内田先生がブログで「不快という貨幣」と題して、 またトリッキーな言論を披露している。
これはまた読む者を触発しそうな内容だなぁ、と思っていたらやっぱりコメントもトラックバックもワンサカ来ている。
ハハハ…。もしかして内田先生、それを見てニヤニヤ笑っていたりして。
『貨幣を知るより前に、彼らは家庭内で「労働価値」 をはかる貨幣として何が流通しているのかを学んだ。
現代の子どもがその人生の最初に学ぶ「労働価値」とは何か?
それは「他人のもたらす不快に耐えること」である。
こう書くと驚く人が多いだろうが、考えてみると、まさにこれ以外にないのである。
現代日本の家庭内で貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に貨幣として認知するのは 「他人が存在することの不快に耐えること」なのである。』
『内田樹の研究室: 不快という貨幣』より抜粋
誰がつけたか知らないが、人間とは「人の間」と書く。
人間の本質とは「人の間」にあるらしい。
多くの「人の間」によって構成されるモノ、それが「人間社会」であると言ってもいいと思うけれども、人間社会において「人の間」 はつねに「何か」がやり取りされている。
「人の間」でやり取りされる「何か」は、あげればその種類は数限りなくあろうけれども、その中でも特に、ものすごい勢いで世界中の 「人の間」を駆け巡って、大勢の人を結び付けていくモノといったら「お金」であろう(でもすでに「人の間」じゃなくて「機械の間」だけど)。
「お金」は「貨幣」とも言われるが、その「運動」もニュアンスとして含めた言葉として、
「通貨」とも呼ばれる。
「通貨」とはもともと「流通貨幣」の略であるそうだから、「流れる貨幣」ということであるけれど、goo辞書によるとその意味するところは 「流通手段として機能する貨幣」であるらしい。
「流れるお金」が「機能するお金」であるならば、「流れないお金」は「機能しないお金」ということである。
確かにタンスにしまわれた1万円札は何の経済効果も生み出さないが、100人の手を渡った千円札は10万円の経済効果を生み出している。
なるほど、それゆえ「お金の危機」は、「通貨危機」であって「貨幣危機」ではない。
(「機能していないお金」がどうなろうが、誰も知ったこっちゃない。)
やろうと思えば私は莫大な「貨幣」を造り、発行することができる。
けれども私の造った「貨幣」など誰も受け取ってはくれない。
私だって要らない。
なぜなら私の貨幣(正しく言うならば「私」)など、およそ信用できないからである。
よしんば心ある親友が受け取ってくれたとしても、 おそらくその貨幣は私を相手にしてしか使われない(不良債権と化すかもしれないけど)。
私の貨幣を、誰か他の人のところに持っていって、
「これアイツんところに持って行けば一万円相当の品物と換えてくれるらしいぜ。」
なんて言ったって、おそらく誰も受け取ってはくれない。
「…オマエ、騙されてるよ。」
と、優しく諭されるだけであろう。
だから私の貨幣は流れない。通貨にはなりえない。
(そういえば日本の紙幣の紙面からいつのまにか「信用」の二文字が消えてしまったけど、いつからだろう? 昔は「日本銀行信用券」 だったのに、今はただの「日本銀行券」だ。ということは今、私たちは「信用」のないお金を使っているってこと? う〜む…。)
話がずれた。
橋本治さんは『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』(橋本治、集英社新書、2005)の中で「経済とは循環することである」
とおっしゃっているけれども、とにかく人のいるところ、必ず「何か」がやり取りされるわけで、それが「経済」の本質でもある。
「人間が経済活動をしているのではない。経済活動をするのが人間なのである。」とは誰の言だったか。
もし、内田先生の言うように、子どもが家庭内で「何」が流通し、循環しているのかを敏感にキャッチし、 その流れに参加しようということを、ほとんど無意識にやっているのだとするならば、まことに人間とは「経済活動をする生き物」である。
「人の間」を何が行き来しているのかを察知し、その「何か」の流通に進んで参加してゆく子どもたち。
まことに結構な事ではありませんか。
問題があるとしたら、
「あのね、これがお金というものなんだよ。これを示すと人が動いてくれるんだ。便利だろう?」
といって「不誠実なお金」の流通する社会を子どもたちに提示する、その社会の構成員たちだろう。
「怒鳴る」と人が動いてくれたり、「殴る」とお小遣いをくれたり、「泣く」と何でも許してくれたり…。
残念ながらその貨幣はけっこう「通用する」ので、確かに通貨となりうる。
「通用する」のであれば、通貨として皆が採用するのは当然である。
けれども「できるだけ『強い通貨』を採用したい」というのもまた人の性である。
だとするならば、「誠実」で「気持ちの良いもの」が「強い通貨」として流通する社会を、子どもたちには提示したいものである。
では、何を「強い通貨」とするかであるが、「強い通貨」と言われれば、それは「より皆の欲するモノ」であろうとふつうは思う。
けれども、貨幣の本質上、「良い通貨」とは「より素早くめぐるモノ」であるはずである。
…うん? …あれ?
「強い通貨」と「良い通貨」って違うの?
あれ? なんで? ねじれてるな…。
私の言いたいことが分からなくなっちゃったじゃないか。
4行まえの文章が要らなかったんだな。
でも書いちゃったものはしょうがない。
これから着地しようと思っていた滑走路を爆撃してしまった(笑)。
どうしよう? 誰か! 誰か滑走路を!


…ってRYOさんの本題とはほとんど関係ありませんね(笑)。
銀行に預けてあるお金はいちおう「流れ」の中に置いてあるわけですけど、それを全員が現金化して手元に汲み取ったら、「流れ」が干上がっちゃいますもんね。
でも、滔滔と流れるその大きな「流れ」から、「ちょっとくらい分からんだろ」と失敬している、寄生生物がけっこうたくさんいるわけですよね。
そのような寄生生物を干潟にさらして干すために、たまにみんなで水を汲み取ってしまう、というのも必要なことなのかもしれませんね。
でも、そうすると日本のみならず、多くの関連諸国で混乱が起きてしまうでしょうけど。
そうならないためには、もう一つ別の「流れ(用水路)」をあらかじめ用意する必要があるかもしれませんが、そうするといち早く察知した「賢い」寄生生物たちは、そちらに引っ越し始めるんだろうなぁ。
…フェイントかけて劇物流してみたりして。