2011年01月10日

私という物語

「誰しも自分のことは分からない」とはよく言われることだが、確かに自分を認識するということは難しい。

占い師も自分の未来は占えないし、医者も自分の病気は気づかないし、カウンセラーも自分の心は癒せないし、坊さんも自分の供養はできない。(ってちょっとズレてるか)

「認識」という行為は基本的に「異化作用」であり、何かを認識するということは、それを遠くに離して置いてみて、それを外から見つめることで初めて成り立つことなのだ。

だから、共感・同化している対象を「認識する」という行為は原理的には難しいことで、恋をしている人が盲目になるのも、子どもに関して親が馬鹿になるのも、それは相手に共感・同化しているからであり、言い換えればそれがいわゆる愛の証拠であり代償でもあるのだから、いたしかたない。

恋人や家族であってすらそうなのだから、完全に同一化している「自分」なんてものは、本来からして「認識」などしようがない。

目玉が目玉を見つめようとするようなものである。


けれども、それでも人間は何だか知らないけれど「自分を認識したい」という止むに止まれぬ欲求に駆られて一生懸命脳みそを発達させようとした。

でもどれだけ発達させようとも、「自分を認識したいけど、認識するためには自分から離れなくちゃいけない」という身もだえるような原理的矛盾を解決することはできないので、延々と葛藤し続けることになった。

しかし、人間というのは頭がいい、というか脳というのは頭がいいもので(って変な言葉だな)、その止むに止まれぬ欲求を叶えるために、「矛盾はそのまま迂回する」という一世一代の大技を繰り出すことにした。

つまり、「自分を見つめることができないなら、誰かに自分の代わりになってもらって、それが自分ってことでそれを見ればいいじゃん」ということで、「何かに自己を投影し、それを参照する」という方法を思いついたのだ。


その投影する「何か」が鏡であれば、これは誰でも空想しやすいだろう。

毎朝、私たちが鏡を見ながら顔を洗ったり、歯磨きをしたり、髭を剃ったり、化粧をしたりするのは、鏡に映しこんだ似姿を自分だと見做すことによって、自分を認識しているのだ。

だが、「鏡」(あるいは「言葉」)は自己認識のツールとしてはずいぶん後になって発見したのであって、それよりはるか前に自己を投影できる「何か」を人間は発見しているのだ。

それが「仲間」である。

すげー似ている奴が周りにいるんだから、そいつらを見ていれば自分がどんな奴だか分かってくるじゃん、ということである。

それまでは身体から湧き起ってくる「印象」に振り回されていただけだったのが、仲間の振る舞いを通じて、その「印象」を客観的に外から「認識」することができるようになった。

他者の振る舞いと同期しつつ、それを参照することで、「ああ、オレはああいうことをしているのか」、「なるほど、こういうときはこういう状態になるわけね」と、自分の「振る舞い(無意識)」を「意識化」できるようになった。

さらにその意識化できたことを「言葉」に置き換えてアーカイブするという方法を発見するに至って、人間の中に物語というものが動き始めた。

よくもまあそんなことを思いついたなと思うけれども、この瞬間こそが人類にとっての大いなる「私という物語」の始まりだったと言えるだろう。


「私という物語」の根っこに「他人を自分と見做す(他者を鏡とする)」という「大きな詐術」が存在するという事実は、受け止めるのになかなか覚悟がいることであるが、でもそうやって迂回しなければ、「私」という意識は持つことができないのだから仕方が無い。

そういうわけで、「私」と「他者」というのは、「私」が成り立つためには切っても切れない依存関係であり、ある種の共犯関係であるわけだけれども、その共犯関係の中にうごめくさまざまな心象のうち、どれが「私」で、どれが「他者」か、というその仕分けの仕方に、時代や文化の個性というものが現れる。


…え〜、ここでふと我に返ってみたのですが…(笑)
何だかやたらややこしい話になってますね。
新年早々なんだかワケの分からない話で申し訳ありませんが、みなさん付いてきてますか?
まあいいや、たまにはトップギアで飛ばしちゃいます。
どうせ雑念書き散らすブログだし、へへへ…(笑)。


私は「私」自身を認識することはできずに、「他者」しか認識できないわけだけれども、「他者」のなかに「私」を見出すことによって、「私という物語」を語ることができるようになった。

そしてその「私という物語」と「自身の感覚」を参照することで、人はみな「現在の自己」の認識をし、さらなる「私という物語」を紡ぎ続けているのだ。

だが、「他者」という鏡のなかに映るさまざまな事象のうち、どれが「私」なのかという選択をする際には、恣意性が働いている。

つまり「鏡はすべて映している」のだが、そのうち「どれを自分だと思うか」は、受け止め方によるのだ。

基本的に「私という物語」に都合が悪いものは「他者」に分類され、吐き出されたままになる。


古い知恵は、そのあたりの取り扱い方も非常に練り上げられたものがあったけれど、現代人はそのあたりの取り扱い方がまったく分からなくなってしまっているので、それでなかなか大変なことになっている。

何と言うか、つまりは現代は「私という物語」が恣意的に過ぎるのだ。

現代人の「私」というものは、あまりにも「私だと思いたいこと」だけでできていて、そしてその外部に対しては取り扱うすべをまったく知らない。

「私」と切っても切れないほど密接に関連し、つねに周縁にまとわりついているにも関わらず、「私という物語」に採用されないモノたちが、現代人の周囲には大量にうごめいている。

