私の愛する「新解さん」をぱしゃぱしゃとめくって遊んでみる。
「新解さん」というのはなにかと言うと、「新明解国語辞典」(三省堂、1972年初版)のことである(ちなみに私のは「第六版」)。
「新解さん」がどんな辞書なのかということについては、『新解さんリターンズ』(夏石鈴子、角川文庫、2005)や、『新解さんの謎
』(赤瀬川原平、文春文庫、1999)などを読んでみられるとよく分かるのだが、一言で言えば、
「新解さん」は「主張する辞書」なのである。
たとえば、「性交」などというちょっぴりエロチックな言葉を「新解さん」で調べてみると、
【性交】成熟した男女が時を置いて性的な欲望を満たすために肉体的に結合すること。
とある。
「時を置いて」である。
「新解さん」としては行きずりの行為など断じて「性交」としては認めたくないらしい。
まるで風紀委員のような心がけである。
一部からは「余計なお世話だ!」と突っ込まれかねないおせっかいな辞書であるが、「ではいったい『時を置く』とは、 どの程度の期間までを指すのか?」などと、正しい解釈を覚えながらも、また新しい問題に悩んだりして愉しむことが出来るという、 個性あふれるエンターテイメントな辞書なのである。
そんな「新解さん」と戯れながら「ふむふむ」と頷いたりゲラゲラ笑ったりしていたら、ふと、ブログのタイトル『雑念する「からだ」』
ってなんとなく付けてみたけど、「雑念」っていったい何だろう?と思い立ち「新解さん」で調べてみる。
すると、そこには、
【雑念】考えを集中させる時に、そのじゃまをするいろいろな思い。
とある。
いやいや、えらい言われようだな。
まぁ、世間一般的にはそれが普通の解釈なのだろうけど、「雑念」をこよなく愛し、自分のブログのタイトルにまでつけた身としては、 ちょっと哀しい。
哀しみにくれながらその隣のページに目を移してみると、そこには「雑草」の項目がある。
「おぉ、徒然草だな。新解さんはどんな解釈しとんねん。」
と少し気を取り直して読んでみると、
【雑草】@あちこちに自然に生えているが、 利用(観賞)価値がないものとして注目されることがない草。農作物や栽培樹木の生長の妨げになる場合は取り除かれたりする。
……。
…まぁ、そうだろうね。そうですよ。有機農家の「草取り」の大変さも十分、分かっておりますよ。ハイ。でも、哀しいなぁ。
けれども読みすすめてみると、そのあとにAとしてこのように書かれている。
A知識が乏しいために、名前を言うことが出来ない、多くの草。
おぉ、なんだ。さすが新解さん。素晴らしい解釈をしてくれているではないですか。
「知識が乏しいために…言うことが出来ない」というくだりのあたり、ささやかな主張が見え隠れしてますねぇ。
辞書にそんなこと言われちゃ誰も反論できない(笑)。
いいよ、いいよ〜。
この新解さんの説明、私の得意な「誤読」をさせていただくと、こうなる。
「この草が雑草であるとしたら、それはあなたが馬鹿だからです。」
ハッハッハ。 ちょっと意地が悪いかな?
でも、この「雑草」に対する説明、「雑念」に対しても言えないだろうか?
【雑念】知識が乏しいために、その価値を見出すことが出来ない、多くの思念。
うむ。意味はまったく通じる。
私は、何かを考えようとしているときにふと思い浮かんでくる思念(いわゆる「雑念」ね)には、今考えようとしていることと、
なにかつながりがあるのだと思っている。
人間はそのときそのときの自分の状態や周りの環境などから、無意識のうちに多くのことを連想している。
それは喩えるならば、パソコンの現在の作業状態から関連しそうなプログラムを予想して、 ハードディスクの底の方から引っ張り出して来て、いつでも起動できるようにメモリの中に待機させる、そんなスピードアップツールに似ている。
私たちはふだん、デスクトップ上に開かれたモノしか意識することはないが、メモリ上に待機している膨大なプログラムをも、 実は無意識に感じている。
というよりそもそも、デスクトップ上のプログラム自体が、メモリがあるおかげでスムーズに働いているのであるが、そのような 「下ごしらえ」のような裏方仕事は決して意識にのぼることはない。
「雑念」というのは、その裏方仕事で関連しそうな記憶を引っ張り出して来たモノのうち、特に関連しそうなモノを 「とりあえず舞台に上げちまえ。」と、ポーンと舞台の上に裏方さんが放り出してきたものなのではなかろうか。
突如あらわれた闖入者に舞台上の役者たちは一瞬ひるむかもしれないが、その闖入者をも劇の中に取り込んでしまえるかどうかは、役者の 「腕の見せ所」である。
この闖入者は裏方さんが、「なにかに使えるかもしれない。」と思って舞台に放り投げてきたのである。
裏方さんなくては決して成り立たないこの壮麗な芝居の舞台の上に、その裏方さんが「使ってくれ。」と放り投げてきたのだから、 きっとなにかの役に立つはずなのである。
きっと。
だからぜひとも主役クラスには、その闖入者をも巻き込んだアドリブを交えながら芝居を続けられるくらいの「遊び」が欲しいものである。
その闖入者に価値を見出せなければ、それはいわゆる「雑念」となる。
(そして客は何事かとざわめく。)
その闖入者に価値を見出すことができれば、それはいわゆる「ひらめき」となる。
(そして客は奇抜な演出だと喝采する。)
それは裏方さんの仕事ではない。表舞台に立つ者の仕事である。
つまりそれは「私」の仕事なのである。
『知識が乏しいために、その価値を見出すことが出来ない』なんて羽目にならないように、心がけたいものである。
裏方さんの期待に沿えるよう、精進、精進。


「雑」だと思えば「雑」でしかない、
ということは、
「雑」だと決めつけた時点でそうではない(=有用なものである)可能性をシャットアウトしてしまっているということなのですね。
もったいないことです。
でも、予期せぬ闖入者(トリックスターですな)こそが思いがけずしかし豊かな展開を呼ぶのだな、と、改めて思いました。
裏方さんにはまったく敬服するばかりです。
そうですよね。一見関係なさそうに見える「何か」と「何か」のあいだに、つながりを見つけるのは、他ならない「私」の仕事なんだと考えると、世の中に無駄なモノなんて、無いように思えてきます。
裏方さんにはホントに頭が上がりません。
頭は下の方に付いてるべきですね。
RYOの思考も雑念によって耕されているのかもね。
お子様はすくすくと育っておりますかね?
雑草とともに豊かな大地を作り上げるのが「自然農」であるならば、
雑念とともに豊かな思想を作り上げるのが「自然脳」というところかな。
(なんか最近オヤジギャグが増えてきたような…。)
あぁ、なんか突然、畑に立ちすくんで物思いに耽って見たくなった。
「全てが繋がった!」という瞬間って確かにありますよね。
そういうときって、アルキメデスが「エウレカ!」と叫んで、アテネの町を裸で走り回ったように、はしゃぎまわりたくなってしまいます。
一見関係のなさそうなモノたちが、あるとき一気にその「意味」が連鎖されていくという快感は、もしかしたら推理小説の謎解きのそれに近いかもしれません。
(なぜ人は連鎖するモノに快感を感じるんだろうか?)
「そういうことだったのか!」というのはえてして事後的に認識するものですね。
理論はいつも後追いです。
本日の日記からジャンプして、
約2年ぶりにこの日記におじゃまします。
(コメントさせていただいていたこと、
今まで忘れていましたが、思い出しました)
裏方さんと表舞台に立つ役者とのたとえを
改めて読ませていただいて、
これは、潜在意識と顕在意識の比喩なのでは?と思い当たりました。
(ここ数か月、催眠療法を受けつつ、それについて少しずつ知りつつあるので、
こんなふうに思いついたのでしょう)
闖入者ももちろん自分=舞台の一部なのですが、
それがどんな意味を持つのか、どう使えばいいのかは、
裏方さんだけが把握していて、役者には告げられていないこともしばしばあるようです。
あ、裏方さんは、演出家でもありますね。今思いつきました。
衣替えでありますね。
そうですね。まさに裏方さんは潜在意識の住人と言えるでしょうね。
裏方さんの考えは身体知というか暗黙知のようなものなので、管見の及ぶところではありませんが、基本的に時系列など完全に無視しているし、矛盾なんていうものも「何か問題でも?」と言わんばかりの非常にカオティックなものなので(そういう世界ですからね)、アタマで捉えようとすると、「奇妙奇天烈 摩訶不思議 奇想天外 四捨五入 出前迅速 落書無〜用」なのでありますね。
そこに文脈をつけ一つの物語を見いだすのは、役者なり観客なりの仕事なのでしょうね。
なかなか厄介ではありますが、だからこそオモシロイ。
まあ基本的に役者さんたちには、演出の考えていることなんて分からないものなのかもしれませんね(笑)。何を言いたいのか分からない。
私の知り合いの役者も「舞台が終わったら演出殺してやる」とか言ってましたよ。そういえば(笑)。