2008年11月09日

「気話会」講話録('07.11) (2/7)

●「俗」と「無知」

 最近、自分の中ですごく近いなと思うことがあって、それは「俗っぽさ」ということと「無知」ということなんです。まるで表裏一体のように感じる。「無知」っていうと誤解されるかもしれませんけど、「知ることができない」という状態を私は「無知」と呼んでいるんです。「目の前にまつ毛が見えているじゃないか」といくら口を酸っぱくして言ってみても、分かってもらえないようなことってありますよね。それがひどい症状になっている状態を私は「無知」と呼んでいるんです。知ることが、気づくことができなくなっている。正確に言うと必死に目を逸らしているんですけどね。まぁそれはともかく…。

 「俗っぽい人」というのは、自分の本当に素直な要求が分からなくなっていて、何かが足りないんで要求するんですけど、それが何なのか自分でもよく分からない。気づくことができなくなっている。それでできる限り多くの人が要求しているもの、要求しそうなものを要求するんです。みんなが欲しがりそうなものをむやみに欲しがる人を、私たちは「俗っぽい」って言いますよね。それは自分が何を欲しているのかよく分からなくなっちゃっているんです。

 自分が何を欲しているのかよく分からないときというのは、人はみんなが欲しがるものを欲しがるように振る舞うんです。みんなが欲しがるものこそ自分が欲しいものだと。でもそれがホントに自分の欲しいものとは限らない。というよりほとんどの場合そうではない。ものが欲しいんじゃない。みんなの注意が集めたいだけだったりする。だから手に入れちゃうともう要らないんです。すぐ次のものが欲しくなる。

 そういう振る舞いを見ていると、どうしても私はその人の中に何か空虚のような穴ぼこを感じてならないんです。満たされない何かがあって永遠に欲求し続けている。でもそこに触れることは深いレベルで禁止されてしまっている。そういうのって自分の中の素直な要求が見えなくなっていて、そういうふうにしてしまうのは、子どもの頃の環境、経験が大きいように思うんです。


 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という物語の中に「鳥を捕る人」というのが出てくるんです。その名の通り、鳥を捕って生活している人なんですけど、それが銀河鉄道の中に乗り込んでくるんです。それがいわゆる俗っぽい人として描かれているんですね。相手が何かすごいチケットを持っているとなると「それはすごい」「たいしたもんだ」とか言って振舞ってきわめて俗っぽい人物として描かれている。

 そうして他人をおだてたり褒めたりして人に媚びるような人が出てくるんですけど、主人公のジョバンニがその人を見ていてすっごくやるせない気持ちになって、「あなたが本当に欲しいものは何ですか」って言いたくなるシーンがあるんです。でも結局言えないんです。それを言っても何にもならないということをジョバンニはたぶん分かっているんでしょうね。

 その人は自分が捕ってきた鳥を「どうです。美味しいでしょう」ってジョバンニたちに振舞うんですけど、ジョバンニはそれを食べながらそれがただの砂糖菓子だって気づくんです。でもその人は「鳥なんだ」って言って嬉しそうに振る舞っている。それでジョバンニは「何でこの人はこんな砂糖菓子を鳥だって言い張るんだろう」と疑問に持つ。それでジョバンニはつい言っちゃうんです(注1)。そこは子どもなんですね。見抜いたことをつい言っちゃうんです。「これは鳥じゃなくてただの砂糖菓子だ」って。それで言った瞬間、その人はぎくっとするんです。核心を突かれてものすごくビックリしてしまう。で、降りちゃうんです。その瞬間。「そうだ降りなきゃいけない」とか何とか言って。そのことに気づくわけにはいかないんです。銀河鉄道の夜はファンタジーなんでそのままパッと消えちゃうんですけどね。外に鳥を捕りに行っちゃう。(注1:私の記憶違い。本当はカムパネルラ)

 そういう鳥捕りの人が自分は鳥を捕っていると言いながら砂糖菓子を捕っていることだったり、人が持っているものを欲しがったりするのをジョバンニが見ていて悲しくなるシーンが私も身をつまされるというか、私もよくそういうところで悲しくなって、やるせない気持ちになることがあるんですよね…

 …何でそんな話になったんでしょう?(笑)
 あ、自分が見えなくなるという話ですね。自分が本当に欲しいものが見えなくなってくるということ。自分が本当に何かを欲しいって表現しようとしているときに、繰り返し繰り返しそれがダメだとか抑圧されているうちに、そのまっすぐ出る道がいつしか目詰まりしてふさがっちゃって、別の形をとってしか表現できなくなったときにそういうことが起きる。本当はもっと素直に表現できるはずだったものを繰り返しそこを避けていることで、自分でもそこに道はないって自分に暗示をかけちゃう。そうすると本当に見えなくなる。道が無くなっちゃうんです。


●無意識の振る舞い

 でも親も別に抑圧しようと思って抑圧しているんじゃないんですよね。当然ですけど。それもまた振る舞いの作法の問題なのかもしれない。言葉のかけ方だったり、導き方だったり。でも言葉になっているものはまだいいんです。何て言うのかな。親も自分が抑圧されているということに気づかないうちに子どもを知らぬまに抑えつけてしまうことが一番問題で、深く入っちゃうんです。そういうのが。そういうのは振る舞いの中ににじみ出ているので、その「自分の中の素直な表現を自分は抑えつけている」っていうことに自分が気づいていないと、その振る舞いを子どもにまったく無意識にしてしまうんですね。それを子どもはまるで霧雨のように始終サーッと浴びているので、徐々に染み込んでゆくというか、伝染ってしまって、そういう振る舞いを身につけていってしまう。そういう意味で「無知」というようなものは伝染るんですよね。振る舞いが。

 そういうのって、気づかないようにすることで関係がうまくいっているんで、お互い決して気づこうとしないんです。気づいたら危うくなる。だからそれは誰も気づけないっていう…怖いですね。

 でもそういうものは誰にでも、もちろん私の中にもそういうものがあって、そのことの危険性を常に考えているということがすごく大事ですね。人をそうやって「無知」にしてしまわない為に。それは私は整体を指導する立場になって、そのときに自分の中にそういうものがあるとそれを接している人にそんなことをしてしまいかねない、と怖くなりましたよ。なかなか自分では気づけませんからね。相手は大人になっていますからそんなに深く入るっていうことはないでしょうけど。でも気がつかないうちにその人を何らかの形で抑圧してしまうことがあったら怖ろしいなと思うんです。だから自分自身の振る舞いをつねにチェックしなくちゃいけないという義務が指導者にはありますよね。自分の欲望を相手に押しつけてしまうことがありますから。

 でもね、こんなこと言ってもみなさんちょっと分かりづらいかもしれませんけどね、「無知」っていうのは一つの「愛」なんです。もっと正確に言うと「愛」の周縁で起きる出来事なんです。だからできれば「無知」は善きものを志向したい。どうしたって人間は何かに向けて馬鹿にならずにはいられない生き物なんで、できればそれが善きものであってほしい。どこに向かって馬鹿になるか、どこに向かって「無知」になるか。それはすごく大切なことなんです。そんなことを最近強く思います。まぁそのへんについてはいつかまた詳しく触れたいですね。

⇒つづく

posted by RYO at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 講義録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/109342487

この記事へのトラックバック