2013年04月09日

分かっていること、分からなくなること

私は最近、講座で「人間は無意識のうちにはすべて分かっているので、今さら自分の欠点を隠しても仕方が無い。隠しているとむしろその「隠している」という身振りそのものがもうバレバレなんです」ということをお話しすることがある。

それは私がもう最近、実際にそう感じて止まないのでそう言っているのだけれど、たぶんホントにそうなのである。

私たちはすべて分かっている。あるいは感じている。

ただそれを言語化/意識化できないだけで。


先日、講座でそんな話をしていたら、参加者の方が「私は子どもの頃、トランプをやっていてもジョーカーがどこにあるのか全部分かったんです」という話をしてくれた。

ババ抜きなどやっていてもジョーカーがどこにあるのか分かっているから、ゲームとしては何も楽しくない。

だから周りの大人たちが「ババ引いたー!」などと言って楽しんでいる様子が、なぜだかよく分からなかったそうである。

それで子ども時代のその方は、頭を悩ませ考えた末にある結論に達した。

「分かった。みんな分からないふりして楽しんでるんだ。」

賢い子である。

このゲームを楽しむために、みんな分かっていることを分からないことにして、「ごっこ遊び」をしているのだ。なるほど。

そう考えたその子は、自分も分からないふりしてみんなと一緒にトランプを楽しむことにしたそうである。

それでどうなったか。

その人曰く、「そうしたら、いつの間にか分かんなくなっちゃったんですよ〜(笑)」

悲しいお話である。 だがきわめて興味深い話でもある。


最近の認知心理学の研究によると、赤ちゃんというのはサルの個体識別ができるそうである。

私たち大人は、サルが何匹かいたときにその顔をどんなによく見比べたところで、それぞれのサルの区別など到底つけることはできないが、乳児はすべてのサルの顔をきちんと識別できるというのだ。

しかし残念ながら、その能力は長くは持たない。

歳を重ねるにつれ消えていき、そしてやがて我々大人と同じように「サルはサル」という十把一絡げの認識になってゆく。

何故かということは単純だ。そんな能力は必要ないからである。

私たちにとって重要なのは、身の回りの人間たちの個体識別なのだ。

サルの個体識別などにその能力を振り向けるなら、日本人の個体識別能力に特化して磨いた方が良い。

まあきわめて妥当な生存戦略であると言えよう。


私たちを取り巻く日常は、良くも悪くも虚構に満ちあふれている。

私たちはみな、お愛想を言い、おべっかを使い、世間体を気にし、TPOをわきまえる。

分かっていることをあえて言わずにおいたり、見て見ぬふりをしたり、心にもないことをつぶやいたり、嘘でも褒めたり…。

それは良く言えば「社交辞令」、悪く言えば「欺瞞」である。

だが私たちの社会というものは、ある種そういうものによって成り立っているところがある。

だからそういう能力を身に付けてゆくことを「大人になる」と言い、そういう能力を身に付けていない人間を「子ども」と呼んで、彼らに「大人になれ」と言うのである。

世の中、分かっていても言ってはいけないことがある、と。


おそらく私たちはみな、無意識のうちにはすべて分かっている。

だがその分かっていることを、そのまま表に出して生きていくことは、大変リスキーなことであるし、しんどいことであるし、集団から阻害されていきかねないことである。

だから私たちはたとえ分かっていたとしても、言わないようにしながら、気づかぬようにしながら、分からないようにしながら、暮らしてゆくのだ。

そしてそのうち、ホントに気づかぬようになってゆく。

しかし、そんなことが「大人になる」ということであるとするならば、何とも悲しいことである。


最近の私のテーマでもあるのだけれど、私たちが真に大人になってゆくためには、「それを知ってなお」とか「すべて分かった上で」とかいうようなことがキーワードになってゆくような気がしている。

不都合なことから目を背けていては、分からなくなっていくことばかりである。

だが、そういうことに直面してなお、それと向き合うことに覚悟を決めて、それと向き合う作法を身に付けていけば、いろんなことに気づかぬようになってゆく「無知の病」に陥らずに済むのかも知れない。

う〜む、肚を決めていくしかない。

posted by RYO at 23:10| Comment(11) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする