2011年07月29日

人のあいだを巡るもの

先ごろAmazonをのぞいてみたら、さっそく新刊本が発売になっていました。
まだ発売日になっていないんだけど……なんで?
まあともあれ、よかったらぜひぜひご購入下さい。(⇒購入はこちら)

前回触れた「世界を動詞で語ってみる」というチャプターでは、あるお母さんから受けた相談についてのエピソードを書いている。

本の中ではページ数が少ないこともあって、詳しいことはカットしてさらっと書いたのだけれど、以前「童心社」という絵本や紙芝居を作っている出版社の会報誌「母のひろば」に、もっと詳しいエピソードを載せたことがあった。

掲載号の出版からもう数ヶ月経つし、ご覧になっていない方も多いと思うので、ここに再録しようと思う。

読んでみれば「動詞で語る」ということの意味が、またより分かりやすくなるのではないかと思うのだけれど、どうだろう?

それでもやっぱり「よく分からない」というのであれば、それはもう……私の講座に出てください(笑)。

ではどうぞ。


「人のあいだを巡るもの」

私はふだん子育て中のお母さんたちを相手に「子育て講座」というものを行なっています。子育てというのはホントにいろいろなことがあって悩みは尽きないものですが、講座ではお母さん方から子育てに限らずさまざまな相談を受けます。あるとき一人のお母さんからこんな相談を受けました。

「旦那としゃべっていて、ときどき旦那が不快になってくると、チッと舌打ちをするんです。それを聞くと本当に嫌な気持ちになってくたびれてしまって…。こういうのって、どうしたらいいんでしょうか…?」。

なるほど。夫婦というのは関係が近い分だけ難しいもので、ちょっとしたことが気になったり、何気ない一言に傷ついたり、イライラさせられたりするものです。他人であれば「まあいいわ」で済ませられることも、夫婦となると、病める時も健やかなる時もつねに顔を突き合わせているものだから、なかなかそうは済みません。

「そうですか。そういうのは苦しいですね」と私が答えると、そのときのことを思い出しているのか、ふっとくたびれたような顔をして「ホントに嫌なんです」と言う。それでその方に言いました。「そうですね。でもね、それはね、呪いですよ。そういうのは。良くないです」。

すると彼女は「え? 呪い?」とちょっとビックリして笑いました。「そうですよ。だって舌打ちなんてされても、返事のしようがないでしょ? そうしたらそれをまともに受けちゃいますよ。やり返せない。防御できない。そういうのを呪いって言うんです」。

彼女は「呪い」という言葉に最初こそ驚いたようでしたが、私の話を聞くうちにだんだん真剣な顔になっていきました。何だかよく分からないけど、でも何となく分かるような、何かが自分の中で必死にピッタリする言葉を探し出そうとしている、おそらくそんな感じがしたのかもしれません。私はさらに言いました。

「あのね、世の中、呪いの言葉や仕草というのは予想以上に多いんです。でも必ずしも言っている本人が意図しているわけじゃない。もちろん旦那さんだってそうでしょう。だからそれは『やめて』ってお願いすることはできても、そのふるまいを責めることはできない。まず、あなたにできることは、あなた自身が呪いから身を守るすべを身に付けるということです」。彼女は真剣に聞いています。私は続けました。

「そうですね…。今度、旦那が『チッ』と舌打ちしたら、すぐさま『パッ』と言い返してみてください。顔を見て言い返す。『チッ』と言われたら『パッ』。すぐさま返す」。

そう言ったら、真剣に聞いていた彼女とその場にいた人たちがみんな、いっせいにゲラゲラ笑い出しました。そう、何のことはない。要は私は彼女に「チーチーパッパ」のやりとりをお伝えしたんです。何だかふざけているようですが、私はいたって大まじめです。でも彼女を含め、その場にいるみんながいっせいに笑ったということは、みんな私の言っている意味が「分かった」ということです。向こうが「チッ」なら、こっちは「パッ」です。


人間関係というのはいったい何なんでしょう? 世の中にはさまざまな問題がありますが、それも元をたどっていけば、おそらくほとんどは人間関係の問題に行き着くのではないでしょうか。