妖怪たちが跋扈した時代は、決して遠い昔の話ではない。

まあ「それも私だ」と言えればいいんだけれどね。これがなかなか難しい。


人間は、人類が「私という物語」を語るために原初の時点でついた「大きな嘘」を、大人として成長してゆく過程で、どこかで回収していかなければいけない。

数学でいえば、計算しやすくするために或る未知数を仮に「a」という代数に置き換えた事実を、最後に解を導く過程で、どこかで右辺と左辺をそろえて打ち消さなければいけないのだ。

そうでなければ、最後の解に「a」という嘘が混じったままになってしまうことになる。

だがその大仕事は、現実には個人の手に委ねられている。

人類がついた初めの嘘を、私たちはみな個人の手で回収しなければならないのだ。

生きていく中でそれをどこまでスッと落とせるか、そこに人間の美学があるように私は思う。

私が仮に「私」だと思い込んだ「私」という概念を、人生の中でたびたび書き換えながら、いつかどこかで自ら回収するということ。

ときに、「ひょっとしてこの人はそれを自らの手で回収できたんじゃないか」と思える人間に出会うことがあるけれども、そういう人間が身にまとう雰囲気ほど美しいものはない。

何と言うか、愛に満ちている。

そういう人を知るたび「ああ、私もこうありたい」と願ってやまないが、最近はシュタイナーが言った「自由な人間」というのは、ひょっとしたらこの状態を指しているんじゃないだろうか、などと思ったりもする。

なぜならそういう人は、自分の運命ときちんと向き合えているからである。


…ということで、なんだかいきなりややこしいワケの分からない話をぶってしまった。

スミマセン。

年始早々に謝罪から始まるというのも某店舗のおせち騒動みたいで何とも言えないが、最近ずっと講座で分かりやすい話をしてばかりだったから、たまにこうして我流全開のワケの分からない話をぶちまけてみたくなるという、まさにその好例のような記事でありました。

まあすべて私の雑念妄想ですから、あまり気にしないでください。

いや、でもね、そういうのはね、きちんと出さなきゃいけませんよ。みなさん。

「自覚的に出していく」ということが大事ですね。

無自覚的な「垂れ流し」や「横洩れ」は、他人に迷惑をかけますから注意しましょう。

排泄にこそ、自覚と節度が大切です。 だってそれも「私」なんだから。

posted by RYO at 20:34| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月02日

物語のはじまり

みなさま、あけましておめでとうございます。

昨年中は毎度相変わらずの私の雑念妄想にお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました。本年も変わらず雑念の限りを書き散らかしてまいりますので、よろしくお付き合いいただければこれ幸いに存じます。


昨年はクレヨンハウスからの新刊発売に続き、夏の学校、各地でのサイン会&ワークショップイベントと、あちこち忙しく駆け回っておりましたが、そちらも本当に多くの方々に足を運んでいただきました。

多くの方に支えられて今があるということは十分承知していたつもりでありますが、改めて実際に足を運んで来てくださる方々に接しますと、その感がより一層の実感を伴ってこの身に迫ってまいります。

前回の記事ではありませんが、「私という人間」と「私の名を呼ぶ人間」とは表裏一体であり、「私の名を呼ぶ人間」なくしては「私という人間」は存在できないのでありまして、みなさまの有形無形の愛と支援のおかげで今の私がいるということに、ただただ感謝いたすばかりです。

今年もすでに次の著作に向けて動き出していますし、それ以外にも面白そうな企画も進んでおります。

みなさまにも益々喜んでいただけるよう、より一層の精進を重ねてまいりますので、どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。


さて、毎年恒例のようになってまいりましたが、今年も気になった動画をご紹介することで、新年のご挨拶と代えさせて頂きたいと思います。

今年は何にしようかと悩んだのですが、結局絞りきれませんでしたのでいくつかご紹介したいと思います。


まずは、すでにご覧になった方も多いかもしれませんが、グーグルが最近プロモーション攻勢をかけております「Googleで、もっと。」キャンペーンの動画です。

リンク先に飛びますといくつもの動画があり、どれも楽しいイタズラ心が満載ですが、私がとくに気に入ったのは以下の2つです。

一つめはこちら。


みんなで何かを作り上げるという「祭り体験」を、私たちはもっと日常的に暮らしの中に組み込んでいかなければいけませんね。

二つめはこちら。


「It’s 男子」。(笑)

こういうバカっぽいのいいですね。好きです。がんばれ男子。いや女子も。


そして、最後にもう一つ。

こちらは台湾の学生のグループが卒業制作で作ったアニメーションらしいですが、なんとも心温まる優しく素敵な動画です。


最初、私はこの物語を支える小さな事実に最後まで気づきませんでしたが、みなさまはどうでしたでしょうか?

気づいてもう一度観てみると、いろんなところに素敵な仕掛けが散りばめられているんですね。

なんともなんとも素敵なアニメーションです。

みなさまの周りでもどうぞ素敵な物語が紡がれますよう。

posted by RYO at 09:16| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする