2012年05月26日

毎日新聞の記事と「ふれること」

5月21日の毎日新聞に、私の講座を大きく記事で取り上げていただいた。

「桜美林大学の山口創さんと一緒に取り上げます」と記者の方に言われていたので、「おお、それは光栄。一緒に並ぶのかな」と思っていたら、私ばかりがデカデカと取り上げられて(しかもカラー写真)、山口先生はコメントのみで私の活動の学術的後方支援をしていただくという構成だった。

そんな構成とは思ってもいなかったので、記事を見て恐れ多くてビックリしていたら、太陽まで月の影に隠れてしまったのでありました(笑)。(みなさんご覧になりました?)

東京の天の岩戸開きの記念日に、新聞に取り上げていただきました。妙縁妙縁。


山口創さんといえば、身体心理学の観点から皮膚を研究されている研究者として有名だけれど、私のように整体をやっている者からすれば、学術的立場から自分のやっていることを解説していただけるので、とてもありがたい存在である。

最近も『手の治癒力』(山口創、草思社、2012)という新刊を出されて、まさに私たち手技系の活動者たちのやっていることの意味と重要性を熱く語ってくださっているので、ぜひぜひばんばんご活躍いただきたいと願う研究者のお一人である。

思えば、山口創さんを知ったのはずいぶん前、NHKブックスの『愛撫・人の心に触れる力』(NHKブックス、山口創、2003)という本だったけれど、あれもとても良い本でありました。

それ以来、著書はつねにチェックし続けているけれど、さすが触覚や皮膚の研究をされているだけあって、書かれている言葉の言い回しもその差し出し方も、どれもとてもキメ細かくて手触りが良く、私はとても好きである。


皮膚というのは、実はその働きがまだまだ良く分かっていないところがいっぱいある。

あまりにいろんな働きを担っているので、研究対象としてはなかなか厄介なのである。

いろんな働きを担っているということは、その働き自体が非常に複合的で相互作用的であるということであり、そうなるとその作用における関係因子が膨大になってしまうので、科学的実験的手順の机上に載せづらいのだ。

実験というのは、そこに関係する要因(温度とか、湿度とか、観測機器とか)をできるかぎり不変の状態に固定して、影響を知りたい要因のみをピンポイントで少しずつ変動させながら、変化の度合いを観察していくという手法を取るゆえ、いろんな因子と密接にリンクしてしまっている素材に関しては、その分析手順が非常に煩雑なものにならざるをえないのである。

皮膚の活動は、温度によっても、湿度によっても、気分によっても、食べ物によっても、内臓の調子によっても、服装によっても、人間関係によっても、ずいぶん変化するということだけは経験的に分かっているわけで、そんな部位がいったいどのような因果関係に基づいて一つの化学的プロセスを起こすのか分析しようなんて、空想するだけでややこしそうなことになるということは分かり切ったことである。

それでもなおそんなところを研究しようというのだから、山口先生はエライ。

きっと単なる研究意欲だけではない、熱い使命感をお持ちであるに違いない。


まあそんなわけで皮膚の研究はこれからが面白いところだと思うのであるが、おそらくは人間の深層心理やあるいは脳の活動などと連携しながら研究が進んでいくことだろう。

そしてそれと歩調を合わせるように、教育分野での応用がもう一度見直されていくはずだ。

嘘かホントか知らないが、セクハラやパワハラなどの観点から、体育指導の際に教師が子どものからだにできる限り触れないように指導しているところがあると聞いた。

けれども、「ふれる」こと抜きにしてからだを育てようなんて、なにか根本的なところでボタンを掛け違ってしまっているような気がしてならない。

「ふれる」という行為は、たしかに良くも悪くもキワドイことである。

だが、キワドイからと言って、安易に禁止してしまってはならないのではなかろうか。

人は「ふれる」だけで、他人を奮い立たせることもできれば、最大の屈辱感を味合わせることもできる。

その差はホントに紙一重のキワドサである。

でもたとえば、「子どもを抱きしめること」ははたしてセクハラだろうか?

あんまり親しくない先生にいきなり抱きしめられて、何とも言いようのない困惑に立ち尽くして固まる子どもの気持ちは、世間で言われる「セクハラ」の一言で片付けられることだろうか?

そこにはもっともっとキメ細かい感情の襞が、さざなみだっているのではなかろうか。

気恥ずかしさと、嫌悪感と、嬉しさと、困惑と、同情と、愛情と、苛立ちと、いろんなものが渾然一体となって動いているその時の気持ちは、決して他人がそれを名付けることなどできない、生々しい人間感情であるだろう。


何度も言うが、それはホントにキワドイことだ。

子ども心に「片付かない気持ち」が残るかもしれない。

けれども、個人の心や気持ちの「片付かなさ」を、法やシステムで「片付けよう」とし過ぎることは、決して良い方向であるとは思わない。

たとえば「それはセクハラだ」と近くの大人が言えば、子どもはその片付かない気持ちに「そうか。これはセクハラだったのか」と得心するだろう。

そうして、のちのち何かとても大切な心情に気づくかもしれなかった原体験が、安易な言語に摩り替わってしまって、そしてもう二度と顧みられなくなるかもしれない。

「教師の不祥事」という記憶とともに。

けれどもそれは何だか、とても とても とても 寂しい。…私は。

こんなブンガクな気持ちが分かってもらえるか分からないけれど、すごく人間が寂しくなる。


ホントに何度も言うが、「ふれる」ということはとってもキワドイことである。

上に挙げた例だって、ホントにキワドイ。

安易に「良い」とか「悪い」とか、そんな判断も下せないほどにキワドク、むずかしいことである。

でも、だからこそ、もうちょっと考えてみようよ、と思うのだ。

キワドイということは、それだけ大事な核心にふれているということなのだ。

何かに「ふれている」とき、私たちはその感覚をとうてい言語化しきれることなどできない。

「ふれる」ということは、本来からして、言い表しようのないもの、片付かないものと向き合っているということなのだ。

そのような体験を幼少時からいっぱい経験していくことが、子どもの中にどんなものを育んでいくことになるのか、少し考えてみるだけで想像できるはず。

さまざまな手触りのものをふれてきた経験を持つ子どもは、きっといろんなものに「ふれよう」と伸ばす手が、より緻密に感じ分けようとやさしいタッチになるはずだ。

人生を生きていくということは、いろんな人の気持ちに「ふれてゆく」ということだ。

できれば、そこに手触りや体温を感じさせる、そんな教育と社会を作り上げていきたいものである。

posted by RYO at 10:56| Comment(19) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする