2009年05月03日

【音声】宙に散らばる物語

どうも皆さん、こんにちは。
GWのさなか、いかがお過ごしでしょうか?
今日も、雑念する「からだ」の時間がやってまいりました。


…な〜んて、いきなりラジオ風に始めてみましたけれど、これも前回触れたように私が試しているいろんな表現の一環なわけでありまして、皆さんには毎度のことながらお付き合いいただいて申し訳ないかぎりです。

けれども、もしもし お許しいただけるのであれば、どうぞよろしくお付き合い。


さてさて、今年のGWは高速料金が1000円になって、各地の高速道路が大渋滞になっているそうですが、皆さんはいかがお過ごしでしょう?

私はと言えば、GW突入初日に滝にバシャーッと打たれてきまして、煩悩のかぎりを洗い流してこようかと思ったんですけれども、師匠にいきなり「キミ、一番手ね」と予想外の特攻隊長を仰せつかったことに、思いがけずたじろいでしまって、その後みんなのサポートに滝場を走り回っていたにもかかわらず、次の日はクシャミと鼻水が止まりませんでした。

ええ、ええ、修行が足りません。

それとも鼻と口から煩悩が排泄されていたのでしょうか。クシュン。


まぁそれはともかく、みんな遊びまわっているGWにシコシコとブログの文章を書いているのもなんですので、今回は私の講義録の音声ファイルから、適当に切り取ったものを生声のままで載せてみようかと思います。

ネットというのはいいですね。こんなこともできるんですね。

自分の声をそのままネットに載せてみるというのは、なかなか気恥ずかしいものでありますが、まぁこれだけいろんなところでしゃべっておきながら、今更それもないだろうということで、とりあえずやってみるのでありますよ。

リアルな私をご存知の方は、「ああ、また何かしゃべってるな」と愉しんでいただいて、まだリアルな私をご存知でない方は、「へぇ、こんな声なんだ」と愉しんでいただければと、そんなことを思う次第であります。


これで私のブログは、テキスト(文)、イラスト(絵)、ヴォイス(声)と大きな3つの表現パターンを試してみたことになりますね。

テキストの中ではすでにいろんなパターンを試行錯誤しておりますが、これからヴォイスもいろいろ試していくのでしょうか。

ゆくゆくはやはりムービー(画)でしょうか。

さらにはソング(歌)やダンス(踊)も披露しなくちゃいけないんでしょうか。

最終的には何か別のモノに変身しなくちゃいけないんでしょうか(笑)。

人生一回、身は一つ。

さてさて、どうなることでしょう。


それはさておき、本日の音声ファイルの内容は、私の最近の講座のなかから「子どもに物語を聞かせる意味」を語った部分を抽出したものです。

まぁ、ウェブ講義ですね。

トータルにして30分足らずですが、前半後半に分けまして2つのファイルにして載せておきます。

そのまま再生したり、DLして何かに入れたり、どうぞお好きなスタイルでお聞きください。

音声で「疾走(失踪?)する雑念」を愉しんでいただければ幸いです。


タイトルはロマンチックに、「宙(そら)に散らばる物語」。

そう、つまりは星座と神話について語っているのであります。

前半はそのマクラ、後半はいよいよ神話の話に突入していきますが、でもいったいそれが整体や子育てと何の関係があるんでしょう?

それは私も分かりません(笑)。

聞けば少しは分かるかも。


ちなみにメニューは以下のようになっております。
できればフルコースで、あるいはお好みによってかいつまんで頂ければよろしいかと。
それでは興味のある方々は、しばしお時間拝借。


音楽 『宙に散らばる物語1』 【14:09】

 ・00:00  要求・運動・抑圧
 ・05:06  いろんな表現の練習
 ・07:14  物語にひそむもの
 ・10:15  無意識の発散


音楽 『宙に散らばる物語2』 【12:55】

 ・00:00  言葉が物語になるとき
 ・02:00  コンステレーション(星座)を読む
 ・06:32  すくいあげる神話
 ・08:15  変容する物語
 ・11:40  物語が人を支える

posted by RYO at 21:45| Comment(22) | TrackBack(0) | 音声 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
神話を作った人たちの気持ちを想像してみると、好奇心からか不安からかわかりませんが、説明せずにはいられなかったんだと思いました。

すーっと話を吸収できました。
そうだよなぁって私の体がいっておりました。ごちそうさまでした。
Posted by mitsuhiro at 2009年05月04日 20:28
いえいえ、お粗末さまでございました。
お付き合いいただきましてありがとうございます。

何かを見ると説明せずにはいられない、
というのは人間のさがですね。
私もまたその性にならっておりますが、
語って語って語りまくって、やがていったい何を説明しようとしているのでしょう。
Posted by RYO at 2009年05月04日 23:01
源氏物語・蛍の巻
「日本記などはただかたそばかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらね」
物語の中にこそ、日本書紀などの「正史」にはない、さまざまな人間の真実がある。物語に書かれていることは、良きにつけ悪しきにつけ、この世のほかのことではないのだ

なんていうのを、思い出しながら拝聴しておりましたうずめです
Posted by うずめ at 2009年05月06日 15:33
正史ではとても語られないことが
物語として、神話として、詩として歌として踊りとして
それでもなお子孫に語り継がれようと
権力者の目を逃れつつ、もがきもがいて変容して織り込まれていく。
そんな悲しい裏史であることも多いですよね。

正史が民族のもつ顕在意識であるとするならば
そのような裏史は民族のもつ潜在意識の部分と言えるでしょう。
私はそういうところこそを掬い取っていきたいと
いつも願って止みません。
Posted by RYO at 2009年05月06日 23:02
前半の、
「単語だけでは充分でなくて、
それらがつながって物語となってはじめて、
人の心に響く」
というところ、
(文言は正確ではないかもしれませんが)
なるほどなあ、と深くうなずきました。
理屈でどうこうというのではないんですが、
なにか深く納得しています。

RYOさんの書いていらっしゃるとおり、
ネットはいろいろなことができますね。
Posted by うきき at 2009年05月07日 01:08
ネットはホントに可能性の渦ですね。
もちろんあやうさもまた兼ね備えているわけですけど。

おっしゃっている箇所の辺りは、
ちょうどそのとき思いつきながらしゃべっているところですね(笑)。
(もっともそんなのばっかりですけど…)
だから私もまた、ぽつぽつと浮かんだ単語がふたたび消えていってしまう前に
何とかそれらをつなげあって、物語として後(跡?)に残るように
必死にバーッと言葉をつむいでいる最中なんです。

うたかたのように現われては消えてしまうものが一瞬織り成すカタチ。
それが私の口から言葉となって高速で飛び出してゆく。
私がしていることはむしろそこにブレーキをかける技術なのかもしれません。
今回自分で聞きなおしてみて、自分が思った以上に言葉を選びながら
ゆっくり丁寧にしゃべっていることに、我ながら感心いたしました(笑)。

ときどき私は真剣に、
「ワタシは誰がしゃべっているんだろう?」と、
疑問に思うときがあります。
Posted by RYO at 2009年05月07日 07:15
「語られるべき物語の一端」が
「しゃべっている」=「RYOさんという器を通じて、
外に出ている」
のかなあ?

(昨晩読んだ、南直哉『老師と少年』の半分受け売りですが)
Posted by うきき at 2009年05月07日 10:34
ホントに最近そんな気がしてなりません。

ここ1年くらい、何か言葉が場に出てきたときには
「それが誰の口から出たのかはさして問題ではない」
と考えるようになってきました。

その場に必要な言葉が誰かの口を介して出てくるならば、
それはその人が意識的にせよ無意識的にせよ
「言語化を引き受けた」ということなのだと
最近はただそんなふうに思っています。

そうすると人の発言って自然と平等なんですよね。
誰かの言葉は私の言葉だったかもしれないんですから。
人の言葉を本当にそうして聞くことができたら、
ずいぶん関係は変わってきますね。
Posted by RYO at 2009年05月07日 22:58
>誰かの言葉は私の言葉だったかもしれない

あ、「手考足考」ですね。
場の力がはたらいているんですね。

私は、言葉が「場に」出てくる、というふうに
とらえてみたことが、たぶん、あまりなかったのです。
「誰かが」口に出す、というふうにだけ考えていたと思います。
RYOさんのこのコメントを読んで、
図と地が反転するような、不思議な感じがしています。
おもしろいなあ。
しばし、このことを心にとめて、すごしてみます。
Posted by うきき at 2009年05月08日 01:27
そうそう。「手考足思」ですね。
私もあるときからそういう風な考え方をするようになって、
おっしゃるようにまるで図と地が反転するようなそんな気分になったのを覚えています。

あるときは私の口から顕れるかもしれない。
あるときはあなたの口から顕れるかもしれない。
またあるときは小さな子どもの口から顕れるかもしれない。
賢い者の口からも、愚かな者の口からも、
それは等しく平等に、顕れるときに顕れる。

なんだかもうそのときはただ頭を下げるしかないですね。
ありがとう、です。
Posted by RYO at 2009年05月08日 06:39
RYOさま

はじめまして。
音声ファイルの初試み、とても素敵です。ありがとうございます。

半月前にこちらのブログと出会い、丸3日かけて全文を拝見し、貪欲にもコメント欄まで覗いてしまいました。文章のお一つお一つが腑に落ちる連続のあまり、嬉しくて、パソコンの前で小躍りしたこともありました(笑)あーこれだー、と。勿論よ〜く頭で考えないと消化できない箇所もありましたが、からだの動きを根本に言語化されているので(ここが一番難しいのだと思うのですが。。)、時間の経過でハッと気付かされたりして、やはりその瞬間は幸せになりました。今後も拝見させていただきたいと思います。

気候変化の折、ご自愛くださいませ。
Posted by YUCO at 2009年05月08日 12:10
YUCOさま

はじめまして。
ブログ全部読まれたんですか? それはそれは…恐れ入りました(笑)。
このブログも書きはじめて4年目に突入していますから、かなりの量だったでしょう。
暴走する雑念に当てられて、頭がグルグルしてしまったりはしませんでしたか?

でも、小躍りするほど響いてくださるなんて、私もとても嬉しいかぎりです。
ありがとうございます。

日々いろいろ感じることあり、それを突き詰めて「ウ〜ッ」となっているうちに、
ゆっくりゆっくりそれがカタチを成し、やがていつか表に飛び出していったのが
このブログであり、講座の言葉たちです。

あくまで私のアタマに到来した雑念妄想ではありますが、
少なくともそれらに対して私自身は素直でありたいと、
そう願ってこれからも書き続けていきたいと思います。
どうぞこれからもよろしくお願いします。
Posted by RYO at 2009年05月09日 06:44
RYOさま

はい、全部読ませていただきました。
拝読中は、やめられない♪とまらない♪状態でした。RYOさまが「からだ」に丹念聴いた言語化の結晶を、言ってみれば、私はその「見えない宝の部屋」を盗み見ている気分にさえなりました。ただ、これだけインターネット上にお宝を放出できるのであれば、埋蔵金は計りしれないと思われます。何卒RYOさま御からだを大切に、これからもお過ごしください。

Posted by YUCO at 2009年05月09日 09:42
そうでしたか。
私の文章にカッパえびせん的症状を呈する作用があるとは
まったく存じ上げませんで(笑)。

私の言葉はお宝と呼べるほどのものじゃないかもしれませんけど、
それでも一人で抱えているよりも、どんどん外に出して共有したり、交換したりしたほうが
いいような気がしていますので、このようにバンバン出しています。

ですから私の文章もイラストもまったくコピーフリーですから、
どうぞ好きなところは好きなように煮たり焼いたり切ったり貼ったりして
自由に付き合ってあげてください。
またそこから新しい素敵な宝物が生まれるかもしれませんしね。
Posted by RYO at 2009年05月10日 06:48
>誰かの言葉は私の言葉だったかもしれない

私もこのごろ同じように感じています。

何かで答えを探しているようなとき、
短時間に同じようなフレーズを重ねて耳にすることがあります。

直接自分に向かってのアドバイスというだけではなく、
誰かが誰かにしているアドバイスだったり、
何気に交わされている会話の一部分だったりします。

そうして重ねて同じフレーズを聞くとき、あ、これは!・・・と思って大事に受け取ります。

ありがとう ですね。
Posted by sara at 2009年05月11日 14:33
>直接自分に向かってのアドバイスというだけではなく、
>誰かが誰かにしているアドバイスだったり、
>何気に交わされている会話の一部分だったりします。

そうそう、そうなんですよね。
どこで、誰が、誰に向かって、ということよりも
いま、ここで、その言葉が現れた(聞こえた)、ということのほうが
神話的な、夢見の世界のなかでは重要なんですよね。

夢や神話の世界ではすべてが融けあって、
不即不離であるということ。
最近ホントに切実に思います。

私の言葉は誰かの言葉かもしれないし、
誰かの言葉は私の言葉だったかもしれない。

私もすっと心に触れたモノやコトや言葉は
私の「何か」かもしれないと思って
「ありがとう」と大切に受けとっておきます。
Posted by RYO at 2009年05月11日 21:12
>一人で抱えているよりも、どんどん外
>に出して共有したり、交換したりした
>ほうがいいような気がしています

考えや想いも外に出して共有でき、交換できるものだと再認識させられました。交換した暁には、もっと素敵なものが他からやって来るかもしれませんね。発する前は何がやってくるか分からないことですが。

>私の言葉は誰かの言葉かもしれないし、
>誰かの言葉は私の言葉だったかもしれな>い。

やって来る「場」を整えるのが一番大事なことであって、己の目先のニンジンばかりを見る行為は「場」を乱しますね。

伝える行為を大切にしたいと思いました。

Posted by YUCO at 2009年05月13日 14:39
どんどん外に出して、みんなと共有したり交換したりするときに、
その出し方や表現の仕方、伝える方法というものには、
具体的な技術が必要になってくるかもしれませんけど、
(誤解を生んだり、傷つけたりすることがあるかもしれませんからね)
そこを丁寧にやってさえいれば、
ホントに素敵な場が生まれてくるような気がいたします。

「場を整える」。
いやぁ、いいですね。私のテーマでもあります。
おっしゃるようにそれはまた、
「どこまで自分を手放せるか」ということでもありますね。
自分というものを手放せたとき、場の一部である自分が見えてくる。
そのとき、場における自分の役割、自分の為すべきこと、
そんなものが分かってくるんじゃないかと思っています。
Posted by RYO at 2009年05月14日 07:25
RYOさん、こんばんは。
ふとうかがって、改めて聴かせていただきました。

今回初めて思いついたことですが、
この、RYOさんのお話を、
たとえば一言一句忠実にテキストに起こして公開するとします。

そうすると、それは、いま私が聴き終えたばかりのものとは
まったく(100%)とは言わないまでも、ほとんど(94%くらい)別のものになるだろうなあ、
という感じがしました。
どちらがよい、よくない、ということではなくて、
別物だという気がするのです。

お話は、まずは「人が、人に向かって、話す」ものだなあ、
文字ではなくて音声のものだよなあ、と
強く思ったのでした。
Posted by うきき at 2009年08月15日 00:38
こんにちは。

声と文字の違いというのは、わずかに見えてやっぱりすごいありますよね。
私もそれらは本当に別物だなぁと思います。

私も人の話を聞いているときには、私に向かってくる何か、想い、眼差し、情熱、
そういった何かものすごい指向性を感じるというか、返事を求められているというか、
相互的なインタラクティブな運動を感じてなりません。

何なんでしょうね。この違いは。
どちらも好きなんですけど、それぞれの良さがありますね。
最近はいろんな人の「声(語り)を聞く」ということに関心があって、
ネットで講演録などをダウンロードしては聴いてます。

でも、94%というのが面白いですね。
何でしょうね、その6%(笑)。
Posted by RYO at 2009年08月16日 08:36
6%……ほんと、何なんでしょうね?(笑)

時節柄(というのか)もあって、さらに思いついたんですけど、
64年前の玉音放送、
あれが、ラジオ放送(生放送だったのでしょうか?)じゃなくて、
例えば刷り物(号外みたいな)が配られたのだったら、
人々が受けた印象や衝撃は、質も量も、もうまったく別のものだったんじゃないでしょうか。
(ついでに言うと、発信する側も、「口に出す」のと「書く」のとはまたぜんぜん別の行為ですよね)

6%の残りの94%は、
「その言葉を発している人が(その時点では)生きてる(生きてた)」
っていう、その感じ、なのかなあ。
Posted by うきき at 2009年08月16日 20:10
玉音放送ですか…
う〜ん、なるほど、そう来ましたか。

あの放送は、おそらく現代の私たちには想像も及ばないくらいに
ものすごいインパクトを伴ったものだったんでしょうね。
それこそ聞く人の世界が崩壊してしまうくらいに。
どこかで「やっぱり…」とは思いながら、でも「そんなことがあっていいのか」とか…。

たしかにあれが刷られた号外のようなものであったら、
まったく違う印象を与えたんでしょうね。

声はやっぱり生きてるし、生々しい。
そこには言い淀みやら息継ぎやら躊躇いやら、ロジックとは関係のないところで
膨大にうごめくものが生々しく露わになっていますものね。
そこはやっぱり誰しもが言外に受け取っている。

文字はある意味、読む人がそこに命を吹き込みますけど、声はそこにすでに命があって、息づいていて、それに従わないかぎりは聞き取ることができないということ。

ソクラテスは書き言葉よりも語り言葉のほうに価値を置いたと言いますが、私も「リテラシー(読み書き能力)」というもの以上に、「オラリティー(聞き語り能力)」というものをもっと大切に育む必要があるということを、最近ひしひしと感じております。
Posted by RYO at 2009年08月17日 08:24
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