金についての講座をやってほしい」と言われたことがある。
私のような貧乏人に「お金について教えてほしい」というのも何とも奇妙な話ではあるが、でも「交換の象徴」としてのお金という意味では、子育てと切っても切り離せないものではある。
「贈与」と「交換」、「子ども」と「大人」、「愛」と「お金」、あるいは「性」。
「子ども」と「お金」をどう付き合わせるか。
まあいつかそんなことを語るときも来るかもしれない。 そのときは「喜捨」制かな。



私が親から実は愛されて育ったんだと気づいたのは
つい最近でして、私の子育てもまだまだこれからでございます。
そして、今や子どもはターゲットですね。
孫への贈り物、習い事、もうホント
どこまで子どもをだしにするんだ、という感じです。
それが母親を不安にさせていることを、どう考えているのでしょうねえ。
もう「物」や「お金」ではない、と
みんなどこかで気づき始めているのですけどね。
心ある企業は自由経済的なモラルは遵守していますが、
教育という観点に立った際にはまた別の軸を立てなくてはいけないと思います。
少なくとも子どもを「消費者」として見立てるのは節操がありません。
おそらく昔はそういう振る舞いは共同体から激しく咎められたことでしょうね。
「そういうことをするな」と。「お前は子どもたちをダメにするつもりか」と。
それは何も「子ども向けのビジネスをしてはいけない」ということではなく、
宛先を子どもに向けた生業には「贈与の物語」が必要であるということなんですよね。
つまりそれは、取引が直接子どもに向かうのではなく、いったん親や周囲の大人、あるいは何か別のものを介して迂回的に子どもに届くような、つまりは「サンタクロース」のような、そのようなシステムであるべきなんじゃないかと思います。
子どもがいきなり「取引の世界」に晒されることのないように、
とにかくそこに「愛と贈与の物語」があって欲しいですね。
私たちは物を語る術さえ忘れつつあるような気がします。
遠藤さんが「この子は物が一杯で幸せね、ではなく、この子は物語が一杯で幸せね、と言われるような子に育てる」、とおっしゃったことにとても感動しましたが、
私たちは日々の営みをもっと語って行かなくてはいけませんね。
ブランド物をほしがる人は、物語をほしがっているように見えます。
ま、以前の私もそうでしたが。
ああ、見つけていないなあ、物語。
いかん、いかん・・・。
とくに親は「この子は私が語る物語を生きている」という自覚をもつことが大切でしょう。
それはまさに生きた世界の「読み聞かせ」だと言えるかもしれません。
とにかく人間には物語が必要で、現実と物語の両方を抱えて生きている存在だということ。
現実は環境から直接教えてもらえるけれども、物語は人を介してしか教われない。
大人はある種の覚悟をもって子どもに世界を物語って欲しいですね。
物語が世界を作っていくのだから。
ずいぶん以前にRYOさんから当方へコメントをいただいたこともあるのですが、僕はこちらのファンで、前からいつも楽しみに読ませていただいています。
「子どもを生きる」・・とは、名言だなぁと感動しました。
「子ども扱い」というのが、大人たちからのいろんな贈与を、愛のシャワーとしてただひたすらに浴びていくことだ・・ということも。
ほかの記事がらみで紹介させていただきましたので、トラックバックさせていただきます。
これからもいろいろな話、楽しみにしてます。
コメントありがとうございます。
私も実はアキラさんのブログはちょくちょく読ませていただいております。
「子どもを生きる」というのはけっこう大事ですよね。
整体は「経過を全うする」というのがその大原則ですが、「人生の経過」というものを考えたときには、その初期の段階においては「子どものプロセス」というのがあるわけで、それを十全に全うするというのは、やはり大事なことなのではないかと思います。
たっぷりおとなの愛を受け、たっぷりおとなの愉気を受ける、そんな時代。
「子ども扱い」というと何だか相手をバカにしているようにも捉えられがちですが、決してバカにしているわけではないんですよね。
子どもをバカにしている人も確かにいるでしょうけど、そういう人は定義からして本人がまず「おとな」ではない。
だって子どもをバカにしている人を見て、私たちは「おとなだなぁ」とは言いませんもんね。そういうのは「大人げない」って言うんです。
私は小学生くらいの子どもにはしばしば「お前にはまだ早い」とバッサリ断ることがありますが、そのとき大人と子どもの境界線がパッと立ち現れるんですよね。
ホントはそんな境界線なんて無い。でもあると思った瞬間に確かにある。
そしてあると思った瞬間に子どもはそれを乗り越えようといきなりグンと成長し始める。
そのときギラリと光る子どものチャレンジャーの眼は、私は大好きですね〜。
野口先生の「叱り方 褒め方」を読み始めたばかりですが、私は「愛のシャワー」どころか「叱言のシャワー」ばかりを子どもたちに浴びさせており、日々 反省です。(苦笑)
「幼少時に充分に愛されて育った子どもは、晩年に人を祝福することができる人間になる」← この言葉にグサッときました。あー、またまた反省。。。
お金の講座、ぜひやっていただきたいです。
ぜひ京都で!
「叱り方 褒め方」はいい本ですよね。
まあ叱言も愛情表現の一部であることは確か。
自分の気分で叱ってしまわないようにだけ気をつけていれば良いと思いますよ。
ぜひたっぷり愛してあげてください。
お金の講座、いつかできるかもしれませんね。
じゃあそのときはぜひ京都で。
「京都で子どもとお金について語る」というのもなかなか面白い発信ですね。
この記事、何度も読み返してます。 (^o^)
多分、今の僕の中でぐるぐるしてるような「何か」に、とても引っかかるのだと思います。
いろんな箇所に示唆を受けてます。
「子どもを生きる」、本当にいいキーワードをいただきました。
重ね重ね、ありがとうございます♪
確かに「全うする」ことを考えれば、「子どもを全うする」ことはとても大事ですね。
>しっかり「神々の世界(ファンタジー)」を十分に生ききってから地上に降りてこないと、何か大切なものを決定的な仕方で損なってしまうんだよ。
<
ホント、その通りだと感じます。
これがない「おとな」は、見ていてキツいです。
哀しい・・というか、淋しい・・というか。
そこも「味わい」なんですけどね。
僕らの存在と結びつきを、「インドラの網」のようなものだとすると、僕らの存在は網のヒモとヒモの結び目・交点ですよね。
『「子どもを生きる」を全うする』とは、この結び目・交点自体をやり切ることなのかな?なんて想います。
結び目自体であり切る、というか。
それを全うできないと、その結び目をつくっているヒモのそれぞれや、その先にある別の結び目たちに気がつけない・・ような。
その『「子どもを生きる」を全うする』を、本当に子どもの時期にやり切っておかなければ、大きくなっても、いつまでもそれをズルズルとやり切ろうとせざるを得ない、みたいな話でしょうかね。
なにか、胎便の排泄と皮膚疹の話を連想してしまいます。 (^o^)
何かアキラさんの心の琴線に触れたんですかね。
そうだとしたら書き手としてこれほど嬉しいことはありません。
どうもありがとうございます。
「おとぎ話を失った国は亡びる」と野口先生もおっしゃっていますが、
ファンタジーをちゃんと生ききることはホントに大事ですね。
ファンタジーを生ききれなかった大人たちというのは、
確かにどこか哀しさを感じさせる硬さというか重さというか昏さというか、
そんな雰囲気を帯びていますね。
それはやっぱり何か風邪の経過を失敗した時のような
そんな「やりそこない」と似たものを私は感じてしまうのです。
胎便の排泄もそうですね。
でもまあ、やりそこなったんならもう一度やり直せばいいんですけどね。
大人になってからだってやり直せばいいんです。もう一度風邪ひいて熱を出せばいい。
それは私は本当に応援したいことですね。今からだっていいじゃない、と。
『「子どもを生きる」とは「インドラの網の結び目」をやりきることだ』とは、
これまた深い言葉が飛び出てきましたね。なかなか難しい。
たしかに私たちはインドラの網の結び目のひとつひとつですね。
その「結び目ひとつ」を全うしないと、あるいは自覚しないと、
世界を覆う「インドラネットワーク」は見えてこないということでしょうか。
う〜ん、素晴らしい。帝釈天の境地ですね。
確かにその自覚が生まれれば「目の前の子どもは、子どもの自分である」というような、そんな気持ちも自然と湧いてくるでしょうね。
実はそれこそが「おとなである」ということなのかもしれません。
>少し上の子達といろ鬼という遊びをしていて、おっとりしている我が子は集中的に狙われすぐに鬼になるので泣いて帰って来た事がありました。
これは聞いてちょっとドキッとしてしまいました。
まあ子ども時代にはよくあることなのかもしれませんが、
でももしこういうことが増えているのだとしたら、やっぱりちょっと考えさせられてしまいますね。
昔は小さな子には「おまめ」とか「おみそ」とか、そんな特別扱いが「子ども世界のしきたり」としてありましたけど、今はそういう気遣いというのは少なくなっているんでしょうかね。
まあ、大人が子どもを「子ども扱い」して特別扱いしなければ、子どもたちも小さな子を「子ども扱い」して特別扱いすることなど、想像できないかもしれません。
子どもたちが「おまめ」とか「おみそ」とかで体験していることは、平等性というのはルールにあるんじゃなくて、人間が平等であるために「ルールを変えていく」ことに人間の平等性がある、ということでしょう。
それがなければ大人になってから、何か困っている人がいても「いや、ルールだから」と、まったく融通の利かない人間になって、社会がぎくしゃくしてくるでしょうね。
いろんな年齢の子どもたちと一緒に遊ばせて、そのつど「みんなで楽しく遊ぶ」ために、毎回ちょっとずつ特別ルールを採用して遊ぶという体験は、どんどんさせてあげたいですね。
大人としては不安で心配でたまらない面もありますが、
子どものために「慎む」ということも、また大事なことですね。
ぜひぜひいろんな体験をさせてあげてください。
またまた 楽しいキーワードをありがとうございます。
『こどもを生きる』『平等である為のルール』
まさにまさに ですね。
早く自立してほしいと言う 親の思いも聞きますが
子供らしくいられる時は 子供らしく振る舞わせてあげたいですね。
子ども時代に「子どもを生きる」というのは、ホントに大事なことだと思います。
その時代にいろんなことを試し、いろんな経験を積み、いろんな物語を生き、そしていつかやがて大人になるときに、それら膨大な選択肢の中から、ひとつの「大人のあり方」、あるいは「生きる道」を決めてゆくのでしょう。
それら「選ばれることのなかった」膨大な選択肢の数々は、ものすごい大きな支えとなって、その子の人生をありとあらゆる方向から支えてくれるに違いありません。
「奥行きのある人生」とは、そういうことなのだと思います。
この年末年始は子供達が消費者としてものすごく多くの物を手に入れたこと、大人げない私が子供を大人扱いして叱ったことをお正月の里帰り中に実父に叱られたこと、そして長男がもうすぐ9歳になること…。
色々と重なり、読んでいて涙が出てきてしまいました。頭がぐるぐるしています。
でも山上先生の「今からでもいいじゃない」と言う言葉に救われ、今から重い腰を上げて、何か変えて行きたいと思いました。ありがとうございました。
まあ昔から難しかったかもしれませんが、今の時代はなお難しい。
だからこそ世界中の宗教が「贈与せよ」と、ただそれだけを教えているんですものね。
でも大人になっても「叱ってくれる大人」がいるということは本当にありがたいことですよ。
私もそうですが、人はいつもいつも間違えてばかりで、失敗してばかりで、でもそのときに叱ってくれる人がいるということは、こんなに幸せなことはありません。
だってそこから変わっていけるんですから。
それは本当に「感謝」の一言に尽きると思います。
叱られたら、一つずつ変えていけばいい。
例えば「一週間これだけはやらない」「今日一日これだけは守る」と誓いを立て、実行する。
小さなことでいい。一つだけでいい。
それは自分を大きく変える確実な一歩だし、何よりその姿こそが子どもが見ている「親の姿」なんですから。
親のそういう姿は、きっと子どもを勇気づけるはずです。