2010年12月04日

仏と木屑

私の大好きなまどみちおさんの詩に「リンゴ」という詩がある。

リンゴが一つここにあるということは、そこには他に何もないということで、そこでは「あること」と「ないこと」がまぶしいようにぴったりだという、そんな内容の詩である。

シンプルだが非常に美しい詩であり、また非常に哲学的でもあり、自然科学的でもある。

「さすが」としか言えない。 みちおさん、素晴らしいです。


最近ちょくちょく「抜き型」という概念について考えている。

それはまどみちおさんの言うリンゴであるし、松岡正剛さんの言う「鍵と鍵穴」の関係であるし、またあるいはアフォーダンス(⇒Wiki)という主体と客体の関係でもある。

「私」と「私の環境」とは、表裏一体の関係である。

警察が現場検証をして犯人像を空想するように、あるいは動物学者が動物の痕跡からその生態を調べるように、「私の環境」を丁寧に記述してゆけば、そこには必ず「私」という人間が浮かび上がってくる。

「私の環境」には「私」の痕跡が焼き付いている。

それは逆を言えば、「私」にも「私の環境」が刻み込まれているということでもある。

人間観察とは、その「人間に刻み込まれた環境(背景)」を読み解こうとする営みであるわけだが、それはちょうどフィールドワーカーが行なっていることと逆の痕跡を見出そうとしているとも言える。

いずれにせよ、どちらも「鍵と鍵穴」の関係の記述をしようとする営みであることに違いはない。


私が最近しばしば語るたとえ話がある。

一本の丸太から仏像を彫り出す仏師と呼ばれる人たちがいる。

仏師は木の中に眠る仏の姿を思い描きながら、ノミと槌とを振るい、一刀一刀丁寧に木を削り、徐々に仏の姿をあらわにしてゆく。

仏さまがその姿をはっきり現わす頃には、膨大な木屑が足元に積もっているわけだけれど、私たちは仏像を見てその姿に感慨を覚えることはあっても、その足元に積もった木屑の山を顧みることはまず無い。

というより、たいてい木屑はすべて掃き清められてしまって私たちの目に触れることは無いので、その存在は思い起こされることすらない。

けれども考えてみると、一本の丸太から仏像を削り出したときに出た木屑たちは、それらをもう一度パズルのように元通りに組み合わせてペタペタとつなぎ合わせたとしたら、それは「マイナスの仏像」になるはずである。

「丸太−木屑=仏像」であるなら、「木屑=丸太−仏像」である。シンプルなことだ。

つまり、組み合わされた木屑のかたまりの内側には、仏像の形にくり抜かれた空洞が存在することになる。

それは「抜き型としての仏像」であり、また「空虚としての仏像」である。

そこには仏が仏であるための「鍵と鍵穴」の関係があるとは言えないだろうか。


実際、仏像を彫り出す仏師がノミを振るって生みだしているものは木屑であって、仏像ではない。

仏師は作業中、木屑を生み出しているのであって、仏像はその営みの結果に過ぎない。

仏像の周囲を記述しつくす(彫りつくす)ことで、仏像を描き出す。

彫刻とは、もともとが虚の塑像であるとも言えるだろう。

だからそういう意味では、仏師は最後の最後まで仏像に触れえないのだ。

なぜならそれは仏像を傷つけてしまうことに他ならないからだ。

仏師に許されたことは仏像のギリギリをかすめることだけである。

ただそれだけをひたすらに行なう。なかなかシビアなことである。

だがまた同時に不思議な営みである。


丸太から、木屑が生まれて、そして仏が生まれる。

木屑は、仏がこの世に生まれるために、その身を削り落とすことを引き受けた一片一片である。

木屑は文字通り、その身を削って仏を支えているのだ。

その身を削ろうという膨大な木屑たちの決意によって、仏は初めて生まれる。

仏が尊いものであるならば、木屑もまたまったく等しいだけ尊いはず。


整体を作られた野口先生は「この世で一番偉大な仕事をした人はだれ?」という質問に、「キリストをキリストにした人たちだ」と答えた。

それは「仏を生み出すためにその身を削り落とした木屑を見つめよ」ということであったろう。

それは「野口晴哉を野口晴哉にした人たち」に対する感謝と敬意の表明であり、また、「己が何によってこの世界に立っているのかを知れ」という弟子たちに対する教えでもあったろう。

キリストがたった一人でキリストであったわけではないように、野口晴哉もまたたった一人で野口晴哉であるわけではない。

「図」のあるところ必ず「地」がある。「地」に支えられて初めて「図」が浮かぶのだ。


そしてそれは私たち自身の中においても同じことである。

からだには、意識化される過程で削り落とされていったモノたちの踊り場がある。

アタマの中の明晰な「図」は、からだに広がる薄暗い「地」によって支えられている。

アタマの中に仏を思い描くとき、その木屑はからだが引き受けているのだ。

歴史においても、明らかな正史として記録されることのない、人々のささやかな文化史や、数多くの陰謀や都合の悪い事実は、歴史教科書に記載される代わりに、唄や踊りや民話といった形で、芸能として風俗として大衆の中に語り継がれてゆく。

それこそがつまり「民族の無意識」であり「民族の身体」であるわけだが、同じように私たち一人一人においても、「ささやかなもの」や「生々しいもの」や「俗悪なもの」は、裏史としてからだの中へと留められ、正史として意識化されることはない。

だがあらゆる芸能、風俗が大衆の中に残り続けるように、それらはいつまでも踊り場で踊り続けており、隙さえあればいつだってそれこそまさに踊りや唄や奇妙な狂言となって、表に現れようとしている。


「それらを見つめよ」と、野口晴哉は言うのだ。

いや、本人はそんなことを言っているつもりはないかもしれないけど、私にはそう聞こえるのだ。如是我聞。

その眼差しは、何かを言葉にしたときに言葉にされなかったコトたちへの眼差しであり、何かを決意したときに脇へ押しやられたモノたちへの眼差しである。

「キリストをキリストにした人たちこそが偉大である」ということは、「キリストという現象を支える多くの人たちを見よ」ということであり、それはまずは「キリストを信じる者たちを見よ」ということであり、そしてさらには「キリストをこの世に吐き出した陰の者たちを見よ」ということなのだ。

俗な者、悪しき者たちがキリストをこの世に吐き出させ、信じる者たちがキリストを作り上げた。

「信じる者」たちを見つめ、そしてさらにはその陰にある「俗な者、悪しき者」をも見つめよ、ということ。

それらその身を削り落してくれたさまざまな木屑たちこそが私を私たらしめている、ということ。

野口晴哉は、何が野口晴哉を野口晴哉たらしめているのかを見つめていた。そして、それこそが偉大な仕事を果たしているのだと。

その眼差しを忘れて、からだを見つめることはできない。


いつかどこかで、仏像を彫った後にその仏像を捨てて、残った木屑の山を本尊に据えて、「これこそ仏である」と言ってはばからないファンキーなお寺でも出てきやしないかとひそかに期待しているのだけれど…、どうかなあ?(笑)

あるいはその木屑を集めてもう一度固めて仏像に仕立てて二体とも並べるという、二回転ひねりのトリッキーな遣り口なら、大丈夫なんじゃないかな? 遊びすぎ?(笑)

posted by RYO at 21:09| Comment(20) | TrackBack(0) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする