前回、 辰巳芳子先生の『「こつ」の彼方にあるもの』についての話を書いたが、そのあともしばらくそのことについて考えていたら、 ふとある書のことを思い出した。
その書の名は『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル、福村出版、1981)。
稀代の名著である。
この書は、辰巳先生の言う「こつの彼方にあるもの」について、たいへん深い示唆を与えてくれる。
少々長い引用になるが、大切な場面であるのでお付き合いいただきたい。
時は明治末期、ドイツから禅の勉強をしにやってきた若き哲学者ヘリゲルが、 禅の理解の一助になればと思ってはじめた弓道の稽古において、師範から、「射のさいには小児の手のように意図せず開かれねばならない」 と言われ、困惑しながら稽古を続けていたある日の出来事である。
『ある日私は師範に尋ねた、「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし“私が”しなければ」と。
「“それ”が射るのです」と彼は答えた。
「そのことは今まですでに二、三回承りました。ですから問い方を変えねばなりません。いったい私がどうして自分を忘れ、 放れを待つことができましょうか。もしも“私が”もはや決してそこに在ってはならないならば。」
「“それ”が満を持しているのです。」
「ではこの“それ”とは誰ですか。何ですか。」
「ひとたびこれがお分かりになった暁には、あなたはもはや私を必要としません。そしてもし私が、あなた自身の経験を省いて、 これを探り出す助けを仕様と思うならば、私はあらゆる教師の中で最悪のものとなり、教師仲間から追放されるに値するでしょう。 ですからもうその話はやめて、稽古しましょう。」幾週か過ぎ去ったが、私はほんの一歩も前進しなかった。その代り確かにこのことが少しも私の気にさわらないようになった。 いったい私は弓道にすっかり飽いてしまったのであろうか。私がこれを習得しようがしまいが、禅への通路を見出そうが見出すまいが―これらすべてのことは私には急に遠くの方へいってしまい、全く何でもなくなってしまったように思われたので、 そのことはもはや私を煩わさなくなったのである。
たびたび私はこのことを師範に打ち明けようと決心した。しかしそう思って私が前に立つと、その勇気がなくなるのだった。 私は彼からはやっぱり、「尋ねないで稽古しなさい」という聞き飽きた返事の外は何も聞くことができないと確信していたから。 それで私は問うことをやめたのである。のみならず私は何よりも喜んで稽古をすらやめたであろう。もしも師範が、 あれほど容赦なく私を操縦する呼吸をのみ込んでいなかったならば。
私はごくあたりまえにその日その日を過し、できるだけ立派に私の職務を果し、そしてついに、 私がこの数年来絶えず苦労して来たことの一切が、私に何でもなくなったということすら、もはや心にとめなくなった。
その頃ある日のこと、私が一射すると、師範は丁重にお辞儀をして稽古を中断させた。私が面食らって彼をまじまじと見ていると、「今し方 “それ”が射ました」と彼は叫んだのであった。やっと彼のいう意味がのみ込めた時、 私は急にこみ上げてくる嬉しさを抑えることができなかった。
「私がいったことは」と師範はたしなめた、「賛辞ではなくて断定に過ぎんのです。それはあなたに関係があってはならぬものです。 また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射に全く責任がないからです。 この射ではあなたは完全に自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞り、満を持していました。 その時射は熟した果物のようにあなたから落ちたのです。さあ何でもなかったように稽古を続けなさい。」
かなりの時が経ってからようやく、時々また正しい射ができるようになった。 それを師範は無言のまま丁重にお辞儀をして顕彰するのであった。正しい射が私の作為なしにひとりでのように放たれるということが、 どうして起るのか、どうして、私のほとんど閉じられた右手が突然に開いて跳ね返るようになるのか。私はその当時も、 また今日でもこれを説明することができない。』
(『弓と禅』オイゲン・ヘリゲル、福村出版、1981、p92−95)
知見溢れる言葉が数珠のように連なり、触れたい箇所は山ほどあるけれども、私がつべこべ言うよりも、
みなさんにはこの書を手にとって実際に読んでいただいたほうが間違いはなさそうである。
だから私はこの本を紹介だけして黙って消え去るのが最も良いのだろうけど、
でも、しゃべりたい。 しゃべっちゃう(笑)。
きわめて「ロジカルな言語」で思考するドイツ人(しかも哲学者)が、「喩え」やら「指示代名詞」やらばかりで、
質問しても肝心なところに差し掛かると「稽古あるのみ。待ちなさい。」と二の句を遮る東国の老師の元で、教えを授かるというのは、
たいへんな苦労であったろう。
しかし、彼は途中何度も挫折しそうになりながらも、辛抱強く稽古を続けた。
ホントによくがんばったと思う。
この書における「日本の老師」と「ドイツの若者」との出会いは、「不立文字」の東と「言語明晰」の西が、 仕合わせな出会いを果した好例であると思う。
私は日本語というものはあまり「ロジカルな言語」ではないと思っている。
別にけなしているわけではない。証拠に私はこれほど美しい言葉はないと思っている(ってほかの言葉をよく知らないけど)。
それは日本語の言語構造と、それを使う人間の文化、風土など、さまざまなものの複合作用をひっくるめた上での、私なりの結論である。
「ロジカルでない」というより「客観的でない」と言ったほうがいいか。
つまり、「間主観性の言葉」というか「関係性の言葉」というか…むにゃむにゃ。
なにしろしゃべる相手によって一人称がいくらでも変わる言語である。
「私」「僕」「自分」など、その数はゆうに百を超える。
百変化する一人称に続く文体が「客観的」であろうはずがない(よく「主語が消える」し)。
それぞれの一人称に続く文体は、周りとの関係性を内包させながら、微妙なグラデーションでもって変化してゆく。
その会話に一人、誰か別の人が加わるだけで大きく変化する(ゆらぐ)ような言葉である。
私が「ロジカル(客観的)な言語」でないと思う理由がお分かりでしょう?
とっても繊細で優しくて思いやりがあって美しいとは思うけどね(って褒めすぎ)。
それに対してドイツ語は、きわめて「ロジカルな言語」という印象が強い。
(これもまた言うまでもなく、けなしているわけではない。)
ドイツ語に関して私はズブの素人であるので、あくまでイメージに過ぎないかもしれないけど、あながち間違っているわけではないと思う。
実際、師匠は「そんな質問をしてくる弟子はいなかった。」とヘリゲルにつぶやく。
師匠も師匠で、知に働きすぎるこのやっかいな弟子のために、「どうして教えてやろうか」とたいへん苦悩したようで、 日本語の哲学概論を熟読吟味して、哲学者でもある弟子の馴染み深い分野の方からの上手い説明はできないものかと試みた、という話が出ている。
結果、「こんなことを研究している人間だから弓術の習得が難しいのだということがよく分かった。」と、 不機嫌そうに本を放り出したそうであるが(笑)。
この勤勉な遠い異国の弟子が長い稽古の末、「“それ”の感覚」をおおむね会得したところで、師匠は弟子にこのように諭す。
『師範は微妙な微笑を浮べて、無為の状態を持つ人は、 それを持たないかのように持つことがよいのであると注意した。』
(『弓と禅』オイゲン・ヘリゲル、福村出版、1981、p96)
これまたたいへん含蓄あふれるお言葉である。
「そのような状態を持てるようになった者は、まるでそういう状態ではないかのようにふるまうのが望ましい」と、師は教えるのである。
老師はどこまでも丁寧に、弟子が自ずと気付くのを辛抱強く待ち、さらに己の中から湧き起こる最も困難な敵に対して、決して油断してはならないことを教える。
最後に一つ、実に驚くべきことであるが、実はこの状態に至るまでヘリゲルはまだ的を狙ってはいない。
目の前の巻き藁に向かって、「射の構え」を習得するまでただ黙々と射ち続けていたのである。
実際その後しばらくしてからようやく師は「最悪のところを通り越した」として、次の稽古に入る準備ができたことを認め、 晴れて的の前に立つことが許されるのである。
う〜む、面壁九年。
道程は長い。


RYOさんの「つながり発見力」のすばらしさをまた目の当たりにいたしました。
この、師範という人がすごい人でありますね。
読んでみよっと。ご紹介ありがとうございます。
関係ないような気もするんですけど、この記事拝読して思い出したことがあるので書いちゃいます。
編集者をやっていたとき、合気道三代道主植芝守央さんを取材したことがあるのです。
6、7年くらい前かな。
インタビューの後、道場で写真をとらせていただいたのですが、急なご用とかで「ちょっと失礼します」と短時間出ていかれたのです。
そのとき、小走りになりながら、道場の出口でくるっとふりむいて、初代&二代の写真(だったと思う)の飾られた床の間?に向かってさっと一礼。
ものすごく鮮やか、ものすごく印象的でした。
いまでも思い出せます。
合気道の創始者である植芝盛平翁もすごい人ですよねぇ。
何だかとても信じられないエピソードばかりですが、その精神性も含めて素晴らしい達人であったと思います。
辰巳先生も守央先生もそうですが、すごい人ほど礼儀正しいものですね。
私もさまざまなお言葉に触れるにつれ、身を正す思いです。
辰巳先生にヘリゲル氏をおつなげなさる。うーむ、素晴らしい審眼。おっしゃるとおり、日本(語)とドイツ(語)の論理は全く異なります(きっぱり)。私の例えで申し訳ありませんが、片や竜安寺の石庭の様に個々の構成要素同士の間や反映・対峙を内在しつつ全体を丸ごと提示したり、かつ止揚するものと、フランス式庭園のように(植物までもが)幾何学的に対称に構成され、整然と見通しの良い道によって目的地へと導かれるものの対比のような気がします。
でも、ここでの老師とヘリゲル氏の出会い(『それ』の共感)のように、それでもなお同じところに立てる『幸せな邂逅』(の開かれている可能性)があるのですよね。
日本では西のことを日本語で考え・表現していましたが、現在は東のこと(と西のこと)をドイツ語で考え・表現する(練習の)日々です。おそれおおくも老師のように、伝えたい相手を知れば知るほど間にある溝の深さにやや絶望しつつ、でも勢いをつけて跳んでみます(笑)。
近々じっくり読みたい1冊です。いつもながらのRYOさんからの知的刺激に感謝です。
日本語とドイツ語は全く異なる、と。
なるほど、まったくその中に身を置く方の口から、そのようにきっぱりとおっしゃっていただけると、たいへん心強いですね。
ありがとうございます。
しかも、庭園の様式美の違いに喩えるとは、これまた美しく、またイメージしやすい「なるほど」な喩え。
なるほど〜。言われてみれば確かにヨーロッパ式の庭園と言われて思い浮かぶのは、隅々まで人の手の入れられたシンメトリー(対照的)な美しさ。
対して、日本の庭園と言われて思い浮かぶのは、大自然をそこに表現しようと、できるかぎり人為を排したあるがままの美しさ。
ともに隅々にまで気を配り、手を入れながらも、目指すところが対極にある庭園は、まさに東と西の思い描く理想をマッピングしたモノとして、目に見える違いを提示してくれますね。
う〜む、なるほど〜。
ところで、えみ花さんのお言葉にふと思い出したことがあるのですが、
かつて「お庭番」と呼ばれた職人たちは、庭の手入れをしつつ殿様の身辺警護に当たる者たちだったと、昔庭師の親方に教わったことがあります。
つまりそれが忍びの者たちであったわけです。
ですからその末裔である庭師の使う道具には、「甲賀板」などと言った名残があります(自分の足跡を消すために整地する板)。
彼らは、侵入者を防止し、またその痕跡を発見するためにも、庭をつねに見張っている必要があったわけです。
身辺警護をするために庭に身を潜めていったのか、庭をよく知る者に身辺警護の任を任せたのか分かりませんが、いずれにせよ自らの気配を消すことを何よりも求められた者たちが、庭造りにかけた想いとは一体どのようなものだったんでしょうか。
バイトで庭師をしていた頃に、庭木の陰から見える家内の様子をぼんやり眺めながら、ふと想いに馳せたものでした。
って、えみ花さんのコメントとは関係ありませんでしたね。失礼。