ひょっとしたら彼女と同じような悩みを抱えている人は、世の中、大勢いるかもしれません。何だかよく分からないままに人と会うことがどんどん苦痛になって、やがて生きていくことにくたびれてしまう。

何でもない小さなことなのに、それを深く受け止めてしまうから呪いにかかる。いや、何でもないことだからこそ何も言えず、対処できずに呪いになる。一つ一つは小さなことかもしれないけれど、それはたび重なるごとに徐々に心に小さな傷をつけ、やがては歩くことさえ辛くなってしまうほど、身心を消耗させてしまいます。それはまさに「呪い」と言っていいでしょう。

人間関係が良い状態であるかどうかは、コミュニケーションがスムーズに行なわれているかどうかにかかっています。向こうからやってきたものを受けとめて、こちらがそれに対して返事をして、それを今度は向こうが受けとめる。やりとりされているものが何であれ、その「ある種の対話」が二人の間できちんと行なわれていれば、関係はすこやかでいられるのです。

「喧嘩するほど仲がいい」なんてたとえもありますが、それは「やりとりされているものが何であるか」ということよりも、「やりとりそのものが大切である」ということなのではないでしょうか。大事なことは、お互いの間をきちんと巡るものがあるということです。そのお互いのやりとりが滞り、二人の間で巡っていたものが止んでしまった時、そのとき何かが病んでくるのです。

きちんと巡っていること。滞りなく流れていること。それは人間がお互いすこやかであるために必要不可欠なことです。川には自然浄化能力がありますが、それは流れがあるからです。きちんと巡っているからです。人にも自己治癒能力がありますが、それも流れがあるからです。きちんと巡っているからです。

私たちの周りでも、何か問題があったり、何か病んだ状態になっているのだとしたら、それは巡るべきものが巡っていないのではないか。そういうふうに見てみると、何をすればいいのか思いつくことがあるかもしれません。

私に相談したその方は、旦那の舌打ちに対する返事の仕方を知りませんでした。素直に「やめて」と言えれば良かったかもしれない。あるいは言ったけれど、まともに取り合ってくれなかったのかもしれない。でもとにかくそこには滞っているものがあり、それが彼女の悩みとなったのです。だから私は彼女に「返事の仕方」を教えたのです。返事をすることで、それがきちんと「一つのお話」になる、そんな返事の方法を。

どんなことでも一方通行なのではなく、きちんと対話になること。キャッチボールができること。それはあらゆる人間関係の基本になることでしょう。私に悩みを相談したその方は「今度さっそくやってみます!」と笑顔で答えてくれました。

posted by RYO at 23:22| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

新刊本「整体的子育て2」

今度出る本のタイトルと表紙です。


『整体的子育て2 わが子にできる手当て編』8月4日発売!
⇒購入はこちら


試し刷り段階の表紙画像だけれど、本式のがなかなか届かないのでとりあえず上げておきます。(色が若干変わるとか何とか…)

もともとは子育て講座の内容をテープ起こししたものをまとめるという企画で始まったものだったけれど、結局書いているうちにほとんど書き下ろしになってしまった。

執筆中に3・11があったりして、予想以上に四苦八苦した本だったけれど、中身はなかなか良いものに仕上がったと思う。

整体について、子育てについて、私の中にあるエッセンスをふんだんに盛り込んでみたので、興味のある方はぜひぜひ手にとって読んでみてください。

もちろん内容はクレヨンハウスならではの「分かりやすさ」と「ポップさ」を重視してまとめられているので、このブログの文章のような「噛みにくさ」(笑)はほとんど無く、ノド越しの良い感じに仕上がっている。
(「書け」と言われりゃ書けるんですよ。そういう文章も。いちおうね(笑))

なのでその反面、色気や際どさのようなものは少ないが、初めての方でもすんなり入っていけると思うので、ぜひぜひいろんな方に手にとって読んでいただければ幸いであります。

読書用、保存用、贈呈用と一人三冊くらい取り揃えていただけると、家内安全、無病息災、心願成就と、さまざまな御利益ももれなくついてくること請け合いです。


これから出版記念のサイン会やワークショップなどがあちこちで催されることになるかと思いますが、それらの予定は決まり次第、逐次このブログの方に情報をアップしていくので、ご興味のある方はどうぞチェックしておいてください。

