2011年02月16日

ファイル名を付けずに保存する

「ファイル名を付けずに保存」。

そんなことを、ふとつぶやいてみて「うふっ」と笑う。

うん、いいじゃないか。なかなか。


二十代にからだのことに興味を持ち、「感覚」というものと真摯に向き合い始めてから、私は何か感じたときに、それを安易に「言葉にしない」ということにしている。

「言葉にしない」というのは、「考えない」ということとは違う。

考えなければ反省はなく、反省なければ進歩もない。

だから考えることは考えるのだが、「取り扱いをしやすくするため」という理由で、感覚や経験を安易に言葉にパッケージ化することをしない、ということである。

言葉にするといろんなものが抜け落ちる。

自分自身のボキャブラリーの貧困さはもちろん、人間の認知構造というか、意識構造というか、言語構造というか、とにかくそういうものの性質上、言語化する過程で膨大な量の情報がごっそり抜け落ちてしまうのだ。

そしてたいていその中にこそ、私自身にとって最も重要なものとなるであろう、「未だ私がその価値を発見できていない原石」がある。

だから安易に言葉には、しない。 必要以上に言語化しない。

それで「ファイル名を付けずに保存」なのである。


「名乗るまで待つ」と私は言っているのだけれど、自分自身の何かの体験を、そのときの手持ちのボキャブラリーで安易に言語化してしまうことをせず、いつかそれ自身が自ら名前を名乗るまで待つということを、普段から心がけている。

私の経験から言って、重要なファイルというものはいつか必ず自ら名前を名乗り出る。

そしてそれはたいてい、ピンチの時に訪れるヒーローのように「ちょうど今!」というタイミングで訪れてくれるのだ。今まさに必要なモノを携えて。

ゲド戦記じゃないけれど、もし何かが自ら本当の名前を名乗ってくれたなら、それはきっとそのモノとの間に深い絆が結ばれた証である。

それは、こちらが受けた印象から名付けた俗称とは意味が違う。

おそらくそれはもう一生ものの関係だ。


私のからだのアーカイブには、「ファイル名を付けずに保存」された膨大な量の「無名のファイル」たちがある。

以前はその膨大な「無名のファイル」も、私の奥底のハードディスクの中に適当に放り込んであっただけだけれども、いろいろ勉強したり、経験を積み重ねてゆく中で、その量がどんどん増えてゆき、それがある程度のところを超えたあたりから、それぞれがお互い相互リンクするということが起き始めた。

私の中の「無名のファイル」たちが、私の意図せぬところでお互い連鎖連想しはじめたのだ。

おう、なんだこれは。知の相転移か。

これは面白いな、これは人間ってすごいな、と思い、これはどんな情報処理システムが動いているだろうとそんなことを思っていたら、最近になってコンピュータの記事か何かを見ていた時に、「あ、これは『タグを付ける』ってことか」とふと思い立った。


「タグを付ける」という方法はもちろん昔からあっただろうが、このある種ITならではの情報処理法がこれほど発達し一般化したのは、おそらく長くてもここ10年ほどの話だろう。

今まで人類が何千年と採用してきた社会的な「情報処理システム」とは、つまりは書庫や図書館のようなものだった。

その情報処理の仕方とは、大きな分類から小さな分類へと、つまり「暮らし・生活」→「健康法・民間療法」→「整体」というような、上位から下位に下がるにつれて項目が増えてゆくピラミッド型(あるいはツリー型)の分類方法である。

それは具体物を配架する際には非常に便利な情報処理法で、だからこそそのような情報処理システムがつい最近まで、というか今でも主流を占めているのだ(PCのインターフェイス(フォルダとか)ですら基本的にはそうである)。

けれどもITは、情報がどんどん電子化されていく中でそれらの物理的な制限を一気に解除し、新しい情報処理システムの構築を可能にした。

その一つが「タグを付ける」という方法である。


先ほどの図書館のような従来の情報処理システムは、その情報処理の初めに「名付け」が必要である。

それが何の本であるのか、どんな内容の本であるのか、どんなジャンルの本であるのか、その判断無くしては情報処理のシステム上に置くことができない。

だからまず「これは何々の本である」という名付けが先行し、その判断に基づいて情報処理されるわけである。

けれども「タグを付ける」分類法には、その情報処理に「名付け」や判断は要らない。

それが何の本であるかということは、さほど重要ではない。

なぜならタグによる情報処理においては、その本の中に出てくるトピックを拾って、そのままタグを付けていけば良いのだから。

つまりたとえ「法律」の本であっても、本文に「料理」についての記述が出てくるならば、「法律」と「料理」のタグをそれぞれ付ければ良いのだ。

物理的な制限がないならば、その本が「法律」のグループに顔を出そうが、「料理」のグループに顔を出そうが、あるいはその他のあらゆるグループに顔を出そうが、何の支障もない。

その当該の記述部位にダイレクトにリンクし、一気にジャンプすることができるのだから。

だから「ファイル名を付けずに保存する」ということができる。

ファイル名など無くとも、あるいはファイル名に一言も触れられていなくとも、そこで取り扱われている小さな一つ一つの情報が、自分自身のアドレスを持ち、タグに登録され、世界中とつながることができるのが、物理的な制約から解き放たれたモノたちの世界である。


この分類法は、実は人間の認知過程で行なわれているプロセスでもある。

私たちが初めて何かと出会う時、「それが何であるか」の判断以前に、そのものの持つ特徴のタグ付けと、私たち自身の経験のアーカイブとの参照が行なわれている。

「目の前のもの」と「経験」のそのタグの一致率から、私たちは「およそこんなものに似ているから、おそらくそんなものだろう」という類推をしている。

そのタグは、生態心理学では「アフォーダンス(⇒Wiki)」と呼ばれている。

アフォーダンスとは「行為可能性」とでも言うもので、たとえばコップを見たときに「持つことができる」「水を入れることができる」「歯ブラシを入れておける」など、私たちがそのモノに見つける「関わり方の数々」のことである。

何かを見たときに、そこにどれだけ多くのタグを付けられるか、どれだけ多くのアフォーダンスを見出せるかということは、「知の相転移」ということを考えたときには最高に重要なことになる。

なぜならそれはそのまま、それがアーカイブされる時の「リンクの数」になるからである。


コップを見たときに、「水が飲める」というタグしか付けられない人は、たった一つのリンク、たった一つの視点でコップを捉えることになる。

それはつまり、コップとそれ以外の自分の中にある膨大な情報との間に、たった一つのつながりしか見い出せないということである。

けれどももしコップを見たときに、「水が飲める」「歯ブラシを入れられる」「食器である」「ガラスである」「透明である」「投げれば武器になる」「楽器になる」「円が描ける」「麺を伸ばせる」「マキビシになる」「盗聴器になる」…その他云々かんかん、そこにさまざまなアフォーダンスを発見し、そして多くのタグを付けることができる人間は、自分の中の膨大な「人生アーカイブ」と多数のリンクで結ぶことができる。

それは、さまざまな物事からコップを連想し、またコップからさまざまな連想をすることができるということである。

そのリンクは増えれば増えるほど、コップは世界とどんどんつながり、そして世界はコップを通じて一つになってゆき、やがてコップ一つが世界を語る出入り口(ハブ)となる。

目の前の一つのコップから、文学にもオイルマネーにも片想いにもカピバラにもオリオン座にも人生にも肘掛けにもサハラの砂にも跳べるということは、それはすごいことだし、そして実際、世界とはそういうものなのだ。

もしそれがあらゆるモノの中で動き出せば、おそらく私たちの「知の構造」はがらりと変わる。

それはある種の「クラウドコンピューティング」だし「暗黙知」だし「粘菌的知性」であるが、それはまだ私たちの背景でしか動いていない。

漠然と空想するしかないけれど、この「知の構造」がもう少し明るいところで動き出せるそんな世界を目指すことは、私はとても大事なことのような気がしてならないのだ。

別に「明るすぎる」必要は全然無いんだけれどね。


ひょっとしたら、そのとき私たちは「新しい言語」を必要とするのかもしれない。

あるいは新しい「知の作法」「対話の作法」を必要とするのかもしれない。

「安易に言語化されないこと」「言語化されないものの居場所があること」「からだの声を聴くこと」、そして「アタマもからだもすべてが等しく対話できること」つまり「大人と子どもが等しく対話できること」。

私がさまざまなワークを通じて目指したいと思っていることは、ただひたすらにそのことだけであり、私が動いているすべては、その実現を想って見ている夢である。

私はいつまでも、名前も分からぬ何だかよく分からないモノたちを愛してやまないのだ。

ここそこに ほのかに香る 色がある

posted by RYO at 00:07| Comment(13) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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