2010年11月14日

贈与と子ども

内田樹先生がちょっと前にブログで「贈与」について書かれていた。

「そのとおり!」と思ったので、ぜひみなさんに紹介しようと思ったが、そういえば前にも内田先生のブログの記事を紹介したなと思って調べてみたら、やっぱり「贈与」についてのエントリーであった。(2009/10/23「愛のシャワー」)

なんだ、まったく同じものに反応している(笑)。

ほとんどパブロフの犬のようであるが、でもとっても大事なことなんだからしょうがない。

ずいぶん前にも、「贈与の環が動くとき霊力が動く」という言葉を紹介したことがあるけれど、「贈与」という営みは人間の人間性たるゆえんを考えるときに、とても大切なキーワードである。


昔は子どもは周囲の大人たちから「子ども扱い」され、ただ贈与のおこぼれをもらうだけで何も身銭を切らなくていい、という立ち位置を与えられていた。

「身銭を切るのは大人の役割である」という価値観が、大人たちの間で共有されていた。

子どもはただひたすらに「与えられる存在」だった。

親から贈与を受けるのは当然として、近所のおっちゃんおばちゃん、あんちゃん姉ちゃんからも、ただひたすらに贈りものを与えられる。

「飴ちゃん食うかー?」
「ほらここ座っときー」
「ええもん見せたるわ」
「お前は気にせんでええ」

…と、なぜか大阪弁なのだけれど(笑)、でもそういうふうに大人たちからいろんな贈与を、愛のシャワーとしてただひたすらに浴びていくことが、「子どもを生きる」ことなのだと思うのだ。


けれども、そういう「子ども扱い」というある種の「大人社会からの疎外」を、「平等」という考えのもとに、あるいは「自主性の尊重」という考えのもとに、私たちは何となくやめてきてしまった。

それは民主化という時代の流れとしては、まあ必然であったかもしれない。

でも、そのことで子どもたちはずいぶん早くから「大人社会」に、「人間社会」に、参入させられることになった。

とくに資本主義社会という面においては、子どもたちは「被贈与者」からなるべく早く「消費者」として一人前になってもらうことを要請された。

そりゃ企業としては、子どもたちにはいち早く「消費者として一人前」になってくれた方が、マーケットが一人分増えるのだから、「被贈与活動」などさっさと卒業して、「消費活動」に入ってほしいに決まっている。

その必死の啓蒙活動もあって、おかげでマーケットは拡大し、経済はさらなる発展を遂げた。

が、そのときから子どもは「神の子」でなくなった。

人間社会から「消費者」として扱われ、「お客様」として扱われる子どもたち。

人間の大人たちの欲望によって、神々の世界から人間の世界へと連れ去られてしまった子どもたち。翼をもがれた天使たち。

そのことを想うと、私は何とも言えない寂しさを覚える。哀しくて哀しくて仕方がない。

もうそれこそ童話が一篇書けそうなくらいだ。 「神の子が人の社会に連れ去られる話」。


でもね、やっぱり早いんだよ。

そんなにすぐ彼らを「今の人間社会」に連れてきちゃいけないんだよ。

しっかり「神々の世界(ファンタジー)」を十分に生ききってから地上に降りてこないと、何か大切なものを決定的な仕方で損なってしまうんだよ。


子どもは「人間としては未熟な存在」として、人間社会のルールの適用外の存在として、等価交換のマーケットには入れずに、ただ大人たちに養ってもらう。

ただひたすらに大人たちから贈与を受ける。すべて「贈り物」「貰い物」だけで暮らす。

「借り暮らしのアリエッティ」じゃないけど、そんな時代を子どもは生きる必要があると私は思うのだ。

何かを手に入れるには、誰か(他人、自然)から貰うしかない。

自分ではなく相手が主体である、経済的受動態。

それは私たちがかつて狩猟採集生活をしていたときの世界でもある。

狩猟採集という営みには「交換の原理」などなく、すべては自然からただ「貰ってきて」暮らしていた。

自然の愛はでかい。自然はその代償など求めない。

その時代、人間はまだ自然の贈与の恩恵をただ浴びるだけで生きていた。

そういう意味では、そのころ人はまだ大人も子どももみな「神の子」だっただろう。


だが人は自由へと向かって成長している。

人は自分の足で立つ存在であり、いつまでも「神の子」であるだけでなく、「人の子」として地上に立つことを求められるし、またそうせずにはいられない存在なのだ。

人は9歳を過ぎたあたりから、ゆっくり「人の子」として人間社会に入っていく。

「贈与に対して何かを返礼する」のが人間の大人なのだと、そういう人間世界の成り立ちに気付き始め、ただ贈与を受けるだけでなく、自ら何かを差し出すことを意識し始め、そうして愛と贈与と交換の世界へ入っていく。

それは「人間」の目覚めであり、「大人」の目覚めであり、「性」の芽生えでもある。


そのとき「贈与の時代」に贈与をたっぷり受けていれば、必ずスムーズに移行していく。

あらゆる経過の変動は、きちんと全うすると至極スムーズに次のプロセスへと移行する。

それは病気の変動を通して、私がさんざんからだで体験してきた経験的確信である。

そして、充分に全うした「被贈与」の体験は、その後ゆっくりその形を変え、メタモルフォーゼをし、別の形をもって徐々に徐々に表に現れ始める。

それはまず青年期に「優しさ」や「敬意」のようなものとして。
そして晩年期には「感謝」や「祝福」のようなものとして。

「ひたすらに贈与を受けた体験」が時を経るなかで変容し、それがやがて「優しさ」や「敬意」や「感謝」や「祝福」のようなものとして、心のカタチを成してゆく。

「幼少時に充分に愛されて育った子どもは、晩年に人を祝福することができる人間になる」というシュタイナーの言葉は、その営みの「種子」と「果実」を教えてくれている。

「晩年になって実る果実の種を、私はいま子どもたちに蒔いているのだ」と、そういうことを意識して子どもたちと接していけると、何か少し違った関わり方ができるかもしれない。


前に「RYO先生にお金についての講座をやってほしい」と言われたことがある。

私のような貧乏人に「お金について教えてほしい」というのも何とも奇妙な話ではあるが、でも「交換の象徴」としてのお金という意味では、子育てと切っても切り離せないものではある。

「贈与」と「交換」、「子ども」と「大人」、「愛」と「お金」、あるいは「性」。

「子ども」と「お金」をどう付き合わせるか。

まあいつかそんなことを語るときも来るかもしれない。 そのときは「喜捨」制かな。

posted by RYO at 18:56| Comment(18) | TrackBack(1) | 雑念 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。