2012年04月19日

大受媽媽歓迎的整體治療師

クレヨンハウスから待望の本が届いた。

バーン! 私の著書『整体的子育て』の台湾語バージョンです!

その名も『随著四季………変化……ナントカ』でーす!(笑)

なんと海を越えて海外まで進出してしまいました〜。パチパチパチ。

よく見ると表紙の日本語がなんだか怪しいが、まあそれはご愛嬌でむしろ可愛いものである。

自分が書いたはずの文章が、自分の知らない言語で活字になっているというのは何とも不思議な気分であるが、いったいどんな翻訳をされたのか、さらには文化の違う台湾の人々にどんなふうに読んでいただけるのか、非常にドキドキワクワクしている。(野口整体って野口整骨って言うんですね〜)


私の文章が好きだと言ってくれる稀有な人々(あなたのことです)によって、私の物書きとしての活動は細々と続いているわけだけれど、ハッキリ言って私の文章は国語の先生に見てもらったら、そこら中に朱が入るようなそんな体の文章である。

だから「台湾語に翻訳して出版したい」というオファーをいただいた時に、「これ、訳せるの…?」という疑問が浮かんだのだけれど、まあその苦労は私が心配することでもないので、「あ、イイっすよ」と気軽にお返事させていただいた。

それがおよそ1年前の話で、それからさっぱり連絡がないので、「そういえば、あの話っていったいどうなっているのかな〜…」とふと思い出した最近になって、「できました!」と我が家に届いたという話。


正直、「よく訳したな〜」というのが私の素直な感想だけれど、きっと私の知らんところで大分意訳をしたことだろう。

何しろ私の文章は、論理は矛盾しているし、ときおり主語は入れ替わるし、ハッキリ結論を出さないし、まあ論文としては体をなしていないと言って良い。

そんなことは指摘されるまでもなく自覚していることであり、文句や苦情を言われても「そうなんです。スミマセン」とお答えするしかないので、だからあらかじめ言っておく。

「そうなんです。スミマセン」。


けれども、そんなことを自ら述べることから推測できると思うが、私はそんなことをあえてやっている。

そのことの意味を語ろうとすると、これまた非常に長くなってしまうので割愛させていただくけれど、決して私の国語能力の欠如によってのみそのような文章になるのではなく(それも多々あろうが)、私はハッキリとした意図を持って、確信的にあえてそのような語り口を採用しているのだ。

いちおう(笑)、それだけは申し上げておく。


ひとつ分かりやすいところを上げれば、私の文章は「途中で主語が変わってゆく」というスタイルを取ることがある。

そんな文章はきっとキリスト教圏の言語体系においてはバッサリ切られて終わるだろうが、日本人はなんとなく読んでいってしまう。

なぜならそれが日本語の言語体系だからでもあり、つまりは日本人の思考体系だからでもある。

広辞苑を開いてみると100以上の一人称単数を表わす言葉があるらしいが、それくらい日本人は「私」というものを使い分けている。

それはつまり、それだけ日本人にとっての「自分」というものが、文脈依存的に立ち現れているということでもあって、その挙句には主語そのものが抜け落ちてしまっても内容的に一向に差し支えないという特徴にもつながっている。

私はそんな日本人の言語癖を狙って働きかけているわけだけれど、それはいつの間にか変わってゆく主語に導かれて、いつの間に変わってゆく主体というものを、読者の皆様の中に「ある種の運動」として誘発したいからなのだ。


これは現代病の1つだと思うが、「本当の私」幻想によって息苦しくなっている人というのは、けっこう多い。

そういう人は、「頭の中の本当の私」と「現実(現在)の生々しい私」との乖離の中で、「現実(現在)の私」を受け入れられないままに「現実(現在)の私」を生きていかなくてはいけないという、本当に生き苦しい状況に陥っている。

自分なんて言うものはもっと不埒で、平然とタガを超えて、どんどん変化していくということを受け入れられると、ずいぶん楽になれるのだけれど、それがなかなかできない。

「自分というのはこれこれこういうものである」という自己規定の名指しによって、それにそぐわない自己部分のネグレクト(育自放棄)が起き、その部分の反感的作用から引き起こされる症状にさいなまれている。

その原因は家庭や学校や職場の人間関係とか、あるいは学校教育やメディアの語り口とかいろいろあるだろうけど、それは「自分というものの規定」、あるいは「言語体系」そのものの変革によって、ずいぶん変わってくるような気はしている。


私はそんな現代人の「自分」というものを平然と連れ去りたくって、ときおり主語をするすると変化させながら文章を書くのだ。

気づかぬ内に「私」が「あなた」になり「誰か」になり、また「私たち」になっている。

もし私の文章を読んで、少し元気になって気が楽になるのなら、小さな「私」から手放されていく自分というものがあるからだと思う。

読み進めるうちに、するすると主体が変化し、いつのまに見える光景が変わっている、感覚。

それはじつは私が言語の中で行なおうとしている「潜在意識教育(指導)」のひとつである。


私が「言語」の中でチャレンジしていることはいくつかあるけれど、「現代的論理思考形態」を乗り越えていきたいという思いは強い。

神話の時代にまでさかのぼらないにしても、たとえば研究者たちがその学術的成果を、詩や散文のように語ることができるようになったなら、きっと世界はずいぶん変わるはず。

現代人にとって、「言葉」の問題は大きい。


しかしまあそんなことはともかく、この私の肩書きはいったいどんなもんだろう。

「大受媽媽歓迎的整體治療師」って…(笑)。

まあ、今の私の立ち位置が分かりやすいけれどもね。

posted by RYO at 10:24| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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