昨年末に亡くなった知人の偲ぶ会が先頃あったので、参加してきた。
精神障がい者だった彼は、とても明るくいつもみんなの話題の中心になるようなそんな人で、私のボディワークの時間にも必ず参加して、場をにぎやかにしてくれていた。
その彼が子どもの頃によくお母さんに、「カナリヤ」の歌をせがんでは歌ってもらっていたという話を聞いた。
彼が亡くなる数日前に、お母さんが彼と二人で道を歩いているときに、彼が突然思い出したようにそのことを語り、道すがら二人で一緒に歌ったそうである。
いい話である。
ひょっとしたら彼も何かの気配を感じていたのだろうか…。
ご存知の方も多いかと思うが、大正期を代表する童謡詩人である西条八十作詞の「カナリヤ」とは、こんな歌である。
歌を忘れたカナリヤは
後ろのお山に棄てましょか
いえいえそれはなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは
背戸の小藪に埋け(埋め)ましょか
いえいえそれもなりませぬ
歌を忘れたカナリヤは
柳の鞭でぶちましょか
いえいえそれは可哀相
歌を忘れたカナリヤは
象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた歌を 思い出す
う〜ん…美しい歌だなぁ。
最後の光景など、その美しい画がありありと目に浮かぶ。
子どもの彼が、この唄のどの部分に魅かれて母にせがんだのかは分からない。
でもこの歌は、その意味をじっくり味わってみるとホントに深いものがある。
「歌を忘れたカナリヤ」とは、いったい何なんだろうか。
カナリヤというのは、とてもかよわくフラジャイルな存在である。
かよわく、はかなく、傷つきやすいものの象徴として、カナリヤはある。
昔、人は炭鉱の採掘に入るときにカナリヤを連れて入った。
炭鉱は、ときに極めて危険な有毒ガスが発生することがあって、それに気づくのが一瞬でも遅れると大勢の死者が出かねない、そんな危険な現場である。
だから彼らはカナリヤを連れて入った。
かよわく、はかなく、傷つきやすいカナリヤは、ほかの誰よりも早く毒ガスに反応し、まず歌うのをやめ、そして倒れる。
人はその姿を見て危険を知り、その場から逃げるのだ。
誰よりも早く傷つくカナリヤは、その身を呈してみんなに危険を知らせる。
「これ以上ここにいてはいけないよ。これ以上進んだらもっと傷つく者が出るよ」と。
誰よりも早く傷つく者は、誰よりも早く気づく者である。
私たちの誰の中にも「かよわきもの」はある。
誰しも、かよわく、はかなく、傷つきやすい。
私たちの誰の中にもカナリヤはいて、そして私たちの誰もがカナリヤだ。
もしそのカナリヤが歌を忘れてしまっているなら、それはいったい何故なんだろう。
いや、そもそも私たちは、自分の中のカナリヤときちんと向き合っているのだろうか。
私たちは「人は強くならなければならない」とそう信じ、かよわさや、はかなさや、傷つきやすさは克服すべきものと、そう思ってやしないだろうか。
そして自らの内にあるそういうものを、脇へ押しやり、目を背け、無視してしまってはいないだろうか。「こんなことではいけない」と、必死にそれらを棄てたり、埋けたり、ぶったりしてきてはいないだろうか。
もしそうだとしたら、カナリヤから歌を奪い、命まで奪おうとしているのは、ひょっとして私たち自身であるかもしれない。
はかなさや、かよわさや、傷つきやすさといったものは、克服すべきものなどではなく、むしろともに寄り添いながら生きてゆくものであるだろう。
それらと静かに添い寝して、そのかすかな歌声に耳を傾けていくことが、私たちに何か大切なことを思い出させてくれる。
はかなさや、かよわさや、傷つきやすさは、私たちに大切なことを気づかせる大事な能力だ。
傷つきやすいことは、決して悪いことではない。
むしろ傷つきやすい人こそ、まわりに大切なことを教える役目を担っている。
私は精神障がい者の人たちと付き合うたびに、まるでそのことを教えてもらっているかのようで、亡くなった彼もまた私にそのことを教えてくれていたのかもしれない。
自分の中の「傷つきやすさ」に、目を背けたり、耳をふさいだり、あるいは陰に追いやったり、そんなことをしないで、ぜひとも静かにじっくりと添い寝をしてあげてほしい。
耳を澄ませばきっとあなたの中のカナリヤは、今も小さな声で儚く美しい歌を歌っているに違いない。
象牙の舟に 銀の櫂
月夜の海に浮かべれば…
きっと
忘れた歌を 思い出す



…耳が痛いです。
これまで“ポジティブ”の言葉を裏にどれだけの自分を隠してきているのか。
まあ、最終的に自分自身を認めていいことも悪いことも全部ひっくるめて大きく引き受けて入れるうちはいいのかなあ、と思ったりしますが。
