2009年05月17日

量子の見る夢

いやぁ、もう何というか非常にドラマティックなゴールデンウィークだった。

とってもドラマティックだったので、いまだにどんな文脈の中に位置づけていいのかよく判らず、ぼんやりと考え続けている。

前回のブログでは滝に行ったと書いたが、その後プロセスワークの創始者であるミンデル夫妻(アーニー&エイミー)の3日間のワークショップに参加してきた。

プロセスワークの土台となっているものは「プロセス指向心理学(POP)」と呼ばれるもので、今まで興味は持ちながらちっとも勉強してこなかったのだけれど、今回参加するに当たって本を読んでみたら非常に面白かった。もっと早く読めばよかった。

でも今だから深く読めるのかもしれないし、出会うべきときに出会ったのかもしれない。


「プロセス指向心理学とは何か?」という質問に答えるのはなかなか難しい。

もちろんそれは「私がまだよく知らない」ということが一番の理由であるが、それ自体のもつ包括的で動態的なスタンスにも拠る。

何と表現すればいいのか分からないが、プロセス指向心理学とは「ユング心理学と東西のシャーマニズムと量子論のアイデアをミキシングしたもの」であり、プロセスワークとは「とりあえずそれを動いてみたもの」である。

どれもすごいのだけれど、この「とりあえず動いてみた」というところが、私にとっては何よりすごい。

それはミンデル夫妻の絶妙なチームワークによって支えられていた。

プロセスワークの場で起きていることは、とってもシャーマニックなことであり、夢や神話の世界の表出であり、波動関数の収斂の体現であり、重苦しい重力場からの解放であった。


量子論については私も語りだすと止まらないくらい関心を持っているのだけれど、とてもこの場で説明できるものではないので、ここでは触れない。

ただひとつだけ簡単に説明しておくと、量子論の数あるアイデアの中からミンデルが特に注目して取り入れていたアイデアとは、「量子のもつれ(⇒Wiki)」であり、「量子の非局在性」というものである。

つまり、「量子は時間も空間も越えてつながりあっている」というアイデアだ。

量子はたとえ何千キロ、何万キロ離れていようと、片割れが変化するとその情報が瞬時に伝わり、何千年、何万年前の「過去の振る舞い」が、「現在の観測」によって事後的に決定されるという、時も空間も越えた不可思議な振る舞いをするのだけれど、ミンデルはそれを私たち人間存在にも採用した。

私たち人間にもそういうことが起きているんじゃないか、と。


私たちの通常の世界観から照らし合わせて言えば、そんなアイデアを導入するのは、荒唐無稽といえば荒唐無稽、ナンセンスといえばナンセンスだ。

けれどもその話を聞いて私の心が深いところで打ち震えることは確かだし、からだの奥から熱が湧いてきて元気になるというのは、まぎれもない事実なのだ。

そしてそのアイデアによって場が立ち上がり、何事かが起きていく。

まるでそうとしか思えないような出来事が積み重なってゆく。

いったい何が起きているのだろう?

とうてい私たちのリニアル(線形)な言語体系では説明できないことが起きているわけだけれど、その並走し重奏している現象は、はっきり私たちの中の何かと対応しあっている。

ミンデルはそれを「ドリームランド」と呼んだ。

私たちはみんな、いつだって夢を見ている。


今回、ワークショップの最終日、私たちは何の因果かデモンストレーションとして200人近くの聴衆の前に出されてワークを行なうことになってしまった。

みんなに見つめられながら叫んだり踊ったり言い合ったり、いろんなことをしたのだけれど、最後に私は死んだ。死体になった。

ミンデルが「ここにゴーストロールがいる」と床を指差した瞬間、思わずからだが動いていた。
(「ゴーストロール」とは、その場にいないのだけれど影響を与えている役割のこと)

考えるより早く、私はミンデルの脇をサッと抜け、そこにバタリと仰向けに倒れた。

そこで起きている出来事に会場は静まり返り、会場のあちこちからすすり泣く声が聴こえた。

すすり泣く声を聴きながら、しばらく私は死体になっていた。

ワークをしている私たちと、それを観ている人たちと、いろんな夢がそこで交錯していた。

私はみんなの中のゴーストとして、そこで死んでいた。

遠い静寂。 流れ込む夢。

そこで私が何者だったのかは、誰にも言えない。

誰でもあり、誰でもない、誰か。

何が起きていたのか、あまりに多くの物語が殺到していて、これとはっきり言えるものはない。

けれども私はそこで確かに死んだのだ。

その意味はこれからゆっくりじっくり考えていきたいと思う。

posted by RYO at 21:31| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>思わずからだが動いていた

>考えるより早く

というのが、なんというか、うーん、
おもしろいというか、何なのだろうなあ、
でもそこには真実があるなあ(というか作為がないなあ)
などなど、

自分がその場にいたわけじゃなく、
まったく状況が想像とか把握とかできないにもかかわらず、
これを読んだだけで、
胸の中で何かがざわざわと喚起されて波が立つような気がしています。
(こういうのは実に言語化しにくいですね←愚痴ではなくて、ニュートラルに)
Posted by うきき at 2009年05月21日 01:12
そうですねぇ。
あれは本当にパッとからだが反応しました。
「自分はそこに行く」と。「それは自分だ」と。

周りの反応はまったく見えていませんでしたけど、
ちょっとビックリした人もいるかもしれないですね。
ひょっとしたらミンデルもビックリしていたかも。
突然すぐとなりからバタリと倒れこみましたから。
一緒にワークしていた人も「あれは早かったね」と言ってました。

ワークっていうのは、こういうのがいいですね。とってもいい。実にいい。
考えずに、意味も分からずに、思考や判断を介さずに、
動いてしまうからだに完全に任せてしまっていい。
そんなことが許されている場っていうのは、日常ではなかなかありませんからね。

「ここに死人がいる」と言われて、「あ、それオレ」とその場ですぐ死人になっちゃえる。
この高速のレスポンスの内で起きている出来事は、
じつはすごく深いことだと思います。
Posted by RYO at 2009年05月21日 07:40
いままでどうしてもわからなかったミンデルが、わかったような気がしてきました。

感じること、受け取ること、創ること、だったんですね。

これまでずっと、あまたのなかだけで考えていたような気がします。
Posted by 世捨て人 at 2009年05月30日 12:26
私も今回のセミナーと一冊の本を読んだだけですので、
まだまだまったく十分には分かっていませんけど、
からだの中で動くものを大切にするということはやっぱり重要なんだと思います。
感じて、受け取って、表に表わすこと。

それをどういう経路を通して表に表出するか、ミンデルはチャンネルと呼んでますが、
そのチャンネルをいろいろ探りながら、一番ベストなチャンネルを見つける。
言葉にするのか、視覚的イメージにするのか、動きにするのか、音にするのか。
いつも頼っているチャンネルを切り替えていってみると、
何か別のカタチをもって浮かび上がってくるかもしれない。

やはり自分の中で「切り替えていける」ということは、
何かに居着き、凝固し、病んでいかないためにも大切なことですね。
Posted by RYO at 2009年05月31日 06:43
このようなことを見ず知らずの人にたいして言うというのは、かなり気が引けることなのですが、RYOさんの思考というのは、図書館の書庫のようにすっきりと整理されているので、文章がほんとうに読みやすく、わかりやすいですね。

ふつうの人のあたまのなかというのは、それこそ「量子のもつれ」状態にあって、わかっちゃいるけど言葉にできないという感じで、これを称して「暗黙知」といったりすることもありますが、早い話しが、あまりかしこくないとも言えるわけで、私なんぞもそのなかのひとりでありまして、このようにズルズルと自分のおもったことを、句読点を打つでもなく書きつらねてしまうようなことになるわけであります。

 昨年の11月の記事にある「語り継がれる知恵」は、「おお、そうだったのか」と、おもわずひざを打つといったほどのわかりやすさでありました。すべてのものは流れてなくちゃーならないのですねー。気もエネルギーもよどみなく流れてなきゃならない。

 心が何かにひっかかっていると、この流れが途端にわるくなってくるというわけですなー。チクセントミハイという人が「フロー」なんてことを言っているようですが、身も心も「フロー」というのが、いちばん自然で理にかなっているというわけなんでありましょうね。

気もエネルギーも流してやる。私のようにちょっとおつむの方が「抜けている」というのは、こういう場合、はなはだしく都合がよいということになるわけでありますな。
Posted by 世捨て人 at 2009年06月02日 15:11
過分なお褒めの言葉、どうもありがとうございます。
私としては、私の文章はややこしくて分かりづらいんじゃないかと思っていたのですが、
そのように言っていただけると、「ああ、こんな自分でも生きてていいんだな」と、
なかば本気でそう思います(笑)。

「ひざを打つほど分かりやすい」とおっしゃっていただいた「語り継がれる知恵」は、
「はて、そんな記事書いたかな?」とすっかり失念しておりましたが、
自分でもう一度調べてみたら確かに書いておりましたね。
いやいや、私のアタマからもすっかり流れ去っておりました。

そう、でも確かに流れていなくちゃ生きてはいけない。
「考える」というのはある意味、「とどめ置く」という作業でもあるので、
そういう意味では「あまり考えない」ほうが健康に生きていけるんですよね。

でもあんまり考えないと、今度は人に迷惑をかけることがあり、
ひいてはそれがまた自分に帰ってきたりする。
う〜む…悩ましいところでありますね。

結局のところ、「流し方」「表現の仕方」というものを身に付けねばいけないのですな。
どんどん流しながらもそれが他人に迷惑をかけることが無いカタチに。
私の中では今、その作業は「発酵」という現象と猛烈にリンクし合っているところです。
自分の中に滞る負のものは、「すべて発酵させてやるぜ」という勢いです。

嗅げば芳醇に、舐めれば美味に、飲めば夢に酔うように。
それが発酵。 Viva! 発酵!
Posted by RYO at 2009年06月02日 23:06
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