この前の記事で「自動筆記」について触れた。
そのときにも書いたように「自動筆記」というのは、自分の中から湧き起こってきた言葉たちをいっさいの検閲をかけることなく書き留めていく、そんな筆記法である。
古くは儀式や薬物などによってトランス状態に陥ったシャーマン(巫女)が、ご神託や精霊の言葉などとして書き留めていくような、そんな神聖儀式を起源としている。
私のやっているものなど遊びのレベルであるけれど、より深いトランス状態に入れる者が行なえば、そこから紡ぎ出される言葉は巨大な英知の片鱗を示すものになるはずである。
もちろんそうなればなるほど、それを読み取るのも難しいものになるが。
制御されない野生の知が、驚くべきインスピレーションを発揮することは稀ではない。
自動筆記を一度やってみると分かるが、いっさいの検閲をかけることなく自分の中から湧いてきた言葉を書き留めていくという作業は、まるで自分が書いているようには思えない。
前にこのブログでも書いたけれど、人間の意識というのは基本的に「からだにブレーキをかける」という形で働く。
私たちが自分の意思で言葉を述べるということは、自分の中に渦巻いているさまざまな想念が無秩序に飛び出そうとしているのを押し留めて、適切に並んで出てくるようにブレーキをかけるということなのだ。
だからそれを外して、思いついたものは考えないでそのまま書くということを続けていると、自分の目の前を次々勝手に言葉が通り過ぎていくような、そんな感じになる。
湧いてきた言葉に対して「書き留めること」以外の関わりを持てないゆえに、書いている本人は「自分が書いている感」がまったく希薄であり、まるで自分という存在が「言葉の通り道」にでもなったようで、なかなか不思議で面白い。
だが、試すときには注意が必要である。
私は学生時代、何も考えずに一人で勝手にやってしまったけれど、今から考えるとけっこう危険なことをしてしまったものである。
整体の活元運動などでも「精神病を患ったことのある人は行なってはいけない」と言われるが、こういったメソッドは同じように自分の行動を制御できなくなる可能性がある。
強い抑圧がかかっている人間や、ぎりぎり自我を保っているような人が、このような垂体外路系の運動を行なうと、止まらなくなることがあるのだ。
滅多にあることではないが、それでも自分が情緒不安定だなと思う人はとりあえずやらない方がよい。(私の身近でも一例あった)
一番よいのは「そういうこと」が分かっていて、また対処法をきちっと身につけている指導者の下で行なうことである。
もし万が一そういう事態に遭遇してしまったときのための対処法だけ書いておくと、活元運動でも何でも、目の前でそのような無意識運動が止まらなくなってしまった人がいたときには、まずその人の左の肩を「バン!バン!」と相手の呼吸とずらして強く叩く。
相手の動きが止まるまで、リズムを変えながら左の肩を叩き続ける。
そして暗示をかけられる人はそこで暗示をかけて収まるよう誘導してゆくが、分からない人はとにかくその人の名前をしっかりと呼びかける。
そうすればじきに収まってくる。
けれども一度でもそういうことがあると、ふとしたきっかけで出やすくなってしまう。
出やすくなること自体は決して悪いことではないが、それをうまくコントロールできないというのは、やはりいろいろと不都合が多い。
だから一度でもそういうことがあったら、「そういうこと」の分かる信頼できる指導者にきちんと相談したほうがよい。
閑話休題。
それで学生時代にその「自動筆記」というものを知って、「面白そうだ」と思って試しに書いてみたのだけれど、それを前回キーグラフで分析してみたのだ。
23歳のときの文章である。
書く前に「物語を書く」と自分に暗示をかけて書いたので、いちおう物語の形式になっている。
一気に(何時間くらいだったかな…)バァーッと書いたわりには、いちおうそれなりに起承転結のようなものもあり、ちゃんと物語になっているのが不思議であるが、デタラメ過ぎになってないあたりに我ながら律儀さと言うか小賢しさを感じる。
途中で一度改行が入っているのは(ユリのくだり)、そこでいったん筆が止まって一息ついたからである。
けれども少し休んでいたらふたたび手がウズウズし始め、机に向かってペンを取ったら猛然と書き始めて、一気にクライマックスまで向かったのだ。
心理学とか精神分析とかやっている人が読んだら、ものすごく分析してみたくなるようなそんな文章であるが、なんだか若い感じが随所に感じられて、ちょっと気恥ずかしくもあるかわいい文章である。
それでふと思い立ったのだけれどせっかくなので、その「自動筆記の物語」をこのブログに載せてみようと思う。
その性質上、ダダ漏れの文章であり、脈絡のないところだらけであり、なんだか暗い世界観に満ち満ちている上、けっこう長い(笑)。
なので、暇な方だけ読んでいただければと思う。
あんまりクドイ部分などは(とくに前半部分)多少削除しているが、基本的にほとんどそのままである。
前回のキーグラフとあわせてご覧になってみるとまた面白いかもしれない。
では、私の若かりし頃のダークな部分満載の文章、暇な方だけ下からどうぞ。
ひとに言えないことがある。それは苦しみの赤い眼にいつもにらまれていたあの詩人と同じ星の出来事だ。月は太陽に照らされて輝くように赤い眼が私を赤く照らす。私の中はまっさおだ。地底湖の暗い静寂だ。キツネが私を噛みころす。赤い眼をした子どものキツネだ。雪のふりしきる夜の林にオレはひとり死んでいるのだ。だれもいない。静寂だ。ああ、いつのまにかオレのまわりは地底湖の静寂だ。どうなってしまったのだろう。いつか私にアメをくれたあの少女は今どうしているのだろう。オレに施しを求めてきたケロイドの少年はどこにいるのだろう。それは地底湖だ。地底湖の底で眠っている。オレが沈んでくるのをずうっと待っているのだ。闇から風がふいてくる。ひっきりなしにふいてくる。うめき声をのせてくる。オレの耳にするりと入りこみオレのからだの中で反響する。決して出ることはない。永遠に響きつづける。キツネよ、はやくオレを喰いころせ。死なないように喰っている。死なないように喰っている。オマエの親はどこにいるんだ。オマエの親もやっぱり眼は赤いのか。これはお笑いだ。オマエの一族はそうやって永遠に赤い眼をしているのだ。オレはもう行く。行かなければいけない。オマエに喰われたおかげでからだが軽い。少しビッコで歩きづらいがオレはもう行く。向こうの方でマリオネットが踊っている。天の見えない所まで糸が伸びている。泣いている。泣きながら踊っている。オレは助けるべきだろうか。だが、糸が切れれば彼はもう動けない。ああ、何という理不尽。ふりしきる雨に打たれながら彼は踊りつづける。あの糸はどこまで伸びているのだろう。ああ、オレの道はどこへ行ったろう。もう道が見当たらない。列車にでものってしまおうか。いつのまにか空は紅い。だが太陽は見当たらない。太陽のない夕焼けだ。オレの前には時計台がそそり立っている。13時だ。13時の鐘が鳴っている。もう、どうでもいい。私はつかれた。この時計台の下で眠ろう。ここが墓場だ。浮浪者の墓場だ。結局、オレは道も探せなかった。ケロイドの少年がオレに手をさし出す。オレは果物ナイフでその手を切り落とす。少年は赤い眼をして血を噴くその手を不思議そうに見つめている。ケロイドが拡がってその少年の全身を覆う。少年は小さくなっていって消えてしまった。ケロイドがオレの右手にうつった。オレの右手は腐って落ちてしまった。浮浪者が落ちた右手を喰っている。オレの腐った右手を喰っている。気がつくと時計台はでかい赤眼のキツネに変わっている。オレを見下ろしてニタニタと笑っている。向こうの鉄塔も真っ赤な眼をしている。海が茶色い。茶色の海だ。ああ、もう何もかもおしまいだ。オレは両手をぶんぶん振りまわしてわめきちらす。キツネがニタニタと笑って爪をふり下ろす。オレははじき飛ばされ血まみれだ。オレは死ねない。それでも死ねない。オレは土を食べはじめた。穴をほってその中にもぐってゆく。土はかたくておいしくない。何でこんなものをオレは喰っているのだ。シフォンケーキでも喰えばいいのに。土の中はあったかくて気持ちがいい。このままずっとこうしていたい。何もしないのだ。何もしない。何も何も何も何も。ああ、これはゆりかごか。お母さんがいないじゃないか。それじゃしょうがない。歩くしかない。歩くしかない。海だ。茶色の海だ。オレはあの海をゆこう。海はやさしい。オレは海を歩いてゆくのだ。波がウネウネして歩きづらい。だがそれが面白い。ああ、岸で赤眼のキツネが手を振っている。あいかわらずニタニタ笑ってやがる。クソでも喰らえ。でっかいオノを振りまわしながらオレは歩く。マーチを歌いながらオレはゆくのだ。時々しぶきが顔にかかってしょっぱい。茶色いしょっぱさだ。水晶が波間でキラキラ輝く。青い水晶だ。ああ、水晶の中に地底湖がある。地底湖が波打っている。なぜだろう。こんなことはまれだ。非常にまれだ。そんなことは良く判るだろう? 地底湖はふつう静寂だ。だから地底湖なのだ。ああ、オレはもう帰らなくてはいけないようだ。だが、どこへ帰ろう。かもめがぐるぐる頭上を飛んでいる。いや、あれはハゲタカだ。オレがくたばるのを待っているんだ。へっ!クソでも喰らえ。ああ、ピーマンが食べたくなってきた。むらさきのピーマンだ。中にはCat’s Eyeが入っている。キラリキラリとオレをにらむのだ。くふふふ。上等じゃないか。オマエも喰ってやろう。さあ、もう帰ろう。帰るついでにあのマリオネットを一発ぶんなぐっていってやろうか。それがいい。 となりでユリが笑っている。セラセラセラセラ笑っている。おまえはかつて農民だったのか? ははは、図星だ。ギョッとして青ざめている。じゃあ、収穫の歌を知っているだろう。オレに教えてくれ。真っ黄色な畑の中で踊るあの収穫の歌を。農民の娘たちが踊っている。楽しそうだ。オレも入れてくれ。オレだって踊りくらい踊れるんだ。ああ、でも足が動かない。ええい、このいくじなしめ。切り落としてやろうか。百姓の娘たちの向こうで赤眼のキツネがにらんでいる。娘たちをバッタバッタとなぎたおして黄色い畑が血に染まる。ああ、何ということをするのだ。おまえにささやかな幸せを壊す権利があるのか。ニタニタと笑ってやがる。あれは風車だ。キツネではない。いつのまに風車になったのだろう。そしてあの走っている馬にのっているのがドン=キホーテだ。大きな大きなヤリを持っている。そのヤリであのキツネを突いてくれ。いや今はもう風車だ。何でもいい。とにかく突いて殺してくれ。そのヤリがオレのからだに突きささる。ああ、オレだったのか。それはオレだった。そうしてオレは蛮勇の騎士に突かれて死ぬのか。それならいい。それならいい。ああ、よかった。そういえば、オレは帰る途中だった。どこからかお経が聞こえる。あれは密教だ。密教のマントラだ。老師が若い僧に教えを伝承しているのだ。何万もの人が五体投地をしている。ああ、なんと美しいのだろう。すべての者の顔が輝きに満ちている。五体投地をくり返して聖地へと向かうのだ。オレも聖地へ行こう。五体投地をしなければいけない。石が必要だ。石だ石だ。どこで探そう。赤眼のキツネが尻にしいてる。どけ。オマエの下にある石が欲しいのだ。その石はオレの物だ。どけ。どかないのならいよいよオレは戦うぞ。オマエの首をはねてやるぞ。ニタニタ笑うのをやめた。おまえが笑うのをやめるとはな。オレが恐いのか? はやくどこぞへと消えるがいい。消えろ、消えろ。おや、あいつはしっぽがいっぱいついている。あいつは伝説の九尾のキツネだったのか。いやそんなことはない。あいつは小心だ。おくびょう者だ。今ごろ岩カゲでガタガタふるえているにちがいない。思えばかわいそうな奴だ。オレが飼ってやろうか。小さくなって足にまとわりついている。なんだ、体毛がみどりになっている。いや青だ。いやその両方だ。眼の錯覚か。まあ何でもいい。おまえの母はどこにいるんだ。オレが連れていってやろう。キツネが指さすその方向は黒雲たちこめる嵐の渦。やれやれオレはあんな所へ行かねばならないのか。ははは、現金な奴だ。ニコニコ笑っている。さっきまでのニタニタはどこへいったのだ。あいかわらず眼は赤いのだな。オマエの名を知りたいが知らぬ方がいいのだろうな。さあ、行こう。オマエが何にせよ、ひとりでも道づれがいるのはいいもんだ。いや一匹か。いつのまにか真っ白になっている。ずいぶんキレイになったじゃないか。光を帯びている。真っ白な光をまとったキツネか。道づれには最高だ。ああ、べに花だ。べに花畑だ。キレイな朝日だ。輝いている。まるですべてがCat’s Eyeだ。キラリキラリとオレを見つめる。百姓がゆらゆらと歩いている。ここはどこだ。オレの手はいつのまにか透明だ。透明の手を持っている。ああ、オレはひとつの時層を行き来しているのだ。地面の下には過去が眠っている。何層にもなって眠っているのだ。空には未来が積みかさなっている。ああ、透明だ。すべてが透明だ。はるか下の時層でオレに笑いかけてる者がいる。オマエたちは何だ? ゆらゆらと陽炎のような存在たちだ。ああ、彼らのおかげだ。彼らのおかげなのだ。星が輝いている。一面の星が瞬いている。いつのまにか夜空だ。あの星のひとつひとつが未来だ。未来の存在だ。オレは彼らに祈りをささげよう。キツネが天に昇ってゆく。オマエのゆくべき道を見つけたのか。白く瞬きながら昇ってゆく。ああ、オマエだったのか。オリオンの三ツ星ベルトの一番左で輝くその星になった。私を見つめている。いまやもう赤眼でなく、キレイにすきとおったまなざしで私を見てる。3人兄弟か。オマエはその末っ子だったのだな。じゃあ、オレと一緒だ。ははは、一緒だ。オレの前に河が流れている。大きな河が流れている。キラキラすきとおった光が流れている。底は闇だ。闇の上に光が流れている。向こう岸に白いドレスを着た女の人が立っている。じっとこっちを見つめてる。赤眼ではない。よかった。赤眼だったらオレはもう気が狂って何もかも燃やし尽くして死んでしまうところだった。彼女の周りを馬が囲んでいる。ずいぶんなついているようだ。たてがみが炎だ。ゆらゆらと燃えている。あの炎がドレスにうつらないだろうか心配だ。彼女の指からマリオネットの糸が伸びている。オマエだったのか。マリオネットは泣いているぞ。そうだ。オレはマリオネットをなぐりに行くのだった。河に潜って下に下に行ってさっきの所まで下りてゆこう。あ、糸が切れている。マリオネットも、もういない。どこへ行ったのだろう。はるか上でさっきの女の人が笑っている。ドレスにたてがみの炎が燃えうつっている。あっという間に火だるまになったが、中から出てきたのは全く変わらぬ彼女。何だアイツは。赤眼のキツネよりたちが悪い。お高くとまってそれでいてやることはヘドが出そうだ。ああいうのが一番始末に負えない。オマエのような奴は地獄の餓鬼どもに喰われちまえ。くじらが空を飛んでいる。優雅だなぁ。星くずの潮を吹いている。キラキラキラキラ一面に星くずがふってくる。ああ、もうこれでいい。これでいいんだ。いつのまにかとなりでマリオネットが寝ころんでいる。よし、いっしょに寝ころんで星を見よう。あのオリオンの三ツ星ベルトの一番左はオレの星なんだ。キレイだろう。ホラ答えた。ああ、時の流れがゆるやかになってきた。もう止まる頃か。どんどんどんどんゆっくりになっている。このまま時は止まるのか。それもいい。それがいい。マリオネットが赤眼だ。それでもいい。オマエと共に生きよう。いや、もう時が止まる。月が、月が落下しはじめた。
『自動筆記による物語』


早速私は自動筆記してしまいました〜
私は、「快」と無意識のうちに設定しておりましたので、そのまま開始。で、書いた文が↓です。
快は不実か?
快は不道徳か?
快に悩む日が続いた−
快を無視してしまった… 快を裏切ってしまった… そして責めを負った…
日頃、ついつい頭と言いますか、観念で何もかもブレーキをかけて行動に移さない私にとっては、自動筆記はものすごく快感覚でございました。
「自動筆記」はある意味、アタマの活元運動、快氣法であるかもしれませんから、ときどきやっておくといろいろなものが抜けていっていいかもしれませんね。
自分の知らない自分に気づくきっかけがあったりするかもしれませんし。
アタマもからだもどこかで開放される瞬間を欲しています。
吸って引き締まる瞬間、吐いて弛む瞬間、どちらも大切ですね。
一気に拝読し、
前回の解析図をふたたび拝見しました。
おもしろいー!
(以下、勝手な感想です)
前回、邪悪邪悪と書いていらしたので、
ちょっと身構えていましたけど、
邪悪さは感じませんでしたよ。
言葉面は、血とか切り落とすとかいかにも痛そうな要素満載ですけれど、
ある程度のスピードで読み進みながら受ける印象は、
必ずしも文字面のとおりではないんですね。
おもしろい発見です。
黙読と音読とではまた印象が異なるかもしれませんね。
(うお、これもまたおもしろそう!)
>心理学とか精神分析とかやっている人が読んだら、ものすごく分析してみたくなるようなそんな文章
はははは!
無意識とか象徴とかで遊べそうではありますよね。
夢の分析と似ているかも。
私は、物語そのものというか、宮沢賢治的な世界を感じていました。
私の印象に残った要素は「赤」「キツネの目」「空の高さ」です。最後のは、そういう言葉はなかったかと思うんですけど、なんか垂直の広がりを感じました。
↑
これも、おそらく、読む人によって、異なりますよね。
たっぷり楽しませていただきました。
ありがとうございました。
余談です。
「オレ」という一人称はこういうときいいなあ、ぴったりくるなあと思いました。
男性の一人称には他にも「ボク」があり(ここにはないですが)、「ワタシ」があることで、とても広い振れ幅があるよなあ、いいなあ(うらやましいなあ)と、これはいつも思っているのですけど、改めて。
ちょうどよく読んでいた時期でしたし、その影響は強いですね。
でもたしかに自分の中に次から次へと湧いてくるイメージをどんどん書き落としていく作業は、宮澤賢治の心象スケッチにも似ているのかもしれません。
スピードという言葉が出てきましたけれど、ホントなんかスピード感があるんですよね。
私も自分で読みながらずっと思っていました。
もちろん書いているときも一切逡巡しませんから、けっこうなスピードで書いていたんですけど、それがやっぱり出てるんですかね。
それで思ったんですけど、こういう文章は一人の人間のイメージがころころ変わっていくその速度感がそのまま書き落とされていて、それである種、読み人にとっても素材である言葉は背景に消え、運動あるいは現象としてのイメージの変化だけが強く心に残るのかと、そんなことをふと思いました。
電光掲示板でチカチカ輝く一つ一つのLEDランプは意識にのぼらず、そこに次々流れる文字情報だけが意識化される、そんな感じといえば良いでしょうか。
ですからたしかに黙読と音読ではまったく違うものが浮かび上がってくるかもしれませんね。
う〜ん、これは面白いかもしれない。
また一段と興味が増します。
おもしろい体験です。すごく楽しんでいます。
「書き落とす」という表現が興味深いです。