障害を持った方々は本当にただただ純粋なんです。
できるだけ社会のルールに順応させてほしいとご家族の要望でケアに入らせてもらっているのですが…“カナリア”の存在があり、どうやって見守っていくべきか悩んでいるところです。
じっくり時間があればいいのですが、正直今の介護状況ではなかなか難しいんですよね。
でもこれからも何とか出来る限り見守っていきたいです。
どう出していくかっていうことは人間の課題ですね。
でもそれもすべてまずは認めることから始まるでしょう。
自分の中の弱さを、自分の中の悪を。
最近ホントに人間というのはすべてがダダ漏れだということを感じてならないのですが、
弱さや悪を認めず隠し続けていると、(本人が隠しているつもりなだけですが…)
本人の自覚していないところからダダ漏れしていくので、
それってけっこうややこしいことになっていくんですよね。
でも大事なことだと思うんです。弱さも悪も。
隠す必要ないじゃないって思うんです。
出したら叩かれる、出したら責められるって、
それだけが記憶に残ってしまっているのかもしれないけれど、
カナリヤのように出し方によってそれはとても大切なメッセージになるわけです。
弱さや悪をそのまま出すと、社会の文脈の中でははじかれてしまうわけですが、
それをどういうふうに出していくか、あるいはどういう文脈に置いていくか、
それによって居場所ができてくるのではないかと思います。
昔はそうでした。出し方の技術も、社会の文脈もあった。
おそらく現代は、障害者の人たちの社会的な文脈を変えていくということが、
ひとつのテーマになるのかもしれませんね。
今回のブログ、 そんな時 いつのまにか覚えてしまった詩を思い出しました。 いつのまにか たましいのことをかんがえている もし おまえのなかに 静かな苦悶というものがあるならば 急に冷え込んできた木曜日の夜の かわいた空気にからだを晒し ものを思わず 気の済むまで涙を流すことだ やがて かたかたかたかたと 終電車の通りすぎるおとが響いてくる 生まれる前の記憶のおくに またうごきはじめようとしている 心臓があるね と だれかがささやく 眠りの入り口で おまえは 今夜もどこかへかえりたがっているのか
自分の中のフラジリティを大切にするということは、
たぶん誰にとっても大事なことなんだと思います。
現代社会の過剰な刺激から少し遠ざかって、
静かな中に身を置いて自分の中のカナリヤの声を聴く。
現代人に必要なのは、そんな「無為な時間」かもしれません。
唄わなくなったカナリアを棄てようか埋けようか迷っていた時に、フッと新しい仕事の話が舞い込んできました。
どうしようかな。と思っていた時に、先生が講座でカナリアのお話をされました。
なんだかふとつながるような気がして、数日間 月夜の海の事を考えました。
他の人の唄を聴きながら自分の唄を聴くのはむずかしいですね。
太鼓をたたきながらも考えていました。
みんなでカナリア合唱団が出来たら楽しそうだな。と。
たしかにカナリアの歌は、他の人の歌を聴きながら自分の歌を聴くのは、とてもむずかしいかもしれませんね。
それぞれがとても繊細な歌声ですから、ぶつかり合うとともに消えてしまうかもしれない。
でももしカナリアの合唱ができたら、それはとても美しいハーモニーを奏でるでしょうね。
ひょっとしたらこれ以上ない歌声が聴けるかもしれない。
私もいつかそんなときが来ることを夢見ています。
母の歌声とともに、懐かしく思い出しました。
弱さを受け止める強さを考えさせられました。
これからは、このはなしを思い出しながら、
母の声を思い出しながらシッティング中「カナリア」を歌おうと思います。
西条八十と同世代の野口雨情は、
「日本人を育てるためには、日本の土の匂いのする
郷土童謡の力によらねばなりません」
と言っておりますが、私も本当にそう思います。
弱さとか、儚さとか、傷つきやすさとか、
社会の進歩の中でなおざりにされてきてしまったものを
もう一度見つめ直すことはとても大切なことだと思います。
こどもは、学校ではたくましくなれと指導されています。
傷つくことに蓋をして、無理矢理忘れようとしてしまいがちですが
傷つくことと寄り添って生きていきたいです。
象牙の小舟を探しています。
私も久しぶりに自分の記事を読み返して、いろいろ考えてしまいました。
気づけば私自身も強くあろうとするあまりに、自分の中のかよわい部分を打ったり無視したりしていたかもしれません。
思い出させてくれてありがとうございます。
月夜の海に象牙の小舟。
忘れてはいけませんね。
とりあえず今夜は静かに星空でも眺めてみようと思います。