この前の記事で、 蔵に奉られていた神様たちを調べるにあたって、昔読んだ古事記の解説本などをパシャパシャめくっていたら、 そういえば前にふと疑問に思っていたことを思い出した。
それは、古事記では「似たエピソードが二度くりかえし語られる」ということである。
内田先生が著書『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(内田樹、海鳥社、2004)の中で「二度、くりかえし語られること」について、
たいへん興味深い論述を繰り広げられているけれども、日本の神話「古事記」においても同じような記述方法がとられている。
何しろ始まりからして「七柱の神が次々登場してはそのまま身を隠してしまう」という奇妙なエピソードから始まるのである。
「登場、そしてすぐさま退場」という「前言撤回」で物語が始まる。
国生みに関しても最初のまぐわいでは蛭子(ひるこ)が生まれてしまい、「女が最初に声をかけたのが悪い」 という理由から再度くりかえされる。
(このあたりのエピソードは女性陣も心穏やかではいられないかもしれないが、なにしろ「昔の話(笑)」ですので、 「そんな時代もあったのね。」と笑い飛ばしてください。)
「黄泉の国へ妻のイザナミを迎えに行きながら恐怖で一人逃げ帰って恨まれるイザナギ」と、
「根堅洲国でスセリヒメと出会いスサノオの祝福を背に二人で帰ってくるオオクニヌシノミコト」のエピソード。
「姿を見てはいけないと言ったのに夫に見られて(実はゾンビだった)郷里へ逃げられてしまい恨みを抱くイザナミ」と、 「姿を見てはいけないと言ったのに夫に見られて(実はワニだった)それを恥じて自ら郷里へ帰るが愛し続けるトヨタマビメ」のエピソード。
「火の神を生んだことによって火傷で死んでしまうイザナミと殺される子ども」と、 「炎の中で出産するが母子共に無事に生き残るコノハナサクヤビメ」のエピソード。
「困って逃げ込んだ根堅洲国でスサノオに邪険に扱われるオオクニヌシノミコト」と、 「困って相談しに行った海の国で海の神に大歓迎されるホオリノミコト」のエピソード (ちなみに共に神具をもらって娘を伴侶として郷里へ連れ帰る)。
…などなど。
挙げていけばまだまだありそうだが、どれも「ちょっと違う似たエピソード」として繰り返し描かれており、 それもだいたい後に語られる話の方が「ちょっといい話」になっている。
内田先生は同著の中で「反復が欲望を点火する」と言う。
「ハイデガーの「真理」と同じく、「謎」もまた単独では存在しない。 何かが二度繰り返されるときにはじめて「謎」は生成する。「謎」が「謎」となるためには二度何かが指示されることが必要だ。「ア・ レーテイア」と同じように、一度目は示すために、二度目はそれを取り消すために、そのときに人は、「それは何か?」 (quod)という問いを発せずにはいられなくなる。」
(『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』内田樹、海鳥社、2004、p75−76)
「咄家殺すに刃物は要らぬ。三度続けて褒めりゃいい。」
という言葉があるが、それは内田先生の論によるとつまり、咄家を三度続けて褒めちぎることで「お前は一体何を言いたいのか?」 という疑念を思わざるを得ないような「呪い」にかけてしまう(笑)、ということになる。
私は古事記もほかの神話も舐める程度にしか読んだことがないので、深いことは良く知らないけれども、このような「前言撤回」あるいは
「反復朗誦」という物語の構造は、世界中どこでも見られるものではなかろうか、と思う。
「はじめの言葉」と「つぎの言葉」のその狭間、そしてちょっと違うそのズレにこそ、決して言葉にはならない「言外の知(謎)」 が潜んでいると思うのだ。
生きてる言葉は必ずズレる。矛盾する。
ズレるその仕方、矛盾するその狭間に、とどまることのない「言葉の運動性」が宿るのではなかろうか。
動き続けるモノ、変化し続けるモノを捉えるためには、ある程度の空間(遊び)が必要であり、そのためには何かで囲んで「間」 を作るしかない。
そしてそれは、ズレたモノ同士、矛盾したモノ同士という、お互いのあいだに「隙間」のあるモノ同士を配置し、 囲むことによってしかなしえない。
矛盾で挟むことによって言葉は生きたまま捕獲され、その運動性を損なうことなく封じ込めることができる。
だいたい先人の遺した教えをひもといてみれば、そこは矛盾のオンパレードである。
私も勉強していて正直、「言ってることが違うじゃねーか! どっちなんだよ!」と叫びたくなることもよくある。
けれどもそれは浅学の私の浅はかさであって、ホントはその違いこそが大切なのである。
(…ということにしておく。とりあえず。だってそうしなきゃそれ以上考察できないもの。)
つまりおそらくは、先人の教えとは「矛盾を矛盾のままに受け入れる」ということを暗に示しているのではないだろうか。
「ダブルスタンダード」ならぬ「マルチスタンダード」をこそ身に付けよ、と。
そうすると、それが胆力を磨く「行法」の発展、継承に直結してくるということに気づく。
なぜなら、矛盾の受け止めどころは「頭」ではなく、「肚(はら)」だからである。
頭でっかちは矛盾を許すことができないが、肚のでかい人は矛盾をそのまま受けとめる。
肚のできた人は酒でも飲めば、「よかよか。よかばってん。」と、どんな矛盾も清濁合わせて内腑に呑み込み、呵呵大笑である。
頭は矛盾を一つのスタンダードで語れるように、うまく整合性を見つけて説明しようと試みるが、 肚はそのまま受けとめて矛盾を言語化しようなどとはしない。
一つのスタンダードに沿ってクリアカットに論じるのは頭の専売特許であるが、それがもっとも効力を発揮するのは平常時である。
つまりおおむね環境条件が予想どおりであること。
理論がすべて仮定と定義の列挙から始まるのはそれゆえである。
それに対して肚は、環境条件が予想を超えて変動するとき、つまり窮時に際してもっともその力を発揮する。
激変する環境に一つのスタンダードでは対処しきれなくなったときこそ、「ワシの七つ道具の出番じゃのう。」 とマルチスタンダードを備えた者の出番なのである。
知に働く人が予定通りの進行を目指し、肚で動く人がお祭り騒ぎを起こそうとするのはそれゆえである。
「場」を、自分のパフォーマンスが最大限発揮できるような環境に作り上げようとするのは、生物として当然といえば当然。
切れ味抜群だけど折れやすく使い回しができない刀(頭)と、なまくらだけど頑丈で非常に使い回しが利く刀(肚)と、
どちらもとっても大事である。
「切れ味抜群でしかも頑丈な刀が一本だけ欲しい」と思うのは、人の性かもしれないが、もし万が一そのような刀を手に入れたときは、 「気をつけたほうがいい」とだけ言っておく。
妖刀の虜になって浮世で生きていけなくなる人が稀にいる。
……。
結局、話が思いっきり飛んでるな…(笑)。いつものことだけど。
え〜っと、何の話だったっけ?
そうか「古事記」の話か。
「古事記」から「妖刀」へ。
…あながち外れちゃいないか(笑)。


私ごとですか、西のことと、東のこと、そしてその間の影響関係を考える身で、時々どちらにも属しているようで、それゆえにどちらからもはみ出しているような・入りきっていないような・アンヴィヴァレントな立ち位置をうろうろ(笑)しています。そんな私には『矛盾をそのまま丸ごと受け止めるマルチスタンダード』という視点は、何かとても響くものがあります。抱えている場をいま少し高く広いところから止揚できそうな、そんな可能性を考えつつ、残響をとらえようとしています。ありがとうございました。
私には経験がないので分かりませんが、極東の人間が西の地に身を置くと、何とも言えない複雑な居心地というものをどこか感じるのでしょうか。
もっとも同じことが日本でも言えるのかもしれませんが。
でも、どちらからもはみ出しているようなアンヴィヴァレントな立ち位置って、とても不安定でしんどいかもしれませんが、一番何事かをなしえる立ち位置ですよね。
トリックスター的存在と言いましょうか。
どちらの立場にも寄り添えるってすごいことだと思います。
おくればせながら、ブログふっかつありがとうございます!めいそうきょうだいとしてあにきのふっかつをこころからたのしみにしておりました!
たいへいようにうかぶエメラルドのしまじまよりおいわいもうしあげます。
こんかいの『矛盾をそのまま丸ごと受け止めるマルチスタンダード』というひょうげんは、わたしがしゅっぱつするまえにIせんぱいからいただいたようろうたけしさんのちょうバカのかべにもにたようなひょうげんがありました。がんらいにほんじんはむじゅんにみちたかんきょうでいきてきたとのことです。
よければRYOさんのツンドクリストのじゅんばんまちにくわえてください。
ではでは。よみにくいぶんしょうですみませんでした。Selamat Tidur!
しかし「明鏡壮大」とはまたムズカシイ四字熟語を…と思ったら「迷走兄弟」ね。
なるほど、兄弟よ。
「バカの壁」はすでに読んだのだけれど「超」の方は未読であります。
ぜひぜひ読みたいと思います。
矛盾を抱えながらその毒にやられないタフな身体と精神を練り上げてゆくことが、古来より日本人が鍛錬の末に目指した境地だと、私は思っております。
たった一枚の布切れ(風呂敷)を、バッグにしたり包装紙にしたり敷物にしたりしてしまうフレキシブルな知性を、ぜひ身に付けようではないか。兄弟。
えっとすいません。
使われている言葉を存じ上げませんで、文章の意味が分からずお返事しかねるのですが、浅学の私に言葉の意味をご説明願えますでしょうか?