払い落とす、振り落とす、みたいな感じでしょうか。
「スピード感」とも関係があるように思います。「落とし」たものは見ないでどんどん先へ進むんですね。
>電光掲示板でチカチカ輝く一つ一つのLEDランプは意識にのぼらず、そこに次々流れる文字情報だけが意識化される
>運動あるいは現象としてのイメージの変化
なるほど。よくわかります。
そして、RYOさんがこのブログで以前書いていらした、こどものエネルギー(でしたっけ)を遺産に例えた文章を思い出しました。
>黙読と音読
黙読は文字を目にするだけですけど(頭の中で音読するかもしれませんね)、
音読はそれに加えて音を発音して耳で聞きもするので、
その音の印象というのが加わるでしょうね。
あっ、それに、自分で音読するか、人が読み上げるのを聞くかによってももちろん違いは出るでしょうし。
うう、おもしろそうだ。果てしなく心ひかれます。
言われてみればそうですね。
これもまたあんまり意識せずに使っておりましたけれども、おっしゃるイメージであるかもしれません。
「書き落としてもう振り返らない」。
振り返るとその言葉に対して反省しはじめてしまいますからね。
そうすると止まってしまう。その言葉を中心に結晶化が始まってしまうというか。
そういうことをあえてやらずに流転し続ける、変化し続けるというのが、この自動筆記の醍醐味であるかもしれませんね。
でも音読かあ。
何人か集まって「自動筆記の朗読会」なんていうのをやってみても
なかなかシュールで不埒で面白いかもしれませんね。
うわあ…どんなんだろう。
なるほどなるほど。
よくわかります。
>自動筆記の朗読会
おお!
私はそこまで詰めて考えていなくて、
テキストは既存の詩とか散文(あんまり理路整然としてないもののほうがおもしろそう)かなあ、なんて漠然と思っていたんですけれど、
「自分が自動筆記したものを自分で音読する」
これはものすごくものすごくスリリングな体験になりそうですね。
「誰かが自動筆記したものを別の誰かが音読する」ということもまた、
>なかなかシュールで不埒で面白いかもしれませんね
ですよねー。
いずれにせよ想像するだけでドキドキしますね。
ただ、RYOさんが書いていらっしゃるように、
じゅうぶん気をつけてやらないといけないでしょうね。
それと、後から自分で音読するということがわかっていると、自動筆記の筆先(?)が鈍りそうな気がするのです。
今回のRYOさんのように、いったん書いた後で公開することにするならその心配はないと思うんですが。
いやはや、それにしても、なんだろ、この興奮は(笑)
これは難しい。
どんなに排除しようとしても、無理なところがありますね。これは。
もうこの場合は、それも「コミ」という形でやるしかないかもしれません。
つい邪念が混じるのもまた事実ということで。
あるいはいっそのこと「どこらへんで邪念が混じったか」の邪念申告会でもやっちゃって、
「ここらへんで自制してしまいました」とか、「ここでカッコつけてしまいました」とか、
「ここで躊躇した」とか、「さすがにこれはマズイだろと思った」とか、
そんな「魔の差した瞬間」の発表会みたいなことやっちゃうのもアリかもしれませんね。
昨日の「ウメズカズオ」思い出しちゃったよ。。(^^;)
自動書記の文章、RYOさんの普段の言い回しに近いところもあるねぇ。
私、自動書記やったことがないなぁ。。
気が向いたら、やってみよ〜っと!
恐るべしです。
ゆきちゃんさんも自動筆記をやってみたらどんな文章が飛び出てくるんでしょうね。
ひょっとして恐るべきものが…(笑)。
それも承知の上でですね。
邪念申告で思いついたのですけど、
脳波を測定しながら書くと、変動の観察&記録ができそうです。
手書きでやるなら、紙の上からビデオ撮影すれば、あとで脳波と合わせて(=シンクロさせて)再生できますね。
自己申告=主観と客観との間の差があるとしたらそれもまた興味深い。
あ、というか、書いているものを撮影しつつプロジェクターなんかに映せば、書き手以外もリアルタイムで読めますね。
(この場合、朗読はさておくとして)
これもおもしろいかも。消したりするのも「コミ」で。
うーん、実験魂がふつふつと沸いてきています。
ただし、人によってはこれらをかなりの負荷と感じることもあると思うので、
人選と実行は慎重の上にも慎重にしたほうがよさそうですね。
そして、「自動書記」でなく「自動スピーチ?」っていうのもありでしょうか? 口をつくまましゃべる、というの。
たしかにそこまでやってみるとかなりいろんなことが分かってきそうですね。
実験されるほうがちょっと怖いくらいです。
たぶんほとんどの嘘はバレてしまうでしょうし、
下手すればトラウマ的なものも浮かび上がってきちゃうでしょうからね…。
ひぇ〜怖い怖い(笑)。
「自動口述」というのもたしかにできそうですよね。
精神分析で行なわれている自由連想法がそれに近いのかもしれませんけど、
やっぱり「他者の視線」をどこまで排除できるかというあたりが課題かもしれませんね。
あるいはこれもやっぱり見られているということを「コミ」にするしかない。
…と思ったら、そういえば私がときどきやっている「自分史を語る」というのが、
これに近いような気もしてきました。
みんなが邪魔せず聴きながら、その「語り」を支える、ということ。
しゃべっていることが決して否定されず、すべて受け入れられるという安心感のもとでしゃべると、人は自分が意識したことのないことまでいろいろとしゃべりだすのかもしれませんね。
たしかに「自分史を語る」は自動口述ですよね。
実は私も最近似たようなことをやってみたのですが、
話すことで(それにつられて、という感じで)思いがけず浮かび上がってくる事柄ってけっこうありますね。
おもしろいものだと改めて思いました。
書くにせよ、話すにせよ、自分で制御しきれてない部分があることがわかるのがなんとも興味深いです。
その何かを手や口を通して外へ出すということは、大きな刺激ですよね。もちろん、聞く側も。
ちょっと話を戻して、実験魂方面で言いますと、
「語る」と考えるよりも、むしろ「ともかく何かを切れ目なくしゃべり続ける」というルールをつくるほうがより実験的かなと思いました。
「人が聞いている」と考えると、どうしてもスピードが鈍ってしまったり、聴き取りやすく発音しようとか考えてしまうので。
そして、その場合は、例えば「お話」という枠があったほうが、自分がむき出しになりすぎずにいいのかも、とも思いました。
↓
というのは『スジナシ』という即興2人芝居のテレビ番組にヒントを得たんですが。
そこらへんってこういうことをやればやるほどグレーゾーンになっていきますね。
なので私もどんどん「まぁどっちでもあるんだろう。」という「どっちつかずの人」になってきております。
そのグレーゾーンの部分を楽しめるかどうかということが、
こういうことをやるときのポイントかもしれませんね。
最初は自分が自分のコントロールから外れることが怖い。
でもやってみたら意外とそれなりに外れすぎないし、何より新鮮で面白い。
一度そう思えれば、「少しくらい任せててもいいんだ」という
自分(の無意識)に対する信頼感がだんだんしっかりしてきて
ずいぶんいろんなことに対する肩の力が抜けますよね。
自分自身に対する自信を取り戻せるということが何より素晴らしいと思います。
「切れ目なくしゃべり続ける」というのも面白そうですね。
そういう的確な「しばり」をかけると、それを種にしてまたいろんなことが広がりますからね。
実際、自動筆記のときは、それこそ絶え間なく言葉が出てきますから、
しゃべるときもそういう状態は可能だと思います。
こういうルールもやりながら試行錯誤していくと、一番良い設定ができあがってくるんでしょうね。
その試行錯誤もなかなか楽しそうですね。