2010年09月04日

モラルと算数

今度の18日のジュンク堂のトークイベントのために、シュタイナーの本を引っ張り出してきてパラパラと読んだりしているのだけれど、読めば読むほどやっぱり改めてこの人は凄いなと思う。

ずいぶん前にも取り上げたけど、たとえば算数の教授法についてシュタイナーはこんなことを言っている。


『単に論理的ではなく、いきいきと考察する者には、「正しい方法で算数を学んだ子どもは後年になって、正しい方法で算数を学ばなかった子どもとは、まったく異なった道徳的責任感を有する」ということが明らかになる。これは多分、非常に逆説的に思われるだろう。しかし、私は現実について語っているのであり、空想を語っているのではない。
…中略…子どもに全体を把握させて、常に少数から多数へと進んでいかなくてもよくさせる。そうすると、子どもを生活に近づけることができる。これは、子どもの心魂のいとなみに非常に強い影響を与える。数を足していくことに子どもが慣れると、特に貪欲に向かう傾向が発生する。全体から部分へと移行し、適切に掛け算も行なうと、子どもはあまり欲望を発展させず、プラトンが言う「慎み深さ」を発展させる傾向を得る。計算をどのような方法で学んだかに、道徳において何を好み、何を嫌うかが内密に関連しているのである。』
(『
シュタイナー教育ハンドブック』ルドルフ・シュタイナー、風濤社、2007、p57−58)


「子どもに算数をどのようにして教えるかということは、道徳教育の問題なのである」とシュタイナーは言う。

はたしてそんなことを考えて算数の教授法を組み立てる人が、他にいただろうか。

シュタイナー教育をご存知でない方もいると思うので少しだけ触れておくと、シュタイナー教育では、子どもに加減乗除を教えるときに、足し算よりまえに引き算、掛け算よりまえに割り算から始める。

それはつねに「全体から始める」という発想が根底にあるからである。

が、先のシュタイナーの発言を考えると、そこにはもっと深い意味があるようである。


足し算よりまえに引き算を、掛け算よりまえに割り算を子どもに教えていくということは、言ってみれば「全てを足すと1になる」という世界観と出会わせているということなのだ。

「2という数は、1を半分に分けた数である」ということ。
「10という数は、1を10個に分けた数である」ということ。

それは「全てを足すと1つ(全体)になるんだよ」ということを暗に示しているのであり、地球という限られた空間に生活している私たち人間の世界を、それと言うこと無しにまるっとそのまま示しているということなのだ。

「足し算(掛け算)的思考」から世界と出会った人間が、ある意味「無限の欲望」を肯定されるのに対して(足せば足すほどいくらでも増える)、「引き算(割り算)的思考」から世界と出会った人間は、「欲望の限界」を教えられる。

どれほど大量のモノを集めて貯め込んでも、それはあくまで地球全体のカケラであり、どんなに足しても地球一つ分にしかならない以上、人はみんなで分かち合うしかない、ということ。

部分はつねに「全体の」部分であるということ。

非常にシンプルだが強烈な世界観が、計算とのファーストコンタクトの中に潜んでいて、それが後年になって、その子の道徳観に「慎み深さ」としてメタモルフォーゼ(変容)していくと、そうシュタイナーは言うのだ。

すごい話である。でもナルホドのことである。


シュタイナーは「それを子どもに提示すると、子どもの心象にどんな運動イメージが生まれるか」ということを、つねに考えていた。

だから、子どもたちを数字の世界に出会わせるときに、「足し算/掛け算」から入っていくのか、「引き算/割り算」から入っていくのか、そこにどのような運動イメージの違いが子どもの心象に生まれるかを、真剣に考えていた。

「数を足していくことに子どもが慣れると貪欲になる」とシュタイナーが言うように、足し算に熱中していく中で起きてくる感情を言葉にしてみるならば、おそらく「もっと、もっと」というのが近いだろう。

そのエモーショナルな運動が、現代資本主義の土台になっている。


とにかく子どもは、身の回りで起きている運動を丸ごと「食べて」育つ。

子どもが足し算を習っているときは、単なる数字の計算法を学習しているだけでなく、そこで起きている運動を「食べている」のだ。

子どもたちは「学び」を食べ、「遊び」を食べ、「生活」を食べ、「物語」を食べ、そしてそこで起きている「運動」を食べている。

その中で子どもの内的な志向性が育まれていくのだ。

つまり、その子が一生を通じてどんな「運動」をしていくのか、ということが。

だから大人は、「子どもの前でいかなる運動体として目の前に在るか」ということが、つねに問われるのである。


シュタイナー教育と野口整体を並べて語ってみるためには、整体で「気」と呼ばれ、シュタイナーで「エーテル」と呼ばれる、この「運動」のようなものをどのように語っていくかということが、とりあえずのテーマになっていくような気がするのだけれど、さてさて、それをどう語っていこうか。それが問題である。

posted by RYO at 12:15| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
すごすぎてよくわかりませぬ〜。

「2という数は、1を半分に分けた数である」

これは 1/2=1÷2 ということでしょうか?

1つのおまんじゅうを半分に分けると、
「2」人の人が食べることができるという、そういう意味でしょうか。
Posted by ささだんご at 2010年09月05日 05:45
そうですね。
割り算的な発想から計算の世界に入っていくので、2とは2分の1ということですね。
ん…ますます分かりづらいですかね?

世界は基本的に1つであって、
そこに2とか3とかいう数字を見出していくのは
見ている側の悟性であるという認識だと言えばいいでしょうか。

だから赤ちゃんは「私」も「世界」も未だ分かれていない「1の世界」に住んでいるけれども、成長するにつれ「私」がハッキリしてくると「私」と「世界」の「2の世界」になるわけです。

それってやっぱり割り算なんですよね。
「分かる」ということは元々「分ける」ということであり、
何かと何かが違うという認識は、世界を割り算していく発想だと言えるでしょう。

その事実に即して割り算や引き算から計算の世界に入っていくと、
「全体から始まる」ということになるわけです。

それに対して足し算や掛け算というのは、あくまで「部分(世界のカケラ)を取り扱うツール」であって、もちろん大事であることに違いはないのですが、順番としては「全体」の後に身に付ける「部分」の思想ということなのです。
Posted by RYO at 2010年09月05日 07:09
ステキ〜。算数というより、哲学の世界ですね。

「分かる」ということは自分自身が変わると言うことであり、
それは過去の自分とこれからの自分が違うと言うことだ、

あとある先生がおっしゃっていましたけど、
なんか、それと通じる部分がありますね。

算数をそういう切り口で入っていくのは好きだな〜。
小1の娘が先日「足し算より引き算のほうが好き」と言っていましたが、
私もまさにそうでした。
上昇志向の足し算は、どこか限界を感じて、
行って帰ってくる引き算の方が膨らみがあるというか
現実の世界と通じるというか持続可能というか。

シュタイナー、教育のイメージが強くて今まであまりタッチしませんでしたが、
哲学・思想として、今度読んでみようかな。
いい本あったらご紹介くださいませ。
Posted by ささだんご at 2010年09月06日 06:26
「引き算の方が好き」という感覚は面白いですよね。
引き算に惹かれる心性というのは、どこか日本の侘び寂びに通じるものがあるような気がします。
5=3+2
3=5−2
はてさて、どちらに親しみを覚えるか。
自分はどうだったかなぁ…

シュタイナーの本は難解ですが、噛めば噛むほど味が染み出るスルメのような、そんな魅力がありますよ。ぜひぜひお勧めします。
でも最初に読むとしたらシュタイナー本人の本よりも、他の方の紹介本から入ると読みやすいし分かりやすいかもしれませんね。

ちなみに私は子安美智子さんの本から入りましたが、「ミュンヘンの小学生」とかエッセイになっていて、とても読みやすくて良いと思いますよ。
それから「シュタイナー教育者」の紹介本。(ドイツの先生の訳本とか)
そういう本でまずシュタイナー独特の用語と表現に馴染んで、それからいざ本人の著書に取り掛かると良いかも。
Posted by RYO at 2010年09月06日 08:23
私は断然「3=5−2」ですね!
単調な足し算よりも、深みがありますもの。(^^)

そう言えば思い出しました。
「ミュンヘンの小学生」大学時代に読みました。
子安さんの娘さんの本も確か実家にあったような。
今見たらまた違った視点で見れるかもしれません。
ありがとうございます。
Posted by ささだんご at 2010年09月07日 05:42
「ミュンヘンの小学生」は読まれたんですね。
確かに時間をおいてもう一度読むとまたいろんな気づきがあるかもしれませんね。
ぜひぜひまた手に取ってみてください。

あとは子安美智子さんの他のシュタイナーの紹介本とか、
西川隆範さんがシュタイナーの思想について書いた本とか、
そういう本が比較的シュタイナーの思想や哲学的なところが分かりやすいかもしれません。
もしご興味があればそちらもどうぞ。
Posted by RYO at 2010年09月07日 07:38
これまたタイムリーな話題をありがとうございます。
欲望のコントロール、全体性への回帰などについて
想いを馳せているところだったので。
うちの娘は小学1年生なのですが、もっと、もっと
というタイプで、果てしない欲望や要望にうんざり
してしまいがちな私とは、対立することが多いです。
欲望を(ある程度は)満たしてあげることで、もの
ではないということに早く気づいて欲しい、本当に
欲しがっているものが何なのかに気づいて欲しい
と思っているのですが、かえって裏目に出たりして。
ものが少ない時代には、分け合うことは当たり前で
難なくできると思うのですが、こうもものが溢れて
いると、欲望を煽りながら欲望を抑圧するという
ダブルバインド状態になってしまって、いったい
どうしたらいいんだ〜!と日々思っています。

つい最近、「おとながこどもにできること」という
シュタイナー学校の先生が書いた本を読みました。
易しい言葉ながら、心の琴線に訴えかけてくることが
たくさんで、とても参考になりました。
“親の愛は、あなたを信じてやってきたこどもの愛に
応えるだけなんだ、とシュタイナーは言います。
そのことに気づけるかどうかだ、と。
たとえあなたがどんなひとであったとしても。”
のくだりに、思わず涙してしまいました。

いつもよい本を紹介してくださって、ありがとう
ございます。「集中講義・精神分析」も少しずつ
読み進めています。フロイトやユングという人は
クライアントや患者、仲間を通して自分自身を
徹底的に見つめた人なんだな、自分をわかりたくて
もがいていた人なんだな、だから惹かれるんだな
と思いました。今、スクールでやっていることは
まさにそれなので。
Posted by えなはは at 2010年09月08日 02:55
えなははさん、おはようございます。お久しぶりですね。

モノがあふれる時代、あるいは欲望を煽る時代に、
子どもの欲望とどう付き合っていくかはとても難しい課題ですね。
どうしていくべきなのか、私もよく頭を悩ませます。

街を歩けば、「ほらほら、欲しくなるでしょ? 手にとってごらん」と、
あちら側から誘惑的に訴えてくるモノがそこらじゅうにあふれていますからね。
そんな中で子どもに欲望を押さえろと言うのも、まあ確かに無理な話で。

とにかく「よくできたモノ」は、簡単に夢見させてくれますからね。
自分で夢を語り夢見るよりも、人はみんなそっちに流れやすい。

要求が安易にモノに結びつかないためには、子どものファンタジーを育てる必要があり、
そのためには「小さなモノを物語いっぱいにして語る」訓練というのが、
私たち大人に必要なことなのかもしれません。

あとはたっぷりからだに触れて、騒ぐ要求を落ち着けてあげることでしょうか。
優しく触れてあげることは、とにかく要求が満ち足りてきますからね。
ぜひぜひたっぷり触れてあげてください。
Posted by RYO at 2010年09月08日 07:32
初めてコメントいたします。
3歳と8カ月の女の子を育てています。
何か子育てのヒントをと思いながらいつも楽しく拝見しています。
算数についての考え方、とても素敵です。
自分は・・・と思い返すと、単純な足し算派でした(笑)
引き算は今でも苦手。そしてやっぱり私は物欲がすごい気がします。
それでも30歳を過ぎ、シンプルな生活を心がけるようになってきましたね。
人は変わるものですね。
RYOさんのレスを見て思わずコメントしたくなったのですが、このような場で相談のような内容でもしそぐわなければ削除してくださいね。
実は上の娘は触れられるのが苦手です。
今でも甘えん坊で抱っこ抱っことくるわりには抱っこするとすぐ逃げたり、愉気しようとしてもなかなか触らせてくれません。
そうなってしまったのは当初の我慢ばかりさせていた自分の子育てに原因があるのは分かっているのです。今はなるべく本人の欲求を満たすような方向で育児をしていますが、彼女に身についてしまった我慢をどう解き放ってやればいいかわからないのです。
下の子も後追いが始まってなかなか上の子にかまってやれない。毎日葛藤の日々です。
何かヒントをいただけたらと思います。
Posted by minority at 2010年09月12日 00:24
minorityさん、こんにちは。

3歳の女の子がなかなか触らせてくれないとのこと。
3歳といえば、一番好奇心のかたまりとなっていろんなものに興味を持ち出す頃ですね。
そして「私」というものがぼんやりと意識されはじめ、「私」と「それ以外」の境界線をいろいろ探り出す、そんな時期でもあります。

そういう境界線がおぼつかない時というのは、他人とのかかわり合いが「くすぐったい」ものです。
だから、抱っこされてはまたするりと逃げたり、触ろうとするとパッとひるがえったり、そんな身振りをするのも、必然といえば必然的なことかもしれません。
少なくとも「抱っこ」と言って抱っこされてはまたパッと去ってしまうというのは、おそらく悪い事ではないと思いますよ。

「私」の境界線を意識しはじめ、触れる/触れられることに過敏になるそんな時期は、その「間合いをはかる身振り」自体がとても大切な営みですから、ぜひその「抱っこの鬼ごっこ」にこちらも楽しみながら付き合ってあげてください。
間合いをはかって、触れて離れて、鬼ごっこ。
そうすると、その子にとってそれがそのままある種の愉気になります。

侵入しすぎず、放っておきすぎず。
そういう時期はあまり「構えた愉気」をせずに「さりげない愉気」をしてあげてください。
構えれば逃げます。何気なければ受け入れてくれます。
そんな愉気を実践し、そんな愉気が何とは無しにできるようになっている頃には、きっと子どもも落ち着き、彼女の我慢というのも自然と気にならなくなっていると思いますよ。
Posted by RYO at 2010年09月12日 16:15
初めてコメントします。

今回の記事は思考の回路がぐるっと変わり、非常に勉強になりました。
そして、刺激を受けました。
とてもわかりやすい解説で嬉しかったです。

算数の話とは逸れてしますかもしれませんが、
以前、オイリュトミーを体験したときに感じた感覚を思い出しました。
全体を分けるというう感覚や引くという感覚は、
互いが全く別物になるという感覚ではなくて、全体にとっても「引かれた」の存在を気にかけているし(エネルギーの流れが変わるだけ)、「引かれた側」にとっても、再度全体に取り込まれる気配を秘めているという感覚でしょうか。

解釈が間違っているかもしれません。
非常に身体的なお話で思考が柔軟になりました。ありがとうございました。
Posted by mamadance at 2010年09月14日 06:19
mamadanceさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。

オイリュトミーというのは、まさにある種の運動をからだ全体の動きを通して通過させると言いますか、そういうところがありますよね。
私はオイリュトミーには詳しくはないのですが、ですからやろうと思えば「足し算のオイリュトミー」とか「引き算のオイリュトミー」とか、そういうものも出来るような気がします。(てゆうかあるのかも)
たとえばそうすれば、割り算の苦手な子には割り算のオイリュトミーをやらせてあげることが学習の助けになるということもあり得るでしょう。

でも、もともと数字自体が子どもが扱うにはあまりにも客観的すぎるという面は否めませんから、身体感覚を通して数字を扱うというところから入るのは大切なことでしょうね。
たとえば加減乗除なんて、子どもたちを集めて数人ずつあっちへ行ったりこっちへ行ったりして「算数体験」として入っていくなんていうのも、良いような気がします。

そうすればどんな計算も、「全体(クラス)」と「部分(個人)」がいつも一体となって一緒に動いているということが、身体感覚として理解できるでしょうね。
Posted by RYO at 2010年09月14日 15:37
18日は本当にすばらしい機会をありがとうございました。
野口整体とシュタイナー教育、双方のエッセンスの凝縮された凄い内容と、それらの「結び目」のあまりにも濃く深いお話に、思わず呼吸するのも忘れてしまうほど、聴き入ってしまいました。
ゆっくり、深呼吸をして^^お聴きした内容を繰り返し反芻しつつ、自分なりに辿れる道を自分の手と足で歩いて行くことだなぁと考えています。
Ryoさんのお話を聴きながら、私の中でもさまざまな「もの」や「ことがら」が繋がる思いでした。なかなか言葉にはしきれない想いや思考で満ち溢れそうですが、まずは心よりのお礼まで。感謝です。
Posted by けみん at 2010年09月19日 00:31
ジュンク堂のイベントにいらしてくださったんですね。
いや、本当に何をどうやって語ろうか悩んで臨んだ今回のイベントでしたので、
喜んでいただけたのなら何よりでした。

私の語ることはいつも、何かのようでありながら、何というものでもなく、
そこにカタチを与えたり、色を付けたりするのは、聞き手に委ねるという、
そういうことを願って言葉にしています。

昨日のあのイベントでのごくわずかな波紋のようなさざなみが、皆さんの中で大きくうねりながらなんらかのリズムを生み出し、そしてやがていつか、はっきりとなにがしかのカタチを作り上げていく、そんなきっかけになってくれれば、これ以上に嬉しいことはありません。

ぜひどうぞご自身の美しいリズムと美しいカタチを目指し、
手足とアタマとに力を注いでいってください。
こちらこそ、どうもありがとうございました。
Posted by RYO at 2010年09月19日 05:11
ジュンク堂での「大人向け」のお話、ありがとうございました。

書店で目にしてすぐのご本人でしたが、とても本の好きな方なのだろうと感じましたので、ご自分の出版イベントをジュンク堂で・・・というのは察するに余りあるほどの興奮と喜びの一夜であったことと思います。

これほど無防備に自分の思考プロセス、構想の背景を話される方に久々出会って、感激しました。ご本のP.77「謝る」の部分に気持ちをギュッとつかまれて伺いましたが、こうした強い幹をお持ちだからこそと納得しました。ここから「子育て」へ展開されている理由は何が一番大きいのでしょうか?
Posted by hisako at 2010年09月20日 16:05
ジュンク堂イベントのご参加、どうもありがとうございました。
ご推察のとおり、書店めぐりが癒しの時間でもある「本の虫」の私にとって、
ジュンク堂での出版イベントというのはとても嬉しいひとときでもありました。

でも今回は本当に、何をどのように語ろうかずいぶん悩みました。
まあ結果としてそれなりに良い形でまとめられたかとは思いますが、まだまだ話し足りないことは山ほどあるので、いつかまたさらにまとめ直してどこかで語ることができればと思っています。

とにかく、整体の教えは「出し惜しむな!」ということでありますので、何も包み隠さず、でも他人に通じるカタチには整えて、バーッと大風呂敷を広げてみましたけれど、まあそれをこれからきちんと畳めるかどうか、というのが私のテーマであるかもしれませんね。


ところで最後のご質問はどのあたりをお聞きになりたいのでしょうか?
「謝罪の要求が暴力構造になっている現代」とか「人と人とが対等でありたい」とか、そういうあたりのことをおっしゃっているのでしょうかね?

そのあたりでしたら、それはおそらく私が一生涯をかけて目指そうとしているテーマであるような気もしますが、そこから「子育て」の分野に入っていったというのは…う〜ん、何でしょうね?(笑)

もちろん私個人の興味もありますが、「ご縁」というほうが強いような気もします。
学生時代から含めて、私が子どもと関わるようなことになっていくのは、実はほとんど「あちら側」からやってきたものであって、自ら率先して行なっていったのはほとんど無いんですよね。

ですから「気が付いたらこんなことになっていた」というのが、私の素直な感想です(笑)。
でも、たとえ何をやっていたとしても、自分はきっと同じことを目指していただろうと、それだけは確信しています。
Posted by RYO at 2010年09月20日 18:27
こんにちわ。

小学一年生の子どもを持つ身としても、タイムリーな話題をありがとうございました。

足し算は「もっともっと」・・・って感覚としてとても納得です。と同時に、4月に文字というものを初めて覚え始めた子どもの頭と感覚にいきなり入ってきた、ここ数ヶ月の勉強のあれこれを思って、うーんとうなってしまいました ^^;;

そういえばうちの子どもは、足し算より引き算が得意で、わたしはそれが不思議だったのですが、なんか腑に落ちました!
足し算は、貪欲なまでに無限の未知へ・・・
引き算は、いまここにあるものから内側へ、原点へ、回帰・・・

RYOさんが上のコメントで書かれていた、子どもがあっちゃこっちゃへ移動する算数運動、すごいアイディアですね!!感動!やりたいやらせたい是非とも!っっつと、深夜に盛り上がってしまいました ^^;;
Posted by 真次 at 2010年09月21日 01:12
こんにちは。
お子さんがこの春から小学校に通ってらっしゃるんですね。

でも足し算よりも引き算の方が得意な子というのは、けっこう多いんですね。
日本もまだまだ捨てたもんじゃ…(笑)

上のコメントで書いた「算数体験」というのもふっと思いついて書いたのですが、
そういう身体感覚としてからだを通して知に触れていくということは、
最初の出会いほど大切ですよね。

学校ではなかなかやらないかもしれませんけれども、ぜひぜひおウチで何かを数えるときなどに、「からだで算数」してみてください。
きっと子どもも喜ぶと思いますよ。
Posted by RYO at 2010年09月21日 07:03
Ryoさん ありがとうございます。
シュタイナーを知ってからと言うもの 本当に 素晴らしい事もわかるのですが、 人に伝える事となると 私の感覚をわかってもらう事が必要なくらい 言葉が上手く出せなくて、 
でも 本当に わかりやすく 解説されていて 感動です!
体で算数は ドッチボールみたいですね。
人が減ったり増えたり、
算数が得意な子は外で沢山遊んでいると 言われていた意味が わかった気がします。
なるほど!デスね。
コレから おやつは ワンホールのケーキなどを切ってあげようと思います。
まずは 一つなんだよ! ってね。

また 勉強させてもらいます。
Posted by breeze at 2010年11月10日 08:56
コメントありがとうございます。
人に伝えるって難しいですよね。とくにシュタイナーのようなものならなおさら。
私も悩ましくて悶えながら言葉にしていく毎日です。

からだで算数に入っていくのはやっぱりとても自然なことだと思います。
ケーキをみんなで分けて食べるなんて、それはまさに「生活の算数」ですもんね。
ぜひぜひ食卓を学びの場にして楽しんでみてください。
「算数って美味しいね」、そんな学びができるのは子どもにとっても嬉しいことですね(笑)。
Posted by RYO at 2010年11月11日 08:46
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