ちなみに7月30日にすでにワークショップが決まっているので、よろしかったらぜひどうぞ。


ところで今回この本の中で、「世界を動詞で語ってみる」というチャプターを書いた。

一見、「整体」にも「子育て」にもつながりそうにないタイトルであるが、私が前々から大事なことだと思っていたことであり、今回書いているうちに気づいたらふと筆が走っていったので、そのまま一つのチャプターとして作ったのだ。

「世界を動詞で語る」というのは、いつか何らかのエクササイズやワークとして組み立てて、いろんなカタチで多くの方々に練習していってもらおうと思っていることの一つなのだけれど、これは「世界のものの見方」を変えるために、けっこう大事なキーワードだと思っている。


多くの場合、私たちは世界を「名詞」で語る。

名詞というのは、瞬時に対象をガシッと掴む。

それはつまり実体的でカチッとしたものとして世界を捉えるということだ。

掴まれた対象は即座に概念化され、結晶化され、一つの名詞として存在することになる。

「世界を名詞で捉える」ということは、スチールカメラでパシャリと写真を撮るように、世界を一枚のピクチャーの中に封じ込めるという、そんな振る舞いなのだ。

そこには時間軸というものは存在しない。

だから世界を名詞で捉えていくと、そこからじょじょに「時間」が失われていく。

だが、時間とは生命そのものだから、時間という要素を取り除いて世界を見つめていくと、そこには生命感が欠けてくることになる。

むんむんと湧きたつような「生命の匂い」がそこには無い。


私たちの思考はどうしても世界を名詞で捉えようとする癖がある。

それは思考そのものの癖なのか、現代人の思考の癖なのか、あるいは私たちの言語構造に拠るのか、それはよく分からないけれど、ともかく世界から時間を剥ぎ取って捉えようとする傾向がある。

たしかにその方が捉え処があって、ハンドリングしやすいので、便利であることは確かだけれど、そこで捨ててしまった「時間」というパラメータについて、どこか頭の片隅に置いておくことは大事なことなのではないか。

だって、世界は生命に満ちていて、それはつまりいつだって「動き続けている」ということであり、「時間軸とともに在る」ということなのだ。

「動き続ける世界」を捉えるためには、「名詞」だけでは太刀打ちできない。

「動き続ける世界」を生け捕りにし、踊り食いにするためには、どうしたって「動詞」が必要で、だから「世界を動詞で語ってみる」ということなのだ。


本の中では一つの例として、『「夫婦」というものを動詞で語ってみる』という提案をしている。

自分たちの「夫婦」という運動は、いったいどんな「動詞」がぴったりくるのか。

「支える」だったり、「向き合う」だったり、「寄り添う」だったり、「負かす」だったり…

夫婦を「夫婦」という名詞でさっくり語っているだけでは見えてこないものが、動詞で語ってみようとしたときに見えてきたりする。

そこで繰り返し行なわれている「運動の本質」が見えてくる。

それは子育てにおいても、まったく同じことである。

ついつい名詞で捉えてしまいがちな「子どもの理解」を、動詞に置き換えてみたときに、動き続ける運動態としての子ども、成長し続ける現象としての子どもが見えてくるだろう。

するとそこで何が行なわれているのか、何をやろうとしているのか、徐々にではあるが、そんなものが浮かび上がってくるはずである。

子どもという運動態、親という運動態、親子という運動態、家族という運動態…

世界を動詞で語ろうとした野口晴哉やルドルフ・シュタイナーやゲーテのような人たちに、少しでも近づくためにもおススメのエクササイズである。


まあ、育児書のくせにそんな変なことまで書き込んだ本書であるが、中身的にはかなり面白い本になったということは自信を持って言えるので(なぜなら書いた本人が読んでいてすっごく面白いから(笑))、ぜひぜひ手に取ってみてくださいな。

どうぞよろしくお願いいたしまする。

posted by RYO at 21:39| Comment(11) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする